無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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今年は1月にテレビ出演があった他はスカパー!とSSTVとDVDとBlurayでWild Lifeを体験した、位で終わった年だったが来年は「本当に何にもなし」になりそうで、怖い。それを考えると「リリースがあっただけでも有り難い」となる訳だが、まぁちょっと気分的に無理してる感は否めない。かといって今度は露出が始まるとずどどどどどっと雪崩のように情報が流れ込んできて消化できない。まったく、もっと均せないもんかなと贅沢な愚痴を言ってしまう。勝手な私たちです。

という感じで先日から言ってる通り、特別今年を総括する気分でもない。日本人としては大震災に触れなければいけないのだろうが、私個人としては影響があったのは最初の一週間位のもので、あとは空騒ぎを遠くで眺めていただけである。光が率先して復興のお手伝いをしているのなら頭が下がる。こっちは毎月細々と募金をしている程度なのであんまりコメントする気分にもならない。月並みだが、被災地の皆さんには頑張って下さい位しか言えないです。

一方でウンザリしたのが原発騒ぎで、、、いや、もうこの話題はいいや。情報機構が発達してもこうやって社会規模で亡霊相手にヒステリーとノイローゼが跋扈し得るというのはよくわかった。これは鬼のように根深い問題なので、今年はそれなりに取り上げてはきたがこれ以上は時間の無駄だろう。仲間がヒステリーやノイローゼから脱却する助けにすらならないのだから。気分次第ではまた触れるかもしれないが、極力避ける事にする。

ただ、このBlogに震災が与えた影響は結構大きくて。3.11以降500bytesスタイルを捨て1000字以上のエントリーが主流になってしまった。1日2回さくっと読み流せるのが売りだったのに…いや別に売ってなかったか。まぁ、光からの出力の絶対量が少なかった分、質より量という感じでやってきてしまった感も否めない。多分今年の無意識日記読み返したら1日じゃ足りないんじゃないのかな? 例えば1000字平均で400回更新したとすれば40万字で原稿用紙5,6枚どころの話ではない。モノ書きとしては物足りないが野良ブロガーとしては結構な字数だ。

でもやっぱり、500bytesの時と時間は同じだけしかかけてないからやっぱり中身は薄くなった、というか本題に入る前に時事ネタを挟むようになっただけなんだけど、その分私の日記っぽくなってしまったなぁ。


来年からどういうスタイルにするかは想像もつかない。新曲が出ない以上、この一年そうしてきたように、過去の曲を振り返り、光は今何をしているのかなぁと妄想を思い巡らし、帰ってきたらどうなるだろうと予想と期待を積み重ねる、という3段重ねで進むのだろうか。

まぁ、ネタが尽きるとは思っていない。2008年の夏はEXODUSの歌詞の話だけで3ヶ月続いたのだ。ああいう事が出来るのは、私に才能がある訳ではなく光の書く楽曲にその分量語るだけの構造が設えられているからだ。つまり、まだまだ書ける事はたくさんある。あとは私が書く気になるかどうかだけなのだ。

そして、その「書く気」が最大の問題になるのである。EXODUSの歌詞の話は、次に英語アルバムがリリースされた時に備える為、という分かり易い動機があった。事実翌2009年3月にはTiTOがリリースされ、その準備のお陰で滞りなくTiTOの歌詞の話に移れたのである。そういう"いい経験"は、時に後のモチベーションの低下を招く。「じゃあ次のアルバムが先過ぎて希望が持てきれないなら筆を動かす意味なんてないじゃないか」となるのが恐ろしいのだ。もっと率直に言ってしまえば、つまんない。

流石に今は読者数も減っている。ヒカルの活動期に較べたら6~7割位だろうか。商売でやってる訳でもないので多寡は気にならない。今読んでくれているあなたが面白がってくれてるかどうか、興味はその一点に尽きる。そしてその"あなた"の中には当然私自身も含まれる。何度も書いてきたしこれからも何度も書くだろうが、自分で読み返してみて面白いと思えなくなったら光が活動してようがしてまいがこのBlogは終焉を迎える。多分ごく自然に。私が飽きて書かなくなるから。

今の所は、その兆しはない。確かに今年の3月以降は中身も薄くなったし読むのに時間もかかるようになったが、読み返してみた時に「ああ、書いておいてよかった」と思える瞬間が多々あった。ならまぁいいじゃないか。上等とまではいかないが、全然駄目という感じでもない。今のスタイルは一言でいえば「ぼちぼち」である。恐らく、これくらいの力加減が、光が帰ってくるのを待つにあたっていちばん"長持ち"するのだろう、という本能の帰結であるような気がする。もっと面白く、と力みすぎても疲弊するし、かといって頭を捻らなくなればまたそれも書く気が減っていく。そこそこ読んでいて次もまぁ読んでみるかなと思える程度の内容は最低限確保する。マラソンのペース配分みたいな感じである。

