無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そうこうしている間に11月が終わる。12月は忙しくなりそうだ。

オリジナルとは、自分の感覚に責任と言葉を持つ事だ。邦楽(日本の商業音楽)の中には時折、「なんだかこういうサウンドが海の向こうで流行っているらしい」というだけの音を奏でている場合がある。具体例はもう記憶にないけれど。

「らしい」ではダメである。モノマネする事は構わない。魅力を感じ、憧れ、模倣する。イチローみたいにヒットが打ちたい野球少年はバットをぐるっと大きく回したりしたのだ。それでヒットが上手になる訳ではないが、打席に立ち続けるモチベーションは維持される。勝負しなければ何も始まらない。

真似かどうか、似ているかどうかよりも、その音が鳴って、自分の感覚で聴いているかどうかだ。聴いて何かを感じれば模倣から入りもしよう。しかし、いつまでも"音楽的実感"のないまま世界のどこかで生まれてきた音楽を訳もわからず分析だけ上手にして、鳴らす。大事なのは、どうすればそう鳴るようになるか、ではなく、なぜそれを鳴らそうと思ったのか、だ。

その音楽を奏でる事についてはプロアマ問わず責任があるハズだ。誰に対しても何を支払うでもない、音楽的実感がそこにあった、と言葉にする事だ。なんなりと、自分なりの言い方、表現方法で。

深く問わねばならない。なぜあなたはそこでブレスを入れたのか、なぜそちらのパートはウィスパーでこちらのパートはシャウトなのか、なぜそこはロングトーンであそこはスタッカートなのか…。「今流行っている洋楽を聴いたらこんな風にしてた」では、私の心に響く歌は生まれない。私に響かなくても構わないなら別にいいんだけど。さておき、それぞれの「鳴らした音」の「鳴らし方」を説明するのではなく「なぜ鳴らしたか」を説明して欲しい。世界の可能性としてあらゆる音が未だ宇宙開闢以来鳴らされる事なく時が過ぎ行く中、わざわざ万に一つどころでない選択をもってしてわざわざその音を、他の誰の何の音でもないその音を鳴らし音楽を奏でた責任があなたにはある。しっかり自分の言葉で説明できるようになって。


嗚呼、ヒカルさんの場合は総ての歌い回しや歌詞の載せ方に「尋常じゃないほどの沢山の理由」が潜んでいるので、時々生歌を聴いててうざい事がある位(笑)。それ程に細部まで作り込まれ深く検討された音を奏で歌う人だ。自らの感性に対する責任感の強さは他の追随を許さない。

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アトレ恵比寿でのコラボレーションは基本、ファントームカフェのと同じ路線のようだね。毎度ながら日本全国で一ヶ所だけというのは他地域に住む人間には厳しい話だが、じゃあ都内以外で採算がとれるというか宣伝広告費に見合うはたらきが期待できる場所が一体どれだけあるのかと問われると返答に窮する。妥協案というのでもないが、やらないよりは遥かにいい、と思っておくか。

せめて冬休みや春休みにセッティングしてくれれば、もう少し行きやすいかなというのはあるが今回の場合デビュー記念日かつ映画の公開日という事で日にちがずらせる筈もなく。なんとか皆都合をつけてみて欲しいもんだ。賑わうとなれば更なる続きも期待できるし、他地域に飛び火する事も十分考えられる。美術展みたいな感じで期間毎に違う地域で、となればギガントもなんとかなるだろう。

かぷくーま、か。なんの韻も踏んでないところにかえって潔さを感じる。くまは偉大なのだ。というか、『Fantome』のような作品を経てもなおくまくま言ってくれるのはなんか嬉しい。インスタグラムにKuma Chang登場しないかな。

アルバム発売も発表になってない時点でこれでは先がますます楽しみですわね。

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『In My Room』の話の続きを語りたいなぁと思いつつ今夜も止めておくの巻。

『鎌倉ものがたり』の試写に行ってきた人たちの話からすると、『あなた』はきっちりフルコーラス流れるのかな? いい待遇だと有り難いのだが。

しかし昨年『君の名は』でRAD WIMPSが"超厚遇"ともいえる扱いを受けていたのを知ってしまっているから、今やただ主題歌に起用されるというだけでは話題になりにくい、という気持ちにもなっている。『君の名は』は、もうあれが『前々前世』をはじめとしたRAD WIMPSの楽曲群のプロモーション・ビデオだと言っていいほどに楽曲たちが魅力的に響いていた。映画館であの映像美と共に流れてきた彼らのサウンドは、ただ普通に曲を聴く時より明らかに魅力3割増しだった。そりゃどっちも売れるわ。見事でしたよ。

