無意識日記
宇多田光 word:i_
 



結局自分が何に飢えてるのかなと思ったらそれはアイデアなんだなと。知恵とか発想とか着想とか。楽想とかプロットとかネタとか。そんな風に呼ばれているもの総て。兎に角イデアルな価値を求めて毎日生きてる気がする。


ヒカルの曲は毎回アイデア満載で大変嬉しい。美味しい。有難い。特に最新曲である『誰にも言わない』はアイデア、発想の塊である。

音楽の場合、まずシンプルに動機(motif)となる主題(theme)自体が新しいアイデアだ。これが美しい。毎度あたしがTwitterでハッシュタグ「#i_uta」や「#e_uta」をつけてツイートしているようなフックのあるメロディで楽曲が埋め尽くされている。

『誰にも言わない』でこの主題にあたるメロディは5つある。どれが主でどれが従ということはなく、5つのパートが等価に思える。それはある程度主観的な感覚の話なのだが、どのメロディも強度に差がないと感じているのだ。故にこの曲にピンと来ない人はひたすら淡々と流れていくだけのように捉えるだろうと推測する。いい意味でも悪い意味でも起伏がない。

どのパートも等価だからといって展開に乏しい訳では無い。寧ろ同じ主題に違う役割を持たせていたりして非常に凝っている。前に紹介した『明日から逃げるより~』のパートなんかがそれだ。その地点までここのメロディは前段のメロディを“受けて立つ”役割だったが、ここから(小節を空けながら)次のメロディに流れを授ける役割に変化する。これもまたアイデアだ。心憎い。

音楽のアイデアは斯様に、メロディそのものだったり、構成だったり展開だったり使い方の変化だったり様々な様態で現れる。故に一聴しただけでは把握しづらい事も多い。よく「聴き込む」ことの大事さが叫ばれるが、全体の構成を捉えてそこで初めて気づくアイデアもあるのだ。同じ曲を何度も聴き返すとそういったそれまで気づかなかったポイントにも気がつける。先週触れた『Time』のパンするコーラスとかそういった小技を聴き落としてるような例も含めて、ね。

新しい楽曲には新しい発想、新しいアイデアを期待する。そういう意味では、別に同じ主題、同じメロディを使い回すのもアリなのだ。使い方が新しければそれはまた新たなアイデアなのだから。ヒカルも『Hotel Lobby』のメロディを『Kiss & Cry』に援用したりした過去があるが、あれもメロディの活かし方が別物だった。新しいアイデアの為に過去のアイデアを復活させるのは、長年のファンからすれば嬉しい、喜ばしい事だとも言える。


今日もあたしは新しいアイデアを探して曲を聴き本を読む。知る事への渇望は死ぬ迄収まりそうにない。

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現在の感染拡大は今迄でいちばんやばい可能性がある。重症者数が増えている。これは感染の遅行指数なので既に手遅れかもしれない。感染者数は報告数なので検査のキャパとか色々言い訳できるが重症者数は偽りようがない。これが実態と乖離するとなるとそれもう医療崩壊。

感染拡大の理由はGotoだ渡航緩和だと色々言われているがその分析は専門家に任せるとして、最も恐れるべきなのは「季節性」。仮にこれが主たる理由だとするとこれから更に寒くなるのだから感染が収まる道理がない。程なくして感染者の実数が検査キャパを上回って報告者数が頭打ちになるかもしれない。そうなるとこの数字だけを追っていると益々感染対策が疎かになり医療現場が阿鼻叫喚の地獄絵図になりかねない。冗談ではない。重症者や重傷者が「医者が足りないから」と放置され始める。それ戦場じゃんね。外科医まで駆り出されたらとかもうねぇ…。


なんていう怖い妄想(で終わって欲しい)から一週間を始めるのも今朝がやけに寒いから。もう冬ですね。11月末日か。

今迄ロンドンの心配ばかりしてきたけれど、うちらも本気で心配しなきゃいけないフェイズに入ってしまうかもしれないということ。というか、そういう生活の参考にヒカルさんのロックダウン実体験を更に語って欲しいかもね。インスタライブの時に幾らかは話してくれてて、ああいうのは本当に参考になる。国ごとに状況も法律も違うとはいえ。もしかしたらウィルスの遺伝子も結構違うかもしれないとはいえ。

