無意識日記
宇多田光 word:i_
 




まず、イの一番に断って、強調しておきたいことがある。

「大鴉」の邦訳は専門家がやったものが幾つも世に出回ってるからそっちを読め。
これは、“Kremlin Dusk”の詞を解釈しようとした人間(i_ね)が、
ちゃんと「The Raven」に全部目を通しましたよ、という事を言いたかっただけに過ぎない


、、、という点です。
まがりなりにも、この「大鴉」は19世紀の大小説家のひとりである
エドガー・アラン・ポーの代表作、対訳対談によれば、
「アメリカではシェイクスピアよりも有名なくらいで
 エドガー・アラン・ポーといえばこの詩」

というくらいな作品なのだ。間違っても私のアホな訳を読んで「内容がわかった」などと
言わないでもらいたい。あクマで、私の自己満足と詩を読んだことの証明に過ぎない。

、、、ということを踏まえたうえであれば、
僕の訳を読んでくれることは大歓迎。
とりあえず“Kremlin Dusk”は好きだけど、
その詞の内容まで考えたことがなかった、或いは、対訳は読んだけど、
「大鴉」までには手が回らなかった、
でも対訳の載った本を買うまでにはならないかな~というひとには、
ほんのちょびっとだけ有用だと思う。ちょっと長いけどね。

この、全部で6行18段落に及ぶ詞については、
ちゃんとWikipediaにしっかりとした記事が書いてあるから、
そちらを参照されたし。ストーリーの概要も書いてある。それを読めばよい。
それを読んだら、この私の訳を読む必要はない。

また、原詩の素晴らしい音韻、韻律を堪能したいのであれば、
そう、この作品は1845年の作品、つまり、既にパブリック・ドメインだ、
著作権の心配はない(だから私が原文をコピペしても問題ないわけ)、
なので、専門のサイトまるごと朗読がなされて公開されている
そちらを紹介しておくので、10分足らずだし、ぜひ聴いてみてほしい。
どこの誰だか知らないが、いかにもの雰囲気を醸していて面白い。


Edgar Allan Poe The Raven [First published in 1845]
エドガー・アラン・ポー「大鴉」[1845年初出]
http://www.loudlit.org/works/raven.htm


上記URLリンク先の[WEB:LISTEN&READ]をクリックするとブラウザ上で
(2段落毎に)9分割された詩の朗読が聴ける。
[MP3:LISTEN]からは全朗読MP3ファイル(9:30/8.7MB)をDLできる。
(右クリックで「ファイル名をつけて保存」とか、そういうやつでどぞー)
各環境に合わせて使用方法を選択されたし。


訳に当たって心がけたのは、なるべく凝らないこと。
天才作家ポーが「『大鴉』のすべての構成要素は論理に基づいている」という(Wikiより)
その緻密な、大伽藍のごとき構成力を日本語にするには、
第一級のプロがやっても手に余る作業だと、門外漢には思われる。
それは私のやれることでも、ましてややることでもない。
というわけで、「原詩の意味さえ通じればいいや~」と
気軽に訳してアップロードしようと、最初は思った。
最初は思っていたのだ。
でも、気がついたら全編「七五調」で訳してしまっていた。
それほどに、原詩のリズム・音韻が強力なのだ。
「すべて論理に基づく」というのもダテじゃない隙のなさ。
大鴉と主人公のストーリーだけでなく、
ちゃんと、この原詩のリズムもまたちゃんと再現したいなぁ、と結局どこかで思ってしまった。
そんな目論見なんて達成できるはずがない。なので、
ところによっては力なく笑わざるを得ない珍訳の数々が散見され得るが、
どうか笑って見逃してほしい。私は翻訳の専門家ではないのだから。
(ああ言い訳がましい)
ただなんとなく、「あぁ、原詩には力があるんだな」と感じてくれれば幸いである。
私は、その力強さを再現する度量も努力も持ち合わせていなかった。
ただ、いまだにさっぱりわからない“Kremlin Dusk”の内容を
ちょっとでもより理解できないか、という手掛かりの為に翻訳してみたに過ぎない。

そう、結局、翻訳が終わってみても、
“Kremlin Dusk”の詞の内容は、いまだにさっぱりわからない。
いったいこの曲は、この曲の詞はなにがどういうことなんだろう。
光本人が

「とりあえず『クレムリン・ダスク』は説明のしようがないんですよ。
 私もなんなんだろう?って(笑)。絶対に日本語の歌詞ではできないし、
 タイトルは直接詞につながっていないし、
 私の中ではこういうイメージだったというだけ。
 歌詞を書く前からなんとなく『クレムリン・ダスク』にしちゃってたんです。
 風景を指しているだけで、そこに主人公がいるとか関連性も作れるけど、
 印象だけでいいやと思って。」
(対訳対談より抜粋)

というだけのことはある。うーん、徒労だった、とは思う。この曲の詞の為には。
この詩を翻訳したことで、何か曲の理解が進んだわけではなかったのだから。
しかし、このポーの「大鴉」自体が、素晴らしい詩だった。古典となるだけのことはある。
それを存分に楽しめたのは大き過ぎる収穫だった。(個人的には)
英語を直接読むことのない人にはその凄味は伝わらないかもしれないが、
朗読だけでも聴いてほしい。私もさっぱり知らない単語がたくさんで、
辞書を引き引き翻訳したのだが、意味がわからない時点で朗読MP3ファイルを
聴いているだけでも、なにか得体の知れない恐ろしさというか、力を感じた。
「これが詩か。」 そう思わせる存在感。この詩を読めてよかった。

でも、できれば、“Kremlin Dusk”の天啓連載の前にこの翻訳仕上げたかったなぁという心残りが。
後の祭り、ということで。


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Edgar Allan Poe The Raven  [First published in 1845]

エドガー・アラン・ポー「大鴉」 [1845年初出]



(1) Once upon a midnight dreary, while I pondered weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
`'Tis some visitor,' I muttered, `tapping at my chamber door -
Only this, and nothing more.'
(1) ある陰鬱な深い夜、風変わりだが興味惹く、
忘れ去られた伝説の、本幾冊に悩まされ、弱り果てては疲れ果て、
ほどなく眠りに落ちるとき、突如とドアを叩く音。
少しばかりに穏やかに、私の部屋の、ドアの向こうで音がする。
「誰か来た」私は呟く、「私の部屋の、戸が叩かれた―
 いやそれだけだ、それ以上には何もない。」

