無意識日記
宇多田光 word:i_
 



この一曲、このテイクだけで判断すべき事ではないかもしれないが、桜流しにおいて真に驚異的なのは歌手宇多田ヒカルのパフォーマンスである。プロとしての活動から離れて2年近く経つというのに声に全く衰えがみられない。よくこれだけ歌えるもんだな。

そういえば3年前の今日は新木場スタジオコーストでMikaのLIVEに飛び入りしてLet It Snowを歌ったんだったな。もうそんな季節か。光なら、確かに、あの程度のパフォーマンスはいつでも出来る。(http://t.co/e6hrrN4r thx to @hikkicom)音域も限られているし節回しの縛りも緩い。光が歌いだした時の嬌声は「うわ、本格的!」という驚きと喜びの声だったと思われるが、やっぱり他人の曲を歌うとウケがいいなぁ。

しかし今回は自分で作曲した歌だ。細かい縛りだらけの節回し、声のトーンのコントロール、声量の変化、ブレスの艶っ気…何もかもがハードルが高い。しかし、確りと歌い切っている。若干、歌声が硬質…つまり、普段よりやや力んで歌っているようにも思えるが、歌詞が歌詞だけにリラックスして楽しく、という気分になれなかったのかもしれないし、或いは全体的に低音域がソリッドなサウンドなのでヴォーカルのミックスもそちらに寄っているのかもしれない。いずれにせよ誤差の範囲というか許容範囲というか。少なくともこのテイクを聴いて「宇多田衰えたな」と本気で言える人は少ないはずだ。

歌う事は肉体労働である。普段馴染んでいないと声はすぐ衰える…というのが常識だと私は思っているのだが、違うのだろうか。或いは母親譲りの"生まれついての強靱な喉"の持ち主なのだろうか。そんな都合よくこういう能力が遺伝するかねぇ。知らない。

兎にも角にも安堵である。宇多田ヒカルの声は衰えていない。これから30を迎え、技術的な面は置いても声量や声域といったパワーを要するファクターはなかなか上積みが望めない。今まで力を引き出していなかったのなら別だが、歌手として長年活動しているのだからそういう事はないだろう。パワーの衰えを如何にカバーするか。あの世界一の節制の鬼であるイチローですら40歳目前にしてその体力的な衰えが懸念されるようになった。いやまぁ彼の場合、専門家に言わせると動体視力の衰えが主らしいんですが。光も、どうやら人間活動中も、少なくとも声にマイナスになるような生活を送っては来なかったとわかってほっとした。いやまぁ心配してたのかと言われると、そんなでもなかったのだけれど。

寧ろ不満なのはヴォーカルのパフォーマンスより楽器陣のミックスや、音色の選定…というか生ストリングス使う気なかったの?という点か。もしかしたら、いつかこの曲が何らかのアルバムに収録される際にはリ・レコーディングされるかもしれないよ。いつになるのか知らないけれど。既に現行バージョンでこの存在感なのにサウンドがこれ以上パワーアップしたらどうするの…。正直、いちばんのハードルはこの曲自身だと思う。人間活動中ですらこのクォリティーなんだから、本腰を入れて音楽活動に取り組み始めたらもっといい曲が出来るんじゃないか…そう思われてしまっても仕方がない。それに光がどれだけチャレンジできるか…

…いかん、気が早すぎるな。でもまぁ、未来が楽しみになるって、いいじゃんねぇ。

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Beautiful Worldの話が出たついでに付言しておくと、EVAQのストーリーは寧ろ桜流しよりBeautiful Worldのそれに近い。

『もしも願い一つだけ叶うなら
 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ
 Beautiful World
 迷わず君だけを見つめている
 Beautiful Boy(s)
 自分の美しさ まだ知らないの』

当初からこれはシンジとカヲルのことだと解釈する流儀はあるが、EVAQの「2人で寝転んで星空を眺める」シーンはまんま『君の側で眠らせて』だな。もしかしたらこれは、映画からBeautiful Worldに対するリスペクトを表明した一場面なのかもしれない。物語上では、シンジの方から声をかけるという意味を持っているのだが。

旧劇版とBeautiful Worldと新劇版と桜流しの関係性は興味深い。ヒカルは、今回のEVAQの場合はなるべく脚本を見ないようにしていたそうだし、総監督からは「映画の展開には沿わず、思うままに」と言われていたらしい。それは、大枠として序の時も同じだったのではないか。つまり、BWは序破を知らずに、桜流しはQを知らずに書かれている。即ちBWの前提となる知識は旧劇版まで、桜流しは序破まで、という概要になる訳だ。

確かに、桜流しには前に触れた通り「あなたが守った街のどこかで」というフレーズが出てきているからそれはその通りだが、つまり総監督の狙いは、ファンとしての心境の推移をリアルタイムで歌に反映させることなのではないか。主題歌という存在を、作品側からというより、それまでの作品を見て期待度が高まっているファンの感情の方とシンクロさせるように考えていたのではないだろうか。つまり、宇多田ヒカルは作り手であると共に、ファンの声の代弁者としての機能も期待されているということだ。映画に合っている曲、というより映画を観る我々の感情に合っている曲。そういう存在として主題歌を味わいなおしてみるのもよいだろう。

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そういえばサラッとツイートしてそのまま流してしまった話があったな。桜流しとBeautiful Worldの歌詞の対応だ。