ただ、こういう、「いつまで待てばいいかわからない」状態というのは、なかなかに御し難い。かといって、帰ってこないと仮定して書いていくのも気が進まない。だって本音は待ち遠しくて堪らないんだからね。そこまで嘘をつくのは感情のリアリティに欠ける。

第一、私自身が、書く事で待つ気持ちを制御しているのだ。こうしてなければなかなかいられないのである。

まぁ、そういうことか。

という訳で2012年も無意識日記は今迄通り続きそうです。どうぞ引き続き宜しくお願いします。コメントうただいた皆さん、返信できてなくてすいません。でも貴方方のお陰で、この場がぐっとより面白くなりました。厚く御礼申し上げます。そして、何も書かなくても心の中でツッコミを入れ続けてくれた皆様にも感謝。光への愛情の証は、日々ここで刻まれていきますので、みなさんどうか肩の力を抜いて光の人間活動を応援していきまっしょい。

でわでわ。たぶんまたすぐ更新すると思うけどね(^_-)

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起きてる間中ずっと何か鳴らしているような人間(私)にも、年に数回「音楽を聴いても何も感じない時間帯」というのがやってくる。まぁ大抵極度の疲労や寝不足の場合が多いんだが、いうなればそれは"メロディーのゲシュタルト崩壊"であり、ほんの短時間であっても、普段自然に、それこそ呼吸や睡眠の次に自然に(実際、トータルでみれば食事時間より音と戯れている時間の方が遥かに長いからな)営んでいる"音楽に耳を傾ける"という行為が、まるで何の意味もないような、"何で私は再生ボタンを押すのだろう"という気分になってゆく。

そうなったら音楽の種類に関わらず何を聴いても何も感じない筈なのだが、ヒカルの曲、とりわけ今年の場合はSC2の5曲を耳にすると、全く漏れなく心が潤ってくるのを感じた。メロディーがゲシュタルト崩壊している筈なのに、である。

特に歌メロに重点を置いているGoodbye HappinessとCan't Wait 'Til Christmasには本当にお世話になった。歌詞に重点を置いた嵐の女神は言葉の方がゲシュタルト崩壊していなければ素直に感動できるし、Show Me Loveはサウンド重視のスタイルだから音そのもののインパクトに感銘を受けておけばよい。しかしGBHとCWTCは完全にメロディー勝負の歌である。私がメロディー不感症に陥っている時ですらその症状を完治させてしまう強さがこの2曲にはあった。これは私にとって途方もない事だ。

確かに、もう数百回ずつ聴いている両曲だが、聴く度にまるでたった今初めて聴いたかのような元気のよさで「いい曲だねぇ」と呟きたくなる。夜道でホントにそう呟いてしまったのも1度や2度ではない。危ない人だな私。

これだけ威力があると、発売から1年以上経過していても殆ど関係がない。マニアだから無理してでも聴いているんだろう、と思われるかもしれないが、本当にに好きでついつい再生ボタンに手が伸びるのだ。

実際、今携帯プレイヤーを観たら再生回数1位がCWTC、2位嵐の女神、3位GBH、4位愛のアンセム、5位がShow Me Loveだった。嵐の女神が伸びたのは今年中盤に集中的にこの曲を取り上げた時に何度も聴いたのが大きかったようだ。この5曲は結局の所僅差であるし。

ちな!みに6位はHeart Station、7位はBeautiful World…って宇多田ヒカルばかりじゃないか…他のアーティストの新譜もちゃんと買って聴いてんだけどな。Dream Theaterとか。彼らの場合1曲が長い為回数はさほどでないが総再生時間だと結構行くかもしれない。あ、余談でした。

この、メロディーのゲシュタルト崩壊を食い止めてくれる魔力は、いつまで続くのだろう。もしかしたら、一生この輝きは持続するのだろうか。それなら、いいんだけど。次の光は大変である。これ以上の曲を復帰後すぐに、というのは無謀だろう。でも、光ならやっちゃってくれるかもね。


っていう期待の言葉を来年の今日も再来年の今日も呟いてそうで、怖い。まぁなんとかなるか。以上で、今年の無意識日記の定時更新を終わります~。ま、多分不規則な時間帯にまだ書くだろうから納めの一言は今回は省略しますわねーw

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――ただ、愛したと思った世界の姿が、「実はそうではなかった」と気がついた時の感情は、一体何なのだろうと想像するとそれは空恐ろしいな。考えたくもない。@i_k5:2011/12/28/1:14

"考えたくない"だなんてあんまりにも私らしくないので考えてみる。

反対側から見てみれば、その"世界の姿"は確かに私の心にあったもので、そして世界になかったものだ。この落胆と絶望は、絶好の創造の契機でもある。落ち込んでいる場合ではない。新しい局面を迎えられるのだから。