でも、具体的な云々より「過ごし方の心掛け」を独りごちてくれた方がいいのかな。どうしても人の心が荒んでいってしまうので、そんな時に思い出せる一言が欲しいかも。ん、そういうのこそ「歌」の出番かもしれへんねぇ。

でも今の状況に合う歌詞とか何かあったかしらん。『先読みのし過ぎなんて意味の無いことはやめて今日は美味しいものを食べようよ』じゃあなんか刹那主義過ぎに響きそうだし、『うまくいかなくたってまぁいいんじゃない』とかは、なんだろ、ガチでうまくいかない事態は避けたくてこうしてるんだしちょっと違うか。『友よ 失ってから気づくのはやめよう』とかそこらへんかな。これはそんなに違和感ない。ただ、その続きの『時を戻す呪文を君にあげよう』はなんか悲しくなってくるから注意が必要だ。いやほんと、去年の今頃はこんなことになってるなんて思ってもみなかったですからね。悲しくなってくるとしても、それをくれるなら是非欲しいって思う人も多いかもしれないねぇ。現実には、時は戻らないのです。

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でまぁ、『Face My Fears』×2と『誓い』&『Don't Think Twice』の歌詞を吟味していると、やっぱり大元の歌である『光』&『Simple And Clean』の歌詞を復習したくなってきて聴いていた。……んだが、あらためて、なんちゅう歌詞なんだろうなこの曲たち。コイツらがディズニーキャラクターの乱舞するゲームでオープニングを飾っていたのか…。

要は、世間知らずな若い女の子が恋愛ではしゃいじゃって結婚!結婚!ってテンションになっているのを相手の年増な男の子が宥めているという構図でな。これは勿論、当時19歳にして14歳年上の男子と結婚したヒカル当人を本人自ら強烈に皮肉った歌詞になっているのでありまして。

何が問題って、この夫婦がその後四年半で離婚しちゃった事なのよね。皮肉ったつもりが現実になっちゃった…と言うと少し違うんだけど、ある意味洒落にならなくなったのよなー。

ところが、その後の『Utada In The Flesh 2010』で『Simple And Clean』が歌われて、「あ、ありなんじゃん」となったのだった。私生活は私生活、歌詞は歌詞ということかと。そこは切り離して考えられるのかもしれないなと。そういう感想だったはずなんだが更にその10ヶ月後の『WILD LIFE』では『嵐の女神』を歌わず、でね。いやこれは歌えなかったのではなく例えば単にセットリストにうまくハマらなかっただけかもしれんねんけどね。でも、終演後に流すもんだからなんとなくここのこのり……心残りなのかなぁと。

『お金ならあるわよ?』に代表されるように、ヒカルは自身を客観視して批評的にみるのが抜群に上手い。だからヒカルをいちばん魅力的に撮れるカメラマンはヒカル自身だし(メガネっ子自撮りとか殺人的な可愛さだ)、自分を歌詞の素材として扱うのも見事なものだ。『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』なんかも、あたしはそう思ったこと無かったけれども、世間的にそう思われてるかもしれないなというところを本人自ら的確に突いてきていたのだろう。正直、ずっと注視し続け過ぎているヘヴィ・リスナーの方が批評眼を曇らせているってことなんだろうな。

そういう観点に立って『Face My Fears』×2や『誓い』&『Simple And Clean』の歌詞をより批評的に、クリティカルに読み返さないといけないのかなと。今(というか2018年当時)の御時世、世間的に宇多田ヒカルってのがどう思われてるのかというところを踏まえながら歌詞を読まないといけないのかもしれない。ええっと、つまり、八歳年下のイタリア人男子と結婚して。で、女子の方が歳上だから『本当にこんな私でもいいの?』というセリフが出てくるように…ってなんだか面倒臭いなぁこれ…(笑)


面倒臭くなったのでこれは一旦見直しますかね。来週また仕切り直しながらアプローチを考えてみたいと思います。


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『誓い』は『Face My Fears』と不可分と考える。キングダムハーツシリーズの主題歌として二曲が採用されたのは初めてなのだ。連動していると考えて差し支えないだろう。

裏を返せばそれは、一曲では賄いきれない世界観を扱っているということでもある。

『Face My Fears』の英語バージョンはある意味『誓い』を問う物語だ。ここに捻れを感じる。日本語の『Face My Fears』は『me』『my』『私』の連発で「you」も「あなた」も出てこない。

