無意識日記
宇多田光 word:i_
 



また前段で触れ忘れてる所があった。やれやれ。

『きけたなら きっと よろこぶ で しょう
 わたしたちの つづきの あしおと』

この部分のそれぞれの文節の語尾に注目。
「きけたなら」は「ら」、「きっと」は「と」、そして次は切り方が難しいのだが歌い方をよく聴けば「よろこぶ~で~しょ~」になっているのが分かる。印象に残るのは各々「~」の部分だから語尾らしいアクセントで聞き取られるのはつまり「ぶ」「で」「しょ」になる。それぞれの語尾を並べると「ら」「と」「ぶ」「で」「しょ」になる。この一節では語尾の母音がそれぞれア段の音、オ段の音、ウ段の音、エ段の音、そしてまたオ段の音、とバラバラになっているのである。イ段の音は語尾に現れないが、その代わりに「きけたなら」の「き」と「きっと」の「き」に語のアタマのアクセントとして登場している。

さて、次の行。
「わたしたちの つづきの あしおと」
それぞれ語尾は「わたしたちの」の「の」、「つづきの」の「の」、「あしおと」の「と」と見事にオ段の音で揃えてある。これは、前段の一節の最後の語尾がオ段である事を引き継ぐものだ。そして、そちらで語尾の母音がバラバラだったのとコントラストがハッキリ出るようにこのオ段揃えの語尾は仕組まれている。イメージとしては、「こう行って、ああ行って、そう行って、こう行ってこう行ってこう!」みたいな流れを作りたかった訳だ。語尾の母音の組み合わせとメロディーの起伏の組み合わせで言葉の印象を強くする技術である。


もうひとつここで付け加え忘れてた点といえば。

「わたしたちの つづきの あしおと」

の部分、今度は語尾を2文字ずつ取り上げてみる。「わたしたちの」の「ちの」、「つづきの」の「きの」、そして最後は反則気味だが3文字とってきて「しおと」。

「ちの」「きの」「しお/と」
並べればわかりやすいが、全て「イ段の音-オ段の音」の組み合わせになっている。最後の「あしおと」は、前段の「でしょう」とも韻を踏んでいる事も想起。その文の中での韻の引き継ぎと、前文からの韻を踏まえるのと、両方を担っているのだ。

ここの「あしおと」の箇所のヒカルの符割りと歌い方は非常に特徴的だが、今述べた2つの韻をアタマに入れて聴いてみると、その"両担い"、韻の両立を目論んでいる事が仄かに伝わる筈だ。歌というのは、斯様に語の押韻とメロディー、そしてそれらの連関を成立させる歌唱法によって形成されている。これだけ匠の技を駆使した上で、歌詞は意味のある文章を綴っている。意味があるだけでなく感動的なストーリーまで綴ってしまうこの桜流しという歌は、ヒカルだからこそ創り得た神なる逸品といえるだろう。

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『Everybody finds love in the end
 もうにどとあえない
 なんてしんじられない
 まだなにもつたえてない まだなにもつたえてない』

次に子音をみてみよう。

『M/NDT//N/
 NNTSNJRRN/
 MDNNMTT/TN/
 MDNNMTT/TN/』

一見して、MとNの音が多いのがわかるだろう。次にTとDの音だ。前に述べたように、この歌のテーマは「はなとあなた/HaNa To ANaTa」なので、NとTの音が多用されるのは意図的なものだ。

MとNの音は似ている。発音上は、音の出口が上下唇の間(M)か口蓋と舌の間(N)かの違いしかない。例えば、LとMとN。「エル」と「エム」、「エル」と「エヌ」は比較的聞き分け易いが、「エム」と「エヌ」はなかなか聞き分け難い。即ち、「ル」の音より「ム」と「ヌ」の方が音として近い訳だ。

歌詞でもこれは意識される。このパートの各行は「も」「な」「ま」「ま」と、1,3,4行目がMの音で2行目だけNの音だが、MとNの音が比較的近い事もあって違和感は少ない。また、「まだなにもつたえてない」は「ま」「なに」「も」という風にMとNが交互に出てくる事によってメロディーを波打たせるように聞かせている。激情の展開である。

Mの音をもつ言葉を取り戻してみると、「もう」「まだ」「なにも」、Nの音を持つ言葉を取り出してみると「にどと」「ない」「なんて」「ない」「なにも」「ない」「なにも」「ない」という風になる。このパートがNを主軸にしてMが補助的に使われている事がみてとれる。

これに加え、N&T(orD)の原則に則ってT(orD)の音も付随して出てくる。「にどと」「なんて」「まだ」「(なにも)つたえて」という風に、N或いはMの音の後を追うようにしてT(orD)の音が登場する。NとTが波が交互に打ち寄せるようにして押し寄せてくるので、全体に大きくうねるような印象を与える事に成功している。


TとNとMの音が含まれる言葉といえば他に何かあるかな、と考えたらふと「Tsu-Na-Mi」というのを思い付いた。しかし、流石にそれは考え過ぎだろうな…。

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桜流しを聴いていると、「待とう。」という気になってしまう。卑怯だぞ宇多田光ッ!

