無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回に引き続き、もう少しULTRA BLUEの楽曲の歌詞の連関について整理しておく。昔書いたからって省略してる事柄が多すぎでござった。そういうのもちゃんと網羅して辞書的に書き下さねばね。

This Is LoveはBLUEをはじめとしたブルーな楽曲群に対するまとめてアンサーソングだが、軸になっているのはWINGSである。

『じっと背中を見つめ抱きしめようか考える』『大胆なことは想像するだけ』のWINGSの主人公に対しThis Is Loveの主人公はもういきなり『後ろからそっと抱きつ』き『私からそっと抱いてみたの』とのたまう。大胆なことを実行に移してしまう奴なのだ。あっさりWINGSの主人公の願いを叶えてしまっている。なお、「そっと抱く」のは誰かの願いが叶うころの主人公の最後の願いだからそちらもThis Is Loveの主人公が回収している。なんともヒロイックな奴だ。

WINGSでは『素直な言葉はまたおあずけ』『昨日の言葉早く忘れて』『あなたの前で言いたいことを紙に書いて』とまぁどれだけ言いたい事を言わずに我慢しているのかという感じだが、This Is Loveではここでもあっさり『冷たい言葉と暖かいキスをあげるよ』と言葉を口に出してしまう。あげるだなんてなんつー上から目線な。

ここでのポイントは言葉が"冷たい"事だ。WINGSの主人公は明らかに逡巡している。こんな事を言ったら相手を傷つけやしないだろうか、怒りやしないだろうかとビクビク怯えている。だから、何ももう口に出せない。最後には口に出せないからって紙に書いてしまう。余談だが、この「言いたい事を紙に書く」というモチーフはBLUEにも出てくる。『原稿用紙5,6枚 ブルーのインクの調べ』の一節だ。歌の流れ上ここでただ紙に何かを書いたら楽譜を書いているように受け取られかねないのでハッキリと"原稿用紙"と言い切っている。だからブルーのインクのシラベが奏でるのは彼女の生身の言葉である。"調べ"が比喩である事を明示する為か、歌詞カードではカタカナになっていたかな。確認してみると宜しい。

話を戻そう。怯えているWINGSの主人公に対して、This Is Loveの主人公は大胆且つ厚かましいことこの上ない。相手が嫌がるような"冷たい"言葉も平気に口に出す。そして、それにもし怪訝な顔をされたとしても暖かいキスをあげるんだからいいじゃないのと開き直る。飴と鞭というか、どちらかというとツン&デレ@確信犯(誤用だ誤用だ)の方かもしれない。どこまでも自信満々である。

WINGSでは『安心できる暖かい場所』を求める主人公に対して、This Is Loveでは『不安と安らぎの冷たい枕と暖かいベッド』という風に、ここでも冷たさを受け入れる事を強調する。なお、ここで枕の方が冷たいのは頭寒足熱、冷たい枕に顔をうずめる瞬間って気持ちいいよねー!という作詞者の心の叫びが源泉にあると確信している。おやすみまくらさんである。

WINGSでは、安心とか暖かさを過剰に追い求めて主人公は言いたい事も言えず萎縮していた。This Is Loveは冷たさも暖かさも受け入れてこれが愛だと力強く言い切る。

WINGSでは、その、刺激から逃げようとする、何かを痛烈に感じる事自体から逃げようとする態度を『お風呂の温度はぬるめ』という比喩で表現する。この、熱くも冷たくもないどっちつかず感。そしてこう呟くのだ。『あまえ方だって中途半端 それこそ甘えかな』と。甘える事は悪い事だと躊躇してしまう。


そこでThis Is Loveは、そう、こう告げるのである。

『痛めつけなくてもこの身は
 いつか滅びるものだから
 甘えてなんぼ』

と。甘える事を全面的に肯定する。だから背中に抱きつく事も冷たい言葉を投げかける事も厭わない。ただ単に相手に甘えてもいいのだと思う為にこれだけのプロセスが必要だってのも面接臭い話だがなっ。

なお、この対照的な2人の主人公、勿論スターシステム的に同一人物とみていいだろう。『向かい風がチャンスだ今飛べ』も『悪い予感がするとわくわくしちゃうな』も、逆境に挑戦したがる気風は変わらないからだ。ただWINGSの時は弱気になっていただけ、This Is Loveの時はやたら強気になれていただけの違いしか、きっとなかった。うん。

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海路の

『船が一隻黒い波をうつ
 たくさんの景色眺めたい
 額縁を選ぶのは他人』

の一節は、BLUEの

『琥珀色の波に船が浮かぶ
 幻想なんて抱かない
 かすんで見えない絵』

への返答になっている。

まず、船の様子が変化している。BLUEでは『浮かぶ』となっていて、これはどこかたゆたうような、波に任せて漂流しているような印象を受ける。これが海路では『波を打つ』と力強い表現になっている。これは、船が"海路"を決めて前進している印象を受ける。波のモチーフは、例えばExodus'04でモーゼの逸話が引用されついるように、障害を乗り越えて自らの道を切り開く比喩となっている。ころだけでもう、海路がBLUEより"進んだ"楽曲である事が示唆されるだろう。

『額縁を選ぶのは他人』も象徴的である。作詞家としては、これは、アルバムの総ての楽曲が出揃って、全力は尽くした、後は聴き手の解釈に委ねよう、という心の境地を歌ったものだろうが、兎にも角にも少なくとも絵は完成しているのだ。でなければ額縁の話なんて出来ない。

