山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

鞠智城址を訪ねる(その1)

2013-01-20 03:51:23 | 旅のエッセー

 熊本県といえば、今まで県都の熊本市と阿蘇の高原を訪ねることくらいしかなかった。それで今回は未だ一度も行ったことのない山鹿や菊池といった九州古来の豪族ともいえる人たちの住んでいたエリアを訪ねることにした。全国に菊池という姓は多いけど、その源といえば九州の菊池一族からというのが通説のようである。本当かどうか知らないけど、全国菊池会というようなものがあるそうで、菊池神社を核としての縁故の人たちが集い、懇親を深めたりしているとか。自分の場合は山本であり、そのような会を作ってもこの山国の日本国では、一向にまとまりのつかないことになってしまうのは明白である。ま、そんなことはどうでもいいことなのだけど、菊地姓の場合は意義があるように思える。

その菊池市や隣接の山鹿市のあちこちの探訪を試みたのだが、一番驚いたのが鞠智城という太古の山城の址を訪ねたことだった。鞠智城というのは、その名から推して菊池市にあるのではないかと思っていたのだが、良く調べてみると山鹿市の範囲だった。事前の知識も碌にないままの、野次馬根性だけでの訪問だったが、この城は未だ菊池氏などが九州にやって来て定住する遥か昔の時代に造られていた巨大な山城なのだった。キクチがこの様に表記されているのを知ったのは初めてだった。キクチといえば菊池か菊地という字を用いる姓が普通であり、鞠智という難しげな表記は全くの予想外だった。しかし何だか貫禄のあるイメージが浮かぶ。漢和辞典などを調べてみたが、地名の表記というのは難しくて、まさに文字通りには行かないようで、何故鞠智なのかは見当もつかなかった。

その鞠智城址は、山鹿市の中心街から国道325号を行き、菊池市の七城町から県道18号に入って山鹿市の菊鹿町に少し戻った所にある米原という小高い丘の地区にあった。坂道を登ると、突然眼前に三階建の八角形の妙な建物が現れた。如何にも古代風というか、吉野ヶ里のそれとは違った、もっと進化した建物の形をしていた。その建物は、後で鼓楼であると知った。つまり見張り台のようなもので、敵が攻めてくるのに気づいたら太鼓を打って全員に周知するといった役割を担う建物だったようである。その鼓楼のある台地は広く拓(ひら)けていて、何棟かの往時を偲ばせる建物が復元されて建っていた。その間隙を縫って、その昔の建物の礎石が何カ所も点在していた。雄大な規模と言って良い。古代山城と聞いていたので、石組をベースとした砦のようなものかと想像していたのだが、その想いを遥かに超えたスケールの大きい城の址がそこに広がっていた。太宰府の都府楼跡には及ばないけど、古代の政庁につながる重要な施設だったのだと気づかせる景観だった。

      

歴史公園鞠智城のシンボルタワーの鼓楼。飛鳥時代の終わり頃に建てられたと思われるものを、礎石をベースに往時の建築技術を辿りながら復元したもの。往時の人たちの心意気のようなものが伝わってくる感じがした。

城址を歩く前に、その歴史公園の入口にある温故創生館という案内施設に入り、視聴覚室で何本かのビデオを見せて頂き、その後館内の様々な展示物などを見学して、往時についての知識を学んだ。温故創生館は立派な施設で、往時の時代の動きなどを知るには大いに役立った。地元では鞠智城址を国営公園にしようとの動きがあるようで、温故創生館はそのための重要な役割を担っているのだと思った。

鞠智城のことを知るためには、古代の倭国が日本国へと成長した頃のことを知らなければならない。そのために大切なことは、往時の東洋史、とりわけて中国と朝鮮の歴史を知るということであろう。ところが自分的には、中国の歴史については多少の知識はあるものの、最も近い隣国の朝鮮の歴史となると、皆無と言っていいほど何も知らないのである。その酷さに驚くと共に、改めてこれはどういうことだったのだろうと、自らに訊ねるほど迂闊であったことに気づかされた。朝鮮半島の歴史の概略すらも全く知らないままなのである。この無関心さは、もしかしたら戦後の教育の国策によるものではないのか、などと思ったりした。戦前の日韓併合の罪の意識のようなものがどこかにあって、隣国の歴史などを紐解いてみようなどとは思わせないように、日本国の教育は仕組まれてきたのではないかといった塩梅である。しかし、基本的にはそのようなことではなく、自分自身の問題意識の在り方に過ぎないことは明白なのだ。とは思いつつも、自分以外の誰かに少しでも責任を押し被せようとする、いつもの性悪な癖が出てしまったのかも知れない。とにかく鞠智城のことを知った衝撃はいろいろな意味で大きいものだった。