ところが英語バージョンでは

『A mile, could you walk in my shoes?
 All your, all your life?』

という箇所で『you』『your』が出て来る。『共に生きることを誓おうよ』に対して『長い道のりを、人生の総てを(賭けて)共に歩けるか?』と問うてるようにも思えてくる。英語曲と日本語曲で呼応し合ってるのだろうか? ここの有る無しで日本語バージョンと英語バージョンでの印象が変わる。

他方、『Don't Think Twice』では逡巡する『you』に対して「もう考えるな、一線を越えようぜ」とひたすら迫ってくる。ではこちらが日本語の『Face My Fears』と連関しているのかというと判然としない。日本語の『Face My Fears』が内面的な決意や勇気に注力していて「you & I」な関係性が希薄な為だ。


この4曲の関係性の奇妙さよな。


この構図を描写するのは時間がかかりそうなので、この日記らしく「また書くわ」ということにしておくかな。やれやれ(笑)。

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『Time』のコーラスワークは本当に細部まで凝っているな。前に『…あの頃より私たち魅力的魅力的』のパートは『私たち』を表現する為に左右にダブルで別れてユニゾンしている、なんて話もした事もあったと思うが他のパートもあれやこれやとあるもんなんだな。


『大好きな人にフラれて泣くあなたを
 慰められるonly oneである幸せよ』

ここの箇所、百合男子的に余りにもお馴染みなシチュエーションを描写してくれているものだから(異性愛者に恋した同性愛者がこういうポジションに収まりがちなのよね)、ヒカルがこれを歌ってくれてガッツポーズをする事に熱心になるあまり、さっきまでここのコーラスワークの妙技の数々に気がついていなかったよ。

まず、『大好きな人にフラれて泣くあなたを』の一節の所、右チャンネルで『泣くあなた』を表現しているらしきバックコーラスが入っているではないか。全然気がついていなかった。何て歌っているのかはわからないが(そもそも歌詞があるかどうかもわからないが)、なんとなく泣いているような響きではある。

続いて、『慰められるonly oneである幸せよ』のところ、only oneあたりで今度は中央に何やらバックコーラスが入っている。さっきの右チャンネルのコーラス以上に何を歌っているのかわからないのだが、あたしにはなんとなく「慰める」声に聞こえた。「よしよし」みたいな風にいたわってくれているのだろうか。わからないけど。こういう遊び心があるとだとしたら面白い。

そしてこのパートの最後、『である幸せよ』のところ、メインヴォーカルがそのまま中央から右チャンネルに向けてパンしてフェイドアウトするのな。いやぁ、これが結構効果的でね。

これ、全くの妄想でしかないが、大好きな人にフラれて悲しんでいる(『私』が)好きな相手(=『あなた』)の様子をみて幸せを感じているという「歪んだ状態」を表現しようとしてるんじゃあないだろうか。『幸せよ』という歌詞を物理的に横に捻る事で、それが歪んだ愛情のようになっている事を表しているような。勿論、このあとこの二人は“あの頃より魅力的”な関係になる訳で、失恋の痛手を慰める行為も純粋な愛情からくるものだとは思うが、これが相手の失恋を待ち侘びるようになってきたらヤバかった、という事だったのではないだろうか。

或いは、「そうなる未来を脇に追いやる」為にここのメインのヴォーカルを右側にフェイドアウトさせていった─実現しなかった世界線として処理した、という解釈もアリかもしれないな。


いやはや、こんな妄想まではたらいてしまうほど、『Time』のコーラスワークは凝りに凝りまくっている。皆さんも是非ヘッドフォンやイヤフォンを使って、出来ればハイレゾ音源で沢山のヒカルの歌声の重なりと飛び散りをチェックしてみてくださいなっと。

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『朝日色の指輪“に”しよう』
『同じ色の指輪“を”しよう』


この二つはつまり、実際の指輪の色について述べているのではない。「指輪を朝日色に輝かせよう、二人で共に。」という事だ。

実際に同じ色の指輪を嵌め合うのはペア・リング、ペア・ルックということでそれはそれで何とも微笑ましいが、これは二人の間の取り決め、約束事の類になる。

『誓い』ではその「約束」とは一味違う趣を主眼とする。それは楽曲最後の『共に生きる』という一節に集約されている。肩を並べて同じ景色をみる関係でありたいと。

或いは、指輪が「鏡色」なのだと捉えてもいい。何か一つの色に二人を合わせていくよりは、その都度変わる人の心や環境の変化を映し出しながら、それを共に感じて生きていこう、と。その中で『朝日色の指輪にしよう』とは、未来への希望を二人で感じていたいということだろうか。

