「みんなのうた」に宇多田ヒカル、まさに今しかないだろう。
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実は筆者は、宇多田ヒカルのチャートでの成功には極めて疎い。疎いというか鈍い。それによって変わるのはファンサイトの中での対応の方法論だけであって、こちら側の気持ちの問題にはなかなか結び付かないのだ。強いて言えば、Hikki自身が「これで、周りで私と一緒に頑張ってくれたひとたちが報われるな」と思ってその種の満足感を得た場合、くらいかな、気持ちに売上が介入してくるのは。彼女がチャートでの成功を切望したケースであれば、筆者も大いに喜ぶであろう、ということだ。
なぜそんな心持ちでいるかというと、チャートでの成功というのはメリットだけではないからだ。今まで様々なアーティストをいろんなライヴ会場で見てきたが、それぞれの商業的成功の規模によって、失うものや得るものは実にさまざまであった。100人規模のライヴ会場が主なひとは、確かにお金はないだろうが、レコード会社からの重圧も受けず、自由に自分の音楽と向き合うことができ、ファンのひとたちともまるで身内感覚のように接することができる。一方で、全国規模メディアに乗るような成功をおさめたひとたちは、大観衆を前にする充実感などだけでなく、映像作品にかけられるコストの獲得など創造面でも大きな利得を獲得する。どの生き方が望ましいかは、そのひとによる、としかいえないと思う。
宇多田ヒカルに関してはどうだろうか。「真夜中の王国」にCubicUとして出演したときに「CDたくさん売りたいっすねぇ」と笑顔で話していたわりに、「FIRST LOVE」が売上を伸ばしていたころの彼女のメッセはまるで他人事のようだった。それについて過剰に喜んだり、舞い上がったりしていた足跡はほとんど見られなかった。これは恐らく、それほど自覚的でないにせよ、自身の実力に自信があったからではないか。「私のCDは必ず売れる」と。それが証明されてしまえばあとのことは気にはならない。逆にそれ以降過剰反応したこの国に対して「待て。そこまでじゃない。」と思い始めたからあの謙虚さになった、とそう思えば彼女の16~18歳頃の“反応の変化”の説明はつきやすい。
そうして今や彼女は結構安定した地位にいる。Universalとの契約で些かファンからの距離が離れたイメージがあったこともあり、何よりあまりテレビに出ないから&ツアーも出なかったからどうにも抽象的に「むこうのひと」っぽい雰囲気になった(僕らファンは別だが)こともあったが、結局は今だに語られるのは99年のイメージ、16歳のイメージのままだ。
この状況は逆に、現在の仕事に於いて世間のイメージを気にしなくてよくなった、とも捉えられる。何をしても「FIRST LOVE」の宇多田ヒカル、ということに落ち着いてしまうのだから。2nd~3rdの頃は自らのパブリックイメージに対しての配慮も重要なファクターのひとつであったが、4thでは吹っ切れて思い切りがよくなり、その分想像力の翼のはためきの鮮やかさは群を抜いていた。今彼女は相当に自由なのだ。
そして、ファンとの絆を深める結果となった(それは即ちあまりメディアにジャマされなかったということだが)今年2006年の全国ツアーを経て、この「みんなのうた」の為のこの「ぼくはくま」だ。この枠に楽曲を提供することに躊躇いがないところまできた、というのは、実に感慨深い。上記にまとめたように、自分を証明するための98~99年、肥大化した自らのイメージと戦っていた00~01年を通過し成長してきた過程のひとつの帰着点がここなのだ。後になってみないとわからないが、彼女全体の活動の中で、この「ぼくはくま」は、停留点というか、“凪”の位置にくることになるではないか、とみている。パブリックイメージでもなんでもない、普通の、素の宇多田ヒカルがここにある。
