無意識日記
宇多田光 word:i_
 



げいのうじんが公人扱いされる理由はおおざっぱに言って2つある。

ひとつは、ゴシップを扱うマスメディアの都合だ。誰かの発言や行動を公的なものとして扱えるなら、プライバシーへの配慮が極端に簡素化され取材が格段にやり易くなる。また、それによってメディアは言動を広めた責任を問われづらくしている。本来ならば、報じるかどうかの取捨選択の責任は彼らが取らなければならないのだが、そんな風にテレビに出ている人が発言する機会は少ない。まとめると、げいのうじんをメディアの隠れ簑と盾にする為に彼らを公人扱いしているのである。

もうひとつは、電波の寡占と販路の独占である。特にテレビはこの点突出している。電波は公共物なので、それを商用利用するにはそれなりの社会的責任が伴う。その為、テレビに頻繁に出る人間はその普段の言動にも責任を持つべきだという考え方だ。この話と販路の話は入り組む上あまり感じのいい結論を導けないので省略しよう。ただ単に、もっと開かれていれば質が向上する可能性がある事を指摘するに留めよう。


以上から、ヒカルがメディアと接する場合、その都合に振り回されない事と、既存の電波と既存の販路とは距離を置く事、などが注意点として導かれる。

驚いた事に、ヒカルは既に販路に関しては実験を行った事がある。「点」「線」について、彼女は通常ではない取次を通じて書籍を全国発売した。宇多田ヒカルの知名度ありきの思い切った方法論だったが、今後はプロモーション活動に関してもそのような実験性を持ち込む事が期待される。

とはいえ。肝心のレコードに関してはUMGのEMIレーベルと世界契約を結んでいるので、こちらは既存の販路を利用する事になる。こちらについては、販売網として寡占が成立しているかは判断が難しい。日本以外の国については私は全くわからない。日本国内についていえば、UMGの利用している販売網を使わない選択をしてもただコストが上がるだけでメリットは薄い。

もう誤解は解けているだろうか、CDが配信に較べて価格が高いのは、材料費や配送代がかかるからではない。そんなものは消費税の増減で吹っ飛ぶような値段でしかない。その値段の殆どはレコード会社の制作費と宣伝費の回収である。それをよしとしないAppleが強気に出て配信の価格を下げさせデファクトスタンダードとなった、というのが実際の歴史だ。

しかし、レコード会社も黙ってはおらず、DRMフリーを口実にして配信の単価を上げる交渉をし、日本では諸外国に類をみない1曲250円という高価格を実現した。12曲買うと3000円。CDを買うのと変わらない額だ。いやはや、交渉事というのはわからないものですな。

というような経緯なので、ヒカルが新作なり新曲なりを出す時に独自の価格設定をしてくる可能性は殆ど無い。

抜け道としては、海外の配信サイトに登録してそこから購入するという手法がある。法的にはグレーなので一切オススメしないが、iTunesStoreなどはアメリカのアカウントをとるのに適当な住所さえ入力すればOKだった、などの記述が昔はあった。今は知らんけど。

兎に角、日本のコスト高は縮小均衡の成れの果てである。アジア諸国でも各国盤でヒカルの新作がリリースされるだろうが、昔当欄で書いたように一定期間(年単位で)輸入禁止措置がとられているので暫くは入手困難だろう。

ただ、その代わり、ヒカルが世界契約を結んでいる為、日本が独占先行発売となる可能性が非常に高い。いやほぼ確実である。EXODUSは米国に較べて1ヶ月早くリリースされたし、フィジカルに絞ればThis Is The Oneは2ヶ月先行発売だった。多少高価でも、年齢層の上がったヒカルファンなら躊躇わずに従来通りの価格で購入するだろう。結局、新しい販路を開拓する理由は無いだろう。


なんだか堅い話になったな。次回はもうちょいくだけたテーマでいきたいもんです。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




どこかの議員さんが同性愛者を異常動物だとTwitter上で発言して炎上している、という記事を読んだ。種々のリテラシーを学ぶ機会の無かった世代には同情を禁じ得ないが、そんなん学ばなくてもこの発言が不適切である事はわかるだろう。同性愛についての知識はほぼ必要ない。いや、対象が同性愛者かどうかについての議論も必要ない。

問題なのは、他者に対して公人が異常だと発言する事自体なのだ。例えば、プロ野球選手に対して「あんなにムキになってボールを投げたり打ったりするのは生物としては異常行動だ。脳に欠陥があるに違いない。」などと発言したら、シリアスに捉えられるかどうか以前に、言われた方はいい気はしない。人によっては激怒するかもしれない。ただそれだけの事だ。他者を異常と公的に指弾する事に問題がある。飲み屋で愚痴る分には、是非どうぞご自由に。

毎度言っている事だが、言動は行動なのだ。ある人がある思想をもつ事は自由だが、それを世に向けて発信するとなればどこかで軋轢が生まれるのは避けられない。

「表現の自由」というのは、互いの表現の自由を最大限尊重する意思を持つ者同士の間でやっと成立するものだ。その為、発信力を持つ人間はその規模に応じて自分の発言内容に他者の自由を抑圧する原因が潜んでいないか絶えず検討をし続けなければならない。他者、しかも少数他者に向かって多少なりとも権力をもつ側の人間が異常のレッテルを貼った時の影響は幾ばくか、予め考えなくてはならない。が、常に検討を差し挟むのは思考の経済に反するので「他者を安易に異常呼ばわりしない」と自戒をひとつ加えて以上とするのが常識的なやり方だ。それができるかどうか。それだけ。

