もしこの花の香りを感知できないほど鼻の力が衰えているとしたら、それは最早重傷という他ない嗅覚レベルだと思う。自分はかなり嗅覚レベルが衰えている人間なのだが、この花の香りだけは、それが僅かであっても拾うことができるので、まだ大丈夫だと思っている。
金木犀は秋という季節を象徴する花だ。それは香りの塊の花でもある。
この花の香りが、どこからともなく漂ってくるのに気づくと、ああ、秋も深まりつつあるのだなあと、この季節の到来を実感するのだが、今年は少し、否、かなり違って来ているようだ。穏やかにその季節の到来を味わう気分になれないものがあるのだ。自分はまだしも、何度も襲来する台風に痛めつけられて、この先の暮らしをどうやって立てていったらいいのか、途方に暮れる人たちが半端ではないその被害状況を耳にする度に、被害を受けた方々の家の周辺にも香っている筈の金木犀は、被った泥の中で一体どのような表情をしているのだろうか。そのようなことを想ってしまう。
毎年、毎年日本国のどこかで大雨や大風が吹き、想定外とも思われる被害が拡大している。西日本エリアが痛めつけられたかと思えば、今度は東日本エリアに未曾有の大雨が降って多くの河川が氾濫し、想像を絶する被害が続出している。一体何なのだ、これは。地球環境の変化や温暖化がその根源にあるというけど、それを止める手立てもない。人間がつくり上げた営みのスパイラルなサイクルは、もはや歯止めが効かない状態で、地球の環境を破壊し、滅亡というゴールに向かっているかの様である。この根源的な営みの仕組みを変えない限り、この動きは止まらないのではないか。この頃の自然災害の不自然な発生状況を見ていると、そのようなことを想ってしまう。
自分の住む守谷市は、三方を川に囲まれている。三つとも日本国ではかなりしっかりした河川の部類に入ると思う。利根川は日本国では大河の部類に入るし、それに運河を経由して流れ込む鬼怒川もかなりの暴れ大河といえる。もう一つの小貝川は、栃木県平野部の水を集めて流れ下り、利根川に注ぐ曲折の多い暴れ川である。これらの河川の治水には、多くのご先祖様が痛めつけられながらもそれこそ地獄から這い上がるような血と涙の滲む努力を積み上げ、何とか今日の平安を保てるようにして来られたのだと思う。それが今、いとも簡単に破られてしまう時代となってしまった。
4年前には隣の常総市で鬼怒川の堤防が決壊して氾濫し、街の中心街を初めかなり広範囲で住宅や田畑が被害を蒙った。小貝川は、今回はおとなしそうだったが、過去は何度も歯をむき出し暴れて洪水を起こしている。利根川は、今回は守谷近郊は黙って流れ下ったようだが、少し下流では溢水で被害を出しているし、鬼怒川が流れ込む守谷市近郊ではバックウオーターで、鬼怒川の水が利根川にスムースに流れ込むことができず、水かさを増して、孫たちが通う鬼怒川脇にある幼稚園の建物は床上までの浸水の被害を受け、しばらく休園の憂き目に遭っている。
守谷市は中心が台地の上にあるようなので、河川に近いエリアを除けば浸水の被害は少ないと予想されるけど、今回以上の想定外の大雨が降ったときにはどうなるのか見当もつかない。ハザードマップを超えるような浸水があったら、もはやこの世の終わりとなるのではないか。そのようなことも思ってしまう。
自分は今、会員が200世帯弱の町内会の会長を1年間の任期で受け持っている。この小さな地域社会を安全で安心な暮らしを保てるようにと微力ながら務めているところなのだが、幸いこの地は大水の心配はなさそうで安堵している。ハザードマップを見ても大丈夫のようだし、実際町内や付近を歩いてみても、どぶ川のようなものも見当たらないし、崖崩れが起こるような箇所も見当たらない。心配なのは、自然災害では何と言っても大地震だし、台風といえば大風や竜巻といったものが考えられる。町内会としては、何よりも大地震対策が肝要だと思っている。大地震には必ず人災が付帯するからである。その最大のものが火災であろう。地震と火事は自分達の町内では防災の最大のテーマだと思っている。
今回の大自然のもたらした大災害では考えさせられることが多い。評論家としての立場からは、大局・小局の見地からあれこれそれらしき批判や対策の意見を言うことはできるけど、いざ自分が当事者となったときに最も大切なことは何なのかを、人は考えておくべきではないかと思っている。それは自助ということではないかと自分は思っている。自分の命は自分で守るしかない。家族の命は家族で守るしかない。共助や公助を最初から当にしてはいけないのだ。TVや新聞などのマスコミは常に共助や公助のあり方について批判めいたことばかり繰り返しているけど、いざという時に本当に大事なのは、自分の命、自分のものを守るのは自分自身であるということなのだ。これを自助という。そして、自助というのは相当に厳しいものだということを知っておかなければならない。思っているだけ、考えているだけでは何の役にも立たないのだ。
今、守谷市内の道を歩くと、どこを歩いていても金木犀の香りが漂ってくる。多くの人たちがこの樹が好きで庭先や道端に植えているようである。この樹は大自然の怒りに触れて泥の中に沈められてしまっても、決してその香りを失うことはないのではないか。多くの被災地の人たちにも再起のための心の癒しの香りを届けてくれているのではないか。そのようなことを想いながら今朝の歩きを終えて家に戻った。
守谷市内の至る所に、今金木犀が香りを放っている。この季節を代表する花だと思う。