昨日、先日移植を決めた3本の木を植えに実家(?)に行った。3本の木はかなり大きくなっていたので、元々は軽トラでも借りて運ぼうかなと思っていたのだが、もしかしたらキャンピングカーでも運べるかと、ブルーシートを買って来てぐるぐる巻きにして積み込むことにしたら、何とか収まったのだった
12時半ごろ着いて、早速畑に植えることにした。300坪ほど、耕作を止めた畑があって、そこに自分の自由に樹木などを植えさせてもらうことにしている。この日本という国で、自由になる土地といえば、たったこの300坪しかない。父母の遺産として故郷を忘れないためのシンボルだと思っている。自分が生きている間だけの土地であって、その間はせっせと木を植えようと思っている。あの世に行ったらもう土地などどうでも良い話となる。
付近が何だか変だなと思ったら、あとを継いだ弟がどうやら家の周辺の樹木を相当伐ってしまっていたのだった。ずっと手入れをしないままだったので、そのままでは厄介と感じて伐ってしまったのかもしれない。防風のためということもあって、植えた木なのだろうが、随分時間が経って、木が大きくなりすぎて採光などにも影響があったから思い切って伐ってしまったのかもしれない。しかし、ここで育った自分としては、昔からの馴染みの木がなくなって、少し寂しく思った。
一体、木を伐ってしまう人間を自分は非情な奴だと思っている。木は野草などとは違って、生長に時間が加わっている。その時間というものは、木を見れば直ぐ判ることだが、それなりの重みを表わしている。その1本の木を伐るということは大変勇気のいることのような気がするのである。それを何でもないように伐ってしまうとしたら、これは非情というしかあるまい。我が弟のことを非情というのは言い過ぎなのかも知れないけど、木を伐るについては、厄介な兄貴がいることも再認識して欲しいなと思った。
弟は留守だったので、そのまま畑に穴を掘って3本の木を植えた。まだ家の周辺には何本かの木が残っているけど、これから先は弟が伐る数だけは自分が別の形で木を植えようと思った。あちら伐る人、こちら植える人である。
スモモの木 オオヤマザクラ サクランボ:南陽
ところで、何という花粉の溢れた土地なのだろうか。我がふるさとは、悪さを振り撒く世代の杉や檜に溢れた土地だった。小さい頃はそのようなことには全く気づかなかったのだが、今回この時期に来て見ると、空がかすんでいるのは、全てが杉の花粉などで覆われているように思った。目はかすみ、鼻は枯れてくしゃみ寸前、頭は重く、いやはやどうにもならない。この季節の花粉の悪さには馴れていたつもりだったけど、我がふるさとがこれほどの花粉の溢れる場所だとは思わなかった。
これじゃあたまったもんじゃない、とその後温泉にでも入ろうと喜連川に向かった。喜連川の露天風呂に入れば、花粉症もいっぺんに流し去って、爽快な気分になれるかと思っていったのだが、喜連川温泉のあるさくら市辺りは我がふるさと以上に花粉に溢れたエリアのようで、温泉の中でも何回もくしゃみを連発する有様だった。いやはやあ。今日のブログ掲載が遅れたのは、このくしゃみの所為(せい)であります。
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