無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ここで「うん、知ってた。」とかって呟いちゃうと負け惜しみ確定なのでまだ我慢する。そうなのよ、仮装報告がまだないのよさ。みんなで待ち構えるとひらりと躱してくれるのかな。ままならないのも素敵でいいが、コスプレはもっと素敵だからまだ諦めずにいたいと思います。



ま、気を取り直していこーかな。

「予想を裏切り期待に応える」というのは宇多田ヒカルを形容する時にしばしば見掛ける言い回しだけれど、そもそもエンタメってのはこのバランスをとることが難しく、故に至上命題になる。何もかもが予想通りだとつまらないし、かといって何一つ期待に応えてくれないとそれもまた相手をする気が失せる。また、どうだいいアイデアだろうと心理的優位に立たれても面白くない。マウントをとられるのはなかなかに嫌なものなのだ。

結局は、歩調を合わせてくれるものがいい。喜びも戸惑いも含めて、自分と同じく楽しんだり驚いたり。「これ、マジで面白いから!」と言って仲間に引き入れてくれるような力強さとかね。でもヒカルパイセンの場合は、思わぬ所で心が曝け出されてしまうのが魅力かもしれない。

つまり、予想外であったり、意表を突かれたりといったアイデアが、自分の中に既にあったのだと気がつかされる瞬間。例えば『キレイな人(Find Love)』の

『欲しいものを手に入れるだけでは
 なれないよ、なりたいような人には
 いつまでも物足りない
 Find love, til I find love, til I find love』

という歌詞。普段から、あれが欲しいとかこれが欲しいとか、大なり小なり誰にでもあるし、「こんな人間でありたい」という希望や願望も、人としてもちがちだったりするけれど、どうにもそこらへんが自分の中で統一されていないというか、うまく整合がとれていないなという、「もやもやした気分」を抱えている時期があって、そんな気持ちを知っている人がここの歌詞に出逢った時に「あ、これか」と思うのだ。そうか、この二つ(欲しい物となりたい人)って相容れないんだなという、気づき。ヒカルに『なれないよ』とそう歌われた時には既に、自分の中で半歩そちらに向かっていたのである。ヒカルはそこからもう半歩を付け足してくれるのだ。

これが、大きく飛躍しすぎてもいけない。人はそんなに一足飛びには飛べない。また、馬鹿丁寧過ぎてもいけない。それこそ、馬鹿にされているように感じてしまう。ここでその「歩調を合わせる」感性がものをいう。ヒカルの歌詞は、独り言のようでいて独り言ではない。ここはちょっと難しいのだけれど、『Gold ~また逢う日まで~』で

『別れの言葉じゃなく、独り言
 また逢う日まで』

と歌っているけれど、この『独り言』の言葉は、当然のことながら歌を聴く我々には届いているのだ。そんなメタな所の距離感が大事だったりする。歌のストーリーを通じて独り言を聴かせてくれている。だから、これは助言でもないし、導く言葉でもない。ヒカルが自分に言い聞かせている言葉を私たちとも分け合ってくれているのだ。だからそれはまるで自分の言葉のようでもあるし、そして、ちょっとだけ…半歩だけヒカルパイセンは先を行っていて「あなたもそこを歩けるよ」と言ってくれる。それくらいの歌詞をいつも歌ってくれているから、どうにも心を捉えて離してくれないのでありました。


で、何が言いたかったかというと、今年のハロウィンは『ちょっと歩幅が合わなかった だけ』なのかな?とな。(…全然気を取り直せてなかった件。)

『そろそろ部屋から出ておいで』
『思わせぶりでは好かれてしまうよ?』

『随分話が違うじゃないかい
 今すぐ厭なら明日にバイバイ
 That's the way it is
 いつまで待っても損なだけなら
 出直してくるよ 今はバイバイ
 That's the way it is, yeah』


…だなんて『はやとちり』の歌詞が、今夜はよく合う気がするのでしたとさ。ちゃんちゃん。
 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そわそわ、そわそわ…。

ハロウィン当日になった。他の様々な有名人の皆さんと違って、今更宇多田ヒカルがハロウィンで仮装してアピールすることでプロモーションの旨味が出るとかそういうことは殆ど無いので、仮装写真のアップロードは純粋にファンサービスだ。あれば儲けもの、という性質のものであって、こちらから要求したりおねだりしたりするのは品性に欠けるよね…

…今年も仮装、楽しみに待ってます!!(台無し)

いやまぁでもそうなんですよ。昨年イーブイがバズりすぎたせいで忘れがち…でもないけど、別に毎年仮装してるとかじゃないからね。魔女はもう13年も前だし、ジャコランタンだって10年前だ。今年何かある保証はない。仮装案募集だって気軽な感じで呟いただけで、そんなに真剣に捉えられても困るというのが本音かもしれない…

…でもどうしたって期待しちゃうよねぇぇぇぇぇ!?

なんだか気がついてみればタイムラインの緊張感が新曲発表時より高いような気がしなくもなくなってきているのだけど、うむ、それだけ注目されているという事なのだろう。ポジティブに考えよう。

それに、昨年ヒカルは

『ここ数年ハロウインコス選びは息子に丸投げ』
https://twitter.com/utadahikaru/status/1586881417601986560

と言っているのだ。去年のイーブイが初ダヌ案ではなく、もう何年も続いているのだと。たまたま昨年はアップロードできるタイプの仮装だっただけできっと例年は…え!?もっと危ない格好だったりするのか?? ドギマギするじゃないか。まどマギ劇場版楽しみだけどさ。

つまり、ヒカルママの毎年のハロウィン仮装は、ダヌパイセンの1年1年の成長ぶりが如実に刻印されていることになるのだ。…なるのか? …なるのだ! だから、それを確実に刻む為にも、今年も是非々々その麗しいお姿を拝ませて貰いたいと切に願うのでありましたとさ。

あとは、つまり、ヒカルが公募した仮装案と、(あれば)ダヌくんの今年の仮装案と、どちらを採用するか、ですねえ。いやもしかしたら、ともだちとパーティーするから今年からはお母さんと過ごさないとか!? だとしたら切ねーな。いや、息子の成長を喜ぶべきなのかそこは。ともあれ予断を許さぬ万聖節前夜、しばらくは落ち着かない時間を過ごすことになりそうですわ。そわそわ、そわそわ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