(2) Ah, distinctly I remember it was in the bleak December,
And each separate dying ember wrought its ghost upon the floor.
Eagerly I wished the morrow; - vainly I had sought to borrow
From my books surcease of sorrow - sorrow for the lost Lenore -
For the rare and radiant maiden whom the angels named Lenore -
Nameless here for evermore.
(2) あぁありありと思い出す、寒さ厳しい12月。
死にゆく炎がひとつひとつ、その亡霊を横たえていた。
明日(あす)が来るのをひたすら願う。本繙(ひもと)こうとも無駄だった。
この悲しみを遮ろう―逝ったレノアの悲しみを。
稀なる輝きを持つこの少女に天使がつけた名はレノア。
今ここから永遠に、その名にもまた何もない。

(3) And the silken sad uncertain rustling of each purple curtain
Thrilled me - filled me with fantastic terrors never felt before;
So that now, to still the beating of my heart, I stood repeating
`'Tis some visitor entreating entrance at my chamber door -
Some late visitor entreating entrance at my chamber door; -
This it is, and nothing more,'
(3) そして悲しくシルクか何かが、かさりかさりと紫染めの、戸のカーテンに私を覆う。
嘗て感じたこともない、過剰な恐怖と戦慄が、戸のカーテンに私を覆う。
そして今。心の鼓動を鎮める為に、ただ立ち尽くしてはこう繰り返す。
「入れてほしいと懇願す、誰かが部屋のドアの向こうに―
“入れてほしい”とこんな時間に誰かが部屋のドアの向こうに―
 いやそれはそれいやこれはこれ、それ以上には何もない」

(4) Presently my soul grew stronger; hesitating then no longer,
`Sir,' said I, `or Madam, truly your forgiveness I implore;
But the fact is I was napping, and so gently you came rapping,
And so faintly you came tapping, tapping at my chamber door,
That I scarce was sure I heard you' - here I opened wide the door; -
Darkness there, and nothing more.
(4) 今や私の魂は、強さ漲り躊躇うことなく。
「貴殿よ、」私は呼び掛けた。「或いはご婦人よ、どうか私を赦してほしい。
しかし事実に私は居眠り、じっくりドアを叩く音。
而(しか)して幽(かす)か、戸を叩く音。私の部屋の戸を叩く音。
私はあなたを聞いたのか、私にわかる術もない。」 そして私はドアを開け、
広く暗闇が目に映る。それ以上には何もない。

(5) Deep into that darkness peering, long I stood there wondering, fearing,
Doubting, dreaming dreams no mortal ever dared to dream before
But the silence was unbroken, and the darkness(stillness) gave no token,
And the only word there spoken was the whispered word, `Lenore!'
This I whispered, and an echo murmured back the word, `Lenore!'
Merely this and nothing more.
(5) その暗闇の底深く、永く私は立ち尽くし、目を凝らしては身を震い、
頭をもたげて深く訝(いぶか)り夢を見た。死にゆく誰もが夢見んとせぬ暗闇に夢を見た。
しかし静寂(しじま)は揺らぎなく、闇は標(しる)しを見せもせず
ただ言葉だけがただ響く、ただ言霊が囁いた、「あぁレノア!」
いやこれだけは私の響き、ただただ木霊がざわめき返った、「あぁレノア!」
いやもうそれだけだ、それ以上には何もない。

(6) Back into the chamber turning, all my soul within me burning,
Soon again I heard a tapping somewhat louder than before.
`Surely,' said I, `surely that is something at my window lattice;
Let me see then, what thereat is, and this mystery explore -
Let my heart be still a moment and this mystery explore; -
'Tis the wind and nothing more!'
(6) 部屋に私は踵(きびす)を返す。私の心と魂は、皆燃え盛らんと熱くなる。
而(しか)して間もなくまたもや前より大きな大きな音がする。
「あぁそうだ、」私は声を大にする。「そうだあそこは窓の枠。
そうだ何かが、あそこのそこに、神秘を探れる窓の枠。
そうだ心は暫(しば)しの静寂(しじま)に、神秘は向こうの窓の枠。
そうだ風だぞ。それ以上には何もない!」

(7) Open here I flung the shutter, when, with many a flirt and flutter,
In there stepped a stately raven of the saintly days of yore.
Not the least obeisance made he; not a minute stopped or stayed he;
But, with mien of lord or lady, perched above my chamber door -
Perched upon a bust of Pallas just above my chamber door -
Perched, and sat, and nothing more.
(7) 窓開け放ち雨戸を蹴飛ばす。何かがばたりとばたついてくる。
そこに鴉が過ぎし日の、聖なる威厳と共に居た。
僅かの委縮も擁することなく、僅かと経たずに彼は佇む。
王か妃の物腰で、彼は私の部屋の戸の、上にもたげる止まり木の上。
私の部屋のドアの上、アテナの胸は止まり木の上。
彼は依然と止まり木に。それ以上には何もなく。

(8) Then this ebony bird beguiling my sad fancy into smiling,
By the grave and stern decorum of the countenance it wore,
`Though thy crest be shorn and shaven, thou,' I said, `art sure no craven.
Ghastly grim and ancient raven wandering from the nightly shore -
Tell me what thy lordly name is on(in) the Night's Plutonian shore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
(8) 而して其処の黒檀の、鳥は私の嘆きの夢を、紛らわせては微笑みに変え、
凍てつく厳しい眼差しで、礼儀正しく佇んでいる。
「そなたは鶏冠(とさか)を剃り刈られども、」私は一言申し添う。「怯えのかけらもないものか。
夜更けの淵より迷い込まれし古えの、蒼く無慈悲な大鴉!
この夜(よ)のあの世の岸辺での、そなたの渾名(あだな)を教えて給う!」
すると鴉は呟いた、「Nevermore」

(9) Much I marvelled this ungainly fowl to hear discourse so plainly,
Though its answer little meaning - little relevancy bore;
For we cannot help agreeing that no living human being
Ever yet was blessed with seeing bird above his chamber door -
Bird or beast above the sculptured bust above his chamber door,
With such name as `Nevermore.'
(9) この薄汚れた鳥が今、声明らかに話すのを私は耳にし恐れ戦(おのの)く。
だがその答えには意味もなく、僅かに繋がる手がかりもなく。
そうはいえども我々は、生きとし生けるいずれもが、戸上に鳥を見ることに
幸運なんかを見出せはしない、そう認めざるを得ないのだ。
鳥か魔性か大鴉、部屋の戸の上、像の上。
いかなる名前か、「Nevermore」

(10) But the raven, sitting lonely on the placid bust, spoke only,
That one word, as if his soul in that one word he did outpour.
Nothing further then he uttered - not a feather then he fluttered -
Till I scarcely more than muttered `Other friends have flown before -
On the morrow he will leave me, as my hopes have flown before.'
Then the bird said, `Nevermore.'
(10) しかし不動の彫像の上、孤独に居座る大鴉、ひとつしか、
ひとことにしか語ることなく、今ではまるでそのひとことが、その魂の滾(たぎ)りのよう。
大鴉、それ以上には何もない。何もひとつも語らない。羽(はね)の一つも戦(そよ)がない。
漸く私は口に出す。消え入りそうに呟いた。「また友人が飛び去るか。
明日(あす)には私を置き去りだ。希望も共に飛び去るだろう。」
かくして鳥は呟かん、「Nevermore」

