山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

信州・霧ケ峰・美ヶ原の初秋の花たち(9月中旬)<その2>

2013-09-24 03:00:57 | 旅のエッセー

<ツクバトリカブト>

                       

を持つ花は美しいといわれるけど、まさにそれはトリカブトのことを言っているのではないかと思う。上品で気高く美しい花である。トリカブトにも何種類かがあるようで、これはツクバトリカブト(=筑波鳥兜)と呼ばれている。八島湿原には随所にこの花の群落がみられた。紫の花は目立つ存在であり、探さなくても直ぐに気づかせてくれる。筑波というからには、我が地元の筑波山辺りにも自生しているのかもしれない。しかし、今のところ筑波山に登っても登山道の脇には皆無である。どこか秘密の場所で、ひっそりと同じ花を咲かせているのかもしれない。それにしてもこの湿原にこれほど多くの花を咲かせているとは知らなかった。

北海道の旅では、牧場の脇の側溝や道端に無造作に花を咲かせているのをよく見かけたけど、あれはエゾトリカブトとでもいうのかもしれない。アイヌの人たちが熊狩りに用いたという毒の話はあまりにも有名である。今の時代、その毒を人間に対して用いるなどという奴が現れないとも限らない。この花の管理は厳重に行うべきだと思う。美しい花を見ながら、そのような不謹慎ともいえることを想うというのは、哀しいことではある。

 <ハバヤマボクチ>

                      

子供の頃、育った常陸大宮市の実家の裏山の麓の草っ原には、幾つものオヤマボクチが点在して花を咲かせていた。花といっても独特で、厚ぼったい重い感じの紫色の塊が、茎のてっぺんに幾つかついているという感じである。もはやその昔の草っ原は消え去り、味もそっけもない道路が走っている。勿論オヤマボクチなどどこを探しても見当たらない。

それがこの八島湿原に来て、かなりの数を見ることが出来て感動した。これはオヤマボクチではなく、ハバヤマボクチというのだそうだ。ものの本の解説によれば、ハバヤマというのはその昔の農家の緑肥として貴重だった草を刈り集める、草刈り場のことを言うとのこと。その草刈り場の中の草に混ざってこの野草がたくさんあったようである。そして、ボクチとは火口と書き、火口とはこの草の葉の裏にあるクモ毛を集めて火打石から火種を採る火口(ほくち)として利用したことからの名らしい。なるほど、この野草にはそのような人間との係わりのある歴史があったのかと、感じ入ってしまった。

改めてこの野草の姿や花の形をみて見ると、なかなか重厚で男前の感じがする。重厚で男前の人物が人間界からは次第に数を減らしている感じがする。TVを見ていると、ケパケパ他人を笑わせることに懸命になっている芸人や、髭の生えていないイケメンなどという人物ばかりが溢れており、それが悪いとは言わないけど、もう少し重厚な味わいのあるボクチ並みのボクチチャンのような人物が画面に表れて欲しいものだと願うばかりである。

 <サラシナショウマ>

                      

この写真は、湿原に数多く点在しているものの中の一つを取り上げたものであり、その実態を示すのには適切ではないのかもしれない。けれども純白の穂の姿を浮き上がらせるのには、群落よりも個体の花穂を見た方が良いのかなと思って、これを取り上げた。この時期、この花の存在は目立つ。木陰などの暗い空間の中にあって、真っ白な大ぶりの花穂は、とりわけて美しく見える。この花も虫眼鏡で見ると、なかなか可愛らしい小さな花の集まりであるのが判る。

