yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

加藤家の萱野権兵衛

2008-10-06 08:45:28 | 歴史

豊臣秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦で功があり七本槍の一人として有名な加藤嘉明(よしあき)は、奥州伊達家への備えとして会津を封土としていました。その子息の明成の代に加藤家に不始末があり、加藤家は改易となり、その後に保科正之公(会津藩祖)が信州高遠から出羽を経由して会津に入部して来ました。その加藤家の奉行の一人に萱野権兵衛という武士がいました。<o:p></o:p>

加藤家が改易になったのに伴い、家来の萱野権兵衛もそれについて行きました。その権兵衛が立ち退いた屋敷を検分した正之公の家臣から正之公に次のような報告がありました。<o:p></o:p>

「萱野家の炭壺にはきちんと炭が入れてあり、次に入って来る保科家の家臣がすぐに竈(かまど)に火が熾(おこ)せるように準備してありました。」<o:p></o:p>

これを聞いた正之公は、直ちに加藤家と共に会津を立ち去った萱野権兵衛を探し出して、加藤家の了承の上で萱野権兵衛を譲り受け、会津に連れ戻して保科家の家臣にしました。この人が初代萱野権野兵衛です。萱野家はこの後、會津藩二十八万石の家老にまで登用されて幕末に大いに働きました。正之公の人物を見抜く眼の確かさと、この当時、城下の家屋敷の様子までを報告させるような組織を機能させていたことは驚くべきことです。<o:p></o:p>

その時登用された萱野家の子孫の萱野権兵衛は戊辰戦争のあと、一死をもって会津と会津松平家を救いました。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

中村彰彦著『パックストクガワーナの時代』集英社<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする