子供の頃、猿飛佐助、霧隠れ才蔵、三好晴海入道など、真田幸村が率いる真田十勇士の武勇伝に夢中になりました。真田十勇士の主君は有名な真田幸村です。真田家は信濃の小豪族でしたが、上杉、武田、北条という大大名の領地のはざまにあって家を保ち、なんと明治維新まで
続いています。特に、真田氏三代、幸隆、昌幸、信之そして幸村は際だっていました。その生き様は持続力の強さです。昌幸、信之、幸村は、各々、武田家、徳川家、上杉景勝家で人質同然の暮らしをしました。
関ヶ原の戦いの前には、幸隆、昌幸軍は中仙道を関ヶ原に進軍する徳川秀忠軍を翻弄し、遂に、秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わない事態となり、徳川家康を激怒させたということです。徳川方に人質となっていた長男の真田信之は徳川将軍家の信頼を得ることに成功し、真田家は江戸時代を生き抜きました。一方、真田昌幸の次男、幸村は、豊臣秀頼にしたがって大阪冬・夏の陣で奮戦し、家康を追いつめたこともあります。真田家の家紋は六文銭(下図)ですが三途の川の渡し賃だけを持って、目の前の戦いに決死の覚悟と知略の限りを尽くして立ち向かったということです。
続いています。特に、真田氏三代、幸隆、昌幸、信之そして幸村は際だっていました。その生き様は持続力の強さです。昌幸、信之、幸村は、各々、武田家、徳川家、上杉景勝家で人質同然の暮らしをしました。
関ヶ原の戦いの前には、幸隆、昌幸軍は中仙道を関ヶ原に進軍する徳川秀忠軍を翻弄し、遂に、秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わない事態となり、徳川家康を激怒させたということです。徳川方に人質となっていた長男の真田信之は徳川将軍家の信頼を得ることに成功し、真田家は江戸時代を生き抜きました。一方、真田昌幸の次男、幸村は、豊臣秀頼にしたがって大阪冬・夏の陣で奮戦し、家康を追いつめたこともあります。真田家の家紋は六文銭(下図)ですが三途の川の渡し賃だけを持って、目の前の戦いに決死の覚悟と知略の限りを尽くして立ち向かったということです。