無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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紅白前の時間帯にちらっと。

今年の総括は非常に明確である。桜流しを一年間聴き続けた事、Kuma Power Hour with Utada Hikaru を各回何度も繰り返し聴いた事、そして最後に In The Flesh 2010 footage を愛で尽くした事、以上三つの嬉しくて楽しくて堪らない事と、藤圭子さんが亡くなるという、一生のうちもうそんなには無いであろうとても悲しい一つの事。これでここの2013年は言い切れるだろう。

それぞれのエピソードについてはここで散々語ってきたしこれからも折に触れ語るだろうから、特に今取り上げる事はない。この日記の性質上、つまり"総括"というのはあまり意味を持たない。それが毎日やっている事だからだ。今年とか来年とかの区切りも、従ってあまり意味をもたない。年末年始なので更新が不規則になるというだけである。

同じように、来年への展望みたいなものも、普段から語っているのだから年の瀬だからといって特別に記すような事はない。既に3月にFL15のリリースが決まっていて、我々はそれに心が向いている。またそれについても語っていくだろう。

そう考えると、この日記については、総括のエントリーを書くというより、ここまで書いてきたエントリーをもう一度読み直すというのがいちばん相応しいのかもしれない。しかし、昔と違ってここ3年、ひとつひとつのエントリーが長くて、私ですら読み直し切れない。ここのいちばんのファンである私がこの有り様なので、それ以外の人たちに読み直しを薦めるのは明らかに筋違い。困ったなぁ。また短いエントリーを書くスタイルに戻す事を検討しようか…

…って時々考えるんだけど、今振り返ってみて思い浮かぶのは、書き上げたエントリーの方より「ああ、あれの続きを書いてない」「あそこ途中で止まってる」「そういやあのテーマ、短く纏まらないからって放置しっ放しだなぁ」といった、"書けてない話"の方なのだ実際。それを来年フォローしながら、更にFL15をはじめとした"新しい話題"たちに対応する為には…エントリーを長くするか、更新回数を上げるかになるなぁ…ますます年末に振り返り難くなるじゃないか(汗)。本末転倒だわい。現時点で大体1ヶ月1000字×40回位のペース、年間にすると50万字近い分量を書いている訳で…書籍にでもするべきなのかもしれないが、あクマでこれは"日記"なので、その日その時読んで消費するものである。今日は誰とも宇多田ヒカルについて語り合わなかったな…とふと寂しくなった時にこちらをふと覗いてくれれば、何やら熱く語ってる人が居る。こんな世間的にはオワコンにまだ熱心になってる人が自分以外に
も居るんだなぁ、何書いてっかよくわかんないけど、と思ってもらえればそれでいい、と思って書いているので、やっぱりリアルタイムでないと意味がない。

まぁそんな感じかな。年の瀬だからと特に言い足す事はありません、というのが今ココで言い足す事でした、という感じで今年の更新を終わります。今年一年間御愛読有難う御座いましたm(_ _)m 来年も宜しくです♪

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あー、In The Flesh 2010 全公演収録全20枚組CDセット出ねーかなー。DVD10枚組でもいいぞ。いや全部の公演にカメラ入ってたかどうか知らないけどさ…

勿論そんな商品で採算がとれる訳もないから、現実にはMP3ダウンロードが限度だろうね。それだってミュージシャン側が納得のいくサウンドにする為にはちゃんとしたミキシングとマスタリングが必要で、どうしたってそれだけの費用はかかるんだよなぁ。いっその事、"オフィシャル・ブートレッグ"と銘打ってろくにサウンド調整していないバージョンでもよしとしようじゃないか…

…と、古今東西問わず、様々なミュージシャンのファンたちがこういう思考を繰り広げてきた。そこから生まれてきたのが、ライブ・コンサートの音声をそのまま録音した(サウンドボード録音もあるけどね)"海賊盤CD"である。一口に海賊盤といっても、既存の音源をコピーして安く売るオーソドックスなものから、このように、「アーティストのオフィシャル音源は全部買ったがそれでも物足りない」という人を対象にしたライブ実況録音盤まで様々である。前者はアーティストのオフィシャルリリースを妨げる可能性があるが、後者はほぼ全くその可能性がない。だって大抵正規盤より高いからね…。いずれも著作権法には触れるので訴えられれば負けるが、後者はいわば"必要悪"というか、「違法だが実害はない」コンテンツとして認識されてきた。いやはや、お世話になった人も多い事だろう。

しかし今の時代、今後この状況はどう変化していくかわからない。正規盤であるCDが配信にとってかわられ、その配信も結局の所限界費用が非常に低い為、「最早フィジカルや音源では稼げない。ライブやグッズで収益をあげよう」という空気が一部に出来ている。まぁそれは皆さんも御存知だろう。

で、だ。そもそもライブ・コンサートのチケットとは何なのか。あれは何を売っているのか、と考えてみると、つまりあれは「ある特定の時間、特定の場所に入場していい権利」を売っている訳だ。チケットとはフィジカルでなく、そういった許可というか、抽象的な権利なのである。

