無意識日記
宇多田光 word:i_
 



年度末は毎年「年度末に書くような事を毎日書いてるからいつも通りで」と書くのが恒例になっているような気がするが、今年もいつも通り「だからといって特に何も」な心境だ。

まぁそうだろう。ヒカルが年度を気にし始めるとすればダヌパが日本の学校に入るタイミングとかだろう。息子の人生が目に入るようになれば年度という制度にも意義を見いだすようになるかもしれない。それまでは別に何もないよな。

とはいえ過去に『First Love』『Distance』『Single Collection Vol.1』『HEART STATION』『This Is The One』と5度も年度末である3月にアルバムをリリースしているから、今を「アルバムを出さなかった年度末」と言って扱ってもいい。となるとなんとなく寂しい気分にならなくもない。

ほんのちらっと懸念を言えば、このなんとなしの寂しさを抱えたまま4月のアタマからRIAがなりくんプロモーション攻勢をかけ始めると「ヒカルのアルバムとツアーはどうなった?」という気分がファンの間に生まれてきやしないかという心配。考え過ぎかもしれないが、現状RIAはヒカルとなりくんしか所属していないので、あちらを立てればこちらが立たずと(真実は別として)認識されるようになってしまうと「あいつがデビューするせいで俺らは待たされてるんだ」と歪んだ解釈が繰り広げられるかもしれない。この事態は誰にとってもよくない。

出来れば、「うちの小袋が活動していても宇多田の活動やプロモーション体制に何ら影響はないですよ」というサインが欲しい。確かにちょっと難しいが、情報を小出しにしていくだけでも効果がある。折しも先日来月20日の雑誌「SWITCH」がヒカルの特集を組んでくれるという報があった。こういったニュースをある程度間を置かずに(一週間に一度以上が望ましい…が流石に贅沢言い過ぎか)リリースしてくれればヒカルは勿論の事、RIAやなりくんのイメージもよくなるだろう。なんでヒカルの情報出してなりくんの印象がよくなるのと思うところだが、マイナスを払拭するのは今の御時世意味のある事なのだ。

ひたすら音沙汰無しで待たされて…挙げ句情報を出してきたと思ったら画面をスクロールしなきゃいけない位沢山出してきてこちらは途端に消化不良、というのは、他のみんなはどうか知らないが私は非常にやりづらい。普段連絡しても一向に返信を寄越さない都会に出てる息子がいきなり何の前触れもなく実家に帰省してきて金を無心されるような、そんなやるせなさを感じる。勿論愛する息子の為に金を用意する位何でもないが、いや普段一言くらい寄越しなさいよとついつい思ってしまう。なお私に息子なんか居ないぞ。


なんか妙な喩えになったが、多分あの「祭りモード」が嫌いな私のようなファンは極々々々々々々々一部しか居ないだろうからこんな愚痴は気にしないでおいて欲しい。そういうヤツも居るんだなと一旦認識してくれれば、あとは記憶と視野から消し去って貰って構わない。日々ヒカルが子育てと制作とリハーサルに勤しんでいるだろう事は死ぬほどよくわかっているつもりだ。でも、だからって…あとはいつも通り。やっぱり年度末らしくなったな。

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『Don't Think Twice』を聴いてみると、ほんの僅かだが、やや芝居がかった大仰な歌い回しも聞かれる。ミュージカル風と言ってもいいか。まだ前面には出ていないが、これから新境地となるかもしれない。

とは言っても、ルーツに「リトル・マーメイド」の"Part Of Your World"を持つ人だ、そういった資質は元々持っている。"Part Of Your World"へのこだわりは、普段滅多に他人の歌唱にコメントしないヒカルがその日本語版の歌唱に苦言を呈させる程である。どんだけ思い入れあんねん。従って、劇中歌に何が求められているかは本能的なレベルで熟知しているとみるべきだろう。

今の我々は、『誓い』&『Don't Think Twice』がゲームの中でどのような使われ方をするか知らない。場面に合った歌というものがある。ヒカルはそれを知らなくても「既に適切な歌を作ってある」人なので、何の心配もしていないが、それを聴いた時の皆の反応までは予測できない。周りは心配していないのに本人は動悸ドキドキという構図だ。


そんな訳で、ややダイナミックになったかな、という印象は受けるが、そこまで劇的な「英語の歌唱の変化」はみられていない、かな。日本語の歌の変化の要点が「語尾の最後の最後まで注意を払いきる」点に集約された事を思い出せば、"語尾"というタームがまるで違う意味をもつ英語でそういった変化が感じ取られないのは、ある意味構造上の必然だろう。日本語に子音で終わる単語などない(そもそも字がない)ので、もうその地点から話が違ってくる。