一方BLUEでは『かすんで見えない絵』とくる。絵を完成させるどころか、あるかどうかわからない状態である。まさに暗中模索五里霧中。しかしこの一節でいちばん注目すべきは、かすんで"見えない"と言っている点だ。もし創作初期で青写真もままならない段階で、更に創作意欲が漲っているのなら、ここは「かすんでいるけど朧気に見えている」という表現になる筈である。「かすんでいるけど全く見えない訳じゃない、ほんのちょっとばかし見えている」というのと『かすんで見えない』というのでは心理状態が大分違う。コップ半分の水に「まだ半分ある」と言うか「もう半分しかない」と言うかの違いである。ここが、海路とBLUEで大きく異なる点である。

そして春の日差しである。BLUEではまぶたに映るだけだった夜明けが、ここではあっさり訪れる。寒い夜は明け、暖かい陽光が感じられる。『どんなに長い夜でさえ明けるはずよね?』という問いに対して『(さあね)』と返していた不安は、この春の日差しの前では溶解してしまう。悲痛な叫びは総て落ち着いた、雄大なメロディーに入れ替わっている。

しかしいちばん大きいのは、海路に『君』が出てくる事かな。BLUEに出てくる「あんた」とは、目も合わせる気がない。呼びかけ続けるdarlingもきっとそこには居ない。海路に出てくる『かくれんぼ 次は君次第』としっかり"こちら"と向き合っている。何よりこれがいちばん大きな変化だろう。短い制作期間の中、ヒカルの心境はドラマティックに変化していたのである。

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もう一度、ULTRA BLUE各楽曲の関係性を整理しておこう。並べてみると結構ややこしい。主軸となるのは正反対の楽曲、This Is LoveとBLUEだ。

This Is LoveとWINGSの関係性はわかりやすい。『じっと背中を見つめ抱きしめようか考える』WINGSは、結局抱きつけないのにThis Is Loveではあっさりと『後ろからそっと抱きつく人』になれてしまう。『昨日の言葉早く忘れて』『素直な言葉はまたおあずけ』『あなたの前で言いたいことを紙に書いて』とまどろっこしいWINGSとは対照的に、This Is Loveではスパッと『冷たい言葉と暖かいキスをあげるよ』ともう自分から言葉を届ける事を切り出している。

そうだ、前はこの『冷たい言葉と暖かいキス』について触れていなかった。この取り合わせ自体が興味深いがその説明は後回しにするとして、この冷たさと暖かさというのも、ULTRA BLUEの歌詞世界を紐解く重要ワードなのである。そして勿論それより更にいちばん重要なのは『光』なんだがね。

WINGSには『お風呂の温度はぬるめ』『安心できる暖かい場所で』というフレーズが出てくるし、誰願叶には『冷たい指輪』が出てくる。そしてBLUEには『こんなに寒い夜にさえ』だ。この各曲の温度感。

ここに、『光』が絡んでくる。誰願叶は『冷たい指輪が私に光ってみせ』るし、BLUEでは『遅かれ早かれ光は届くぜ』と希望を託す。そして、Making Loveでは『あなたにふりそそぐ光』とまぁ神々しい。


こうして見ていくと、ULTRA BLUEの本来のコンセプト、"朝と夜のコントラスト"が如何に各曲に浸透しているかがわかる。朝と夜の違いは、光と闇、そして暖かさと寒さと冷たさだ。それらを巧みに組み合わせて、様々な感情のフェーズをヒカルは歌っている。

それらが最終的に落ち着く先が、海路である。『春の日差しが私を照らす』と歌った時の光の明るさと柔らかさと暖かさ。多分作詞者としては漸く徹夜でアルバムを完成させられた感慨を歌っているのではないかと思うが(このアルバムが完成したのは春先である)、この場面はまさに映画のラストシーンのような溜め息が出る。最後に完成させた曲らしい場面形成だ。


この海路の、
『船が一隻黒い波をうつ
 たくさんの景色眺めたい
 額縁を選ぶのは他人』
の一節の前段階がBLUEの
『琥珀色の波に船が浮かぶ
 幻想なんて抱かない
 かすんで見えない絵』
なんだよという話を語り直す話を次回はしてみますかね。

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無意識日記を読み返してみると将来を妄想する記事より過去を振り返る記事の方が面白い。これは当然で、その将来が来てしまった後では予想が当たっていたり外れていたりという"結果"はもうわかってしまっているので今更読んでも仕方がなかったりするからだ。これはもう仕方ない。リアルタイムの時はそれが正直な気持ちなのだし期待感なしで継続していくのもなんとなぁく不自然なので自然な流れに任せておく。

裏を返せば、確定的な過去―出来上がってもう今後手をつけそうにない完成された作品たち―に関して今語る事はリアルタイムで読んでいてそんなに面白い事でもない。今じゃなくていいからだ。いわんや8年前の話だなんてそりゃあ「何年前の話だい?」って窘められますわな…いやだから8年前なんですけどね…。


BLUEという歌のもつ"感覚"というのは、既に冒頭であからさまに示されている。

『見慣れた町 見慣れた人
 全てが最近まるで
 遠い国の出来事』

この実感のなさ。似たような感覚に対する記述が更に幾つかある。

『全然なにも聞こえない
 砂漠の夜明けがまぶたに映る
 全然涙こぼれない』

『もう何も感じないぜ
 そんな年頃ね』

『全然何も聞こえない
 琥珀色の波に船が浮かぶ
 幻想なんて抱かない
 かすんで見えない絵』

見ざる言わざる聴かざるじゃあないけれど、外界に対して閉じているというか繋がっていないというか、「何も感じない」感覚というのが全編を通して貫かれていて、その茫漠とした感覚が、砂漠だとか琥珀色の波だとかいった具象に集約されている。

