無意識日記
宇多田光 word:i_
 



触れるのが遅くなってしまった。先週末にYESのクリス・スクワイアが亡くなったそうだ。May he rest in peace.

前も触れたように、日本人はベーシストに対する評価が低い。それも念頭に置いてやや大袈裟に言えば、20世紀を代表するベーシストが逝ってしまったと言っていい。ロックの世界では彼より大物となるともうポール・マッカートニーくらいしか居ない。彼の方が年上だが、出来る限り頑張って欲しいものだ。

クリス・スクワイアといえば、「i_が一生のうちで最も聴いた音といえば彼のプレシジョン・ベース」といえる我が尊敬するスティーヴ・ハリスに最も影響を与えた人である。分かり易くいえば祖父が亡くなった感覚に近い。リッケンバッカー格好いい。それに尽きる。昨年の日本公演行ってよかった。スティーヴ・ハウとともに、まだまだ元気だったのになぁ。

ホント、ライヴは観れるうちに観ておいた方がいいよ、うん。


で話の続き。今後法整備が進もうが進ままいが、音楽は「二次使用素材」としての価値を提示していく方が繁栄するように思われる。

ひとつは、昔提案した「全トラック・リリース」だ。最終的には我々は2チャンネル或いは5.1チャンネルにミックスされた音源を購入しているが、そのひとつ前の段階、例えば48トラックの状態で音源をリリースするような事は出来ないだろうか。

容量が大変だが、BlurayやUSBメモリ、microSDカードだったらアルバム一枚分位は行けるかもしれない。まぁまずは一曲分からかな。

つまり、カラオケもアカペラも、特殊なソフトを使わずにすぐに演奏できる形態。リミキサーからすればかなり便利だと思うが、需要はあるかなー。


Hikaruのスタイルだと、そういう"切り売り"にはあまり向いていないかもしれない。本人がまた、ミュージシャン同士の交流に対してそんなに積極的でないようにみえるのと同様、サウンド自体も「ひとりの世界」を作り上げている。

勿論、例えば“COLORS”のキーボードだけ抽出したトラックがすぐに手に入ったら様々な編曲が可能になるし胸踊る。中にはそういう曲も多い。しかし、何故だろうか、「これは盛り上がる」という直観がはたらかない。不思議だ。


一方、着うたやしゃべるスタンプ(だいたい昔の着ごえだよねこれきっと)のように、身近な生活の中で"使える"かどうかとなれば、こちらの方が親和性が高いように見える。歌詞に説得力のあるものが多いからか、Hikaruの歌声で歌われると納得してしまうからか、「Hikkiへの親近感」というのは、今の年代になっても消えていないような気がする。

ふむ。つまり、私の認識では、宇多田ヒカルという人は、楽曲を切り離されて評価されているというよりは、歌い手として、言葉の届け手として支持されていると。

確かに、それは「宇多うた」の時に感じた事だ。ヒカルの楽曲をヒカルの歌声と切り離した時にファンがどういう反応をするか。全体として属人的なのだ。

「しゃべるスタンプ」がどういうものか知らないので全くの想像で書くと、昔ヒカルも振る舞った事のある着ごえと似たようなものかなと。ただ歌をリリースするだけでなく、こういったものと絡めながらアピールしていくのも方法のひとつか。コンテンツ次第ではあるが、ヒカルがただ新曲の歌詞を読むだけのスタンプがあったら俺でも欲しい。ふとした時にまさに"ヒカルの呟き"が聴けるというのは魅力的だ。

私の偏見として、スマートフォン世代は娯楽の尺に対して厳しいのではないかというのがある。ゲームのようにのめり込んでしまえば別だが、ちらっと見たり聴いたり読んだりして面白くなければすぐ次に行ってしまうのではないか。ならば、例えばキャッチーな歌詞の一部を切り取って呟くシステムがあればそれは広告とコンテンツのちょうど中間に位置する事になるだろう。キャッチ・コピーと本物の(全部演奏すれば4~5分かかる)歌との橋渡し。適切な流さや提示方法、利用方法といった細部は詰める必要があるが、つまり、8年前の着うたのように、また"切り貼りされて利用される形態"でのリリースを一歩進んだ形で行う事を考慮してみるのは意味がなくもないんじゃないかとな。



ま、これだけ書いておいて私がスマホ・ユーザーじゃないって完全に詐欺だよねw

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言論の自由は、表現者が他者の言論の自由を侵さないと誓った上で得られる権利だ。「何言ってもいい」という意味ではない。だからこそ、一個人の言動がどういう影響を及ぼすかはその都度精査されねばならない。同じ言葉でも場末の酒場での愚痴と公の場での権力者の一言では侵害度に雲泥の差がある。即ち、言論の自由とはそれを死守する活動自体が主眼であって、寧ろそれに尽きるとも言える。結構堅苦しい営みなのだが、自由って本来そういうものだ。強い意志と地道で継続的な活動が無くては成り立たない。

筆が滑った。

サブスクリプション・サービスは、使い方によっては二次創作を一気に活性化する可能性もある。勿論現状では無理なのだが、「定額で著作物使いたい放題」くらいまでいければ、おおっぴらに二次利用が出来るようになる。もっとも、日本の著作権法に照らし合わせればかなりの不都合が生じるので法律自体を変えなくてはならないかもしれないし、国際的にどうなるかとなったらもう闇である。ただ、そちらに向けての一歩にならなくては、サブスクリプションとコミュニケーションを結び付けてシーンを活性化するのにも限界が来るだろう。何より創作に対する動機を高め実際の創作活動を増やすのが主眼でなくてはならない。経済的な成果はただの目印でしかなく、それはしばしば遅れ、時として的外れである。