という訳で何か色々言い落としてる気がするがあんまりにも進みが遅いので次のパートに行くぞ。

『Everybody finds love in the end
 もうにどとあえないなんてしんじられない
 まだなにもつたえてない まだなにもつたえてない』

例によってこれも、メロディーに合わせて改行しておこう。


『Everybody finds love in the end
 もうにどとあえない
 なんてしんじられない
 まだなにもつたえてない まだなにもつたえてない』

御覧の通りいちばんの特徴は語尾が総て「ない」である事だ。これの母音、つまり「ない/Na-i」の「a-i」を取り上げて以前「総ての終わりに"a-i"があるなら」と洒落を言ってみた訳だが、当然至極、ここは狙って各行の語尾を合わせてきている。

合っているのは最後の2文字だけではない。それより前も含めて書き出してみよう。

「あえない」→「あえあい」
「られない」→「あえあい」
「えてない」→「ええあい」
「えてない」→「ええあい」

そして、矢印の右側にそれぞれの母音を書き出してみた。1行目と2行目は、最後の2文字だけではなくその前の2文字を含めて計4文字語尾の韻を踏んでいるのだ。ここまでやるからあそこのパートの盛り上がりに説得力が出てくる。

3行目と4行目は全く同じ言葉を繰り返すだけだから韻が全く同じで当然…と、気軽に通り過ぎるのはちょっち待っち(中学生~♪<ミサトさんやないんかい)。

ここ、作詞家からすればチャレンジなのである。同じ言葉を繰り返す。作詞としてこれほどラクな事はない。新しい音韻構造を苦労して考えつく事なく、1行うまってしまうのだから。しかし、だからこそ決断は難しい。「あれ、私もしかして手を抜きたくて繰り返す気になってないか?」と疑い始めたら危うい。作詞という作業は極限状態。無意識のうちに逃げ出したいという衝動が生まれてくる。「この1行が埋まったら締切に間に合うんだ…」と自己フラグを立てようもんなら忽ちのうちに自分の判断基準が狂ってゆく。そんな中でこうやって大胆に「これで行く」という"決断"をした作詞家・宇多田ヒカルに対しては…いや聴いて感動する為にはそんな事全く考えなくていいんだけど、そういう所でもヒカルは頑張っているんだなと心動かされる人は、小さく拍手でもしてあげて下さい。ここ、本当に感動的だもんねぇ。


…やっぱりこのペースでは大変だな…でもまぁ仕方ないか…。

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『あなたがまもったまちのどこかで
 きょうもひびくすこやかなうぶごえを
 きけたならきっとよろこぶでしょう
 わたしたちのつづきのあしおと』

ひとつ指摘していなかった。「うぶごえを」と「よろこぶでしょう」の話。桜流しの歌詞でバ行の音Bは出現頻度が少ない。他には「ひらいたばかりの」の「ば」、「きょうもひびく」の「び」、「Everybody」の「bo」位だろうか。この中でも上記の「うぶごえを」と「よろこぶでしょう」は対応が明確だ。それをみてみよう。

例によって母音表示をしてみる。「ううおえお」と「おおおうえおお」になる。更にこれを恣意的に分けて書くと次のようになる。
「うう・おえお」
「おお・おうえおお」
大体ご覧の通りである。この歌お馴染みの連続同母音(「うう」「おお」)を冠に掲げ、次に「お」が来て「え」或いは「うえ」を挟んだ後それぞれ「お」の音で文節を締めている。全く同じ構造という訳ではないが、似通った母音配置であるとはいえるだろう。

例えば。「うぶごえ」は他の言葉でもよかった筈だ。歌詞の書き方によっては「新しい泣き声」とかでも十分意味が通じた筈である。それを「うぶごえ」にしたのは、ひとつには上記のような音韻構造を意図していたから、という見方もできる。

或いは逆に、「うぶごえを」の一節を入れたかったが為に「よろこぶでしょう」を配した、とみる事もできる。実際、この場所に「よろこぶ」という述語をもってくるのは文法上少々怪しい事態である。というのも、この場合に日本語に於いては当然在って然るべきな主語「あなたは」が歌詞の何処にもないからだ。

勿論、聴き手は「よろこぶ」のは誰か一聴して立ちどころに理解する。しかし、初めて聴いた時はほんの一瞬だけ戸惑ったかもしれない。その戸惑いの原因が、実はこの「うぶごえを」の一節なのかもしれない訳だ。

主語のない状態でも、例えば「よろこんでもらえる」にすれば、違和感はぐっと減る。この場合省略されるのは「あなたに」なのだが、「あなたは」が略されるよりずっとよい。それでも「よろこぶでしょう」にしたのはひとえに「うぶごえ」の「ぶ」と音を合わせる為だ。「よろこんでもらえる」では「ぶ」の音がないのだから。

はてさて真相はどこにあるか。たとえそれがわからないにしても、ヒカルの頭の中をこうやって思い巡らすのは楽しいものである。

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何だか色々言いたい事があっても桜流しを聴くと「まぁ、いいか。」と思えてしまうのが恐ろしい。これだけ強力な曲が書けてあれだけ圧倒的な歌を唄われたら、仕方がない、仕方がないのである。