なお、同性愛行動が異常かどうかという検討は、他の生物に関する研究から、少数ずつではあるが幾つもの種において日常的に確認されている。まだまだ研究は途上だが、集団内に一定数同性愛者を含む事で淘汰上の利点が生ずる可能性も検討に値する割合である。異常どころか、社会性動物にとって必要不可欠な構成要素かもしれない。安直な判断はいずれにせよ早計なのだから、普通に基本的人権を尊重して対処するのが現時点での標準的な対応だろう。


ところでところてん。公人という表現は常に曖昧で、今回の場合は議員さんという事で余り議論の必要は無かったかもしれないが、たまにげいのうじんの場合でもそれが公人の言動として扱われるケースがあるようだ。次回はそこら辺の話から。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スコットランドしかりだが、Kuma Power Hourには様々なHikaruの未来へのヒントが隠されて、いや、晒されているとみるべきだろう。回数は少なかったが、またもう一度聴き直してみる価値はある。私の場合、DJつきコンピレーション・アルバムとして愛聴しているので“もう一度”と言われてもまるでピンと来ないのだが。大して思い入れもないくせに何回Atoms For Peaceを聴いたかわからない。

ここらへん、音楽番組だったのだろう。曲を聴くという目的があるから、トレボヘに較べて聴き返す頻度が高い。週間と間欠月間ではそりゃ違うんだが、音楽番組という看板は麗しかった。

様々なアーティストの名前が出てきた。先述したコクトー・ツインズやザ・ブルー・ナイル、モグワイ、更にはP.J.ハーヴェイやジェフ・バックリィ、レッド・ツェッペリンに大正九年、カサンドラ・ウィルソン、ステレオフォニックス…それぞれに理由があるとはいえ、やっぱバラバラだな。しかし、そうやって掴みどころが無いからこそ、コヤツからは次に何が飛び出してくるかがわからないのだ。

どうせ復帰するならまたKuma Power HourもInterFMといわず著作権包括契約してる所ならどこでも復活させて欲しいんだが、1人で1時間番組のマスターを作り上げて電送するだけの時間と気力が、通常の活動の中であるかというと、無い。トレボヘは毎週友達のうちに泊まりに来るくらいの感覚でリラックスして番組に取り組んでいたとは思うが、熊淡はどうしたってこだわりが出てしまう。結構手ぇ抜けない。通常の番組であればそこでリスナーからのリクエストに助けて貰うのだが、結局父親からのステレオフォニックス一曲しか他人に選曲を頼らなかった。そりゃあ、負担は大きい。

次は、いやもう30分番組でもよいよ。余計に難しいか。出来る範囲で、出来る範囲で。「出張DJ」なんてどうだろうか。「あなたのラジオ番組に宇多田ヒカルが赴いて、いつでも曲紹介しますよ!」みたいな。自分の曲を売り込みにゲストで来るのは普通だが、なぜかわざわざやってきて他人の曲をかけて帰る。なんて謎なんだ出張DJ。定着したら受け入れられるだろうが、そこまで行くのが大変だろうな。


話がよくわからない方向に行ってしまった。テレビよりラジオにずっと親しんでこの30年くらい生きてきた身にとって、「宇多田ヒカル×ラジオ」という組み合わせはこの上無く魅力的なのだ。多少意味不明な事を書いていたとしても、どうかご容赦願いたいです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




新作が何ヶ月か一年後かは知らないが、ひとつ注目したいのはまずはロンドン暮らしの影響だろう。

イギリスという国、特にロンドンは、昔から市場規模は小さい癖にやたらと世界的な影響力を発揮する。ブリティッシュ・インベイジョンとまで言われた威力も、実態をきけばロンドンの下町の片隅に端を発している場合も多い。また、アメリカに行けばスケールの大きなショウを展開するのに本国ではさほど、というケースもある。裏を返せば、一度も当地に行った事の無い人間からすれば、ロンドンに居てロンドンの偉大さはわかるのか?という疑問に行き着く。

その成果は、普通で考えれば人脈として表現されるだろう。既に桜流しではイギリス人シンガーソングライターであるポール・カーター@thisisbenbrickと共作している。彼もそれほど有名な人ではなさそうだから、現地で普通に知り合って意気投合したのではないかと妄想が捗る。桜流しの共作者として永遠にその名を刻めるだなんて凄い。羨ましい。それはいいとしても、Hikaruがイギリス人脈をどれだけ広げたかで音楽性も変わるだろう。

もっとも、『EXODUS』をたった4人で仕上げた人である。闇雲に人を増やす事はすまい。気の合う人だけを、必要最低限、という風にする事も十分考えられる。何の情報もない今だから幾らでも邪推できようというもの。スペクトルは広い。

ロンドン暮らしといっても、各地に飛び回っていた可能性もある。ロンドンからパリだと日本の国内旅行という感覚らしいし、イギリスには他にもバーミンガムだリバプールだと各地に都市があるし、イングランドのみならずウェールズにスコットランドに北アイルランド、アイルランドもある。そこらへんまで行くと交通の便がどんなものかいまいち想像がつかないんだけど、NYCとTOKYOを何度も行き来する生活を続けてきた人にとってはどうという事のない距離なのかもしれない。