同じく宇多田ヒカルの「黙らせる」歌としては

『おしゃべりな私を黙らせて』

と歌う『大空で抱きしめて』がある。タイトルからして既にそうだが、この歌は「言葉じゃなくて行動で示して欲しい」というコンセプトが軸にある。

『最後と言わずにキスをして』
『四の五の言わずに抱き寄せて』

という風に『言わずに』を連発する。そこに言葉は要らないのだと。

前回みた「言葉」や「音」の対義語は、「無言」や「沈黙」、即ち「静寂」であった。音も何もない空間。それとは対極的に、身体的な感覚、物理的な事象もまた「言葉」の対義語たりえるのである。裏を返せば、「言葉」は静寂と行動の狭間のどこかしらに生まれているのだ。

果たして歌詞を書く身としてそこまで、ある意味「言葉」を“貶めて”しまっていいのだろうか?と少し不安になりそうな所だが、ヒカルは昔のインスタライブで「言葉とは何か?」という問に対してこう答えている。

「言葉は、言葉で伝えられない事を伝えるもの」

なのだと。まるで禅問答だが、つまり、最初っから言葉は、言葉に出来ない事を託されて発せられているのだ。静寂や行動に負けてしまうのは当たり前というかもう最初っから織り込み済みなのだ。なので、「それでも敢えて私は歌う」という負けて潔く散る覚悟で居るのではなく、「だから私は歌うんだ」と言う時の単なる前提として、「言葉に出来ない事」と付き合っているに、過ぎない。言葉に出来ないからこそ言葉を駆使して伝えようとする。そんな中で、黙ってたり抱きしめたりした時の方が気持ちがよく伝わる様子を目の当たりにしてまた言葉の拙さに気付いてそれと付き合っていくのが作詞家というものなのだろう。因果な商売だし苦悩だらけだろうけれど(毎回レコーディングデッドラインギリギリまで悩んでるもんねぇ)、それでも何だか楽しそうだなぁと羨む気持ちも感じてしまうのでありました。いい歌詞書くもんねぇ、ヒカルは。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Laughter in the Dark Tour 2018』での最大のハイライトは『初恋』での無音だった─という話は幾度となくしてきたけれど、それをして『言葉を失った瞬間が一番幸せ』と形容した人が居たので絶句した。見事な結びつけよな。…あ、今私が絶句したのも「言葉を失った瞬間」ですね、はい。

人は、許容量を超えた何かに触れると言葉を失う。それと無音とはイコールではないけれど、なるほど確かにヒカルさんはデビュー曲の『Automatic』からして無音を見据えながら創作に励んできた訳だ。『Bridge(Interlude)』や『Eclipse(Interlude)』といったインスト曲のタイトルもそれぞれのアルバムに於いて「言葉を失った時間」を指す比喩だという話も何度も繰り返してきた通りだし。セカンドアルバムには『言葉にならない気持ち』なんて曲も入ってるし。

そんなヒカルさん、最新曲『Gold ~また逢う日まで~』ではどのように無音と向き合っているのだろうか?…という観点から歌詞を見直してみると、

『外野はうるさい
 ちょっと黙っててください
 一番いいとこが始まる』

の箇所が目を引く。外野を黙らせると『一番いいとこ』が訪れるのか。それは上述の通り『Automatic』で『言葉を失った瞬間』が『一番幸せ』と歌うのと軌を一にしてはいまいか。デビューから24年を経過したが、ヒカルの歌詞のテーマの揺らがなさ、一貫性を示しているようで鳥肌が立つ。そしてそれは勿論全く同じではなく、時間の積み重ねを反映させた重みや味わいが加味されている。確かに、デビューしたての15歳に『黙っててください』と歌われても「この跳ねっ返りが何言ってんの」みたいになってたかもしれないものね。今までのキャリアのお陰でこういう歌詞が映えてる面もありそうだ。

とはいえヒカルさん、デビュー3年くらいで

『何度も姿を変えて 私の前に
 舞い降りたあなたを 今日は探してる』

なんていう風に(『Deep River』で)歌っているので、一貫したテーマが何度も姿を変えて自らの前に立ちはだかったりはぐらかされたりするのは、初期の頃から見抜いていたのかもしれないわね。

いずれにせよ、無言(『言葉を失った瞬間』)や(うるさいのを黙らせた)沈黙が『一番幸せ』だったり『一番いいとこ』だったりというのは、音を生むことを生業とした音楽家としてはある意味敗北というか、音楽にも「雄弁は銀、沈黙は金」という格言が適用されるのかと項垂れても仕方がない所を、

『音楽も無音で始まり、無音で終わる』

と無音もまた音楽の重要な一部、いやさ本質であると喝破し前を向くヒカルさん。カッコいいことこの上ない。今後も是非デビューから一貫して追究してきたこのテーマを更に突き詰めていって欲しいものである。にんにん。
 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ミュージック・ビデオの事を考えると(と、前々回からの続きを話し出す)、いつも思い出すのが「Fluximation(フラキシメーション)」の企画だ。
https://studio4c.co.jp/works/pages/19.html

詳しくは↑上記リンク先を参照して欲しい(YouTubeで「Utada Fluximation」検索もね)が、要は「楽曲と映像の距離感」がいちばん私に望ましかったということなのです。

ミュージック・ビデオってのは楽曲に寄り添いすぎてもいけない。『HEART STATION』のビデオを作るからといって肌寒い雨の日に訳ありげな二人が車に乗ってカーラジオを聴いていたら余程演出と編集に工夫を凝らさない限りカラオケムービーにしかなれない。歌詞の情緒は言葉から絵を想像するから生まれるのであって、最初から絵が見えていたら言葉は蛇足にしかならない。逆もまた然りってことだね、歌があるなら絵は蛇足でしかない。

そんな足枷が最初からつけられている状態でMV制作はスタートする。そりゃ難しい。

加えて、映像監督の作家性もある。楽曲が先にあろうとそこは「私の表現領域」なんだから、個性や独創性を出そうとする。これは人の手を通る以上避けられない。

ただ、最近のアニメ作品をみるとそういう「幼さ」や「いなたさ」は、ない。最近話題に出してる「不滅のあなたへ」にしろ「葬送のフリーレン」にしろ「薬屋のひとりごと」にしろ、原作リスペクトが凄まじく、映像監督の作家性云々は(素人目には)全く封印されて、「漫画をアニメにする作業」に集中している。そこには、大人びた職人技と職人魂が漲っている。かの有名な「鬼滅の刃」に至っては原作の拙さを大きくカバーして空前絶後の超特大ヒットを記録した。原作を100パーセント活かす技術も120パーセントにする技術も、特定のスタジオや個人に限らず業界全体として備えているようにみえる。