「自分の美しさまだ知らないの」「あなたはとてもきれいだった」
「ただもう一度会いたい」「もう二度と会えないなんて」
「言いたいことなんか無い」「言いたいこと言えない」「まだ何も伝えてない」
「It's Only Love」「Everybody finds love in the end」

特に、「It's Only Love」は、ライブバージョンにおいては最後の最後の一言である。最後に「愛」に出会うとはBeautiful Worldそのものだろう。

簡潔や要約であるアウトロ、全部盛りのクライマックスの更に前のパートは次の通りだ。

『Everybody finds love in the end
 もう二度と会えないなんて信じられない
 まだ何も伝えてない
 まだ何も伝えてない』

ここでの歌唱の悲痛さは圧巻だ。先程述べた通り、この部分をBeautiful Worldに対するアンサーソングとして解釈すれば余計に悲痛さは増す。『ただもう一度会いたい』という願いさえ叶わなかった。言いたいことが言えなくて逡巡する瞬間にすら巡り会えなかった。その悔い、その悔い。

Beautiful Worldの『もしも願い一つだけ叶うなら君の側で眠らせて』の一節に対する正統的な解釈のひとつに、『あなたと同じ場所に亡骸を』というものがある。要は一緒のお墓に入りましょう、死んだ暁には一緒になろう、という願い。桜流しでは、それをも叶わなかったであろうことが推察される。故人の亡骸が今どこにあるかも、わからない。多くを語る必要はないと思うが、『もしも願いひとつだけ叶う』ことも、なかったのだ。その事実を受けても、光は『どんなに怖くたって目を逸らさないよ全ての終わりに愛があるなら』と叫ぶ。最早説得力云々の世界ですらない。魂を魂にそのままぶつける感じである。ここまでエモーショナルな楽曲は久しくお目にかかっていなかった。Be My Lastでも『今夜一時間だけ会いたい』と歌っていたが、それすらも叶わなかった。そもそも、『誰かの願いが叶う』こともなかった。それでも『Everybody finds love in the end』と歌う。歌える。歌わなければならないのである。絞り出す一声。どこまでも魂の楽曲だ。

しかしながら、そのオーケストレーション、作曲術は冷静沈着、理性の発露そのものだ。もっと言えば、これだけがっちりと演奏を組み立てたから歌がこれだけなまめかしく艶っぽく艶やかに自在に変化(へんげ)していけるのである。そう思ってinstrumentalを、聴いてみて欲しい。いやアカペラで歌ったとしても十分凄いだろうけどね。

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桜流しの全体の構成を押さえておこう。これの説明に特徴的なのは、楽曲の頭から見ていくより、最後から見ていく方が理解がし易い点にある。逆に言えば、耳で冒頭から順に聴いていっても俄かには構成を把握しづらい。全く困った楽曲である。

アウトロを聴いてみよう。静かなる単和音の連打、これは前にみたように332の混合拍子で、冒頭の分散和音を起点とした一連のフレーズの名残である。もうひとつのフレーズは、楽曲の後半に登場し、グランドピアノからエレクトリックベース、そして最終的にフルストリングスへと受け渡された「もうひとつの主題」たるあのメロディーだ。

そこにチェロによる伴奏が加わって、アウトロは構成されている。即ち、ここを聴くだけで、ピアノによる2つのフレーズの流れがあり、それをストリングスが支えてきたこの曲全体のコンセプトが伝わってくる訳だ。ある意味、この楽曲の総括、まとめの部分である。

一方、この楽曲の最大のクライマックスはその直前、歌詞でいえば『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉どんなに怖くたって目を逸らさないよ全ての終わりに愛があるなら』のパートである。アウトロが簡潔な要約なら、こちらのパートはまさに"全部盛り"である。

前々回解説したように、ここの歌メロは冒頭からの前半部分でややラインを変えて歌われていたものだ。この楽曲に於いて「言いたい事」を最も託された大切なフレーズである。これを補助するフレーズとして語尾だけメロディーを合わせたシンセのサウンドがあり、そこに嘶くようにエレクトリックギターの鮮烈な音が絡みつく。それが右チャンネルの大体の様子。やや左側では、アウトロに登場した2つのピアノ起点のフレーズが、片方はずっとピアノのまま淡々と、片方はピアノからベースへと映りそれがドラムによって突き崩されてストリングスに継承されるという例の展開が待ち受けている。メインボーカル、バックコーラス、グランドピアノ、アップライトピアノ、エレクトリックベース、エレクトリックギター、シンセサイザー、そしてストリングス。『開いた~あるなら』の間にこれだけのサウンドが犇めきあっているのである。複雑にも程がある。

この、複雑極まりない構成のクライマックスに如何に自然にもっていくかが楽曲展開力の見せどころだ。如何にあのシンプルなピアノから僅か4分でここまで持ってくるか。引き続き探っていきたい。

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う~ん、完全に「桜流し病」である。桜流しと名前がついたら何でも買ってしまいそうで怖い。iTunesStoreにビデオクリップだけ買いに行ったつもりだったのだが気が付いたら隣にあったオルゴールバージョンとキラキラバージョンも購入していた。何を言っているのかわからねぇt(ry