そうは言ってみたものの、まだ90秒だ。一曲の中でですらもっと抑揚があるかもわからんし、他の英語曲を聴けばまた違うかもわからない。結論を出すのは早計だが、果たして近いうちに他の英語曲を発表をする機会があるのか。そこだけは懸念だ。

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『Fantome』で日本語の歌を歌う能力が上がり、過去のパフォーマンスを「雑」と言い切れるまでになったHikaru。では英語の歌はどうなのだろう。

英語タイトルの日本語曲を連発していた頃に発表した『Simple And Clean』と、全曲日本語タイトルの楽曲を収録した『Fantome』アルバムの後に発表した『Don't Think Twice』は、受ける印象や楽曲の立ち位置が随分違う。

デビューから数年のヒカルの軽薄なイメージといえば"バイリンガル"で、英語が凄く上手い人と思われていた。一方、『Fantome』をリリースした後のヒカルのイメージはどちらかといえば「日本語を大切にする歌手」として捉えられているように思う。

これは、楽曲の発表の順番にもよるかもしれない。『Fantome』から最初に発表された楽曲は(2012年に単曲リリースされていた『桜流し』を除けば)『花束を君に』であった。この歌は全編日本語で、如何にも日本語の響きを大切にした歌だと捉えられた筈。昔の日本を舞台にした連続テレビ小説のオープニングテーマというのも大きかったが、やはり、カタカナ語ですら『メイク』たったひとつしかないという徹底した日本語しばりの歌詞とそれを活かした美しいメロディーの組み合わせが「宇多田ヒカル復活」の第一印象だった、という図式はそんなに突拍子の無いものでもなかっただろう。もしこれが、2016年の4月にまず『It's a lonely ...』のリフレインを連呼する『道』の方だったらかなり印象は変わっていたのではないか。

ここからの大きな流れの中でクローズアップされたヒカルの日本語の歌唱の丁寧さ。今やベテランとして「日本語大衆音楽の良心・最後の砦』としての期待を一身に背負っている。

しかし、最初期の"軽薄なイメージ"の通り、ヒカルは英語の歌が歌える。母語が2つあるようなものだから当然といえば当然なのだが、この今の流れの中では昔ほどこの点が強調されなくなっていた。

そこに差し込まれてきたのがこの「キングダムハーツ3」の、いや、"Kingdom Hearts 3"のtheme songである『Don't Think Twice』だった。果たしてこの歌でのヒカルの歌唱はどんなものなのか、また稿を改めて詳しく分析する。

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Appleがダウンロード販売をやめるとかのニュースがまた出てきた。こういう記事は、どこの国の話かよくよく注意する必要がある。

アメリカの方では音楽消費のメインが定額ストリーミングサービスに移ったが、日本の方はまだまだだ。国毎の事情を勘案する必要が、あるだろう。

日本ではストリーミングの方のラインナップが揃い切っていない。新しいものはさほど躊躇わずに食いつく宇多田ヒカル陣営が漸く参画してまだ半年も経っていない。Spotifyに至っては今年に入ってからだ。ダウンロード販売は用意しているがストリーミングサービスには居ない、という邦楽アーティストは数多い。まだまだダウンロード販売は需要が高いのが日本だ。この状況で販売終了というのは現実的ではない。

とはいえ、記事に出たのはAppleだ。彼らは、iphoneのイヤフォンジャック廃止もそうだが、やや強引に新しいライフスタイルをユーザーに押し付けてくる所がある。まだ機が熟さないうちに切り上げてくる可能性もないとは言い切れない。

そういう判断は海の向こうで勝手に為されるかもしれず、その場合、日本で変わらずダウンロード販売を続けるレコチョクやらmoraやらにユーザーが流れるだけだろう。

一方で日本はiphoneのシェアが高い国でもある。iOSだからといって他のダウンロード販売サイトが使えない訳ではないのだが、やはりiTues and its StoreやApple Musicがいちばん使いやすいだろう。

恐らく実現は難しいのだろうが、DoCoMoがdストアサービスを抱き合わせて契約を結ぶように、AppleもApple Musicを抱き合わせてiphoneを契約できるようにすれば、趨勢は変わるかもしれない。

いずれにせよ、もっとステップバックすれば、日本の音楽コンテンツ消費の核は相変わらずCDである。そこを無視してダウンロード販売をやめるとかストリーミングサービスを拡充させるとか言っても仕方ない。まだ暫くは静観でよいだろうて。

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昨年末から定額配信にヒカルが参画している。気になるのはやはり再生回数だろう。定額サービスなだけに、各アーティストには再生回数やダウンロード数に応じた配分が支払われる事になっている。

最近はCDを買っても一度も聴かない事も珍しくはない。なんらかの付録が目的だったり、プレイパスで事足りたり。しかし、ヒカルのCDを買う人はほぼ総てが聴く為に買ってきているだろう。定額サービスに加入して購入やレンタルをしなくなった人も、なんだかんだで何度も再生してくれる筈だ。