(11) Startled at the stillness broken by reply so aptly spoken,
`Doubtless,' said I, `what it utters is its only stock and store,
Caught from some unhappy master whom unmerciful disaster
Followed fast and followed faster till his songs one burden bore -
Till the dirges of his hope that melancholy burden bore
Of "Never-nevermore."'
(11) 静寂(しじま)を凌(しの)ぎ確(しっか)と諭(さと)さる答えに戦(おのの)き
「きっと」と私は声を差す。「ただ一つ覚えだそれしかない。
不幸な主人に囚われたのだ。瞬く程に、瞬く間も無い程迄迅速に、
非情な被害に囚われたのだ。屈する程の重荷を背負い、彼は幾つも歌を唄った。
希望を謳う葬送歌まで、屈するほどのメランコリィを。
それはこう言う、「Never-nevermore(もう、もうやめてくれ)」

(12) But the raven still beguiling all my sad soul into smiling,
Straight I wheeled a cushioned seat in front of bird and bust and door;
Then, upon the velvet sinking, I betook myself to linking
Fancy unto fancy, thinking what this ominous bird of yore -
What this grim, ungainly, ghastly, gaunt, and ominous bird of yore
Meant in croaking `Nevermore.'
(12) それでも鴉はこの悲しみの心紛らせ微笑みに変え、
そのまままっすぐクッションの、ドアの女神と鳥の前、
シートにふわりとその身を任す。ビロードの中沈み込み、
不安同士を手繰り寄せ、古びた鴉の不吉を思う。
ギロリと睨む、格好の悪い、毛も跳び身も削ぐ不吉な鳥の
しゃがれた声鳴く「Nevermore」

(13) This I sat engaged in guessing, but no syllable expressing
To the fowl whose fiery eyes now burned into my bosom's core;
This and more I sat divining, with my head at ease reclining
On the cushion's velvet lining that the lamp-light gloated o'er,
But whose velvet violet lining with the lamp-light gloating o'er,
She shall press, ah, nevermore!
(13) そして私は思案を決め込み、一つの言葉も発することなく。
鳥は私の心の芯に燃える瞳を焼き付けている。
そしてその時私は悟り、シートにこうべを柔らにもたす。
灯りの光が満足そうに、綿(わた)の柔らに私の影を。
灯りの光が満足そうに、私ではない誰かの影を。
レノアの影を…あるものか!

(14) Then, methought, the air grew denser, perfumed from an unseen censer
Swung by Seraphim whose foot-falls tinkled on the tufted floor.
`Wretch,' I cried, `thy God hath lent thee - by these angels he has sent thee
Respite - respite and nepenthe from thy memories of Lenore!
Quaff, oh quaff this kind nepenthe, and forget this lost Lenore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
(14) かくしてこの身は考え込んだ。空気の重厚、不可視な芳香、
ふさ敷き詰めた床踏み鳴らしては熾天使が舞う
「哀れ者、」私は叫ぶ。「神は汝を遣わした―天使が汝を私に寄越した。
息をつけ、一息ついて阿片をとろう、汝のレノアの思い出を、
さて呑まん、呑んで痛みを忘れよう、この失われたレノアと共に!
鴉は呟く、「Nevermore」

(15) `Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil! -
Whether tempter sent, or whether tempest tossed thee here ashore,
Desolate yet all undaunted, on this desert land enchanted -
On this home by horror haunted - tell me truly, I implore -
Is there - is there balm in Gilead? - tell me - tell me, I implore!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
(15) 『預言者!』私は声を出す、『悪の手先め、鳥か悪魔か静なる預言者!
―悪魔の誘いに乗せられようが、現世に嵐で退(の)けられようが。
―魅惑の砂漠の彼方の国に打ち捨てられども怯まずに。
―憑かれた恐怖のこの館、我は真実懇願す!
―“ギリヤドの香油”はいずこにあらん。給えよ、告げよ、懇願せん!
鴉は呟く、「Nevermore」

(16) `Prophet!' said I, `thing of evil! - prophet still, if bird or devil!
By that Heaven that bends above us - by that God we both adore -
Tell this soul with sorrow laden if, within the distant Aidenn,
It shall clasp a sainted maiden whom the angels named Lenore -
Clasp a rare and radiant maiden, whom the angels named Lenore?'
Quoth the raven, `Nevermore.'
(16) 『預言者!』私は声を出す、『悪の手先よ、鳥か悪魔か静なる預言者!』
我らの頭上に弛(たゆ)む天、我ら崇める神の手で
悲嘆に暮れたこの魂に曝し出せ! かの遥けきエデンの園に、
天使がレノアと名付けた聖なる少女を神はその手に抱(いだ)くのか!。
天使がレノアと名付けたこの稀に輝く少女を抱(いだ)くのか!!
鴉は呟く、「Nevermore」

(17) `Be that word our sign of parting, bird or fiend!' I shrieked upstarting -
`Get thee back into the tempest and the Night's Plutonian shore!
Leave no black plume as a token of that lie thy soul hath spoken!
Leave my loneliness unbroken! - quit the bust above my door!
Take thy beak from out my heart, and take thy form from off my door!'
Quoth the raven, `Nevermore.'
(17) 「その語が我らの別離(わかれ)の合図。汝は鳥か悪鬼であるか!」突如私は立ち喚く。
「帰れこの夜のあの世の岸辺の向こうの嵐に起ち帰るのだ!
 立ち去れ黒い羽(は)ひとつも残さず、汝が語った嘘を刻して!
 壊すな私の孤独の孤独を、離れよ戸上の女神から!
 抜き去れ汝の嘴(くちばし)を! 心に刺さった嘴を! そして戸を閉め汝に還れ!」
鴉は呟く、「Nevermore」

(18) And the raven, never flitting, still is sitting, still is sitting
On the pallid bust of Pallas just above my chamber door;
And his eyes have all the seeming of a demon's that is dreaming,
And the lamp-light o'er him streaming throws his shadow on the floor;
And my soul from out that shadow that lies floating on the floor
Shall be lifted - nevermore!
(18) そして鴉は身動(じろ)ぎもせず、静寂(しじま)に居座り、未だ居据える。
そして私の部屋の戸の、さみしき女神、アテナの姿。
そして男の瞳は映す、夢見た魔物の姿をそこに。
そして灯りの光が影を、フロアの上に浮かび上がらす。
そして私の姿と魂、影から床にひたりと揺らめく。
そして二度とは立ち昇らない。誰が呟く「Nevermore」