しかし、でも、だからといって世界に一度び"手を出して"みると、あれだけ心の中で明快だった世界の理想の姿が途端に消え失せる。確かに知っていた筈なのに、あれだけ鮮やかだった筈なのに、描いてみせようとすれば筆が止まる、声が途切れる。こんなことなら、手を出すんじゃなかった。

こんなことなら、手を出すんじゃなかった―そう思ってまた手を引っ込める。誰にも通じない、自分だけの言葉の世界、自分だけが見る風景にまた戻る。今ココにある世界からまた離れる。

しかし、それが現実なのだ。誰しもが感じるこの「表現の壁」は、誰も壊せないし誰もよじ登れない。ただ、最初から壁がない、世界とずっと仲良しのひともいれば、壁の切れ目や裂け目を見つけてすらりと通り抜けるひとも居る。その差は何なのかわからない。ただ運だともいえるし、運命だともいえるし、ただの運動に過ぎないのかもしれない。わからない。

世界と仲良しから更に進んで、世界に愛されるようになると、自分の心の中の風景を壊された上で、もっともっと大きなものを世界から背負わされるようになる。

宇多田ヒカルは、DEEP RIVERアルバムで、自分の心の中にある風景をほぼ完璧に表現し切った。それで終わりでもよかった筈だ。しかし彼女は、その所為で選ばれたのだ。世界に愛され、より大きな世界をその唇と指先から描けるようになってしまった。翻弄される運命。Sanctuary/PassionやPrisoner Of Loveは最早光の手の届かない世界ですら光の手によって表現されてしまっている。向こうからやってきたからだ。

偉大としかいいようがないが、それでもなお私たちの心には、世界の姿と心の風景の食い違いと、その2つが触れ合った時にいともあっけなく消え去る"私たちの方の弱さ"に、どこまでも臆病になる。それでも世界は待ってくれているのだ。生きてるうちに、出会えるだけ出会いたい。

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クリスマス・マンデーに基づいてCWTCの歌詞を検証していると、「そもそも"いい歌詞"とは何なのか」という根源的な疑問に辿り着く。

歌はひとまずメロディーと歌詞から出来ている。光は基本的にメロディーから、或いはコードから曲を作るがまずそれは言葉よりも先に音がある訳だ。しかし一方で、この歌の歌詞は斯くあるべきという見えない確信を内に秘めていて、そこに行くまでに大変な苦労をする。いつも締切間際まであーでもないこーでもないと頭を悩ませている印象だ。

そういう、作詞の「模範回答」みたいなものを心に抱けるのもそこにメロディーがあるからだ。直観力なのか理詰めなのか何なのか、光は"理想の歌詞"を追い求めれる。光にとって、即ち、"いい歌詞"とは、その理想に近づいた時を指すのだろう。

そのような"理想像"をもたない我々は、シンプルに「宇多田ヒカルはいい歌詞を書くなぁ」と感じる以外にない。そこには何らかの分析も有効だろう。

例えばとても有名なエピソードに、「藤山一郎は紅白歌合戦のラストで頑として"蛍の光"の冒頭を歌おうとしなかった」というのがある。これは、最初の"ほたる"の載るメロディーの流れが_〓→→となっている為だ。本来の日本語の"ほたる"の韻と詠唱、もとい、イントネーションは「 ̄〓→→」だから、それと合わないというのだ。

つまり、裏を返せば、彼にとって"いい歌詞"とは「メロディーが日本語の抑揚と一緒になるように書かれた歌詞」だったのだろう。

これは、普段から我々が感じている事だ。もし日本語の抑揚と極端に離れたメロディーに歌詞が載っていたら言葉がゲシュタルト崩壊してしまう。ひとつの意味ある単語として認知できなくなり、ただの音素の連なりに分解される。こういう歌は歌詞が奇異に感じられて、言葉が心に残らない。

宇多田ヒカルというブランドは、そういった"かつての常識"に全くとらわれない作詞を展開した。桑田佳祐や桜井和寿の作詞が革新的だったとよくいわれるが、ヒカルのそれは、「その気になりゃ英語で書くよ、でも今は日本語で書くよ」というニュートラルなアティテュードから来ている分、出来上がりの説得力の切れ味が違っていた。

ヒカルにおいては、藤山一郎のこだわりはさほど意味をもたない。AutomaticからGoodbye Happinessに至るまで何もその点は変わらない。『な・なかいめのべ・るでじゅわ』も『何も知らずにはしゃいで・たあの頃』も、発想の大元は同じである。まぁ、押韻主義とでもいおうか。

てことは、光の"いい歌詞"は結構壮大である。数々の押韻要請に総て適い、更にそれがひとつのストーリーとして意味をなすように歌詞を構築して初めて光にとって"いい歌詞"なのだ。そんなものを見いだせる確信が、光の心には最初からあるのである。