ヒカルも、今年は『ごめん、愛してる』で複数のインスト・バージョンまで起用される好待遇を受けた。ドラマが放送される度に『Forevermore』が配信チャートで上位に復活していた事を考えると"いい扱われ方"をされたなぁとこれまた有り難く受け取っておきたいが、はてさて『鎌倉ものがたり』はどうなっているのやら。

そういえば実写映画での昨今の主題歌の扱われ方って私全然知らないや。アニメなら少しは知っているけれど。何がどこまで連動しているかというのが複雑というか豊かになっている。

小さい頃はアニメのオープニングやエンディングで「歌詞がアニメと関係無い歌」が流れてくる事に関して非常にネガティヴな気分を持ったりしたものだ。今でもアニメファンはそういう感覚があるのかもしれない。様々なノウハウが蓄積され、アニソンの在り方とその受け入れられ方も多種多様になっている。

とはいうものの、結局は曲の強さに勝るものはない。TM NETWORKの「Get Wild」の歌詞なんてアニメ「CITY HUNTER」本編とは何の関係もない。なのに私はこの歌がエンディングに起用された事に対してネガティヴな感情を抱いた事は一度もなかった。我ながら見事なダブル・スタンダードだなと呆れるが、それだけ「Get Wild」が好きだったのだ。本編より楽しんでいたかもしれない。

『あなた』も、使われ方云々もあるけれど、曲としてひたすら愛されてしまえば本編との関連性云々なんて些事として気にならなくなってしまう。出会ってしまえば勝ちなのだ。映画館でどれだけの人々を魅了するか、今から楽しみです。

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でここからの10日間でどういうプロモーションがあるか、ですわね。ヒカルのようなタイプは薄く広く話題を繋いで繋ぎ止めておくというよりは、1年のうちで1日、その日のテレビの話題を独占できればいいので、一極集中的に情報が投下される。うちらのように毎日「ヒカルは?ヒカルは?」と言ってる人間は普段は「情報なんもなーい」と愚痴り、発売日前後になると「情報追い切れなーい」と文句を言う。絶食と過食を繰り返しているようで大変健康によろしくない。好きでやってるんですけどね。

復活の宇多田書店に関しては、今からでも自己申告性で増やしたらどうだろう? フランチャイズ方式と言っていいのかはわからないが、申し出のあった書店さんに「オススメ書籍リスト」を電送すりゃいいだけな気がする。マニュアル通りに展開されるチェーン店的な宇多田書店と各自が独自の工夫を凝らしたオリジナルの宇多田書店の両方が混在すれば、例えば旅行先に宇多田書店があるらしいからこの土地じゃどんな感じだろうかと詣でる人も出てくるんじゃないか。多分、今後もヒカルが書籍を出版する度に宇多田書店は復活していくと思われるので、1人でも多くの人々に足を運んで貰えるような工夫を追加していきたいところだ。

こちらとしては、本音を言えば、「宇多田レコード店」の方も同時に展開してくれると嬉しかったりする。『トレビアン・ボヘミアン』や『クマ・パワー・アワー』で紹介されたレコード(大体CDで手に入るけど)を紹介してくれるワン・コーナーだ。クマアワの方はインターFMだったからローカルにしか展開できないが、今後特別番組として『トレビアン・ボヘミアン』や『ファントーム・アワー』に続くラジオプログラムが企画されたら連動してくれれば有り難い。『ファントーム・アワー』のように一週間くらいかけて各地でオンエアされていくなら、ラジコ・プレミアムのある昨今だし、ある程度の期間プレゼンテーションする事も可能ではないか。

まだアトレ恵比寿の方の企画はチェックしていないのだが(←のんびりやさん)、他のアトレ各店舗は関係ないのかな。前から色んなプロモーションを「渋谷近辺で済ます」傾向が強いので関東以外のファンから不満が出ていやしないか心配だが、費用対効果を考えたら仕方のない面もある、か。アルバムみたいに売れる訳じゃないしね、書籍も。

取り敢えずここから10日間お手並み拝見ですわね。

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あぁ、宇多田書店復活か。『点』『線』の時以来だから9年ぶりだが、うち6年はアーティスト活動休止期間だったので3営業年ぶりくらいになるな。そんな単位知らないけど。