特に、中でもスコットランドとはどう関わったかには興味のあるところだ。スコットランド特集と称して夜10時の番組でコクトー・ツインズを30分かけ続けた人である。更にそこからザ・ブルー・ナイル、モグワイと畳み掛けた。そんな人がロンドンに(ずっとではないにせよ)5年も住んでいて、一度もスコットランドに行ってみようとならなかったとは考え難い。或いは、音楽的挑戦がそこには隠されていて、迂闊に「スコットランドにやって参りました」と呟こうもんなら色々とネタバレをかましてしまうおそれがあるのか、もわからない。しかし仮にそうだとすると、新作に顕われる最も大きな影響はスコットランドである可能性も出てくる。頭の片隅にでも覚えておいてよさそうだ。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




マイナンバー制度が話題になってるからってFYIのカバーまで引っ張り出されたら嫌だな…と余計な事を考えつつ。(『…You know my number~♪』)

しかし、なかなかよいカバーを聴くと「Utadaのナンバーでも宇多田ヒカルのうたアルバムやってくんねーかな」だなんてついつい考えてしまう。「Utada Songs」みたいなタイトルになるだろうか。

しかし、曲のクォリティーは遜色ないとはいえ、Utadaの歌には圧倒的に「物語」が足りない。こういう企画は、いい曲が揃っているからといって成立する訳ではないのだ。

「宇多田ヒカルのうた」アルバムには、様々な物語があった。リーダートラックとして配信された事からもわかるように、浜崎あゆみが宇多田ヒカルの歌を歌うというそれだけで既にトピックだった。あの時代を彩った二大歌姫がここに来て交わるという。昔を知る人なら僅かでも「おぉ」となった筈だ。

他にも、凄まじいマニアックぶりを見せつけた加藤ミリヤや、影響を受けた次世代からの返答として模範回答を見せてくれたtofubeatsにミリオンセラーの大先輩である井上陽水からのリスペクトなど、語れる要素が沢山あった。その中でだから例えば岡村靖幸の「いや俺そこまで思い入れないんだ、いい曲だとは思うけどさ。」という"物語の無さ"もまた光った。ヒカルが16年かけて様々な人に様々な局面で影響を与えてきたからこその企画だったといえる。

「Utada Songs」を企画したとしても、そこまで語られる要素が無い。ただ音楽的な興味だけで楽しんでしまう私のような人間は少数派だろう。ただオリジナルのよさを再確認させるだけの企画になってしまう可能性が高い。

しかしながら、もしかしたら海外から、Simple And CleanとSanctuaryに関しては、思い入れタップリに語れる次世代のミュージシャンが現れているかもしれない。ゲーム侮るまじである。こどもは小さければ小さいほど大きく影響を受ける。まだ15年も経ってはいないけれど、もうそろそろSanctuaryを感動して聴いて育った人たちがプロになってもいい頃だ。彼らによるカバーなら、聴いてみる価値はあるかもしれない。

物語の無さは、しかし、寧ろカバーによって新しい物語が作られるチャンスを内包しているといえる。平たく言えばオリジナルよりカバーが売れて曲が有名になるケースだ。今自分の脳裏に浮かんだのはホイットニー・ヒューストンの“I will always love you”だが、あそこまで極端(Bodyguardのサントラはアメリカ売上歴代十傑に入ってた事がある)でなくても、知名度で凌駕してしまい、「あれってUtadaの歌だったんだ」と冗談とも洒落ともつかない一言を投げかけられるかもしれない。痛し痒しというか、そういうケースも有り得るからには、物語の無さもまたメリットたりえるのである。

世代が変わり時代が変わり地域が変わる。すると昔のどこかの曲が受け入れられる。それがあるから、カバーやリメイクは止められない。ヒカルが興味を持つ分野とはいえないにしても、ファンからすれば、曲のよさを認めてもらって溜飲を下げつつ「やっと今頃気付いたのか」とイヤミの一つも言う娯楽を味わうのは、趣味がいいとはいえないにしろ、そんなに悪い事ではなさそうだ。勿論、リリースしたその時に大ヒットしちゃうのがいちばんいいんだけどねー。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




原節子が亡くなったそうな。特に悲しくはない。何しろ、実質引退して半世紀が過ぎているのだ。私が生まれてこの方、彼女の出演する作品を心待ちにした経験もなければテレビで現在のお姿をお見かけすることもない、見ても総て過去の映像だらけの、いわば“死人扱い”でしか彼女の存在と接してこなかったのだから今更死なれても何も変わらない。勿論遺族の方々は全くそうではないだろうが、メディアを通した繋がりなんてそんなものだ。人が亡くなって悲しいのは、毎日会ってた人に突然会えなくなる、会ってなくてもまたいつか会えると思っていた希望が断たれる、そういった事に起因するものなので、原節子逝去はニュース以上の価値を持たない。せいぜい、これから追悼特集が各地であるのだろうなぁというくらい。

しかし、報は報で、感慨深い。これで、小津の「東京物語」に出演していた主だった役者で生き残っているのは香川京子1人だけになってしまった。あの名作と(いつであっても)今という時代を繋ぐ糸がもうこれ以上ないくらいに細くなっている。一方で、同作の評価は特に海外で徐々に高まっている(Wikipediaを参照)。今回の逝去は、色々なきっかけに、またなるかもしれない。

原節子は伝説の大女優として持ち上げられているが、こと芝居に関しては共演した杉村春子と較べるべくもない。それでも銀幕を飾れ続けたのは、勿論その容姿端麗によるところが大きいんだけども…ってこんな話終わらんな。やめとこ。