話が長くなった。続きはまた稿を改めよう。

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土曜日のエントリ【クリスマス・マンデー】はもちろん最初は冗談のつもりで始めたのだが、やっているうちにある事に気がついた。メロディーごとに、単語の当て嵌め易さが全く違い、しかもその傾向がくっきりと色分けされるのである。

いちばんすんなり嵌ったのは歌詞でいえば『私たちの季節はもうすぐ』と『二人きりのクリスマスイヴ』の箇所、ヴァース部分の最後の一節である。ここは、両方とも(曲がりなりにも)英語の構文に則った単語の並びを載せる事が出来た。

逆に、『長い冬は~旅の支度』及び『白い雪が~羽根を閉じる』のパートは英単語が載せ難く、結果としてただ日本語の音素を機械的に変換する単語を逐一当て嵌める作業となった。こうやると空耳アワーとしての面白味は薄くなる。

興味深いのはサビメロで、4回繰り返されるサビのうち、特に3回目の『会う度に距離は縮むようで少しずつ心すれ違う』のパートが他と較べて格段に嵌め難かった。それ以外はかなりスムーズに単語が載っていった。

これら諸々の傾向から何が読み取れるのか。光の作詞は英語と日本語2つの可能性が対等に在り、しかも必要とあればメロディーの方を変える事もできる立場にあるからその前提で完成品から作業過程を推測するのは難しい。

その中でいえるとすれば、CWTCのヴァース最初の2行は純粋に日本語詞を載せる為のメロディーになっていて、更に踏み込めば日本語詞が先にあってメロディーは後からつけたのかもしれない、逆に3行目は英語の構文に容易になりえる音素で成り立っている事から、もしかしたら最初は英語詞が載っていたのかもしれない、例えば仮唄の段階では英語で歌われていたのかもしれない、といった所だろうか。

3回目のサビについては、4回あるうちの起承転結の"転"の部分だから、展開部として"クリスマス"以外の単語で始めて聴き手を惹きつける効果を目論む必要があり、従って作詞のアプローチが他の3回とは根こそぎ異なっていた可能性もある訳だ。

結構複雑な話なので、私自身まだまだ整理がついていない。この話題の続きはまた稿を改めて、という事にしておこう。

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光の目撃情報ツイートがあった様で。東北でボランティアをしてる方、他人の空似なのか本人なのか知る由もないが、まぁだとしたららしいなと。

前も書いたように、ボランティアなんて光のワガママである。もし復興に貢献したいのならチケット料金が5万円位する復興支援コンサートを武道館でやれば一夜にして億単位の金が集まる。そういう社会的な力量を持った人間がひとつひとつ瓦礫の除去なんてしてるのは力の出し惜しみだし、自己満足だろう。

とまぁ予防線だけはっとくわ。勿論私がそんな"正論"になんか賛同する筈もなく。いや本当に復興支援コンサートやったらそりゃ5万円でも払って見に行かさせてもらいますけども。光はそんな風にはしないだろうからね。既に自腹で100万$寄付してんだし。親から譲り受けた資産でもない正真正銘自力で稼いだお金で。

何が言いたいかというと、みんなが書きにくい事は私が書くという事だ。家族も友人も住み慣れた街並みも総て流された人の傍を通りながらだと、ボランティアに参加できてささやかな幸せを感じているとしてもなかなか口に出し難いだろうし、そういう時間の使い方を"充実している"だなんて言うのは生活を取り戻そうと必死になっている人たちからみれば"気楽なもんだ、あんたにゃ帰れる家があるんだろう"みたいな感じかもしれない。彼らから感謝されよう、なんて思うのは難しいし、でもやっぱり遠くから手伝いにきてくれてる人が居たら嬉しいだろうし。結構感情的には複雑である。いや、ひとりひとりが一瞬々々に感じてる事はシンプルなんだけどね。感情のパースペクティヴがややこしいというか。私の文章も迷走している。

一言で言えば、私羨ましいんだろうなぁ。前に宇多田ヒカルってあんまり羨ましがられない、っていう話をした。「ババア、結婚してくれ!」と日本中の男性から(多分、女性からも)声を掛けられるが、「宇多田ヒカルみたいになりたい」と言うのは、歌手を目指すほんの少数の人間だけである。安室や浜崎みたいなカリスマではなかった。寧ろ、コアなファンがする事といえば光自身がくまちゃん好き過ぎてギガントに乗り込んでしまったように、ヒカルに対して同化したいという願望が強い。羨んで見上げるより、ひとつになりたい、一体化したいというような。その感情自体を抽象するのがくまちゃんで、っていう話は昔さんざしたな。