本当にヤバいな、これは。桜流しという銘菓が発売されれば箱買いしてしまいそうだし、桜流し保険があれば加入してしまいそうだし、桜流し教があれば入信してしまいそうだし、「桜流しの方から来ました」と言われれば消火器を買ってしまいそうだ。これではいけない。

元々光は「宇多田ヒカルのファン」なんて要らないのである。私の書いた曲だから応援したいとか思って貰いたくないのだ。一曲々々をその都度聴いて、ちゃんと好き嫌いを言って欲しいのである。真剣な作曲家なら当たり前の事なのかもしれないが、宇多田ヒカルというバイアスで好意的な評価をされても嬉しくない。Deep Riverのロングインタビューの時などにも言っていたが、何気なく耳にした人が「あ、いいかも」なんて風に好きになってくれるのが嬉しいのだ。何ヶ月も待ち望んだ挙げ句曲をリリースした途端に絶賛だなんて…いやそれ私ですがな。

うーん、しかし、この曲の素晴らしさを否定するのは私にはとても難しい。耳がそれを許さない。確かに、ヒットするような曲ではないが…って25万ダウンロードおめでとう…十分ヒットしてるか…うーん…

First LoveやFlavor Of Lifeのような国民的名曲ではなかった、宇多田ヒカルという看板を背負っている以上、新曲を出すからには世界記録を打ち立てねばならな…ってそういう話はどこまでも「他との比較」でしかない。過去との比較でしかない。しかし、楽曲というのは世界にその曲と私しか居なくても心を震わせるものでなくては、と普段から考えている私のような人間にとっては他の曲と較べてキャッチーさが足りないとか曲構成が非定型的である、という話は、分析や解釈の手段にはなっても「評価」の基準たりえない。あクマで、こちらの心をどれだけどのように打ち震わせてくれたかを感じとり、漸くそこからその度合いを他の楽曲と比較する事で、この曲はいい、こちらはそうでもない、あれは好き、それは退屈、という風にいえる。要は自分の耳と心次第。自分の耳と心に正直になるならば…やはり桜流しは素晴らしい。困り果てる。

将来、「2012てどんな年だった?」と訊かれたら「桜流しの年」としか答えないだろうなぁ。オリンピックとかあったのよ…銀メダルとかとったのよ…春先のDream Theater素晴らしかったじゃないの…EVAQも上映されたんだから…って映画まで忘れる気か!?(笑)

いやホンマ、この前EVAQ2回目観てきたんやけど、どこか上の空というか。そして桜流しを聴きながら、「やっぱりCasshernと誰願叶の関係性と同じだよなぁ」と納得して終わるという。ここまで(私の中で、だけかもしれないが)存在感があっていいのだろうか? Beautiful Worldと序破の関係は、もっとこうバランスが取れていたというか健全だったというか。「100%自分の好みという訳ではない」という謙譲の精神が上手く作用していた。今回は更に「EVAQの為に」というのを徹底できる状況にあった。なにしろ人間活動中、宇多田ヒカルという看板とかそのキャリアとか全く関係なく、本当に映画の為だけのスポット参戦、ピンチヒッター。幾らでもEVAに捧げた楽曲を作れた筈である。しかし桜流しは、私にとってまるでEVAQの方が長いイントロのようにすら思える。う~ん、なんとかせねば…


…ていうてるだけでエントリー終わってもたがな((汗))  次からきっちり解説に移らねば。大丈夫かな…。

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今日は桜流しのビデオクリップ配信開始日。楽曲配信が金曜深夜、土曜日になったのは映画封切り日の都合だろうが、今回はきっちり水曜日発売だ。つまり、販売計画の骨子としては楽曲配信の2週間後にビデオクリップ配信、更に4週間後にDVDシングルの発売となる。こういう順序とスパンにした理由は何か、直接梶さんに訊いてみたい所だがまずはその結果がどうなるか、見てからだろうね。

このビデオクリップの内容については、最初GBHPVに引き続き宇多田光の監督作品かと思った程素晴らしいものだが、この作品は案外楽曲からの独立性が強い。一例を挙げれば、ここでは桜は流れないし開いたばかりの花が散る事もない。歌詞の世界をそのまま映像化した作品とは違いがあるのである。当欄ではまずは楽曲自体に焦点を絞りたいので、このクリップについての話はDVDシングルが発売になった頃にでも。いや勿論配信クリップは購入しましたけれども。

前回触れたように、今回の桜流しのアレンジメントは複雑さと微妙さが今までにない質のものとなっている。その理由としていちばんに考えられるのはまずは作曲者としてヒカルと共に名を連ねているポール・カーター氏の存在である。

※ 本来プロのミュージシャンの日本語表記に関してはレコード会社発表のものに準拠するつもりでいるのだが彼について日本盤が何か発売されているという情報を私は持っていない。そういう場合はそのまま原文表記でPaul CarterとするべきだがそうなるとヒカルについてもUtada Hikaruと書く事になる。現時点ではそこまでするつもりはないのでPaulの方を合わせてカタカナ表記でいく事にした。これは、従って、ミュージシャンの正式な表記ではない。彼の名前がそのまま英語読みでいいとも限らない。ロンドン出身だとすればそれでいいんだけど。長々書いたが、用はPaulと打つよりポールの方がタイピングが楽なんでそっちにしますという話。(笑)

