依然として思考停止の時間が続いています。今年の花粉の酷さは、例年の比ではなく、これは我が身が一段と老化が進んだ証なのかもしれません。今まで1日1錠飲むだけでなんとか凌いでいた顔面むちゃくちゃ症が、今年は朝夕各一錠ずつ計2錠飲んでも防ぐことが叶わない日もあり、とにかく早くこの苦痛の環境が過ぎ去ってくれるのを願うのみです。今、桜の花は満開のようですが、こんなに早く満開になってしまうとは、正気の沙汰とも思えません。花を見に行く決心もつかないまま、戸惑いの中に桜の季節が終わってしまうとは。こんなことでは、これからの歴史は昨日に繫がらなくなってしまうのではないかと思うほどです。
ここ数日は外へ出るのに危険を感じて、家の中に籠ったままで過ごしたりしているのですが、酒のラマダンも終盤に入り、抑圧されたストレスの噴出も怖いので、先日危険を冒して隣の柏市で開かれていた千葉県日本水彩展というのを見に出掛けてきました。元勤務した会社の先輩が出品されているとの案内を頂戴し、又家からは比較的近い会場だったので、気分転換にはありがたい催しでもありました。自分と同世代の先輩(1歳年長)は、リタイア後に水彩画を始められたのですが、メキメキと才能を発揮されて県展にも上位入賞されるなど輝かしい成績を収められていて、今年も大きな大会に出品されているのでした。その感想文です。
こんなことを言うと失礼になるのですが、その先輩にこれほどの才能が潜んでいるとは思いもよらぬことでした。現役時代の彼の絵といえば、退屈な会議の時間に同席していて、何ごとぞと隣を覗くと、会議メンバーのどなたかの姿なのやら、何やら漫画風の人物の落書き模様が紙に記されていたのを思い出すくらいなのでした。そのようなお人が、定年後の夢としていたゴルフ場全国制覇を諦めたのは、膝の故障が契機だったようで、リタイア後に水彩画の同好会のようなものに加入されたのは正解でした。それに思いのほか興味をもたれたらしく、当初はとにかく1000枚の絵を描くのだと張り切って、毎日スケッチに取り組んでおられたのを思い出します。1000枚の絵といえば、一日一枚を描いて仕上げたとしても3年近くを要する大業であり、さて大丈夫なのかと半ば呆れながら心配したものでしたが、見事それもクリアされ、加えて市の展覧会に特選を果たされたのは驚きでした。
彼のその時の作品は沖縄への旅をした際のスケッチを元にした壺を描いたものでした。どこかの港の隅にでも置き忘れられていたのか、貝殻などの付着したどこにでもあるような壺を、柔らかな線と色で描いた印象的な作品でした。この時から彼の作品のテーマには何かしら壺が取り上げれられるようになったようで、今回の作品も壺をモチーフとしたものでした。作品のタイトルには「沖縄」と「兵士」と付けられていましたが、そのいずれも壺を通して描かれていると見受けました。彼にとって、壺というのが現在の作品制作においては重要なテーマなのだと思いました。その作品を紹介します。
第29回千葉県日本水彩展に出品された、先輩のHさんの作品。左は「兵士」(F20)右は「沖縄」(F50)というタイトル。何れの作品も壺を通してそのテーマをアピールされている様に思った。
ところで、今日のブログの自分のテーマは、「壺の中の世界」というものです。中国の故事に「壷中の天」或いは「一壷天」といわれるものがあります。この出典は後漢書とか。その故事とは次のような話です。
「あるところに店頭に壺を置いて薬を売っている老人が居り、その人を見ていると、毎日商売が終わるとフッとかき消すように見えなくなってしまうとのことです。それを不思議に思った或る男が、終日じっと観察していると、何とその老人は商売が終わるとするりとその店頭の壺の中に入って行ったということです。それを不思議に思い、その男は老人に頼んで自分も一緒にその壺の中に入れて貰ったとのこと。すると驚いたことに、その壺の中には立派な建物があり、その家の中の部屋には美酒・美肴が溢れて並べられていたという。つまり、そこには別天地の仙界があった。」という話です。
「壺」ということばやテーマに触れ、思い起こす時、自分はいつもこの「壷中の天」という故事を思い出してしまうのです。先日の先輩の絵を見て思ったのは、彼は彼自身の壷中の天を描こうとしておられるのだということです。壺の中に封じ込められた、彼自身の世界を表現しようとしているのだと思うのです。というのも、私自身もエッセーを書く際には、自分自身の壺の中の世界の出来事の一つとして、そのテーマを取り上げ書こうとしているのですから。
思うに全ての人は、夫々自分だけが自由に出入りできる、彼の仙人の様な壺を保有しているのではないでしょうか。人は誰でも己の保有する壺の中に、天の存在を見上げながら生きているように思います。つまり、誰もが一つの壷中の天を保持し、その中に生きているのです。壺を持たない人などこの世には存在しないように思えるのです。壺の中に仙界があるかどうかは別にして、自分の壺の中だからこそ、人はそれなりに安堵して呼吸をし、生きて行けるのではないかと思うのです。
壺ということばが気に入らなかったら、殻ということばに置き換えてもいいかもしれません。人は誰でも自分の殻で己を覆って生きています。殻なしの人間なんて、居るはずがありません。何故なら、人が生きるための知恵というのは、即ち殻の成長と伴に生まれ育ってゆくものだからです。それを知りながらも、時に人は、全ての殻から解放されたいなどという自由を望んだりしますが、それは幻想というものでしょう。その人の真実と現実は、己の殻の中、すなわちその人の壷中の天にあるのです。
そのことに気づけば、人は己の壺や殻を壊すのではなく、時々上手にそこから出入りして、別の種類の楽しみや喜びや悲しみを享受すべき存在のように思えます。古の賢人には、既に壷中の天の必要性が見極められていたのかもしれません。絵画に挑戦している先輩の壺を見ながら、あれこれと己自身の壷中の天を思ったのでした。
それにしても、只今の季節はもうしばらく己の壺の中に息をひそめて、我が天の澄み渡るのを待つばかりです。