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 その7からの続きです。

*****

 ところが、もしこれが、ある程度までとはいえ、UtaDA本人の意向であったとしたらどうか。つまり、実際は「UtaDA側がプロモーションをしてほしかったのに、レコード会社の怠慢(というか算盤勘定)によって、かなわなかった」のではなく、「UtaDA側が、プロモーションを手控えて欲しい」という希望を出していた、ということだ。どうにもこのUtaDAというアーティストは特殊性が強過ぎ、日本側とアメリカ側の思惑がどのように絡み合っているのか解き解(ほぐ)すのが難儀なのだが、もしかしたら日本の担当レコード会社もアメリカ側の思惑とアーティスト側の思惑の間で板バサミになっていた、ということも想像できる。

 早い話が、「細かい事情もわからない段階で、日本の担当レコード会社&米国の担当レコード会社に関して、何らかの苦情を進言するのは尚早なのではないか」ということだ。1年半前のメッセで、彼女自身は、2005年2月23日のショウケースギグにおける「ファンの間で不興を買ったスタッフの振る舞い」について、いくつか反論を提起している。(原文/翻訳は、、、うげぁっ、直訳しかやってないっ(涙)、、、けど、とりあえずこちらです、、、) どうにもこの文章を読むと、かなり賢明にスタッフの側を擁護しているような印象だ。日本語の直訳文を読んだだけでは、ちょっとそのニュアンスが伝わっていないので、早々にヒカ語訳((C)うるみ@この呼称の命名はね)を仕上げないといけないが、それは次回までの課題としておくことにしてとにかく! あまり無批判にレコード会社のスタッフの文句をいうのは憚られるのではないか、というのがこの文章を見ると伝わってくる。これまでの幾つかの仮説を慮るに、もしかしたら、レコード会社の皆さんの振る舞いは、その根源を辿れば「アーティスト側のワガママ」なのかもしれないのだから。



※ このまま次回「雑記:UtaDA今後の展望その1」につづきます。


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 その6からの続きです。

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  今の2つの段落の理由は、緩やかに繋がっていると見ることが出来るかもしれない。プロデューサとしてデビューアルバムに携わっていく中で、自分は裏方の人間であり、前面に出て行く気はないんだ、ということを強く自覚していったのかもしれない。嘗てからその志向は強かったが、それが更により強化されたのではないか。当時のインタビューでは「ブリトニー・スピアーズのプロデュースもしてみたい」とも語っていたし、正直、あんまり「EXODUS」に関して『これを売ってやろう!』という気概は、翻訳をしていて感じたことはなかった。どちらかといえば「こんな作品をみんなが買ってくれるなんて意外だな~嬉しい歓びだ」という感触が強かった。実際、以後宇多田ヒカル名義で“誰かの願いが叶うころ”“Be My Last”“Passion”と、まるで大衆性を慮らない作風が続いたことをみても、その流れは明確であったように思える。

 しかし。もしそうだとすると、ファンのみんなが当時からいっていた「レコード会社何やってんだ。プロモーション全然やってないじゃないか」という(本来なら理にかなった、まっとうな)意見も、どうにも矛先が鈍ってくる。ここまで全米での戦略ばかりいっていたが、日本でもそんなに宣伝戦略が巧みだった印象は少ない。いくら洋楽アーティストであるとはいえ、天下の宇多田ヒカルと同一人物の作品である。シングルカットもせず、広告も然程多く打たず、しかし本人はいつも以上に駆り出される展開(これはまぁ当然というか、仕方ない面があるかな)には、少々違和感を感じなくもなかった、というのが偽らざる心境だった。東芝EMIのそれまでの宣伝戦略が一貫して呆然とするほど熱心だった、という対照も手伝って、どうにも日本での担当レコード会社の印象は、日本のファンの間ではよくなかったのである。(その8へ)


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UtaDA翻訳BBSに以下2件翻訳を投稿しました。
よろしくご参照くださいませ。m(_ _)m

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過去記事発掘企画第3弾:2004.9.30ボルティモア・サン紙 前半
投稿者:i_ - 11/28(火) 23:34 No.467

過去記事発掘企画第3弾:2004.9.30ボルティモア・サン紙 後半
投稿者:i_ - 11/28(火) 23:35 No.468


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 「その5」からの続きです。

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 そして、これは彼女のインタビューの翻訳を幾つかしてきた人間の実感なのだが、「売れたくない」という理由があった、というのも考えられる仮説のひとつだ。翻訳をするたびに痛烈に僕の印象に残されたのが日本での「メディア・大衆からの目線」の辛さの話だった。「そこまでイヤか!」というのは、僕ら平々凡々と暮らす一般人の感覚なのかもしれないし、何より“芸能人”という人種は元来目立ちたがり屋であって、人からの視線を浴びるのは快感なはずじゃないか、という無意識的な前提が僕らの方にあるのかもしれない。ともかくともかく、彼女はメディアと大衆からの注目耳目を浴びることに対する嫌悪感を露とも隠そうとしなかった。正直、枚挙に暇(いとま)がないので過去ログ倉庫へのリンクを張ってお茶を濁しておくことにするが、その嫌悪感の程度は“甚だしい”といって差し支えないかもしれない程度であったことは念押ししておきたい。(その7へ)


※ この連載、次回は「その7」の前に、当時の新聞記事の翻訳を発掘して掲載することにします。(たぶんUtaDA翻訳BBSにね)「過去記事発掘企画第3弾」になるかな。内容的には何ら新味のない幾つもあった当時の平均的な記事のうちのひとつに過ぎないのですが、それだけに逆に、当時の空気を思い出すよい参考になればと思いまして。ご期待をば。

※※ 上記過去記事をUtaDA翻訳BBSにUPしました。こちらのエントリを参照してくださいませm(_ _)m /11月28日23:50頃追記

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 その4からの続きです。

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 非常にわかりやすいのが「健康的・体力的な理由」だ。あの小さいカラダで、時差が3時間も4時間もある大陸を相手にしよう、というのだからかなりの覚悟がいるのは明らかだろう。実際に飛行機を乗り継いでプロモーションに回ってみたものの、こんなのを続けていたらとても体力がもたない、そういう判断がはたらいた、というのはわかりやすい。

 もうひとつ、こちらのほうがファンには受け容れられやすいくらいかもしれない。創造的な理由である。前段と似たようなものだが、あまりに大袈裟な宣伝戦略にさらされると、半年・一年とものづくりの現場から離れた生活を送らなければならなくなる。それはプロデューサ・ソングライターを兼任する彼女にとって耐え難いことだったのではないか。そんなことは2002年当時からわかりきっていたことだったのでは、と意地悪なことをいうことも可能だが、単純に「EXODUS/エキソドス」の制作期間中にその種の思いが強くなっていった、ということも考えられる。(なにしろ、ここまで全部に近い音を自分でセッティングしたのは初めてだったのだから@「EXODUS」でね)  (その6へ)