彼はストリングスアレンジメントも手掛けていて、クラシック経由でしっかり音楽理論を学んできた可能性を示唆させる。今までにない複雑さは、そういう彼の資質が楽曲に反映された結果であり、その貢献度の大きさから作曲者クレジットにまで名を連ねるようになった。それが桜流しの玄妙さの源泉である、という帰結が一つ。

そしてもうひとつの解釈が、ヒカルの手によるものだというシンプルな、いつも通りの解釈だ。そもそも、いつどこでポールと知り合ったのか。これは、嘗て指摘したようにヒカルがロンドン滞在中に音楽理論を学んでいた可能性について考えなければならない。音楽大学をはじめとした各種学校に通っていたかもしれないし、誰ぞ高名な音楽家に個人的なレッスンを受けていた、師事していたかもしれない。ポールはそういった中で知り合った学友、同朋とも考えられる。だとしたらたった1年余りで学んだ事をここまで作曲に反映させている事になるが、ヒカルなら有り得るかもと思ってしまうから困ったものだ。真相や如何に。まぁどっちだろうが桜流しの素晴らしさは揺るぎないのではあるけれど。

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さてここから桜流しのInstrumentalについて更に突っ込んだ解説に挑みたい訳だが…結論から先に言ってしまえば、「無理!!」なのである。いきなりの弱音には理由がある。日本語で表現していくにはアレンジの変化が微妙・玄妙に過ぎるのである。

今までと何が違うかといえば、各フレーズ同士の距離感と、各フレーズの変化の自由度である。平たく言えば、同じようなメロディーが似たような似てないようなメロディーと絡み合った楽曲なのだこの桜流しという奴は。

例えば、最終盤の『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉』と冒頭の『開いたばかりの花が散るのを見ていたあなたは今年も早いねと残念そうに』では、歌い出しはほぼ同じであるが最後の方は(冒頭の方が)かなり崩しにかかっている。これがまた、定型的なメロディーの方が後に来ていて、聴き手が先に耳にするのが"敢えて崩した方"なのがまた話をややこしくしている。普通は逆なのだ。かっちりとカタチの明解なメロディーを提示してから、その後で崩しにかかる。これはクラシックでもジャズでも基本である。この主題の時間的遡及性はこの楽曲の印象を難解にするのに十分だ。その分感動も容赦なく劇的なのだけれど。

何しろ、冒頭からの流れの次にこのメロディーが登場する時も又その形状を変化させている。

『開いたばかりの花が散るのを今年も早いね』「と残念そうに」
『見ていたあなたは』「とてもキレイだった」

『あなたが守った街のどこかで』「今日も響く健やかな産声を」

上記のうち、『』部分が定型的メロディー、「」が崩しにかかった、即ち変奏部分、バリエーションである。3回出てきて全部"語尾"が違うのである。ややこしいっすよヒカル先輩。

これが楽曲のクライマックスまで来ると、

『開いたばかりの花が散るのを』
『見ていた木立の遣る瀬無き哉』
『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』
『全ての終わりに愛があるなら』

と全て定型的メロディーで歌い上げている。ここにきて漸く"本来のメロディーがどうであったか"が提示される。たった一度きりだけ。このパートを初めて迎えて、そしてこの楽曲は終局を迎えるのだ。何という一期一会の展開美。そりゃ何度も聴き直したくなりますさ。

そして問題なのは、このクライマックスのメロディーの変奏っぷりに合わせて、器楽隊が様々な動きと形態を見せる事だ。一例を挙げれば、今書いたクライマックスの歌メロの右側でシンセサイザーが(ムーグっぽい音色だった気がするが後で確認してみます)、今度は"メロディーの最後だけ歌とシンクロする"フレーズを奏でていたりするのである。冒頭ではメロディーの"語尾"にバリエーションを持たせていたのと対比するように、今度は歌とシンセの2つのメロディーがひとつの"語尾"に向かって収束していくのだ。広がるイメージと集まるイメージと。ややこしい。本当にややこしいのだ。たったひとつのメロディーを巡って、これだけの工夫が凝らされているのである。この複雑さを前にしては、とても今の私の日本語能力でその工夫の全貌を書き下すなんて「無理!!」としか言えないのである。でも、出来るだけやってみるね。

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先週最後に予告したギターがどうのストリングスがどうのという話を、あれっきりにして全く他の話を始めるのが破のQ予告の流儀に則っていて面白いかな…と思ったが、どうしようかな。

あの破のQ予告の分が完全に映像化される事とかあるのだろうか。OVAとして発売したらとんでもなく売れると思うんだけど。Qの興行成績は目覚ましく、10日間で30億円だそうな。なんか本当にどメジャーな成績だなぁ。

問題はここからどれ位伸びるかだが、「謎を解こう」と勇んで出掛けるリピーターがどれ位の割合になるかが勝負。…なんだけど、流石にそんなに居ないよなぁ。千と千尋の神隠しが大ヒットした時も思ったけど、この規模でのリピーターの獲得は「映像体験」としての質が大きいように思われる。ストーリーは既知だし、もう一度観たいと思えるのは映画館という特殊空間での非日常性にあるだろう。その点に関してはQは破より弱い。初号機奪還作戦やヴンダーで使徒を踏んだり蹴ったりする様は圧巻だが、それが前半に集中している為後半はとても地味だ。4部作全体の構成上そうなっている、という事なんだろうが圧倒的な映像体験を求めてリピートする客層への訴求力を考えるとやはり物足りない。

