山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年賀状のこと、あれこれ

2013-01-12 06:51:16 | 宵宵妄話

  元旦の宴の酔いが醒める頃に、今年も年賀状の第一弾が届きました。今年もたくさん頂戴しました。300枚くらいになるかと思います。一年に一度の到来物ですが、これを見るのは楽しみです。賀状の一枚一枚を見る度に、ついつい忘れていた懐かしい人の顔が思い浮かびます。もう一別以来60年以上もの時間が経っている小学校1年生時の担任だった優しい恩師の顔。中学校卒業以来未だ一度もその後の顔を見ていない友の顔。元勤務先でのたくさんの仲間の一人ひとりの顔、いつしか疎遠となってしまっている親戚の人たちの顔。旅で出会って、その後一度も再会を果たしていない遠地の知人。そして先日久しぶりに再会を果たした学友の顔等々。どの顔も懐かしく、往時の様々な思い出がよみがえります。

 年賀状というのはいつから始まったのか。不思議な習慣のように思えます。郵便制度が出来てから本格化したのに違いありませんが、古くは飛脚などが活用され始めた江戸時代辺りに、その萌芽があったのかもしれません。自分独りではなく、係わりのある人への感謝をこめて、共に清新な気持ちで新しい年を迎えたいという願いが籠っているのが年賀状なのではないかと思うのです。別の言い方をすると、ご縁の確認ということなのかもしれません。「縁は異なもの味なもの」とは男女の縁についての感慨ですが、考えてみれば男女にかかわらず、生れてこの方の全ての人との出会いは、不思議な縁につながっている様に思います。世界の人口が60億を超え、日本の人口も1億2千万人余となっていますが、これほど多くの人たちが居ても、自分の生涯の中で一体どれほどの人たちとの出会いを果たし、縁を結ぶことが出来るのか? 考えてみればそれは誠に僅かなチャンスであり、不思議なことなのだと思います。自分自身を振り返っても、ご縁を得た人の数と言えば、どんなに多く見積もっても5万人にも及ばないと思います。5万人と言えば、大変な人数のようにも思えますが、1億2千万と比べれば、ましてや60億超の人間の住む地球の、グローバル化とやらを迎えている今の時代では、真に極少の員数に過ぎません。

 ところで、この僅かなご縁がとても大切だなと思うようになったのは、比較的最近のことなのです。一時「虚礼」ということばに引っ掛かったことがあり、毎年飽きもしないで決まったような文語を書き連ねるばかりの年賀状について、何がめでたいのか、こんなことをして本当に人に心が伝わるのかと、そのようなことに妙にとらわれたのでした。特に現役時代の頃は心忙(せわ)しいことが多く、大して意味のないようなことは、この世のムダだなどと、まあ、大変な思い上がりをしていたのでした。知らず効率主義のものの考え方に毒され、自分の都合のいい考え方から「虚礼」などということばを思いつき、それを本気で実践するつもりになっていたのでした。しかし、いざとなれば、やっぱり止めることにためらいがあり、迷いの中で続けざるを得なかったと、そのような愚かな時を思い出します。今になってみれば、続けていて良かったのだと、我が身の危うさを避け得て安堵しています。

 人は自分の力で生きているだけではなく、生かされている存在でもあるのだと思います。ご縁というのは、その人とのつながりを証明することばなのだと思うのです。たくさんのご縁があるというのは、たくさんの人とのつながりに生かされているということなのです。このように言うと、宗教かぶれ、仏様かぶれなどと思われてしまいそうですが、自分の力だけで生きているのだという考えはやはり思い上がりではないでしょうか?「他力本願」は阿弥陀様の願いなのだとは、親鸞聖人の教えの真髄ですが、他力というのはこの世に生きている間にご縁を持つことが出来た全ての人のことを指している様にも思えます。阿弥陀様は、あの世の入り口で優しく迎えて下さる仏だと聞いていますが、それはこの世の中でご縁のあった一人ひとり全ての人たちの心の中にも鎮座している存在のように思えるのです。そのように考えると、年賀状が虚礼だなどという考え方は、思い上がりであり、せっかくの人とのご縁を自ら断ち切るという蛮行につながっているように思えるのです。

 しかしまあ、現実的にはそれらご縁を大切にするとはいえ、なかなか丁寧にとはゆかず、年賀状の作成に当たっては、宛名はラベル印刷でごまかし、本文の方は共通の印刷文句で済ましてしまっているというのが自分の現実です。本当はお一人ひとりに、去年の賀状を見ながらそれに応える内容のことばを用意すべきなのだと思いながら、300人を超える顔に圧倒されて、尻ごみしてしまっています。特に宛名のラベル貼付については、やはり失礼なのではというためらいがあります。

 最近頂戴する賀状では、パソコンを使って、専用ソフトで宛名も本文も巧みに作成されているものが多くなりました。いずれは自分も使わざるを得ないとは思いつつ、なかなかその気になれないままで居たのですが、今回ついにそのソフトやらを使う決心をしました。特に宛名の方を重視しました。つまり、はがきの表面が宛名になるわけですが、専用ソフトでは宛名だけではなく、差出人の住所氏名も入力できるようになっていますので、今までは裏面の本文の中に入れていた分だけスペースに余裕が出来ます。それを活用してもう少し多く思いを伝えられればと思った次第です。昨年末にそうすれば良かったのですが、なかなか決心がつかず、今年の賀状を貰って、やはり宛名は専用ソフトが明確で一番いいと決心したのでした。早速筆王というソフトを買って来て、来年の為に住所の登録を済ませ、印刷の練習も行って万全を期しています。「決心即実行」が信念なのですが、この頃は決心までの時間が長くなっているのが気になります。本来残りの時間が少ないのですから、決心はより早くすべきだと思うのですが、現実は逆行しているようで、これが老化ということなのかもしれません。

 ま、専用ソフトを使うとはいえ、裏面の本文の方は今まで通りの文章ソフトで行きたいと思っています。特に一文字でも手書きのことばを添えられるように努めたいと考えています。危うく虚礼の悪想に落ち込みそうになったりした、たかが年賀状なのですが、年に一度大切なご縁を結んでいる証拠としての、この日本の慣習を自分なりに守ってゆきたいと思っています。

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