山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

墓の話

2017-10-06 05:07:03 | 宵宵妄話

 そろそろ自分の墓をつくらなければならんなと考えている。自分は長男なのだけど家を出ているので、墓がないのである。今の世の中は誰でもが墓を持っているとは限らない。地方によっては沖縄県の門中墓のような血縁共同体墓地の様なものもあるのかもしれないけど、わが国の現状では、家を継がない者は新たに墓をつくらなければならないことになっているようだ。大都市では、お墓のアパートのようなものもあるようだけど、全国的に見ればやはり墓地を購入するなどして死後の住いを確定しておくのが普通なのだと思う。

 死んだ後のことは生き残っている者に任せて、生きている時間だけにお金を使えばいいという考えもあるけど、それは少し無責任というものであろう。墓がないのであれば、生きている間に自分で手当てしておくというのが、まあ、親としての子孫に対する責任なのかなと自分は思っている。墓など持たずに遺骨を原野の風に流すとか、海に撒くとかのやり方もあるけど、位牌だけあれば骨や灰などなくても良いというのは、何だかさびしい気がする。

 それで、ただ今思案中である。家屋敷が何百坪もあって、土地に余裕があるなら、屋敷の片隅に墓地を用意するのが理想なのだと思うけど、とてもそのような余裕は無く到底無理な話だ。それに今の時代は、子孫が一箇所に代々定着して住むという考え方が大きく崩れており、屋敷の隅に墓など造ってしまったら、後々土地を処分する時に厄介になるなどということが起こりかねない。絆が大事などと言ってはいるけど、家族や親族のシンボルとなる墓でさえも分断の道を辿っているのだから、今の世の個人主義というのは、相当のいい加減さをもっているもののようだ。

 ま、墓を造るほどの家屋敷もなく、その点何の心配もないのだが、やはり墓無しというわけには行かないと思うので、どこかに買い求めるとすれば、なるべく近い方がいいようには思っている。尤も最近は車での暮らしが基本となっているし、又全国どこへ行くにしても交通至便の時代だから、どこか気にいった場所を探して、そこに墓を求めるというのも良いかなと思ったりしている。でもわざわざ九州や北海道の地となると、子孫にはそっぽを向かれてしまいそうだ。

 と、まあ、あれこれ思いは膨らみ揺れるのだが、自分たちで勝手に決めるのではなく、子どもたちとも相談しながら決めるというのがまともなやり方ということになるのだと思う。まだ、そのような話は子どもたちにはしてはいないのだが、墓については一つ考えていることがある。それは、墓に入る条件というのか、いわば墓の活用・運用法とでもいうべきことについてである。

 妙な話となるけど、自分は現在の世の中の墓を巡る運用の在り方に大きな疑問を抱いている。今は半ば長子制度をベースに墓が運用されているのだが、そのような中で、もし長子に娘だけしかなく、皆が嫁いでしまって跡を継がないとなると、そこでいわゆる本家の墓は断絶することになる。一方で長子以外の者の墓は新しく造らなければならず、そのニーズは次第に増えて行くということになる。しかし、それら長子以外の人たちの家でも、後々同様のことが起こるわけであり、このまま行くと、全国至る所に家が絶えてしまった墓が増えて残ることになってしまう。永代供養というのがあるけど、それはまだ生きている人の思い込みの幻想であり、誰もいなくなった後では、供養に来る人がない墓を、お寺さんが後生大切に守ってくれるかどうかの保証などないと考える方がまともではないかと思う。

 今、お寺さんと檀家の関係の糸が細くなり出していて、あれこれと話題になったりしているけど、この話は現在のお墓の運用制度と絡んで、今後益々その糸は細くなって行くのではないかと思えてならない。これは単に我が家だけの問題ではなく、これからの日本の家族制度と墓の運用の在り方に絡む全国的な問題なのではないか。そう思える。微妙な問題なので、政治家は手をつけないであろうし、お寺さんも家族制度に絡む墓のあり方については口を出すわけには行かないだろうから、このままで行くと、供養に来る人のいない墓は増える一方で、新しい墓をつくるニーズも止まらないという、何だかバカバカしい人間の死後の扱いに係る墓の問題が膨らむに違いない。

 そこで今考えているのは、自分が用意した墓には自分の家の者でなくても、入ることを望む者があれば誰でもOKというルールを作って置くということ。例えば、自分には二人の男の子がいるけど、二男が希望すれば自分で墓を造ることなく、自分の造った墓に入れば良いし、或いは例えばそれが長男の親しき知人であっても構わない。安易な気持で墓を求める人などいないのだから、もし事情があって本当に入ることを望むのであれば、承知しても良いのではないかと思っている。但し、その決定は最初に墓を造った家長(=自分)が行い、亡くなった後は、生前に家長が指名した者が決定権を持つ、という風にすれば代々の墓が活用されて行くのではないか。墓が狭くなって対処できなくなった場合は、その時点でもう一つの墓を用意すればいいだけの話である。それはその時に生きている子孫の誰かが担うべき役割ということになる。それを果たして貰えるかどうかは分からないけど、出来なければ我が一族はそこで終わりということになる。それはもはや仕方のないことである。

 かなり安易な大雑把な墓の運用の考え方だけど、基本を述べただけであり、実際にはより細かく決めておく必要があると思う。また、この場合の墓石は、「○○家の墓」などというのは造らず、家を超えたシンボル語を刻むことにし、脇に小さく「○○家所縁の者茲に眠る」とでも刻んでおけば良いと思う。

 現在の自分の最も身近な課題がこの墓を用意することなのだが、明日のことは判らないとしても、今直ぐに死ぬようなこともあるまいから、傘寿(80歳)を迎える頃までには何とかしようと、わりと楽観的に考えている。あまり急ぐと、空っぽの墓からのお迎えが早まる感じがするし、さりとてほったらかしのままでは、無責任となってしまう。何はともあれ、自分は無責任は嫌いなのだ。

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