しかし、歌自体の叫びは痛切且つ強烈だ。これだけ瞬発力のあるメロディーはヒカルの歌の中でも珍しい。叩きつけるように、暴発するように強く高い音が続く。それでも、そんなになってでも最後の最後には『ブルーになってみただけ』と矛を収めとしまう姿が、どこまでも痛ましいというか。メロディーもここに来ると穏やかに宥めるように優しいシラベになってしまう。叫ぶは叫ぶのだけどそれで放り投げてしまわず、自己嫌悪で潰れてしまわないギリギリで引き返す。結局、何も解決しない。ここまで来ると何か怖い。狂気一歩手前といいますか。

『(さあね)』の一言に、そのバランス感覚は端的に表現されている。率直にいえばこれは人格の分裂で、熱く叫ぶ自分と冷めて呟く自分が分離しているのだが、恐らくここが後にくまちゃんの"誕生"を促す萌芽なのだろう。この時点ではまだ今の彼の人格―熊格、か、がまだ確立されていないので呟いているのは彼ではないが、こういった感情に折り合いをつける為にもう1つの視点が必要であった事は…明白、であろう。彼が我々の前に現れるのは確か2006年5月、ULTRA BLUE発売の直前である。BLUEは多分"その前"の段階だろう。この痛烈な叫びを優しく包み込むもふもふのくまちゃんは、まだ居ない。

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"blue"という英単語には主に3つの意味がある。【青/猥褻/憂鬱】だ。

青、というのは日本語における青の大体の意味も含まれる。青ざめる、とか青二才とか青写真とか、そういった場合でも英語ではblueを使う(最後のは多分英語由来だろうけれど)。だが、日本語で青いと言った時に猥褻だとか憂鬱だとかいう意味を持たせる事は(いまのところ)できない。素直に、外来語として「ブルーフィルム(猥褻映画)」とか「今日はブルーな気分だ」とかいう風に使うしかない。この"ブルー"に、この曲ではなってみる。それだけ、なんだそうだ。


それにしても悲痛な歌である。ヒカルのレパートリーの中では断トツで暗く絶望的なのではないか。曲調がある程度ロイヤルというかエレガントというかメロディーが綺麗だからこれはこれで、と思ってしまうが言葉を取り出してみると(言うまでもなく)どこまでも悲痛だ。慟哭、という表現がしっくりくる。

This Is Loveが心に花を咲かせる歌ならば、BLUEはどん底に落ち込んだ歌である。この2曲の歌詞と他の曲の歌詞の対比は大変に興味深い。

『もう何も感じない』、この一節に呼応するのはMaking Loveの『感じてないのにフリはしたくない』だろう。詳細な解説はまたいつかに譲る。他にも、『霞んで見えない絵』は海路の『額縁を選ぶのは他人』の前の段階ではないか。絵が見えていなければ額縁の話なんてできない。『船が一隻黒い波を打つ』は当然『琥珀色の波に舟が浮かぶ』が対応している。こういった対比は、This Is Loveと同様至る所でみられる。思い込める、ともいえるけど。

こうしてみると、ULTRA BLUEというアルバムは、BLUEという曲を底としてそこから這い上がる、立ち直る過程を描いた作品だという事も出来るのではないか。その頂点にThis Is Loveが居て、この二極を軸にして他の楽曲群が散りばめられている。そんな絵を想像する。しかし、人はBLUEの真っ只中に居ると、そんな絵すら霞んで見えない。ここからの続きは過酷だが、宇多田ヒカルを慕う者としては、一度は通っておきたい場所である。果たして光は本当に届いていたのだろうか?(さあね)

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ULTRA BLUEを聴き直してみて改めて思うのは、まずその楽曲の充実ぶり。そして曲順の巧みさだ。

テーマ曲たるThis Is Loveを冒頭に据え、展開点たるCOLORSを中央に起き、ラストを重厚なバラードからインタールード、そしてキングダムハーツのテーマソングへと繋げて前作と同型のエンディングを形作っている。そういう意味では前作DEEP RIVERからの続編という見方も出来るし、一方で実際はUtaDAのEXODUSを挟んでいるからそちらからの流れにあるという見方も出来る。海路とWINGSの位置も申し分ないし、Making LoveもA面の要の場所という感じがしてハマっている。全体としてのバランスが素晴らしい。

しかし、その魅力を十分踏まえた上で敢えて提言するならば、こちらとしてはその個々の楽曲の「作られた順序」というのにも興味がある。つまり、時系列順に並べればどうなるのだろうという興味である。何故それが気になるかといえば、個々の楽曲の歌詞同士がどういう流れの中にあったのかを把握したいからだ。

ここまで、This Is LoveはULTRA BLUE制作の最終盤に作られた事を前提として話を進めてきた。しかしこれに根拠などない。インタビュー等でこの曲の制作時期について触れられていた覚えもないし。しかし、そのサウンドの成長ぶりや、誰願叶やWINGSやMaking Loveを連想させる歌詞から、それらの楽曲群より後から作られたのではないかと推測しているだけだ。

楽曲制作というのは常に一曲だけに注力している訳ではないだろうし、歌詞もいったりきたりで書いているかもしれない。なので、たとえ制作順に曲を聴いてみても連続性が認識出来るとは限らない。それでも、出来ればどんな順序で作ったかは知りたいものである。

この点においてひとつ懸念があって、果たしてThis Is LoveはBLUEより本当に後に作られたのかどうかという論点だ。今の話の流れからいくと完全にBLUEからThis Is Loveという順番なんだが果たしてそれは本当に真実なのか。ここに関しても、当時のインタビューで答えていたかどうかはわからない。もっとも、当時はアルバム発売即全国ツアーだったので慌ただしくて総ての発言を網羅捕捉していた自信がない。とはいえ今頃そんな事言っていても仕方がないので、取り敢えずこのまま話を進めていきますかな。

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「EVA序破Qサントラのハイレゾ配信が決まりました」

なぬっ!?