そうしてみると、音源のダウンロード販売も似たようなものだとわかってくる。インターネットのインフラの整備が進み、必ずしもデータをローカルに持つ必要もなくなってきた昨今では、配信とは殆ど「ある特定の楽曲を聴く権利」に近い。寧ろ、それがローカルにダウンロードされた後にコピー可能である点をどうすればいいかというのが悩みのタネになる位なのだから。我々は今や、コンサートのみならず音楽自体も「権利」を買うようになってきたと言っていいかもしれない。


となると、である。コンサートの実況録音を収録した「ライブ盤」という存在は、現況ではどのような位置付けになるのだろうか。…長くなってきたので、ここから先の話はまた次回。もしかしたら来年だったりして。さてどうなりますことやらですわ~。

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昨日の梶さんのツイートには色々考えさせられた。プライベートアカウントでの話だし、この人は仕事となると目の色が変わって素晴らしい成果を上げてくれるので総合的な結論は「心配無し」で確定しているのだが、様々な論点を含んでいるので少し取り上げておこう。

彼がQTした記事の要点を掻い摘むと、英国のメタルバンド、アイアン・メイデンが違法ダウンロードの多発地帯を調査会社に調べて貰って、その地域で大規模なツアーをしてチケット料金やツアーグッズで多大な収益を上げた、というものだったのだが、彼はこれを読んで「日本のアーティストのアジア進出の参考になるかも」とコメントした、という感じ。そのツイートは記事を書いた記者さんにリツイートされていた。

で、オチとしては、その記事の更にソースである英文記事には既に訂正文が挿入されていて「アイアン・メイデンがそのような調査を依頼したという事実の確認は取れていません」という事だった。詳細はわからないが、調査会社がバンドと関係なく行った独自研究が、バンドからのオファーであると解釈(誤解)された、というのが顛末だろうか。

で、これについては様々な論点があるのだが、我々にとってのポイントは、梶さんが「日本のアーティストのアジア進出」について言及した点だ。彼の担当アーティストに誰と誰が居るのかを私は残念ながら把握していないので憶測すら覚束ないが、現状でアジア進出を考えられるアーティストはヒカルとかA.I.とか、あとは例の新人くんとかなのかな、兎も角、この記事を読んでアジア進出に話を結び付けるのだから、彼のアタマにそういったイメージが戦略としてある事、そして何より彼がそういった"海外進出"に関するマーケティングの仕事に関われる立場に現在居る可能性がある事を示唆する。なんだか大胆な憶測を書いているが、大丈夫、彼は無意識日記を読んでいないので私は書きたい放題なのだえっへん(棒

これは、かねてからの懸案事項だった、「EMIレーベルと世界契約を結ぶ宇多田ヒカル」は、どうやって日本市場と海外市場の間でマーケティングのバランスをとるのか、というイシューについて少しばかりヒントを与えてくれるのではないか。つまり、Utadaの場合はアメリカのアーティストで、それが日本に"来日"してプロモーションを行う、というのが体だった。アジア各国についても同様だ。しかし、もしかしたら、Utada Hikaruについては、日本人アーティストがそれ以外の国に進出する、という従来の枠組みを踏襲するのかもしれない。そうなると、日本人ファンの不安は幾らか軽減される。メインの市場が日本になり、最もプロモーションが重視されるからだ。

果たして、Utada Hikaruの世界契約はどうなっているのか。もう調印されたのか。丁度照實さんが実印の話をしていた所なので、気になってしまいますねぇ、えぇ。

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スタジオバージョンがまるでライブを想定していない、という事態を踏まえれば、如何にHikaruのライブのコンセプトを決めるのが難儀なのかがわかる。

パースペクティブをもう一度見てみよう。ライブ会場でスタジオバージョンを完璧に再現する最良の策は、CDをそのまま流す事である。最早Hikaruが舞台に立つ必要すらない。まぁ笑顔で口パクしといてもらってもいいけど、殆どのファンはそれでは「チケット代返せ」となるだろう。次善の策は、オリジナル・カラオケをバックにHikaruが生で歌う事。ここらへんから「それでもいいか」と思う人が出てくる。基本的に聴衆は、ヒカルのコンサートにはヒカルの歌を聴きに来ている。バンドのメンバーが誰かとかなんて気にしない。ドラマーがツアー途中で交代したからって払い戻しします? ヒカルが歌ってさえいればいい、というのが大半な筈だ。

んだが、宇多田陣営はバックの器楽をかなりの割合で生演奏にしたがる。実は、「別にそんな事しなくてもいい」んだが、やはりみんなプロだから生演奏の凄みと醍醐味を知ってしまっているのだろう、どのツアー、どのライブでも一通りのバンド編成を組んでいる。

だからこそ、バックコーラスがテープな事が目立ってしまうんじゃないか、と思うのだ。他の楽器、パートもテープを流すだけでいいだろうに生演奏しているから、本来最も人間味溢れるナマの音、「歌声」が"今・そこ"から出ていないのがチープに思えてしまう。ここに葛藤がある。

ライブ・コンサートで、こういう風に生演奏にこだわって、「本格感」や「本場感」「本物感」を出そうとすればするほど、Hikaruの場合スタジオバージョンの再現度が低くなってしまう。一方、スタジオバージョンを完璧に再現しようとすればするほど、ライブならではの魅力は薄れ、生演奏の意義は失われていってしまう。このジレンマ、トレードオフこそが問題なのだ。