前に、「次に出すアルバムはSingle Collection Vol.3でいいじゃん」と書いたのは、1曲々々を端々まで味わい尽くす為の時間が欲しかったから、だった。そうなのだ。もどかしいのは「アルバム制作期間」なのである。この間、光は露出を控える。メッセも(時には)書き難くなる。この期間、我々はひたすら期待に胸膨らませ待つしかない。で、アルバムが完成したら今度は一気にプロモーション攻勢である。情報はどんどん矢継ぎ早に解き放たれ続け、今度はこちらも全く追い切れない。嵐が通り過ぎた後、「そういえばこんなのがあったっけ」「こんなこともあったの!?」と過去を悔いつつ振り返る始末。何もない時の手持ち無沙汰と、何かが始まった時の手の余りよう。ホント、どっちかにしてくれ。

常に1曲ずつリリースしてくれれば、こういった事はなくならないまでも軽減される。問題なのは、光がそんなアップダウンの激しい生活に対応できるかどうかだが、そこは曲によりけりでいいと思う。あらゆる楽曲をシングル・リリースする事になれば総てにタイアップがつくのは難しいし、曲によっては、例えばFINAL DISTANCEのように、テレビでのプロモーションをしない、などの対応をすればいい。また、本来ならシングル向けでない楽曲も出来上がるだろう。例えば海路のような曲はどうか。あの曲が人生に現れないだなんて私は耐えられないが、シングル曲として大々的に売り出す、なんてのには不向きだろう。こういう場合は、例えばインタビューは松浦さんの一本だけに留め光の露出は極力減らす。ジャケットにも顔写真を使わない。などなどの方法論が考えられる。広告宣伝費を抑えられれば、レコード会社もシングルを出しやすくなるだろう。制作費や宣伝費の負担さえなければ、CDなんて数百枚単位でリリースしたって大丈夫だ。ちょと極端だけど。

ただ、そんな風にすると、宇多田ヒカルという名前が頻繁にリリースデートに出て飽きられる、という展開も考えられる。ふむ。恐らく、そうなるだろう。

でも、それでいいじゃないか。

名前の出現頻度というのは確かに重要だ。リリースもそうだが、ライブは特に。幾らヒカルでも、半年に一度地元にやってきてくれれば有り難味は減り、気が向いたら行けばいいやとなるだろう。そうならない為に、渇望感をどう煽るかの匙加減が大切で…

…というのも、もういいんじゃないかというのが正直な所だ。前も書いたけれど、「半年前も観た。でも今夜もまた観たい」と思わせる位になれれば超一流なのだ。他のミュージシャンにこれを言うのは無謀極まりないが、宇多田ヒカルならその高い々々を超えてくれるのではないかという期待がある。

全曲シングルリリースについても同様だ。皆宇多田ヒカルという名を見飽きる。それでも今目の前で鳴ってる曲が欲しい、そう思わせるだけの曲を、光は作れる。いや、そこまでの曲を作って欲しい。そここそが、誰も辿り着いていない境地だと思うのだ。

飽きられてからでも尚欲させる事が出来るか。それが出来れば、宇多田ヒカルは真に史上最高の音楽家になれる筈だ。いや別に他人と較べて最高とかどうのという事ではない。ファンとして私が満足なだけである。あら、何か「まぁ、いいか。」と思いながらも色々書いてしまったな。まぁ、いいか。

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しかしまぁ桜流しの30万だかというダウンロード数はヒットシングルと言って差し支えない数字ではあるだろう。しかし、配信の単価を考えれば経済規模としては縮小している訳で、本来なら配信で安価に手に入る分売上も数倍増えなければどうにも割に合わない。まぁこれは色々仕方ないけれど。

タイアップというものが楽曲の評価と売上の間の相関の推定を妨げているのは明らかだ。その意味では複数枚商法と何ら変わらない。ただ宣伝規模を大きくしているだけではなく、タイアップ相手の力を借りているケースがある訳で。勿論それはお互い様だったりするから、プロジェクト全体の評価のひとつだと受け止めておくのが健全か。

そういった、楽曲の評価を直に測りたいという"純粋主義"は、どうしても頓挫する。総てを"現象"として捉え、評価を測る基準の方を柔軟に変化させていくべきなのだが、オリコンをはじめそういった気風はみられない。確かに目の前に枚数は積み上がっているが、ではそこから参考になる知見を導き出せるかといえば難しい。先日もビルボードがポイントにYoutubeの視聴回数を加えるとして話題になっていた。方法論の是非は別として、どうにかこうにか新しい評価基準を模索している、という姿勢は伝わってくる。日本の場合はそういった努力がなかなか浮上してこない。難儀な話だ。

楽曲ではなくアーティスト、人の人気を測るのは比較的容易な話で、これは観客動員数を調べればいい。流石に人の数は嘘をつけない。一昔前のプロ野球じゃああるまいし。ただ、こういったデータを纏めて公表するモチベーションをもった機関が、何故だか存在しない。そこらへんの事情は疎いので、細かい事はわからないが、まぁ開催される会場は事前にわかっているのだからそのキャパシティを合算すれば動員数の上限は把握出来る。それで十分だという事だろうか。