ヒカルもこのまま引っ込んでたら「伝説の大歌手」として持ち上げられていたことだろう。プレイバックPart2をカバーしているからか、19歳で結婚した時はそのまま引退すれば山口百恵のように伝説になる、とも言われた。今振り返れば似合わないもんだが、それは結果論で、続けたから似合わなくなったのだ。

原節子は、幾つかの記事によるとマスコミの盗撮を恐れて自宅の庭にすら出なかったという。なんとも心休まらない。カメラを向けられることが心底いやになっていたのだろうか。

マイクも、向けられるとイヤかもなぁ。自分で握って持って自分に向けるのとだいぶ違う。真逆といっていい。そこさえクリアできれば、引退する事はないだろう。もうちょっとだろうな、きっと。カメラの前に立つんだったら、おめかししなくっちゃね。久し振りだな。結婚式を除けば、5年か。50年より幾らかはマシだろう。再び勇気にお目にかかれる。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




Winter Classicsのカバーは(ってあれ正式名称覚えられる気がせん)、カバーならではの遊び心に満ち溢れたアレンジが光っている。特に、二番のAメロからかぶさってくるソプラノ・ピアノによる三連符で押し切るフレーズの連続はリズムに乗り切れるか乗り切れないかの瀬戸際を攻めていて何とも心地良い。

こういった実験的なアレンジは、あクマでオリジナルあってのものだろう。そういう意味では私の楽しみ方は元曲を知らないと出来ない類いの偏ったものなのかもしれない。宇多うたの「光」なんかも似たような立ち位置を感じる。カバーでなくとも、同じく“光(Godson Mix)”や“You Make Me Want To Be A Man (Bloodshy and Avant Mix)”といった名リミックスもまた然り。いずれもその日の気分によっては「これオリジナルよりいいんじゃねーの」と思う事もあるくらいなのだが、それもオリジナルが手堅くあるべき姿をまず提示してくれているからこそ。遊び心は、その上に立てるから自由なのだ。

そう考えると、Hikaruが自身の曲をリミックスしたアルバムをリリースするのも面白いかもしれない。かつて"HAYATOCHI-REMIX"という奔放なリミックスを披露した事もあるが、あれ位自由に立ち居振る舞ってくれれば嬉しいかもしれない。更に、そのオリジナル・バージョンを収録したDISCもつけて売るというのはどうか。逆からいえば全曲リミックスつきベスト・アルバム。うーん、発案しておいて何だが気の乗ってないヒカルの顔が思い浮かんだ…。

それはおいても、やはりヒカル自身によるリミックスというのは興味がある。まず最初に思いつくのは桜流しだ。桁外れの名曲なだけにサウンド・プロダクション・クォリティーにどうしてもいちゃもんをつけたくなってしまう(この3年でこの日記に何度書いたかもうわからない)のだが、次のアルバムに収録する際にはリマスタリングにとどまらずリミックス、リプロダクションを施してくれてもいいのではないか。制作時期の違いから来る他の楽曲との距離を埋めるべくアルバムにフィットするようなサウンドにブラッシュ・アップして貰ってもいい。

そういえば、逆パターンもあったな。Utadaの"Wonder 'Bout"や"Takin' My Money Back"といった楽曲は初出がリミックスである。また、"Blow My Whistle"のような例もある。これらの本来の"オリジナル・ミックス"を披露してくれる機会もまた所望したい。

どの場合も、一旦完成して世に問うた楽曲をもう一度再構築(Re-build)して世に問い直す行為であるが、それはつまり新劇EVAと同じような事をしてみようという提案でもある。もしかしたら、自分でも思わぬ方向に音楽性が推移・変化するかもしれない。これは、やってみないとわからないので、何というか、Hikkiがその気になってくれるのを待つしかないだろうな。

勿論、ヒカルが創造性に溢れていて、次から次へと新曲が出来てしまってとても過去の遺産をいじくりまわす時間がないというのならそれがいちばん大歓迎である。あクマで、種々の機運が折り重なったら遠慮せずにやってみてはどうですか、という程度の話。アイデアを頭の片隅に置いておくだけでも、大分違うからね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




へぇ、FYIがカバーされたのか。珍しいな。クレジットはまだ見てないのだけれど、アルバムのタイトルは「Winter Classics」という事で、Japanese Popsのウィンター・スタンダード・コレクション、則ち冬歌特集といったところか。

坂本龍一の「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」を歌詞つきでカバーするなら他のバージョンもあっただろうにわざわざUtadaのバージョンを選んでくれたのは嬉しい限り。歴史と思い入れの深い作品だから、6年前というのは最近に分類されるところ。その分制作者にとってはまだ印象が新鮮なままだったという事か。

トラックを一聴してみると、寧ろ、Hikaruのオリジナルより元曲のニュアンスを活かせているようにも思う。冬歌特集というコンセプトも念頭にあったのか、より冬らしい音色とサウンドが援用されている。FYIにあったエキゾティシズムを醸すあのフレーズやあのフレーズは削られていて、多分日本人のアレンジなんだろうなと思わせる。

ここらへんの捻れが面白い。そもそもの元曲のインストは日本人作曲で、それをUtadaを経由して英語詞で日本人なりの解釈をしてカバーをする。先祖がえりというべきか隔世遺伝というべきか。こうして聴き較べてみると、Stargateの捉え方が「日本人の女の子がやってきた。リュウイチ・サカモトも日本人だ。今こそミスター・ローレンスを使うべき時だ。」といった感じだった事が今更ながらに確認される。なのに英語詞というのがUtadaの特異性だが、今回のカバーはそういった「日本らしさへのこだわり」が最早跡形無い。勿論Stargateは匙加減を心得ていて、エキゾティシズムといっても幾つかのフレーズとサウンドを差し挟む程度におさえている。ここらへん、Stargate主導での立ち上がりだったという話を思い出してHikaruとのパワーバランスがどうだったのかを妄想したくなってくるな。