そんな事言ってても仕方ないか。しゃべるスタンプってもうあるのね。じゃあ歌うスタンプやサウンドロゴスタンプももうあるかな。着うたですら「そんなに短く切り取った歌を売るか」という感じだったのに更にワンフレーズだけで売るともなればもうそれ以上は、という気がするがVocaloidってもうそれよりもずっと先なんだよね。初音ミクは藤田咲の歌声の切り売り、いやさ微塵切り売りである。それが世のクリエーターたちを大いに刺激してきた事はこの8年間を見れば明らかだろう。

何が言いたいかといえば、着うたにしろサウンドスタンプにしろVocaloidにしろ、他者の創作物を如何に生活の中や創作の中で利用できるか、というテーマの中でヒットしたものだという事だ。スタンプだって放っておけばただのアイコンだが、「会話中にこんな風に使えますよ」とガイドすれば途端に広まる。

つまり、創作を刺激するには、そんなに難しい事は要らないのだ。「こういう風に使えますよ」と提示するだけでいい。そして勿論「使っていいですよ」とならなければならない。

漫画の同人活動にしろDJのREMIXにしろ、二次使用の文化として注目を集め始めたのは80年代初頭以降からだから、既に30年以上の歴史がある。30年しか経っていない、ともいえる。そのうちの後半半分はインターネット黎明期である。法整備が整っていないのも仕方がないともいえるし、何モタモタしてんねん、という気分にもなる。しかし、ボーっとしてるうちに時は過ぎる。グレーだなんだと言っているうちにまずはやってみてそれから考えた方がいいかもしれない。

そんな時代に、昔ながらのスタイルで頑張ってきたシンガーソングライターに何が出来るか…という話からまた次回、かな?

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音楽の方も二次創作がない訳ではない。とりわけ、80年代以降は「DJとRemix」というのがキーワードになって楽曲をパーツ毎に再利用する方法論が広まった。

DJ(たぶん、この場合古き良き"ディスク・ジョッキー"という言い方はしないのだろう。"リズム&ブルーズ"と"アール&ビー"が異なるように、"ディスク・ジョッキー"と"ディー・ジェイ"は別物である)は御存知のように既存のアナログ・レコードを楽器のように操ってサウンドを構築するプレイヤーだ。それまでの意味での"演奏"は楽器によるものだったからこの発想は画期的だった。

Remixの方は、DJのようにリアルタイムではないが、既存の音源の切り貼りによって新しいサウンドを生み出すという点では同じである。そして、何より大きいのは、その手法に定型が存在する事だ。我々は毎度、"PLANiTb"という記号を見る度に"あのサウンドだな"と想像がつく。"Beautiful World"はAcoustica Mixだったので別物だったが、ラッセルはいつも同じ定型を使ってリミックスをしている。

これはとっつきがいい。例えばYoutubeに溢れているのは、"歌ってみた"の次にリミックスである。定型さえ学べば誰でも(は言い過ぎだが)リミックスによって新しい…それを聴くに値するサウンドを作る事が出来る。それがリミックスの魅力である。

そこまでなら漫画でいう"同人誌"と変わらない二次創作なのだが、こちらはなかなか求心力のある"市場"が、無い。漫画でいうコミック・マーケットのようなな。勿論同人誌即売会はコミケだけではないが毎年一般ニュースとして取り上げられてしまうあの規模は異常である。商業的な意味での"市場"とは異なる(寧ろ、積極的に一線を引こうとしている)空間ではあるが、いつのまにか企業ブースまでお馴染みになった求心力・影響力こそが…そうだな、"羨ましい"と思う理由だ。

例えばWebでサウンド・クラウドを探れば幾らでもリミックスが現れる。しかし、日本一国のpixivにその"勢い"でかなわない。昔に較べて随分落ち着いてるように思うが。かなわない、というより、その場が求心力を持っているという印象を内外に知らしめれるシステムになっていない、と言った方がいいかな。

これが、著作権に対する考え方、処し方の違いから来ているかどうかは正直わからない。ただ、流石にそろそろ"二次使用のガイドライン"みたいなものを(出来れば国際的に)制定出来ればと思うが、無理だろうなぁ。

極論をいえば、本来音楽なんてものは数学の定理のように全人類が自由に利用出来るようにするべきなのだと思うが、我々が愚かなのか何なのか、数学者に生活の保証を与えるようには音楽家を社会的に養う仕組みは整っていない。まぁ、話が大きくなり過ぎたな。


こういう状況でいち音楽家が「自由に二次使用していいよ」と言い出すのがいい事なのかどうかは、わからない。しかし、これも極端な話、オフィシャルで二次創作を選別して紹介出来るようになればその音楽家の求心力は飛躍的に高まる。何もしなくても毎週「Remix Of The Week」が出てくるとすれば全然違うだろう。



…ん? 別に俺が勝手に始めればいいのかな? うちの目次にはニコニコ動画とYoutubeの「宇多田」や「Utada」をキーワードにして新着順に検索結果を表示するボタンを設置してある。うーむ、やってみようかな。でも面倒だなー。取り敢えず保留で。考えとくわ。

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これまで音楽市場に関して「送り手」と「受け手」に大別して話を進めてきた。しかし、インターネットによる相互作用が強い現代では必ずしもこの区分けは万能ではない。

映画やドラマといった業界もそうだが、音楽業界はやはり楽器が演奏できるとか楽譜が読めるとか、そういった敷居によって送り手と受け手の区別がつきやすい。更に、著作権や出版権の委託の有無によってプロとアマの違いがわかりやすい。その為、送り手と受け手の間に"溝"のようなものが出来やすい。例えば十数年前、CCCDの導入で一悶着あったが、是非は兎も角消費者の立場に立てば猛反発を食らう事は容易に予想がついた筈である。あの頃は送り手側が受け手側に対して不信感を募らせていたのだ。そういう状況を、もともとあった"溝"が作り出していた。

