世の中には「悪」というものが常在します。必要悪といったものもあるそうですが、その本質が反社会・反人間性のものならば、それはやはり不要だといわなければなりません。
この頃の世の中を見ていて思うのは、50年前に比べても悪というもののレベルが相当に進んだということです。世の中は善悪まみれて成り立っているものと認識していますが、ここ50年間で、善の方はレベルも量も大して進んでいないのに比べて、悪の方は加速度的な質量の増加です。簡単にいえば、世の中悪くなっている、悪の方が優勢となって来ているということです。
例を上げればきりがありませんが、私の場合の卑近な出来事としては、Eメールの被害があります。時々、いわゆる迷惑メールと呼ばれるものが混ざって来ていたのですが、何とかこれを排除したいとかねがね思っていました。ある時、その迷惑メールを振り分ける新しいソフトが開発されたという案内のメールが入っていました。ちょっと疑問を感じつつも、どんなものか問い合わせてみようと、そこへアクセスしたのですが、何だか要領が解らぬままに取りやめたのでした。ところが、その後はとんでもない事態となりました。連日迷惑メールが束になって送られてくるようになったのです。多い日には50を超える、くだらない内容(アダルト系)のメールが送られてきます。それは今でも続いており、どう対策するか迷っていますが、取り敢えずアドレスの変更は面倒なので、しばらくの間削除続けるつもりでいます。どうせ暇ですから、メールを開く度に削除するのも楽しみといえば楽しみのようなものです。
ところで、よく考えればこれは相当に悪質です。己が悪であることを承知しながら、善の姿をして相手を騙すという手口は、振り込め詐欺よりも悪質といっていいかもしれません。この場合はお金が絡んでいない(メールの内容の中にはお金のことも織り込まれていますが、それは当然無視です)ので、振り込め詐欺よりは被害は少ないことにはなりますが、欺くという悪の本質は不変です。
このような悪質な行為は、50年前にはこれほど一般的ではなかったと思います。詐欺をするのは詐欺師といわれるような、一種の病理的な欠陥をもった人間による場合がほとんどだったと思います。従ってその犯罪件数も少なかったと思うのですが、現在はネット等情報流通技術の高度化によって、犯罪がゲーム感覚化し始めています。ゲームの中に取り込まれている犯罪を、現実の世界で行うというような、反社会的な現象が出て来ているような気がします。バーチャル(=仮想)とリアル(=現実)の世界を混ぜこぜにして、その区別がつかないような人種が世界各国で生まれて来ているようです。このまま放っておけば、悪のレベルは益々進歩し、犯罪の量は増加するに違いありません。
何が悪を進化させているのかといえば、その最大のものは、「個」を中心とするコミュニケーションのツールが高度化し過ぎたところにあるような気がします。高度情報化社会の到来ということが叫ばれたのは30年ほど前だったような気がしますが、その当時の予想以上に、現在の情報やり取り技術は進化しているようです。音声と画像・映像と文字とが一体化した情報のやり取りが、個人レベルで可能となる時代が既に到来しています。しかし、これをコントロールする技術も知恵も人間はまだ持ち合わせていないような気がします。それらの使い方は個人任せであって、それが反社会的であってもそうでなくても、全て個人の振る舞いに委ねられています。そのことの良し悪しは一概に決めつけられるものではありませんが、予感として、放置したままだと小さな功利のための組織は成り立っても、国家などは成り立たなくなるような気がします。
何年か前、「『ケータイ・ネット人間』の精神分析」(小此木圭吾著)という本を読み、いろいろ考えさせられるところ大でした。今の世の中の人間同士の結びつき(これを絆ともいうらしい)は、一見平和風な環境の中では、「個」が中心であるがゆえに極めて脆弱となって来ているように思えます。というのも、「個」が中心ですから「他」とかその代表である「社会」などというものは、全て「個」の中に収められてしまっていて、隅の方で忘れられかけている存在だからです。この度の大震災で「絆」が脚光を浴びたのは、このような「個」が中心の社会のあり方に一つの課題を投げかけたのではないかと思っています。
私の話がぐらつくのはいつものことでありますが、ここまで来て、何だかこのようなことを偉ぶって述べてみても、滑稽な感じがしてきました。所詮は己に対する慰めに過ぎない妄話のような気がするからです。私は「個」というものの大切さを決して否定するものではないのですが、今日の世の中の悪というものの増幅ぶりを見ていると、このままでは日本国も東京都も茨城県も力を失い、やがてその見返りとして、「個」そのものが堕落し、衰退して行くのではないか。そのような思いにとらわれるのです。
池波正太郎先生の鬼平犯科帳や必殺仕事人、それに剣客商売などを読んでいると今の世のありがたさの半面、勧善懲悪の曖昧さに対する怒りのようなものが湧きたってきます。明らかに悪と解っていても懲に対する姿勢が今の世はあまりにも甘く、かったるい気がします。オーム真理教の事件の後始末をはじめ、新聞沙汰となっている多くの社会面での出来事は、やたらに悪を弁護するようなものばかりで、悪人は再犯率を高めるばかりです。今の世は、本当の人間に対する優しさを忘れており、被害者よりも加害者に味方する傾向大のような感じがします。「個」が「悪」そのものならば、そのような悪は抹殺・削除すべきです。長谷川平蔵や藤枝梅安や秋山小兵衛などの振る舞いを羨ましく思います。
それにしても、顔の見えない悪は、これから先どこまで進化して行くのでしょうか。コミュニケーションのツールがこんなに進化して便利となったというのに、便利を逆手にとって迷惑メールを送り続けてくる小賢しい悪の姿を打つ飛ばしたてやりたい思いに駆られながら、今日も削除の作業を数回行ったのでした。