斯様に、約束と誓いの違いは紛らわしい。しかし、そこには根本的に異なる側面がある。だからこそヒカルはこうやって、仔細に渡って歌詞に起こしていくのだろう。自分の人生哲学を反映させて理解してもらう為に、様々な言葉を駆使する。紛らわしいのは、紛らわしいからこそなのだ。嗚呼、ややこしい。

ある意味、現実の指輪なんてなくてもいいのだ。『誰にも言わない』で腕時計を外すように、この場面でも指輪を外してもいいのだけれど、残念ながら現代社会ではそれをやると浮気現場になっちゃうからね。そういう描写にする訳にはいかなかった。だから、何色でもなく何色にでもなる鏡色の指輪に朝日を照らさしめる事にしたように思える。社会の規範と恋愛感情はいつも裏腹で、我々をやきもきさせるのだ。20年経ってもなお『初恋』という名の歌を謡うなんなん歌姫ならではの切り口といったところか。

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約束と誓いの違いについてのエントリには未だにアクセスがある。それだけ『誓い』においてホットなイシューなのだろう。寒くなってきましたね。

その時恐らく(ってもう何書いたか覚えてないのよね)、他者性の有無が鍵だと書いた筈だ。例えば、約束を違えた時には約束した相手即ち他者から責められるが、誓いを違えた時に起こるのは自責だろう。神に対する悔恨てやつだね。


『誓い』における『約束』の扱いは手厳しい。

『約束はもうしない
 そんなの誰かを喜ばすためのもの』
『今言うことは受け売りなんかじゃない
 約束でもない 誓いだよ』

受け売りとは他者の言葉をそのまま言うこと、約束とは他者との取り決め、となると誓いとは自分自身に課す望みと祈りであろう。

ただ、この解釈だと楽曲の最後の最後がしっくり来なくなる。

『日の昇る音を肩並べて聞こうよ
 共に生きる事を誓おうよ』

『共に生きる事』をそれぞれが自分自身に対して誓うのであれば美しいのだが、ここで『誓おうよ』と『あなた』に提案して成立するとそれは「約束」になるのではないの? ここが危ういように思う。『Simple And Clean』に出てきた、「だ、だからって僕が君のお父さんに会わなきゃいけないわけじゃないだろ?」と焦る男の事を何故か思い出したよ。


まぁそれは置いておく。私自身、まだこの解釈に悩んでいるので。


異なるイシューを付記しておこう。

『朝日色の指輪』というフレーズはとても印象的で、この歌のハイライトのひとつだが、そこに気を取られてその次の助詞が『に』である事を時々見落とす/聴き逃す。そう、ここって

『朝日色の指輪“に”しよう』

なんだよね。同じ色の指輪の方は

『同じ色の指輪“を”しよう』

なのに。指輪とサ変動詞の組み合わせはこちらの方が普通だろう。

何故『に』なのかといえば、指輪自体が朝日の色な訳ではなく、二人で朝日を一緒に見て同じように陽光に光らせよう、という意味だからだ。ここが『に』だからちゃんと伏線となってラストの『日の昇る音を肩並べて聞こうよ』に滑らかに接続される。ここが「を」だったらこうはいかない。


「指輪」というのは、例えば婚約指輪ならその名の通り結婚の約束の指輪だ。しかし、ここは『約束はもうしない』『約束でもない』間柄の二人がつけている指輪なのだからこの『指輪』はエンゲージリングではないということだ。では、この『指輪』の意味は何かというとそれが次回のテーマになるかな。お楽しみに。…いつもながら、全く違う話してるかもしれんけどね(笑)。

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昨日の帰り道にハクビシンらしき動物と遭遇した。家に帰ってから本当にそうだったか身体的特徴を調べようとパソコンを開いたのだが、その時点になって漸く「あれ?俺スマホ持ってんだからその場で写真撮ってすぐに検索したらよかったんじゃね?」と気がついた。普段カメラを立ち上げる習慣がないものだから、こういう時にアタマが回らない。何しろカメラなんてガラケー時代からくっついてるもんだからねぇ、よくそれを活かさずにここまで来れたもんだなと自分に呆れました。