現実は、全部CDと全部生演奏という両極端の間のどこかに"落としどころ"をみつけている。WILD LIFEはその点実に見事で、打ち込みのリズムを軸にした曲もあれば、弦楽隊の生演奏を活かした曲もあり、バラエティーに富んでいた。ほぼスタジオバージョンの再現に近い曲がある一方、全然違う曲それこそ、DISTANCEとFINAL DISTANCEくらい違う)曲もあったり、兎に角多種多様だった。どちらの極端に振り切る事もなく、曲毎に最良のバランスを選択しにきていた。現実にはあれでいい。結局は、具体的にどの曲をどう聴かせたいかにかかっている。

しかし、だからこそ、ライブでの選択肢を増やす為にも、コーラス隊を入れた方がいい、という考え方もある。要は、曲によってHikaruの歌声を録音したテープをそのままバッキングコーラスとして流したり、本物のコーラス隊に歌ってもらったりすればいいんじゃないかと。何とも贅沢な話だが、それによって高騰するくらいのチケット料金なら迷わず払っちゃうだろうなぁ俺。

だってさぁ、ライブのオープニングがGoodbye Happinessで、実際にSynergy Chorusがナマで歌いだしてみ…鳥肌モンやで…。

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うーん、ライブの話になると全く収拾がつかないな。でもまぁ、前回の続きを書いてみるか。

Hikaruのアルバムで聴かれるヴォーカル・ハーモニーは、一部を除き総てHikaruの声のみを重ねたものだ。したがって、"chorus"とクレジットされていたとしても(実際は"backing vocals"が多いと思うが、確認はしていない)、それは日本語でいう"合唱"とは異なるものである。

一言でいえば、"みんなで歌う為に作られてはいない"という事だ。人と人の声の調和、という概念はあまりない。勿論こういう形態は録音機器の発達なくしてはありえなかったもので、それまではそれこそ双子のデュオに頼るしかなかっただろう。

そういう、"声を素材として切り貼り編集した挙げ句の姿"がスタジオバージョンの完成品なのだから、それを模倣したライブにおいてバッキング・ヴォーカルを機械から出力するのは寧ろ正しい。真ん中に立つ人間がひと連なりのメロディーラインを歌うのとは異なる、パーツとしての声の層のミルフィーユなのだから。

ただ、それを言い始めてしまうと、声以外の他の楽器をなぜライブで人間が演奏しているのか、となる。別に違いはない筈なのだが、そうやって器楽面ではスタジオバージョンとの差異を生みつつ、バッキングヴォーカルはスタジオバージョンに出来るだけ忠実に、というのは出来上がりの音像にややもやもやしたものを残すように思う。

或いは、技術の進歩がそういった違和感を解消するかもしれない。あらゆるバッキングヴォーカルパーツをリアルタイムで選択しながら即興で演奏のできるDJ・マニピュレーターが現れたのなら、それはもう新しい楽器であろう。ただ、それも突き詰め過ぎると、Hikaruが「アイコラみたいで気持ち悪い(笑)」とか何とか絶賛していた人力ボーカロイドのようなサウンドが出来上がる、かもしれない。ここでも結局バランスの問題になるだろう。

どの話をしていても、最後は、「Hikaruの曲のスタジオバージョンは、ライブでプレイされる事を余り想定していない」という所に行き着く。スタジオバージョンをレコーディングする時でさえ、「誰だこんな歌うの難しい歌書いたのはっ! 私か。」と不満を言いたくなるような楽曲だらけなのだ。

ここに、ポイントとなる食い違いがある。古くからのPopsファンの多くは、CDの音源を単なる"記録"と見做しており、「コンサートで聴けるサウンド」こそが"本物"であるという風に無意識のうちに捉えている。でなくばCDの二倍も三倍も値段のするチケットの方がCDより売れるだなんて事態にはならない。しかし、Hikaruにとってはスタジオバージョンこそが、いや、彼女の頭の中にあるサウンドこそが"本物"なのだ。まずそこから話を始めないといけないのかもしれない。

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嬉しく有り難くも前回のエントリーに関して照實さんからコメントをうただいたので転載しておこう。

***** *****

@u3music: 僕の意図はコーラスの声云々、続く te RT @i_k5 @utadahikaru 朝更新のを。13/12/26木【音の出どころを目で見て確認する】ライヴでのバックコーラスについて。 http://t.co/EONLwoDog6 #i_614929 #Utada #hikki

@u3music: コーラス談義の「続き」。コーラス隊の声云々ではなく、名十回も重ねて録音するコーラスは宇多田ヒカルの曲を完成させるには必須であること。また、英語と日本語のコーラスを完璧にこなしてくれる人たちを見つけるのが困難なためです。でも、コーラスをシンプルに編曲して試してみるのも一考?teru