実店舗がどうやって生き残っていくのかという課題はず〜っとあるので今更だが、こうやって本屋さんに足を運ぶキッカケを与えられる存在だと思って貰えてるのは有り難い。

なんて言ってるi_さんは完全に電子書籍派である。もし同じ値段なら紙の本より電子書籍を選びたい。ただひとつ引っ掛かるのは、ファイルをダウンロード出来る訳ではない、という点だ。音楽配信は、Appleが潰れようがmoraが路頭に迷おうが、自分とこのストレージに保存しときゃいつまでも楽しめるので「買って手に入れた」感がまだあるが、電子書籍は発売元が潰れたら読めなくなってしまう。Amazonが潰れるより流石に私の寿命の方が先だろう、なんて高を括っていられるやらどうなのやら。例えば、この国がまたとちくるってどこか欧米の国と戦争を始めたらまた外来語禁止とか無理のある話が飛び出してきたりするだろう。バカバカしい、と思う事なかれ。自分の知能を省みればよくわかるが、この国にそんな高い期待など持てない。

紙の本ならいつまでも持っていられる。出版社が潰れようが書店が潰れようが関係ない。『宇多田ヒカルの言葉』も電子書籍で欲しいんですけど無理ですかね。


さて。この『宇多田ヒカルの言葉』というタイトルである。まず、あのカバーアルバム『宇多田ヒカルのうた』を連想した。カバーアルバムというだけあって、宇多田ヒカルの歌を宇多田ヒカルでない人がどう捉えているか、という処が出発点としてある企画だった。しからば、この『宇多田ヒカルの言葉』というタイトルの付け方は、宇多田の歌詞を宇多田ヒカルでない人がどう捉えているか、という視点で作られ始めたのではないかという推測が生まれる。実際、既に8人の寄稿が発表されている。楽しみである。

この、『宇多田ヒカルの○○』がシリーズ化されたら面白い。『宇多田ヒカルの顔』と称してヒカルの表情を捉えた写真ばかりを集めた写真集を出してもいいし、『宇多田ヒカルの声』と名付けてテレビやラジオから流れてきたヒカルの言った話を編纂してもいい。『宇多田ヒカルの友達』として色んな人にヒカルについて訊くインタビューとか…幾つか考えつくわね。『宇多田ヒカルとテレビゲーム』みたいな変則的なのもアリか。半分以上テトリスの話になりそうだけれど。

しかし、ちょっと不思議なのは、なぜこのタイミングだったのかという事だ。『宇多田ヒカルのうた』は、ヒカルが不在の時期に輝いた。ならば『宇多田ヒカルの言葉』のような書籍も、ヒカルの不在時に出した方がより有り難がられるのではないか、とちょっと意地悪な事も考えたのだ。すいません。

理由はわからないが、もうきっと製本も終わり、各地への出荷を待っている頃合だろう。歌詞集なんていう試みが「これはアリだ」と認知されれば成功だ。あと10日程で発売になります。

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「父と母の歌を作る」のがメインとはいえ、当然他の事もある訳で、冷静に考えると父親と娘が歌の歌詞について議論を交わす事が出来るというのも、本人たちがどう捉えているかはわからないが、余程仲のいい親子でないと無理なんでないかと言わざるを得ない。

家業といっても、このように個人の感情や心情が議題に上る仕事で世襲ってのも変わっている。そこが『家業を継いだんだぜ』発言の異様さの源だ。こう言われてかなりの人が「言われてみれば」と思ったのではないか。音楽稼業というものは、たとえバッハ一族や服部一族であっても「継ぐ」という表現はそぐわない。各個人の感情や思想に基づいた作品、仕事が重視されるからだ。とはいえ、ヨハン・シュトラウス一世&二世のように「継いだ」という言い方が似合う事例もあるにはあるのですが。

ひとまず、こうやってまだまだ親子で作業する時間は続いていく。途中で仲たがいしない事を祈るばかりである。

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宇多田ヒカルは一流だが超一流ではない、と書くとこの日記に相応しくないかもしれないが、それは長年の実感でもある。

確かに、その売上は母娘ともども突出していてお互いこの国では歴代No.1の、それもどちらも今後二度と破られる事のない記録を持っている。数字でいえば超一流だろう。また、歌唱力・作曲力・作詞力・プロデューススキルの総合力でもトップだろう。その点に関しても超一流と言いたくなる。