こんな話をしているのも、ヒカルが図抜けた"記録持ち"だからだ。最初っからそういった数字に無縁であるならば、こういった話題自体なかなか取り上げないだろう。しかし現実は違い、バブルなまでに売れてしまった。色々理屈をつけるのは可能だが、ヒカルは自分の魅力に対して油断していたんだろうかな、とは思う。いや誰もデビュー作があれだけ売れるだなんて思っていなかった訳でそれは本人も例外ではないのだが、その自覚の過程が10代の性格の変化と結びついているというのであれば、やっぱりこれからもある程度数字には目を配っていかなけばいけないだろうな、とは思う。ある種の、ジレンマだな。

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で。ヒカルの"昔の曲"が再び取り上げられた例といえば、今のところ一つだけかな、Eternallyだ。一応Drama Mixという事になっているが、まぁ別テイクという感じで基本的には同じである。

アルバムDistance発売当時「何でこの必殺バラードをシングルカットせぇへんのじゃい」と息巻いていたクチとしては、この起用は本当に嬉しかった。漸くこの名曲が陽の目をみるかという感じだった。

果たして、蓋をあけてみると、何だか大して話題にならなかった。起用されたドラマの人気自体がさほどでなかった、というのがいちばん大きかったがそれにしても。花より男子2は爆発的な人気を誇っていたし、ラストフレンズはしり上がりに調子を出し視聴率は初回から数えて1.5倍以上に膨れ上がった。Flavor Of LifeもPrisoner Of Loveも、作品に恵まれたという事は出来る。でもやはり楽曲としても強かった。

Eternallyの場合は解釈と評価が難しい。ヒカルはThis Is The Oneと点線の為にプロモーションの日程を割く事は出来なかったし、販売も配信のみだった。盛り上がる要素は少なかった。しかしそれにしても、ねぇ。

最近のヒカルは(といってももう二年以上前の更に前の話だが)、気がついてみたらヒットシングルがない。Can't Wait 'Til Christmas も Goodbye Happinessも超々強力で、いつもなら大ヒット間違い無しだったと思うのだが。Be My LastやPassionは素晴らしい楽曲だが、だからといってそれが大ヒットするだなんて風には私は言わない。キャンクリとグッハピは、ヒットするだけの資質を備えているのに、CMで「ヒカルかわいい」という印象を与えるだけに終わったのが何だか悔しい。そりゃグッハピのUTUBE再生回数は見事なものだが(余談だけど、この間遂にFirst LoveがPrisoner Of Loveの再生回数を抜いた。それだけPoLが粘ったというべきなんだが。)、やはりこちらも"ヒットシングル"という感じとは程遠かった。なんとも勿体無い。

いやまぁ、言ってしまえば今は市場自体に「ヒット曲」ってのがないんですがね。そんなフィールドに、宇多田ヒカルといえど名を刻むのは難しいという事か。Eternallyがボチボチだったのも、2008年の時点でシーンがそういう状況に陥りつつあったからかもしれない。


配信時代に入れば、評価や評判は曲単位が主流になるかと期待していたが、実際にはそうはならず、やはりフィジカルで売れるものが注目を集める結果となっている。それは肝に銘じておかないといけないかもしれないな。

なんだかんだで、本人には全くその気はなかったんだろうが、2010年末に人間活動に入ったのは流れ上必然だったのかもしれないなぁ、といつものように思ってしまう。いい曲をいいと素直に評価する市場とその指針。それが出来るまでヒカルは帰ってこないかもしれない。いやヒカルがそういった事を基準に考えるというのではなくて、自然と必然の流れの上で、という事でね。

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週末に関東で放送されたアニメ「ジョジョの奇妙な冒険」第20話は、一年に一度あるかないかの大絶賛の嵐を巻き起こした。この話が収録されるBD/DVDだけ3万枚を超えるんじゃないかという位完成度が高かった。私も思わず録画を見直してしまった。原作を読んで展開も台詞もナレーションも熟知していたのに感動を禁じ得なかった。アニメーションの力は恐ろしい。

思えば遠くへ来たもんだ。連載開始当初のこの原作作品は毎月打ち切りに怯えるような不人気作品だった。第19話あたりに一度クライマックスが来ているのも、恐らくここで終われるように、という事が作者のアタマにあったからに違いない。このまま終わるんじゃないかという不安を払拭してくれたのは、その時の雑誌の次回予告だった。「次週ジョジョの奇妙な冒険パートカラー」という予告は、即ちまだこの作品が暫く連載継続される事を示していた。連載終了間近な作品に準巻頭なんていう美味しい掲載位置を与えるはずがないから。ここで「首の皮一枚繋がったな」と一安心はしたものの、以降もずっと低空飛行は続いていた。よくもまぁ第3部まで持ちこたえたものだ。そういえばこの第20話にあたる話もパートカラーだったか。懐かしい。

