山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

コロナ禍の中、或る一日の我が歩きの紹介(2/2回)

2020-06-07 00:14:29 | 宵宵妄話

(つづき)

それらの施設を通り過ぎると、右手に大木の茂る小さな森があるのだが、この中に鶯と一緒に「オイシイヨ」と鳴く鳥が棲んでおり、通りかかると度々その玉を転がすような美声を聞かせてくれる。「オイシイヨ」と鳴くのは時々で、あとは切れ目なく玉ころがしの声を聞かせてくれるのだ。何という名の鳥なのか姿も見えず判らないのが残念だ。

「オイシイヨ」が鳴く森を超えて少し行くと、そこで堤防の側道は終わり、民家のエリアへと道は続く。この辺りの民家は古い家が多くて、中には大屋敷と思われる家もあるようだが、無住となっているものもあり、屋敷が蔓延る樹木や雑草に覆われているのを見ると、この町の世代交代というのか、断絶期にあるというのか、時代と現実がアンマッチな現象を強く感じたりする。守谷市は茨城県第1位の人口密度の高い市で、未だ人口は増加の傾向にあるけど、その内部では古い大きな家が寂れて消え去りつつあり、一方では大都会並に小さくて窮屈な新しい家がつくられ増加している。人間社会というのは、所詮ムダをつくりだすために営まれているのではないかと、時々思ったりする。絆の大切さは解っていても、家族においてさえも繋がりを保ち続けるのは難しい。古い集落を通りながらいつも感ずることである。

更に歩いて県立守谷高校の脇を通って新興住宅街へ。守谷高校はこの町唯一の高校だ。どんな特徴があるのかよく解らないけど、この高校が超有名な実績を持つのは、女子剣道部の存在のようだ。昨年の茨城ゆめ国体でも団体と個人で優勝しており、その他のインターハイでも何度か優勝や3位以内入賞の実績を誇っている。良き指導者に恵まれ、才能素質のある娘たちが集まって来ているのであろう。高校の窓や塀に掲げられている入賞等を讃える何枚もの垂れ幕を見ながら、若者たちの活躍を思ったりするのは楽しい。

   

県立守谷高校玄関わきの柵に掲げられた優勝を祝う横断幕。全国一というのは、文句なしの快挙だ。無名と思われているこの高校の存在を市民はもっともっと誇りに思わなければならないと思う。

新興住宅街は切り売りの土地にゆとりの少ない建物がずらりと並んで、やはり息苦しい感じは否めない。それにどの家にも複数台の車が収まっており、高級車も多い。自分の所も同じ様な新興住宅街にあり、同じパターンに収まっているのだけど、このような暮らしは、かつて望んでいたものとはかなり違うなと思うのは、田舎育ちの証なのかもしれない。現代人の暮らしは直線愛好の角の多い世界の中にいる感じがする。曲線の方が変幻自在のように思っているのだが、狭い庭には思う通りの樹木や野草を植える空間も心の余裕もない。皆同じように見える住宅街を通り抜けると、再び古い集落に入り、何軒かのお寺のような御殿を見ながら少し行くと、最近完成した鬼怒川の新しい堤防の道に出る。

   

今年の4月に完成して通れるようになった鬼怒川堤防の道。右手に見える赤い屋根の建物は、孫娘が通う幼稚園なのだが、昨年の大雨の時には堤防が未完成で、建物の半分が冠水した。

この辺りは常総市やつくばみらい市との境界近くとなっており、100mも歩かない内につくばみらい市となる。その場所に孫たちが通う幼稚園があるのだが、昨年の大雨時にはこの堤防がまだ出来上がっておらず、幼稚園の建物の一部が水に浸かってしまう被害を蒙ったのが記憶に新しい。でも今は、コンクリートの厚い壁で固めたこの新しい堤防が出来たので、これからはもう大丈夫だと思う。それにしても洪水というのは、真に恐ろしいものだ。大自然の溜まっていた怒りが一挙に吐き出され、濁流となって下流に押し寄せる。そのパワーは一時の人間の力などで間に合うものではない。昨年はそれを思い知らされたのだった。

新しい道は気持がいい。しかし、この道はたった数百メートルしかないのが残念だ。直ぐに終わって、そこからは一般道に入り、つくばみらい市の新興住宅街を通って自宅に向かい、30分ほど歩いて自宅に戻ることとなる。到着時刻は7時50分前後となる。万歩計は2万3千歩ほどとなっている。3時間20分ほどの歩きは、距離換算では14kmくらいであろうか。それほど疲れたとは思わないけど、多少足腰に負担が来ているのを感じているので、ま、これぐらいに止めておくのがベストなのではないか。