***** *****

照實さんが取り上げてくれた論点について反駁したくなる側面は一切ない。全面的に同意する。しかし、ここで極端に考えてみよう。一種の思考実験だ。

ならば、なぜバックの演奏を生のバンドに依頼するのか。ライブで「宇多田ヒカルの曲を完成させる」のを目的とするなら、CDシングルや今度リリースされるFirst Love Deluxe Editionに収録されている"Original Karaoke"をそのままコンサート会場で流せばよい。演奏は間違えないし、曲はもうそれで完成している。勿論バックコーラスもそのまんま。バンドメンバーを雇うお金もリハーサルに費やす時間も不要。後はHikaruが出てきて歌うだけ。それの何がいけない? 実際、一部のアイドル歌手などはそうしている。Utada Hikaruがやって何がいけないのか。確かに、ステージの見栄えがショボいというのはあるかもしれないが、その分チケット代が安くなるとか、逆に浮いたお金でダンサーを何人も雇い、華々しいステージを……

……とは、ならない。理由を考えるのは案外難しいが、結局の所ヒカルや照實さんが根っからのミュージシャン気質な為、「そもそもそんなライブ観たくない」と思っているのではないか。恐らく、考えるまでもなく、つまり、アイデアとして一切浮上する事なく却下されているのだろう、カラオケをバックに歌うのは。

であるならば、もう一方の極端を考えてみる。「じゃあ全部人力で音を出そう!」…つまり、前回私が述べたように「今出ている音の出どころが総てステージ上にて特定できる」状態に"完全に"してしまうとしよう。そうすると、どうしてもスタジオバージョンとのイメージの乖離が出てくる。ここで照實さんの挙げてくれた論点が浮上する訳だ。スタジオで余りにコーラスを重ね過ぎてしまっている為、それを再現しようとすれば何十人も必要になるし、しかもその何十人はヒカル並みに日本語と英語の両方で歌えなければいけない、或いは、日本語で歌う人と英語で歌う人を別々に、つまり合計で二倍の人数を…という風に、どんどん実現不可能な方に行ってしまう。現実にはどこかで妥協しないといけない。そこらへんの落としどころが、今の時点では、例えばWILD LIFEのようなバランスなのだろう。

ヒカルよりももっとビッグなアーティスト、例えばQUEENがステージで"Bohemian Rhapsody"をやる場合なんかは、あの中間部はまるまるテープを流していた。それくらいあのパートをライブでやるのは非・現実的だった。ただ、昔テレビで「じゃあ全部人力でBohemian Rhapsodyのあのパートをステージで生で歌ってみよう」というライブを私は観た事があるのだが、それはそれは見事なものだった。たった一曲の為にその人数を引き連れて世界中を回るのはきっと無理なのだろうが、もしナマで観れたら感動的だっただろうな、とは強く思った。

だから、チケットの値段がバカ高くなってもいいから、一度スペシャルコンサートやってみたらいいんじゃないかな。宇多田ヒカルのバックコーラスを総て人力で再現するコンサートを。そこまでする価値が果たしてあるのか、というと結構私はわからない。でも、やってみたら、当初の想定より遥かに感動的、という可能性はある。いや勿論照實さんの言うように、それだけの人材を集めるのは現実には不可能かもしれない。そこで翻って考えてみたい。では、なぜそもそもスタジオバージョンでは48トラックとも言われる程声を重ねたのか。それはどれ位楽曲に必要な事だったのか。次回に続く…。

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毎度蒸し返す「ライヴでのバックコーラス」問題、この間は照實さんがツイートでこの点に関して触れていた。要はHikaru以外の声が混ざるとやっぱり違和感があると。ふむ。

そりゃあスタジオバージョンと比較すりゃ違うものになるだろうし、そもそもHikaruの声に合わせられる人材が見つかるかどうかも定かではないのだから、ライヴでテープ(じゃないだろうけど昔からの慣習でそう呼ばせて頂く)を使うのは良策だと思う。特にHikaruのライヴはマス相手で、最も大きなニーズは「スタジオバージョンを忠実に再現すること」。ライヴならではの違ったバージョンが聴いてみたい、とかは複数回参加している熱心なファンたちからの要望になるだろう。

で、その為に海外まで行く人間として進言させてうただくと、寧ろ、コーラスに限らずライヴでテープを使う事自体に違和感がある。なぜなら、ライヴ・コンサートとはこちらからすると"観に"行くものだからだ。

大抵の人は、Popsのコンサートに出掛ける時には「ミスチルを観に行く」という風に口にする。なかなか「ミスチルを聴きに行く」とはならない。クラシックであれば「今夜はバッハを聴きに出掛けるんだ」などと言う事もあるが、この場合ステージにバッハが出てくる訳では勿論なく、曲目の話をしているから"聴きに行く"という表現になる。ステージの上にたつ歌手や演奏者が目的ならば、"観に行く"というのが自然なのだ。

人間の本能として、「まず耳で音を捉えて、そちらの方に向き直り、目で見て存在を確認する」という行動様式がある。聴覚は予兆を察知するものだから、情報が耳からだけだと行動様式として物足りない。CDだけ聴いている時のこの不足感を、ライヴコンサートでは視認によって解消する事が出来る。ここが大きいのである。

つまり、ライヴ・コンサートにおいては、歌っている人や、演奏されている楽器などの「音の出どころ」を目で観る事が何よりも大きいのである。これをもってして人は「本物を見た・体験した」と堂々と胸を張って言える。ところがここでテープを使ってしまうと、音の出どころが舞台上のどこを見渡しても見当たらない。実際はマニピュレーターの人が操作しているのだろうが、そんなの遠くからじゃ、いや、どんなに近くてもわからない。これでは、ただ音が大きいだけで、家でCDを聴いているのと変わらないのだ。