…っていうのも、隣の芝生が青く見えてるだけな気もするけど、やっぱり羨ましい。アニメ業界のクォリティや進取性で宇多田ヒカルのMV作ってくれたらいいのに…とついつい呟いてしまうが、既に第一人者である庵野秀明&辻田恵美コンビに『One Last Kiss』を作って貰ってたんだった。い、いや、でも、あれは編集を担当してくれただけだから撮影は別で、アニメーション技術が駆使された訳でも…としどろもどろになる私にくだんのFluximationがトドメを刺す訳ですよ、えぇ。20年近く前になるけれど、『EXODUS』の全曲に対して、それぞれCM程度の流さではあるけれど、イメージに合ったアニメーションMVが提供されたのよね。いやはや、もう恵まれてましたねヒカルさんは。自らの才能のお陰ですけども。

つくづく、時代に対して早過ぎたなと。もし今Fluximationと同様に、ニューアルバムの楽曲のイメージ・アニメを30秒程度ずつ制作すればショート動画全盛の現代にバッチリフィットしただろうね。アニメに対する偏見も20年前と今では全然違うし。なので事ある毎に私もこの日記で「またFluximationみたいなのやろうよ」と言ってるんだけど、これまた何度も言ってる通り今のEPICの皆さんは『EXODUS』を手掛けてないからそのプロモーションの一環であるFluximationについても「他社のアーティストが他社の作品でなんかやってた」程度の事でしかない。なおヒカル本人に関しても当時制作は丸投げだった。あれ?でも記者会見してるよね…?
https://ascii.jp/elem/000/000/348/348198/
…してたわ。ご参照の程。


まぁあれだ、早過ぎた好企画なのでまたやってくれていいよっていう、いつものアピールなのでした。ただ、時はより満ちてきてる気がしますね令和の現代。今ならフルコーラスで宇多田ヒカルのアニメMV制作するよって監督10人以上集まる気がするけどな。どうなんでしょうねぇ?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




うむ、10月も末を迎えるということは、即ちハロウィン目前なんだな。そう、コスプレ待機期間突入なのである。

ロンドンでのハロウィンの扱いは知らないのだけど、普通に平日だとするならこの週末、土日を利用して母と息子が仮装を楽しむ可能性は大いにある。なので、明日以降いつ仮装報告があるかわかったもんじゃない。一方で報告はSNSを使うわけだから使い方の基本として時差をつけてくる事も十分に考慮に入れなければいけない。物議を醸しそうな仮装なら喧噪を避ける為に投稿時期をややずらすのも対策の1つとなるだろう。

よって、ここから1週間~10日間くらいの間の何処かで我々の期待するインスタポストがあるのではないかな、というかなりふんわりあやふやな事しか今は言えない。

ただ、昨年話題をかっ攫ったイーブイの仮装は日本時間10月31日の、それも午前中に投稿されたりしているので、時差の早い日本を皮切りにして投稿自体を「しっかりハロウィンにぶつけてきた」という印象が強い。インスタポストの16万いいねって凄いよね。過去一かどうかは確認が取れてないけども。
https://www.instagram.com/p/CkW7-RgKGXs/

それに、そもそも宇多田ヒカルは昔からハロウィンに熱心なのだ。ジャコランタンを自作したりしてかなり本格的なのである。
https://twitter.com/utadahikaru/status/395363217762811904


日本でハロウィン云々騒ぎ始める前からとも捉えられるので、本人も結構気に入ってるイベントなのかもしれないわね。そんな中での先日の仮装案公募だったのだから、果たして今年はどのようなアウトプットを見せつけてくれるのか、来週を楽しみに待つ事に致しましょうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Gold ~また逢う日まで~』MVのYouTubeでの再生回数が300万回を超えたようで。めでたい。…今見たら再生回数が3003003回だったわ。奇妙なキリ番だっ(懐かしい用語だなぉぃ)。

前も触れたように回数では1ヶ月遅れの杏餃子動画に抜かれていた訳だが、基本的にはサブスクに入ってない人がこれを再生してる訳だからそこらへんは加味されるべきだろう。

ただ、じゃあサブスクに入ってる人がどれだけこれを観に来てるかというと、うむ、わからん。つまり、音だけでなく映像自体も吟味するために、ってことね。前も触れたように、意味はそこまで明確ではないもののほんのり漂ってくるストーリーや対比構造は面白いし、宇多田ヒカルが新宿の夜空を舞うというアイデアの話題性もある。ミュージック・ビデオとしての役割は十二分に果たしているといえるだろう。よくやってくれている。

ただねぇ、あたしとしては、目を瞑って音だけ聴いてた方が「鑑賞体験」としては遙かに上質なんだよね。映像を観てると歌詞の細かい意味やサウンド構成の妙などまで味わう余裕がないんですよ。貴方の鑑賞能力が足りてないのでしょと言われてしまえばそれまでなんだけど、あれなんですよ、やっぱり2021年の『One Last Kiss』が禁じ手過ぎたのよ。あの動画を観て聴いてると今でも正気で居られなくなる。曲の魅力と歌声の魅力と、そして宇多田ヒカルのヴィジュアル的な図抜けた可愛さ。もうどうしようもない。降参するしかない。ここでも私の鑑賞能力はオーバーフローしてしまっているのだが、それは上方に溢れ出してるのよね。許容量目一杯まで魅力を詰め込まれてしまったという、そういう余裕の無さなのよ。

あれ以降、「MVなんて歌うヒカルさん撮っときゃええやん」となってしまってるのは否めない。私が。正直『PINK BLOOD』のMVなんてコンセプトの具現化という意味では宇多田ヒカルMV史上に残る傑作だと思うんだけど、「ヒカルさん綺麗」の感想には勝てない。『BADモード』のMVも大掛かりでインパクト抜群だったのだが「パイセンかっこいい!!」という感動が支配的だった。また更にこいつら曲の出来が昔に較べて進化しとったからな…。『君に夢中』みたいに歌唱風景メインでもういいじゃんねとなっているのが今なのよ。私の。

だからもうね、考え方を変えるしかない。もし今後も宇多田ヒカルのMVを撮るんだったら予算なんか掛けずにスタジオライブ撮影一発録りにしてしまうか、或いは現在の数十倍の予算を掛けて映画並みの気合いを入れて制作するか、どちらかに振り切れないといけない段階に来てしまってるのではないかな。本人の見た目の魅力と楽曲自体の魅力が進化し過ぎてしまってるように思えるんですよ。私。

確かに、今の売上だと非現実的なんだろうけれど、今の予算でMVを作るんだったら曲の名前を直接つけずに映像監督の作品としてそちらの名前をつけて貰った方がいいような気がするなぁ。曲は添え物ということで。だって、曲の名前をつけた動画ならリリックビデオで十分なような。宇多田ヒカルの歌詞はそれくらい強力だと思うし。