今の光は、東北かどうかはともかく泥だらけになって泥のように眠る日々を送っている。具体的な行動が何であるかは兎も角、それを聞いて私は「えらいなぁ」という感情より「いいなぁ」という感情の方が遥かに先に来た。羨望というより、もしかしたら嫉妬に近いかもしれない。多分、今の光は、自分からはそうは口に出して言わないだろうが、相当に幸せを感じていると思う。人間活動宣言は8月で、震災は翌年3月だったが、それの有無と関係なく、光は今充実した時を過ごしていた事だろう。羨みや妬みを浴びる生き方、それが人間活動の本質だとしたら、私は羨み妬みながらも光の幸せを感じて幸せになれる。やっぱり複雑な感情のパースペクティヴだなこりゃ。

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EXODUSの曲を聴いていると相変わらずいちばん肌に合う方向性のアルバムはこれだな~と再確認するとともに、"しあわせ"な時期にこれを作っていたらどうなっていただろう、と思う。

『今日はめっちゃ疲れてめっちゃ汚れたけどあったかいシャワーが浴びれて幸せ』という一言と『コートを脱いで中へ入ろう 始まりも終わりもない 今日という日を素直に生きたい』というテイク5の一節がシンクロする。『どんな自分が幸せです』、そう問われた時にこう答えるのだろうか。

21歳の時と今では感じる事も違うだろう。サウンドのスケール感も格段にアップした。それでも尚、光の作風の変遷は、トレイスのしようがない。前回のエントリーのテーマともかぶるのだが、こと作曲観においては、誰の背中も追ってないし、また誰も背中を追ってこない。ただひたすらこの宇宙が曲ごとに広がっていくだけだ。

曲作りとプロデュースにおいて、殆ど総て自らの力で何とかなると自信を深めたのがEXODUSだったと思っている。裏を返せば、この時期は極力誰の力も借りることなく独力で世界を作り込んでいたという事だ。本当にひとりだったのである。

今光の感じている"幸せ"に則れば、EXODUSのような作品は生まれないかもしれない。いや、音楽はいつも今を通り過ぎていくものであって、このようなたらればは野暮に過ぎるか。

EXODUSのもつ独特の肌触りは、また光が自力を証明したいと思った時に現れるだろう。それがまた、ひとりであることや"幸せ"からの距離を感じさせる事を強いるとすれば少しやるせなくはあるのだが。

今度はそういうサウンドを日本語でやってみても面白いかもね~。私と同じように感じる人がどれ位いらっさるか、それがわかるかもしれないからね。

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年の瀬だが、何しろ今年は総括する事がない。WILD LIFE DVD/Blurayが出て、In The Flesh 2010がリリースされたなかった事だけだ。そうか、あれから2年が経とうとしているのか。

といっても特に思い出話に耽る気も起こらない。何だかんだで「これからどうなるのだろう」という事にばかり興味が行ってしまう。あんまり過去の栄光とか気にしない、というかできないタチなのだ私ゃ。

過去の栄光という切り口でなら宇多田ヒカルはとんでもないものを持っている。そこらへんのライブハウスで20人も観客を呼べば"凄いもんだなぁ"と私なんかは思ってしまうし、CDを百枚単位で売ってるなんて話を聴くと"才能あるんだねぇ"と感心してしまうが、宇多田さんはそういうのの歴史上の頂点なのだ。しかも親子揃って。もうそれだけで食っていけよと言いたくなる。いやきっともう一生遊んで暮らせるだけの金額は稼いだのだ。使ったかどうかは別として。

なのでヒカチュウの普遍的且つ永続的なテーマは「いつやめても生活に困らないHikkiが歌い続けたくなるにはどうすればいいか」に昔からなっているのだが、近年益々どうすればいいかわからなくなっている。なんだかひたすらくまくま叫んでいるのがいちばん効果的な気すらしてくるのだ。イヤまぢで。

それだけ光の泰然自若(というのもちょっと違うんだけれど)ぶりを知っていると、まぁそれはこちらが無理しなくてもそれなりのペースで歌ってくれるだろうな、という安心感はある。またいつ倒れるかわからんが。自重しろよ。

多分、今後モチベーションが最も変化するのは、こどもを生んで(養子を貰ってもいいわね)育てた時である。物心ついた頃に光の子は母が誰であるかを知る。その時にヒカルは売れているだろうか落ちぶれているだろうか。

光が藤圭子について語る時、そこに過去の栄光の話は殆ど出てこない。唯一?取り上げるとするなら蓮見に行ってた時に言ってた「年配の人はみんなママを知ってる」という事位か。いやそれも大きいっちゃ大きいんだけど、圧倒的に光の心に残っているのは美しい容姿と凛々しい後ろ姿、そしてプロフェッショナリズムである。光が子を持った時に、自分も同じような背中を我が子に見せたい、と思うならばそれは最高のモチベーションになるだろう。

その時、吾子は他人の母への評判を気にするだろうか。会う大人全員が(いやホント全員だと思うよ)、「あなたのお母さん、昔とんでもなく凄かったのよ」と話し掛けてくるのだ。その時に、「今も凄いけど」とちょこんと付け加えて貰えるかどうか。私なんかはこれ考えると胃の痛くなる思いだが光はどう感じるかな。そこは出来れば、現役で居るなら売れておきたい、なんて色気が出てくるのかな。今の姿からはちょっと想像できないけれど。