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 その3からの続きです

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 では、なぜ「中止」されたのか、ということだ。UtaDAの全米での大規模宣伝戦略そのものを手控える“理由”とは何であったか。最もわかりやすいのは、収益をあげる市場を日本本国一国(及びあと幾許か宇多田ヒカルの人気がある程度あったアジア諸国)に絞り込んだ、ということである。大規模宣伝を行うとなればとんでもない費用が必要となり、それをペイするだけの売上をあげなければならない。成功のハードルが高くなるのだ。それなら、制作費が余りかかってないこともあるし(紆余曲折あったが、最終的にセルフプロデュース作品に落ち着いたので外部プロデューサを雇う費用は節約されたはずだ)、わざわざリスクをかけなくても、日本だけでミリオン売ってくれるのなら、そこだけに“契約の意味”を見い出そう、日本で売ろうが全米で売ろうが1枚は1枚なんだから――そういった発想が最終的に勝った、ということだったのだろう。日本単独で他を圧倒する驚異的な売上があるのだから、ワールドワイド契約を継続する理由としては妥当である。他の地域では、契約上のつじつまあわせとしてリリースだけはする、しかしプロモーションは最小限に留め、収益は日本で上げる、そういう“方針転換”が、2004年8月中に行われた、と想像するのは無理のあることではないだろう。7つのステーションをまわっているうちに、リスナーからの反応を見て、「こりゃムリかも」とレコード会社側が判断した、ということもあったかもしれない。いずれにせよ、そんな直前に「ラジオ・インパクト・デイ」のような大掛かりなイベントを中止できるのか、という疑問は結局残る。所詮はどの説明も仮説(peticulation)に過ぎない。

 もう一方の考え方がある。前段落の考え方は私もオフでBBSで頻りに繰り返してきたことだから耳新しくないが、こちらは余り語ってこなかった。それは、UtaDA側の事情、である。飽く迄もレコード会社の方は大々的に全米でも売り出そうと画策していたが、アーティストの方からストップがかかった、という発想である。何らかの理由で、直前になってUtaDA側が全米での積極的な活動を手控えた、ということだが、はてさてその“何らかの理由”として、考えられるものとはどんなものがあるだろうか。(その5へ)


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その2」からの続きです。

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 果たして、これは一体どういうことだったのか、今だに答えは出ていない。誰も関係者が口を開いていないからだ。よって2年以上経過した現在でもファンは憶測でしかモノをいえないわけだが、とりあえず現時点でわかっていることだけでも羅列しておきたいと思う。早い話が、私は単純にUtaDAの2ndアルバムに期待しているのだ。代々木2日間の現役世界最高峰とも目されるUtaDAのパフォーマンスを目撃して以来、その思いは当然のように日に日に強まっている。本人がイヤだっつーんなら仕方ないけど。(彼女の嫌がるカオを見てまで聴きたくはないわぃ)

 まず、特記しておくべきことは、半分忘れられているだろう、「ラジオ・インパクト・デイ」の有無である。ちゃんとプレス・リリースにも明記されているが、日本盤の発売前日(フライングなので当日という認識だが)、“全米各地のラジオ局で最もオン・エア回数が多いことが期待される日”として、この日は予め設定されていた。しかしこれが実施されたという声はついぞ聴かれることはなかった。このプレスリリースの日付はUS時間2004年8月4日。シンプルに考えれば実施1ヶ月前にこうやって発表しておきながら直前で中止になるというような寸劇は、巨額の契約であることを踏まえた場合如何にも考え難いのだが、もし実施されたが反応が薄く話題にならなかっただけ、というのであれば、少なくとも熱心なファンたちからの報告のひとつもありそうなものだが、それすらもなかった。(筆者の知る範囲ではね。海外のサイトを見てまわっただけだけど。)ということで、とりあえず考え難いとはいえ「中止」だった、とみるのが妥当かと思う。(その4へ)


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 その1からの続きです。

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 そういう、世界で最も巨大で、且つその為ジャンルごとに細分化されたラジオなりテレビなりのフォーマットの中で、彼女のような全方位型アーティストが、「EXODUS」のような作品が、どのように売り出されるのか。当時そこに興味は集中していた。2002年2月に世界4大レコード会社のひとつであるユニヴァーサル・ミュージックと契約を結んだというニュースが伝わってきた当時、契約金だか制作費だかは5億ともいわれ、まさに破格の条件であったし、レコード会社もそのような巨額の費用をかけるからには凄まじいプロモーション攻勢をかけるのではないか、そう周囲が考えても何ら不思議ではなかった。

 しかし、その実態は、まるで期待・予想とは掛け離れたものだった。当時把握された全米でのラジオ出演は、5都市7ステーション5州7都市、2万とも言われる全米のラジオ局の数を考えると、琵琶湖でミジンコがくしゃみをした程度に等しい数だった。後に残ったのは、余りにも短期間で各都市を回ったためビザを見るなり空港で訝られた、という半苦笑するようなエピソードと、中国人ラップを聞かされて困惑する彼女の半苦笑する声の表情だけだった。それくらいに、2004年秋の、日本の「エキソドス」ではない、全米での「EXODUS」のプロモーションは皆無だった。(その3へ)

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 何故だかこのタイミングで思い出話。新曲や新DVDの発売のあるこの時期、あんまり脈絡はないし、正直内容的には既出なことばかりで新味に欠けるのだが、過去のUtaDAのプロモ戦略の復習、ということで暫しお付き合いくだされ。(既に書き上げている原稿を、短く短く何度かに分けて投稿するので、長文を一気に読みたい方は、総てUPするまで暫し待つのもいいかもしれないです、ハイ)

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 ちょうど2年位前の2004年秋、UtaDAは1stアルバム「EXODUS」でデビューした。日本では9月8日、全米では10月5日だ。4週間先行発売となったこちらでは、宇多田ヒカルのネームヴァリューと“Easy Breezy”のラジオでのヘヴィ・ローテーションが相俟りミリオンセラーを獲得、面目を保った印象があった。しかし、全米では初登場160位、通算で2万枚余の売上に終わった。歴代日本人の中で最も全米での成功が可能・現実味がある、と目されていた彼女なだけに、本来なら全くの無名の新人が1枚目で叩き出したものとしては大して悪い数字ではないとはいえ、多くの成功を期待していた層は落胆した。