だなんて色々言ってるけど、勿論、これらは総て私の私見。商売の戦略としてそうすべき、と提案してるのではなくて、私個人が娯楽で楽しむ為にはそんな風に制作して欲しいなという願望に過ぎない。でも、被写体の凄さと音楽の凄さに挟まれた映像作品から漂う侘しさみたいなものって、薄々感じ取られていくんじゃないかなぁとも思うのだ。つまり、ゆくゆくは私と同じような感想を持つ人が増えていくのではないかなって。

さてさて、どうなんでしょうねそこらへん。この人(私)はヒカルの見た目と音楽を世間の方々(…誰?)よりずっと評価してしまってますからあんまり参考にならないのよね。


って、こんなこと、このめでたいタイミングで語ることじゃなかったな。繰り返しになりますが、『Gold~』のMVは優れた作品だと思います。ただ、今の宇多田ヒカルがとんでもなさ過ぎるだけなんですよ、えぇ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アニメ「薬屋のひとりごと」を観た。「小説家になろう」に於いても最早古典扱いされるほどの作品で、待望を通り越して今更なアニメ化なんだけどクォリティは押し並べて高くてほっと一安心といったところ。コミカライズが二種類ある点についても消化方法が確立されているようなのでそちらも安堵ね。

いきおい、ついつい主題歌チェックをしてしまう性としては今回こちらのOPテーマが緑黄色社会担当とあってより注意度が増す。LMYKやなりくんのようなレーベルメイト感はないものの、やはりヒカルと同じEPICということでね。前回のアルバムリリース日も隣り合わせだったしな。

結論からいうと「とてもいい曲だし歌詞も合ってるけど、曲調が合ってるかはわからない。」って感じ。ほぼ「葬送のフリーレン」のYOASOBI「勇者」と同じ感想だね。どうしたってサウンド・デザインというのはバンドの方向性に左右されるのでそこまで動かせられないってことか。異世界中世風味とか古代中国の雰囲気に合わせられるかというと難しいと。サントラが見事なだけに余計にそこが目立つのよね。

それらと比較すると、「不滅のあなたへ」に対する『PINK BLOOD』は見事だったわ。雰囲気を合わせるというには物語が余りに壮大すぎて場面々々が和風や東洋風、西洋風と移り変わる作品なので本来ならこれに対して主題歌1曲で対応するのは無理な話なのだが、ヒカルは曲調を「主人公フシの持つ神秘性」にフォーカスすることでこの課題をクリアしたように思える。どんな時代にもフシが居るのだから当然といえば当然なんだけどね、じゃあこうやってひとつの楽曲として完成させられるかっていうとそれは恐ろしく難しい。そこのポイントをハズさなかったから、歌の歌詞自体はそんなに原作漫画やアニメに寄り添っていなくてもOPテーマとして申し分の無い「世界観への導入力」を発揮していた。NHKは番宣以外のCMが無いからね、鳴った途端にそのアニメの世界に引き込める事がOPテーマに最も求められる事だろう。『PINK BLOOD』はその役割を見事に果たしていた。

では、現在予定されているSeason3もそのまま『PINK BLOOD』は続投なのだろうか? 今度は現世編ということで、歌詞の面でいえば寧ろより『PINK BLOOD』に近くなるともいえる一方で、物語の枠組が「日常の中に潜む恐怖」みたいな、ファンタジーというよりホラー寄りなテイストになるので(というのは舞台を移した事による帰結でしかなく作品のテイスト自体は変わらない)、もしかしたら制作側が続投を希望したとしてもヒカルの方から変えたがるかもしれず、正直予想がつきません。

毎度言ってることだが、宇多田ヒカルの後任なんて、よほど若くて期待されてて将来性でなんとか目を瞑れるケースでない限り「御免被りたい」というのが大抵の音楽家の本音だと思うので、そんな皆のためにも我々ファンの為にも是非ヒカルの続投でお願いしたいのだけれど、どうなるかねぇ? 映画「キングダム」に関しては、あそこの枠は「大物歌手を招いて歌って頂きましょう」な雰囲気なのでもし今後第4作が公開されたとしても“後任”という扱いにはならなそうだから別の人でもよさそうなんだけど、「不滅のあなたへ」はどうなることやら。放映のタイミングも影響しそうだね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




さてでは他に25周年記念企画としてどんなものが考えられるだろうか。まずは全国ツアー/世界ツアーが期待されるがまぁそれは毎年のことと言ってしまえばそれまでか。前回の全国ツアー『Laughter in the Dark Tour 2018』では最終日がデビュー20周年記念日というドラマティックな展開が待っていたが、今年のデビュー記念日や明けて来年の41歳の誕生日にこれからライブをやれるかというとそろそろギリギリになってきた。

過去に、シークレット・ライブを除けば、告知から最短でコンサートが開かれたのは2004年の『ヒカルの5』、この時は12月8日発表の2月3日初日開催だから57日間、2ヶ月弱で漕ぎ着けた計算になる、かな? あれ?『ナチュラル・ブリーズ』とか『MTV UNPLUGGED』も短かった気がするけど正確な日にちがわからないな? なのでそこらへんは保留にしとくけれども、つまり、もうデビュー25周年記念日にコンサートを開く目はほぼないけれど、来年の誕生日ならギリギリなくはない、という感じかな。

ただ、来年の1月19日は金曜日だからねぇ。昨年同様平日なのだ。出来てスタジオライブだろうかなまたもや。勿論、それでも嬉しいのは間違いないのだけれども。

ただ、やはりどちらかといえば記念日の企画というのはリアルタイム性があってくれた方が印象に残る気がする。2022年は、私の場合だけど、1月19日の『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios 2022』より寧ろ2月23日のインスタライブの方が「一緒になって祝ったなぁ」という感慨が強かった。あんなの出来たばかりのCDを手に取ってただけじゃんとか言われそうだけど、ああいうのがいいんですよああいうのが。

これはもう、公式がターゲットをどこにするかの問題でしかない。広範な層にアピールするならスタジオライブのようなガッツリとした企画を立てるだろうし、ファンサービスとなるとインスタライブの醸す親密さに蕩けそうになる。

そうだな…例えば、日本と英国の時差を利用して「リアルタイム落とし物探索」とかをインスタライブで生中継するのはどうだろう。都内でやったら周囲の目で危険度がとんでもないことになるけれど、日本の夜に昼のロンドンで散歩する程度なら何とかなるんじゃなかろうか。それでもSPの人にはついてて欲しいけど。それで街中を散策して本当に絆創膏が見つかるものかというのを検証するという「宇多田ヒカルさんぽ」…うーむ、アピールする層が限定的過ぎるか。うまくいくとは限らないし、仕込みとかあったら醒めるしなぁ。難しいもんだ。なお、散歩していくなかでヒカルが気分が乗ってきて鼻歌を歌ってくれたらそれがいちばんのハイライトになる気がするな。