恐らく、定額サービスになってますますヒカルの存在感は増す。実際のところ再生回数をどうやって把握しているかは知らないが、漸く、(昔から知りたかった)各リスナーの聴き込み度が見えてくる。いや一般人である我々になんらかのデータを教えてくれる訳ではないのだが。しかし、レコード会社に"手応え"を与えればレーベル内での発言力は大きくなり、ヒカルはより自由な活動を繰り広げられる。損はないのだ。

本当だったら、リリース一年後くらいに、例えば「『Fantome』の再生回数が一千万回を突破!」とかニュースリリースしてくれればいいんだが。今それが可視化できているYouTubeと較べてどちらが多いのだろうかね。そこから単純計算で収益額も推測できるだろうし。とはいっても、配当額って加入者数の多寡増減によって変動しそうなもんだが、そこはどうなっているんだろうな。知らない事ばかりだよ、全く。

自分のような人間はアルバムが発売されればCDを買い、プレイパス分をダウンロードし、Mastererd for iTunesを購入し、Apple Musicにもライブラリ登録して辺り一面新作で埋め尽くすのだが、大概の人は、LIVEチケット目当てでもない限り定額配信で済ますわな。歌詞もちゃんと見れるし。

なので、2つの視点がある。ヒカルがリリースするメディア(CD、プレイパス、配信販売、定額サービス、YouTube…)の中で、どれの利用率がいちばん高いかという見方。もうひとつは、他のアーティストたちと較べて再生回数が多いのか少ないのか、CDやダウンロード販売と較べて定額配信はより力を見せつけているのか実はそうでもないのか、という見方。両方に興味があるけれど、バイラル・ランキングとか未だにようわからんし、暫く静観しとくかな。

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この調子で「あの曲をLIVEで聴きたい」を連発すると止まらなくなるかもしれないので初手で自重しておこうか。

という本日は『Distance』発売17周年。えらいまぁ昔。その頃生まれた人は来年就職とか大学受験とか諸々ですよ。

でも、実際のところ言うほど感慨は無いかもしれない。それがこちらが年をとったせいなのか、ITによって過去が相対化されたせいなのか、ようわからん。何しろこっちはWebを触って20年が経過しているので、過去20年は常に「すぐ手に届く」のだ。

もっとも、毎年CDを買い続けているから更にその10年位前からの"歴史"はサラッとCDラックに並んでいる。そういう意味では自分の場合過去30年分位は「すぐ手に取れる距離にある」ので、プレイボタンを押せば過去の思い出が瞬く間に甦る。音楽の想起作用は便利だ。

こうしてみるとやっぱり「生まれる前」の時間と「物心ついてから」の時間は別物だなと感じさせる。生まれる前は本当に遠くて。70年代の10年間と00年代の10年間はやっぱり別物だ。90年代と00年代の10年はそこまで変わらないけど。

まぁでも1998年からの20年は「違う時の流れに迷い込んだ」感覚が拭えない。総てヒカルさんのせいです。あらゆるカレンダーや時計が新譜と新曲の発売日とリンクされて思い出される。じゃあ6年半はどうだったかというと、『WILD LIFE』の円盤が発売されたり『桜流し』がリリースされたり『Kuma Power Hour』がオンエアされたり『First Love 15th』が出されたり『宇多田ヒカルのうた』が作られたりで…結構埋まっているものだ。空白の、という大袈裟なものではない。

なので「えらいまぁ昔」と言ってみたものの、当時の歌はすぐ聴けるしメッセはすぐ(というほどでもなくなったけれども)読めるし、「相対化・空間化された過去」は依然として目の前にあって、自分の生まれる前に対するような「遠さ」は感じない。2001年頃はまだまだインターネット黎明期、そこまでの相対化された感覚はなかった。「今すぐ」「途端に」の方に注目していたしな。今のように膨大な"過去"にアクセス出来る訳ではなかった。

故にあの頃と最も変わったのは、空間的には勿論の事時間的にも「距離/Distance」である事はほぼ間違いなく、従って今『DISTANCE』を歌う事でこの歌の先見性即ち普遍性をより痛感する事が出来るだろう。次のアルバムにアンサーソングや続編があってもいいかもしれないね。

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電話切るのは早いのかもしれんけど、曲終わりはいっつもしつこく引っ張っとったなぁ。最近はそうでもないけども。

っていう一文を前に入れ忘れてたのに気がついた。

ライブとなると、生演奏ならではのアレンジを期待出来るのが嬉しい。特に、フェイドアウトの曲があればそれは工夫が要るだろう。

『Forevermore』のエンディングのライブバージョンは再構成のしがいがあるなぁ、という話は前にしたから省略するとして、個人的に「これが聴きたい」と思うのは『DISTANCE』のエンディングだ。

多分、あそこのコード進行はバンドのジャム・セッションには不向きなのではないか、と勝手に想像している。ヴォーカルのアドリブを入れるにはいいかもしれないが。なので逆に今、チャレンジしてみて欲しい。2006年は『FINAL DISTANCE』だったから今度は『DISTANCE』のターンだろうし(謎根拠)。

10代の頃のヒカルは「大人っぽく歌う」能力があった。したがって大人びた歌詞のラブソングを歌っても堂々としたものだった。30代のヒカルは、では、「こどもっぽく歌う」事は可能だろうか?