ヒカルさんは毎度「落し物シリーズ」で我々を楽しませてくれている。これって毎回「よく見つけるねぇ」と感想を述べるのだが、これもそもそも「スマートフォンで撮影する」行為があるから我々にも見れる訳で。果たしてスマホがなかったらヒカルがデジカメを持ち歩いて落し物を撮影したかというと、かなり怪しい。

そういう、私のような少数派を除いて、カメラで日常を切り取る行為が一般的になって今のようにInstagramが大きくなってる現実がある。皆どこかしらでカメラを構えているんだなと。ヒカルもその大きな流れの中で、気軽に写真投稿してくれている。大変、嬉しい。

逆に、コンパクトなカメラがなかった時代は、何か目を引く落し物やら景色やらと遭遇しても、その思い出を共有する方法は限られていた。それこそ、絵を描くとか一句詠むとかそういう事をしてその時の感情を残していった訳だ。今なら綺麗な景色に出会えたら撮影してInstagramに投稿すれば事足りる。

きっと歌の歌詞も、風景を詠んだ俳句や短歌や詩歌と同様に、目で見た景色から感じた事を何千年と綴ってきたのだろうけど、現代だとそれがなかなか動機づけられない状況なんだろうな。

しかし勿論、それでもそこに現れる言葉の力というのは大したもので。如何に日の出の写真を綺麗に撮影しても、『日の昇る音を肩並べて聞こうよ』という言葉を聴いた時の感情に辿り着くのは難しい。風景への詠嘆自体は、依然として人の心の中にあって、それを表現する手段として歌は相変わらず有効だ。でも、やっぱりスマホのカメラって便利だねぇ。今後もヒカルのアウトプットへのハードルを下げ続けて下さいなっと。

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で『Single Collection Vol.2』10周年記念日の方の話。10年か。

Disc 2に収録されている(当時の)ニュートラック5曲のうち、1曲だけライブで披露されていない楽曲がある。『嵐の女神』だ。『Goodbye Happiness』『Show Me Love (Not A Dream)』『愛のアンセム』『Can't Wait 'Til Christmas』の4曲は発売直後の『WILD LIFE』コンサートで早速歌われている。『嵐の女神』は、その『WILD LIFE』終演後のクロージングとしてCDの音源が会場に流された。「ナマでは歌いません、歌えませんでした」とでも言いたげに。

実際当時のツイートでも『今日の歌は・・・歌うのにとても勇気のいる歌詞だったんだな、きっと。』というような事を言っていて(ツイート初日だな)、曲名は明示されていないが恐らく『嵐の女神』の事だと思われる。レコーディングすることすら勇気を振り絞ったのだから、それをナマで歌うのはそれはもっとキツいだろうと当時は納得していた。

が、ここから3年後に事情が変わる。

『お母さんに会いたい
 分かり合えるのも
 生きていればこそ
 今なら言えるよ
 ほんとのありがとう』

ここの歌詞の意味合いがまるで変わってしまったのだ。10年前より今の方が、更に歌う為のハードルが上がってしまったように思う。これは、もうキツいとかではなく、これを歌うとなると精神の安寧を本気で心配しなくちゃいけない歌詞だろう。聴く方も勿論辛い。

今後、『嵐の女神』がナマで歌われることは一切無いかもわからない。そうなったとて不自然では無いだろう。

同様に、『ぼくはくま』もちょっと心配でな。おやすみを言いながら曲のピークで『ママ!』と呼びかける歌詞の構造は実は『嵐の女神』とよく似ていて、特にシングル盤の絵本のストーリーも併せるとそこらへんはわかりやすいのだが、結局この歌もその『ママ!』に尽きる所があるので、歌う方は結構クるんじゃないかなと。ただ、この『ママ!』の部分、『WILD LIFE』ではCDと歌い方が違っていたので、皆で歌う分には大丈夫なのかもしれない。

何れにせよ、『Laughter In The Dark Tour 2018』では『真夏の通り雨』だって『花束を君に』だってしっかり歌い切ったのだし、いつの日か『嵐の女神』もライブコンサートで歌えるようになる日が来るかもしれない。我々は、その日が来るまで気長に待つことにしますかね。でも、それよりハードルが高いのは『かあさんどうして育てたものまで自分でこわさなきゃならない日が来るの?』の『Be My Last』かもしれんね。これは、ほんまに心にズシンと来そうだわ。
 

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今日は『Utada Hikaru Single Collection Vol.2』の発売10周年記念日であり、また、フレディ・マーキュリーの命日でもある。

