goo

心の除染という虚構㉓

心の除染という虚構

23

 それでも切れ切れに入ってくるのは、今まで聞いたことがない事ばかり。

「いったい、何が起きたのだろう。耳から入ってくるのは津波のことばかりなんだけど、でも何が起きているか、見当もつかない。

 野蒜海岸に何百もの遺体って、一体どういうことなのだろう。ラジオで言っていること自体訳が分からない」何台もの自衛隊のヘリコプターが飛び交い、空の爆音は止むことがない。街では緊急車両のサイレンが鳴り響く。

 冬に雷など起きない土地なのに、狂ったように雷鳴が響き、雪が猛裂な勢いで打ち付け、大地ハゴゴゴゴーと不気味な音を立てる。まさに、天変地異の様相を呈していた。しかし、世の中に何が起きたのかは、全くわからない。とにかく家族みんなが寄り添って、食べて、生きてゆくことだ。それが水田夫妻にとっての当面の差し迫った課題だった。

 

12日には1号機が爆発しているが、水田家では誰も知らない。この日、ひかりと真悟は外で無邪気にサッカーに興じていた。 

日本全国で原発が一体どうなってしまうのかと刻一刻、固唾を飲んでテレビ画面を注視していたその時に、数日後に放射能汚染の「当事者」になってしまう人たちが、全くと言っていいほど、情報の蚊帳の外に置かれていた。

 

「とにかくここでサバイバルするので精一杯、余震もすごいし、体力を温存するしかないよねって」結局、ビニールハウスで丸2日過ごした。3日目にようやく、家の中を掃除して、1階の一間を片付け、寝る場所を作った。

そしてその翌日に、電気が復旧した。14日の事だった。奈津は言う。「14日、新聞で爆発の写真を見た気がするんですよ。煙が出ているものを。えっ?原発、爆発したの?って、原発周辺の人がこっちへ避難してきているって言う話は、どこからか流れてきた。だけど所詮、私たちにとっては他の地域のことなんです。山がいくつもあるし、離れているし、大丈夫だよねって」

 ただし、ひかりの反応はちょっと違っていた。ひかりは小学生の時に、子供向けの電気の勉強会で原子力発電を知った時から、「危ないものを使っているんだ」という認識を持っていた。小学6年の夏休みに、新聞記事を基にした自由研究で選んだテーマは、「プルサーマル」。福島第一原発3号機に導入されたが、それは、より危険性の高いものだということを知った。奈津は言う。

「娘は勉強して知っているからか、すごくこわがっていました。爆発したのなら危ないから、外に出ないようにしようって、窓も開けないで、換気扇も回さないでって」

ひかりはこう振り返る。

「原発がやばいらしいと聞いたとき、なんか、パニックになりました。えー、やばい、どうしよう、どうしようって、すごく怖かった」

思い出したのが、『暇だから、何気なく見ていた』小学校の保健の教科書。巻末に原発事故が起きた時の対処法が書かれてあった。続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

心の除染という虚構㉒

心の除染という虚構

 渉が言う。「ギターを守ろうと押さえて居たら、いきなりプリンターが飛んできて、俺の腰に当たったの。そこからメチャクチャ。内側に開く扉に本棚が倒れて本がどどっと重なり、荷物も倒れて、扉が開けられなくなって部屋から出られなくなり、ハシゴで2階の窓から出たんです。

  これでようやく家にいる全員の無事が確認できた。

「あっ真悟だ!」3人同時に思った。

 小学3年の真悟(しんご・仮名当時9歳)を迎えに渉とひかりは小学校に走る。冬の雷が鳴り響き、雪が狂ったように舞い散る。空にはヘリコプターが何台も飛び、救急車と消防車のサイレンが鳴り響く。

 一体何が起ったのか、学校へ急ぐ渉には何もわからない。既に校庭には、子どもたちが集められていた。みんな酷く怯えていた。

真悟を真ん中にして包み込むようにひかりと渉が手をつないで帰る途中、真悟はわんわん泣いた。必死で恐怖を我慢していたからだった。奈津は後で真悟から聞いた。

「障害のある子が『こわいこわい』って言ってるから、真悟は自分も怖いけど我慢して、その子の手を握っていたんだって。お父さんとお姉ちゃんが迎えに来て学校の外に出て、ようやく泣けた。その時の恐怖の所為か、今でも真悟は地震になると気持ちが悪くなる」

家の中はめちゃくちゃ、足の踏み場もない。

子どもたちが「家の中は怖い」と言うので、この日、一家は庭のあるビニールハウスで寝ることにした。

「年寄りが勝手にふらふらすると危ないし、とにかく、みんなで一緒に居ようと。たまたま使っていない替えのビニールが有ったので、それをハウスの土の上に敷いて、布団をその上に持ってきてジャンパーを着たまま潜り込んで、そのまま寝ることにしました。

 そんなに寒く無かったですよ。石油ストーブを入れて、あっためたから。むしろ結露が出来たほど」

伊達市では、ここ保原の一部と梁川町のライフラインが、地震でズタズタになった。電気は止まり、水道もガスも使えない。

 ここから水田家のサバイバル生活が始まった。

奈津が言う。「もともとよくバーベキューをやっていたので外での煮炊きには慣れていたんです。冷凍庫に肉とか魚とかいろいろ食材は常備してあったし、水も買ってあった。この日の夜はインスタントラーメンをゆでて、翌日は七輪でお米を炊いてみたらうまくいったので、これでご飯も大丈夫だって。バーベキューのコンロで木炭を使って魚を焼いたり、石油ストーブに乗せておけばお湯も沸くし」

 問題は情報だった。11日の夜にはすでに、原発は深刻な事になっていた。

20時50分、県から半径2キロの住民に避難指示が出され、それから1時間も経たずに、今度は国から半径3キロ圏内に避難指示。半径3~10キロ圏内では屋内退避の指示。

原発どころか津波の被害さえビニールハウスの住民には正しく伝わってはいない、

「電気が止まっていたので、直後はラジオを聞いていたけれど、電池を温存しないといけないから消したり、つけたり、携帯電話も充電がなくなるのが怖くて、ワンセグでテレビを見れたけど、見る気にもなれない」  続く

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )