英語でのインタビューやメッセを知っていると、Hikaruが言語によって人格自体がちょっと違う事も頭に入ってくる。それが英語圏の今様の風潮や文化によるものなのか、普遍的な言語の違いによるものなのかは自明にはわからないが、少なくとも「なんかいつもと違うかな」と思わせる程度には違っている。
人生自体変わるだろう。普段の生活の中で2つ以上の言語を駆使するのは、かなり大袈裟に言えば2つ以上の人格を使い分けるに等しい。勿論、多重人格のようにパキッと割れている訳ではなく、日本語の会話の中にふらふらと英単語が紛れこんだりするのはよくある事だ。特に日本語はカタカナによって外来語をそのまま取り込む術があるから馴染み易い。そしてそれ自体が他の言語との差別化となっている。
表記に関して言えば、そうやって表音文字と表意文字を使い分ける事で自言語の文化の堅守と他言語との融和の両立を達成している日本語はかなり特殊だともいえる。話し言葉の上でも、頭の中で表音と表意を無意識的に区別している風にもみえる。
『宇多田ヒカルの言葉』は、最初音で入ってきた言葉たちを文字に変換する作業を経た結果であるともいえる。無意識の中でゆらゆらと別れていた表音や表意が、文字になる事でくっきりはっきり区別されるようになる。この度初めて文字になった歌詞を見る歌も人によってはあるかもわからない。そう、そこは「Don't worry, baby.」ではなく「ドント・ウォーリー・ベイベー」なんですよ、えぇ。
ヒカルの歌詞は、ひらがな・漢字・カタカナ・アルファベットが駆使されている。また、『ULTRA BLUE』の収録歌詞などは表記自体にちょこっと一工夫が施されていたりする。「歌詞を見る」ってのはそれだけで発見なのだ。一旦歌詞を読んでからまた歌を聴くと違うものですよ。
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