あとは、桜流しが各チャートに顔を出し始めているのでこれに反応して見に来る層がどれ位居るかだが…うーん。真っ先に指摘した通り「映画にはピッタリだけどヒット曲ではない」と思うので、これをキッカケにしてEVAQにも、という流れはなかなか大きくならないだろうかな。

Qのロケットスタートや桜流しの初動は詰まる所、破とBeautiful Worldへの評価な訳だから今週第2週以降の動きが当のEVAQと桜流しへの本当の評価となるだろう。

まぁそういう世間での評判云々は、当欄ではさほど重視しない、というか桜流しの素晴らしさをどう伝えればいいのかに腐心する方が先だ。何度聴いても全貌を掴み切れた気がしない。この曲の再生回数が増える傾向にあるのは「2年ぶりの新曲」という過去最も長いインターバルの生んだ渇望感がいちばん大きいのだろうが、それだけではない筈だ。この曲は華やかさや派手さはないが、真にパワフルでエモーショナル、そして何よりBeautifulである。美しさの前で人はただただひれ伏し讃えるしかない状況。それを桜流しは生んでいるような気がする。はてさて、次回は何から書きますやら…。

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そしてもう一つの新しい動画、EVAQのネタバレ全開の映像をフィーチャーした桜流しShortVer.の新しいPV(?)である。これがまた頗る素晴らしい。Beautiful WorldのShortVer.のPVも唸らされる出来だったがこれはそのインパクトを上回ると言っていいだろう。

そもそも、音楽に合わせた映像を作る事にかけて、EVAのスタッフはエキスパート中のエキスパートだ。残酷な天使のテーゼが十何年もアニソンのトップとして君臨し続けている(その点に関してはさしものBeautiful Worldもかなわない)のも、あの旧世紀TV版でサウンドと歌詞に絶妙にシンクロする映像のインパクトが抜群だったからだ。あのOP映像なくして残テの今の地位はないと断言できる。そのノウハウの伝統が、BWや桜流しのPVにも生きているとみるべきだろう。

一番唸らされたのは『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉』の所でシンジとカヲルと、更にあのグランドピアノの隣に佇む灌木(或いは若木か)を映し出した事である。やられた。このド直球ぶりは残テOPのあのセンスである。シンジとカヲルの間に花開いた友情、愛情、絆が、カヲルの死によって引き裂かれるのをあの木は何も出来ずに眺めているだけだ。完璧。そして勿論この場面では先週しつこく見てきたようにグランドピアノの荘重な響きが軸となって荒々しいサウンドが展開されていて、これまたシンジとカヲルが連弾に用いたあのグランドピアノとシンクロする。これでヒカルは脚本を殆ど読んでいないというから恐ろしい。

そう思って歌詞を聴き返す/読み返すと完全にこれはカヲルを失ったシンジの物語にしか読めなくなってくる。マジック。更に『私たちの続きの足音』ってEVAQのエンディングで3人が足跡をつけて歩いていく場面を否応無く連想させる。『あなたなしで生きてる私』の表情は些か情けないが。あそこでシンジの表情をコミカルに描くところが新劇版の新劇版たる所以であり…って話は脱線になるからこれは稿を改めて。

それにしても、である。何故今回ヒカルが配信と同時に日本語詞だけでなく自身初という日本語曲の英語訳を発信したのか。これでよくわかるというものだ。歌詞の音韻は今回そこまで重視されておらず、大切なのはそれの描く情景、言葉の意味の方なのである。今見てきたようにその内容こそがEVAQとシンクロしている。海外にもEVAのファンは多い。彼らに対してしっかりメッセージを届ける必要があったのだ。こういう事を歌った歌なのだと。繰り返すが、例えばキプトラのように日本語の音韻の粋を集めた楽曲と桜流しは一線を画するのである。また後日指摘するが、多少無理をしてでも描写したい内容を優先させた節がある。

そしてもうひとつ。先週これでもかと指摘したように、サウンドのひとつひとつが歌詞によって具体的に意味づける事が出来る点を英語圏のファンに知ってもらいたかったというのが大きい。あの後半の連続単和音に巡り会うに際して"the footsteps"という単語が目に入るか否かの違いはとても大きい。あれが足音の表現だと解釈する事でサウンドの深みと広がりがより増す。それを解っていたからヒカルは今回わざわざ英語訳にチャレンジしたのである。

斯様に、今桜流しは映像と歌詞表示の力を借りてよりその魅力を人々に敷衍している。まだまだその勢いはとどまる事を知らないようだ。

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先週はこちらがぼーっとしている間に2つの注目すべき動画がUPされていた。1つは桜流しをヒカルと共作するという今や昔の村上ちえちゃん並に私の羨望と嫉妬を集めるPaul Carter@thisisbenbrickによる桜流しのピアノヴァージョン。そしてもう1つはEVAQの映像を大胆にフィーチャーした桜流しの新しいShort Ver.PVである。

ポールの動画には衝撃を受けた。あんたが弾いとったんかい! こちらは最初に「音色は生グランドピアノにしか聞こえないし、打鍵の柔らかさのバリエーションも人が弾いてるとしか思えない。でもIvoryIIによるサンプリング&プログラミングなんだよねぇ」と書いてしまっていたのだが、単純に人がグランドピアノを弾いていただけだった。あちゃー。IvoryIIどこ行ったんや。単にデモ制作用に買っただけなんか。