ところで、往時の時代背景だけど、旅から戻ってそれなりに調べてみると、いろいろと大変興味深いことが分ってきた。旅から戻って8カ月以上も経った今なのだが、その旅の後楽の味わいの真っ只中にいる。飛鳥時代のことは、今までに何回か飛鳥寺などを訪ねており、その時のことを思い出しながらあれこれ想いを巡らしたりはしたのだけど、往時の国際情勢(=中国・朝鮮半島情勢)にまで及んで考えたことは一度もなかった。往時の大和朝廷の太宰府政庁のことなども、菅原道真が左遷された頃(901年)のことくらいしか思い浮かばなかったのだが、道真公が天拝山で都への帰還を祈った頃には、既に鞠智城はその200年も前に出来上がっており、その使命も終わっていたのである。

古代山城が築かれた飛鳥時代の後期(600年代後半)頃は、倭国と中国(唐)や朝鮮(百済・新羅・高句麗)との関係は複雑であり、特に朝鮮半島においては、友好国の百済が唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされつつあり、それを救うべく倭国(往時は未だ日本国とは称していなかった。701年の大宝律令制定時から日本国となったとのこと)からも何度か支援の軍を送ったようである。彼の佐用姫伝説の佐用姫の思い人の大伴狭手彦もその支援軍のリーダーの一人だったことは、つい先日知ったばかりである。しかしこの支援の結果は虚しかったのである。この時代、倭国は百済支援の一方で唐とも友好を保持するという外交政策を基本としており、その内情は複雑だったに違いない。百済が滅んだあと、これを復興すべく立ちあがった元百済国の遺臣や遺民の要請を受けて、倭国に滞在していた百済王の太子を支援することが決まり、大和朝廷(=中大兄皇子、のちの天智天皇の時代)は、大軍を派遣することとなった。唐と新羅の連合軍に立ち向かった倭国からの派遣軍は、合計4万7千人、兵船は1千隻超にも及んだという。往時の倭国の全人口がどれほどだったのかは知らないけど、この数はかなりのものだったと言えると思う。しかし、その戦いは唐・新羅の連合軍よりも軍の規模では勝っていたにもかかわらず、倭国と百済側の作戦は上手くゆかず、白村江での海戦は400隻を炎上させて失うという大敗北の結果となったのである。

この後、敗戦処理の対応策として、唐や新羅が攻め込んでくるのを恐れた倭国即ち日本国側では、防御体制を整えるための戦略拠点として、幾つもの山城や砦を築いたのだった。それがいわゆる古代山城というものである。九州北部から瀬戸内海沿岸そして難波から近江にかけて30もの山城が築かれたということである。特に九州北部は上陸の拠点となる所でもあり、城砦の数が多い。太宰府に政庁があり、それを守るための主力の城が大野城と水城なのだと思う。自分は30数年前にこの水城の遺跡の近くに住んでいたことがあるのだけど、現代人にはそれと気づかぬほどのスケールの大きいものであることを知っている。部分的に残っているその遺構は、近くに住む人には樹木や竹に覆われた森や空き地くらいにしか見えないのだが、福岡空港近くの上空から見ると、水城と呼ばれるものの正体が明らかとなる。それは敵の来襲時に、貯めた水を切って落とす巨大な堰なのだということが判るのである。隣の佐賀県基山町にある基肄城を訪ねたことがあるが、これは石で固めた堅固な造りの山城だった。往時として最新の技術を用いて、全力を挙げて造り上げた防備拠点の一つだったに違いない。しかし、その頃の自分は鞠智城との関連など全く知りもせず、古城を訪ねても、ただ古の人たちのパワーに圧倒されただけだった。今度の旅で鞠智城が九州の最後の砦の役割を果たす兵站基地だったと知り、往時の治世者の発想の大きさを改めて思ったのだった。熊本県といえば、福岡からはかなり離れた場所のように思っていたのだが、太宰府から鞠智城までが僅かに60km余りしか離れていないことを知り、その兵站基地としての意味が理解できたのである。  (続く)

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