山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

川古(かわご)の大楠

2012-10-29 00:38:50 | 旅のエッセー

  福岡市に7年半も在住していたのに、隣の佐賀県のこととなるとさっぱりわからないままだった。尤も佐賀県のみならず他の各県も、そして福岡県のことすらも仕事に関わった場所以外はほとんど何も知らないままに過ごしたというのが、働き蜂(その種としては相当の怠け者)だったころの実態である。今回の旅では、そのような今まで見落としてきた箇所を少しでも多く訪ねたいと思った。日本国中をまんべんなく見て回るなどということは、たとえ生まれて直ぐに行動を開始したとしても、不可能だということは明らかであり、ましてや齢70の坂を上りつつある自分にとっては、このようなことも掛替えのない思いつきなのである。その佐賀県での話。

 佐賀県の南西部、長崎県寄りに武雄市という所がある。隣接する嬉野市はお茶や温泉が有名だが、武雄市の武雄温泉も知る人ぞ知る有名温泉である。ただこの温泉はやたらに高温で、普通の人には片足すらも入れるのは難しいほどなのである。旅の途中で、その武雄温泉にも行ってみたのだが、表示されている泉温の高さに驚いて(熱い湯45.3℃、ぬるい湯43℃などというのである)、その昔からのお湯に入るのは避け、隣接して造られている別の方のもっとぬるい湯を選んだのだった。

温泉の話ではない。樹木の話である。この武雄市には千年を超える樹齢の楠の巨樹が何本かあると聞いており、その中のせめて一本だけでも見てみたいものだと思っていた。自分が野草や樹木などに関心を持つようになったのは、糖尿病を宣告されて、その療法の一つとして歩くようになってからなのだが、特に樹木については、屋久島の縄文杉に挨拶に出向いて、その偉大な存在に心を打たれて以来、関心が強いものとなった。巨樹や古木には生命体としての犯し難い威厳が備わっている。傍に行ってそれを直接感じることが、人間という生き物にはとても大切なのではないかと思うようになった。現代に生きる人間は、あまりにも人間がつくりだした様々なしがらみにがんじ絡めになってしまっていて、人間以外の生き物、特に植物などに対しては殆ど無視してしまっているのではないか。動物の気持ちを考えることはできても、植物の気持ちを考えるなどというのは、笑い話の世界だと思っているのが普通ではないか。そこに人間の思い上がりというか、驕(おご)りの様なものがあるように思えてならない。

人間の寿命はどんなに頑張っても、せいぜい百年を少しばかり超える程度に過ぎない。それに比べると樹木たちの生命はその数倍も数十倍もあるのである。卑弥呼や大和朝廷の成り立ちを見てきている樹だって存在するのだ。縄文杉などは四大文明の発祥の地といわれるメソポタミア、インダス、中国、エジプトなどの人類の歴史の開始期には、既にこの地球上に生を受けていたのだ。そのような生命体を見て、接して、何も感じることができないとしたら、それは異常というしかない。

武雄市にある巨木の情報をもとに地図を見ていたら、その中では「川古の楠」というのが無難に行けそうだったので、それを見に行くことにした。武雄の市街地を抜け、国道498号線を北西に向かって10kmほど行くと、川古(かわご)という地名があり、どうやらそこに楠の大木があるらしい。超有名な樹なので、行ってみれば判るはずだと思いながらの出発だった。

川古エリアに入ると、楠の存在は直ぐに判った。「川古の大楠公園」というのがあって、トイレ付の広い駐車場も用意されていた。車を停め、胸をときめかせながら楠の方へ歩いて向かう。あった、あった。逞しい大樹がそこに鎮座していた。そこは田んぼの脇の平地で、付近には住宅も建っている、ごくありふれた田園風景の中である。もう少し地形に変化のある場所にあるのかなと予想していたのだが、これは意外だった。大樹の脇下には、供養塔なのかお墓なのか、そのような類の石塔などが幾つか並べられていた。この大樹を神木と崇める祭壇の様なものもつくられており、この地域に住む人たちの、この大樹に寄せる崇敬の思いの様なものが伝わってきた。