偏見だが、『DISTANCE』という歌には若々しさが漲っていると思う。『FINAL DISTANCE』がロングヘアにロングドレスなら『DISTANCE』はショートヘアにパンツルックという感じ。寧ろ今歌うのは結構難しいんじゃないかな。

声優であれば、年齢や時には性別まで超えてキャラクターソングを歌える。ヒカルはシンガーソングライターで自分自身の事を歌っているのならどこかの誰かを演じる必要もない。しかし、"若い頃の自分"の歌は、これくらいになってくると新たに"演じる"必要も出てくるかもしれない。

そこの橋渡しをできそうなのがこの曲のエンディングだ。歌詞の決まっている部分は若々しい演技に勤しみ(今でも十分若いやないかと言われそうだがこれは相対的な話なのでな)、しかし、終局部ではバンドのジャム・セッションに囲まれてアドリブを叩き込む。そこでほんのちょっとキーやコードをずらして「今ならではの大人らしさ」をアピールするタイミングを作れば、それは新たな時代の『DISTANCE』になるだろう。

勿論、普通に歌ってくれても嬉しい。色々と考えてみているだけである。2010年には『DISTANCE』も『FINAL DISTANCE』も歌われなかった。口を開けば名曲が流れ出すHikkiLIVEにおいて、歌は歌われるだけでも名誉なのだ。まだ6枚しか出ていない(いや当時は5枚だったな)オリジナルアルバムのタイトルトラックですら例外ではなく、数多のシングル曲と幾多のアルバム曲の中から選ばれないといけない。狭き門。正直どんなセットリストになるか想像もつかないが、「聴けなかった名曲」が生じるのは避けられない。後悔せぬよう絶対聴きたい曲は今から伝えとこうぜ。

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ぐむぅ。前回はまたツアーへの期待を書いてしまった。他の話題を書こうとしていたのにいつのまにか。それだけ自覚より期待値が高いのだろうな。ライブに対する。

今の時代はフェスに対する25000円は気前よく払う一方で配信代の250円は出し渋るという奇妙な時代である。勿論、同じ人が、というのではなく二極化が更に進行しているといいますか。単独のコンサートチケットも高い。物価なんぞ多少の増減はあれど殆ど変わってないだろうに、特に邦楽コンサートのチケット代が上がったねぇ。外国から招聘するアーティストと変わらん。スタッフや機材含めた渡航費分の差額とか…考えるのはやめにしようか。

でも、確かに、宇多田ヒカルのコンサートのチケット代金が高いから諦めるとかそんな人はかなり少ない。実態は兎も角、そもそも手に入るかわからない。本気で行きたい人は多少高い位なら躊躇い無く払うだろう。その"多少"がどれくらいか、というのが問題ではあるのだが。

機械的な本来論に沿えば、その多少さ加減を調整してちょうど席数分だけチケットを売るのが最大収益だ。つまり、値段で篩にかける。幾ら位まで上げれば希望者全員にチケットが行き渡るか。5000円だと脱落者はあまりいそうにないが、10万円なら結構余りそうだ。1万円あたりから脱落者が目立つようになる気がする。20万人動員で25回公演とかの規模なら、今のヒカルだと1万5000円〜2万円くらいじゃないかと推測する。

例えば『First Love』の15周年スペシャルデラックスエディションは、おおざっぱに言って2万円で2万人が買った。くまチャームUSBシングルコレクションは、あれ幾らだっけ? 2万円で2000人とかかな。これが、私の勝手な予想ではライブコンサートチケットの場合2万円で20万人とかそんな規模な訳だ。コンサートチケットの人気ぶりがよくわかる。妄想だけど。

たった一晩、たった2時間の為に2万人払う人間が20万人も居るとしたら結構な驚きだが、別に素っ頓狂な見立てでもないだろう。勿論本当はこんな単純な議論で片付くものでもないんだが、モノやコトの価値とか、ヒカルのファン層の性質とか、そういったものを見極めるとっかかりにはなるかもしれない。

一応、「『Utada United 2006』よりは入る。『Bohemian Summer 2000』ほどではない。」というのが基幹予想だ。ボヘサマは最後のスタジアム3日間で10万人動員というのが凄く大きい。今回はどんな感じになるのやら。追加公演のアナウンスは、決まっているのに敢えて隠している場合と本当に追加した場合がある。前者、まず平日公演を発表してある程度チケットを売ってから土日公演を追加発表するとかはオーソドックスな手だ。今でも通用してるかは知らないけど。でもヒカルの場合そういうのしなさそうだしツアーで追加公演の発表があった暁には「嗚呼、予想よりも人気あったんだな」と素直に感心するとしよう。…いつの話だよ?