しかし、私が今持ち込んでいる論点はそこではない。ヒカルの音楽は個性があり質もずば抜けて高いが、"まとまった特別さ"がない。もっと踏み込んでいえば、後続を育てる何かに欠けている。

デビューから18年。間もなく19年だがその間にもヒカルに憧れてミュージシャンを目指したと思しき人たちも何人も居た。歌に影響が出ている人も居る。しかし、その総数は売上からすると恐ろしく小さい。THE BLUE HEARTS以降日本のパンクが変わってしまったり、Mr.Childrenの歌詞の載せ方がスタンダードになったりといった"甚だしい影響力"を発揮したアーティストではないのだ。

前回の論点は「閃きに恵まれているのが一流、呪われているのが超一流」という話であった。つまり、自らの手に負えない位に成長する何かを生み出して初めて超一流なのだ。ヒカルは自らが過去の歴史にないほどに高品質高密度な日本の商業音楽を生み出し続けているが、多産でもなければ高い影響力を誇るでもない。まさにその歌とアルバムが今目の前で売れて聴かれていてそれが物事のピークなのだ。なんというか、奇妙なまでに極々珍しい。

恐らく、本当に影響を与えるのは我が子に対して、なのだろう。第一子たるダヌパが将来ミュージシャンになるかもわからないし、第二子以降が生まれる兆しもないが(そんなん知らんわ)、何だろう、仮に子がミュージシャンをやりたいといったひにゃまたとんでもないのが出てくるんじゃなかろうか。i_と同じ世代なら漫画「北斗の拳」で聞いた事があるかもしれない、「一子相伝」というヤツである。藤圭子の圧倒的な才能はピンポイントでヒカルに影響を与え、宇多田ヒカルはまた我が子に物凄い影響を与える―そんなストーリーを今想像している。ならば色々しっくりくるのだ。

『家業を継いだんだぜ。』―最近脳ヒカルはミュージシャンになった理由をこう答える。酒屋の倅が酒屋を継ぐように、農家の長男が畑を相続するように、政治家の二世が地盤を引き継ぐように、音楽家としての看板をヒカルは引き継いだ。勿論家業なんていつ途絶えるかわからないが、なんだろう、ヒカルの音楽は、結局ずっと家族と共に在るという事だろうか。

歌詞の中には男女のラブソングと見せかけて母への思いを歌った歌が幾つもあるのではないかといつも勘ぐられているヒカルだが、そういった「母へのラブコール」を込めた歌をいつも誰と作っているかというと、父である。宇多田照實さんの名がプロデューサー・クレジットから外れた事は過去一度もない筈だ。…あ、『Blow My Whistle』とかどうだっけ?(汗) まぁ全部じゃないにしても殆どだ。Utadaで三宅さんの名前がプロデューサー欄に名を連ねなくなっても照實さんの名はいつもそこにあった。

そうなのだ。ヒカルは、父と母の歌を作ってここまで来ているのだ。もし子がミュージシャンになったら、なんだろう、総てが家族で簡潔して延々連綿と家業が受け継がれていくのか。その家族のあれやこれやの感動をお裾分けしてもらってるのが我々だとしたら、まぁ有り難い話なのだが、それがここまでの知名度と経済的影響力になったのだから見事なものだ。全く、不思議な一家だな。

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仕事や問題にあたる時に努力や頑張りを重視するのが三流、知恵や工夫に重点を置くのが二流、閃きに恵まれるのが一流、呪われているのが超一流、だろう。

超一流になると創造力が留まる処を知らず、本人の意志さえ凌駕して作品や結果を量産する。時には御き切れずに破滅や自死に陥る程に。それを指して呪われているとか取り憑かれているとかいう。ここまでくると本人が幸せかどうかすらあやふやだ。一流は「なんでそんな事できるんだ」という結果を齎すが、それは絶えず携わっているから。二流は「落ち着いて一から考えてみよう」ができる人たち。三流は兎に角まずは身体を動かさないと結果が出ないのだからと動き始める。

仕事や問題の質によっては、超一流より三流の方が遥かによい結果を残す場合も多い。要は適材適所なのだが、各種の言説をみるとこの日本という国は指揮者や指導者、リーダーといった舵取り役の人材、或いはサッカーでいえばストライカータイプの人材が不足しているようだ。