「なお宇多田ヒカルの楽曲は含まれません」


ちっ……


ぬ~か~よ~ろ~こ~ビーム!(あれ、アリガタビーム辞書登録してなかったっけ俺…)


これは都合よく捉えよう。Single Collection Vol1&2のハイレゾ配信が控えているから今は出し惜しみをしていると。うん。

さてそんな他力本願は置いておいて話をThis Is Loveに戻そうか。なお、ざねっちが今日「戻れるならいつがいい?」と訊かれていたが私は「過去でも未来でもどっちでもいいからHikaruのライブ会場に行きたい」と答える。声さえ出ていれば何歳だろうが些細な事だ。


冒頭で「何故恋ではなくて愛なのか」と問い掛けたが、実際、この曲における愛の字は本来総て恋と書かれるべき文脈で登場する。以下に挙げてみよう。

『予期せぬ愛に自由奪われたいね』
『激しい雨も ふいに芽生える愛も』
『もしかしたらこれは愛かも』

これらの愛を恋に置き換えてみる。


『予期せぬ恋に自由奪われたいね』
『激しい雨も ふいに芽生える恋も』
『もしかしたらこれは恋かも』

ご覧のとおり。かなり定型句的な言い回しが並ぶ。恋は予期せぬものだし恋心はふいに芽生えるし戸惑うのも恋だろう。愛、と言った時に予期せぬとかふいにとかもしかしたらとかはあんまり使わない。この曲での愛は普通なら総て恋の字が当てられるべきものばかりなのだ。


何故こんな置き換えをしたのか? この問いに答えるのはこのアルバムにおいて最も難しい課題である。なので私なりの仮解釈を述べるに留めておく。

まず、英語のLoveには恋と愛の区別がない事が大きい。なにしろこの曲のタイトルが英語でThis Is Loveなので、安直に言えばどっちでもよかった、或いは真面目にいえば、英語でいうLoveは日本語でいう恋も愛も表しているのだからこれはこれでいいのだ、という自信にも取れる。つまり、愛と言ってもいいのだから言ってみようじゃないかという気持ちがある、と。

もうひとつは、この歌に普遍性を付与したいという意識が作詞者にはたらいたのではないかという推測だ。恋は一点集中で愛は総てを抱き締める、みたいな事を書いた気がするが、つまり、ここで描かれている『震える手でとらえる人』や『怯えた目でさまよう人』は、誰か特定の人を形容する為に登場したのではなく、こういった人なら誰でも愛してる、という捉え方をするべきなのかもしれない。成る程、そうだとしたらそれは恋というより愛だろう。『抱きつく人』はその時、全体としての世界の一部を抱擁するのだ。


ここらへんからがややこしい。デジカメというとどうしても当時の配偶者の事が思い浮かぶ。「光」の前科がある為、あからさまな歌詞も時に真実なのが宇多田ヒカルだ。だとしたらこれ以上具体的な対象の指し方はない訳でな…。

ここで、やはりBLUEの『恋愛なんてしたくない』の一節が降りかかってくる。やはりこの曲に触れなくてはならないようだ。8年前への旅は未々続くよん。

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BLUEの歌詞を振り返ってみる前に、今一度This Is Love自体の歌詞をみてみよう。

この歌のヴァースで特徴的なのは、一連の歌詞の流れの中でメインヴォーカルとサブヴォーカルが分担しあっているところだ。

『夜と朝の狭間 震える手で
 (デジカメ支えて) とらえる人
 (うしろからそっと)抱きつく人
 なにか言いたいけど
 (次の瞬間)もう朝なの』

括弧書きがサブヴォーカル、それ以外がメインヴォーカルである。注目したいのは、サブヴォーカルなしでも、ちゃんと歌詞が成立している点だ。

『夜と朝の狭間
 震える手でとらえる人
 抱きつく人
 なにか言いたいけど
 もう朝なの』

これだけで情景は十分に伝わる。確かに、夜と朝の狭間をとらえる、というのは抽象的でわかりにくいかもしれないが、ここで言いたい事はこういう事なのだ。

デジカメという小道具を登場させるのは、その抽象的で伝わりにくい感覚を具体的な対象を使って表現する為だ。だから、メインヴォーカルの歌詞だけで何となく理解出来た人にとってデジカメの登場は俗っぽく野暮ったく余計かもしれない。

この違いというか趣味の差は、This Is Loveの"前編"であるPassionを想起すればよりわかりやすい。opening versionのみでも伝わる人には伝わるが、そこだけでは掴み所がない、と感じる人も多かった筈だ。そこでヒカルは、PassionをJ-popの文脈に相応しいものにする為にSingle Versionを作った。そこではエンディングが付け足され、例の『年賀状は写真つきかな』のような、日常的で具体的なオブジェクトを歌詞の中に織り込んでPopsとして通用する楽曲に仕立て上げた。それと同じ事が、This Is Loveではひとつのパートとして纏められている。

メインヴォーカルのみを抜き出して読むと、確かにPassion本編のような淡い情感が伝わってくるが、何の事かよくわからない。そこに『デジカメ支えて』のような(年賀状のような)小道具や、『後ろからそっと』のような具体的な動きを付け加える事によって明解な場面描写として機能させている。

このパートで出色なのは、つまり、Passionでは別パートとして最後に付け足していた要素を、ひとつのパートの中でメインとサブの対比として簡潔に纏め上げている点だ。これにより人は抽象と具象が日常の中で常に隣り合わせに同居している事を無意識的にでも感じ取る。技術的な発想力もさる事ながら着眼点自体も素晴らしい。