これが全然異なっていたのが、漫画業界だ。これも、どちらがよかったという訳ではないのだが、コミック・マーケットに代表されるように、こちらでは「同人」という独自の文化が育まれた。二次創作という、著作権的にはグレーゾーン、ブラックゾーンといえる文化圏だったが、これによって受け手側と送り手側が地続きになった。それどころか、同人からプロになる例が多発した為、そもそも著作権を守る側である筈のプロの漫画家や出版社が、土壌としての同人文化を目の敵にする訳にはいかなくなった、いや、する訳がなくなった。

この文化状態がインターネットの相互性とマッチした。ますます受け手と送り手の間はなだらかになり、もうどこまでが公式の創作物かわからなくなった。版権絵、なんていう単語の歴史の長さな。

ネットとの親和性と著作権に対する態度は、音楽業界と対照的である。どちらがいいか、というのは容易に結論が出ない。お陰で、ご覧の通り、日本では音楽サービスだけが割高である。それは裏を返せば、創作物に対する対価がしっかり回収されている事の証明であり、それ故に送り手たちを守っている側面もある。漫画業界やアニメ業界の薄給はよく話題になるが、それは常に成り手に事欠かず代わりが幾らでも居るからだ。いやそれは大局的な話であって局所的な現実はきっと人手不足なんだろうけれど。

ただ、インターネットについて考えると、完全に音楽業界は立ち遅れている。受け手と送り手の相互作用で押し進められる文化の方がよりフィットするのは最早当然の事であって、漫画を発端としてイラストや小説、アニメにゲームといった二次創作(いやどれが発端かはいろんなケースがあるけれど)によって"盛り上がりを演出"する事については音楽業界は全く打つ手なしである。

しかし、お陰で音楽の"現場主義"が浸透し、コンサート興行が活況になっているのも事実である。どちらが正義か、という議論はあまり意味がない。何がしたくて、どうすればいいかというのをひとつひとつ見ていくしかないだろう。

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“はやとちり”の歌詞は何故"使い勝手がいい"のかちょっと考えてみる。

まず、明確に誰かに話し掛けている感じが強い歌が珍しい。あなただとか黄身、もとい、君だとかに歌いかけている歌詞でもその相手が目の前に居る感じはあんまりしない。"Making Love"なんかも、相手が誰であるかこの上無くハッキリしているが、どちらかというと"手紙に書き綴って思いを伝えている"のに近い文体・口調である。

これは単純に、歌っている最中に「あなた」からの反応がある事を装丁、違う、想定していないからだ。一方的な独り言なんだな。

"はやとちり"の場合、どこか相手の反応を期待している風がある。『フォローすればいいのかな』『ずるいじゃないかい』『好かれてしまうよ?』『嫌われちゃうよ?』『悪くないんじゃないかな』『随分話が違うじゃないかい』と疑問文系の節が幾つもの並ぶ。リスナーはこの呼び掛けに対して、どこか返事を考えてしまうというか、聞こえないセリフを想像してしまうところがある。

更に、曲の途中で急に態度が変わる。それまでさんざ「私こう思うんだけどどうよどうよ」系のセリフで来ていたのに『責めないで 間違った速度で走ってたんじゃない ただ今回はさ ちょっと歩幅が合わなかっただけ』とやや受けの姿勢が歌われるのだ。ここなんかはリスナーに「ははぁん、あいだでなんか言われたな』とまたも想像させるようなシーンである。

だからまるでこの曲は、見方によっては人が電話をしているのを傍で見ているような雰囲気なのだ。相手の喋っている事は聞こえず、ヒカルの台詞だけでどんな会話をしているのかリスナーが補完していくような。

まぁ、もしかしたら相手のセリフを歌っているのかな?と思わされる場面もある。『勝てないような気がした オマエは強いし泣かない それは君の勘違い』のところだ。唐突なオマエ呼びは話者の変更を告げる―呼称と顔の向きの変化で話者のスイッチを示すのは落語だが、ヒカルはここを歌う時に視線を変えたりは…してなかったと思う。後で確認してみますか。そういやはやとちりってオフィシャルUTUBEにないよね。正式なPVが無いんだから当たり前か。

そういう場面もある、ってことで。

確かに、『理想主義の理論なんてうるさい』と『現実主義者にはわからないだろう』の二つの文は真っ向から対立する気がするので、ここでは話者が別々だと解釈した方がいいのかもしれんが…うーん、わがんね。

歌い手の話者の歌い分けがあるにしろないにしろ、つまり、この歌は明確に相手がそこに居ることを、少なくとも想定はした上で歌詞を組んでいるから、人との会話に使いやすい言い回しやフレーズが集約される事になった。ある意味、宇多田ヒカルのレパートリーの中で最も異端な歌かもしれない。だからこそ照れ隠しにリミックスをアルバムに収録したのかもなぁ全く乙女心は複雑だぜ、なんて風にも思った。三十路超えた今だったらどんな歌い方とミックスにするかな。アイデアだけでもヒカルに訊いてみたいもんである。

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数週間や数ヶ月に一度だけ呟いてまた引っ込む、ってどんな感じなんだろ。普段は呟きはしませんが読むのは読んでますよ、っていうアピールなんだろうか。ニース風サラダっていうのね。ふーん。

ネットから離れた生活を送る贅沢もどこかの時点で満喫したのかな。水を汲みに川まで桶を運んでいく生活を今更送りたくないのと同様に、ネットのない生活を送ってみるのは電気もガスも水道も遮断してキャンプを張るような、まぁ娯楽的要素の強い話にはなるだろう。

元々ヒカル本人はそんなに新しいモノ好きでもない。電子書籍が検討されだした頃も「紙の本がいい」と言い切っていた人だ。気にしない私からすれば「両方使えばいいじゃない」だけだったのだが、今のヒカルは電子書籍を使っているのだろうか。本の手触りや匂いも含めた"読書体験の質"にこだわるなら紙の本の方が言うまでもなく相応しい。そのこだわりっていつまで続くのかな。結局、そういう風にして読みたいと思える本が新しく出版されるかどうかにかかってると思うんだが。

