嵐の女神は元々親友か誰かを想い書き始めた歌だったが、途中から話が変わり母を想う歌になっていった、と光がインタビューで答えていたと記憶している。
一聴すると、何か違和感というか「それでいいの?」という気持ちも湧いてこなくはない。
2つ捉え方があって、ひとつは楽曲が自らの手垢を離れ独立した一個の存在として確立する為には、私情はそのキッカケや素材に過ぎないという事。即ち曲の中で語られている物語は現実を基盤にしているとしてもちゃんと虚構として着地している、という解釈。これなら光にとって対象が誰であったかは一次的な重要性をもたなくてもよい。
もうひとつの捉え方は。光にとって、曲作りは精神的な探訪のプロセスである、という事。つまり、当初は自分でもその感情は親友に向けてのものだと考えていたのだが、自らの心を掘り下げていくうちにそれが母に向けた感情であった事に気がついた、という解釈だ。作詞作曲を通したセラピーの一種だといえるかもしれない。そこまでドラスティックに捉えなくても、自らの感情の"起源"が母への想いであった、という見方もできる。ここまで抽象化されると、人間にとっての恋愛感情の起源とは、という普遍的な問いにまで辿り着いてしまう。光ならそこまで行っているのではないかと思わせる。
しかし、取り敢えずはここで一歩引いてみよう。もし光が、嵐の女神に至るまで自らの"お母さんに会いたい"という本音に気付かなかった、或いは薄々感づいていても相対しようという所まで行かなかったというのなら、それ以前に光が書いてきた詞の中で、実際は母への想いが根底にあるのにもかかわらず、別の人への感情として表現されているものがありはしないか、そう考えるのも理にかなっているように思えてくる。
例えばPrisoner Of Loveだ。ラストフレンズが若者同士の恋愛を取り上げたドラマであった事から、これは親友か恋人同士か或いは、といった解釈になりがちだし、実際に光もそのつもりで書いたのだと思われるが、この中に母へのメッセージが隠れているとしたらどうだろう。
後半は、相手との"出会い"から運命が変わった描写が主体となっているがその前段、
『ないものねだりブルース 皆安らぎを求めている 満ち足りてるのに奪い合う 愛の影を追っている』
の一節は、元々母に満たされていた感情が欠落した、というプロセスが内包されているとも見て取れるのである。ここから"出会い"を通じて"傍に居る人"に満たされていく過程がPoLに、そのまま代替ではなく母に直接向かったのが嵐の女神だという解釈の仕方も可能になるだろう。
まだまだこの手法で読み解ける歌がありそうだ。今後の課題としておくかな。
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