まぁ、今夜は余計な事を書いた気がする。でも、下世話だから真理でもある。お母さんとして吾子にかっこつけてみたいと思うのはいじらしくて可愛らしい。いやあまりにもスケールでかすぎるんですけどね。旦那さん大変だろうなぁ。

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まさかクリスマスにツイートがあるとは思ってなかったのでちょっとあたふたした。でもまぁ案の定クリスマスカラーの皆無な内容だったが。

『クリスマスでござる』。恐らく、文面にもある通り、肉体的に疲弊した状態で書いたのだろう。語尾の"ござる"は結構万能で、"何て言っていいかわからない時"に用いると効果的だ。その分何も伝えないのだが、挨拶の為にはこれで十分である。

他にもいろんな分析があったな~。時間制のインターネットってことは外国だろう、時差を考慮してカレー食ってる事考えたらインドじゃないか、みたいな感じで。光も自分の書いた文が情報を持っている事は百も承知だろうから、多分書いても追尾できない場所に居るんだろう事は推測できる。

『あったかいシャワーが浴びれてしあわせ』であるからにはあったかいシャワーが出なかった事もあるのだろうか。そもそも、一人旅先で『めっちゃ汚れ』るだなんて何やってたんだろう…と考え始めるとキリがない。

ひとつ言えるのは、くまちゃんが出てこなかった事だろうか。ツイートでくまちゃんに触れないのなんてよくある事だが、この一人旅の感覚は"本当に一人"という感じが強い。「いかにも人間活動らしいなぁ」と素直に言ってしまいたくなる。

日本の家に帰ってきたら「くまちゃん、ただいま」と言うのだろうかな。それなら、それでいい。

ボランティア、だとすると光らしいが、だとすれば随分な"わがまま"だろう。光の場合、公共性とか利他性とかは考慮に入れない方がわかりやすい。やりたくてやっているだけだ。そして多分それは、宇多田ヒカルの活動としては非効率的で、その故反社会的ですらあるだろう。だから、それがいい。これは最後になるかもしれない夏休み、冬休みなのだから。常人だと有り余る資産を持ちながらネットが一時間いくらの場所にわざわざ汚れに出掛けるなんて発想は出てきても実行に移し難いかもしれないが、光は現にやっちゃってる。こうしてるうちにまた人生により納得できるようになる。いいことだ。まぁ、のんびり待っていよう。

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今週の無意識日記のタイトルは英語ばっかで意味不明だったなー、と思っていてくれた(数少ない)そこのあなたっ。ありがとう!

今からその種明かしっ!

(註:携帯からはたぶんリンク先にアクセスできません、ごめんなさい)


実は、こうなってこうなってたんですねー。全部続き物になっていたのでした。
バカバカしいでしょw(あ、リンク先で再生ボタン押してね)


え、意味不明なまんま? そりゃすいません。
じゃあ今度は、これを読みながら、もう一度、
こうなってて、こうなってるのを聴いてみてくださいな。

、、、おわかりですね?(笑)
バカバカしいでしょー(笑々)


もしリンクが巧く開けない人は、こちらに直接飛んで、
↓の英文をコピペして再生してみてください。
全文いっぺんだと文字数制限オーバーするので、半分くらいで区切って。


Christmas Monday matters say night day, it was learning, took it got, a suit guilty you could.
Now a demon night him all, so burning it tight no, I'm already ah loving you.

Now a guy who you warn any owe more. Her room in a rave arm in arm turn be no see to cook.
What a shit our cheat know kissing two or more so good.

Christmas Monday matters say night day, March & June got king mini call it she'd tell.
Cut quartz can I dare. What a thin normal day ware, I'm already ah loving you.


She'll roll in you kick god yearn mountain to two moon.
What early doll league got she bashed her nail on tall gel.
Who telling killing no Christmas Eve.

Outer been knee, curing warm, a cheap gym you're owed day.
Score season two, coke or law, soon retching gown.
You're cool so cool god you're in mall, in man knocking marching on, kicking tact way, ah.

Christmas Monday matters say night day, heat of one now they, are sworn, owing cock yell.
Tie sets not hit a war, tie sets to need through, so let dog end day,
ah, eat in death. I'm already, ah, loving you.