ヒカルの場合、Synergy Chorusに歌唱指導をしていた時にも思ったが、自前である程度音が用意できる場合でもその"ある程度"では満足せず、更なる精度を目指して専門家に録音を依頼する、という事だろうか。

ピアノの録音をする場合、様々なバリエーションが考えられる。まず普通にスタジオやホールでマイクを立て人がピアノを演奏する様子を実況録音する事。もうひとつはまるごとPCでプログラミングしてしまう事、もうひとつはピアノのサンプリング音を用いて電子キーボードで人が弾く事。最後のはオンラインで録音してもいいし他の方法で録音してもいいだろう。ともあれ今回は、マイクでピアノの生演奏を拾った、というのが実際のようである。

もうひとつ注目なのはポールがアップライトピアノとグランドピアノを使い分けている点。これは気が付かなかった。迂闊だった。室内楽的な静謐な前半ではアップライトを、スタジオヴァージョンでは様々な楽器が入ってくる後半部分ではグランドピアノをそれぞれ弾いていらっしゃる。特に後半部分では非常な低音を響かせるのでグランドピアノの方がうってつけだったろう。前半の親密な繊細さはアップライトという訳か。成る程。

今回の演奏は、中盤を幾らかショートカットし、エンディング部分を大幅に端折って一分ほど短いヴァージョンになっている。最後の部分は演奏の主役を他の楽器に譲る為ピアノは裏方に徹する。故に省いたのだろう。

スタジオヴァージョンとの連関だが、Youtubeの音質でどこまで判断したらいいかはわからないが、打鍵のリズムのバラつき具合からスタジオのとは別ヴァージョンだと思われる。映像で弾く姿を見せてるからってその時の演奏の音を映像にくっつけるとは限らないけれど今回は"正直な"ヴァージョンだとみてよさそうだ。

ひょっとするとスタジオヴァージョンは、実際の生演奏をある程度切り貼りして編集したものであるかもしれない。4分40秒の曲だからといってそれを通しで演奏したものを録音したのをそのまま使わなければならない道理はない。これもまた、様々なバリエーションが考えられる。ポール@thisisbenbrickは気さくな人らしいので、Twitterで訊いてみたら答えてくれるかもね。

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桜流しについていちばんの驚きは、ヒカルがこういう特異的な構成の曲をシングルとして(配信とDVDだけだけど)リリースした(する)事である。

普通のPopソングは構成が決まっている。イントロ~Aメロ~Bメロ~サビ~繰り返し~間奏~もう一度繰り返し~アウトロ、みたいな具合に。勿論サビから始まったりして多少のバリエーションはあるが、定型的である事に変わりはない。これは決して悪い事ではなく、交響曲だって様式は決まっている。ハイドンの曲なんてどれがどれだか区別がつかない…のは私が聴き慣れていないだけなのかもしれないが、兎に角、「型」がある事によって書き手は楽曲を量産できるし聴き手も初めて聴く曲のポイントが掴みやすい。結構Win-Winな関係である。

宇多田ヒカルも基本的にはそうだった。誰よりも日本語曲の王道を期待されているのだし、実際Prisoner Of Loveなどは様式的期待に120%応える事で今の高い支持を確立している(繰り返しになるが、桜流しまでの今のヒカルの楽曲で人気が高いのはFirst Love,Prisoner Of Love,Goodbye Happinessの3曲である。UTUBEの再生回数等を参照のこと)。ヒカルは奇を衒うだけのサプライズを盛り込んだりはしない。「音楽に関しては一生AutomaticとFirst Loveの人でも構わない」と16歳の時点で言い切れる人だ。同じ歌を末永く歌い続ける覚悟は出来ている。その証拠に、First Loveはどのライブにおいても歌唱演奏共にスタジオバージョンをかなり忠実になぞる事が多い。それだけ期待に応えるのを厭わない人なのだ。

そういう人が、桜流しのような初聴の人には全くメロディーの予測がつかない、聴き終わった後も構成が飲み込みにくい楽曲を、近年にない注目を集める中―その注目度の高さは序破やラスフレどころではなく、花より男子2以来だったと言っていいんじゃないか―で発表してきたというのは、物凄い度胸である。ここまで作品に対して(映画に対しても、楽曲に対しても)真摯で誠実に向き合ってくるとは、期待も予想もしていたが、こうやっていざ実際に眼前に楽曲というカタチを伴って提示されるとグゥの音も出ない。ただただ絶句、である。

この楽曲の構成を、無意識日記を読むまで掴めていなかった人も多かろう。というか、こちらも楽器陣のディテールから入ったので実はまだ全体の構成については明解に書いている訳ではない。ひとまず、前半の上昇と降下で編み上げられた分散和音が単和音の連打に収束していき、後半の低音で奏でられる主旋律と重なり合う、という楽器陣の背骨の部分の構成だけは頭に入れて貰えたと思うが、楽器陣は他にもまだまだある。ドラムの切り込むタイミング、エレクトリックギターの左右の振り分け、高音から低音までカバーする弦楽器隊、方々で仕事をする効果音の役割など、まだまだ語るべき点が山ほどある。そして勿論、この楽曲最大の美点であるヴォーカルについても語り尽くさねばならない。まだまだ遠い。何しろ、こうやってリスクをとって特異的な展開の楽曲を成してくれたのだから解説をする方も従来の様式に対する共通認識を利用した説明のショートカットが出来ない。いちから説明しなければならない。それだけにやりがいがあるといふものだ…けれど今日はもう遅いのでこ
のへんで。むにゃむにゃ。まくらさん…