 しかし、ずっとこの様子を眺めていた熱心なファンだったら当時から「そりゃそうだろ」という認識だったように思う。当時から口酸い程に私も繰り返していたが、広大な合衆国の大地で成功しようと思ったら、生半可なプロモーションではとても無理なのだ。しかも、彼女の音楽的性向からして、ジャンルに囚われないまさに“Crossover”な作風で乗り込まねばならないことは、かなり前の段階から自明であった。(私が共和国でそのことを書いたのはデビューの丁度半年前、2004年3月上旬だった) (その2につづく)

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 2004年発売のUtaDA1stアルバム「EXODUS/エキソドス」をテーマにした初エントリですっ。

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・・・なのに、いきなりPVの話だっ!(^∇^)


曲の内容の話はまた稿を改めて、ね。

 この曲のPVが存在することは、まだこの無意識日記の読者の中にすら、気付いていない人がいらっしゃるかもしれない。この作品は、UtaDAがUKデビューしたとき(2005年5月、らしい)に発売が発表になったシングル「You Make Me Want To Be A Man(以下YMMWTBAM)」に収録されている。(あまぞーん。これは、05年末に発売になった米盤。) また、サンプルはオフィシャルでも見られる。(日本の公式utada.comレコード会社のページ) ・・・はずなんだが、なぜかウチではまともに見れない(T_T) よって、またも掟破りだけど、Youtubeのリンクも貼っておく。(こちら ttp://www.youtube.com/watch?v=qXKcYXHjZf0M) 画質が段違いだし、興味のあるひとは、あまぞんのリンク辿って買ってあげてねv ちな!みにアフィは私は入ってないッス。

 で、見てくれたらわかるのだが、これがまぁなんともスンバラシイ出来なのだ。「FINAL DISTANCE」や「traveling」のPVの評判が日本では非常に高かっただけに、この「YMMWTBAM」のPVもまた非常に好評を得られた可能性はあったと思うのだが、如何せんまるで知られていない・・・熱心なファンにすら、ね。上記のように、PVが唯一手に入るシングル盤自体、輸入盤のみの発売で日本ではリリースがなかったし、DVDシングルが日本で出ることも最後までなかった為だ。タイミングも如何にも中途半端、というと言い過ぎかもしれないが、日本でのアルバム発売の翌年、という遅めの時期の発表、というのもリスナーの関心を引く為にはちょっとまずかった。勿体ないったりゃありゃしない。

 無論このことがこのPVへの評価を下げる要因にならないことは言うまでもない。その圧倒的なキリヤン・ワールドの吸引力は実際に見てもらえればわかると思うので、いちいちその映像美の細部を穿ちまくって称えることは、ここではしない。今回この稿で分析したい点は、映像の美点に関してではなく、このPVに描かれているストーリーについて、である。


 一体、このPVの映像はどういうものなのか。所持している人は一旦このページを脇に置き、4分余りのこの作品に目を通してみて欲しい。持ってないひとは、上記のようつべリンクからどうぞ。


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 さて。まずは僕が見てとれたカットの数々を以下に羅列する。


00:00~ 大都会
00:10~ ロケット打上、体操選手、宇宙飛行士、未来都市、
     UtaDA&Band、地下?、宇宙遊泳&宇宙船
00:29~ UtaDA寝姿、ロボット?の立体モデル、
     浮遊映像(五輪、部族の踊り)、人体解剖図、高跳び
00:43~ 頭部以外機械のUtaDA、走る人間ポリゴン列、
     月面着陸&散歩、部族の踊り、クラゲ??
01:20~ UtaDA頭部、人工授精(細胞と針)、蛇、人体立体スキャン、
01:52~ UtaDA寝台転回、バンド演奏(フォレストとマット)、
     UtaDA顔面のみ、ロケット切離、
02:25~ 地上、近未来的荒廃景色、液体金属様~人体化、
     UtaDA顔面上部切離、人体肋骨切離、
03:00~ 寝台上の掌が開く、地上で肋骨に群る金属曲線群、
     首から上だけのUtaDA、出現する男女


・・・かなり大雑把だが、こんな感じだ。順序もこの通りというわけではない。こういう風景や絵があったなぁ、という程度のメモだと思っておいてほしい。

 ここで描かれているのは、近未来的、というかよく映画「ブレード・ランナー」的なサイバーパンクと俗に言われる世界観(正確な用語法は、ウィキペディアを参照のこと)であり、また、このPVのディレクターであるキリヤンの長編映画第1作「CASSHERN」ともよく似た世界観であるといえる。この“YMMWTBAM”という楽曲の、フューチャリスティックなサウンドに見事にマッチングした映像美は、いつもどおりのキリヤン節で新鮮味に欠ける嫌いがあるとはいえ、やはりその独自性は“圧倒的”といった形容が似つかわしいように思う。

 しかし、この漢字やら紋章やらが随所に設えられたフラッシュバックとイメージカットの連続の映像に託されたストーリーの流れはどういうものなのかとなると、これがいまいちよくわからない、というのが殆どの方の第一印象だと思う。のちに彼(キリヤン)は、今度は宇多田ヒカル名義の作品「Be My Last」において、“観る人が容易にストーリーを把握できない”作風を炸裂させているが、その路線への萌芽は既にここにおいて見て取れる、ということができると思う。

 次々と挿入される、運動やら宇宙遊泳やら部族の踊りやらといった20世紀の人間の営みの数々、荒廃した都市の風景を背後にして次々と現れる高度に発達した機械文明(の残骸?)、やがて現れるUtaDAの姿は、その殆どが機械から成り立っている。やがてその荒廃した鈍色の空をバックに、水銀のような液体金属様の人間の姿が立ち現れ、彼が自身の肋骨を取り出したかと思うと、途端に方々からワイヤーの群れが襲い掛かっていき、最終的にひとりの女性――UtaDAの裸身が立ち現れる、という流れだ。一方で、機械仕掛けの椅子に座るUtaDAの姿も見られる。一度観ただけでは、一体何がどうなっているのやら、と思うのも無理はない急転直下の展開を持つ映像作品である。

 ただ、この様々な映像の一場面々々々からいろいろなことを読み取ることは可能だ。挿入されている“過去の映像”たちは、どれも人間の跳躍――踊り、跳ぶ姿を描いたものだ。走り高跳びや棒高跳びといった陸上競技、宗教的ともとれる部族の踊り、地球から宇宙に飛び出すロケットと月面に着陸して小さな重力下で跳ね回る宇宙飛行士。それは、どんな時代・地域・状況下でも踊ることを忘れない人間の姿と、常にその限界を押し広げようとしてきた人類の飽くなき挑戦の姿勢の両方を描いているように思える。恐らく、この“YMMWTBAM”という楽曲がダンサブルでフューチャリスティックなサウンドを軸にしていることも意識し(演奏シーンの挿入はそういった意図だろう。特にバスドラを打ち鳴らすカットの入れ方は非常にクールだと思う)、一方でこのPVのテーマが、人類の限界を跳び越えて何かを成し遂げようとする姿勢に関連している、という両方を併せた結果の表現なのではないだろうか。よく気をつけて見てみると、映像の途中には遺伝子操作のそれと思しき細胞と針のカットも挿入されている。これもまた、ま宇宙空間に果敢にも跳び出し初めて地球以外の天体に降り立ちダンスを踊る宇宙飛行士の姿同様、生命という永遠の神秘に挑み嘗ては禁忌とされてきた領域に人類が踏み込んでいく挑戦的な姿勢を描いているようにも思えてくる。