フレディが亡くなった時、ヒカルは8歳だったのかな。早熟な人故、既に彼の事は知っていたんだったかな。リアルタイムでニュースをみていた身としては、彼がHIV感染者であることを公表した翌日に逝去の報が舞い込んできて何が何だかわからなかった。昨日の今日だぜ。当時AIDSは不治の病で、その報が出た時点でもう駄目だという雰囲気にはなっていたのだが。

8歳でこのニュースに触れていたとすると、想像するに余りある衝撃だったろうか。ヒカルの10代の頃のフレディ愛は凄まじく…いや、今でもきっと好きだろうな。言及する機会がないだけで。

キーも合っていないのに"Livin' on My Own"をカバーする位だから、その愛情度は推して知るべしだ。この歌のメッセージ性は、先週取り上げたスティングの"Englishman in New York"にも通じるものがあるだろう。

80〜90年代当時は、まだまだ同性愛者への風当たりが強かった。自分たちメタラーは頂点に君臨するメタルゴッドからして同性愛者だったのでコミュニティ的に対応力があったのだが、Pop Musicのフィールドではそうではなかったのだ。フレディも、散々苦労したに違いない。HIV感染もその文脈で語られる事が多かった。今なら噴飯ものの仕打ちも、黙って耐えるしかなかった。…いやそんな現場見たことなんかないけどね。

今の時代にフレディが生きていたらどうなっていただろう。多くのミュージシャンが夭折する事で実態より過度に伝説化される様をみてきたが、彼の場合は生きていてくれていた方が伝説度は増していたかもしれない。まさに、新時代の、21世紀のロックアイコンとして、時代の先駆けとして敬われていただろう。それがフレディにとって居心地よかったかどうかは別にして。

歴史のifを語る事ほど野暮な事もそうそうないのだけれど、彼が生きていてヒカルとデュエットする日が訪れていたらどんなに感動的だったかわからない。ラジオ番組の名前を『トレビアン・ボヘミアン』、初ツアーの名前を『ボヘミアン・サマー2000』にしたのもクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』の影響だった。今ヒカルがフレディを振り返って何を語るのかは、興味のあるところだ。

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『誓い』の歌詞についてずっと考えている。

この歌、歌詞を耳で聴くだけでなく目で読む事でも違う展望が拓けてくる。ただ聴いてるだけの時点では気になっていなかった事が目で見る事で浮かび上がる。

「日」という字が何度か出てくるのだ。

『今日という日は』
『永遠の誓い日和だよ』
『眠りたい 毎日』
『朝日色の指輪』
『日の昇る音』

こういう風に。dayの意味もthe sunの意味もあるし、「ひ」とも「にち」とも読む。どこかなぜか、こだわって配された気がしてならない。

特に、最後。『日の昇る音を肩並べて聞こうよ』だ。音。その前は『朝日色の指輪』で、色。耳で聞くはずのものと目で見るはずのものが、何やら混ざっている。『誓い』という抽象概念を、どうにか五感で捉えられる何かと結びつけようという試みが、様々な情景を呼び起こしている。『共に生きる事を誓おう』とするときにすることが『日の昇る音を肩並べて聞』くことなのだ、というのは、わかったようで、でもやっぱりわからない。

宇多田ヒカルの歌詞で太陽が出てくる時は決まってお母さんなのだが、この歌の場合、そこから離れようとしているようにも思える。日々の中で、太陽の回る意味が変わってきているのかもしれない。『日和』という言葉のチョイスも、『待てば海路の日和あり』ということで『海路』での『今日という一日』を思い出させる。何か、曰くありげ。

まだまだ考えなきゃいけない。ひょっとしたらこの歌の歌詞、物凄く違う解釈が出来るのかも。なんだか、それが楽しみな日でした。

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インドネシアのレイニッチという歌手さんが松原みきの「真夜中のドア/stay with me」(1979年11月のリリース)をカバーしたところ同曲が世界47ヶ国でTop10入りしているというニュース。8月にNHKBSで歌って話題になってから3ヶ月、か。ほへー、凄いな。