バックコーラスを導入すれば、その違和感を拭い去る事が出来る。音の出どころを舞台上に確認する事が出来るから。しかし、そうすると前述の通りスタジオバージョンとの乖離が激しくなる。耳で聴く情報としては、確かに引っかかってしまう。視覚上の違和感と聴覚上の違和感。どちらをとるかは判断次第。そこら辺は父娘2人の選択に委ねるしかないだろうな、暫くの間は。

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今一度メッセのタイトルを読み返してみよう。【藤圭子を長年応援してくださった皆様へ】。肝心なポイントがいつも抜けているなと思うのは、当たり前の事なんだが、今年の件の"主役"は徹頭徹尾藤圭子さんだったという事だ。宇多田ヒカルはその娘で喪主に過ぎない。まず故人を偲ぶのが先だろうに、メディアはヒカルがヒカルがと。

件のメッセの書き出しはこうだ。

『亡き母に代わって、皆様への感謝の気持ちを述べさせてください。』

である。ヒカルは代理でコメントしているに過ぎない。

『長年の応援、ご支援、ありがとうございました。』

代理であるから、この台詞は本来圭子さんが言うべき台詞だったのだ。ヒカルはその代弁者。いわば脇役、介添え役である。

『今なお母の心配をしてくださっている方々に』

こう書いている。ヒカルの心配をしていた皆様に、ではない。ヒカルは、そういう役割を今年の夏に担っていたのだ。かなりキツい言い方をすれば、「藤圭子に乗じて宇多田ヒカルの話をするな」という事だ。うーむ、思いっ切り自分にも突き刺さるなこれ。痛いわ。


ヒカルが脇に徹していたのが今夏、今年なのである。そこからまず話を出発させて欲しい。

『私も藤圭子のファンでした。今も、この先もずっとファンであり続けます。』

私"も"、である。9月のこのメッセは、まるきり藤圭子のファンへ(いわば同胞としての視点で)書かれていた。ここから話を始めよう。

ヒカルが「この先もずっと~あり続けます」と明言・断言するのは珍しい。『未来はずっと先だよ誰にもわからない』と自分の名をつけた歌に記した人がこう言うのだから、その想いは図抜けて強いに違いない。

従って、ヒカルが藤圭子の名と共に何か活動を行うのなら、出発点はまずここからになる筈なのだ。週刊誌の記事にあれこれ書いてあったようだが、いや、キッパリと藤圭子さんの一周忌に向けてと書いてあったらしいが、その真偽を問う前に、この、ヒカルの「一生藤圭子ファン宣言」を、我々ファンはしっかりと確認しておかねばならない。例えば我々が宇多田ヒカルのファンであって、ヒカルに対して何をどう思うか、という視点に立って、ヒカルが藤圭子さんをファンとしてどうみているのか、をシミュレートしてみるのがいいだろう。そうする事で、僅かばかりだが、ヒカルが何をどう感じているかを推察できる、かもしれない。僕らは、宇多田ヒカルが主役ではなかった2013年の夏という時間のクオリアを忘れてはならないのである。

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Single Collection Vol.2の5曲を聴いていると、「熟れ落ちる二歩手前」という感じがいつもする。葉や茎からも養分を吸い取って熟しに熟した実…もう足元から枯れ始めていて、最後は熟しきった実を落として…

…とイメージで語っているが、案外具体的な話である。Can't Wait 'Til ChristmasにしろGondbye Happinessにしろ、サビのメロディーはこれ以上にない位強いのだが、ヴァースのメロディーはいずれも物足りない。GBHに関してはHikaruも「メロディーと歌詞が合わなかった」という風な言い方をしている。(Show Me Loveはあんまりそんな事はないが、こちらは曲自体が他の4曲に較べて古い。) この、“メロディー配置のプロポーションのアンバランス”が、熟した実と枯れた茎のイメージに繋がっている。

これを、DEEP RIVERの頃と比較してみる。特にtraveling等で顕著だが、イントロからAメロBメロサビに至るまで、メロディーのテンションが一定して落ちない。その為、楽曲中ずっとテンションが張り詰めていて、その意味において曲の印象が"ハード"な感じがする。その感触が、否応無しにまるでそれが青い果実のような…まだ色づかず、堅く引き締まっていて、葉も茎もまだ青々と元気一杯で、全体として活力に満ちた風貌を連想させる。

この、時間を経て熟れた実と、若々しく青く実った果実の対比は、物事が突き詰められていく中で立ち現れる普遍的な対比であるように思われる。それが楽曲中のメロディーのプロポーションのバランスと即対応している、と考えるのはやや直接的に過ぎると自分でも思うのだが、そのシンコレ2のタイミングでアーティスト活動を休止した事実が、「実りすぎて腐り落ちる前に一旦退こう」という判断をしたと裏付けられてしまうので、そう捉えてしまうのを止める事が出来ない。やっぱりそうなんだろうなぁ、と思ってしまうもの。