一昔前は日本は「一億総中流社会」とまで呼ばれた。突出した大富豪が少ない代わりに、貧困層もそうそう多くない、という。しかし今では「一億総三流社会」になっているのではないか。努力や頑張りばかり重視されるから、知恵や工夫はおろか、閃きを重んじるタイプは軽んじられ、苦痛や疲労に耐えて絶えず稼働する事を強いられる。サッカーのストライカーなんて本来89分休んで1分の閃きを生み出すのが仕事の所からスタートすべきポジションだろうに、最初から中盤の選手と同じように足を動かすように命じられる。土壌からしてストライカータイプは生まれづらい。

経営者とか政治家のような舵取りを任されるタイプも育たない。このタイプは努力したり頑張ったりしても無駄である。如何に大局観を身に付けるかにかかっているのに、しかし、役職としては必要なので結果無能と謗られる人材が集まる。「総中流社会」にしろ「総三流社会」にしろ出る杭は上でも下でも撃たれるので育たない。皆々様日々実感なさっている事だろう。その代わり現場に有能な人材が集まり科学技術立国としての地位を築きかけたがここで世代の問題が起こった。一億総三流の中から出てきた世代が世の権力側にいよいよ多くなり、生き残っていた一流や二流の生き方を刈り始めたのだ。そして今ここ、である。科学技術立国は遠い昔。理科教育すらままならず、見事に斜陽を迎えている。振り返ってみれば既定路線だったがそれも何も結果論。悲観的と言われそうだが、これはただのひとつの必然であって、変えなければこのまま行くだろう。


そんな世界にあってヒカルさんは理解ある周囲に守られてここまできた。ヒカル程の天才でも、周囲に恵まれなければ『Utada The Best』騒動のようなトラブルに巻き込まれる。地位も名前も確立した今、殊更努力や頑張りを期待されなくて有り難い状況だ。つまり、矢継ぎ早のリリースや過酷なツアーを要求される立場にない、という事だ。

勿論これは東芝EMI時代からのチームが健在だからであって、ある意味SONYで結果を出し続けなければ悪しき「三流主流」の流れに呑み込まれてハードスケジュールを押し付けられ持ち味を発揮できない、なんて事になりかねないのでこのまま是非「大物感」を維持していってほしいものである。


さて最初の分類によれば宇多田ヒカルは一流になるのだがその話は又次回。

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鍵は『dreaming Of You』にある。「君の夢を見る」。歌詞としては何て事はないが、この一文で『夢』と『君』が繋がるのだ。

『In My Room』は片想いの歌だ。それは間違いない。『廊下ですれちがったけど 君は気づかない 名前すらきっと知らない』のだから。

その"普通の解釈"には一切疑義を挟むつもりはない。しかし、一歩踏み込むと恐ろしい事に気づく。この歌は『君』が実在する必要はないのだ。そう、居もしないのだから気づく筈もないし、私がその人の名を知る由もない。それでも、この歌は成立するのである。

しばしば、英語の"you"は主語として"消える"事がある。例えば"you might mistake"なんて言えば「人間、誰しも間違える事くらいあるさ」くらいのニュアンスになる。一般論や誰にでもよくあてはまる命題を語るとき主語は"you"が選ばれる。日本語にする場合は「誰か」とか「誰しも」になる。

ヒカルはこの"you"の感覚を日本語の『君』に適応した。ここから先の話はどうやったって来週になってしまうので途中を全部すっ飛ばして答を書いてしまうと、だからこそ一つの歌の中で『君がいるなら同じ』と『君がいないなら同じ』が共存できるのである。実在しない対象に対して『いるなら』も『いないなら』もさほど違いはない。結局いないのだから。いるならそれは夢であり、いないならそれもまた夢なのだ。いる事が嘘になるだけで、いないと言い及ぶ事そのものに意味があるのだから。

この、『夢』と『君』が溶け合った状態について『宇多田ヒカルの言葉』で誰かが書いていてくれれば面白いのだが、それはちと踏み込み過ぎか。他力本願は程々に。そんな人は夢の中にしかいないのだから。

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『夢と現実』を対比させかつ『愛とは現実を受け入れる事』という命題を掲げる。ヒカルは、つまり、夢と愛を(一貫して)対となる言葉の組として捉えている。

更に、夢には向かうのと夜見るのの2つがある。愛と対になっているのは向かうのの方だが、ヒカルの詞には夜見るのも出てくる。更に「眠る」という行為を通じて夢の世界というものも描く。『Beautiful World』などを思い出してくれれば。