そういえばと思い出したが、この曲はタイトルが決まるまでに幾つかの過程があったのだったな。どの部分が誰の証言だか忘れてしまったが、Hikaru側がタイトルを「FYI」にしたいと申し出て、坂本龍一サイドは「いやこの曲はミスターローレンスだから」と譲らなかった為最終的に「Merry Christmass Mr. Lawrence -FYI」、則ち「ちなみにクリスマスおめでとうローレンスさん」という一風変わったタイトルになった、という話。その経緯を考えると、このカバーでFYIの3文字が削られている(?)風なのは坂本龍一サイドの希望だったのかな、とも考えられる。なお、サイドと書いているように、こういった取り決めは坂本龍一本人ではなく誰か代理の人が判断を行っている可能性もある。勿論本人の可能性もある。なので、誰と誰がという話にもっていかない方が賢明だ。

それにしても、もう冬歌特集か。日付的には違和感ないが、今年は個人的にはまだ本格的な寒気に襲われていない為ピンと来ていない。こういう歌を耳にする事であらためて冬の訪れへの心の準備が整うのかもしれないね。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




過去作を今後どう料理していくかは長期的なテーマであり、この日記でもしつこく語ってきた。まずは2014年3月10日に「First Love」の15周年記念盤が発売になった訳だが、それ以降がどうなるかは不透明だ。

15周年にこだわるなら2001年3月28日発売の「Distance」がもう来年2016年同日に控えている。新作をこれから出そうというのに15年前のアルバムを引っ張り出してくるのはどうかとも思うが、例えば新作が来年後半にずれ込む見込みなら既に「Distance 15th」プロジェクトは立ち上がっていて最後の詰めの段階に入りつつある、といった所か。FL15が発表になったのは2013年12月9日、In The Flesh 2010 footage の発売日だった。やるなら今回も同じタイミングだろう。単純に、予約数が把握できる位のインターバルなので…と思っていたのだがFL15の時は最初5000で次に5000追加して計10000とし、更に5000を追加して計15000で打ち止めとなった。これは貴重なデータであるし、活かすなら今のうちだ。2年ならば殆ど購買層に変化は無いといえそうだからだ。

しかし、だからといってFL15のデラックス・バージョンのように充実した内容を揃えられるか。これは難しいぞ。まず、Luv Liveのような目玉があるか。思い付くのはMTV Unpluggedの高品質バージョン(即ち、Blu-ray或いはプラチナSHM若しくはその両方)くらいだが、これとて「Distance」のセッションかというとちと疑問符がつく。肝心要の“FINAL DISTANCE”は次のアルバムの曲だし。それに、アンプラは単体でリリースしてもいいしねぇ。

デモバージョンは存在するだろうが、SukiyakiやCalling Youのようなスペシャル感の強いセッションが存在しているかどうか。FL15と似たようなノリでDistance15をリリースするならば、FL15からスケールダウンしたという印象は避けねばなるまいて。

まぁそこらへんの事を全部クリアしたとしても、新作まで一年未満のインターバルとなったらどういう印象になるか。FL15はまだ明日がどうなるかわからない状況で発売されたから「アーティスト活動停止中のスペシャル企画」として受け止められたが、新作が目の前に来ているというのに旧作がリリースされるとなるともどかしさに拍車がかからないか。それもまたプロモーションになるという見方も出来るけれども。

という感じでDistance15th祭りが訪れる可能性は低いとみるが、じゃあいつDistanceを振り返ればいいのやら。20周年?25周年?? ここが難しい。First Loveで15周年という手を使ってしまったからには、どうしても差が出てきてしまう。First Loveは“歴史的事件”だったからと特別扱いしてしまい他の作品については再発をもっと地味にする、という考え方もありかな。或いは、もう全部まとめてデビュー20周年か25周年かで過去作まとめて豪華版で再発、いやいやBoxSetでヒカルの歴史を総括してしまおうという企画も考えられる。そうなると、先日指摘した通り、20周年を狙うならもう某かの計画は立て始めねばならん。そんなに悠長な話ではないのでござる。

まぁいいさ。やり方は幾らでもある、と言いたかった。もっと言えば、ヒカルが休みたい時にはどんどん過去の遺産を利用しましょうよという事だ。遠慮は不要。というか未発表テイクは美味しいのです。ヒカルの場合、スタジオでちょっと歌った鼻歌なんかでも価値がある。ヴァネッサ・ウィリアムズやSMAPのカバーをフルコーラスで聴いてみたくなった人は手をあげろっ(笑)。価値なんて我々リスナーがつけるものだ。惨めな出来だというAutomaticの英語バージョンも、我々が聴いたらとても楽しいものかもしれないのだから。

いずれにせよ、そこらへんの押し引きは今までのEMIレーベルチームに任せておけば大丈夫だろう。きっと我々のニーズに応えた過去遺産の活用法を提示してくれる筈である。年単位で大船に乗ったつもりで待っていようじゃないかい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




