歴史は繰り返すというけど、汚職だとか違反だとかいう類の政治に絡む事件は後を絶たず、まさに繰り返されている。これを見ていると、もしかしたらこれは成功を過信した者の習性もしくは本性なのではないかと思ってしまう。いわゆる不正という社会違反に絡む事件は、何も政治に限ったことではなく役所や経済界などでは日常茶飯のできごとなのかもしれない。
しかし、やはり政治に関しては看過してはならないと思う。何故なら、政治の不正やルール違反は、即失政につながってゆくものであり、不断に生きている我々世間の大衆に、知らず絶大な悪影響を及ぼすものだからだ。昨今の政界の動きを見ていると、明らかに失政につながる事件が多発している感を拭い得ない。
それらの事件の中で、最も気になり不快感が怒りとなって膨らむのは、夫婦で国会議員となりながら、そのプロセスで地盤となる県の議員関係者に多額の金をばら撒いたという事件である。しかもその夫の方は、何と法を管理する政治家のトップである筈の法務大臣に任命されていたというのだから、開いた口が塞がらない。如何に世の中は建前と本音で成り立っているとはいえ、これほど世の中をおちょくった話はないではないか。大臣という名の国政の幹部が、金をばら撒いて当選し続けて、時間が経てば見識や能力がなくても順番にそのポジションが回って来るというのであれば、大臣を尊敬する者などいる筈がなくなる。今回の選挙違反の夫婦は悪質のトップクラスだけど、ここ数年の大臣の資質を問われるお粗末な者が如何に多かったか。呆れかえるほどだ。
これらの問題は政権を担当する政党や政府に問題があることは明らかだ。とりわけて政府と党の最高責任者である総理大臣の責任は大きい。党の実力者の力に押されてなのか、本人の好みなのか、大臣の任命のあり方が政治不信のレベルを超えてどんどん低下し、もはや軽蔑という状況に至っているのは、真に由々しき事態ではないか。勿論全ての大臣がそうだとは思わないけど、一人であっても不適者の存在を許される筈がないのだから、この任命責任は口先で遺憾の詫びを入れただけで済むものではない。もはや、総理大臣への信頼も地に落ちたと言わざるを得ない。
政治のことには極力関与しないことにしているのだけど、コロナ禍の陰でかなり不明の事件がうごめいているのを見ていると、知らず怒りのようなものがこみあげてくる。
政治不信は現政権に対してだけではなく、そのような不正を批判しながら何の改革も変革も為し得ていない、野党といわれる外野陣に対しても、ふがいなさに対する同じくらいの怒りがこみ上げてくる。野党全体をまとめ上げるパワーのあるリーダーがいないことが根底にあるのは明らかだ。野党各党の主義、主張など突き詰めて考えれば皆同じようなものではないか。末尾の主張にこだわっている限り二大政党など現出する筈がない。
政治家というのは、結局半端な成功者を思いこんで、今現在の自分自身の過信に気づいていない者の集団のような気がする。一人ひとりが過信者なのだから、集団が纏まる筈がない。謙虚さを忘れることで初めて政治家として成功することになるとすれば、この国の未来は一体どうなるのだろうか。
もう一つ気になるのは、選挙のあり方というのか、集票の構造である。今回の前法相出身選挙区での集票に関して、買収された側の県議会等の有力者が続々と名乗り出ているのを見ていると、何なのだこれはと思ってしまう。同時にこの実態は、この県だけの問題ではあるまいとの確信も持ってしまう。この政治という業界では、やはり金の力が絶大な要素なのだ。人が動けば金がかかるし、人を動かそうとすればなお一層金がかかる。選挙のコストは金に尽きるということなのであろう。利害関係を除外した選挙などある筈がないのかもしれない。そもそも普段の人間関係においても利害関係は必ず絡んでくるのだから、それは仕方がないとしても、金が集票の取引に絡むという手段は排除すべきである。それには、立候補者に「金を配っても無駄だ」と思わせる選挙方法を創出する必要がある。抜本的な選挙方法、あり方の見直しがテーマとなることを期待したい。
安倍一強の現政権も終わりが近づいていているようだ。今までに「有終の美を飾った」という政権がどれほどあったのかは知らないけど、殆どなかったように思っている。特に政権が長期となるにつれて、そのリーダーや周辺取り巻き連中の思い上がりは増大し、ついに足元を掬われたり、自ら転倒して泥沼から這い上がれなくなって一巻の終わりとなる。政治に功罪は付きものだが、功の方が多いタイミングでの引け際を見せて欲しいものだ。いや、もはやそれは失われてしまったのかも。