で、松原みきってどなた?と思いwikiってみると、へぇ、「GU-GUガンモ」のオープニング歌ってた人なんだね。知らんかった。曲の方を聴いてみると短いながらもオシャレなサックスソロが挿入されていてあらこれは誰が弾いてるんだろなとこれまたwikiってみたらジェイク・コンセプションという方らしい。これまた存じ上げず。「フィリピン出身のサクソフォーン奏者。アジア諸国で「King of Sax」と称されるサクソフォーン奏者である。」とのこと。うわ、色んなお馴染みの曲で演奏したはるわ。松田聖子の「SWEET MEMORIES」のあの印象的な音色もこの人なんだと。ほへほへー。


Pop Songでのサックス・ソロはその長さに関わらず時に楽曲の印象を決定づける。昨日話に出たスティングの“Englishman In New York”でサックスソロを吹いているのはブランフォード・マルサリス。トランペッター、ウィントン・マルサリスの兄ちゃんだ。ここの兄弟は更にトロンボーンとドラムスも居るというね。音楽一家だね。それはさておき、彼のソロがこの曲のオサレ感を一段階引き上げているのは聴き逃せない。

ヒカルの曲でも、例えばシングル盤の『First Love』のカップリングに『First Love -featuring David Sanborn』が収録されていて、世界的名手であるデイヴィッド・サンボーンがエモーショナルなサックス・ソロを披露してくれている。しかし、楽曲が非常に強い為、このソロが曲全体の印象を左右するほどでもない。いいバランスの企画バージョンだったといえるだろう。

それはもう21年前の話。直近では勿論『誰にも言わない』である。ソウェト・キンチがジョン・コルトレーン風味の正調ジャズアルトサックスを響かせていてこれが楽曲の雰囲気によく調和していて名演なのだ。ここをライブ・コンサートでどうしてくるかが今後の課題&見所なのだが、そうね、例えば『Laughter In The Dark Tour 2018』の『SAKURA ドロップス』みたいに、ヒカルが自分でシンセソロを弾いて置き換えたりしても面白いかもね。結局ラッパ隊はツアーに帯同しませんでしたから。──嗚呼、またライブの妄想をしてしまった。それらが現実になるのはいつの日になるやらですわ。(今年の日記の締め方はホントこればっかだな(笑))

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アイアン・メイデンのニュー・ライブ・アルバムを聴きながら「嗚呼、ほんとうだったら今年の5月にこのセットリストをアリーナの爆音で経験できていたんだなぁ。」とやたら悔しくなってしまった。

そう、悔しかったのだ。そういえば、関東に住むようになってから基本的に「観たいライブは観る」というシンプルな態度でいるので、観たいと思ったら観ている。なので、観たかったのに観れなかったという経験が滅多に無い。そうか、悔しくなるのか……そりゃそうだよな。


ヒカルのコンサートに行けなかった人というのは沢山見てきた。その都度、悲しいだろうな、残念だろうな、とは想像していたのだけれど、悔しいだろうな、とはあんまり想像出来ていなかったのかもしれない。特に、行きたかったライブのDVDを観る時とかにそう思うのか……。

とても有難いことに、抽選だらけの宇多田ヒカルのライブコンサート、私は『ヒカルの5』以降総て自力で当たっているので全部観れている。『In The Flesh 2010』だけは例外で、これはお願いして取ってもらいました。その節はどうもありがとうございました。この件に関してはきっと一生頭が上がらないな。

そういう人間が、日記で長々とコンサートの感想を綴るのを、観れなかった人はどんな心持ちで眺めるのか、もっとちゃんと想像しようと思った。悔しさ、か。日記が紙に書いてあったら破きたくなるのかな。あたしは今メイデンのライブを観れたメキシコシティの観客たちが羨ましくて堪らないよ。まぁ、彼らのライブが観れなかったのはこれが初めてではないけども。2011年3月12日のさいたまスーパーアリーナ公演のチケットも買ってましたから。この日付は一生忘れようもない。

まぁそれもこれも、記憶媒体での追体験のクォリティが余りにも素晴らしいから起こる事で。ライブ・アルバムやライブDVDがつまらなかったら悔しさなんて生まれようがないわね。


そういえば英語で「悔しい」ってなんていうんだろ?とぐぐってみると、sick? Be mortified? そゆのしかないの? あら、案外日本語独特の表現なのかな。歌詞だと、『Movin' on without you』に『くやしいから 私から別れてあげる』ってのがある。これ、英語で歌うならなんて言うだろうね。regret?それもちょっと違うような。捲土重来を期すとかじゃないけど、もっと前向きなエネルギーの時にも当てはまるようなニュアンスなんだよね。なかなか、馴染みの言葉でも、ちゃんと理解するのは難しいですね。