えらく古い話で恐縮だがその昔TM NETWORKというバンドが「DRESS」というアルバムでチャートの1位をとった。1989年の話である。

内容はというと既存曲をリミックスして一枚のアルバムに仕立て上げた今でいえば"リミックス・ベスト"な作品だった。すぐ2年前の1987年に普通のベスト・アルバムを出したばっかりだったからそのタイミングも吃驚だったが、更にそれより遥かに売れてしまった事に更に驚いた。つまり当時彼らを取り巻く環境がたった2年で激変したという事なのだがファンとしてはこの変則ベストでTMがトップ・アーティストの仲間入りを果たしたのが何とも彼ららしいというか斬新だなと思ったものだ。

普通こういった企画盤は地味にプロモーションされる(趣旨は随分違うが、普段のヒカルのアルバムと「宇多田ヒカルのうた」アルバムのプロモーションの規模の違いを思い出そう)のだが、彼らは全く真逆をいった。立て続けにシングルを3枚リリースしたのだ。総てかつてシングルとしてリリースした事のある曲を、今度はリミックス・バージョンで…ってそうそう、彼らは(というより小室哲哉は)その26年前の企画を「リプロダクション・アルバム」と呼んでいたんだったな。まだ当時リミックスという言葉ですら定着していなかった時期に「リミックスじゃもうありきたりだよ」とばかりに(実際彼らは数々の名リミックスを既に連発していた)異なったコンセプトを打ち出した。その、「リプロダクション・シングル」をオリジナルよりも更に上位に進出させながらアルバム「DRESS」を1位に持っていったのである。なんともまぁ斬新な企画とプロモーションだった。

その戦略が当たったのは、1987~89年の間に彼らの知名度が飛躍的に上がった事をしっかりと把握していた事に尽きる。新しく入ってきたファンに過去の代表曲を紹介しつつ、更に従来のファンにリミックスを超えるリプロダクションというニュー・コンセプトを提示してただのベストアルバムの乱発から距離を置いた。
当時のファンで「DRESS」を「もう持ってる曲ばっかだからいいや」とスルーしたファンは殆ど居なかったのではないか。

ベスト盤、或いは既存曲のコンピレーション盤をリリースする場合でも、このようにアイデア次第ではアーティストの歴史を変える突破口になり得る。既存のアイデアにとどまらない新鮮さをいかに提示できるか。それにかかっている。


「Utada Hikaru Single Collection Vol.2」の発売から今日で5年経つ。5年か。最近の邦楽のサイクルだとここらへんで「Vol.3」が発売されてもおかしくはないが、勿論ヒカルの場合1曲しかないので出る訳がない。しかし、ここまで来ると新しい世代にもう一度過去の名曲を見直して貰う機会を作りたくなってくる。一年前の「宇多田ヒカルのうた」アルバムはその点において非常に優れた企画だったが、更にもうひとまわりスケール・アップした過去曲プロジェクトもそろそろ必要になってくる、かもしれない。「DRESS」の話をしたのは、既存曲主体のプロジェクトであってもタイミングとアイデア次第ではオリジナル・アルバムよりも盛り上がる実例があった事を示したかったからだ。流石に同じ急上昇気流の中に宇多田ヒカルが巻き込まれる可能性は薄いが、新作を盛り上げる為にも、過去の遺産をどう使うか、今一度考えてみて欲しいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




単純にファンとして続編やPart2を作って欲しいと思える曲はあるだろうか。

真っ先に思い付くのは"Beautiful World"で、理由は単純、まだ映画が終わっていないからだ。桜流しを挟んでもう一度、となるけれど何しろタイトルの元々が「序破急」、即ち起承転結の美学に基づいているのだからもう一度ターンしてくる事には必然性がある。いちばん安直なタイトルは"Beautiful Boy(s)"だろうが、たったこれだけでもワクワクしてしまうのは私だけだろうか。序と破で用いられた曲の、今度はリミックスではなく続編としての別曲。ドラマティックに行けると思う。"Sleeping By"とか"It's Only Love"とかでもゾクゾクしてきそうだ。なんつーか、ここの続編は鉄板な気がする。いや、やるだろうという予想ではないぞ。やったらサマになるぜという予想だ。

同じく今度はKingdom Heartsはどうか。逆にこちらは光やPassionの続編という感じではなさそうだ。ゲームを実際やっていないのでわからないが、恐らく、一作毎にきっちり起承転結がつけられているのではないか。ならば、さほど続編とかPart2とかにこだわらなくてもいい気がする。寧ろ、いつかKingdom Heartsの"集大成的作品"が計画されたならば、光やPassionを引用した壮大な楽曲を作ってもいいだろう。オーケストラ・バージョンなら容易なんだろうが、歌入りだと難易度が高いなぁ。

他には、例えば「虹色バスの行き着く先」をテーマにした作品や、BLUEの子が"救われる"物語、プレイ・ボールに対抗した"キックオフ"、"ラブ・オール"、"ノーサイド"なんかもいいかもしれない。あぁ、"Kiss & Cry"に続くスポーツ用語タイトル第3弾になるか。SAKURAドロップスでボクシングを取り上げたのだから"トリプル・クロス・カウンター"とかさ…いやダサいっていうけれど「ULTRA BLUE」も相当なもんだぞ。こんなの楽曲次第だ。

余り続編があると認識されていないが、"Be My Last"もまた続編を作れる曲である。「春の雪」は三島由紀夫作「豊饒の海」四部作の第一作に過ぎない。あれから十年、続編の「奔馬」が作られたかどうか私は知らないが、どうせなら映画のタイアップがなくったってHikaruが独自に四部作の歌創っちゃってもいいんじゃないかと。その歌がヒットする事によって映画の続編への機運が高まるという展開を引き寄せてもいいんじゃないかと。それ位の力が、Hikaruにはあるだろう。