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いや別に本気でなりくんとヒカルのツーショットアピアランスが必要だと言っている訳ではない。それがあったら距離感が違っただろうなというだけである。ヒカルも近すぎるのを望んでいなさそうだし、これはこれでよいのだ。

来週にはなりくんのデビューアルバムの曲が更に解禁になる予定、だったかな。ここから更にRIAはなりくんに力を入れていくだろう。ただ、先月油断していたら『誓い』&『Don't Think Twice』が放り込まれてしまった。来月も予断は許さないだろう。まぁ、ニュースなんて来る時は一瞬だ。

ツアーからの逆算でヒカルのニューアルバム発売日が決まっている為にRIAに時間が出来てしまった、その為にこの時期になりくんのデビューを嵌め込む事が出来た、という推察が当たっているならば、5月からの日程を空想する事が出来る。

5月下旬に何らかの発表があった場合、例えばそれが新曲の発売なら6月中にリリースが計画されよう。7月からのドラマ等のタイアップがあるならば、更に次の新曲という事になる。イメージとしては、昨年、7月上旬に『大空で抱きしめて』、下旬に『Forevermore』がリリースされたスケジュールに近い。ここからが今年は違う。去年でいえば『あなた』よりやや早いタイミングで更にもう一曲リリースするがそれはアルバム先行シングルになる。つまり、おおざっぱな予想としては下半期に立て続けに3曲をリリースしてアルバムを出してくるだろう、と。

12年前は6月中旬にアルバムをリリースして7月上旬にはツアーを始めていた。これ位のテンポ感で行くなら今年は10月末〜11月中旬にアルバムをリリースして、12月のアタマから全国ツアー、という感じになるか。まぁ誰でも予想するヤツだな。結論は平凡だが、なりくんを含めたRIAとしての動きから予想が出来る、というのが今年の新味だろう。大した話じゃ、ないけれど。

結局、デビュー20周年記念日にライブコンサートというのは確定しているような気がする。寧ろ、外す理由がない。初日かどうかは微妙な所だが、会場さえ押さえられていればやらないと皆で後悔する事になるやもしれぬ。10年後の30周年記念日にちょうどツアーやってる保証もないしな。

それにしても…ヒカルって30周年を迎えたとしてもまだ45歳なのか。夢が膨らみますねぇ。

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妙な時間帯だな〜。RIA_staffがコンスタントになりくん情報を発信してくる一方、Hikki_staffは随分音沙汰なし。海外の売れ行きツイートから梨の礫じゃあござんせんか。中の人が限られているから同時には稼働できないって事か。もしそうならこのまま5月上旬まで何の情報も出てこないのか!? うーん、もどかしい。

本人のツイートがあるからいいようなものの、今時の風潮としてSNSでの発信頻度に斑があるとすぐに忘れられるから、何でもいいから何か…と思ってなりくん情報をHikki_staffから発信して不興を買ったんだったな。うまく行かないもんだ。

どうにもこの食い違いは、写真のなさにあるんじゃないのという気がしてきた。スタッフの皆さんはヒカルとなりくんが一緒に仕事をしている所を見ているけれど、我々はデュエットの音声だけだ。「宇多田ヒカルプロデュース」のニュースとともに2人の宣材写真は並ぶんだけど、そこまで。もし2人のツーショット写真をシュートしていたら少し印象が変わったかもしれない。

いや勿論戦略上「それはやりすぎ」というのはわかる。我々の世代だと、プロデュースしているというだけで「With T.Komuro」のクレジットとともにしっかり歌手と同じフレームに収まってる小室哲哉の図、というのを経験してきているのでプロデューサーが一緒に映っているのに抵抗はないんだけど、今だと例えばAKB48の宣材に秋元康が写り込むかというと、ねぇ? 「プロデューサー」のイメージは(アイマスやってなきゃ)今はそっちだろう。ヒカルとなりくんのツーショットは行き過ぎだ。

ただ、話の組み立てとして、その写真たった一枚でHikki_staffからなりくんツイートを発信する理由づけにはなっただろうな。ビジュアルというのはそれ自体が発するイメージとともに意味づけや位置付けが重要なのだ。『忘却』のミュージックビデオだって、ヒカルとKOHHのツーショット宣材が出回っていたらまた印象が違っていたかもしれない。勿論、それはより悪い方に、かもしれないが。