僕らファンは「UH3+」を体験しているので“素の宇多田ヒカル”という描像に対してある程度の準備はできている。まるであのときの呟きのような飾らない声で唄われる素朴なメロディが、童謡のフォーマットで提供されている。これが、まるで準備知識のない子供たち(あ~んどその親御さんたち)をはじめとして、ふらりとNHKのチャンネルに訪れるみなさんに何の前触れもなく届く。実はこの威力は想像以上に大きい。
何の前触れもなく届く、というのは、逆にいえば何の先入観もなしに歌に触れられるということを意味する。そのときに流れてきた2分半の歌声、ただそれだけによって、ひとはこれを吟味する。そこには宇多田ヒカルのパブリックイメージ云々という問題は存在しない。最初の画面のクレジットに目を留めずそれが宇多田ヒカルであることすら気付かない、というひとが大半なのではないか。この状況では歌のよさが純粋に判断される。彼女自体は恐ろしく有名、しかし今は凪の状態、そして全くの素で歌を聴いてもらえる状況。いくらなんでも全国規模の公共放送、なんのツテもなく放送枠を獲得することはできない。そこでものをいったのが宇多田ヒカルの知名度だと思う。もちろん歌そのもののよさもあってのことだろうが、彼女の名前で売り込まれてきたらきかないわけにはいかなかったはずだ。採用される為に必要な知名度と、凪状態の評価の世間の空気。今「みんなのうた」に楽曲を提供するのは実に絶妙なタイミングだったわけだ。あとから振り返って「あの時期しかなかったなぁあの歌を出すのは」と思うこと必至だと思う。
・・・なんてゆってたらこれから毎年恒例になったりして。
まぁそれはさておいても、この歌が子供たちの“ピュア”な耳をとらえはじめている、という評を耳にして筆者は非常に嬉しい。オトナは難しいことを覚えすぎていて、世間の評判がどうの、歌のうまさがどうの作風がどうの歌詞の世界観はサウンドはミックスは演奏者はあ~だこ~だとどうでもいいことに喧(かまびす)しいが(筆者のことである)、子供たちは経験と記憶というファクターが非常に少ないため、ただ目の前の音にだけ反応する。そんな彼らを魅了するのはかなり難しい。「こどもだまし」とよくいうように、彼らを魅了するのは容易と思われているフシもあるが、これはオトナからの圧力の総称と捉えればわかりやすい。先述のように彼らには記憶や経験が乏しいので、自らがそのとき五感から入力したものが大勢を占める。(小さい頃のほうが時間の経ち方が遅いことの一因もこれだと考えられる。人生の中で1秒の占める割合が大きいのだ。) そのときに最も大きいのが周囲のオトナの表情・感情の変化だ。何よりこの能力は彼らの方が大きいくらいなのである。彼らは自らでは生きる能力に乏しい以上オトナのちからをどうしたって借りないといけないわけだからね。周りのオトナたちが喜ぶのを見て自分も喜び、つまらないといっていたら自分もつまらながる。もうそうなった時点で原因となっていた「作品」の存在は雲散霧消している。そこにある「作品」はなんでもよかったことになる。彼らに残っているのは、(誰も意図してはいない)オトナの感情に従うべきだ、という圧力だけだ。その状況をさして「こどもだまし」というものであって、実際に作品自体で魅了するとなると、それはオトナが相手でも子供が相手でもなんら難しさに変わりはないのである。
テレビでの「みんなのうた」では、歌唱者の名前はコールされない。(ラジオは違うが)よっぽどのマニヤでないかぎり「宇多田ヒカルだっ!」と色めきたってテレビの前に駆け込む親御さんはいらっしゃらないだろう。即ちこの時点で上記の「オトナからの感情の圧力」は殆どかからないことになる。よって、この空間では本当に純粋に2分半きりの歌と絵のよさだけで判定される。この曲の評判は、まさにこの曲の評判足り得るのだ。たぶん、売れた分だけ気に入られていると考えていい。そんなわけで、今回ばかりはこの曲には売れて欲しいと思わざるを得ない。そんな自分を発見してしまい、現在少々途惑っている筆者であった。
・・・初動3万6千くらいかな・・・倍は行ってほしいなぁ・・・。
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