近づいて案内板を見ると、この川古の大楠は、樹齢が推定3千年、樹高25m、幹回り21m、枝張り27mと書かれていた。どっしりとバランスのとれた姿である。千年を超える樹木には、その樹の命の証とも思える巨大な瘤というのか、力のこもった塊のようなものが、根に近い幹の辺りに幾つも見られるものだけど、この楠にもそれがしっかりと蓄えられていた。予想に違わぬ見事な大樹だった。

   

川古の大楠全景。大楠公園の入り口付近から見たもの。桜の花の向こうにどっしりと鎮座した大楠が四方に枝葉を広げて迎えてくれた。

    

幹の近景。幾つもの巨大な生命の瘤が大地から盛り上がって重なっていた。その力強さには圧倒されるものがある。

楠の大樹といえば、伊予の大三島にある大山祇(おおやまずみ)神社境内の大楠を思い出す。天然記念物の「能因法師雨乞いの楠」というのがあり、そこには、日本最古の楠で樹齢3千年と書かれていた。その木は相当に疲れを感じる樹勢だった。もしかしたら枯死していたのかもしれない。しかし、この川古の楠は、推定樹齢3千年にしてはまだ少しも生命の勢いを衰えさせてはおらず、矍鑠(かくしゃく)とした存在感を示していた。3千年という時間の物差しの数値は、100年そこそこしか生きられない人間が推し測っているのであるから、その精度などを問題にしても意味のないことであろう。大切なのは、その樹の傍に行って、その生きているありのままの姿をじっくりと見させてもらうことではないか。そのように思った。

川古の楠は語っている。

「これ、人間どもよ、よっく、わしの姿を眺めなされ。わしの生命(いのち)がどこにあるのかが、お前さん判るかな? わしが、今この身体のどこにあって、何を考えているか、見えるかな? お前さんは、わしのことを年寄りだなどと思っては居やせんかな。……、そうよな、今からかれこれ850年も前の頃よな、この辺りに鎮西八郎と名乗る元気な若者が居ってのう、これはもう名だたる暴れ者じゃった。皆知っておろう、それ源平の争いとかいうのがあって、先に平氏が勝ち、平清盛という頭領がのし上がって、一代の繁栄を築いたという話。その平家に敗れた源氏方の若武者の一人じゃよ鎮西八郎為朝というのは。あとで挽回した源氏の頭領として、武家として初めて鎌倉に幕府というのを開いた、源頼朝の叔父の一人にあたる者じゃよ。あれもその頃、わしのことを年寄りじゃと思っていたらしいぞ。わしの足元にやって来て、古老扱いして拝んで行ったわ。暴れ者で、世間はやや持て余していたようだったけど、近所の池に出るとかいう化け物を退治したりして、根は真にいい奴じゃった。数年後には都や坂東の方へ行って、結局は戦で若死にしてしまったけど、わしらに対しては謙虚だったな。どんな暴れ者でも、わしらのような存在には人間は謙虚だったよ、あの頃は。……ま、今でもわしの足元にはわしを崇敬してくれているのか、祠が作られている様じゃけど、じっさいに礼を示してくれるのは近所の限られた老人の連中だけで、わしを見物に来る者の中では、先ず手を合わせるなんて者は滅多に見かけないな。別にそれは構わんのだけど、この頃のこの空気の酷さはどうしたものなのか。いやはや、この大きな図体を咳き込ませるほどじゃよ。850年前の頃は、化け物などがおちこちに巣食って居たものだけど、今頃、特にこの百年、最近の数十年ほどは、化け物どもはあまりの空気の汚れのために消え果てしまった様じゃ。あれらは、空気のきれいな住処でないと生きてはいられんのじゃ。人間どものこの頃の空気や水の汚しっぷりは、尋常一様ではないな。世界中で競って汚すのを争っているかの様じゃ。わしも生きものじゃで、このままじゃあ、あと二千年がほど生きるのは難しいんじゃないかと、心配しておるよ。ま、わしが倒れる頃には、もしかしたら人間どもは皆自家中毒を起こして、絶え果ててしまっているかも知れんなあ、……」

いやはや、大変な空想とは相成った次第である。近くの茶店・売店に小さなからくり芝居の舞台が作られており、そこで鎮西八郎為朝がこの近くで沼に住む化け物を退治したとういう話が上演されていたのを見て、まあ、楠の大樹の思いを膨らませてみただけなのだが、今の世の動きを快く思っていないのは確かなのではないかと、そのように想ったのだった。  (2012年 九州の旅から 佐賀県)

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