斯様にThis Is Loveは、幻想と日常がくるくると次々と回転して歌詞世界を、サウンドを構築している。Passionで時間をかけて辿り着いた境地とそこに至る道筋を、空間的なパノラマの中にひとつのものとして封じ込めている。この曲から感じ取れるスケール感はそういった所からも由来しているのである。

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This Is LoveはULTRA BLUEを統括する歌、という風な書き方をした。しかし、Single Collection Vol.2のコンセプトを思い出すならば、「This Is LoveはULTRA BLUEの楽曲を抱擁する歌」という言い方がいいかもしれない。精神的に苦しい時期を乗り越えてきて到達したスケールの大きな境地。どんなにネガティヴな自分も「よく頑張ったね」と抱き寄せる感覚はあのSCv2のDisc1とDisc2の"ハグ・スリーヴ"を思わせる。これぞULTRA BLUE、と痛感させる楽曲だ。

では、とある当然の疑問が湧き上がる。準タイトル・トラックである3曲目のBLUEはどうなんだ?と。

BLUEは、言うなればこのアルバムで最もネガティヴな曲である。辛いとか苦しいとかを通り越して"何も感じなくなっている"状態に居るのだから。これぞ末期。曲調が謎めいているだけに聴き手をそこまで落ち込ませる事はないが、歌詞は「そこまで言うのか」とおののかざるを得ない領域にまで来ている。ある意味、絶望そのものを歌ったBe My Lastよりもどん底だ。

だから、アルバムのタイトルが「ULTRA BLUE」 なのだ、と書くと拙速に過ぎるだろうか。直訳すると「超青」になるんだが、これは実は正反対の2つの意味にとれる。

ひとつは、「チョー気持ちいい」のチョーの意味である。要は強調だ。普通に気持ちいいのを通り越してもっともっと気持ちいい、と。ならばULTRA BLUEは「青は藍より出でて藍より青し」ではないけれど、「めっちゃ青い」という解釈になる。

もうひとつは、「ULTRA- VIOLET」(あ、ハイフン要らないのか)と同じ使い方だ。これはUVケアとかUVカットとかでお馴染みの"紫外線"という意味だが、UltraVioletはつまり紫ではない。紫より更に向こう側の"色"、波長が短すぎて人間の視覚で捉えられない色の事だ。言うなれば「紫の向こう側」である。これに倣えば、ULTRA BLUEは「青色の向こう側」或いは「BLUEを越えたところ」という意味になる。

私はここで後者の解釈を取ろう。即ち、このアルバムは、BLUEを乗り越えたから完成したのである。言ってみれば、BLUEを優しく包み込む曲が出来たからこそこのアルバムはULTRA BLUEになった。もしその曲が生まれていなければこのアルバムのタイトルはただ「BLUE」になっていたかもしれない。そこを「ULTRA BLUE」に"押し上げた"のが、This Is Loveという歌だったのではないか。

そう強く思わせるのが、This Is Loveというタイトルである。当時はそう思わなかったが、今、後から振り返ってみてこの"This Is"という言い回しは、Hikaruの自信の顕れなのではないか。後の2009年にUtaDAの2ndアルバムに「This Is The One」と名付けたのも「これでどうだ、私には自信がある」という雰囲気ではなかったか。実際このアルバムは成功した。確かに実力的には物足りない数字だったが、やっとLOUDNESSと同等の知名度をもつ日本人アーティストが現れたのだ。LOUDNESSが、いや、ギタリストのAkira Takasakiがどれほど海外のギタリストの間で有名か…いや、そんな事しなくてもYoutubeのVevoでCome Back To Meの再生回数をみれば、This Is The Oneが"成功したアルバム"である事を疑うのは難しい。いやまぁどこまで行っても主観なんだけどね。私もどうせこれからHikaruがどれだけ売れてもずっと"それじゃあ過小評価だ"と言うのだろうし。

話が逸れた。纏めておこう。This Is LoveはBLUEの憂鬱を優しく大きく抱擁した歌であり、したがってアルバムタイトル「ULTRA BLUE」 を象徴する楽曲である。強引に言い切れば、このアルバムの真のタイトル・トラックはThis Is Loveなのである。言い切った。一曲目を選ぶのなら、やはりこの曲でしかなかった事だろう。8年前の作品ですが。

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日本は未だにCDの売上が国際的にみて高い、という記事が出ていたが、御存知の通りそれはアイドルのノベルティのひとつとして売れているだけで、ブロマイドやストラップとかわりがない。深刻なのはダウンロード販売が低調な事で、つまり若年層が音楽を購入する習慣自体を失っている事を意味する。壮年にとってはCDが高いといっても高々3000円、欲しいと思ったら躊躇い無く手を出せる価格帯なので特にダウンロードに流れる理由は無い。高齢者がデバイスを変えたがらないのは、未だに演歌の新曲がカセットテープで売り出される事をみればわかる。縮小していくだろうがあと20年はCDの需要が消える事はない。

こうなってくると、Hikaruの得意な「その時のデバイスを歌詞に織り込む」手法を採るのが難しくなってくる。Computer Screenが暖かかったり(ブラウン管時代の話―液晶以降は画面に熱をもたない)やPHS、BlackberryにMp3、Hard Drive(フラッシュメモリの台頭が著しい)といった単語を歌詞にして歌ってきた向きからすれば、特に日本の若い人たちに対して何を歌えばいいのやらよくわからない。

いずれも、おそらくHikaruの実体験に基づいた言葉のチョイスなのだろう。Blackberryを使っていたという話もあるし。しかしもう30代なのだから、10代~20代と同じ目線という訳にはいかない。