それでもわからんヤツぁ、↑の英文を自分で声出して読んでみるんだなっ(無駄に逆切れ)


というわけで、私からのクリスマス・プレゼントでした。(こ、これがかっ!?(笑))

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今日のNHK-FMは「新世紀女性アイドル三昧」を放送中だが、もしヒカルが16歳の時にこのテの番組があったら掛かっていたのだろうか。無理だったかな。やっぱり宇多田ヒカルといえば「超本格派アーティスト」であって、アイドル扱いは何となく失礼、みたいな風潮もあった気がするし。まぁヒカル本人は女性アイドル大好物ですが。

にしても、そういうのはもったいないなぁ、と思う。じゃあアイドルの唄っている歌は何らかの意味で"格下"なのかといえば全くそんな事はなく、寧ろ超売れっ子アイドルはお金持ってるから優秀な作曲家を雇える。即ちいい曲が沢山あってもおかしくなかったりする。勿論唄は下手なのだが、そんな事言い始めたら日本人のPops歌手全員宇多田ヒカルより唄が下手だ。程度問題というのが実際だが、じゃあどれくらい唄えればいいのかというと別にコンセンサスがある訳でもなく。言い始めたらキリがない、というのは変わらない。

他にも色々あるな。アニソンだからと馬鹿にしてハナから耳を傾けなかったり、私英語わからないからと洋楽を避けてたり。私だってわからんわ。とにかくまず話題になってるんなら聴いてみて、判断はそれからでも遅くはないだろう。元気の素は、ひとつでも多い方がいい。

私の場合自分の事をリスナーとしては"デスメタル世代"だと思っている。もっと一般的には"ブラックメタリカ"世代という事になるが、メタリカが完全にオーバーグラウンドのヒーローになると共にそこに空いたアンダーグラウンドの座に犇めいたのがデスメタルやらなんやらかんやらである。あれ、この話長くなるな。端折ろう。

要は、私は嫌いな音楽ジャンルがない、というか、最も積極的に嫌われるであろうジャンルのデスメタルと共に育ってきた為、"もうあとがない"、のである。

ヒカルの嗜好の広さは皆さんよくよくご存知だろう。本当にあらゆるジャンルを聴いている。アイドル歌謡にだってアニソンにだって偏見はない。クラシックのコンサートにも行くしブルーノートにも足を運ぶ。日本昔話のテーマソングは魂の楽曲だろう。そこまで心の広い光も、デスメタルの話はした事がない。私の勝手な直感だが、光はああいう発声を受け入れる気がないような雰囲気だ。ラップは全然アリだけど、ディストーション・ボイスはダメ、ということらしい。いや、らしいっつっても訊いた訳じゃないけれど。

光の広い心から漏れる音楽ジャンルが存在するとすれば、これは結構大変な事である。音が鳴っている、とか耳が聞こえる、というレベルから喜びを感じられる感性の持ち主に存在を否定されるなんて。音楽の女神様からの寵愛を受けここまで数々の名曲を生み出してきた天才の琴線に触れない音楽。そしてそれで育ってきた人間がそれについて今語っている。なんか妙な気分である。

ここまで"何が言いたいのかよくわからないエントリー"も珍しい。博愛と嗜好、という普遍的な矛盾の話かとも思ったがそれもちょっと違うような。いやまぁ、いいか。ただ、人生の長さは有限なのだからそれでもいいか、と思った事だけは最後にこうして付け加えておこう。



P.S. 今夜は24~25時頃にもうひとつエントリーをUPする予定。

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年末も押し迫ってくると、光本人が色々言っていようが、やっぱり彼女の声で歌われた"応援歌"を聴くと、元気が出てくる。

Kiss & CryはFreedomのテーマソング(って言い方でよかったっけ)で且つ日清カップヌードルのCMソングだ。シングル発売時は一曲目のBeautiful Worldもまたアニメーションをバックに流れる(なんか短いPVで)曲だった為、図らずも、かどうかはわからないが2つともアニメ関連、という印象が、あるようなないような。コンセプチュアルなシングルという感じがしなくもない。

しかし、内容は結構路線が異なる。BWはひとり少年に焦点が当たっているのに対し、キスクラは不良と優等生と先生とお父さんとお兄ちゃんとお母さんが出てくる。より多くの人に共感を得られる、キプトラと同路線である。キスクラとキプトラはタイトルが韻を踏み合ってるって話したっけか。したな。

勿論、共通点もある。『どんなことでもやってみて 損をしたって 少し経験値上がる』『少しケガをしたって まぁいいんじゃない』『ちょっと傷ついて あきらめないで 笑い飛ばしてがんばれ あとはしょうがない』『それでいいけど』『別にいいけど』と並べてみると全然違和感なく混ざる。要はダメでもいいからやってみな、という事で、まぁいってみれば大抵は失敗するよと現実を突き付けてくれてる訳だ。で、それでもいい、と。愛だなぁ。

それに、この2曲はライブで絶対盛り上がる。BWはWLで証明済みだがキスクラはそれ以上に鉄板だろう。この曲はデカい音で聴けば聴くほど映える。なにしろ『鼓膜にあたるバスドラと 心地よく突くハイハット』である。宿直々々、高津区々々々である。(何の話やねん)