サラシナショウマは「晒菜升麻」と書き、名の由来は、この草の若葉を水に晒(さら)して食べたことから来ているとか。尚、升麻とは、漢方の生薬の一つで、この野草の根を乾燥させて解熱剤などとして用いるものとのこと。キンポウゲ科の草には例えばトリカブトなど毒を持つ草が多いのだけど、この草を食べるというのは、相当に考えものだったのではないか。今の時代では、これを食べるという話は聞いたことがない。尤も同じキンポウゲ科のリュウキンカという野草が、何年か前の東北の春旅の時に、青森のどこかの道の駅で山菜の食用として売られていたのを見て驚いたのを思い出す。人間の知恵は大自然とのかかわり合いの中では、無限であり、もしかしたらトリカブトだって、どこかの国では根を除いたほかの部位を食用にしている世界があるのかもしれない。毒と薬との関係には複雑怪奇なものがある。

話が飛びすぎたけど、サラシナショウマは美しい花である。多くの人たちはこれらの花を遠くから見て、ただ白くてきれいだと見過ごしてしまっているけど、勿体ない話だと思う。是非とも虫眼鏡で覗いて欲しい花を持つ野草であることをもう一度強調したい。

 <ヤマウド>

                      

ウドといえば、春の山菜では定番の野草だし、栽培などもされていて、東京がその栽培地のナンバーワンであることなども知られている。ウドの大木などといわれて、役立たずの代表のように言われたりしているけど、ウドの人間どもへの貢献は大きい。大木などと比喩されるほどには大きくはないけど、野草たちの仲間内では、図体は大きい方には違いない。

ウドの花をご存知の方も多いと思うけど、八島湿原には、かなり規模の大きい群落があって、独特の丸っこい赤紫の花を咲かせていた。所々それらは重なり合って、不思議な造形をつくり出していた。美しいというよりも良く見れば不思議だなあというのがそれらを観察している時の実感である。

ウドといえば、食材としての存在しか知らない人も多いのかもしれない。どんな植物でも芽生えてから消え去るまでの一生があり、その多くはちゃんと花を咲かせる時期があるということを、人間は知らなければならないと思う。食材としてのウドしか知らないというのは怠慢であり、横着であるといわざるを得ない。自分の都合のいい部分の他は知ろうとしないというのは、ある意味で危険なことでもあるように思う。植物の生命というものの価値を知るということは、その植物の一生を見たり考えたりすることによって、初めて理解できるのではないか。部分だけを見て全体を観ようとしないというのが現代の暮らしの中には多すぎるようだ。植物によらず魚だって、切り身だけを見てマグロやカツオやブリなどと言っている知識には、人間の思い上がりを感じるのである。ウドのことから話が大げさになってしまった。

 <ヤマハハコ>

                      

ヤマハハコは「山母子」と書く。ハハコグサ(=母子草)という野草があり、これは普通道端や手入れ不足の庭の隅などのどこにでも生えているいわゆる雑草の一つだけど、ヤマハハコはこれに似ているというのでそう名付けられたとか。しかし、ハハコグサは咲き始めは黄色い仁丹の粒のような花の形をしているので、ヤマハハコに似るまでには少し時間がかかるように思う。

ヤマハハコは湿原には少なく、どちらかといえば、比較的高い山地の草むらや礫地のような場所を好んで棲んでいるようである。写真は八島湿原で撮ったものだけど、花の数は美ヶ原高原の方が遥かに多くて、牛伏山(美ヶ原高原牧場付近にある丘の頂上:1989m)の園地辺りは、ヤマハハコの花園といった様相を呈していた。一見すると白っぽいボヤっとした花の感じがするのだけど、これを虫眼鏡で見ると、なかなかどうして花の一個一個はやや厚化粧の個性を主張しているのが判る。

7月に同じ場所に来た時は、未だ花の咲く時期ではなく、その葉の形状からエ―デルワイス(=ウスユキソウ)ではないかと思っていたのだけど、今回来て見ると至るところヤマハハコの世界であり、その葉を見てなあんだ、大いなる勘違いだったのだなと判った次第。野草たちの姿は、それが幼い時期であればあるほど、その正体は不明なことが多いのである。これはまだまだ自分が彼らのことを解っていない証なのだと反省している。

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