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セカイ系という思想は現代人の心理を…とか何とかいう解説はWebに幾らでも転がっていそうだからそちらに任せるとして。個人の内面が世界の趨勢を左右するというのは、要は因果関係の誤解である。外界の気温が低く且つ自分の気分が落ち込んでいる時、セカイ系の世界観での解釈は「私の気分が落ち込んだせいで世界の気温が下がった」という解釈になる。常識的な理解だと「寒くなってきたからどうにも気分が落ち込むなぁ」になるのだが。

シンプルに誤解と書いたが、実際はそうそう簡単に切って捨てるような思想でもない。これは受動意識仮説といってここ半世紀位で…あとはググれ。

でだ。宇多田ヒカルが何故この、碇シンジ君のセカイ系的世界観に共感するのかといえば、彼女の場合セカイ系が誤解でも仮説でもなく過酷な現実だったからである。思い出してみよう、髪型と眉型を変えただけで、何万人もの人間がその是非について話題にしていたのだから。まさに「私の気分が変わったから世界の天候が変化した」状態である。皇室に生まれて小さい頃から鍛えられているなら兎も角、NYと東京の間を行き来して育ちどこかアウトサイダーな気分が抜けなかった人間が、その一挙手一投足で"世界を動かす"ようになったのだから劇的な変化だ。それは、この間まで慎ましく過ごしていたシンジ君がいきなり父に「エヴァに乗れ」と言われたのと似たような感覚だったかもしれない。街を歩いたら、私は知ってる人1人も居ないのにみんなはみんな私の事を知っている…今声をあげたらきっとみんな一斉にこちらの方を振り向くだろう…今はもうそういう「運命と和解」しているそうなのでそんな風に考えなくなってはいるようだが、自身の成長過程にそうい
った状況が影響を及ぼした側面は否めない。それはもう、だから、EVAの世界観に共鳴するのも致し方ない。

そういった経験があるから、桜流しやBeautiful Worldにセカイ系の世界観を(それぞれ違った手法で)盛り込む事に長けていた、と言ってもいいだろう。他の誰からの借り物でもない、自身の経験と実感に基づいているから説得力が段違いなのである。

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桜流しの最終盤、『全ての終わりに愛があるなら』の場面、今までピアノからエレクトリック・ベースへと引き継がれてきた後半の主旋律が激しいドラミングに引き摺り突き崩されていく中、最後の最後にストリングスが上から被さってその主旋律を奏でる。劇的。

絶望すら破壊され尽くす中、突如天界から降りかかるようにそのメロディーが一度だけ"復活"するのは何なのか。この構成こそこの楽曲が"EVANGELION"という作品の主題歌たる所以であると私は考える。

EVAはセカイ系の走りと呼ばれている。セカイ系とは何かと一言でいえば、中二病の唯我論である。"私"の感情の振幅が世界の行く末を決める―このテーマを最もわかりやすい形でメジャーに広めたのはEVAよりも寧ろ涼宮ハルヒの方だと思うがハルヒ自体EVAへのオマージュを基礎にして成り立っている作品であるからしてEVAはやはり偉大だなと思わせる。

桜流しのこの最終盤のアレンジは、このセカイ系の世界観(セカイ観?)を反映したものだと思われる。ひたすら沈み込んでいく主旋律が行き着いた先が、絶望が天から降ってくる情景だとしたら。即ち、この後半の主旋律が表現している主人公の感情が、最終的にはカタストロフを齎し世界を覆い尽くす…そういう風景だと思えてならないのである。

だとしたら、凄い。何故かって、ヒカルがEVAQの脚本を殆ど読まずにこの楽曲を書いたからである。旧劇版…つまり90年代の劇場版を見ているならこういう風景を描写する事自体に驚きはないが、新劇版の序破にはそういったセカイ系の要素は皆無だった。ヒカルは、この作品が"こちら"に向かう事を感じとっていたのだろうか。いやいや、『あなたの守ったこの街』という歌詞を書いているのだから、そんな風には思っていなかった筈なのである。なのに、EVAQで"復活"した碇シンジ君のセカイ系っぷり…彼の感情の起伏、気分によって世界の行方が左右され、結局はカタストロフを導く、という流れに、このアレンジはピッタリ合っている。或いは、破の最終場面にインスパイアされたのかもしれないが、あの時点でのQへの"次回予告"を見ておいて、そういう発想が出てくるだろうか…

…って言ってるけど、あれだな、そういう考えで最後に弦を厳かに響かせたのではないんだろうかな。私の妄想が過ぎた、という事で今回は(も)矛先を収めよう。


余談。EVANGELIONはラテン語。日本語に直すと福音、英語にするとGood Newsである。そして、最初のその「よい報せ」とは、イエスの死からの復活であったそうな。この歌にも、"死からの復活"がきっちりテーマとして潜んでいるかも…という話の続きはまたいつか。

