山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

日本三大虚空蔵尊に詣でる

2017-06-26 02:53:33 | 旅のエッセー

小学校の4年生の頃だったか、父に連れられて村松の虚空蔵さんへ十三詣りに行ったのを覚えている。その頃は滅多に乗れなかった汽車(田舎の列車は皆SLだった)に乗れるのが嬉しくて、前夜は興奮して良く眠れなかったのを思い出す。十三詣りがどのようなものかも知らず、父から何か説明があったのかも知れないのだけど、それはさっぱり頭には入らず、とにかく汽車に乗れるのが嬉しくて、当日は上の空でお詣りに行ったのだが、肝心の村松の虚空蔵尊のことは何も覚えていない。

十三詣りというのは、子どもが誕生してから十二支を一巡りして十三歳となった時、ここまで無事に育ったお礼に、知恵と慈悲の仏様である虚空蔵尊(=虚空蔵菩薩)が祀られているお寺にお詣りするという習わしであり、自分の住んでいた茨城県北部では、東海村にある村松の虚空蔵さんにお詣りするのが普通となっていた。水郡線から水戸で常磐線に乗り換えての父と一緒の道行きは、子どもにとっては学校の遠足以上に興奮する小さくて大きな旅だったのである。

そのようなことから虚空蔵尊という名前だけは知っていたのだけど、この仏さまの智慧のことも慈悲のことも知らずに育っており、そのお力が我が身にどれほど肖(あやか)り得たのか。それは今でも如何わしい状態である。それもそのはずで、お参りに行った以降は虚空蔵尊のことなどすっかり忘れ果てており、この歳になってようやく寺巡りの中で、少しずつ認知できるようになったというレベルなのだ。

今年の東北の春を訪ねる旅の中で、日本三大虚空蔵尊と呼ばれている、虚空蔵尊を祀るお寺の内の2箇所に参詣し、村松の虚空蔵尊と合わせてそれらすべてに参詣するのを得たという次第。尤も、この三大虚空蔵尊とか或いは三体虚空蔵尊とか言われているお寺にはいろいろな見方があるようで、もしかしたら自分が参詣した宮城県登米市の柳津虚空蔵尊は、違っていたのかもしれない。でも、もう一つの千葉県鴨川市の清澄寺にも参詣しているから、一応は大丈夫だと思っている。

因みに虚空蔵尊については、次のような取り上げられ方をしているようだ。

<日本三大虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂 ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺 ~ 福島県柳津町

・柳津虚空蔵尊 ~ 宮城県登米市

・日蓮宗大本山清澄寺 ~ 千葉県鴨川市

 <日本三体虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂(大満虚空蔵尊) ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺(福一虚空蔵尊) ~ 福島県柳津町

・朝熊山金剛證寺(徳一虚空蔵尊) ~ 三重県伊勢市

三大と三体とは区分のベースが異なっているようであり、この中で双方に共通して含まれるのは、村松山虚空蔵堂と福満虚空蔵尊圓蔵寺の二カ所だけであり、三大の方は4箇所となっているようだ。これらの中で未だ参詣していないのは、三体の中の伊勢の朝熊山金剛證寺だけである。こうなったら、これは近いうちにどうしても参詣して、漏れないようにしたいと思っている。

 

今度の旅では、偶々福島県喜多方市の道の駅に泊っていた時に、市内観光をする予定が、雨降りだったので面倒になり、近くに他にどこかいい探訪先は無いかと探していたところ、柳津町に日本三大虚空蔵尊の一つの福満虚空蔵菩薩圓蔵寺というのがあるのを知った。しかもピンポイント天気予報を見たら、なんと柳津町だけに晴れマークの時間帯があると出ていたのだ。その時三大虚空蔵尊というのに、東北ではもう一つ宮城県登米市に柳津虚空蔵尊というのがあることを知り、ならば今回の旅でそこへも参詣すれば、三大虚空蔵尊の全部をお詣りしたことになるのだと妙な挑戦心を起こしたのである。

この日はとにかく柳津町の虚空蔵尊に参詣することにして、雨の中を向かった。20分ほどで到着したのだが、不思議なことに、降っていた雨は途中で止み、何と青空が覗く天気となってきたのである。これは虚空蔵尊のご威光の現われなのかなと思うほどだった。福満虚空蔵尊圓蔵寺は、只見川の急流が抉り削いだと思われる巨大な岩石の上に建てられており、海の傍の村松虚空蔵尊とは違った、大自然の厳しさを思わせる場所にあった。道脇の駐車場に車を止めて、急な石段を上がると、威厳を備えた立派な本堂がそこにあった。境内には未だ少し残雪があり、この地の冬の厳しさを思わせた。本堂の中に入り、参詣を済ませたのだが、肝心の虚空蔵尊のお姿は暗くて確認はできなかった。よく分からないけど、もしかしたらここも秘仏となっているのかと思った。元々仏像にはあまり関心がなく、自分の信仰の対象は虚空蔵尊という仏様であり、それは自分の勝手なイメージだけでいいのだと思っている。これは信心という姿からはほど遠いものだと、そう思って納得している。

