山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

国王神社に参拝する

2012-02-13 00:07:18 | 宵宵妄話

    今年の大河ドラマでは、平氏が脚光を浴びています。勿論主人公の平清盛の生涯を描いたものですが、その描き方がどのような軌跡を辿るのかちょっぴり楽しみにしています。平氏については、その後の源氏との攻防の果てに没落の道を辿ったという見られ方から、何となく影が薄い感じがしますが、これは歴史の作為のような気がします。時代史などというものは、国家というものが生まれて以来、常に勝者の記録であり、敗者については必要以上に勝者側はこれを消そうという本能のようなものが働くからです。

 

平家については、武家の先駆けとしてあまりに急に階段を駆け上り過ぎたということが、その悲劇の発端であった様な気がします。急な階段を一気に駆け上がった者は、長く頂上に留まるすべを知らず、気がつけば急速に坂を転び下りてしまうことを、幾つかの史実が証明しているようですが、平家という武士集団もその一例だったと言えるのかもしれません。

 

TVの大河ドラマに対して、どこぞの知事さんとやらが、舞台となっている自分の行政区域の海の色などの映像が汚なすぎる、とかで文句を言ったとか。これは平家の歴史とは本質的に別問題であることは明らかですが、今の時代は、そのような所にまで気を使って己の政治の扱う場所をよく見せようとする意識が働くものなのかと、これはまあ、真に恐れ入った話でした。このような、どうでもいい話をわざわざ取り上げて、庶民のご機嫌を取ろうとするマスコミも、よほどに退屈なのだろうなと、庶民の一人として気の毒に思った次第です。

 

話が端(はな)からあらぬ方向へ向かい始めましたが、今日の話は平清盛よりは著名度は全国版でないけど、関東ではその昔から名を上げていた、その平家の先輩の一人である平将門という方を祀る神社に参拝したというものです。平将門という方は、朝廷への反乱者として扱われ、時代によってその評価が正反対になったりして、右往左往された感があるようです。明治維新以降太平洋戦争が終わるまでは、国賊などと言われて、随分と悪者として名を貶(おとし)められたようですが、私がもの心ついた頃には戦争は終わっていましたので、そのような評価などは気にもせぬままに育つこととなりました。もはや朝廷などというものが無くなった今日では、この方の評価もご本人が納得ゆける辺りに落着くのではないかと思われます。

 

私の住む茨城県南部の利根川流域は、その昔は下総の国と呼ばれており、守谷市もその一部でした。平安時代の関東地方がどんな所だったのか、現代の感覚では全く見当もつかないほど、未開拓の原野が広がっていたのではないかと思います。その中で、一時ではありましたが、全国版で名を挙げたのが、平将門という武将でした。そこに至るまでにはいろいろな経緯があったようですが、国の役所を襲い、印璽を奪って自ら新皇を名乗ったということですから、これは当時の朝廷も超びっくりしたことでありましょう。そのような朝廷に対する反逆が、天皇に対する暴虐行為として明治時代などは悪者の代表のように取り上げられたのだと思いますが、果たして本当にそうだったのか疑問を感じます。反逆行為の背景にはそれなりの理由があると思いますから、朝廷のあり方そのものに問題があったという考えもおろそかにはできないと思います。

 

さて、その平将門の本拠地は守谷市に隣接しているといっていいほど、我が家からは近い坂東市にあったようです。坂東といえば、坂東武者の代表のような感じがしますが、坂東武者というのは源氏方が多く、平家の一族の本拠地という意味では、坂東市という市名よりも以前の岩井市の方がぴったりしている感じがします。この頃は効率性優先の行政手法ばかりが優先し、合併などによって昔をとどめる地名が失われて行くのを残念に思っていますが、この坂東市もその一つのように思えます。近くに利根川(坂東太郎)が流れ、出身の武将が関東一帯に名を馳せたことからこの名前が使われたのだと思いますが、はて、このような変化を将門新皇ならば何とコメントされるでしょうか。