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桜流しの最大のハイライトはやはり最後の『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉どんなに怖くたって目を逸らさないよ全ての終わりに愛があるなら』で冒頭のメロディーに戻ってくる所だろう。細々としたピアノをバックに切々と歌われていた儚げな旋律が花嵐の渦に巻き込まれるが如き音の洪水の中でこれ程迄に力強く異彩を放つとは何とも意外というか度肝を抜かれる展開だ。しかし、ここまでの編曲の運びが至極巧みな為不自然だとかとってつけたようなだとかいう印象は当然ながら微塵も感じさせない。

後半の主旋律をアルトのピアノで2回、パリトンのピアノで2回、エレクトリックベースで2回繰り返した後、突如上昇フレーズに転じるベースとそれに呼応して激しく打ち鳴らされるドラミングに導かれてこの最後の『開いたばかりの』のパートは歌われる。ここで興味深いのは、ここまで執拗に繰り返されてきた主旋律を、ベースが少しずつ突き崩していく点だ。まるでそれは、そこまで何度もオクターブを下げながら絶望の暗い闇の淵に落ち込んでいった主人公の、その絶望すら壊れてしまう様を表現しているかのようだ。特に、ドラムのタムロールが伏線となってそれに突き破られるようにしてベースラインが変化していくアレンジは圧巻である。暴虐な現実が絶望を破壊し尽くす。しかし最後の最後の小節、『全ての終わりに愛があるなら』のパートで重厚な弦楽器隊が上から覆い被さるようにして後半の主旋律を奏で静謐なアウトロに到達する、このエンディングは非常に示唆的であった。次回はこの衝撃的な終局部分についての個人的な妄想(って今週の話ずっと私の思い込みば
かりなんだけどね)をつらつら述べたいと思う。

それにしても光は、EVAQの脚本殆ど読んでなかったんだね。歌を聴いてそれはある程度思ってはいたけれど。だってあの話を知ってたら『あなたが守ったこの街』っていう歌詞入れるの躊躇するもんなぁ。シンジ君が原因でその街も破壊し尽くされてるんだから…。

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桜流しが今年最も素晴らしい楽曲である事は既に私の中では論を待たない。タイトルを最初に目にした瞬間にそれは決まっていたような。それは今はさておき。

一番は桜流しとして、二番目は何か。私は「桜流し(instrumental)」だと本気で思う。この歌で最も強力なのはやはりヒカルの歌声そのものだが、伴奏のみでも非常に強いメロディーラインが目白押しだ。誇張ではなく、この280秒余りで交響曲一曲分の厚み、ドラマティシズムを感じる。今まで、光の書いた楽曲で最も楽曲のアレンジメント、楽器の編み込み方が優れていると思ったのはPassion-after the battle-/Sanctuary(Ending)とPrisoner Of Love (Quiet Version)、更にはFINAL DISTANCEといった所だったが、この桜流しはそれらを上回るスケール感に満ちている。全く、何ゆえこの娘(こ…ってもうすぐ30ですけど)は新曲を出す度にすわ最高傑作かと私に思わせるのか。SCv2でもグッハピとキャンクリをあれだけ讃えた私が、それ以上に絶賛しなくてはいけない立場に立たされている。嬉しい悲鳴を上げざるを得ない。

しばらくの読者なら御存知のように、最近私はモーツァルトの交響曲40番、41番なんかを聴いていた。特に40番の第4楽章などは人類の至宝と呼ばれる、凡そ人の書いた楽曲にあって史上最高峰のランクに属するものだ。もうひとつ聴いていたのが、LED ZEPPELINの「How The West Was Won」だ。Animatoで歌われているのはBBC Sessionsだが、それと同時期の、彼らがライブバンドとして最も勢いを持っていた頃の音源である。20世紀最高の演奏集団のプレイ。いやこれ凄いよホント。

兎に角、斯様にして贅沢三昧状態で耳の麻痺した私をここまで夢中にさせるなんて尋常じゃない。今年も色々な曲やアルバムやコンサートや映画やアニメや小説やドラマや番組や事件やニュースやblogやストリーミングや動画やガジェットやら何やらかんやらに触れてきたけれども、久しくここまで夢中にさせてくれるものはなかった。夢中。いい響きだな。この曲を聴いていると如何に時間が大切か実感してくるよ。10分あったら桜流しと桜流し(instrumental)が聞ける…!こういうのを生きる喜びというのだろうなぁ。

勿論、何の不満もない訳ではない。この楽曲には様々なレベルに於いて問題点が山積している。いや、もっと踏み込んでいえば「この曲はここに居ていいのか?」という実存的不安すら感じさせる。光の本格復帰でもないのに世間に流通するヒカルの歌声。そのギャップ等も含めて、種々の問題点を掘り下げていかねばならない。しかし、今のこの間だけは、この素晴らしい楽曲を褒め千切り続ける事を許して欲しい。この最初の感動を、しっかり書き留めておきたいのである。まぁそりゃ10年後に聴いても感動的だろうけれども。

そういや、気の早いなんてもんじゃないが、いつの日かこの曲をライブで聴く日は来るのかな。来てくれ。来い。このアウトロのピアノが導く静寂をBeautiful Worldのイントロが一閃する瞬間を想像するだけで全身が総毛立つ。身震いするぜ。妄想で。この2曲を繋げて演奏したら最強だと思う。少なくともその日までは生きておこうと思います。

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