小松帯刀は幕末維新の頃に、維新の三傑と言われている薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允と並ぶ活躍をしましたが、明治の初期に病没したため、その功績の大きさがあまり知られていません。例えば大政奉還を徳川慶喜に承諾させたことにも大きく影響を与えたと言われており、身分の低い西郷隆盛や大久保利通に活躍する場を与えたことも功績の一つと言えましょう。<o:p></o:p>
小松帯刀は若い頃は肝属(きもつき)尚五郎と称していました。平重盛、即ち小松大臣(こまつのおとど)ゆかりの名家小松家の当主は、当時小松清猷(きよみち)であり、薩摩藩主・島津成彬の側近でしたが、琉球に滞在中に病没しました。成彬の命で尚五郎は清猷の妹千賀(ちか)と結ばれ、小松家を相続して小松帯刀清廉(きよかど)となりました。その成彬も間もなく他界しましたが、その後、藩の実権を握ったのは成彬の弟の久光でした。帯刀は久光にも重用され、薩摩藩家老として久光と共に次第に政治の表舞台に出るようになりました。<o:p></o:p>
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祇園の名妓お琴との初めての出会いは文久三年(1863年)久光の娘、貞姫が京都の近衛家に輿入れする祝宴の席でした。この輿入れの準備には帯刀が奔走しました。公卿や諸侯が集まったこの祝宴には祇園の舞妓、芸妓も招かれましたが、お琴の美しさは群を抜いていたと言われます。諸侯の宴席に欠かせなかった当時の祇園の芸妓は、琴・三味線・舞踊は勿論、和歌の手ほどきも受けており、書物や絵画にも通じていました。公家、諸侯や一流の文化人を接遇するのに充分な教養を身につけていました。後に木戸孝允(たかよし)の妻となった幾松もそのような芸妓の一人で、度々、木戸の危難を救ったことがありました。<o:p></o:p>
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さて京都の小松邸では、しばしば公武合体派の人々や勤皇の志士達の会合が開かれましたが、ここを中心に活動をする帯刀を、お琴は公私に渡って支えました。帯刀にすっかり気に入られたお琴は、帯刀にとって無くてはならない存在となりました。こうしてお琴は京都における帯刀の妻妾になりました。帯刀が一時、薩摩に帰国した時、お琴は次のような和歌を詠んで見送っています。<o:p></o:p>
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小松帯刀の帰国のはなむけに火打ちにそえて<o:p></o:p>
うちいづる今日の名残を思ひつつさつまの海も浅しとやせん<o:p></o:p>
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「火打」は旅の無事を祈って火打石を打って清めをすることで「切り火」とも<o:p></o:p>
言うならわしです。<o:p></o:p>
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帯刀は維新直後の働き盛りの35歳、明治三年(1870年)に大阪の病院でお琴に看取られながら病没しました。あまりに早い他界でした。お琴もその4年後の明治七年に帯刀の後を追うように26歳の若さで病死しました。<o:p></o:p>
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鹿児島の名家 小松家の墓域にある小さい墓碑には<o:p></o:p>
琴 仙子<o:p></o:p>
安養院証妙大姉<o:p></o:p>
明治七年八月二十七日死亡<o:p></o:p>
俗名 琴 享年二十六歳<o:p></o:p>
清廉(きよかど)妾<o:p></o:p>
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と刻まれています。この墓碑は小松帯刀の墓石の近くにありますが、帯刀の正室 千賀夫人の寛大で優しい心根に胸を打たれます。<o:p></o:p>
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原口泉著『龍馬を越えた男 小松帯刀』グラフ社<o:p></o:p>