それを言ったら、ヒカルのCDの装丁の味気なさは何だったんだろうか。幾らでもブックレットに凝れた筈なのに、歌詞とクレジットが淡々と載せられているだけ。Single Collection Vol.2で漸く装丁に参加するようになったが、まだまだだろう。しかし確かに、邦楽CDの味気なさはそれが主流だったのであり、ULTRA BLUEの歌詞カードの程度であっても「随分と工夫された歌詞カードだな」と評価をされたのである。

本の重みや手触りや匂いまで含めての読書体験だというのなら、音楽鑑賞のセッティングにも同じかそれ以上にこだわってもよかったはずなのになかなかそういう流れにならなかったのは、つまりヒカルにとって音楽を聴くのはもっと気軽なものであり、ipodに放り込んで後は音を聴くだけ、みたいな風に使うのが標準なのかもしれない。

SCv2で少し潮目が変わったのは、点線を編集した経験も多少影響があったのだろうか。編集長として、フォントや紙質といった部分でこだわりを発揮した。それをそのままCDのジャケット制作の局面でも応用した、と。ずっと読者だった人間が編集長に就き読者視点から装丁を整備したように、音楽制作からいったん離れた状態でいちリスナーとして音楽に接する時間が幾らか確保できたというのなら、次のリリースの体裁でそれが活かされるかもしれない。あっちからもこっちからも見てみる事ってやっぱ大事なんだよねぇ。

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iphoneのイヤホンジャックにゆで卵の黄身が詰まった時の対処法は簡単だ。そのまま放置。以上。

大体、コードありイヤホンなんてもんを使うからいけない。ワイヤレスを使えば黄身が詰まろうが白身がつまらなかろうが何の問題もない。iphoneならBluetooth標準搭載だ。素直にBluetoothイヤホンに乗り換えよう。モノによってはなかなかの音質のものもある。いや音質気にする人がiphoneに直挿しで音楽聴きませんけどね…。

でもいちばん不思議なのは、サラダに落下したくらいでイヤホンジャックに黄身が詰まるか? よっぽど液状になっていたのだろうか。いやそれだったら逆さにしときゃそのうち全部落ちるよね。謎だ。寧ろ『慌てて拾って拭いた』その時に自らの手で穴に黄身を詰めてしまった、と考えるのが自然だな。自業自得ですね。

これを機にHikaruもコードレスライフに突入したら願ったり叶ったりだ。願った覚えないけれども、気分的にはね。何をするにも音楽聴きっぱなしでいられる贅沢さを味わえばいいと思うよ…。


コードといえば。あまり関係は無いのだけど、カタカナだと全部同じになってしまうので同じ単語だと勘違いされる恐れがある、"コード"と読める英単語は3つあるのだ。御存知だろうか。

ひとつめは今話題にに出た"cord"。本来の意味は「紐状のもの」である。他の言い方をすれば「ケーブル/cable」かな。「脊髄」とか「脊索」とかいう意味もあるようなので、語源はこちらだろう。

ふたつめは"code"。「符号」とか「暗号」といった意味である。「プログラムのコードを書く」という時のコードはこれだ。本来は規則とか法典とかいった意味で、「ドレスコードのあるお店」とか「放送コードに引っ掛かる」といった時のコードもこれである。

みっつめは"chord"。音楽でいう「和音」の事だ。「コード進行が同じ」とか「コード違いの同じメロディー」という風に使う。今辞書を見てみたら「脊索」の接頭辞が"chordoma-"っぽいので、"cord"と同語源なのではなかろうか。紐と和音がどう繋がるか謎だが、もしかしたら弦楽器のイメージでも重ねているのか。弦は普通"string"だが、super-string-theoryのことを「超弦理論」とも「超ひも理論」とも言うのだから言葉としてのニュアンスも近いのかもしれない。それより多分、chordが「和音」なのだから「和声」を意味する"chorus"との繋がりを考えた方がいいだろうかな。


という感じで、カタカナにすると同じになってしまう「みっつのコード」の話、如何でしたでしょうか。「コード要らないじゃん」て書き始めたのにどうしてこうなった俺。話の展開が高度過ぎて購読するのも躊躇われるわね…ってこのブログ無料で読めますがな。そう、購読って「買って読む」って意味だから立ち読みの時とかには使わないでね~。以上、大きなお世話でしたっ。

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サウンドスタンプとして切り出して面白そうな歌って他に何があるかなと考えてみた。


『tatalu♪ tatalu♪ tatalu♪ tatalu♪』(何かホラーテイストを出したい時に)

『ここからずっと送ってる暗号 君はまだ解読できてない』(話が噛み合わない時に)

『それでいいけど』『別にいいけど』(逆に不満のある時に)

『今日という一日も最初から決まってたことなのか』(夜寝る前に不安がらせる為に)

『次の瞬間 もう朝なの』(寝落ちした次の日の朝に)

『あんたに何がわかるんだい』(活用場面多数)

『どうして同じようなパンチ何度も食らっちゃうんだ』(懲りずに失敗を繰り返す人に対して)

『山は登ったら降りるものよ』(登山で登頂して有頂天で盛り上がって写真を送ってきた相手に対して冷たく突き放すように)

『まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない』(会話を区切ろうとする相手を脅迫的に引き止める際に)

『まわらないタイヤが目の前に』(先行車がエンストした時に)

『早く虹色バスで私を迎えにきて』(送迎の連絡に)

『甘いお菓子 消えたあとには 寂しそうな男の子』(妹に棚に置いてあったおやつのケーキをとられたお兄ちゃんが恨みがましく)

『そろそろ部屋から出ておいで』(引きこもりの家族に…無闇に言っちゃイケません)

『だいたい君もずるいじゃないかい』(反論する時に)

『お世辞じゃないよ』(マジレスする際に)