 一方で謎めいているのは、機械仕掛けの寝台に横たわったUtaDAの姿だ。丁度00:30を過ぎたあたりから“彼女”の姿は登場するが、最初っから頭部だけが生身であって、その他のカラダの部分は殆ど機械の様子。そして、楽曲の終局近くではその顔面すら半分に解体され、その下が機械であったことも明かされる。なのに、更にラストシーン近くでは機械椅子に座りバストアップが人体であるUtaDAのカット。これは一体どういうことだ?? さっき彼女は寝台で全部バラされたのではなかったのか? ここらへんが、このPVの一番よくわからないところだと思う。

 そして、あの03:00を過ぎた辺りから突入するシーン、“男が自身の肋骨を一本取り出し、それが女の身体に変貌する”というくだりは、まんま旧約聖書の『創世記』の冒頭である(こちらのページの02:21を参照のこと)。 よくよく見てみると、そういえば映像の中には1分半を過ぎた辺りで一匹の蛇の姿が(やや唐突に)挿入されている。これも、ご存知人間を唆(そそのか)しエデンの園から彼らを追放する切っ掛けを創った蛇のことを象徴しているのだろうから、もう間違いないといっていいだろう。

 しかし、コアな宇多田ヒカル/UtaDAのファンのひとは、彼女の作品の中にこのような旧約聖書の一節をモデルにしたシーンが出てくることに違和感を感じていたのではないだろうか。

 確かに、この楽曲のタイトルは“You Make Me Want To Be A Man”、つまり「アナタはワタシを男になりたいと思わせる」というもので、男女の間の軋轢やら誤解やらを取り上げた楽曲だから、NYと東京の間を小さい頃から行き来し西洋キリスト教社会にも造詣が深いと思しきUtaDAが、その男女の雛型、原型たる“アダム&イヴ”の物語を取り上げるのは、案外自然なもののように思える。何しろ、UK&EUという歴史的にもキリスト教と繋がりが深い(というか中核にあった、と言ってもいいのだろうか。歴史には詳しくないので知らない。すまん。)地域にデビューする際の挨拶代わりのPVなのだ、そういう世界観に敬意を表しておくのも悪くない、という判断が下されても不思議ではない。
 
 しかし、コアなファンならご存知にように、彼女はこの“アダム&イヴ”の物語を、真っ向から「嫌い」と言い放っているのである。

 以下、1999年07月04日(よりによって米国独立記念日だw)のメッセからの引用である。

「有名なカップルをテーマにした曲書いてみない?」ってプロデューサーさんが言い出して、彼はアダムとイブをプッシュしてたのね。でもそれってちょっと私っぽくない感じ??それに、西洋の男女差別を象徴する話だから私は嫌いだし。(だってあれ、女は夫のイイナリになるって神様に約束させられるんだよ??)んで!Bonnie&Clydeにしちゃったのさ。

・・・ご覧の通りである。(太字は筆者による強調) ここまで言い放って、“アメリカを大混乱に陥れたカップル”であるボニー&クライドの逸話をテーマとして取り上げ、コンサートのラストを飾らせるような大切な楽曲“B&C”を創り上げたのである。なのに、ここに来て全英全欧進出だからって、その元々の主張(というか、嗜好、だろうかな)を曲げてまで、市場に阿(おもね)るような内容のPVをつくっちゃったの??それってちょっと解せないなぁ・・・彼女がそんなことで変節しちゃうだなんて、ちょっと幻滅かも・・・これが、当時(もう1年以上前か)この映像を見たコアな宇多田ヒカル&UtaDAファンの大方の意見だったのではあるまいか。

 だが、ちょっと待って欲しい。本当にそうだろうか。彼女が、そんなに理由で自己の価値観を捻じ曲げるようなことをすると、本気で思える?? 「まさか。」 そう、その通りだ、ワタシもそう思う。
 
 
 では、このミュージック・ビデオのストーリーは、一体どう解釈すればいいのだろうか?? 彼女の本当の本音は、夫である紀里谷和明氏の狙いは、どのあたりにあるのだろう?? それをここから(妄想も交えつつ)解き明かしていってみようと思う。
 
 
 私が思うに、この映像作品は、タイトルを二重に解釈して構築されているのではないだろうか。“You Make Me Want To Be A Man”・・・この最後の単語“Man”は、歌詞と訳詞を見れば分かるとおり、歌の中では“男性”という意味で使われている。しかし勿論、ただ単純に“人間”という意味でも使われる。なるほど、男と人間が全く同じ表記だなんて、ここらへん、英語というのはそもそもからして男女差別的なのかもしれないんだな、と余計なことを考えてしまうがともかく、このタイトルは「アナタはワタシを人間になりたいと思わせる」と解釈してしまうことも、可能だということなのだ。“Man”という単語を、“男性”と“人間”の二重の意味で解釈する・・・これが、この作品の鍵となる発想なんだと推測する。

 灰色の空、鈍色の摩天楼。どこも見渡す限り世界は荒廃としていて、金属の残骸だらけの風景だ。その中、どこかの地下深くに、一体のロボットが寝台で横たわり、解剖を受けている。今や生身の人間の姿は映像の中にしか見られなくなり、もしかしたら、この世界の最後の“生き残り”が、この一体のロボットなのかもしれない。その“彼女”に、誰かが過去の人間たちの様々な記録を次々とインプットしていき、尚且つその機械の身体を分解しそのデータをリチェックしていく。彼女の新しい身体を得る為のリストア作業に入っている模様だ。ひとつの個体の、もうひとつの複製を作り上げる作業――それはまるで、嘗て遺伝子操作によって生命としての禁忌の領域に踏み込んだ過去の人類の嘗ての所業と同調するかのよう。彼女の身体の複製は最終段階に入り、突如として液体様金属が荒廃した金属土からめきめきと生まれ出でてゆく。実際の旧約聖書の創世記には、神が土の塵から人間を形作った、とある。それに倣ったものだろう。そうして、まずは“彼女”の姿とは似ても似つかない一体の生命――“男性”が創り上げられる。その“彼”の肋骨が一本抜き取られ、解体されきった旧い機械身体の右手がくわっと開かれたかと思うと、みるみるうちにもう一体の新たな個体が誕生してゆく・・・それこそが、まさに元の“彼女”の写し身であったのだった。