そう考えると、一年前にリリースされた"桜流し"はどういう位置付けなのか。メロディーのテンションという面では、あまり落差が感じられない。代わりに曲展開は極端にダイナミックだが。そもそもAメロBメロサビって構成じゃないし。しかし、少なくとも、あの"熟れ落ちる二歩手前"という感じはなくなった。しかし、熟して得た味の深み、コクは一切失っていない。寧ろ過去最高と言っていい。それでいて硬質さ、青いというべきかはわからないが、全体的に緊張感が漲っている風はそれこそtraveling等を想起させる。

つまり、今のHikaruは実った果実の収穫を終え、これからそれをどうやって…例えば"美味しいワイン"として纏め上げるのか、という段階に入ってきているのかもしれない。それが、桜流しにみられるコクのある味わいと張り詰めた緊張感の同居を呼んでいるのかもしれない。だとすると、確かに本当の"人間としての"勝負はこれからだ。大地の実りを収穫して、如何に完成度の高い味に仕上げるか。30代の勝負の要はその辺りに転がっているような気がする。

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なんだかイヴの夜らしいので、Can't Wait 'Til Christmas の話でもするか。熊淡今年最後の曲でもあるしね。

直訳すると「クリスマスまで待てない」になる。これだけを聞くと人は大抵「あぁ、この人はクリスマスが待ち遠しくてたまらないんだな」と解釈する。「クリスマス早く来ないかな~もう待ち切れないよぉ~!」みたいなノリである。「早く来て欲しい」から「待って居られない」「居てもたってもいられない」「何ならこっちから出向こうか」という意味での"Can't Wait"だと思う。普通は。

勿論これが、Hikaruの歌詞の持つマジックだ。Easy Breezyの歌詞の解説の時にも触れたが、歌のタイトルや詞を、流し聞くような人に与える印象と一字一句聴き逃すものかと構えているマニアたちに与える印象が違えられているのだ。たがえられて、ね。

意図的だろう、そりゃ。そして、そのリスナーの"軽さ・重さ"に従って、伝わるメッセージの"軽さ・重さ"まで調節されている。名人芸という他無いが、一体こんな事毎度どうやってるのか見当もつかない。


キャンクリの歌詞をみてみよう。

冒頭がいきなり、

『クリスマスまで待たせないで』

となっている。言葉のチョイスがホント巧い。ここは、はたと立ち止まって冷静になればわかる。『待たせないで』。ここで、待ち遠しいのは"クリスマスではない他の何か"である、と気付くかどうかでリスナーが別れる。その後にこう来る訳だ。

『何でもない日もそばにいたいの』


言葉の意味を丁寧に追っている人ならここで気がつくのだ、「あぁ、この歌の主人公はクリスマス自体には興味がないんだな」と。クリスマスは一年の中でも特別な日だが、そんな日にならなくても

『I'm already loving you』

もう私は貴方に恋してるんだから、と。クリスマスなんか関係なく、ね。

…どっちにしろリア充の歌なんだけどね…。


しかしこの歌、二番はこんな風に切り込んでくる。

『白い雪が山を包む
 渡り鳥がしばし羽を閉じる
 二人きりのクリスマスイヴ』

ををっと、もうクリスマスイヴが来てしまった。目に入る風景はまさに銀世界、ファンタジックなホワイト・クリスマス。冒頭はクリスマス関係なさそうな顔してたけどやっぱりイヴの夜には…と合点しようとすると、こう来るんだな。


『会う度に距離は縮むようで
 少しずつ心すれ違う』

なんとまぁ、会っても心にズレがあると宣う。あんたらラブラブと違たんか。更にこうなる。

『約束事よりも今の気持ちをききたくて 
 クリスマスまで待たせないで 
 人はなぜ明日を追いかける?』

これはもう、(以前も述べたように)"Be My Last"の

『いつか結ばれるより
 今夜一時間会いたい』

の世界である。一応、地味だがこの夜はクリスマスイヴなので『明日を追いかける?』の"明日"はクリスマスの事だ。なんで人は未来のクリスマスばかり追い掛けて今を大事にしないのか、という台詞で"明日"という言葉を使いたくてこの場面はクリスマスイヴなのだ。まるで尾田栄一郎みたいな日付の逆算の仕方だ。どぉゆう意味や。

で、最後の台詞に繋がる訳だ。

『大切な人を大切にする
 それだけでいいんです』

大切にするのはクリスマスという日、クリスマスというシチュエーションではない。そこで一緒に過ごす人なんだから、今がクリスマスだろうがなかろうが関係ない。一緒に過ごす人とその今を大切に、とまぁそういうメッセージが込められている。ヒマラに比べて随分Popで軽く聞きやすい曲だが、最終的に辿り着くメッセージは両者変わらず重々しい。こういう"コーティング"が出来るようになった、というのは宇多田ヒカルの大きな成長だったのかもしれない。そして私が待ちきれないのは彼女の次の歌…。

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熊淡7の冒頭で「東京都在住65歳宇多田照實さんからのリクエスト」をかけたのは、何かの布石かと勘ぐりたくなる。わざわざ、「この番組で初めて他人の影響が加わった」云々云う位だから、画期的は画期的だが、リスナーとの相互作用が前提にある日本のラジオ番組において、こんなケースも珍しいのではないか。

大体、"放送"なんてものは他人の反応が得たくて始めるものである。しかし、今回の場合、いや、いつも通り、Hikaruはオファーがあったから始めた。なので特にそういった動機は必要ない。でもやるからには、といった感じで続いている。

一発目の"リクエスト"が究極の身内という展開は、手始めとか突破口とか、色々と想像が膨らむ。一般人からのリクエストを一通だけ取り上げて、というのは不自然というかバランスがよくない。或いは、始めたばかりでまだお便りが届いていない為スタッフがお便りを仮に用意しました的なてさぐれ感満載の番組第一回目な雰囲気を作った、という風にもとれる。だとすると次回は一気にリクエスト特集になだれ込むのだろうか?