…だなんて妄想も逞しくなるけれど、ひとまずシンプルに考えると今年の12月9日土曜日に来年何を企画してるのかの発表があると思いたいので、ここから一ヶ月半(45日間)はのんびり出来ると思います。夏があんまりにも慌ただしかったから、それくらいでちょうどいいやね。あ、でも関東では来週宇多田ナイトがあったりするわ。そこでスタッフの人に邂逅したら25周年記念でなんかするのか問い質しちゃいそう!(※ しませんよっ!)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




FFさんたちが「ファン歴」についてあれやこれやと語ってはったので、はて、無意識日記ではファン歴についてどういうスタンスでいるのだろうと考えてみた。

まず、読者の想定だがここは真っ先に@utadahikaruに読んで貰うことが念頭にある。なので更新告知ツイートは基本的にヒカル独りに対するメンション形式になっている。それに伴って本文でも滅多にヒカルを指して「彼女」とは呼ばない。ヒカルは第三者では有り得ないからね。従ってノンバイナリ宣言したときもここではそんなに困らなかった。そもそも代名詞で呼ぶ機会自体が少なかったからだ。

少なかった、というからにはたまにはあるわけで、その場合は読者としてファンの皆さんを想定して書いているて、基本的にはリアクションをくれる人が念頭にある。告知ツイートにいいねをくださる方々だわね。貴方たちに関してはプロフィールやツイートをみて、どんなファン歴なのかとか、ブログをチェックする時間帯はいつなのかとかそんなことをぼんやり把握していて、本文の文体はそれを慮りながら書かれている。

なので、自分としては、このように不特定多数に公開しつつも、実感としては十数人~数十人の具体的にファン歴その他をイメージできる人たちに対して書いているので、ファンダムの中でもかなり端っこの方でマニアックなことをあれやこれやと日々考えてる人種を想定しているというイメージでいる。いきおい、事前知識の確認は疎かになりがちだ。この人とこの人とこの人なら熟知してるだろうからここの説明は要らないな、というね。

更に、まずヒカルに読ませるのが前提な為、「ヒカルに通じればいいや」くらいの雑な書き方になることも多々あり。いちばん尊重すべき相手を想定すると雑になるってのは失礼な話なのだがひとまずそれが事実なのでね。

なので、ここ何年かのこの日記は、「人間活動期前からファンをやってる人ならご存知かと思うが」みたいな言い回しが増えている。つまり、人間活動期後にヒカルにハマった方々もここを読みに来てくれてるのねと知ることが出来たからなのだが、逆に言えばその頃から無意識日記を読んでる人にしたら「それはもう前に読んだよ」という内容を繰り返してる日も結構増えていたりする。そこのバランスをとるのは確かに一考を要するのよね。どこまで詳細に説明するのがいちばん読みやすいのか。

そういう基準で迷いが生じた時は「最初の読者は自分なのだから」と言い聞かせる事が多いわね。書かれる時はヒカルを意識しているが、いざ投稿するとなったときに誤字チェックと称して第一の読者になるのは私なので、そんときに読んで意味がわかればいいやというのがまず最低ラインになっている。そして、時間が足りないとかこれ以上字数を増やすとくどくなる(大抵、既にくどい)とかそんな理由で、ほぼほぼその最低ラインに達してたら投稿しちゃう事が多いわね。何も読めないより、少々つまらなくても何か読めるものがあった方がマシだと考えてるからかな。ブランディング意識皆無なものでね。


という風なので、しばしばそこらへんの調整がどっちらけて、前提知識確認の齟齬を生んで読んでて疎外感や寂しさを感じる事があるかもしれないが、それってこの、8000回を越える連載を書いてる人の持ってる「私の基準」に基づいたものに過ぎないのだから、知らなくても全く構わないことである場合が大多数なのだ。だもんで、ファン歴とそれに伴う知識や経験の差については、この日記に於いては「なんか極端な人が極端な事言ってらぁ」というだけでしかないから「気にしない」で居て貰えると私としては書きやすいので助かりますわ。なんか論点ズレてる気がするけどそれも含めて無意識日記なのでありました。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




櫻井敦司が亡くなったのか。谷村新司も亡くなったそうだし、ミュージシャンの訃報が続くねぇ。私はプログレファンなので時代的にも年齢的にも亡くなられるのに不思議でない方々の訃報に触れるのは毎月くらいのことなんだけど、現役の人の急逝はキツいわよね。

でも、人が生まれたり亡くなったりなんてのはこの星の上では極々ありふれたことなんだ。だってたった今80億人以上が生きていて、その平均的な寿命はせいぜい3万日前後ってとこなんだから、そりゃ毎日どこかで誰かはって計算になるのよさ。

でも、だからって、ありふれてるからって感情を揺さぶられなくなるってことでもない。ありふれた日常が如何に尊いものか、しみじみ泣きたくなるほどに有難いものなのか、最近はウクライナやガザ地区の映像もリアルタイムで入ってきてるから日々それを噛み締めてる人も多いはず。「よくあること」は、つまらないことでもなければ飽きるようなことでもないし、そこでどれだけ感情を揺さぶられるかはその人にしかわかんない事なのよ。


宇多田ヒカルはデビュー25周年だからって、じゃあその間の一日々々がありふれた日々だったかというと、もうそこからしてそんなことはなくってだな。それはもう一喜一憂の日々なんですよ。特に2013年に藤圭子さんが亡くなった時は今後どうなるか不安で仕方がなかったわね。日本列島で人が自死するのは、悲しいことに結構ありふれていて、毎日50人以上の方々が命を落とされている訳だけれど、ヒカルにとっては唯一無二のお母さんだったのだし、演歌歌手藤圭子としても37週連続1位っていう記録を持った超有名人だったからねぇ、多くの人も悲しんだ出来事だった。後にヒカル自身が歌い語る通り、彼女こそが総ての歌だったのだから、その2013年時点ではもうヒカルの音楽家キャリアは途絶えようとしていた訳さ。その後よくラジオを続けてくれたよね。それがまた歩みを始めたのが2015年に新しい命を授かった時だったというのだからこの「新しい総ての歌」のなんと尊いことか。言葉もない。

そんな死と生に支えられての25周年なんですよ。9130日間とかそんなん。300ヶ月ですね。ヒカルが言葉を届けてくれる、歌を届けてくれる日々がもっともっとありふれてくれるように、もっともっとよくあることになるように、更にまた日々を重ねてくれる事が私の、私らの願いなので、お願いだから無理はしないで欲しいわね。気が向いたら何かしてくれれば、きっと今日まで生きてこられた事を総てに感謝すると思います。「生きたい」と言わせてくれる事が、美しいんさ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