いずれにせよこのまま『誓い』&『Don't Think Twice』を塩漬けにして年度末を越すのかな。ゲーム側の都合が最優先という理屈がわかっているだけに、誰に要望を出す事も出来ず余計にもどかしい。もうこっちは桜が咲き始めてるんだけどねぇ。

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ライブコンサートを少なからず(という程多くもないのだけれど)観てきた身として、結局私を喜ばせるのは、たった今演奏している曲に演者がどれだけ集中しているか、だ。思い入れや拘りと言ってもよく、もっと言えばその歌を愛しているかどうか。それに尽きる。

今はZEPP TOKYOでのPumpkins United公演の帰り。今日3月23日が命日になるんじゃないかと思わせる程私を殺しにかかった名曲オンパレードのコンサートで、聴衆を圧倒したのはやはりマイケル・キスク(ミヒャエル・キスケ、だけどなメンバー紹介だと)の歌唱力。まぁとんでもない。今まで生で観た歌手の中でもいちばん上手い。声の制御技術が完全に人外だった。

なのだが、やはり醒める。選曲は最高、演奏もサウンドも絶好調、歌唱力には何の問題もなしなのだが、如何せんキスケはHELLOWEENの曲にさして思い入れがない。感情が籠もってないとかより、単純にそこまで好きな曲でもないのだろう。端々節々にそれを感じて私は醒める。一方で周りからみればあの人全曲歌ってはしゃいで楽しそうだなと見られるような振る舞いをしているのだから我ながら器用というか奇妙というか。両方本音なので何の問題もない。醒めてる私も本音、はしゃいでる私も本音。

歌っている人が今歌ってる歌に思い入れがあるかないかなんて事を気にしながらライブを観ても楽しめない、というのは真実なのだが、気になるものは仕方がないでせうに。寧ろ、私はそれを観に来ている。今歌ってる歌の何処が好きなのか愛情たっぷりに表現してくれた時、私は満足する。他の人の事は取り敢えず知らない。

シンガーソングライターはその点で圧倒的な強みを持つ…筈なのだ。自分の好きになる歌を自分の好きなように作って好きなように歌える。他人の曲を歌わなければならないバンドやアイドルにはない圧倒的なアドバンテージ。ヒカルさんはそれを活かしているのか。

ここが難しい。ヒカルさんは完成した曲を聴く習慣がない。だからといって愛情を注いで曲を書いていない訳でもない。私なんかは自分で何かを作ったらそれを使うのが目的なんでないのと素朴に思うものだが、日曜大工が趣味の人が作った家具を次の週から生活に組み入れるのか、作れた事に満足してとっとと友達にあげてしまうのか、確かにその違いはあるだろう。ヒカルさんは完全に後者。

だがライブコンサートはその作った家具をもう一度かき集めて部屋を仕立てる作業みたいなもの。普段から生活に組み込んでいる人はもう今すぐただ部屋に案内するだけでよい。ヒカルさんは、まず他人のモノになっている自分の作った家具たちを返して貰うところから始めないといけない。だからヒカルはいきなりライブをする事ができない。入念にリハーサルを重ねよう。

そ、こ、で。返して貰った家具を「やっぱ好きだー」と言えるかどうかが勝負の分かれ目である。ライブやるつもりだったら最初っから自分用に家具を作って使っときゃいいのに、と思うものの、仕立てた部屋は皆で使うもの、或いは皆で眺めるものだ。となると、人にあげる為に作った家具の方が都合のいい場合もある。ここらへんの塩梅が、確かに難しい。

そこをかいくぐって自分も他人も絶賛する部屋を仕立てられるかどうか。私はまず、ヒカルがたった今歌ってる歌に思い入れや拘り、何より愛があるかどうかを聴く。自然に気になってしまうだろう。ただ巧く歌うだけだと無意識日記は絶賛しない。どれだけ甚だしい愛を感じさせてくれるか、そこを大きく期待してツアーを待たせてもらおう。全曲で『ぼくはくま』みたいに楽しそうに歌えればいいんだよ。簡単な事…でしょ?

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まだこのネタで引っ張るんかい。

Mステに出た時に退出限界時刻に挑戦してた身からすれば「立ち去るのが早い」と思われるのは織り込み済みだと捉えてたのだが、この、『そう思われないには』の一言が出てきたからにはそれじゃまずいと考えるようになった分変化があったとするべきか。

次から気をつけて3秒数えるようになってたら笑えるのだが、要するに「後ろ髪引かれる想い」とか「ずっと話してたい」とかの感情が無いんだわね。それはそれで仕方がない。ヒカルの相手の方が「折角会えたのに素っ気ない」「もっと話そう」と思ってるから余計「…早いなっ!?」と感じてるだけで、ヒカル自身は実は全然普通だったというのも有り得る。万国共通に愛される女宇多田ヒカル。これなら纏め方として綺麗だな。