と、そんな連載当時の雰囲気が忘れられない身としては、25年経ってこうやって大絶賛されている事に隔世の感がある訳だ。これは、時代が原作に追いついたというべきなのだろうか。アニメーション技術がここまで発達した今という時期のアニメ化が相応しかったという事か。寧ろWebで「ジョジョ的なもの」が通奏低音として評価されてきた、その空気に次々と新しい世代が乗っかってきた、という結果だろうか。魅力ある作品も、提示時期や提示方法次第でこうも評価が入れ替わる。同じ作品でも、再リリースを試してみる価値はあるというものだ。


今回はただ「ヒカルもベテランになってくると、過去の名曲の再リリースとかあるのかな」という話に繋げるつもりで前フリを書き始めたのに、案の定無駄に長くなってしまった。小さい頃に感銘を受けた作品の印象と影響はとても強いアニメがローカルの深夜枠なので、「今のこどもたちは」と言い切れない点は少々残念だが、時代を超えて名作が愛される姿、時代を生き残って次世代に影響を与える姿は何とも頼もしい。アニメがどこまで続くかわからないが、小さい頃の自分に「君の大好きな漫画が遂にアニメになったよ」と伝えるつもりで、最後まで見届けようかと思う。あれ、何これただの日記やん。

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気がついたらTwitterというツールに飽きていた。

なんて言うと誤解を生むんだろうかな。ツールとしてのTwitterに新鮮味がなくなった、といえばいいか。ある意味、それは飽きるのがめちゃめちゃ遅いともいえる。

裏を返せば、「あるのが当たり前」になってしまった。怖いっちゃ怖い。各BlogやNews記事、音源も動画も生放送も何もかも総て全てTwitter経由でアクセスしている。私にとってTweenは今や"ブラウザより先に立ち上げるもの"である。もうどうせならYoutubeもNicovideoもTween内で再生してくれたら有り難いのに。Twitter公式はもうそうなってるんだから。いや何の話だ。

光にとってはどうなんだろう、というのが今回の話。出題の為にメッセを読み返す度懐かしい感慨と気分に浸り駆られる。あのノリは残念ながらTwitterでは出ない。期間限定という話はどこに行ったんだろう。

Twilogのお陰でTweetも振り返れはするが、あのメッセの"作品性"はない。それを予めわかっていたからこそ光は最初Twitterは「絶対やらない」と言っていたのだ。で、私はやるべきだし、そのうちやるだろうと思っていたし、そうなって本当によかったな、と思う。特に人間活動との組み合わせは秀逸だった。言う事無し、だ。

単純に、だから居ない時の寂しさが、メッセを待っていた時と違うなぁと感じる訳だ。昔に較べてオプションが増えた。よい事だ。それをどう活かすか。これが難しい。

Twitterというのは大量の無駄な発言が流れてくるからこそ、よい。それが言葉の本来である。その中から、これは、というものが光を放つ。掃き溜めに鶴。素晴らしい。

光の創作活動はこれと全く逆。出す曲全てが素晴らしい。控えめに言っても、必ずある一定の水準を超えてくる。つまり、そのレベルの曲が出来なければ発表自体しないのだ。内気、という言葉はこういった性向にこそ相応しい。

しかし、数打ちゃ当たるもまた真実である。真のメクラメッポウは本当に何も当たらないが、常に真ん中を狙って打ち続ける事ができたなら「たまに真ん中に当たる」事も可能だ。

光も、創作過程ではそうだろう。種々「試してみる」事はしているだろう。だがそれを我々と共有する事はしない。その態度は「真のプロフェッショナル」として手放しで讃えられるべきものであって、文句を言う筋合いは一切ないのだが、だからこそ「みずくさい」とも思ってしまう。

ただ、そういう孤独と向き合うからいい、というのもある。これは、Twitter的世界観とは対局に位置するものだ。今はとにかくハッシュタグや関連ワードを取り混ぜて放り込めば坩堝が返事して料理までしてくれる。「そうではない」生活があるんだと言いたければ、孤独の塊たる「いきなり完成品」を提示してみれる事が肝要だ。そしてそれこそが宇多田ヒカルらしい、と言えるかもしれない。


今後もTwitterは利用させて貰うが、インフラとまで呼べるものになったからこそ、そのオルタナティヴも携えていたくなる。両方、である。欲張りである。要は、最終的にいい曲が、いい作品が、いい歌が出来ればそれでいい、それがしてあげたい「いい世界」なのだから、方法論が目的になったり、それに縛られたりしていてはいけませんよ、というみんなの自戒の話なのであった。これでいい?

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配信の値段設定がもし自由に出来たら、ヒカルは一体幾らにするだろう?