ヒカルにとって夢の世界とは悪夢の世界でもあり、あなたにとってそれは「現実の方がイージーモード」な事を意味する。ヒカルがエスケープするのは耐え難い苦しみと恐怖の世界に満ちた悪夢の世界ではなく、冷徹だが理路整然とした現実の方なのだ。世界は空間を隙間無く埋め尽くしては消滅し次の時刻に進むテトリスのようなものだから。

そのヒカルが『夢にエスケープ』と歌うのだから皮肉というか何というか。

実際、この歌での現実の描写はそこまで惨たらしくはない。『戦うのもいいけど疲れちゃった』『街のざわめき心地いい程冷たく優しく包んでくれる』『泣いて笑って傷つくのもいい』という風に、色々あるけどまぁなんとかなるかな、くらいのニュアンスだ。

現実はここまで惨いものなのか、といいながら夢にエスケープするならわかりやすいが、そうでもないのに『夢にエスケープ』と歌うのはなぜなのか。君がいたりいなかったりするから、だ。ここまで踏まえた上で、漸く前回の日記の続きが描ける。次回、その話から、になるかどうかはまだわからないけれど。気まぐれなんだよね自分。

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『In My Room』の歌詞は構成的だ。サビの歌詞、一番も二番も三番も『夢も現実も目を閉じれば同じ』は『夢も現実も目を閉じれば同じ』だが、繰り返しに対応する歌詞はそれぞれ、

一番:『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』

二番:『ウソもホントウも君がいるなら同じ』

三番:『ウソもホントウも君がいないなら同じ』

となっていて、総て変化している。

一番は対応が最もわかりやすい『夢も現実も』に対して『ウソもホントウも』、『目を閉じれば』に対して『口を閉じれば』がそれぞれ応じている。

何が夢で何が現実なのか、幾ら見たってわからない、見れば見るほどわからない、ならば最初っから見なければいい、夢か現実かの判断をしなければいい。目に入らなければどうという事はない。

これと同じように、言われた事がウソかホントウか、幾ら考えてもわからない、ならば最初から何も言わなければいい。口を噤もう。耳に入らなければどうという事はない。


ここまではわかりやすい。が、二番と三番はちょっと捻ってある。二番。『君がいるなら』なぜ『ウソもホントウも』『同じ』になるのか。これはすぐにはわからない。なのにすかさず三番で『君がいないなら』『ウソもホントウも』『同じ』とくる。いたら『同じ』、いなくても『同じ』。一体どっちなんだと聴き手は戸惑い、そのまま歌が終わる。まるで、のちに『なぞなぞは解けないままずっとずっと魅力的だった』と歌うのそのままにこの歌は去る。そういやこの2曲、『In My Room』と『日曜の朝』って曲の雰囲気似てるね。作曲者同じだからさもありなんだけれど、両方とも収録アルバム発売当時ヒカルが「アルバムでいちばん好きな曲」として挙げた一曲である、という共通点もある。この何ともいえないけだるさがいいのだろうか。

で話を戻すと、ちゃんと『いるなら同じ』にも『いないなら同じ』にも理由があって、それもしっかり曲の構成の中に埋め込まれているのだ―って話をしたかったが時間が足りないのでまたいつかのお楽しみ。次回かな?

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英語でのインタビューやメッセを知っていると、Hikaruが言語によって人格自体がちょっと違う事も頭に入ってくる。それが英語圏の今様の風潮や文化によるものなのか、普遍的な言語の違いによるものなのかは自明にはわからないが、少なくとも「なんかいつもと違うかな」と思わせる程度には違っている。

人生自体変わるだろう。普段の生活の中で2つ以上の言語を駆使するのは、かなり大袈裟に言えば2つ以上の人格を使い分けるに等しい。勿論、多重人格のようにパキッと割れている訳ではなく、日本語の会話の中にふらふらと英単語が紛れこんだりするのはよくある事だ。特に日本語はカタカナによって外来語をそのまま取り込む術があるから馴染み易い。そしてそれ自体が他の言語との差別化となっている。

表記に関して言えば、そうやって表音文字と表意文字を使い分ける事で自言語の文化の堅守と他言語との融和の両立を達成している日本語はかなり特殊だともいえる。話し言葉の上でも、頭の中で表音と表意を無意識的に区別している風にもみえる。