これがこのコースを歩く時の概要である。3月に入って以降、3日に1回の割合だから、毎月10回ほどこのコースを歩いている。景色を楽しみ、鳥たちの鳴き声を楽しみ、あらぬ空想に思いを馳せ、もの書きのテーマを思い浮かべたりして、飽きることはない。歩くことは単なる運動などではなく、考えることであり、時に観察者になり、時に科学者になったりして、生きているのを実感するのである。

今年の今日(6/5)までの歩きの実績は、万歩計で2,888,769歩。157日間での1日平均歩数が18,399歩となっている。凡そ1,600歩で1㎞という実績だから、毎日平均11kmと少しは歩いていることになる。万歩計の誤差は、長距離を歩くほど少なくなるので、この数値はそれほど実態から外れているとは思えない。ま、あまり歩き過ぎないように気をつけなければならないとは思っているのだが、コロナ禍が終るまでは、旅に出かけることもままならぬ状況なので、今年も年間600万歩をクリアーできるのではないかと思っている。

   

我が歩きの記録。毎日これを記すのを楽しみにしている。左から日・曜・今日の歩数・今月の累計歩数・今月の平均歩数・今年の通算日数・今年の累計・今年の平均歩数を記録することにしている。一番右は天気と簡単なできごとを記すことにしている。これはもう20年以上続けている。

 

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コロナ禍の中、或る一日の我が歩きの紹介(1/2回)

2020-06-07 00:13:17 | 宵宵妄話

 新型コロナウイルスでの自粛要請が始まって以降、ただじっとしているだけでは運動不足で、自分的には健康管理上大問題となるので、毎日の歩きを増やすことにして取り組んでいる。何しろ30年来の糖尿君とのお付き合いは、運動不足を強く戒めるものと理解しているからなのだ。普段も毎日10km前後の早朝と日中の歩きを継続実践しているのだが、自粛発令以降は、日中の歩きは止めることにして、早朝だけに歩くことに決めた。その分、距離を少し増して13kmくらいを目ざすことにした。暇にまかせて、その中の一つの歩きぶりを紹介することにしたい。長いので、2回に分けて掲載することにします。

 3つ設定している歩きの基本コースの中に、利根川から鬼怒川を経由して常総市の端を通って我が家に戻るコースがある。普段は利根川まで行くことはしないのだが、コロナ禍で自粛令が出てからはチャレンジすることにした。このコースの歩きの概要を紹介することにしたい。

我が家は守谷市の北部に位置し、常磐道谷和原ICへは車で2~3分、関東鉄道の新守谷駅には徒歩5~6分の場所にあり、守谷市の北部・東端に位置している。我が家から利根川の堤防までは約4km離れている。我が家の裏近くを半地下の常磐道が通っており、その側道を行くと守谷SAに至り、更にその側道の先に堤防があるというロケーションなのだ。この堤防を上流に向かって2kmほど歩くと鬼怒川との合流点に至る。そこから更に2kmほど鬼怒川の堤防を歩くとそこで側道は途切れて、今度は堤防から離れて民家の中を3kmほど歩くことになる。その後再び鬼怒川上流の堤防に出てつくばみらい市に入り、少し歩いてから守谷市側に戻り、3kmほど歩いて我が家に戻ることになる。これがコースの概要だが、合計すると14~15kmくらいの歩きとなるのではないか。3時間前後の休憩無しの歩きとなり、ま、傘寿の老人にとっては、ややハードな行程となるのかもしれない。

 出発するのは早朝の4時半前後。明るくなり出すのを待ちかねて家を飛び出す。自分は日頃から昼夜逆転の暮らしをしているので、起きるのが苦になることはない。というよりも夜中は起きていて、もの書きなどの仕事が一段落して、さあ、夜が明けて来たから歩きに行こう、というのが日常なのだ。3月くらいまでは夜明けが遅くて、5時になっても薄暗い感じだったが、6月の今は4時過ぎると明るさが増して来て小鳥たちが騒ぎ始める。それが出発の合図となる。

 最初の守谷SAまではウオーミングアップの時間である。凡そ3kmを40分くらいかけて歩く。最初はゆっくり、少し経って速足気味とし、身体が温まったら、安定ペースに切り替える。SAを過ぎて、そこから堤防までは結構距離があって、500mほどもあろうか。家から堤防に到着するまで約50分かかっている。

   

常磐道守谷SA。(近くの陸橋から東京方面を望む) 右が下り車線。左が上り車線。

SAには上りと下りの二つの側道があるが、その日の気分でどちらを行くかを選ぶ。下りの方は常磐道を見上げながらの歩きになり、右手に浄水場や工場があって、あとは田んぼが広がるだけで変化に乏しいので、選ぶのは少ない。上り側は、下りとは対照的で、常磐道と高さが同じくらいの位置に側道があり、左手下方には樹木に覆われた河川敷が広がり、少し離れた場所をつくばエクスプレスの高架が走っている。この辺りの利根川は二重の堤防となっており、上りの側道は二つの堤防をつないでつくられており、それゆえ下りよりは高い位置となっている。下りの側には堤防は一つしかない。ま、この辺はグーグルマップの衛星写真を見ればお判り頂けると思う。

