山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

突然死とPPK

2009-10-06 03:05:35 | 宵宵妄話

昨日のニュースで中川昭一氏の死が報ぜられ驚いた。何やら話題の多かった人だったが、これからが本番を期待されていた人だけに、周辺の人ならずともご本人だって残念・無念だったに違いない。北海道を旅していると、十勝平野が終りかけた広尾町辺りだったか、天馬街道の入口近くに中川一郎記念館がある。昭一氏の実父の一郎氏の記念館である。近くを通ってもまだ一度も覗いたことはないので、その中の様子はわからない。この方については自殺が報ぜられた時にどうしたのだろうかと不思議に思った程度で、元々政治にはあまり関心がないため、その人となりも足跡もさっぱり判らない。地元においては、実力者として将来の総理をも嘱望されていたようである。その後を引き継いだご子息の昭一氏も、東大法学部の出身であるから、極めてハイレベルの頭脳の持ち主だったのだと思う。主要閣僚を務めたのも、その能力の証だったに違いない。

家族も気づかなかったほどの急死だったため、その死因についての詮索が姦しいが、他者に害を加えられての出来事ではなかったのは、はっきりしているように思う。睡眠剤など何種類かの薬剤を多用されていたということだから、思うに直接・間接それらの飲用が死につながったことは否めないのではないか。高学歴の相当に優秀な人でも、薬に頼る生き方をしなければならないというのは不幸なことである。不眠などについては、眠らないでいたならいつかは必ず眠くなるのだから、薬など飲まなくても寝なければいいというのが私なんぞの理屈であり、現実なのだが、それは大して心根を揺るがすような仕事をしていない者の言う戯言(ざれごと)なのかも知れない。政治家というのは、愛憎渦巻くドロドロの世界で、先を見据えながら己の生きる道を選択して行かなければならないのであるから、その心労たるや、常人の想像を遙かに超えているのかも知れない。

過日G7だったかの記者会見で、意識朦朧(もうろう)の如き状況での答弁に一挙に批難が集中したが、その時の報道ではワインかなんかアルコールの飲み過ぎのようなことが言われていたが、私はアルコールではなく、あれは薬の影響によるものではないかと思ったのだった。幾らなんでも承知しているはずの翌日の記者会見に、しどろもどろでロレツが回らないほど深酒をするなどということは考えられず、恐らく飲む薬の量を誤ったのではないか。たくさん飲めばより効果があるのでは、などとうっかり考えたりするのは、薬の飲用においてはあってはならないことだが、人間切羽詰ると、とんでもない愚行に走ることは考えられないことではない。それは頭脳の優秀性とは無関係であり、別の自制力の問題だと思う。

ずらずら余計な勘ぐりめいたことを書き連ねたが、私は中川昭一という政治家を誹謗(ひぼう)するつもりなど全く無い。むしろこれからという大事な時に、突然死に見舞われたことを真にお気の毒に思い、ご冥福を祈るのみである。

今日書きたかったのは、突然死の持つ意味である。実は突然死の事件はこの外に身近でもあったのである。つい先日北海道の旅でお会いして話を交わしていた方が、別海町のキャンプ場でお別れしてから半月も経たない内に、釣りの最中に倒れて救急車で運ばれたのだが、そのまま身罷(みま)かられたということだった。それを知ったのは1ヶ月も後のご主人とのメールのやり取りからだったが、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。今でもそれがどうしても実感できないのだが、もう二度とあの笑顔にお会いできないのだと思うと、この世の無常さに改めて非情なものを感じざるを得ない。

ところが、突然死というのは、実は私自身にとっては願望する死のスタイルなのである。上記の感慨とは明らかに矛盾していることは百も承知している。別れさせられる側にとっては、決してあってはならないことなのだが、別れる側つまりこの世とおさらばする側には、突然死は恵まれた死のスタイルのような気がしている。それは今まで多くの人の死を見てきての実感でもある。死にたくても死ねないという生の捉え方は、倫理観上どのような意味を持つのか良くわからないけど、世の中には必ずしも何としても生きなければならないという状況ばかりがあるわけではない。

例えば、高齢化社会を迎えた今、ただひたすらに延命の病床にある場合に、周囲の人たちに多大の迷惑をかけていることをはっきりと認知・自覚できているとしたら、自ら何としても生きたいとは思わないのではないか。個々には様々なケースがあり、勿論一概にそのような暴論を主張するつもりは無いけど、やがて必ず老いという不可避の世界に入ってゆかざるを得ないことを考えると、死に方のあり方を考えることは強(あなが)ち誤っているとも、不謹慎だとも思わない。

私が望む死に方は、具体的にはPPK(ピン、ピン、コロリ)というこの世とのおさらばの仕方である。PPKは私の造語ではない。誰の創作かは知らないけど、知人のFさんが自分史の中でそのように使っておられたので、それまで自分が使っていたビンコロリよりは良いなと思って勝手に借用している。例えば、昨日までピンピンしていたのに、翌日にはコロリとあの世に逝っているという死に方である。どのような死に方をしたとて、誰にも迷惑をかけないなどということは全くあり得ないのだが、高齢者になってから、病の床に何年も身体を横たえたままであったり、自分自身も周りの存在も認知できなくなって、一人では生きてゆけない状況で命を長らえている状況よりは、その度合いは少ないといえる。もし、このことを他者に向って言うのであれば、これは人命を冒涜する不謹慎といわれても仕方ないと思うが、自分自身の死に方についての考えであれば、許されることであると思っている。

ところで、わたしの考えるPPKには条件がある。それはあの世に旅立つまでは健康であるということだ。健康にはいろいろなレベルがあると思うが、各種の検査データの結果が問題なしなどということではない。生きていることを実感しながら活動していることである。明日に夢と希望を持ち続けながら生きているという実態である。それが仮に病院の中であっても、生を諦めない状態であれば、それは健康といえる。つまり単に身体的な側面だけではなく精神的な側面においても生きる力を失っていない状況である。この条件が満たされていて初めてPPKが成り立つのである。身体的にも精神的にも不健康な状態の中での突然死は、私の望むところではない。むしろ忌むべきものである。

このような条件を満たした生き方というのは、大変難しい。人は老いなどとは無関係に、不健康であるが故に不幸な突然死に見舞われるものである。自殺などもその中に含まれるかもしれない。それは不本意だ。極めて不本意である。周りの人たちから見ても不本意だし、何よりも本人にとって不本意だと思う。健康であるというのは、大変に難しい。多くの場合自分が健康だと思っていることは錯覚であることがそれを証明している。それ故にPPKは難しいのである。

私はPPKを達成する大きな力となるのがくるま旅くらしだと思っている。現役時代ならば、そのような大口を叩くことは出来ないと思うけど、リタイア後の人生では、年金暮らしでもくるま旅くらしは充分に可能である。それは私のみならず大勢の諸先輩がそのことを立証しているし、新たにチャレンジを開始した人でもかなりの手応えを感じておられるはずである。暮らしの実態は貧しそうに見えても、心身ともに健康で活き活きと過せるならば、心は豊かではないか。私はそう思っている。勿論PPKは私だけの問題であって、他の方にお勧めする考えなどは全くない。今回の突然死の出来事に驚きつつ、改めてPPKのことを考えたのだった。

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