『宇多田ヒカルの言葉』は、最初音で入ってきた言葉たちを文字に変換する作業を経た結果であるともいえる。無意識の中でゆらゆらと別れていた表音や表意が、文字になる事でくっきりはっきり区別されるようになる。この度初めて文字になった歌詞を見る歌も人によってはあるかもわからない。そう、そこは「Don't worry, baby.」ではなく「ドント・ウォーリー・ベイベー」なんですよ、えぇ。

ヒカルの歌詞は、ひらがな・漢字・カタカナ・アルファベットが駆使されている。また、『ULTRA BLUE』の収録歌詞などは表記自体にちょこっと一工夫が施されていたりする。「歌詞を見る」ってのはそれだけで発見なのだ。一旦歌詞を読んでからまた歌を聴くと違うものですよ。

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ヒカルがレッド・ツェッペリンでいちばん好きな曲は"Since I've been loving you"だがこちらがカバーして欲しいのは"Babe I'm gonna leave you"で、トレボヘでの"Stairway to Heaven"の披露は未遂に終わったようなものだ…という話は前にしたな。省略しよう。

Hikaruに「ニューヨーカーとしての自覚」みたいなものが今でも根強くあるとしたら面白い。ニューヨークと東京を行き来してきた人間がイタリア人と結婚してロンドンで息子と暮らしている…とするとアイデンティティって何?状態になりそうだが、半ば無意識に放送禁止用語を連発して「あらあたしって意外とニューヨーカー」と思ったのだとしたら、ふむ、こそばゆいな。

物事の「何がどうなっているか」には大変興味を持つ私だが、そうして得た知識に感情は伴わない。自分のルーツを熱心に調べたとしてもそのルーツに誇りを持ったり逆に卑下したりという発想がない。その意味においては、興味がないともいえる。

自分の発する言葉や生活習慣がいつどこの誰達から受け継いでいるか、という事実とその知識に対しては感情が喚起されるが、特定されたその人たちに対して個人的に思う事はないのだ。その壮大な仕組みや成り立ちには大いに感動するけれども。

確かに、自分でどこかブレーキをかけているのかもしれない。アイデンティティにこだわるとロクな事にならない、という逸話しか聞いて来なかったからだ。ナチスの優生思想などは最たるもので、ユダヤ人かどうかなんて本来心底どうでもいい事で命の峻別を行うなどおぞましいとしか言いようがない。史実として教えられてきたとはいえ、未だに嘘だったらいいのになと思っている。

国や人種、血統や家柄。そういったデータをつまびらかにするのは自己や他者を理解するにあたって極めて重要だが、ひとたび理解すればそれはもう「便利な時に取り出してこれる道具」でしかない筈なのに、どうしてこんな事になるのか。大体こういうのは途中からただの諍いの種にしかならなくなっていく。便利なものを崇めるなかれ。道具は道具なのだ。

なので、ヒカルが日本語の歌のルーツを求めて熊野古道を歩いたりするのは怪我や病気でもしない限り大いに結構だが、そうして見いだせた情報に対して、誇りを持つ所までは許せるが、崇拝したり絶対視したりするようになると「やだなぁ」と私は呟く事になるだろうな。まぁそれでも愚痴を言いつつ目は決して離さないのだろうけれど。

人の闘争本能ってそろそろ要らないのだ。発揮したら億単位の個体を殺せる程技術とエネルギーを得てしまった。国をはじめとして、旧千年紀の価値観の多くは戦争惹起装置である。今の新千年紀には絶滅して構わない。

話が大きくなった。まぁたまにはいいか。究極的には興味がないのだ。そういう話が好きな人はできるだけ邪魔をしないで、という意味だろう。自分事ながら。

話を元に戻すと、「親はこどもが汚い言葉を使い始めたらショックなのか?」という設問に突き当たる。まぁ大体答は「イエス」か。特に女親が息子に対して、とか男親が娘に対してそう思う気がする。ヒカルの今回の"反省"の根底にもそのような思いがあったのではないか。然し知る事と使う事は別なのだと教えれれば一歩前進だ。いい風に捉えよう。

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『日本語だと/そもそもそれほど悪い言葉が存在しない』というので思い出したんだが。その昔Utadaさんがインタビューであれやこれやと質問を受けていまして。その中の「好きな日本語は何?」という問いに対して『KUSO!』とお答えあそばされていた。「空想」ならまだよかったんだが英語でいうと"shit!"にあたるそうなのでこれは100%「くそ!」だろう。なるほど日本語は上品だな。(皮肉)