   

常磐道脇の利根川の表示板。この地点は河口の銚子から95kmほどの距離である。 

さて、利根川の堤防に届いたら、常磐道の下を潜って堤防を上流に向かう。右側には乳業会社の工場などがあり、その向こうに田んぼが広がっている。左側はかなり広い河川敷となっており、川の本流付近は樹木帯だが、そこまでにはかなりの距離があり、その広い河川敷を利用して何面かの運動場がつくられている。早朝なので、それが使われているのを見たことがないけど、車で来るのも不便そうな場所なので、利用度は少ない感じがする。それに大雨が降ればたちまち水没してしまうので、利用できる期間も少ないのではないか。ま、これはスポーツ競技とは無縁となった老人の勝手な勘ぐりではある。

    

利根川堤防の、上流を望む景観。左手にはグラウンドが整備されてあり、右手は工場と田んぼが広がっている。関東平野の広がりを実感できる場所でもある。

左手の運動場がなくなるエリア辺りは、只今洪水時の流れを良くするための樹木の伐採工事が行われている。早朝なので、機械が動いているのを見ることはない。無残に切り倒されて横たわる雑木たちを見ていると、邪魔者とはいえ何だか可哀そうな気分になる。残っている篠藪の中では鶯やコジュケイたちの鳴き声が姦しい。

 右手は、工場を通り過ぎて、間もなく麦秋を迎える何面かの畑と、田植えが済んで苗が育ち始めた田んぼが広がっている。麦畑の上空には幾羽もの雲雀たちの囀りが姦しい。田んぼの彼方は利根川のハケと思われる台地の際の森が広がっており、これを見ると多摩川のハケを思い出す。何千年もの川の流れが創り出す景色には共通のものがあるという証の一つなのだと思う。

   

田んぼの向こうに連なっている森は、利根川が長い時間をかけて削った台地のハケであることを証明しているかのようだ。

2kmほど歩くと、利根川と鬼怒川の合流点の表示がある。しかし、ここから見える流れは、既に鬼怒川になっており、利根川の本流は見えない。少し行くと「がまんの渡し」という史跡(?)がある。その昔、徳川家康公がこの地に鷹狩りに来られて、地元の素封家の家に滞在されていた時、利根川が大雨で増水し、江戸に戻ろうとしたけど渡しの舟を使うのが厳しい状況となった。その時、家康公に「何とか我慢して渡してくれ」と頼まれて、その役目を果たした場所がここなのだという。守谷市教育員会の説明板が草にまみれて立っている。しかし、その場所はどう考えても鬼怒川の位置にあり、利根川だとすると辻褄が合わない話となってしまう。その疑問は歴史を辿ると直ぐに氷解するのだが、その当時は未だ鬼怒川はここを流れてはいなかったのだ。江戸の洪水調整のために、幕府の治水に対する取組み姿勢はかなりエネルギッシュで、別の場所を流れていた鬼怒川を、大運河をつくって守谷近郊のこの地で利根川本流につなげるべく付け替えたのである。従って今自分たちが見ている守谷市近郊の鬼怒川は運河なのだ。この鬼怒川運河が出来て以降は、渡しは現在位置よりも少し下流の利根川に移され、そこが河岸として賑わったという。しかし、今はその跡形もない。

   

「がまんの渡し」の遺跡の景観。堤防の右下に場所を示すべく植えられた榎木の樹の一本は枯死していた。右に教育委員会の説明板が見える。

昭和の終戦後しばらくまでは、橋の無い道路をつなぐ交通手段として、川の渡しが普通だったことを知っている人は少なくなった。自分は県北に育ったので、この辺りの昔のことは全く知らないのだけど、戦後間もない頃、ロープを使った舟に祖母と一緒に乗って、久慈川を渡して貰った記憶が残っている。あれは昭和の21年の頃だったか。

その様なことを思いながら歩いて行くと、間もなく右手に常総地区の巨大なゴミ焼却場とそれを取り巻いてつくられている運動公園や宿泊・入浴施設などがあるエリアとなる。焼却場の余熱を利用した、ここの入浴施設には時々お世話になっている。コロナ禍真っ只中の現在は、入浴施設も運動施設も閉鎖されているのであろう。何となく力の入らない景色がそこにあった。(つづく)

   

常総環境センターの巨大なごみ焼却施設。ここは、守谷市だけではなく、取手市、つくばみらい市、常総市が共同で設立したものらしい。付近は運動公園としての施設や入浴施設などが造られていて、市民のいこいの場所となっている。

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