 しかし、そもそもこの一連の作業を執り行っているのは一体何処の誰なのだろう? それは作品の終局で明らかになる。ビデオの前半からたびたび登場していた“髪を靡かせている方のUtaDA”が、実はその主だったわけである。機械塗れの椅子に座り、最後に自身そっくりの顔をし人間の身体を持つ個体を生み出したこの彼女が、いわば、荒廃した近未来的世界観の中で繰り広げられた『新・創世記』における、“神”だったのだ・・・。

 おわかりだろうか。旧約聖書の創世記には『神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』とある。(先ほどのリンクの01:26より)その後、『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、』(02:07より)とあるように、神に似た人とはアダムのことであった。そして、その旧約聖書での創世記の記述に倣い、このビデオでの『新・創世記』でも“神”は、まさに自身の姿に似せて、最後の最後に人を作ったのだった・・・・・・ただし、旧約聖書のそれとは違い、神に似ている姿とは男性のそれではなく、人間の女性そのものであったのだ。この作品の中では、男性は、“神の写し身”である女性を創りだすための何らかの媒介に過ぎず、実際には女性こそが神の創りたかった姿なのであった。まるっきり旧約聖書とは男と女の扱い・役割が逆転しているのだ。ここが、この作品の一番のキーポイントなのである。

 先ほど「二重の意味」というのを筆者が述べたことを思い出して欲しい。この『新・創世記』における神は、機械塗れの椅子に座る首から上以外は機械の存在である。“彼女”が、最終的に、生身の身体を持った写し身を創りだす。(最後の最後の場面である) これは、“You Make Me Want To Be A Man”の“Man”を「人間」と訳したときに初めて意味をもつ。彼女は、過去の人類の歴史をその新しい個体にインプットし、機械の身体である自分から人間の身体を創ろうとしたのである。ここでの“You”は人類そのものだろう。つまり、このタイトルは、この意味を含んだ段階では、「アナタは、機械の私に、人間になりたいと思わせた」という訳になる。力強く大地を駆け抜け高く跳び、果ては月にまで到達するような栄華を味わいたい、その希望が、機械である彼女が生身の人間を創りだす大きな動機になったのではなかろうか、そう夢想される。

 「二重の意味」――そのもう一方は、“Man”を“男性”と訳す方である。こちらは、動詞の“Make”を読み替えなくてはならない。今までは「~と思わせる/~させる」という使役の意味に訳されてきた。「あなたは私に男になりたいと思わせる」というような。(訳は筆者による) しかし、もしかしたらこれは、本来のシンプルな意味、「創る」の方だと解釈できないだろうか。まさに、“You make me.”~「あなたは私を創る」なのではないか。そうなると、後半の“want to be a man”が浮き立つが、これは“you want to be a man/あなたは人間になりたい。”の主語が抜けた形とみるのが一番妥当となる。(やや苦しいが) ここまで含めて訳すと、“You make me want to be a man.”は、次のように解釈できる。

「あなたは、人間になりたくて、私を作った。」

・・・機械の身体を持つ女性の姿をした神は、人間の女性の身体を得ようとして、その媒介になる“男性”を作ったのだ。“you”とは神、そして、“Me”とは人間の男性の存在のことだったのである・・・。

・・・どうだろうか、今までに貴方が持っていた様々な疑問が、総てではないとはいえ、かなり解きほぐれたのではないかと期待する。この推測が、議論の内容も含め妥当かどうかはさっぱりわからないが、とりあえず、ある程度のスジは通っていると思う。このミュージック・ビデオに描かれたストーリーとは、“神”の姿が実は女性だったと解釈し創世記を書き変え、一方で本来男女間の葛藤を描いた歌詞の楽曲を、人間と機械、というテーマに置き換える、というなんとも度肝を抜く程に大胆な内容だったのである。

 そう考えると、当初「西洋社会に阿ったか」と危惧していたのが、まるで冗談だったかのように感じられてくる。宇多田ヒカル(UtaDA)と紀里谷和明の二人は、西洋の市場に阿るどころか、その基幹部分を痛烈に攻撃してやらんとするような、超絶攻撃的・挑戦的な内容の映像作品で、西洋市場に“殴りこみ”を掛けたのだ。旧約聖書から取られた「EXODUS/出エジプト記」という名のアルバムを引っ提げ、旧約聖書の「創世記」の主題を根底から揺さぶるような解釈の映像作品をイの一番に投入する――生粋の日本人である筆者には、このような聖典の内容の書き換えを主張するストーリーを映像化することが、どれだけ“危なっかしい”ことだったのかは、まるで想像がつかない。しかし、少なくとも、宇多田ヒカルというひとが、全米なり全英なり全欧なりに進出しようが、全く16歳の頃と変わらず(まるでボニー&クライドが全米を大混乱に陥れたように)今度は頼もしいパートナーである夫を伴って西洋社会を大混乱に陥れかねない野心的な作品を作るような異様なまでに挑戦的な性格を保持・堅持して・・・いや、更に研ぎ澄ましていっている、ということは、わかりすぎるくらいにわかると思う。彼女には阿りだの遜(へりくだ)りなどということは全く無縁であり、そのようなことを心配することがまるで杞憂であることを、明快過ぎるほど明快に示してくれたのが、この“You Make Me Want To Be A Man”のミュージック・ビデオだったのだ。そう解釈すれば、この作品を最初見て怪訝に首を傾げた向きも、ちょっとは彼女のことを見直してくれるのではないかと思えてくる。


・・・ただ、そのわりに、実際には全く全英全欧市場で話題にならなかったのは拍子抜けだったんだけどね。(T.T)


・・・まぁ、いいさっ! そのうちまたUtaDAは2ndアルバムをリリースして、もっと成長した姿を我々に見せ付けてくれるに違いない! 将来、UtaDAの名が全世界に轟き渡ったとき、この“You Make Me Want To Be A Man”のミュージック・ビデオは「最初期UtaDAにおける、最も野心的でアナーキーな傑作」として、きっと再評価されることだろう。その日が来るのを楽しみにしていようではないかっ。うわっはっは♪



 しかし、このような、キリスト教の聖典(聖書)に対して攻撃的な映像を撮影した映像作家であるひとの芸名“キリヤ/Kiriya”ってのが、まさかそのキリスト教の聖地である“エルサレム”のヘブライ語での愛称だなんて、昨日の昨日まで全く知らなかったよ・・・(瀑汗)・・・教えてくれた人、どうもありがとう、この原稿を準備しているまさに真っ只中だったので、完っ璧なタイミングでした・・・(T∇T)

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