んで考えたのだが、これから迎える宇多田ヒカル25周年イヤーで、もし過去を振り返る企画があったりするのなら、そこは是非松浦靖恵さんとのインタビューなんかがあれば嬉しいなと思うのだ。振り返り企画でこれ以上の人選はないのじゃないかな。多分、ヒカルが忘れ去っている恥ずかしい発言の数々をたんまりお持ちに違いないので(笑)。

いやさ~、最近のヒカルさん、すっかり自分が綺麗なのを受け容れちゃっててさ、その振る舞いも堂々としたものになってるんだけど、YouTubeなどで昔のテレビ出演映像などを観てくれればわかるとおり、昔は人前に出ると結構キョドっていたのだ。当時の中川翔子と比較されるくらい。あっちは真正の自称他称問わないガチヲタで、一方ヒカルは自らを「オタクではありません!」と宣う、それなりにお洒落な大人の女性だった…筈なんですけどねぇ。

なので、その頃の事を振り返るとなったらもしかしたら全力でヒカルに拒否られるかもしれないのよな。ガンダムでいう黒歴史ってやつですかね。

となると、25周年振り返り企画でまず考えられるのが先程述べたように松浦さんによるヒカルへのインタビューなのだけれど、場合によってはそれを対談形式にしてもいいし、なんだったらヒカルには一旦席を外して貰って松浦さんに独占インタビューをしてみるってのも面白いかもしれないねぇ。ここらへんは、ライターさんとしてのスタンスに関わる事だから実現可能かはよくわからないのだけれど、色んな手法で今までのヒカルを振り返れると面白そうなんだよね。

10年以上のオフィシャル・インタビュー期間ということでその資料も膨大なものになるだろう。昔なら書籍「点」を買って読もう!と言えたのだがあれはもうすっかり絶版・廃番になってしまっているので後追いのファンに求めるのは酷。やはり新たに振り返り企画が必要になる。

いやね、25周年いうてもまだ40歳なのよ。確かに安室奈美恵はこれにて引退しちゃったけどそれもきっとあれだけの運動量のあるスタイルを貫き続けてこそ。ヒカルは偶に踊ることはあっても基本は歌と演奏だ。ここ数日ザ・ローリング・ストーンズのニューアルバムが話題になっているが、ミック・ジャガーなんて今年で80歳である。時代や男女の違いはあるとは思うが、こんな歳になっても音楽家は第一線で活躍し続けられるのだ。15歳でデビューしたヒカルにとって、25周年なんて「まだまだキャリアの半分にも達してない」のかもしれないのよ。実際、50周年を迎えたとしてもまだ65歳で、これって現代の定年にしか過ぎない。この年齢まで働くことは現代では普通だ。途中6年半本業離脱できるのは普通じゃないけど、今後は定年は延びこそすれ短くはならないだろう。やっぱり25周年は、控えめに言っても『後半スタート』程度のセレブレーションになるだろう。

なので、ここからの未来に思いを馳せる為にも、振り返り企画で「ある時期に関しては、宇多田ヒカルより宇多田ヒカルに詳しい」という人たちに話を聞いて回ってヒカルの今後の糧にして貰いたい。…ヒカルが恥ずかしくてのたうちまわってる姿をお前が見たいだけじゃないのかって? えぇその通りだ何が悪いのか!(開き直った) その為にも、また松浦さんがヒカルと絡む場面が見てみたいなと思ったのでありました。ファンの皆さん&スタッフの皆さんそして松浦さん、如何ですか?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もしかしたら2016年以降に宇多田ファンになった方々は、前回ツイートを引用させて貰った松浦さんについてご存知ないかもしれないな。

それでは、こちらのツイート(当時)をご覧下さい。


@松浦靖恵@yokomatsumatsu:『東京ウォーカー』刊行休止とのこと。デビュー当時の宇多田ヒカルに初めてインタビューしたのはこの雑誌でした。それがひとつのきっかけになって、その後10年ちょっとの間オフィシャルインタビューを担当することに。彼女以外にもいろんな人たちに取材したな。時代の流れとはいえ残念です…
posted at 2020/05/11 14:48:56
https://twitter.com/yokomatsumatsu/status/1259664604155633664


ここで言及されている「オフィシャルインタビューを担当」なさったのが件のフリーライター松浦靖恵さんだ。

この、「オフィシャル・インタビュー」という制度、或いは彼女の担う「オフィシャル・ライター」という役職は、ヒカルが10代でまだインターナショナル・スクールや高校に通っていた頃に、恐らく加熱する報道や取材依頼を回避する為に設けられたものだ。(…と自分の推測で言うんだけど、そういや、正式に“理由”って直接語られてない、かな? どうだっけかな)

そこで何をどうしていたかというと、新曲なり何なりが新しくリリースされてヒカルが幾つもの雑誌にインタビューが掲載される際、松浦さんがそれらを一手に引き受けていたのだ。より正確にいえば、松浦さんが、ヒカルと行った1回のインタビューを、掲載される雑誌それぞれの誌風に合わせて書き分けてくれていたのだ。

10代当時の宇多田ヒカルは音楽雑誌はもちろんのこと、上記にあるように「東京ウォーカー」のようなタウン誌や「TVガイド」のような放送雑誌、「mc sister」のような女性誌に至るまで様々なジャンルのメディアに登場していた。それら総てを個別に受けていたら学業に支障をきたしていただろう。更にテレビやラジオの出演もあったし。なので松浦さんと1回だけお喋りして、松浦さんが幾つもの(時には十数とか数十とか?)雑誌に原稿を送ってくれていたという訳。当然というか、音楽誌には音楽の話題を、ファッション誌にはファッションの話題を、なるべく夫々提供せねばならないので、ヒカルからそういった多種多様な話題を引き出して、更に話を弾ませ、各媒体にそれぞれ特化させた文章に仕上げていたのだから、今振り返っても大変恐ろしいことをなさっていたのだな。いやはや、凄いね。

もちろんこれは、ヒカル本人や周りのスタッフの皆さんからの信頼を勝ち得ていないと任されない仕事だった訳で、如何にその点で彼女が優れていたかがよくわかるというものだが、お陰でヒカルは最初の12年間、ある意味で松浦さんに「守られる」ことで、メディアによる災厄から逃れられていた面も多々あったように思われる。

そして2016年に復帰してからはオフィシャル・インタビューという制度はなくなったようだが、これはつまりヒカルが自分でメディア対応をしようと決心したというか、2013年辺りに散々なことをされてカメラやフラッシュがトラウマになった所から、それらを克服していく過程で覚悟を決めていったのじゃないかなと勝手に妄想している。そこらへんの事情はヒカルからは語られていない。(はず、だ)