だから、本当にこの曲が与えてくれる"元気の大きさ"は、実際にLIVEで体感するまで待たねばならない。まぁできればその時ヒカルが曲の前半で歌詞を間違えて照れながら『少しミスをしたって まあいいんじゃない』『恥をかいたってかまわない』『あれはしょうがない』とか替え歌を歌ってくれれば、非常に萌え倒せるんだが。いつの日になることやら。

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記念すべき光の1000ツイートめは『我が父ながら激しく嫉妬』であった。

今夜はこのタイトルで「嫉妬」について書く事になったので渡りに船過ぎる。やっぱアイツここ読んでるな。奴ならこのタイトルを予測出来たハズだから。いや、でも何も知らずに照實さんのカプツィートから2日半経ったこのタイミングで書いたとすればそっちの方が凄いんだが。

まぁそれはさておくぜ。

前にくまちゃんが対岸の親子に対して抱いた感情は"嫉妬"なのかもしれない、と言いかけて控えめにその時は「という仮定もありえる」位のニュアンスに抑えておいたが、やはりあれは嫉妬であると断言した方がいい、のかな。やっぱ弱気になるわ。

というのも、光が嫉妬するケースってそうそうないのだ。フレディーの直筆サインを持ってるぜ的な自慢をしたとしても彼女が抱く感情は羨望程度である。羨ましがられはしても、別に妬まれない。嫉妬とは何より、「そこは私の席なのにっ!」という感情が必要不可欠である。自分が居るべき場所に他人が居座っている、おかしい、間違っている、そう思わなければ嫉妬ではない。

光は宇多田ヒカルという席にずっと座っていて、平穏無事にメディアの目を気にする事なく過ごせる学生時代を、まぁ少々羨みはすれど妬み嫉むようなことはなかった。誰よりも、自分の席はここであるという確信が強かったからだ。Deep River+の最後の方で呟いている通り、光は光の道を歩み続ける。そんなだから去年、三宅さんの10年前の発言を引用した記事に噛み付いたのだ。光は、イヤだなと思った事はあってもそれを後悔なんてしてないのである。誰も妬みようがない。

そしてくまちゃんは、光にとって感情の補完的存在である。くまちゃんは自信家で尊大であり、登場時から宅前に座って「カンタンだよ。出来るよ。」みたいな事を言っていた。あれ、正確にはなんつってたんだっけ。すまん、忘れた。

そういった甘さや侮りといったカテゴリーは光には、ない。他にも、カンシャクを起こしたり富と名声に目が眩んだり(1000円でだけど)と宇多田ヒカルからは程遠い感情を次々と表現してきた。

そんな中で、メッセ愛読者にとって最も強烈な印象を残したのが、仕事から帰ってきた光に対して「他のくまと会ってたんでしょ」と光を疑うくまちゃんの写真である。あれは息を呑んだ。あの写真こそが"嫉妬"なのだ。


…あとでリンクはっとくか…

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しかしこれだけ連日妄想を繰り広げていても光から新しい情報が入ってこない以上"実体・実態"と照合する事は出来ず、総ては宙ぶらりんのまんまだ。まぁ、わかってたことだけど。

色々と考えた挙げ句に光の新しい言葉とソリが合わなかったら、あっさりそれを棄てる踏ん切りが必要だ。棄てるといっても削除する訳ではなく、まぁ言ってみれば現実をモデルにしたフィクションを書いたと思えばいいだけの話である。或いは異なった世界線上のお話とか、言い方は何でもいいんだが、結局いちばん興味があるのは今を生きている宇多田光なのだから間違いは間違いである。

しかし一方で、そのような妄想・虚構自体もまた、こうやって文字にし人の目に触れる事でその実体・実態に影響を及ぼすという側面も存在する。特に光本人が某かの経緯でウチのエントリーを読んで、『あぁ、今までそんな風に考えた事なかったけどそう捉える事もできるかぁ』と思った時に、この虚構だか何だかわからないものの描写は効力を発揮する。虚構自体はどこまで行っても虚構だが、虚構の描写は現実を変える力を持つかもしれない。虚構の描写は実体であり虚構ではないからだ。いや"構"って漢字が入ってるから描写って意味まで含むかな。なら妄想、想像って言い方でいいけれど。

光の目にとまる所まで行かなくても、これを読んだ読者諸氏がその考え方に基づいて、或いは共感してくれて光にメールを送ったりなんかしてくれると、遠因ではあるがやはり現実に影響を与える事がある。多分に傍観者的なスタンスをとる当欄だが、こうやって文字にして発信している以上ただの傍観者たりえず、その"中"に巻き込まれてしまっているのだ。インターネットって素晴らしい。

まぁ、とはいっても、今の光はインターネットを利用しているかどうかすら定かではないのだから、そんな当て所ない事は差し当たっては考えず、まず今読んで面白い事をただ書き続けると致します。書けてるかっていうと、うーん、だけれど。

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