『夢から覚めてまた眠りたいよ』(モーニングコールに二度寝で対抗する時に)

『随分話が違うじゃないかい』(随分話が違う時に)

『いつまで待っても損なだけなら出直してくるよ今はバイバイ』(待ち合わせをすっぽかされた時に)

『責めないで』(劣勢の時に)

『理想主義の理論なんてうるさい』(口げんかで負けそうになって意味ありげに言い返したい時に)

『現実主義者にはわからないだろう』(意味はよくわからないがなんとなくうそぶきたい時に)

『それは君の勘違い』(相手の誤解を訂正する時に)

『また私のはやとちり』(勘違いした時に)


………。


…………“はやとちり”最強、という結論に、なりました。『出直してくるよ 明日にバイバイ♪』…ではまた次回(笑)。

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ライブテーマパークというと、365日稼働していないといけないのかとか色々と考えてしまうな。今でも、ひとつのライブハウスが平日を毎日埋めるのに苦労している事を考えると現実はなかなか。ただ、例えば新幹線駅から徒歩0分で行けるとかなら連日地方参戦も有り得るし、一極集中による吸引力の増大は考慮に入れなければいけないだろう。ていうか俺多分近所に引っ越すと思う。年間パス買ってほぼそこに住みますよきっと。ある意味、そうやって人が集まって都市化する効果が侮れないかもしれない。ミュージシャンも当然その近くに住むだろうし。映画のハリウッドや舞台のブロードウェイみたいになったり、しないか。ラスベガスかな現実は。


ところでところてん。スマホを持ってない私だが、音楽サービスがLINEで始まるとして何が当たるだろうと考えた時、まず浮かんだのが「サウンド・スタンプ」だ。ただのアイコンを有料で購入して友達と会話中に送りつけるのが「スタンプ」らしいが、それに音声のついたヤツってあるの? 一昔前着うたという無茶なサービスが爆発的に当たった事があったが、今のスタンプブーム(という言い方が既に年寄り臭いのは何とかならんのか)にも似た空気を感じる。その絵に、一発ギャグの音声とかサウンド・ロゴがくっついたスタンプってもうある?

ヒカルがサウンド・スタンプを作るとしたらまずKUMA POWER HOURだろうか。クマ・チャームをデザインしたロゴにあのオープニング・テーマを再編集したサウンド・ロゴ。一種類じゃ飽きるから10種類200円くらいで無理かねぇ。

歌の一部だけ抜き出してサウンド・スタンプになっても面白い。『迷惑してるんだ~♪』は結構需要あると思う。『別に会う必要なんてない~♪』を西野カナスタンプの後に繰り出すのもお約束だ。うーむ、色々と使い勝手がよさそうだ。

…ってスマホ持ってないヤツが言ってても説得力が無いですね。ここは今LINEにどっぷりハマっている人たちのご意見が聞きたいところ。どうですか皆さん?

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今はCD不況と対比してコンサート事業の活況が取り上げられる事が多い。やはりフジロック以降フェスティバル形式が定着してコンサートを"お祭り"の一種としてみる意識が強くなった事が大きそうだ。もともとお祭り好きな国民性ならそれに火が点いたという事かもしれない。

こうなってくると誰かが手を出さないかな~と思うのが「ライブ・テーマ・パーク」なんだが、流石に誰もやらないかな。要は、ディズニーランドのアトラクションの代わりにライブハウスがどさっと並んでいるような場所である。或いは、シネコンのライブハウス版と言ってもいいかもしれない。固定された土地で、いつ行っても誰かしらのライブがやっているような、そんな空間だ。

興行とは基本的に旅回りである。サーカスだろうが歌だろうが何だろうが、芸人一座があなたの街に行きますよというのがそのスタイルだ。今もそのスタイルは受け継がれていて、野球場や競技場や会議場を間借りしながら全国を回るのがコンサートツアーになっている。

逆に「いつでもここに居るからいらっしゃい」というのが"テーマパーク化"だ。定点ライブのメリットは、ステージセットを運搬する費用が不要な為、豪華なセットを組むのが容易になること、また、高品質のサウンドプロダクションを維持出来る事である。

似たような例は幾つかある。ラスベガスなどでは長期契約を結び半年間毎週同じ場所でライブをするようなビッグ・アーティストも居たし、AKB48は秋葉原に根城を構えて"会えるアイドル"を体現した。定点ライブ自体は前例がある。しかし、それがテーマパークにまで発展した例は私の知る限り無い。

昔は交通事情が今より貧弱だったから興行側が旅回りする必要があったが、今は新幹線や高速バスなど長距離移動手段が進んでいる。特に、この日本は狭い国土に一億人が詰め込まれているのだからテーマパークの類は成功する可能性もある。もっとも、それも極一部で世の中には廃墟と化した空間もあるとかないとか。


ま、仮にそんな夢みたいな空間が出来たとして、ヒカルが契約したりするだろうかと考えたのだが、限定的なケースを除けばあまりなさそうだ。「そんなのわざわざ遠くに出掛けるの面倒じゃない」とツアーを選択しそう。しかし、過去には「ヒカルの5」「WILD LIFE」の二回、突発的にライブを企画し、その時押さえられた会場一ヶ所でライブコンサートを行った前例がある。それを考えると、今後似たようなケースになった時にライブテーマパークがあればブッキングもスムーズだしより多くの本数を設定出来るだろうし何かと都合がよいだろう。ヒカルの場合スケジュールが全く読めないから「困ったときのなんとやら」があったら非常に助かる。



…仮定の話に仮定の話を乗っけて書くだなんてまぁ虚しいのもいいとこなんだが。ただ、今のコンサート興行の隆盛がこのまま続くのかそれともここから衰退するのか見えていないだけに、何らかの新しい策は打つ必要があるだろう。そういうのも見極めた上で今後のライブ活動の方針を決めていくべきなんだわさ。