ツイッターのお陰で「会話のキャッチボール」が可視化されて、メッセ&メールの時代より色々わかりやすくなった。これだけの返信を総て読む事は出来ないが、どんな人たちがヒカルをフォローしているのかというのがみれるのは有り難い。殆どの場合こういったケースを参考に普段何気なく書いてる「ライトファン」とか「顧客層」といったイメージを固めていく。いやイメージは固定化するもんじゃないけどな。

結局は人数や回数が嵩んでくると「本人の写し鏡」になっていく、というのが理想なんだがそれをするにはちょっとツイッターのリプライ欄は範囲が広すぎるか。一言呟くだけですぐWeb記事がアップされる立場、それはもうすぐに「別にファンでも何でもない人」が寄ってくる。そして、そちらにまでアピールできてこその大衆歌手ではある。

なりくんがインタビューでヒカルを「芸術家肌で自分の拘りを貫く」的な事を言っていたが、ヒカルの場合その拘りぶりが欲張り極まりないせいで様々なタイプの人間に受け入れられたい欲求まで叶えようとする為結局ポピュラーミュージックになるという構造が在る事にまでは言及していなかった。なりくんは気づいていないのか或いは自らのインタビューに関係ない領域だと判断したのか定かではないが、レーベル運営からソロミュージシャンという"逆行"を果たしている身としては学びの順序も逆なのかもわからない。

ヒカルも様々な順序が逆だったが、『In The Flesh 2010』を行った事でそこらへんはしっかりリセットされた気がしている。もうビッグである事、売れる事に躊躇がないというか。その躊躇いの無さが『思われないには』に繋がったのだとすれば辻褄が合うかもしれない。もっとも、ツイートを推敲する過程で間違って「為」を消しちゃったのだとすると(何故か私にはそう見えている)、ヒカルもまだまだ役割を演じている訳なので、お母さんへの憧れが薄れる事にはなってなさそうだ。まだまだ果てしない旅路だねぇ。

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今回のツイートで奇妙なのは、『そう思われないには何秒くらい待てばいいの…?』と書いている事だ。

「為」抜けてるんちゃうんか、というツッコミは一先ず脇に置いておこう。これ、どっちなんだろう? 単純な興味なのか意向なのか。つまり、「人はどれくらい待てば"早い"と思わなくなるのか?」という疑問を解消したいのか、それとも「そんな風に思われてるとは知らなかった。今後はそう思われない為にちゃんと対策をしよう」と考えて皆に訊いてみてるのか、果たしてどっちなのかという話だ。

立ち去るのが早かったり電話を切るのが早い人は、当然そのあと相手がどんな顔をしているのか知らない。つまり、今回のように言葉にして言われないとそもそも問題の存在自体に気がつかない。言われて初めて「あ、自分は去るのが早いのか」とか「あ、電話って待ってから切るもんなの? いっつもさっさと自分から切っちゃうからわからなかった」とか思うのだ。

でも、35年生きてきた人である。そうだとしても当然のようにこちらにも疑問が湧いてくる。

まず、ヒカルは人を見送った事がないのだろうか? お互いが一旦顔を合わせて、なんやかんやあってさぁ今日はお開き、というのには3つのパターンがある。客として招いた時、客として招かれた時、出先。後者2つはさっさと踵を返して立ち去るのは問題ないが、客を招いてなんやかんやあって最後に見送る時に、招いた方が先に目を切るなんて事があるか? その時に招いた客が名残惜しそうにこちらを何度も振り返ってくれるのを見た事がないのだろうか? 一度でもそういうのを見た事があれば、人が立ち去る時の早さ遅さタイミングというものが実感として経験として身につきそうなものだ。

更に、電話も同じである。電話は「かけた方が切る」のが常識だ。一度でも電話を受けた事のある人なら、他人がどれくらいの早さで電話を切るか知っている。それと比較すれば自分が電話を切るのが早いかどうかすぐに判別がつくだろう。こんな質問、35歳にもなってするだろうか?

以下の可能性が考えられる。よく考えずに列挙してみよう。

・ヒカルはまともに自分のうちに客を招いた事がない。よって客を見送った事がない。
・ヒカルは客を招いた事があるが、客を見送る習慣がない。行っても玄関までなので、扉を閉めれば終わりである。道まで出て行って見えなくなるまで、とか駅まで、とかそういう経験がない。
・単に訊いてみたかっただけ。

・電話をかけた方が切るという常識を知らない。従って、自分から電話をかけた時も自分が電話を受けた時も必ず自分が先に電話を切る。即ち相手に電話を切られた事が一度もない。
・今まで意識して相手の電話を切るタイミングなんて考えた事なかった。何度も早いと言われるので意識するようになった。しかしそんな風に考えた事がなかったのでツイートしてみた。
・やっぱりただ単に訊いてみたかっただけ。