どうにも、DRMフリーの流れはよいのだが、それで一気に値上げされた(と言っても150円→200円→250円という流れだが)のがどう影響したのか、ちと気にかかる。

恐らく、短期的にみればこの値上げは正しい。配信で単品購入してきた層は、たとえそれが少々値上げされたとしても相変わらず購入するだろう。もう少しいえば、それによって減る頭数の分を値上げによって十分にカバーできただろう。

しかし、それは、本来の配信の"理想"とは違う場所での話だ。つまり、まるでテレビのリモコンを使う位の何気なさで曲を買ってもらう事だ。これがなぜ210円で売っていた着うたで達成されてフル配信で達成されないのか。

その問いに対する答を持ち合わせている訳ではないが、もし仮に各ミュージシャンが自由に値段設定ができればどういう事になるだろう、とついつい思ってしまう。コアなファンを当て込んで値段を上げていくか、たくさんのライト層に手を伸ばしてもらって薄利多売でいくか。様々な実験が為され、その中から成功例が出てくるのではないか。

しかし、それをするには音楽産業の根幹を変えなければならない。元々、どのレコードも同じ値段で売るという習慣は、一体何を反映した話なのかが難しい。確かに、物理的な手間は同じだからそこの部分は固定された費用となるだろうが、こと音楽の制作費となると別だろう。そこのところを、かけた制作費に比例して売上があがるのなら理屈は通るのだが。再販制度に支えられた書籍の例も参考になるかもね。

で、ヒカルの場合大量のライト層に支えられてここまで来ている。本人がコアな層を囲い込もうとしないからだが、それを考えると配信価格は下げた方が面白いんじゃないかと思うのだが、今のところ現実にはそうなっていない。確かに、物凄く単純に計算すれば、250円のものを150円で売るなら、250円で30万枚売れるものなら150円だと50万枚売らなければならない。そこまでの伸びが見込めたかというと実に怪しい。

やはり問題はそこではなく、前回も述べたように、値段が下がる事で「消費者の意識を変える」ところまでいかなければ、配信市場の真髄は発揮されない。そして、それは宇多田ヒカルの力をもってしても難しい。もう暫くは様子をみた方がよさそうだ。

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今更だが配信楽曲1曲250円という値段設定は何とかならないのだろうか。桜流しが250円で買えるというのはコストパフォーマンス的には安過ぎて困るのだがそういう話ではなく。

この値段で手に入る娯楽ってどれ位だろうと考えてみると、確か週間少年ジャンプが今240円だ。私が買ってた頃は170~190円だったから随分値上がりしたが、20を超える漫画が読めてこの値段というのはやっぱり凄い。それよりも魅力的だと胸を張れる曲はどれくらいあるだろう。ジャンプより10円高いのだから。

曲を1曲買うのって、そこまでハードルの高い事だろうか。一大イベントなのだろうか。私がヒカルの新曲を待ち受けるだなんて特殊な例は放っておいて、もっと気軽な感じの方がいいんじゃないのか。ほら、ああ喉が渇いたジュースでも飲むか、みたいなノリで。このノリで払う気になる金額はペットボトルの150円位までだろう。喉が渇いたら飲み物を買う、程度の気安さで1曲買って貰えるといいのだが。

これが、250円だと少し重い気がする。さっきのジャンプがそうだし、安い時は牛丼並盛り一杯でこれ位だ。場合によっては晩御飯である。晩御飯に打ち勝つ位の値打ちを感じさせる250円する曲…うーん。難しい。


他にも、また漫画だが例えばワンピースのコミックス一巻で420円とかそれ位だれろう。2曲買ったらもうそっちの方が高い。たった2曲で、ワンピース9話分の興奮と感動を与えられるかというと、うーん、やっぱり難しい。音楽の割高感。

そう考えると、2曲に1000円払ってた(いや今でも払うんだけど)頃って凄い感覚してたなぁと。流石に余程気に入った曲でないかぎりシングルCDは買わなかった覚えがあるし。


せめて、カップヌードルの定価の170円位なら…妥協してもそこまでか。


薄利多売といえば響きはよくないが、音楽を安く買えるようになるとどうなるか。消費活動の中で音楽を購入する割合が増えるのだ。

ひとは、娯楽の支出の上限を設定したりしない。大事なのは「割安感」「お得感」を出す事だ。かく言う私も、アマゾンのお陰で輸入盤を気軽に買えるようになって、全体の支出が増えた。「国内盤2500円のところを輸入盤だと1200円で買えたから」となった時「じゃあ残りの1300円は貯金」とは、私はならなかった。「じゃあ残りの1300円でもう一枚他のを買おう」となった。それのみならず、「1200円だったら1曲あたり100円以下じゃん。安っ。」と思って"音楽への消費額"全体が上がったのだ。まぁ私個人の話に過ぎないのだが、割安感がお得感になり、結局前よりお金を使ってしまうようになる、というのは結構な人に期待できるんじゃないかなと。

だから、配信楽曲は250円にするより150円、出来れば100円で…ってあれ、今夜はヒカルの話までいかないな。ま、いっか。

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『あなたがまもったまちのどこかで
 きょうもひびくすこやかなうぶごえを
 きけたならきっとよろこぶでしょう
 わたしたちのつづきのあしおと』

歌詞というのは、今までやってきているように「こういう構造があるから」というだけでは、決まらない。というか、何故他の言葉ではなくこの言葉なのか、というのが説明できなければならない。つまり、違う可能性について言及し、それよりも完成形の方がモアベターである事を示して初めて意味のある解説だといえる。