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結局いちばんのネックは「Bluetoothイヤホンの電池がもたない」事にあり、これが解決されるには技術の進歩を待たねばならない。電池が高性能化するか新しい給電方法が解決されるか、兎に角開発者の皆様に頑張ってうただくしかあるまい。私のように「じゃあもう一個買ってローテーションするか」なんて平気で言える人間は極々少数なんだから。

ウェアラブル端末が定着すれば、"パーソナル・カスタマイズ"は飛躍的に進歩する。今ある技術だけでも、GPSで位置情報を得られるのだし、また、心拍数や体温、血圧や体脂肪率まで計れるのだろうか、そういった情報も取得できる。更にGPSと組み合わせて天気や気温の情報も得られるだろう。日付や時刻は言わずもがな。

これだけ揃うと、ちょっと怖いレベルになってくる。例えば、「あなた"In My Room"は火曜日の朝に聴く事が多いですよね」なんて事も人工知能(までいかなくてもいい)に指摘して貰える。This Is Loveを聴く前と聴いた後の心拍数の差を計算し、「あなたこの曲聴くとテンションが上がるんですねぇ」とか余計な事まで教えてくれる。雨の日によく聴く曲や、深夜一時に聴きたくなる曲などありとあらゆる統計をとって教えてくれる。

ヘッドギア型のウェアラブル端末ならそのうち脳波まで計り始めるかもしれない。そのデータに基づいて「あなたはこの曲を気に入ると思うのですが…」とリコメンドされてきたらもうちょっと不気味ですらある。


いや、そこまで凝らなくていい。私が欲しい機能はただひとつ、「いいね!」ボタンである。ラジオなりストリーミングなりを聴いていて「これいいじゃん」と思ったらパッとボタンを押す。それだけ。後はそれがブックマークになって、あなたが何月何日何時何分頃に「いいね!」した曲は誰々の何々というアルバムに入っていて…というのがすぐにわかるようにデータ整理してくれてればいい。有料ストリーミングならそのままプレイリストに入れてもらって。で。出来ればそのボタンはイヤホンに直接つけて欲しい。ボタンを押す為だけに端末を取り出すとかポケットをごそごそ探るとかはイヤなのだ。耳にパッと触るだけでOKみたいなのが理想。


さて、何の話なんだっけ?(笑) Hikaruは歌詞にその時々のガジェットの名前を入れる事をしばしばする。PHSやブラウン管のモニター(液晶画面はFeel So Warmにはならない)、デジカメにMP3プレイヤーにハードディスクにブラックベリーにとまぁ遠慮が無い。歌詞を公表してこなかったこの5年は当然の事ながら何のガジェットも歌われていない。猫も杓子もスマートフォン、という今の状況をどう歌詞にしたか、或いはしなかったか、たらればを言っても仕方がないが、ちょっと聴いてみたかった気はする。

寧ろ読書家としてはKindleのような電子書籍端末の方が馴染み深かったりするのだろうか。或いは、可能性は低いがスマホゲーにハマっててそれについて歌うとか…いやそれなら真っ先にテトリスの歌作ってるわな。やっぱゲームはラブソングの小道具としてはムードに欠けるのかな。

いや、レトロなメカについて歌ってこそ郷愁がそそられるというのもあるかもしれない。真空管ラジオとかオープンリールデッキとか、最早アンティークだもんね。初代Macintoshとかもそういう匂いがする。歌を歌うんだったらまだその可能性の方があるかもわかんない。逆にポケベルとかだとちょっとまだ距離感がわかんないかもね。

ある意味、ガジェットに対する距離感も音楽の流行に似てたりするのかも。90年代は80年代がダサかったが、00年代に入ったら80年代リバイバルが云々、みたいなよくあるサイクルがあるじゃない。ガジェットも、一昔前はダサいけど二昔前ならアンティークでクールだと思われてたり。そういう視点でノスタルジックにガジェットを歌う歌がその時代の流行のサウンドを取り入れていたりしたらちょっと小粋な一品になるかもしれないな。あったら嬉しいんだけど、さてさてどうでしょうかね。

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6月30日からApple Musicによるサブスクリプション・ストリーミング・サービスが日本で始まる。暫くは様子観だが、こういうのとどうやって付き合っていけばいいのやら。

一応、既存のサービスと比較して値段や曲数やらが議論されているが、前々から書いている通り、スマートフォンが今のスタイルで普及している間は、少なくともここ日本では音楽ソフトは売れない。どんなサービスであっても。問題はソフトウェアではなくハードウェア、特に再生端末と無線ブロードバンド環境だ。

AppleはiTunesというソフトウェア、iTunesStoreというプラットフォーム、そしてipodというハードウェアを組み合わせる事で覇権を獲得してきた。今回のApple Musicの日本開始にあたって、そういった多角的な展開はあるのだろうか。つまり、サービスを提供したとして、最終的にいつどこでどう鳴らして欲しいのかという所だ。

バッテリーの問題もあり、外でイヤホンで音楽を聴く場合専用のプレイヤーを持っている割合が意外に多い。スマートフォンにイヤホンを差している人は多数派だとは思えない。そういった状況で、ネット接続前提のストリーミングサービスがどこまでウケるか。家や店舗でなら、今までの有線放送と何が違うのか。

ストリーミングサービスで肝になるのは、もう書くのも面倒になってきたが"パーソナル・カスタマイズ"だ。ユーザー1人々々に特化したサービスを提供する。その為には個人情報収集がどこまでいけるか、である。

まぁややこしい話は後回しだ。要するに新たなデバイスとして"Apple Radio"みたいなものを提供しないと日本ではストリーミングサービスが定着しないだろう。家で聴く安価な有線放送、みたいな立ち位置では爆発力は無い。Apple Radioを買って、電源を入れたらすぐに自分好みの曲が流れてくる位のスピード感で他の暇潰しツールを圧倒する位の迫力がないと無理。