続編というと違うかもしれないが、"Kremlin Dusk"に続く小説インスパイアな英語詞楽曲がまた来ても面白い。またポーの作品でもよい。同じ誕生日という奇縁を活かさない手はない。黒猫とかさ。嵐が丘はKate Bushにやられちゃってるので他には…これはHikaru本人の方が詳しいから任せちゃった方がいいかな。


このように考えていくと歌の続編ものというのも悪くない。過去にとらわれ過ぎるのもいけないが、自らが築き上げた財産をうまく使って作品を作るのもまた一興だ。我々も、今のうちに過去作を復習して、いつでも続編やPart2ものを迎え入れられるよう心の準備をしておいてもいいのかもしれないですよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そうか、来年はぼくはくま発売10周年か。他の曲はともかく、この曲だけは別な筈。なんかやれ。ダヌパに歌わせるのは…まぁだ早い、かな?

その話は流石に来年するとして。キャリアというのは段々積み重なるものだがある程度「忘れる」という事をしなければ今という時間がどんどん希薄になっていってしまう。過去の遺産で食いつなごう、という態度もひとつのやり方だが、それに頼りきりだとなかなかモチベーションが保ちづらい。かといって新しいものばかりでは昔からのファンの反感を買う。結構そのバランスを取るのは難しい。

双方の妥協点として「続編」というやり方がある。歌でも時折"part2"というのがあるが、わからなくもないやり方だが、両刃の剣も甚だしい。大抵、part1の方がよかったと言われがちだし、そもそも大抵part1にはpart1とつけていないから後付け感は否めない。よほどpart1の知名度が低くなければ自滅する。part2によって埋もれていたpart1が改めて評価され直すくらいが丁度いい。

Hikaruもpart2を作った事がある。This Is The OneのAutomatic Part2 だ。これを成功というか失敗というかは難しい。何しろ、part2と言っておきながら曲調に全くと言っていい程共通点が無い。歌詞にautomaticが使われている以外は。それに、立ち位置的にどうAutomaticと繋がっているかもわからない。その時想定していたリスナーの半分はオリジナルの(part1の)Automaticを知らないのだから。2枚目を出したアーティストの1枚目(「EXODUS」)にpart1が入ってなくて「?」となる。

本人は自己紹介のつもりで書いたのだろう。歌詞がそうなっている。そして、日本でAutomaticが「挨拶代わり」の曲になったから、こっち(米国)でも挨拶代わりの曲はAutomaticと名付けよう、そんなノリだったのではないかと推測する。曲調がこんな風になったのはその歌詞の特性と、"automatic"という単語の英語での語感が日本語のそれとは異なる事も一因だったかと。

こうしてみると、Hikaruの"part2"に対する感覚はたぶんファンの感覚とはだいぶ違う。今度の復帰は再デビューのような空気もあるだろうから何らかの曲のpart2も考えられなくはないが、それがいわゆる"続編"となるかどうかは、どうやら聴いてみるまでわからなそうである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「宇多田ヒカルのうた」アルバム関連のイベントで、新しいなと思ったのは試聴会の開催である。グレイトなサウンドでニューアルバムを聴く。もう一年も前の話になるが、今度はこれをヒカルのオリジナルアルバムで行うだろうか。ないかな?

事情が余りに違う。注目度が違う。熱気が違う。当時会場では、発売日前という事もあって、箝口令が布かれたが、どうやったかというと梶さんや沖田さんに「ネットとかに書かないでくださいね~」と言われるだけだったのだ。いわば、リスナーの良識に任されていた。そして事実、まともなリークは無かったと思われる。少なくとも私は知らない。

これが「宇多田ヒカルのニューアルバム」だったら…箝口令は無理なんじゃないかという気がする。極端な話、今現在の小型マイクの性能を考えたら衣服に忍ばせたマイクで録音したらかなりの音質で録れてしまう。そんなものが発売日前にネットで流されたらと思うとゾッとする。ただでさえマスターテープのリークには細心の注意を払わなければならないのに、試聴会なんてしたらリスクが増えるだけだ。もしくは、来場者に一筆書かせるくらいの"ものものしい雰囲気"がないとな。

…っていうくらい注目されて欲しい、って、思っちゃうよねという話でした。

実際の所、どうなんだろうか。リークしたがる人(或いはそれで儲けたがる人)は多い。ネームバリューは桁外れである。しかし、純粋にそれに食いつく人ってどれくらい居るのかなと考えると3年とか5年とか8年とかのギャップの深さが身に沁みてくる。いいのやらわるいのやら。みんなそれだけ歳をとったのだ。宇多田なんて居なくてもやっていけてるのだ。そこにもう一度。ハードルが高い高い。ヒカルもダヌパに高い高いやったげてるのかな。なんであれ無性に楽しいんだろうね。俺もされて楽しかったわ小さい頃。それはさておき。

そういう意味では、リークされたなんていうニュースが流れた方が「あぁ、まだ注目されてるんだ」と安心出来るかもしれない。今時流行りの炎上で話題作りだな。いや勿論本音はそんな事して欲しくないんですが、忘却の切実の比喩としてそんな言い方も出来るかな、なんていう風に考えてしまった。

