卑弥呼が統治したという邪馬台国が畿内にあったか北九州にあったかは、長い間、古代史の研究テーマになっており、論争の的になって来ました。<o:p></o:p>
最近、卑弥呼の墓と推定されていた箸墓古墳の成立年代が、卑弥呼が他界した年(248年)に近い3世紀後半とされる科学的データが提示されたことにより、邪馬台国畿内説が俄然、有力視されるようになりました。<o:p></o:p>
そもそも「日本書紀 崇神紀」によれば、卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫(やまと とひももそひめ)は第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇の叔母にあたるとされています。崇神天皇は「はつくにしらす」と言われ、実在した最初の天皇ではないかと推測されています。<o:p></o:p>
ところで中国、三国時代の史書「魏志倭人伝」には、卑弥呼の死について次のように記してあります。「卑弥呼以ツテ死ス。大イニ冢(ちょう)ヲ作ル。径百余歩。殉葬スル者、奴婢百余人。」<o:p></o:p>
冢は墓のことであり箸墓古墳の前方後円墳の円噴部の直径は約100mですから、「魏志倭人伝」<o:p></o:p>
の記述、径百余歩と符合しています。また、「三国志」には卑弥呼が家来の難升米を魏王に派遣したので魏王は「親魏倭王」という仮の金印と銅鏡100枚を授けたという記述があり、卑弥呼と中国の交流が伺えます。<o:p></o:p>
箸墓古墳の年代について歴史民族博物館の研究グループが最近、次のようなことを発表しています。箸墓古墳の周辺から出土した土器、「布留0式土器」16点に付着している炭素に対して放射線年代測定を実施した結果、土器の製作年代が240-260年であるというものです。また樹木の年輪年代測定も併用してこの結果を補強しました。この測定結果と卑弥呼の死亡年代が一致することから<o:p></o:p>
箸墓古墳は卑弥呼の墓であり、邪馬台国畿内説は極めて有力になったとの見方<o:p></o:p>
がされるようになりました。<o:p></o:p>
なお、箸墓古墳を発掘調査することができれば、中国から渡来した銅鏡などが発見されるかも知れません。しかし、天皇家の陵墓は宮内庁の書陵部の管轄であるため、発掘が許可される可能性はまず無いと言われています。それにしても、目的が学術調査という研究事業ですから旧来の陋習を越えて調査が許可されてもいいのではないでしょうか。<o:p></o:p>
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