いや、スマートフォンから次世代のガジェットに移行すれば状況は変わるだろう。Google Glassとかね。それまでは時期尚早という話。


なので、EMIレーベルはまだそんなに焦る必要がないと思われる。楽曲提供は構わないが、例えばストリーミングサービスで新曲先行配信とかをしたらメリット(好評)よりデメリット(不評)が上回るだろう。特に、ファン層が高齢化している現況ではもうどうにもならない。

まとめると、今のところ、たとえ国際的にSpotifyなどのサービスが好調であっても、利用事情・住宅事情の異なる日本ではサブスクリプション・ストリーミングサービスは成功する見込みがないから特に気にしなくていいですよ、と。これが例えば、車載サービスとしてナビと同梱で機能するとかだったらバカ当たりするかもしれんが。まだそこまでは行ってないよねぇ。そもそも、日本人そんなにラジオ聴かないんだよね。そこが欧米とのいちばんの違いだろうな。

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今の時代に求められている事は多分、「選択負担軽減」だ。あっちにしようかこっちにしようかといちいち悩むのが煩わしくて堪らない。

それは裏側からみれば、非常な娯楽でもある。レストランのメニューを開きながら「あれにしようかな、これにしようかな」と迷ってる間の方が、実際に食べている時よりも楽しかったりする。少し違うけど、遠足前夜とか旅行計画中とかも似たようなものだ。

恐らく、2つに別れるのだと思う。受動的なコンテンツは出来るだけ選択機会を減らし、能動的なコンテンツでは寧ろ選択肢を増やして楽しませる、と。

例えば、90年代の週刊少年ジャンプは消費者が受動的(漫画を読むだけ)なコンテンツとして最強だった。毎週一冊買えば、今面白いと言われる漫画の半分くらいは読めたのだから。あれもこれもと買う必要は無く「とりあえず毎週月曜になったらジャンプを買っときゃ間違いない」みたいな感じだった。でないと650万部もいかないよね。

00年代にそのジャンプ・スピリットを引き継いだのが掲載作品のひとつに過ぎない「ONE PIECE」だったのが皮肉というか奇跡というか。この15年の「とりあえずワンピのコミックスは買っとくか」感は凄い。でないと400万部いかないって。

この「とりあえず」が大事なのだ。飲み屋に入って「とりあえずビール」と言うのは、疲れて座ってあれこれ選ぶのが面倒だし、まずは何か飲もうよというだけのことで、ここで考えずに選ばれる何かになれたら最強なのだ。


ある意味、「ジャンプ」という漫画の集合体の精神をその中の一作品に過ぎない「ONE PIECE」が継いだように、90年代に花開いた「Jpop」を総括的に体現して継承できる人は、もう今や宇多田ヒカルしか居ないんじゃないかとすら思う。実際、90年代の次々と肥大化する大ヒットのインフレーションの最終段階が宇多田ヒカルだったのだから。まるでドラゴンボールみたいですが。

90年代は、ユーミンの築き上げたミリオン&ダブル・ミリオンの市場からドリカムが300万枚、globeが400万枚、B'zが500万枚という風に(あ、GLAYとかMr.Childrenも居ますよっと)どんどんとインフレしてきてヒカルが700万枚をスコーンと上回っていった。その数字を聞いた時の圧倒的な感覚は、フリーザが「私の戦闘力は53万です」と言い放った時の絶望感に近い。腹心のギニュー隊長でも10万をやっと超える程度だったのに…。

漫画やアニメ見てない人には意味の分からない事を書いてしまった。今はもう超サイヤ人ゴッドがどうのらしいんだけど私よく知らない。来月からテレビアニメ新シリーズ「ドラゴンボール超(スーパー)」だかというのが始まるらしいので宜しく。まぁ私はゆるゆり3期で忙しいのできっと観るのは後回しですけれども。


話が逸れ過ぎた。つまり、90年代をリアルタイムで過ごした30代以上の人間に再び、いや昔以上に「宇多田ヒカル買っときゃ問題ない」と思って貰おう、その土俵で勝負するなら、売り方を複雑にせず、「これ買え!」というシンプルさで消費者の選択負担を軽減しよう、という話だ。つまり、何かPopsが聴きたい、というニーズが日本のどこかで生まれた時に「ほなら宇多田だこれを買え」とスムーズに導けれる雰囲気作りをするのが、ネットワークライフに疲れた現代人には丁度癒やしになるんじゃないかという事だ。

「雰囲気作り」という点では、旧EMIチームは抜群に上手い。例えば、「宇多田ヒカルのうた」アルバム、何となく買ってみたけど思ったより聴かなかったな、という人は居ないだろうか。いやそれは別にいいんだが、発売週あたりに「まぁ買っておくかな」と思わせるタイミングの上手さな。その雰囲気作りの持っていき方がやはり百戦錬磨な気がした。ヒカルが復帰した時にその工の業をどこまで見せてくれるか楽しみだ。なお私は宇多うたアルバムは未だに愛聴盤なのであしからず。

ま、そんな事言っててもヒカルがそういう立場に立ちたいと思っていないんだったら別にそうならなくていいんだけどね。そこは本人次第ですわよ。

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じゃあヒカルはどうすればいいか、というともう一つの方法、「何もしない」というのがある。

ネット時代になってやれる事が格段に増え選択肢が広がり生き方が多様化している。そういうのに疲れている人も沢山居る筈だ。そういう人たちに対して「これを買え。以上。」とシンプルに言って終われるようなものを提示出来れば特に頼もしいのではないか。

やれマネタイズだマーケティングだソーシャルだコンサルティングだプロモーションだと色んな横文字が並ぶ中、どのレコード会社もあの手この手で売り方を模索し細分化された選択肢の数々を提示している。そういう中で消費者は自分の立ち位置をネットの中でもリアルの中でもしっかり見極めながら「私はこうだからこれを選んで」の連続だ。