 

平将門を祀る神社は幾つかあるようですが、今日参拝したのは坂東市の中心部近くに位置するその名も国王神社という所でした。ここは将門が戦死した際に難を逃れ奥州の方に庵を結び出家隠棲していた三女の妙蔵尼という方が、父の33回忌にあたる天禄3年(972年)に、この地に戻り付近の山林に霊木を得て父の像を刻み、祠を建てて安置し祀ったのが始まりと説明板に書かれていました。その当時から神社が国王と呼ばれていたのかどうかは定かではありませんが、思うにその当時は今よりも小さな祠一つだったのではないかと推察します。

 

          

国王神社正面の拝殿。この日は日差しが強くて樹木の影が邪魔をして判りにくい写真となった。真に質素なたたずまいに、歴史におけるこの人物の存在感のようなものを感じたのであった。

 

現在の国王神社は、拝殿も本殿も茅葺屋根で造られており、いつの時代に造り替えられたのか判りませんが、それなりの風格というか時代を偲ばせるものを持っている様に感じました。全体としては周辺の樹木も粗末で、規模も小さいのは、やはり明治時代からの歴史評価が変わるまでは、随分と軽視されたというか、表に出られなかった、そんな感じがしました。それにしても今頃、岩井市や坂東市は随分と平将門を売り物にして利用している風に思えるのに、これらの史跡の保護に関しては雑というか、ほったらかしの感じがしてなりませんでした。もう少し将門を大事にした扱いを、随所に心配るべきではないかと思いました。一度役場に行って話を聞いてみたいなと思いました。

 

          

国王神社の本殿を後ろ側から撮ったもの。茅葺の屋根も、又その下の建物も真に質素で、彫刻等の飾りもほんのわずかしか見られなかった。

 

国王神社参拝の後は、近くに将門の菩提寺があるというので、行ってみることにしました。神社から200mほどの所に医王山嶋薬師延命寺というのがあり、これが菩提寺ということでした。何だか荒れ放題のお寺の感じがして、ここも又将門の評判とそれに対する扱いとのギャップを感じたのでした。どこかに墓標や墓碑のようなものがあるかと探しましたが、不明でした。このお寺の建物は、どうやら火災などで焼失してしまったらしく、仮の建物のまま朽ちかけて来ているといった雰囲気でした。菩提寺なるものがどこに幾つ存在するのか分りませんが、他のお寺はここよりも上等であって欲しいなと思いました。

 

         

平将門の菩提寺である医王山嶋薬師延命寺の境内風景。中央左の赤い建物は医王堂。その奥に見えるのが本堂。周辺の樹木も乏しく、境内は荒れて寂しげな感じがした。

 

帰りには守谷に越して来て以来いつも愛好している将門煎餅を、市内のその本店で購入して戻ったのですが、ついでに将門所縁の守谷市内にある海禅寺にも立ち寄りました。守谷市も将門との縁は深く、出城の一つである守谷城の城址の跡が残っています。海禅寺は将門七人の影武者を弔ったという話が残っており、その七つの墓の石塔が残っています。詳しいことは解りませんが、主人だった将門の神社や菩提寺を訪ねたのですから、その側臣の墓に詣でるのも礼ではないかと思ったのでした。

 

         

守谷市内にある海禅寺境内の、将門の七人の影武者の石塔。一番右の少し高い塔には、「平親王塔 天慶三庚子年」と刻まれており、それは西暦940年将門が戦に敗れて戦死した年ということになる。この石塔がその時に建てられたものなのかは不明だった。

 

 

平将門の史実等については、殆ど知識がなく、海音寺潮五郎先生の「風と雲と虹と」を読んだ程度ですから、どのようにこの人物を受け止めていいのか戸惑いがあります。しかし、現代の今の世につながる歴史の登場人物であったのは間違いないことですから、これからも機会をとらえて史跡などを訪ねてみたいと思っています。

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