ただ、歌詞という要素の特徴上、音韻上の要請と意味上の要請、それにメロディー&リズムからの要請が複雑に絡み合っているから、どのレベルからの要請でそうなっているかを見極めなければならない分、なかなかに難しい。


例えば、この2番の歌詞の場合はどうだろうか。幸いというか何というか、非常にわかりやすい理由で置かれている1行が存在する。最初の1行である。

「あなたがまもったまちのどこかで」

これは、元々知っていなければわかりっこないが、EVAでミサトがシンジに言った一言、「あなたがまもったまちなのよ」から来ている事は明白だ。これを主軸に歌詞をみていけば…

…と思うのすら、実は早計だ。今の話の流れでいけば、2番はまずこの最初の行が決まって、それに音韻を揃える感じで他のパーツが埋まっていく…と考えがちだが、本来はもっともっと広く考えなければならない。どういう事かというと、他の部分が先にあって、そちらからの要請で"後から"この1行が確定した可能性である。

EVAの名台詞というのは、なにもこの「あなたがまもったまちなのよ」に限定されるいわれはない。他に幾らでも「あ、これはEVAかな」と思わせられる台詞は存在する。別にこれでなくてもよかった筈なのである。あらゆる名台詞の中から、歌詞に合いそうな音韻をもった台詞をヒカルが選んできた、という可能性も考えなければならない。まぁでも、遅かれ早かれその選択は必要だ。論点は、音韻構造上の要請とどっちが先だったのか、という点なのだ。

しかし、今それを考えるのは、はっきり言って無理である。このあと、ひとつひとつ検証しながら、結局どうだったかについて推論していくしかない。こういうのも、インタビューでさくっと聴いてくれれば一気に解決するんだけれども。やっぱり全曲に対してオフィシャル・インタビューがあって然るべきなんだよなぁ。

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最近、モノラルが好きだ。前にもそんなエントリー書いたっけね。ステレオで音楽を聴いていると、情報量が多すぎてたまに疲れる事があるのだが(KING CRIMSONやDREAM THEATERを聴いてるからだろ)、モノラルだとぐっと情報量が減る。とても耳に優しい。ステレオだと、左右のスピーカーからの角度と距離がどうのとか、ヘッドフォンの左右のフィット具合の違いとか、イヤフォンはちゃんと同じ深さで装着できているかとか、キリがない。モノラルだと変数は距離だけだ。そして音の場合距離とは音量だ。音量の調節以外、何も気にしなくて済む。

そもそも、モノラルに興味をもったのは、ipodにモノラル・モードがあるのに気がついたからだ。何故こんなモードがあるのだろうと思ったが、どうやら片側の耳しか聞こえない人にも左右の音両方が聴こえるように、という配慮らしい。いやはや、そういう発想がなかった自分を恥じたわ。

実際、ipodでは「一般>アクセシビリティ」にモノラルモードの切り替えがついている。こういうのは実にいい。いいぞ、もっとやれ。

という訳で勿論今回のテーマは「桜流しをモノラルモードで聴いたらどうなるか」だ。

驚くべき事に、ヴォーカルのサウンドが向上する。バックのサウンドは、モノラルらしく地味にくすんだ感じになるのだが、その分サウンド全体はヴォーカルをクロースアップする。あの、無闇に淀んだ分離の悪い低音が、僅かばかりであるが改善されるのだ。確かに、楽曲終焉の盛り上がりの迫力には欠けるが、歌の表情をじっくりと捉えるには寧ろこちらの方がいい。目から鱗とはこのことか。いや耳からか。

元々、桜流しのミックスはバックのサウンドをかなりビッグにフィーチャーしていた。あれだけのスケールの大きな編曲を施してあるから当然なのだが、故にバックの演奏が盛り上がれば盛り上がる程、ヴォーカルはその中に埋もれるように聞こえていたのは否めない。私などは「それがいいんじゃないか」と思う方なのだが、ただひたすらヒカルの歌を聴きたい人には芳しい音ではないともいえる。そうなった時に、シンプルにモノラルで聴けばヒカルの歌が浮き立って聴こえる。いまいち桜流しの時間的空間的構成がアタマに入ってない向きも、モノラルで聴く事で新しい発見があるかもしれない。

勿論この方法は、他の楽曲にも有効である。が、やはり桜流しのようにバックのアレンジメントが凝りに凝っていて左右と上下に広がりがあるパノラマ型サウンドで試してこそ効果が大きい。例えば、アルバムでいえばEXODUSとThis Is The Oneでは全く異なる印象を齎す筈である。手元の再生機器にモノラルモードがある人は、いちど試してみる事をお勧めしておきたい。ヒカルのヴォーカルラインの輪郭が、よりくっきりと響いてくる筈だから。

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『あなたがまもったまちのどこかで
 きょうもひびくすこやかなうぶごえを
 きけたならきっとよろこぶでしょう
 わたしたちのつづきのあしおと』

