yoshのブログ

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南禅寺の決戦

2014-03-26 09:08:32 | 将棋
昭和12年(1937)に京都にある名刹、南禅寺で行われた将棋史に名高い「南禅寺の決戦」というのがありました。戦ったのは阪田三吉翁(66)と木村義雄八段(31)です。以下敬称略。
阪田は、関西の後援者らに推されて独自に名人を名乗ったため、東京の将棋界から絶縁されていました。一方、木村は、実力で名人位を争う制度の下で好成績を挙げており、名人の座に近づいていました。この決戦でもし、木村が破れると、名人の権威に傷がつく上、木村は名人位につけなくなります。しかし、阪田と決着をつけないままでは二人の名人が併存することになります。木村は周囲の反対を押し切って対局を決断し、決戦に臨みました。
対局は、一番勝負で2月5日に開始されました。
 木村の初手、7六歩に対して阪田が指した手は9四歩でした。(下図)
これは棋史に残る奇手でした。普通は3四歩とか8四歩と指すところです。阪田の孫弟子にあたる内藤國雄九段(74)は「『この手でも勝てると』という自信の表れでは」と言いますが、木村は全く動じることがなかったということです。1週間に及ぶ死闘の末、95手で阪田を破りました。消費時間は木村が25時間22分、阪田が28時間であったということです。その年の末、
勢いそのままに木村は第1期実力制名人の座につきました。
 後日、木村は阪田との将棋を振り返り、こう語っています。「私にとって空前にして絶後のものでではなかったかと思う。9四歩の一手を見た刹那、呆れもしたが、内心「ははん、これは」
と思った。これは大したことはないと思ったのだ。そして一面、何故もっと素直な謙虚な気持ちでやってこられないのか?と阪田翁のために惜しんだ。油断はしなかったが、その一手で気持ちが幾分楽になった。三日目頃には、勝負のことだから結果は分からないが、この将棋は少なくとも自分より上の将棋ではない、という確信を持つようになった。中略 将棋というものは、どんな一手をやってもそれを生かせばよい。それは事実だが、高段同士の将棋ともなれば
ほんのちょっとした緩手でも容易にその手を生かすことはできないものだ。この時も、端歩突きは最後まで無意味に終わった。」

        木村義雄 「勝負の世界」恒文社



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