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ヒカルが『めっちゃ私好み』というスマパンの“Stand Inside Your Love”は、ギターサウンドがギザギザしい為どうにも与える印象が偏っている気がするが、メロディーライン自体は非常に素朴で哀感のあるタイプで、自分などはスティングの“Englishman In New York”なんかを思い出させる。ポリスの“Message In A Bottle”とかね。

スティングはヒカルに「二番目に抱かれかい男」と断言された羨ましきダンディなおじいちゃん。ファンからすれば彼による映画「レオン」の主題歌“Shape Of My Heart”のギターが『Never Let Go』で引用されていた事で有名。“Englishman In New York”はそんな彼の代表曲のひとつだ。

「私はエイリアン(異国人)。ニューヨークにいる英国紳士。」と寂しげに歌うこの歌は、小学生の頃“I'm a Japanese girl in New York”、「ニューヨークの日本人女子」だったヒカルの心にどう響いたことか。疎外感とか孤独感とか、そんな感情を認めつつ最後に「誰がなんと言おうと自分らしく(Be yourself no matter what they say.)。」とメッセージを送るこの歌に、机に“Utada Hiraku”と書かれて「私ヒラクじゃない! 私そんなにひらかない!」と嘆いていた小さい女の子をどれくらい勇気づけたのだろう。いつこの歌と出会ったのかは知らないけど、“Shape Of My Heart”より後ってことはないと思われる。

今のヒカルは“I'm a Japanese woman in London.”でそこに“with my son.”がつく。その頃からしたら随分と様子が違っている。だからと言って、“異国での孤独”がそんなに変わるかというと、どうなのかちょっとわからない。特に息子は日本人とイタリア人のハーフで、恐らく英語と日本語を喋る。こう書くとハイブリッドだが、要はそういう属性とか血とかましてや国籍なんていうものをそんなに深く捉えなければ特に問題は無い。いずれかの言葉が通じてればそれでOKっしょ。気にしないこともまた気遣いね。


あぁそうそう、その、スティングの歌う“Englishman in New York”には明確なモデルとなる人物がいらっしゃいまして。クエンティン・クリスプという方。詳しく知りたい人は検索してみて下さいね。

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スマッシング・パンプキンズが今月末二枚組の新譜を出すということで先行配信されていたアルバム一曲目にあたる“Colour Of Love”を聴いた。即座に“Stand Inside Your Love”を思い出す。ヒカルが『めっちゃ私好み』と力説していたあの曲だ。

よくわからない歌詞の言葉の選び方と狭い音域を動く割に存外にメランコリックなメロディーラインはほんとそのまんまで、20年経ってもビリー・コーガンは変わらないんだなぁと思う反面、ややダンサブルなアレンジに今の時流を睨んで手元の手札を切ってきた感触もあり、なんだか変わらないものと変わったものの両方が味わえる新曲であるなぁと。

あたしは特にスマパンのファンというわけでもなく。“Heavy Metal Machine”は好きだけどね。ネタ曲。それでも、“Stand Inside Your Love”は「ヒカルの好きな曲」として強く印象に残っていた。

昔の歌を聴くとその当時のことを思い出す、なんてのはよくある事だが、新曲を聴いて昔の歌を思い出し、それが他者の好きな歌だからという理由で記憶に残っていたのがこうして引き出されたというのは、何とも奇妙で新鮮な体験だ。人の目を、耳を心を通して20年の時を経ても不変な感性を浮かび上がらせる。音楽って不思議。


話がややこしくなってるので整理すると、“Stand Inside Your Love”がそもそも2000年発表で20年前の曲、それをヒカルが好きだとメッセに書いたのが2007年5月27日の事だから13年余り前、そして“Colour Of Love”のリリースは今年だ。スマパンのニューアルバムは今月末、未来の話になる。

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_54.html

時系列にすると色々と混乱するが、音楽を中心に捉えるとそれは非常にシンプルな風景だ。個性あるソングライターが昔と変わらず歌を書いている。それだけのこと。

音楽と時間の関係は本当にとても不思議で、リズムは輪廻のようだしメロディーは未来の記憶のようだしハーモニーは空間の同時性そのものだ。一瞬の混乱が尊い。須らく身を委ねる事にするか。ヒカルの『Time』が昔を思わせる曲調なのも、音楽の不思議から導き出されたものなのかもしれないね。

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