はっきり言って面倒くさい。

宇多田ヒカルの新曲が出ました。これを買いなさい。以上。―これだけで済めばどんなに楽か。文脈がどうのコンテクストがどうの(同じだ)といった言い訳は無視して、買って聴いてみて「宇多田はいい歌を歌うねぇ」と思ってもらえればそれでよし。それ以上は何も要らない。

…というのが理想論。ネットワークとシステムとクラスタとコミュニティーに日々悩まされている中、それら総てから外れた所にヒカルがいつも居れば限りないオアシスだ。

ただ、その価値をわかってもらうのはとても難しい。今の時代にネットワークもシステムもクラスタもコミュニティーも使わずにどうやってプロモーションしろというのか。どうやって知ってもらえというのか。ほぼ無理である。

HikaruのTwitterフォロワーが190万人を突破したらしい。確かに、ここで一言呟けばかなりのプロモーションになる。1人の人間から1人の人間にメッセージが届く、というのが190万回ある訳でそれはある意味Hikaruにとって理想的な状況だが、そのメッセージを読んでくれる人はそのうちの何%なのか。更にそれに対して反応する人は何%なのか、全く予想がつかない。更に歌を買って貰うとなるともうどれくらい小さい割合になるのやら。

結局どこまでいっても「雰囲気づくり」は必要なのだ。いくらYoutubeで楽曲フル尺で流していても「聴いてみよう」と思わなければアクセスしようとも思わないしましてや買うまでいくとなると相当だ。いずれもまずは「知ってないとマズいんじゃないの」という雰囲気を個々の周囲に撒き散らす必要がある―

―当然こんな風に考える。そしてすぐにネットワークやシステムやクラスタやコミュニティーを利用し始めるに至るのだ。我々が疲れる面倒くさい方法論への第一歩である。

そうなのだ。「何もしない」のが本当に難しい時代なのだ。売れなくてもいい、というなら話が早いがそれはインディペンデント・レーベルでやるべき話。少なくとも今のヒカルに求めるのは、本人の意思を抜きにして考えてすら酷だろう。

ただ、「ネット疲れ」している人を癒やす方向に行くのは悪くないアイデアだとは思う。初回限定盤と通常盤のどちらを買うべきか考えるのすら面倒くさい、と思ってる人に何かを買わせるというのは、しかし、途轍もなく難しい。それを突破出来るのは結局歌の力しか無い訳で、随分と"分の悪い戦い"を強いられる事になるが、それが出来るのは最早ヒカルくらいしか居ないというのもまた事実な気がしてはいる。さぁどうなるんだろうね。

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さて「今時のシチュエーション」だが、今までさんざ繰り返してきたように"音楽を聴く"為のシステムがかつてない程貧弱なのだ、今は。そこが痛い。

昔はミニコンポやラジカセなどを皆持っていた。そういうのはそれなりに鳴るものである。しかし、パソコン業界はサウンド面で悉く貧弱だった。たとえばデスクトップパソコンの主流がラジカセみたいなサウンド一体型システムになっていたら、歴史は随分変わっていた筈だ。しかし現実は、そういったパソコンは傍流で、一部の好き者が買うニッチな商品になっている。こういうのは「そういうものだから」と思わせられるかどうかが勝負で、流れとして「せっかくパソコンを買うのに音が貧弱では埒があかない」と皆が思うように仕向ける工夫が足りなかったのだ。そうこうしてるうちにデスクトップパソコン自体が傍流になりノートパソコンが主流になった。と思ってたらノートパソコンも傍流になり今はスマートフォンとタブレットの時代だ。

こうなると"ステレオシステム"はリビングの大画面テレビの脇を占めるくらいしか居場所がない。だから音楽DVDは結構売れている。映画と同じような選択肢として見られているからだ。今の時代、しっかりと音楽と向き合って貰うなら映像作品を作らなければいけない。


ここからは女性に嫌われる話になるかな。ヒカルは美人である。しかし、もう今更ルックスの良し悪しでどうこうというポジションでもあるまい。だが、何らかの映像作品で勝負をするというのならフォトジェニックなルックスである事は大きな武器だ。ただ、ここから年齢を重ねていく中でそれに頼った映像作品作りをするのはリスキーだろう。

いや逆にヒカルなら「40歳なのにこんなにかわいいの!?」と言われるようなルックスを保っている事も容易に想像出来る。言い方を変えれば「あと10年は戦える」であろう。

そこらへんをどう捉えるか。ナチュラルなルックスを心掛けるか、或いは、極端に言えばLADY GAGAのようにエキセントリシティやアーティストシップを全面に押し出すか。

ここでも考えるべきは宇多田ヒカルという人の“文脈”である。どんな人生を送っていて、どんな人間性で、どんなイメージで皆から捉えられているかによって見た目の提示の仕方はころころと変わるだろう。

ヒカルがこの5年近く徹底して自分の顔写真を避けてきた事を想起しよう。我々の知るのは結婚写真くらいである。ある意味、今ヒカルは時間をかけてアピアランスに対する先入観をリセットしているのだ。つまり、次どんな見た目になっていても「こうきたか」とそのまま受け入れて貰えるようなニュートラルな、先入観のない状態に。千載一遇のチャンスである。

今までは"音楽家"だから、ファッションはそこまでこだわらないというか、一貫した"宇多田ヒカルスタイル"がなくても構わないというコンセプトでやってこれた。しかしこれからはどうなるか。何らかの映像媒体が、音楽観賞の為に必須な空気が出来上がってきてしまうとしたら、何か視覚面でヒカルのアーティストシップを表明する仕掛けが必要となるだろう。その母親譲りの恵まれた美貌は大きな武器のひとつである。勿論、それを活かさないというのも選択肢のひとつだし、ヒカルのやりたいようにやってくれればいいんだけれどね。

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