例えば、『10時のお笑い番組』なんていうのは、流石にまだまだ共有できるとは思うが、流れによってはレトロな表現として受け取られていくかもしれない。「そういえば昔は皆決まった時間になったらTVの前に集合してたねぇ」と。これも、CD同様高い年齢層に対してはもう定着してしまった習慣だからあと20年30年は実感を伴って受け止められるかもしれないが、若い子たちにその習慣が受け継がれていくかどうか。

ここらへん、音楽ソフト鑑賞とテレビ視聴の分かれ目があるかもしれない。テレビがどこまで"お茶の間で家族皆で"楽しむものであり続けられるか。音楽ソフトの方は、元々自分の部屋で個々に楽しむものだったから、その習慣が次の世代に伝播する必然性はない。結局、世代間の継承の有無が、音楽ソフト販売量の減少に繋がっている、とみる事も出来る。

では、同じように個々の部屋で楽しむゲームや漫画といった他の娯楽はどうかとなるが、こちらは多少の浮沈はあれど低調という話にはなっていない。ただ、特に漫画をはじめとする書籍の方は電子化自体が音楽に較べて10年遅れているので単純な比較は今は出来ない。結果としては「それとこれとは関係ない」となりそうだけど。

世相もある程度反映するHikaruの歌詞が、今後どこらへんを掬い取っていくか。世相自体を題材にしなくなっていく可能性も含めて、頭の片隅に置いておきたい視点ではある。すぐ廃れたり、20年経っても同じだったり、様々な位相が存在する事だろう。

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ULTRA BLUEアルバムを統括する立場のThis Is Loveについて、肝心な一点に触れていなかったから言及しておこう。

この歌は何がしたいか、何が言いたいか。それについては先述の通りサビにくっきり書いてある。ひとつは『冷たい言葉と暖かいキスをあげるよ』、もうひとつが『咲かせてあげたいの 運命の花を、あてどないソウルの花を』だ。

『花』と言った時に、ULTRA BLUEにおいて他に何を思い浮かべるか。それは、Making Loveの『根暗なマイ・ハートに一つ花が咲いた』の『花』だ。そして、両方とも、それぞれ音韻に合わせてソウル(魂)とハートになっているけれど、つまりは『心に花が咲く』事を歌っている。

作詞者の心境としては、Making Loveで咲いた自分の心の花を今度はThis Is Loveにおいて他者にそれを齎そう、というスタンスに遷移している訳だ。This Is LoveとMaking LoveがLoveを共通に持つ事は偶然ではない。Making Loveで生まれたPositiveなマインドでもって、誰かの願いが叶うころやBe My LastやWINGSといった他の曲の暗い面・絶望面に寄り添っていこう、というのがThis Is Loveの立ち位置なのである。

繋げて書けばわかりやすい。

『根暗なマイ・ハートに一つ花が咲いた』
『咲かせてあげたいの 運命の花を、あてどないソウルの花を』


この、「他者にはたらきかけようという意志」が見えるのがThis Is Loveの特徴である。

誰願叶ではあなたへと続くドアが消え、Be My Lastでは手を繋げず、WINGSでは抱きしめたいのに抱き付けず、言いたい事も言えない。それが、This Is Loveでは『冷たい言葉と暖かいキスをあげるよ』『後ろからそっと抱きつく』『私からそっと抱いてみたの』『咲かせてあげたいの』と何ともまぁ積極的なこと。逡巡する暇もなく既にしてしまっている。『閉ざされてた扉開ける呪文今度こそあなたに聞こえるといいな』まで来ると最早根拠無き希望的観測である。

ただ、この積極性には留意が必要だ。何故ここまでPositiveになれるかという種明かしが、この歌ではがっつり歌われている。

『痛めつけなくてもこの身はいつか滅びるものだから 甘えてなんぼ』

こうである。いつか死ぬんだから、という絶対虚無に立脚した積極性なのだ。これは宇多田ひかるさん心の俳句『雪だるま いっしょにつくろう 溶けるけど』そのままである。This Is Loveで他者にはたらきかけるのはまさに『いっしょにつくろう』だし、『いつか滅びる』は『溶けるけど』だ。なんだかんだで、紆余曲折しながら本来の自身のアイデンティティたる哲学に返り咲いた事を歌ったのがこの曲This Is Loveなのである。

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This Is LoveのLoveが、何故恋ではなく愛なのか。歌詞には『予期せぬ愛』『これは愛かも』と愛は二度出てきて、恋は出てこない。

同曲はULTRA BLUE発売当時配信限定先行シングル曲としてリリースされ、Music Stationでも披露された、いわばアルバムを紹介する、象徴する楽曲であり、同作の1曲目を飾っている。作風としても、恐らく全体の制作終盤に完成した曲なのではないかと推察される。

そこらへんを、歌詞の面から見てみよう。

『震える手』や『支える手』といった描写は、Be My Lastの『何も繋げない手』『掴めない手』と対応しているように思えるし、『うしろからそっと抱きつく人』はWINGSでみつめながら抱きつけなかった背中と重なるし、『閉ざされてた扉開ける呪文』とは、誰かの願いが叶うころで開けられなかったドアが再び出現したようにみえる。

つまり、This Is Loveは、アルバム全体を包括的に眺めて、それぞれの場面で絶望を抱えていた人たちに希望というか前向きな気持ちを与えていく物語なのだ。この曲は、アルバム全体を大きな愛で包んでいる。

恋は一点集中だ。その人しか見えなくなる。愛は、少しでも大きく包み込もうと全体に広がっていく。だから、This Is LoveのLoveは恋というより愛なのである。スケール感大きいそのサウンドから、この曲に込められた大きな愛の力をあらためて感じ取ってみるのもいいんじゃないかな。