そんな風に考えると、ある意味に於いて人間活動期後のヒカルは「オフィシャル・ライター松浦靖恵さんによる庇護から巣立った」ようにも思われるのだ。昔は彼女がメディアに対して両方からの防波堤役をしてくれていたのを、今のヒカルは自分でこなすようになったのだと、まぁそういうことなのかなと。

1999年以降とんでもない注目度になった宇多田ヒカルの雑誌露出を松浦さんはかなりの割合で「独占」していたのだから、それはそれはこちらの与り知らぬ所で大変な苦労があった事だろう。ヒカルはそのお陰で、オフィシャル・インタビュー以外は、音楽専門誌の表紙特集などに絞ってメディア対応をしていればよかったのだ。そんなだったので、最初の12年の間にヒカル・ファンになった人たちにとって、松浦靖恵さんのお名前はお馴染みもお馴染みでね。だってみる雑誌みる雑誌みんなインタビューアが松浦さんだったんだもの。その書き分けの妙にも大変楽しませて貰ったので、同じインタビューだからと雑誌を買い控えることもなかったし。懐かしいな、いろいろと。


そういった事情が背景にあったので、今回『Passion』の歌詞についてのヒカルのコメントがどんなだったのかを確かめる為に真っ先に彼女に訊こうと思った次第である。気さくに答えて貰えて大変感激致しましたです。なので、また何かあったら答えて貰おうっと♪(…やれやれ、厚かましいったらありゃしない(苦笑))

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




秋冬になってくると空気との馴染み具合が3割増しになってくる『Passion』。その歌詞の中に

『大きな看板の下で』

という一節が出てくる事は皆さんもご存知かと思われる。当初この一節を聴いたときには、あるメッセを想起していた。


『こんなに間隔が空いて本当にごめん、こんな予定じゃあなかった!でもどうしてもみんなと向かい合って「宇多田ヒカル」の看板しょい直す前に、一度なんでも無い自分に戻らなきゃまた同じ間違いをくり返すような気がして、このお盆、素の自分に里帰りしてみました。先は長いからね!まわしキュッと締め直してきたぜ!』
https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_86.html


ここを思い出したものだから、「ああ、幻想的な曲調の中で『看板』なんて俗っぽい単語を出してきたけど、これも抽象的な「宇多田ヒカルというネームバリューの大きさ」みたいなものを指しているのだな、うんうん。」だなんて納得していたのだ。ところがヒカルのインタビューが出回ってみるとこの『大きな看板』というのは

「渋谷駅前スクランブル交差点にある天津甘栗のお店の看板」

のことだっていうんで嗚呼吃驚。あへぇ、俗っぽいどころか具体的も具体的、特定の場所に在る特定の看板のことを指してたのかよ!と仰け反った。もっとも、歌詞の元々の出所というだけで、完成した歌詞からはそういう具体性は捨象されていたのだけれど。


…という話は、『Passion』が発売された頃を知る人には有名かなと思ってたのだけど、そういやあたしもこの日記じゃ過去に2回しか触れてないし(検索してみた)、他の人が言ってるのもあんまり聞かないなぁ…となったので更にTwitter検索してみたらjackくん(@jack_m_s_)しか呟いてない!? ありゃ、渋谷に行ったらここ巡礼するよねと思い込んでた私は一気に無性に不安になったので、このインタビューを実際に行った松浦さんに訊いてみることにした。


@i_k5 : 唐突で大変恐縮なのですがひとつ質問をさせてください。
宇多田ヒカルの『Passion』の歌詞に出てくる
『大きな看板の下で』
は、渋谷スクランブル交差点の「天津甘栗の看板」がモデルになっているという話だったと思うのですが、松浦さんはインタビューでその事を伺った記憶ってありますか?
https://twitter.com/i_k5/status/1715899134534992095

かなり不躾な質問だったのだが松浦さんは即返答を下さった。お優し!

こんにちは。伺った記憶はありますが、宇多田さんご自身がテレビ・ラジオで発言されたこともあるかもしれませんし、他の方がされた取材の中で発言されたこともあるかもしれません。とてもおもしろいエピソードなので、スクランブル交差点であの看板を見るたび、このエピソードを思い出しました。
https://twitter.com/yokomatsumatsu/status/1715930145289371916


という回答を頂いた。ありがとうございます! てことで、訊いた御本人が「とてもおもしろいエピソード」と仰ってるので、この事実は最近新しくファンになった人たちとも共有したく、こうやって日記の方でも掲載させてうただいたのでありましたとさ。今後渋谷駅前を詣でることがあれば、「この天津甘栗の看板が『Passion』の『大きな看板』なのだなぁ」と聖地巡礼することをオススメしておきたいと思いますです。宇多田ナイトで来月3日に上京する皆さんも、最寄りの新宿三丁目駅から渋谷駅まで6分だからすぐだね!(もっとも、そこからの歩きの方が長いんだけども)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回ヒカルの歌唱時の歌い分けの一部、いやさ極一部について語った。こういう所まで聴いてくれれば『Gold~』の良さが伝わるのにな、と詮無いことを御無体にもついつい呟いてしまう。

「鑑賞の解像度」というのはどうしたって存在する。これを求めないのがPopsとしてのあるべき姿だ。なのでそういう意味では確かに『Gold~』は売れない曲だろう。そんな曲であっても無意識日記での「新しい曲に対するテンション」が変わらないのは、こちらの「鑑賞の解像度」が高いからだ。ぶっちゃけ、Popsの鑑賞態度としてそれは間違っている。が、あたしはPopsファンではなくて音楽鑑賞者としては「プログレメタラー」に分類されるので、純粋によりドラマティックで長大な楽曲を好む。そういう人間にとって宇多田ヒカルの楽曲は、解像度を上げれば上げるほど長大なドラマが出迎えてくれるのでどうしたって本能的に解像度を上げざるを得ないのだ。

前回熱弁した通り、その歌唱に於ける細かい歌い分けがヒカルのもたらす圧倒的な濃密さの鍵である。 

細かく歌い分けるだけならヒカルより巧い人間は過去に幾らでも…は言い過ぎにせよ、何人もいた。日本語で歌う人で言えば美空ひばりや藤圭子の方が技術が上だなと痛感する事は多いし、現役でも石川さゆりやMISIAを聴いて「かなわんなこりゃ」と感心・感動する事はもう毎年のこと。これが英語圏になると人数が何十倍にも膨れ上がるだろう。また、ヒカルが苦手な分野で卓越している人も尊敬に値する。吉田美和なんかが好例だよね。