会津柳津の福満虚空蔵尊本堂の景観。左手には下方に只見川が流れていて、このお寺は岩盤の上に建っている。右手にも幾つかの堂宇が並んでいる。

そのあと境内を歩きながら、さて、村松の虚空蔵さんはどうだったかなと、改めて訪ねる必要があるなと思った。10年ほど前にちょっと立ち寄っただけであり、その後は忘れ果てているのである。もしかしたら、この身に僅かに縋りついていてくれている智慧と思しきものも、あの十三詣りの際に虚空蔵尊が授けて下さったものなのかも知れないのだ。ま、身勝手な感謝心なのだけれど、そんな気持ちになった。

この会津の柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺を訪ねてから5日後、今度は登米市にある柳津虚空蔵尊を訪ねることとなった。こちらの柳津も同じ字を書くので紛らわしいのだが、同じ地名なのである。全国には柳津という地名が幾つかある。こうなるとどうして柳津なのかというのが気になる。それで分かったのは、どうやら柳の木と川というのが絡んでいるらしい。津というのは港であり船着き場という意味だから、柳津というのは、川端に柳の木などがあった船着き場もしくは川港ということなのであろう。確かに会津の柳津も只見川が傍を流れていたし、この登米の柳津も傍を北上川が流れている。偶々その柳津に同じような虚空蔵尊を祀るお寺があったということなのであろう。

登米の柳津虚空蔵尊は、会津のそれとは違って、ややインパクトが少ない感じのお寺だった。杉やケヤキそれに銀杏などの大樹に囲まれた森の中に、小振りのお堂が一つ鎮座していた。その本堂は屋根が六角形か八角形状に造られているのが特徴的だった。お寺の入口に縁起が書かれていたのを読むと、ここの本尊の仏像は行基上人の作であり、その後弘法大師が立ち寄って、本尊の脇に大黒天と毘沙門天の2像を刻んで備えたとか。会津と村松山の虚空蔵尊像は、いずれも弘法大師の作というから、このお寺の方が古いのかなと思った。行基上人は、弘法大師よりも100年と少し早い生まれである。しまし、まあ、本当はどうなのかわからない。境内の一番古い樹でも、樹齢が400年ほどというから、歴史の真実を証するものは何もない。本尊は秘仏ということだから、見ることはできないし、弘法大師作の2像も普通では見ることが出来ないのだから、やはり、仏像など構わない方が正解のような気がするのである。なお、ここの説明書きでは、三大ではなく「日本三所の一」と書かれていた。

仏像のことなど忘れて、境内にあった水を汲ませて頂いた。この水の方が、今日の自分にとっては虚空蔵尊の恵みのように思った。いい加減なようだけど、仏様というのは、常にどこにでもいらっしゃって、人間の喜怒哀楽の出来事をまんべんなく見ておられて、必要な時にそっと手を差し伸べて下さる、そのような存在なのだと思う。拝んでも拝まなくても、信じていてもいなくても、そのようなことは一切問題にしない、それが仏様という存在なのだと自分は思っている。

登米柳津虚空蔵尊の景観。4月下旬だったが、境内にはまだ桜が咲き残っていた。ここは樹木に囲まれた環境にある。

二つの虚空蔵尊を訪ねた後は、やはり地元の村松山虚空蔵尊のことが気になり、旅から戻って1カ月ほど後に参詣してきた。久しぶりの虚空蔵尊は、以前と変わらぬ威厳ある佇まいだったが、途中の道にはひたち海浜公園などが造られていて、すっかり周辺の景色が変わっているのに驚かされた。人間のやることは移り気が多い。それが時代のニーズだとしても、果たして虚空蔵尊の教えてくれる智慧や慈悲に叶っているのだろうか。ふとそのようなことを想いながら、つい先日油断事故のあった原研のある東海村を後にしたのだった。

東海村にある村松山虚空蔵堂の景観。ここは右手300mほど歩くと海があり、その昔は白砂青松の自然の中にあった。境内にはこの裏手に三重塔も建てられている。

 

コメント (2)
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