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なんだ、スコットランド独立しないのか。つまんないの。

いや、本当はそう思ってはいないのだが、どうしてもこう書き出してみたくなっての。他意はない。

得票率84%強、賛成45%反対55%、160万vs200万という結果だった。政治なので多数決で決めた方に従うのがルールだが、これだけ沢山の人たちが独立に賛成していたのだなぁという驚きと、今後の舵取りを想像しての心配と、両方の感情がわきあがる。いずれにせよ自治とは基礎だ。どこまでが"自"なのかという問題である。概ね平和的に話が前に進んだのなら、よかった。

ウクライナ/クリミアの問題も、こんな感じで平和的に、とはいかなかったのか。幾らかの識者は今度ばかりは西側の旗色が悪いと言っているし、何も言える事もない。興味の有る無しの前に、世界地図を広げた時にクリミアの位置を指で指し示せない人間が何か言える筈もない。

ガザ地区に至っては…いやこの日記は国際問題を論じる場所じゃない。国際問題、なんて言っているが現地の人たちと交流がある訳でもなく、テレビや新聞が取材して送ってくれるニュース映像と文字と写真の記事が総てだ。それについて論じるといっても限界があるし、何より、私に関係がない。

無関心は罪、という風に昔のヒカルならば言うだろうが、今はどうなのかな。人は、どうやって親しくなるかよりどうやって距離をとるかの方が難しい。とりすぎると無知になり不安と恐怖に苛まれるし、誰かと親しくなり過ぎるというのはどこかに敵を作る事にもなる。エルサレム付近がややこしい事になっているのは誰かが悪者だからではない。皆それぞれに言い分があって、何かを主張している。誰が正しい事を言っているかわからないし興味もないし何より武力で解決したがる人間全員に共感が出来ない。でも、もし自分が同じ立場だったら同じように振る舞うかもしれない、とは思う。その場に居て、人間関係に絡めとられて、その上で出来る事なんてほんのちょびっとしかない。虚しい。

だから、同じ立場に居ない以上無責任な感想を持っていようと思う。同感を極めれば本人になってしまう。出来ればどこまでも他人でありたい。いつのまにか他人事になっていく事が、悲しいかな争いを収束させる唯一の方法だ。「それ俺らの世代関係ないからなぁ」と被害を受けた方が言い出さない限りどこまでも報復は続く。他人事ならそう思えるだろうが、自分の大好きな祖父母や親兄弟が被害者であれば無関係だなんて思えない。争いが世代を超えて続くのは、上の世代を敬い、愛しているからだ。それがなくなれば争いは途絶えるだろう。しかし、そんな事が本当にあるかといえば、エルサレムの事を思えばそれは無理なのだろうなぁと推測がつく。前の世代に関心もなく愛情も尊敬もなければ「もうやめようよ」と言えるかもしれないが、明らかに人として大切なものを失っている気がする。その社会は崩壊或いは衰退するだろう。

私の思い描く愛とはそういうものだ。911で家族を失ったアメリカ人が戦争を仕掛けたくなる気持ちは痛い程よくわかる。しかし、それに乗っかった他のアメリカ人たちは何だったのだろうか。あなたたちの家族は殺されてはいない。あなたたちは実際には悲しんでいないではないか。同胞とか愛国心とか、「それは我が事と同じ事」と共感する能力、本来人間にとって最も魅力的な能力だが、こういう風に機能するとこうなる。これがもし他人事だったなら、と未だに思わずに居られない。どちらが本当に残酷なのか、それはもうかなりわからない。何かした方がいいのかもしれないし、何もしなかった方がよかったかもしれない。国家があり、国民性があり、国としてそういう選択をした。ただそれだけの事だし、海の向こうの話だから私には関係ないし、口を出す筋合いもないし、それについてはたらきかけたいとも思わない。ただ、なんだろう、ただ、生きる事が闘争だと言うのなら、人間は増えすぎているし、力が強くなり過ぎている。まるごとごっそり減りかねない。人類が増えよ
うが減ろうが最終的には自分が生き残るか死ぬかにしか関心がなくなるのだが、要するにそういう思考に追い込まれていく全体の流れが嫌いなのだ。それが私の愛の形なんだと思う。愛に対する嫌悪感と無関心。なるほど、最後に「気持ち悪い」と吐き捨てたくなる気持ちもよくわかるよ。アスカの話。

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多分今どこもこういう話題がHOTでないだろうから呑気に書いてみるが、コンサートチケットのフル・オークション販売はなかなか実現しないのではないだろうか。

私はずっと、「自分たちで供給を絞ってプラチナチケット化を促進しておきながらダフ屋に文句を言うのはおかしい。」と言ってきた。供給を絞る事もダフ屋に文句を言う事も別におかしくはないと思うが、両方というのはダブルスタンダード、或いは二枚舌だろう、と。最初から適正価格と適正供給量で売り出していればダフ屋は仕事を失う。文句を言う必要もない。

しかしそれは理想論で、予め需要量がわかっていればこんなにラクな事はない。わからないからメーカーは常に苦労しているのだ。

コンサートチケットの場合解決策は単純で、冒頭に述べたように総ての座席についてオークションを行えばよい。人気の高い席は高値がつくだろうし、そうでもない席はそうでもない値段がつくだろう。一定の期間を設ければ、売り切れるような人気公演は不人気席でも高騰するだろうが。

これでダフ屋はほぼ居なくなる。文句を言う必要も、なくなるだろう。これが実現しないのはシステムが煩雑になりすぎてコストがかかる上にトラブルへの対処が困難で早い話が現行では割に合わない、といったところなのだろうか。一旦整備されてしまえば、それがスタンダードになる気もするのだが。