次回の放送は1月21日(火)、Hikaruの誕生日直後であるから、多くはないにしろバースデーメッセージを幾らか受け取った状態で収録を迎えるかもしれない。世の投稿職人たちはそういった日付をきっちり逆算して収録日や放送日に相応しい話題を提供するものだが、"他人からの影響"を取り入れる気配を見せてくれたからには、ファンは早い目にバースデーメッセージを送るなり、リクエスト曲を送るなりした方がいいかもしれない。

リクエスト、と言っても色々あるわな。普通に自分の聴きたい曲をリクエストしてもいいし、Hikaruにこんな曲があるんだよと紹介する内容でもいい。それは好き好きだが、私なら、公式音源化されていないHikaruの音源を聴かせてくれないかと持ちかけるかなぁ。取り敢えず、FL15のリマスタリングは始まってるという事で、そこからの音源をリクエストするのがいいかもしれない。後は勿論In The Flesh。WILD LIFEから2曲かけたのだからもう怖いものなどなたい。好きなだけリクエストできよう。

いや、やっぱりリクエストは照實さんからのだけでした、ってなる展開も大いにあるけどね。そん時ゃまたそん時だ。うむ、うむ。

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Hikaruが自分で作った曲を滅多に聴き返さないのは、もう何の手直しも要らなくなるまで作り込んでやる事がなくなった状態まで突き詰めた"完成形"にまで漕ぎ着けてしまうからだが、それはあクマでスタジオ・バージョン、つまり、我々が家で聴く分には、という条件付きだ。その完成形がLIVEで映えるか否かはまた別問題である。

Hikaruの曲の中にも、みなさん「ライブ・バージョンの方が好き」という曲があるかもしれない。実際、そのままLIVEで演奏してもどうかなぁ、という曲は幾つもある。意外な事に、例えば、Hikaruの曲の中でも最もヘヴィな"嘘みたいな I Love You"はそのままではライブ向きではない。一つには、そのヘヴィネスの由来が観念的で、余り肉体的なフィーリングと直結していない事、もう一つは、サウンドのバランスを取るのが難しい事だ。前者については感覚的な問題なのでここでは取り上げないが、後者については興味深い。ライブでは、その曲単独のサウンドだけでなく、他の曲とのバランスも考えねばならない。そこがスタジオバージョンと異なる。

ヒカルの5では、同曲はみるからに"異質"であった。ありていに言ってしまえば浮いていた。それではいけない。

実は、その反省は既にUtada United 2006で活かされていた。EXODUSパートのアレンジである。DEVIL INSIDEをアッパー・チューンにせず、リズムを一旦削ぎ落としてムード満点の導入部としてきた。あの流れがあるから、Kremlin DuskからYou Make Me Want To Be A Manへの爆発力が活きたのだ。唐突に最初からYMMを歌っていても浮いていただろうな。今なら、嘘愛も例えばShow Me Loveの隣に置くなどしてリアレンジを施せばぐっと響きがよくなるだろう。いちど聴いてみたいものだ;

今挙げた点などは一例に過ぎない。ライブで楽曲を披露する注意点は幾らでもある。スタジオバージョンとしては完成しているかもしれないが、ライブで歌うとなると毎回曲順が異なる訳だからそれに従ってライブ用のアレンジは毎回変えなければならない。まさに生き物のように変化し続ける事を強いられるのがライブの魅力である。故にライブ・バージョンに完成形なるものは存在しない。歌われ続ける限り変化と成長を続けてゆく。

後は、Hikaruがライブをやりたいかどうかだ。ひとえにすべてはこれにかかっている。であるならばHikaruはこれからも自分の"スタジオでは完成させた筈の曲"を聴き直して解体し再構築する作業に従事していかなくてはならなくなる。でないならば、いつかHikaruは自分の曲を忘れていくだろう。人の記憶力は非情なのだ。それが合理的だったりするんだけど。

どっちだろうね。作詞・作曲は、ひとりでも続けられる。しかしライブは観に来てくれる人が居てなんぼだ。それが途切れるなんて嘗てのプレミアム・チケットの女王に限って、あるのだろうか。勿論、それ以上に、Hikaruが、いつかライブ・コンサートに疲れて、スタジオ内での創作活動に専念する日が来る可能性の方が高い。そうならないように、我々は、ライブコンサートも随分と創作的な活動なんですよとアピールし続けていかなければならないだろう。その為には、ライブ・バージョンを聴き込み、しっかりと「あの曲はライブの方が好きです」と伝えていかなくてはならない。それが、クリエイターとしての"ライブへのモチベーション"を上げていく秘訣なのではと密かに思っている。その場が創造的であるとさえ知れば、必ずクリエイター魂はそこに戻る事を欲する筈だ。ただ昔の歌をなぞるだけならHikaruは途端にライブへの興味を失う…かも、しれない。毎度の事ながら心配のし過ぎなのだが、これには我々の一生の生き甲斐がかかっているのだ。いつ
までも末永くHikaruがライブ・コンサートを望んで開いてくれるよう、祈り続けていきたいっす。

