yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

直江兼続と伊達政宗

2008-10-16 08:02:12 | 歴史

直江兼続(かねつぐ)は、五大老の一人、上杉景勝公を当主とする上杉家の家老でした。兼続は豊臣家から見れば陪臣(家来のまた家来)であるにもかかわらず、秀吉から領地をもらっており、豊臣家の直臣とみなされていました。<o:p></o:p>

兼続は慶長三年(1598年)の一月から三月まで主君、上杉景勝公と共に伏見城に出仕するうちにその見識の高さを諸大名に知られるようになりました。そのある日、独眼竜と渾名(あだな)された奥州58万石の伊達政宗公が大名たちの集まる一室にやってきた時のことです。正宗公が新たに鋳造されたばかりの小判を懐中から取り出して披露におよびました。しかし、兼続だけは正宗公の手元を見ようともしませんでした。その意味するところを気付かない政宗公は、兼続の前にやって来ると、「よくご覧あれ」と、ばかりに小判を彼に手渡そうとしました。うるさく感じた兼続は、持っていた扇を開いて受け取り、続いてぽんと撥ね上げて小判の裏面も見ました。「いや手にとって見ても構わぬが」と言うやその言に反して、次の瞬間には扇を一閃して小判を政宗公に投げ返していました。次いで政宗公に対して凛とした声で次のように言いました。<o:p></o:p>

「身は不肖たりといえど、上杉家先代・不識庵様(謙信)の世より、先鋒の任を受けたまわる身でござる。されば、今日、馬上全軍に采配をふるうこの手で、阿堵物(あと)などに触れはいたさぬ。」<o:p></o:p>

武家には金銭にこだわることを卑しむ伝統がありました。当時、阿堵物とは、不浄のもの、金銭のことを指すことが多かったようです。居あわせた諸大名が沈黙して静まりかえるなか、政宗公は恥じ入って別室に去ったということです。<o:p></o:p>

「伊達58万石など眼中にあらず」という気概を見せた直江兼続の令名はここに<o:p></o:p>

定まったのでした。<o:p></o:p>

<o:p>      </o:p>中村彰彦著『われ千里を思う』文芸春秋社<o:p></o:p>

コメント
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