その昔Utada United 2006では「総ての座席が同じ値段なのはおかしい」として数種類のチケットを売り出した。これは一歩前進だったが、これだけでもかなりシステム的に苦労した事だろう。その方向性を突き詰めるのがフル・オークションだが、やはり道のりは険しいか。

もうひとつの解決策は、実にあっさりしていて、ダフ屋に文句を言わない事だ。確かに法的には怪しいし、自治体によっては明確に犯罪なのかもしれないが、別に誰も困っていない。確かに、通常の商行為ではない為トラブルになった時は問題だが、大人のファンからすれば欲しいチケットが金さえ出せば手に入るという事で便利は便利だ。一体なぜ文句を言う事になったのか、その理由は先に整理しておいた方がいいのではないか。

果たして宇多田ヒカルが復帰した時、どれだけチケットがプレミアムになるかはわからない。話題づくりの為に敢えて条件を絞ってプレミア感を演出するのも戦略としてはアリだろう。その後に転売行為に文句を言わなければそれで済むのだが、ファンの方から「法外な値段でしか手に入らない」と苦情が来るのだろうなぁ。今の御時世、消費者からのクレームには対処しなければならないので身分証明などの方法を設けているが、それも機能しているとは言い難い。運営側としては悩みの多いところだろう。

いちファンとしては「プレミア感演出やめたらー?」以外言う事がない。需要にみあったキャパと公演回数を用意するだけだ。勿論最初は読めないだろうが、何度もツアーするうちに大体の規模はみえてくるんじゃないか。こっちとしてもフルオークションなんていう煩わしい購入方法は面倒なので、ふらっと買ってふらっと入れるようなのが理想なんだが。それでもやっぱり、例えば最前列で観たいっていうファンは多いだろうから、フルオークションの需要はあるのだろうなぁ。結局のところどうすればいいのやら、私もまだまだわからない。

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ケイト・ブッシュが35年ぶりにコンサートを開催しているという事で「4年や5年待たされる位が何だ」と自分を慰めるモードに入ってしまいそうだが、錯覚だからなっ! 4年本職を休むだなんてミュージシャンでもあんまり居ないんだぞ。

とはいえ、1998年以降今年まで17年連続でオフィシャル・リリースがあるのだから、4年休んでいるとは一概に言い難い。ライブ活動から4年離れている、といえばそうだが大方の人はその前も4年、更にその前も4年いやさ6年待ってたのだから、何というか慣れたわ。

こんなペースだから本当にお財布に優しいミュージシャンである。私なんかは本来Passionのシングル盤を10枚は購入していなくてはいけないのに。


さて、イギリスの、ロンドンだったかな、でLIVEを行っているというケイト・ブッシュだが、やはりチケットはプレミアムだそうで、如何にHikaruといえども果たして観る事が出来たのかは怪しい。20世紀のロック系女性シンガーとしてはジャニス・ジョプリンに次いで有名だと言っていいと思うが、取り敢えず日本では明石家さんまの恋の空騒ぎのテーマソング歌ってる人と言った方が通りがいいだろうか。何でも今回の"復活"は、愛息からの助言が大きかった、みたいな話も出ているそうだが、世界中のファンが息子ぐっちょぶとサインを出している事だろう。

掛け値無しに"伝説的"と呼べるシンガーが歌っているのを、しかし、Hikaruが観れたとしたら影響は計り知れない。私が万が一チケットをゲット出来ていたらHikaruに譲っていただろうな。ゲット出来るわきゃないけど。今Hikaruが何処に住んでいるのかは知らないが、ロンドンにもアパートメントがあるのなら何とかして観に行って欲しいものだ。

そしてロンドンっ子の本日の関心といえば、スコットランド独立国民投票だろう。16歳以上に投票権があるときいたら16歳のHikaruはどんな顔をするのかな。

Kuma Power Hourでスコットランド特集(コクトー・ツインズ、ザ・ブルー・ナイル、モグワイ)を仕掛けたHikaruなだけに、興味がない筈がない…というか、ロンドンっ子にとってはこの間まで国内だった所が国外になる訳で、パスポートとかVISAとかどうなるのといった実務的関心も出てくるだろうから否が応でも注目せざるを得ないのだ。元々こういう歴史的転換点イベントは好きな方だろうしそれなりに盛り上がってると推察するが、特に自身のルーツ的な匂いも嗅ぎ取っているとなると、昨日までと同じ土に色の違う旗が刺される事に思う事がない筈もなし。それこそ、久々にMessage from Hikkiを更新するにはいいネタである。


我々の感覚でいえば、沖縄が独立して琉球国に戻ります」みたいな感じなのかなぁ。いや四国か九州が外国になる、くらいに考えた方がサイズ的には近いかな。いずれにせよ多くの日本人にとって「ニュースは囃し立てているけどイマイチピンとこない」ニュースなのではないだろうか。だとしたら、私もだ。どうなるのか、日本時間明日以降の開票を待ちたい。

経済や政治の変化によって、スコットランド、特にグラスゴーから新しい音楽が生まれる、なんて事になったらリスナーとしてはエキサイティングだ。なんだかんだ言って、その時の社会情勢は若者の音楽に影響を与える。オイル・ショックとともに70年代の音楽が廃れ80年代に向けて新たな波が立ち起こったのは偶然ではない。もし独立ともなれば、グラスゴーの若手たちを大きくインスパイアする事件となるんじゃないかな。Hikaruがその中に飛び込んでいったりするのを想像するのも楽しいが、31歳か…ま、歳は関係ないよね(笑)。どうなりますやらです。

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