今年も残り少なくなった。いろいろなことがあった。嬉しかったこと、楽しかったこと、怒りがこみ上げたこと、情けなかったこと、残念だったこと、悲しかったこと、などなど。この歳になると、これらの全てはみんな面白さで括れる感じがする。生きている間に味わっている喜怒哀楽のすべては面白いと思うようになりつつある。怒りの真っただ中に居ても、ふとそれを脇に置いて眺める余裕ができたことなのか。即ち老が本格化し始めているということなのか。人生というのは、やっぱり喜怒哀楽があって面白いのだ。どれか一つだけ、自分に都合のいいことばかりがあって満足ということは無い。感情を揺さぶるバリエーションがあって、初めて面白さを味わえるのだと思う。
時間の流れというのはどのようなものなのだろうと思うことがある。時系列というのは過去から始まって現在、未来というふうに流れるものだと思いこんで生きて来たのだが、ふと本当にそうなのかと思うことがある。もしかしたら逆であって、最初にあるのは未来であり、そこから現在がやって来て、やがてそれが過去となって流れて行くというふうにも思えるのである。もしそうだとすると、人生というのは既に決まっていて、それが様々に形を変えて現在をつくり、更に過去へと向かって行くことになる。
我々日本人に比べて、諸外国の人たちの信仰に対する姿勢は格段に違うように思うのだが、それは何故なのだろうと思うことがある。日本人の場合は、その多くが神というものに対して必ずしも真面目に向き合っているようには思えないのだが、キリスト教徒もイスラム徒教の人たちも神というものに対して真剣であり、敬虔なのだ。創造主としての神は絶対的なものであり、キリストもマホメットも神が使わした預言者として位置づけられ尊敬されているわけだが、日本の場合は多神教というのか、神が必ずしも創造主ではないことが多い。仏教のいう仏様は神と同体と考えていた時もあったようだが、仏教の場合は、その基盤となっているのは、釈迦という方の唱えた思想哲学なのだと思う。
これらの違いを思う時、先の時間の流れのことを思ってしまう。時の流れが創造主のもたらすものであるとすれば、その創造主の存在は絶対的なものであり、これを崇めないわけにはゆかないものとなる。しかし、日本のような神に対する考えでは、神が創造主であるという捉え方が曖昧なものとなってしまい、未来は神によって決められるというような考えは生まれにくいのではないか。だから、日本人の多くは、時間というのは過去→現在→未来と流れるのが当たり前だと思うようになっているのではないか。
どちらの考え方が是であり非であるのかは解らない。信仰というのは個々人や民族の持つ生きるための考えの拠りどころとなるものであろうから、その信仰の背景にある「時」の捉え方が正反対であっとしても、どちらか一方が正しいなどと決めつけるのはナンセンスなことだと思う。
それで自分は思うのだが、時がどのような流れであっても、やっぱり一番大事なのは「現在」だと思う。用意されている未来に辿りつくにしても、或いは積み上げた過去を未来につなげるにしても、結局「今をどう生きるか」が人生を創ってゆくのである。残りの時間が少ないのを感じるにつれて、その思いはますます強まって来ている。部屋の壁に平櫛田中翁の書かれた「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の額が掛けてあるのだが、田中翁のような「わしがやらねば」という意気込みはあまりないけど、せめてこれからは「いまやらねばいつできる」だけは常時自分に問いかけて行きたいと思っている。
今年も残り1週間を切ることとなりました。クリスマスも終わって、日本のお正月を迎えることになります。皆さまにはどうぞ良いお年をお迎え下さい。
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