音の反復は、連続母音以外でも効果的だ。

「"あ"なたが"ま"もった"ま"ちの」
という風に、2番の1行目は各文節の1文字目をア段の音で揃えている。勿論後の2つは子音も同じである。3行目も同様で、
「"き"けたなら"き"っと」
という風に、文節のアタマを"き"で揃えている。これは、2行目の最初の「"き"ょうもひびく」のアタマの"き"と揃える形だ。また、子音に注目すると、
「きけ"た"ならきっ"と"」
という風に、タ行の音が"き"を追い掛ける形で登場している事がわかるだろう。子音にすれば、「きけたならきっと」は「KKTNR K/T」という風になる。前に述べた「桜流しで強調されている子音」であるところのNT、そしてKが現れているのがわかる。

こういった反復は、ひとつひとつの効果はそんなに大きくない。しかし、こうやって幾つもを短い時間で固められると、全体としてはえもいわれぬ感覚を聴き手にもたらす。ひとつひとつが地味で着実であるがゆえに聴き手はそこにあざとさやわざとらしさを感じずに、しかし確実に歌のメロディーとリズムに引き込まれてゆく。この"これみよがしでなさ"もま作詞上重要なテクニックだ。


「わたしたちのつづきのあしおと」
も子音をみておこう。
「W-T-Sh-T-T-N T-D-K-N-A-Sh-O-T」
みるからにTの音が強調され、次にNやKが周りを固めている事がわかるだろう。こういった文も、前段までの自然で地味な音韻からの流れでスムーズに耳に入ってくる。各音韻は、それぞれの存在をそれぞれが助け合って成り立っているのである。

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サントラで桜流しだけ音量が小さいのではないか、という問題は、恐らく想像以上に重大である。殆どの人は、1枚のCDをかけている途中でVolumeを変えたりはしない。絢爛な鷺巣サウンドの後に地味~に桜流しが始まったりする構成だと、「陰湿で根暗な歌だなぁ」とかいう感想になりかねない。怖い怖い。

特に日本人は、伝統的に音量を軽視してきた。単純に、家が狭くて密集しているから大きな音で音楽を聴く習慣がないのである。ロックが日本で弱いのは、ビッグなサウンドへの理解が足りないからだ。大きな音量に耐え得るサウンドを創るのにも様々なノウハウが必要だ。というのも、原理的に、音を電気信号に変えて伝送し増幅した場合、必ず波形が(即ち音色)が乱れるからだ。大きな音を出そうとすればするほど、歪みに強い原音を用意しないといけない。

そして、そういった原音は、小さな音量で聴けばショボい事この上ないのである。大きな音を出して初めて、その骨太さが伝わってくる。四畳半フォークが心の風景になっている日本人には無縁の世界だ。

音を大きくしようとすればするほど原音を工夫しなければならない、というのは、例えばプリンを頭に浮かべればわかりやすいか。あの、高さが数センチメートルくらいのプリンと全く同じ材料でバケツ大のプリンを作ろうとしても、自重でひしゃげてグチャグチャになってしまう。大きくするには強度が足りないのである。実は音も同じようなもので、小さい音量で再生している分には、ゆるゆるふわふわして耳当たりのよい音でも音量を上げていくにつれ耳障りな、何が何だかよくわからないグチャグチャした音になっていく。踏み込んでいえば、ある音色にはその音色なりの、その音が活きる最適の音量というものがあるのである。


桜流しのサウンドプロダクションを司る時、最も留意すべきなのは「映画館でどう響くか」であった筈だ。つまり、家庭で聴くのとは較べものにならない大音量を想定してミックスダウンを施さねばならない。果たして、少なくとも私の耳には、映画館で聴く桜流しは家で聴く、或いはイヤフォンで聴くそれよりずっと"相応しく"響いていたように思う。配信音源では不明瞭に、野暮ったく響いていたあのドラムサウンドも、流石に2chステレオなので劇場いっぱいに広がる、という事はなかったが、かなり説得力のある音質として鳴っていたように思う。

さてさて、ではサントラに収録する場合、どこまでサウンドを調整してこれるのか。初回版特典という位置付け上、そこまで手間暇予算は掛けられないだろうなと推測される一方で、いやEVAなんだから、特にQではピアノの連弾場面もあるなど音楽は非常に重要な役割を果たしている(そういえばその連弾シーンの楽曲はサントラに収録されるのかな?)のだからめっちゃ気合い入れてCD用にマスタリングしてくるだろう、という見立ても成り立つ。

ただ、桜流しはその中でも特異な筈だ。レコーディングは勿論、ミックスもマスタリングも他の楽曲達とは別作業だった筈。そもそも、本来ならEMI JAPANから出るべき音源が他社から出るというのだから外様もいい所である。この、"緊急リリース"に近い状況(もうあと2ヶ月しかない!)で、外様と連携を取り合って付録のサントラのサウンドについて吟味する…現実的ではない。もっと早い段階で、出来れば昨年のうちにそういった摺り合わせは終えられていると信じたい。


いずれにせよ桜流し初CD化である。皆がこの曲を見直し聴き直し惚れ直すような結果になるよう、願って止まない。雪は止んだよ。(関東の南の方では)

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