だが、ここまで日本語歌唱の楽曲を「ドラマティックに構築」できる人を他に知らない。というかこの方法論をとってる人自体居るのかどうか? 若い人の中には、それこそOfficial髭男dismの中の人とかはかなり上手だけどどちらかというと辞書的で、知識の組み合わせという気がしないでもない(ただ、組み合わせのセンスは抜群だよね)が、ヒカルは「いちから自分で作った」感が凄まじい。

それもそのはず、ヒカルには邦楽を聴いてた時期が殆どなかったからだ。ラジオ番組「トレビアン・ボヘミアン」でもそれは明らかだったし、『Kuma Power Hour』でも日本語音楽家の曲がかかると言っても主に知り合いを取り上げてただけだったからね。

だが、これが功を奏した。三宅さんから「日本語で歌ってみない?」と言われた時に最初から自分で作詞する事を選択し、当然のように作曲も手掛けた。ここで私の推測を入れると、その『Never Let Go』を作曲するにあたって、ヒカルは既存の日本語楽曲を殆ど参照しようとしなかったのではないかな。第一、曲がスティングなんだもの、どっちを向いていたかは明らかだろう。

「歌詞というものはどうであるべきか」といった基礎の基礎は洋楽でも学べるが、日本語のアクセントやイントネーションをどうやって平均律音階に載せるかという数々のノウハウに関しては、独学どころか「独自開発」だったように思われる。

なので、例えば、散々何度も繰り返してきているように(もう言い飽きてきてる(笑))、『Automatic』の冒頭の出だし『ななかいめのべ・るでじゅわ』という切り方と乗せ方は「まだその手法を開発し始めたばかりの手慣れてない、確立されていない未熟な段階での成果」に過ぎなくて、ここからヒカルの作詞術はどんどん進歩・進化していったのだ。

一方、過去の日本語曲作詞手法を知っていれば知っているほどそれは「斬新」に映った事だろう。なので、ボタンの掛け違いは最初からだったともいえる。折角なので(土曜日だから読んでる人少ないだろうからね)もっと踏み込んで言うと、そこで掛け違ったままここまで来たから『Gold~』は売れてない、とも言えるのだ。うむ、かなり思い切ったねその言い口は。(自画自賛)

英語圏の著名な商業的歌手の歌唱の中には、ヒカルより細かい歌い分けができる人は何人もいるのだが、ヒカルほど作詞作曲と歌唱を結びつけて楽曲全体を構築している人を私は知らない。単に無知といわれればそれまでだけど。クラシックのジャンルには居そうなのだが生憎歌詞がラテン語だったりするので「×歌詞」の部分で上がる解像度がとんと私は把握できていない。これは純粋に残念。そして、日本語歌曲のクラシック歌唱でそういうのがあるとはついぞ聴いたことがない。

ヒカルは、メロディ・リズム・ハーモニー・アレンジ・バックコーラス・歌詞・歌唱を総て掛け算にして楽曲の時間当たりの解像度の桁を上げる事が出来る。組み合わせ爆発ってやつである。なので、私のようなプログレメタラーが宇多田ヒカルの曲を「そういうものだ」と自覚して聴いた場合、ヒカルの4分の曲を聴いたときに味わえるドラマの量が20~30分のプログレ組曲と同等以上となるのだ。だから、本気で味わうと結構疲れる。(笑) プログレがわからんかったら「クラシックの交響曲全楽章分」とかでもいい。或いは、映画なら1本分、小説なら大体120ページくらいだ。星新一並みに内容を圧縮しまくった場合に、だが。

そういう意味では、宇多田ヒカルの楽曲というのは「最も短時間で最も濃密なドラマが味わえる芸術作品」なのだ。それを言うなら名画を鑑賞して感動を得る時は4分とかではなく「一瞬」なのだけど、私の場合絵を全体にみた第一印象の次に「その絵の細部をよくよく観る時間」や「その絵の含意を理解するためのキャプションを読んでる時間」も吸収してやっとその「初見一瞥のインパクト」を「満足な経験(fruits)」として落とし込める為、結局4分とかでは全然足りなくなる。4分間で「ええもん聴いた!」と自信を持って言わせてくれるからこそ私は宇多田ヒカルなのだ。そして、そこから「自分自身に本当に落とし込む」為にこうやって無意識日記を書いていて、それはまだまだ全然終わりそうにない。何十万字綴ろうが何千回投稿しようがまだまだ「理解が浅い」と痛感させられ続けている。

ヒカルはまだまだ成長する。それは、私のこの「わからなさ具合」がまだ4分間に封じ込められ切っているとは思えないからだ。そして、音楽要素の掛け算(メロディ×リズム×ハーモニー×アレンジ×コーラス×歌詞×歌唱×…)は、デビューしてからずっと力量単調増加、巧くなる一方であり、短い時間に込められるドラマの濃密さはますます増している。将来的にはもしかしたら声域が狭まって、メロディの幅や歌い分けの幅が幾らか少なくなる事態になるかもしれないが、掛け算の上達がそれをカバーして上回っていくだろう。なので、ヒカルの曲はスケール感をまだまだ増していく。そういう意味では目下『Gold~また逢う日まで~』は、ドラマの濃密さに関しては最高傑作と言えるのだが、私には残念なことに(?)、宇多田ヒカルは自らをポピュラー・ミュージックの音楽家であると規定している。それはもう宇多田ヒカル(芸名)の定義の1つと言ってよく、その為にはとても『Gold~』を最高傑作とは言えない。この2つの感情の組み合わせで、無意識日記のトーンは大体「いつも通りのテンション」に落ち着いているのである。

それに、要素毎にみれば、例えばメロディや歌詞といった各ファクターでいえばまだまだ『気分じゃないの(Not In The Mood)』がモスト・フェイバリットの一角を占めていたりするし、『光』や『Passion』や『Kremlin Dusk』やあれやこれや『桜流し』の唯一無二さもなんら変わらない。そういう意味ではヒカルはゆらゆら揺れながら進歩していて、いっとき売上や再生回数が他と較べて落ち込んだとしても、「作曲家としての各要素・技量のブラッシュアップの途中」でしかなかったりするので、何の心配もしてない。むしろ、『Automatic』のように未熟なのに絶賛される方が心配だ。ま、好意的な評価自体は嬉しいけどね。

そして、最も濃密なドラマはやはり「宇多田ヒカルの音楽家人生全体」なのであって、これについては目下連日毎日絶賛観賞真っ最中なのだった。宇宙の最高傑作は間違いなくこれだろう。願わくば、それをもし4分間に圧縮できたら宇宙と人類は次のフェイズに移行するだろうね。それまで生きていたいですわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