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一昨日の照實さんのツイートから総合すると、日本時間20日夜にNYに居るHikaruとFace TimeでFL15について二時間ほどやり取りをしたらしい。既に仕様の公表されている商品の話を二時間も、となると、未だ詳細の明らかになっていない未公開音源についての話なのか、或いはプロモーション活動の話なのか。Hikaruの関わり具合によっては事後報告や事前承認といったやりとりなのかも。interviewといっても日本語でいうインタビューとは限らず、文脈からすると、"Face Timeを使ったのでただのチャットじゃなくて「面談」になったよ"という意味にもとれる。例によって深い意味はなさそうだ。

で、うーむ、となる。Hikaruが来年3月発売の商品のプロモーションに参加する事があるのだろうか。本来なら、こういう記念盤は、アーティストの活動の穴埋めの為に企画されるものだ。そうやって"時間稼ぎ"をして休暇をとるなりなんなりが常道。人間活動継続中のHikaruも例外ではなく、記念盤という体裁からして、まだ暫くは人間活動が続くと読むのがオーソドックスなのだが。仮に復帰への足がかりだとすれば、照實さんがそう迂闊にHikaruとミーティングだなんて呟くのかな、と思ったり。商品の仕様からして、Hikaruがどれだけ関わっているかに疑問をもったファンたちからのツイートに答えるカタチで「ちゃんと話は通してますよ」と伝えたかった、のだろうと思うのが普通だわな。余り勘ぐり過ぎないようにしようか。

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この、「In The Flesh 2010 footage」を観て聴いている時に感じる「ベスト感」は何なのだろう、とずっと考えている。それは、ホノルルの現地でも感じていた感覚だから、もう四年越しでずっと探しているのかもしれない。

ショウのセッティングとしては、弦を派手に盛り込みかつ親密な空気を作り上げてきた「Unplugged」がいちばんだとずっと思っていたし、パフォーマンスのクォリティーという点ではやはり「WILD LIFE」がいちばんである。歌の絶好調ぶりは皆さんご存知の通りだし、何といっても曲が凄い。当時最新曲だったグッハピとキャンクリで過去の名曲群を挟み込む鉄壁且つ攻めの構成。BLUEとかテイク5とか美世界とか愛囚とかもうとんでもない。鬼の名盤ハトステとシンコレ2からの曲がある分、過去のLIVEとは分厚さがまるで違った。もうとんでもないスケール感。今宇多田ヒカルを誰かに教えたければまずWILD LIFEを見せるだろう。桜流しを歌ってないのが残念だが。(当たり前だバカ)

そう思ってる私でも、この、インフレから感じるベストフィット感は拭えない。「ここに居ていいんだ」というか「こうして居る事の自然さ」というか、兎に角言語化が難しい。「こうあるべき」という程堅くなく、「こうあってほしい」という程でしゃばっていない。「こうでなくてはならない」という程力んでいないし、何というか「これがいい」し「これはいい」。実際に観た人なら、同じ事を感じているかもしれないが、インフレと共にある時間は、他の事に気をとられないのである。何かにそこから憧れるとか、何かを目指すとか、何かを懐かしむとか、そういう事がない。そんなに力まなくても、憧れも夢も懐古も総て既にここにある。

やはり、「制限がない」というのがポイントである気がする。WILD LIFEではUtadaの曲は"やれなかった"んだろうし、Utada United 2006では例の3曲を演奏したが、何というか、舞台の上でも下でも「別枠」として捉えていた気がする。また、Unpluggedでは、その名の通りエレクトリックなサウンドは極力排除されていた。そういう企画だったのだからそれはそれでいいのだが、どのLIVEも結局、何らかの制限があって、Hikaruにとって某かの"偏り"のある内容だった。

観客の力も、その点に関しては大きい。日本の多くのファンと違って、歌詞が母語じゃないからあんまり興味が持てない、なんていう空気は、会場に全くなかった。そういう人も居ただろうが、残念ながらあの場では主導権を握れなかったという事だ。つまり、やっぱり「Utada Hikaru全部」感が、In The Fleshが、今までのLIVEの中でいちばん強く、そして、彼女の存在をまるごと!と思っている人間にとっては、最も居心地のいい空間だったのかもしれない。

First LoveアルバムからはAutomaticとFirst Love、DistanceアルバムからはCan You Keep A Secret?、DEEP RIVERアルバムからは桜ドロップス、ULTRA BLUEからはPassion、HEART STATIONアルバムからはStay Gold(とぼくはくま)、EXODUSアルバムからは三部作、そしてThis Is The Oneからは、ボーナストラックも含めると10曲、という選曲は、意図的に「全部のアルバムから歌いたい」というコンセプトの元にクマれたものなのかどうかはわからないが、バランス面で優れているのは間違いない。とするなら…まだまだ、このテーマは考えていかなくてはいけないかもしれない。その答を知りたくて、また海外公演に出掛けてちまうかもわからんね、こりゃ。

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