いや、リークされて、それが圧倒的な内容であるが故に話題になる、とかだったら、ちょっぴり嬉しくなったりしてしまいそうだ。Popsってめんどくさい音楽で、自分が気に入っただけでは完結しない。他の人の反応もみて安心したりするところまでがPopsである。プログレなら「俺しか知らない隠れた名盤」を見つけると非常に喜ばしかったりするのだが、Popsの場合は自分が気に入ったものが1人でも多くの人に支持されているのを知って喜ぶ。それが楽しみ方である。それを考えた時に、リークされるくらい、そして、そのリークにニーズがあるくらい注目されていたらと夢想するのは、危うくも魅力的な思考実験だ。現実には起こらないで貰いたいからこその妄想の味わい方である。あともう一息、頑張れヒカル。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前も触れたが、SC2発売がWILD LIFEの開催と連動していた事からもわかる通り、アルバムの発売とツアーの発表は全く無縁ではなく、ひとつの大きなプロジェクトとして扱われる。UTADA UNITED 2006で体験・体感済みの事だからヒカル本人もオールド・ファンもある程度の心の準備は可能だろう。

そこらへん、プロデューサーのヒカルとしては調整に一工夫が必要だ。アルバム制作終わりで燃え尽きている訳にはいかない。或いは、それを見越して何週間かの休みを計画しておかなければいけない。なんともまぁタフな話である。

リスナーの方も、主に資金面は拡充しておく必要があるだろう。SC2同様、ライブコンサートチケットの優先予約権がついてくる可能性が、結構ある。その時は、特に人気の公演に対してはかなりの強気の姿勢で多々買いを挑まねばならないだろう。

…と思っていたが、ヒカルがそれをよしとするかというと、わからないかもしれない。「今やそれが常識なんだから」と柔らかく折れるのも「なんかちがう」と反発するのも、ヒカルなら有り得るから。レコードの売り方にまでは、そんなに口を挟まないと思うんだが。

開き直って、「何も付録のつかないCD」を売ってみたら面白いんじゃないかとは思うものの、レコード会社の立つ瀬の無さは如何ともし難い。既にSC2で実績もあるし、抵抗するのも違うと思うが、それが宇多田ヒカルブランドに期待されている事かというと違う話。で、いちばんの問題は、そのブランドへの期待に応えたところでレコード会社に何の得があるのかわからない事なのだ。どうにも、こればっかりは、「受け手側の常識」を参照する以外にない。となると、その常識が2016年どのような方向性に舵を切っているかを見極めなければならない。時代は常に動いているのである。

もっと、独自の路線でいけないかな。First Love 15thのデラックス・エディションのような仕様を新作のオリジナル・アルバムで試してみる、なんていうアイデアも、ありかもしれない。他の何かで釣るより、商品自体の魅力で勝負できれば、ツアーとの連動に心を煩わされる事もない。うーん、さてどうなりますかね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回は海外語の日本語表記の話をしたが今度は逆、日本語を正確に読んでもらう為には海外語表記をどうすればいいかという問題。

課題語は勿論、「うただひかる」だ。日本人は素直に「ウ↑↑タ→ダ→ヒ→カ→ル↓」という風に読めるが、これをローマ字表記にして「Utada Hikaru」にすると「ユタ~ダ・ヒッカ~ルぅ」となって誰の事だかわからなくなるのだ。いやそれは極端だし海外でもファンはちゃんと発音してくれていたりするのだが、特にアメリカ人は自分たちが癖の多いイントネーションとアクセントを持っているという自覚が皆無なので、臆面もなく「ヒッカ~ルぅ」とくる。いやはや。まぁヒカルに限らず日本人は皆そうなんだけどな。今や日本でより偉大な人扱いされているイチローですら発音は「↑↑イッ↓チ↓ロー」だ。これはもう仕方がない。

「ウタダ」の方が「ユタ~ダ」と発音されてしまう理由の方は結構明白で、アメリカ人が普段接する単語アタマに「Uta~」を冠する単語は「ユタ州/State of Utah」くらいしか無いからだ。なのでどうしても「ユタ州~ダ」になってしまう。これは、ヒカルが世界的にユタ州より有名になってしまえば解決(?)するのだがそれは難しいので、ちょっと工夫を考えてみよう。こうすればどうかという提案ではなくただ考えてみるだけなのでお間違えのなきよう。

アメリカ人に日本語の「ウ」を言わせたい時は「U」の字だけでは不十分。ならば、最初に半母音の「W」をつけ「Wutada」にすればよい。まぁこれが最初の理屈なのだが多分これを発音してもらったら「ウォテイダ」に近い発音になってしまう。なので母音を一工夫して「Wootada」にすると「ウーテイダ」となって「ウタダ」に大分近づいてくる。

ここから少し寄り道をして「Wootahdah」という風に書くと「ウーターダー」と「日本語のウタダをゆっくり言ったみたいな発音」にまではもってこれる。もう原型の「Utada」からはかけ離れてしまって誰の事だかさっぱりわからなくなっているが発音は「ウーターダー」だから、「ユタ~ダ」と言われて「?」となっていた日本人も「あぁ、宇多田ヒカルの事ね」とわかってくれるようになる。そういう意味ではこの表記は使い勝手がある。

更にイントネーションを近付けるには最後を「t」に変えて「Wootahdat」にすると「ウーターダッ」という風に短く切って発音してくれるだろう。或いは「h」を「r」に変えて「Wootardat 」という風にすれば「ウーテァダッ」な感じになる。まぁこれでも宇多田ヒカルの事だとわかるだろう。

なお、上記の内容を実際に試してみては、いけませんよ。全部嘘ですからね(笑)。もし試した人が居たとしても私は「Who tells that?(誰がそんな事言ったの?)」としらばっくれる予定なので、どうぞあしからず。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