…どれも眉唾だな…。有り得なさそう。しかし、電話嫌いで普段から兎に角早く要件を済ましたくて常に急いで電話を使ってきていたとしたら、まぁない話ではない。

でもいちばんの疑問は、本気で「早いのを治したい」と思ってるかどうかなんだわ。そこの真意がわからないから何とも言えないのさ。

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『@utadahikaru: どの国の知人にも「お別れを言った後立ち去るのが早い」とか「電話の最後の一言の後に切るのが異常に早い」と言われるんだけど、そう思われないには何秒くらい待てばいいの…? !Y

かつて『さようならの後も解けぬ魔法淡くほろ苦い』と『Flavor Of Life』で歌った人とは思えない野暮ったくて風情のないツイートだな(笑)。まぁ二番(三回目)ではしっかり『さようならの後に消える笑顔』と歌って「笑顔でさようならを言った後に急に真顔になる案件」としてトークで笑いをとっていたので表裏ではあるんだが。

そういえばこの箇所、「私らしくない」のは『さようならの後に消える"笑顔"』の方なのか、「さようならの後に笑顔を消すこと」なのかどっちなんだろう? まるで『First Love』の『明日の今頃にはわたしはきっと泣いてるあなたを想ってるんだろう』で泣いてるのは私かあなたか案件みたいな問題だが、FoLの方がややややこしいか。包括的に「笑顔自体も私らしくないし、笑顔を消す事自体も私らしくない」と言ってしまえば解決するので悩む必要はない、でファイナルアンサーなんだが、ではこの歌における『私』の「私らしさ」って何かと訊かれたらよくわからなくなるので部分的解決にはなってもFoLの歌全体を解釈する手助けにはあまりならない。11年前の歌だけど。

今回のツイートも、しかしながら、ということは、今後の歌詞に反映される可能性がある。今時そもそも電話なんかしねーよ、LINE通話とかFacetimeとかあるだろ第一国際電話とか金持ちしか使わねーよってあーあんた特上の鰻重注文する大金持ちだったな、というツッコミはさておいて「すげなく切られる電話を前に/手に」程度なら容易に詞に落とし込める。そもそも『Automatic』なんていうそれまで自家用車や家電製品で使われていた用語をラブソングに落とし込んだ歌でデビューした人なのだからもっと色々出来そうだしな。


「余韻」と「切換」で話は(というかリプ欄は)紛糾してそうだが、そうね、細かい話はまた次回にしとこうか。

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『ワンシーンずつ撮っていけばいいから』と歌われては岩下さんの事だと断定されてしまうし、『WINGS』はハッキリ夫との事がヒントになったと答えている。昔のヒカルは夫との事も歌にしていた。

今はどうなのか。何度か書いているように、キコの影がとても薄い。今のところ、彼との事を歌ったと認めた歌はない。そうこうしているうちに『あなた』というダヌパとの事を歌った歌が出来てしまった。

勿論、直接インタビュー等で答えていないだけで、実はキコとの事を歌った歌がもう存在している可能性はある。『光』だって当時「今お付き合いしているカメラマンとの事です」と公言していた訳ではない。メイキングの様子をみれば「あれこいつら付き合ってんじゃね?」となっても不思議ではなかったけれども。

ただやっぱりキコは一般人。映画監督まで務めた岩下きりやん(そんな名前の人居ません(笑))からすれば名前を出して貰った事はデッカいプラスになっていたが、キコの名前をヒカルが出して彼にメリットがあるかというと恐らく「小さなメリット&ドデカいデメリット」と判断するのが確かに妥当な気がする。彼をメディアに巻き込みたくない、というのはよくわかる。

でも、ならダヌパのエピソードはツイートするのにキコとのエピソードはツイートしないのか?という歌詞とは関係のないところで引っ掛かる。…うーん、こういう書き方を続けているとしまいには「ヒカルとキコの仲を疑ってるの?」と言われるよねぇ。それは、うん、仕方ねぇよな。なおキコという呼び名はヒカルは一度も使った事がないから誤解なきよう。"ダヌパ"同様、タイピングがラクだから便宜的に使っているだけだ。

まぁいい。今の日本の、特にWeb上では母子のエピソードは微笑ましく受け止められ易いが、夫婦のラブラブエピソードは時に妬みからか悪らつな言われ方をする事もある。「あらあら、ごちそうさま」とでも言っとけばええのんに、と思わなくもないが、母子のエピソードと違って新婚夫婦とか恋人同士とかって「二人だけの世界」を形作っていて我々傍観者の存在が視野外になっている事がままある。そういった客観的視点の欠如が反感を買うのかもしれない。私ゃ幸せのお裾分けは大好物なのでどんどんラブラブエピソードを摂取したい方なんじゃがの。

なので、結果的にヒカルの今のやり方は戦略として最善になっている。案外暫くこのままでいいのかもだわ。

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