口癖、とかならまだわかるがこの言葉を英語のインタビューで日本語の代表格みたいな雰囲気をもってして語るというのはなかなかにハイセンス。いや、本音はきっと「なにくそ!」精神の事だと思う。悔しさを糧に頑張る心、という。でもだからって好きな単語に選ぶかね。

一方でヒカルさんは『「やけくそ」が大っ嫌い』とも発言している。なんだかさっきから随分とくそまみれだが、これも真意は漢字で書いた「自棄糞」の方にある。別に肥料を燃やす訳ではなく、「自分を棄てる」行為に我慢ならないだけだ。如何にもプロフェッショナルな感性だが、この発言をした10年近く後に『"ギリギリ"フォルダに"ヤケクソ"ファイル』を作って名曲『Celebrate』を完成させるのだから人生本当に何が起こるかわからない。

前回考察した通り、自分も使うべきではないと感じる単語は実際使わなくなるので、英語で"放送禁止用語"を使って話すのは現実に不都合が少なく且つ幾らか都合がいいからだろう。ドライな結論としては3歳前後であっても"悪い言葉"を覚えるのはそこまで悪い事じゃないんじゃないかと感じる。

新しく言語を覚える時にまさに教科書に載っていない大事な事があって、それが隠語をはじめとした「不適切用語」の取り扱いだ。英語を覚えてトークセッションやプレゼンテーションを、という立場に立った時に大事なのは何を喋るかより「何を喋ってはいけないか」だ。公の場に相応しくない言い回しなどは案外さり気なかったりするので注意が必要だ。「Making Love」を「愛を育む」とかで覚えてて人前で喋っちゃったら赤面ものですよ。他の単語でも、時と場合によっては社会的地位を危うくする。なので、新しく言語を覚える時は文法や気取った言い回しよりまず隠語なのだ。それを言ってはいけない、という意味で。

まだ分別のない小さなこどもは耳に入った言葉をそのまま言う。だからこそ、少しずつでいいから、「言葉は文脈を選ぶ」事を学んで貰う為にも、"悪い言葉"を覚えていった方がいい。そればっかり言ってると人格に影響が出そうだから少しずつでいい。大体、小さなこどもが人前で放送禁止用語を連発して恥をかくのは「普段そんな会話をしてるのね」という目で見られる親の方である。自分が恥をかきたくない、という理由で悪い言葉を自重するのならこどもには何の責任もないのである。

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日本語と英語、日本語詞と英語詞について語らせたらヒカルの右に出るものはいない。そんなヒカルが「英語の方が放送禁止用語を言い易い」と指摘したのだから、某かの真実がそこにあるのだろう。

ただ、なぜ"放送禁止用語"なんていう用語を使ったのか。考え始めると難しい。確かに、他にうまい言い方、指し方ってないのよね。英語圏なら、一昔前でいえば"PC(Politically Correct)"なんて言い方もしたが、厳密に言えば日本に"放送禁止用語"なんてものはない。誰が誰に禁止をさせてるかわからないし、言ったからといって罰則が待っている訳でもない。しかし、現実としてうっかり発言したら謝罪があるし、テレビ出演自体を封じられる事態まである。実質的には放送禁止用語は存在していると言わざるを得ない。機能しているのだから。

歌詞だって例外ではない。放送禁止用語が歌われていれば放送に乗らない。また、用語自体は大丈夫でも政治的な色合いが濃いと敬遠される。地上波は、自由な表現を求めるには余りにも力が大きすぎるのだ…

…って脱線してしまったが、「こどもに使って欲しくない不適切な表現」をヒカルがついでもふとでもなんでも使ってしまうのは何故なのか。多分、それで支障がないからだろう。だったら別にダヌパが使ってもいいような気がするが。冷静に考えて、何を気にしているのか。寧ろその点こそが日本語と英語の違いなのではないだろうか。自分で使っているのに他者には使って欲しくない言葉、それは自分も使うべきではない言葉?自分に使って欲しくない言葉?そこを詰めないとこの妙なツイートのポイントが掴めない。日本語に存在しないのは"悪い言葉"ではなくて、自己と他者に使用を要求したり禁止を要求したりする際に差異があるかないか、なのだ。そこを掘り下げたら面白そうだな。

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