無意識日記
宇多田光 word:i_
 



で。その『Automatic』冒頭の歌詞なんだけども。

『名前を言わなくても
 声ですぐ分かってくれる』

こうやって今振り返ると、あれ?これってもしかして「音楽家姿勢宣言」としても機能してる?? つまり、名前が売れて有名(“名が有る”と書きますね)になってそれに価値がある人になるより、声~歌声や音楽そのものを耳にして私だと思って貰えるようなそんな音楽家を目指しますというかそもそもそういう人なんですという、そういう宣言だったりもする??

後に『BLUE』で

『栄光なんて欲しくない
 普通が一番だね』

と歌っていたし『君に夢中』では

『栄光には影が付き纏う』

とも歌っていた。栄光と大体同じ意味の言葉といえば「名誉」、誉れ有る名だ。富、名声、この世の総てをそこに置いてきた…とかなんとかどこかのヒゲ生やしたおっさんが言ってたけど、ヒカルの総てに名声はそんなに重要じゃないみたい。

勿論ヒカルはそんなつもりでこんな作詞をしたんじゃないだろう。しかし、その後の生き方に再定義されるのが詩の、歌詞の真骨頂であるというのは宇多田ヒカルの歌詞世界の基本中の基本だ。自己予言的な性質を持つものなのだ。ヒカルの生き方を振り返った時に、名前を遺すより声を、歌を、音楽を覚えていて欲しいと祈ってきた事がこの「最初の歌詞」に後から意味を植え付けていく。それが言葉の不思議でもあり本来でもある。

なので、その、「名誉」という言葉ではなく「栄光」を二度も使ってるのは何か示唆的な気がしていてな。言葉に「光」の文字が入っている。「光が栄える」という字面は寧ろヒカルにとって喜ばしいものなようにも思えるこの言葉。しかし一方で件の『BLUE』では『遅かれ早かれ光は届くぜ』とも歌われている。「夜明け」のモチーフもまた、「光」が希望として機能していることの顕れだ。この二面性も更なる未来で回収される気がしている。『君に夢中』で使われたばっかだしな。

そういえばその『BLUE』では音楽は『希望が織り成す』ものとして描かれている。ならば『全然なにも聞こえない』というのは絶望に他ならないだろう。暗闇と光、希望の音楽と絶望の無音。その狭間のどこかにある「栄光」。迷うヒカルと最初の所信表明。あれから24年とか17年とか経ってるけど、まだまだ物語は途中も途中、『90代はここどこ?』まで見据えるなら全然前半いや序盤とすらいえる。ここからもずっと「わからない」を大事にしていこう。そのうち『時間がたてばわかる』のだから、ね。

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世の中の言葉の変化に翻弄されるだけでなく、逆に世の中の言葉を「変える」力を持ってるのも流行歌を歌う音楽家の特徴で。

ヒカルの場合はそれがデビュー曲の『Automatic』だったんだな。これは「変えた」というより「割って入った」という方が適切かもしれない。それまでは“Automatic/オートマチック”といえば自動車の「マニュアル/オートマ」の文脈くらいでしか使われなかったがこれをその時代の若い世代のラブソングのタイトルとして浸透させたのは凄かった。(っていう文章を過去何度読んだ/書いたことか…)

つくづく、変なタイトルだ。「自動的」という、機械に使うような単語である。或いは人間に使う場合は「無意識的」という当日記にとって大変美味しい訳語が手に入る事もあるが、残念ながらこれは「無意識日記」の本来の定義からは外れている。「意図したわけではないけれど結果的に日記になった」というのが本来の主旨であり、意図の有無或いは方向性の無自覚についての無意識であって書く事自体は全く自動でも何でもない。自動書記ならオートマチックかもしれないけどそれとは違うからねぇ。

そんなタイトルでデビューしてきたというのは度胸があるというか何というか。そもそものデビュー曲第1候補だった『time will tell』からしてチャレンジングだ。何しろ「時間がたてばわかる」という歌詞を、ミュージシャンとして最も時間のたってないデビューというタイミングで歌ったのだから! こんな凄い「自信満々宣言」あるだろうか。当然1998年12月9日の時点では直後の大ヒットは想像もつかなかった筈だし。「10年かけて100万枚売る」とかなんとか言ってたらしいからね当初。それでもその才能は、ヒカル自身は勿論三宅さんや沖田さんや梶さんも疑わなかった。親バカ2人は言うまでも無い。(褒め言葉!)

そこに輪を掛けての『Automatic』である。『time will tell』と併せると

“time will tell automatically”

になる。「時間がたてば自動的にわかる」。日本語としての自然さを優先して訳すなら

「時間がたてば自然にわかるよ」

とでもなるだろうか。誰に強制されるでもなく、宇多田ヒカルの真価というのは自然に浸透していくでしょう、というのがデビュー両A面シングル2曲のタイトルで示唆されていたかのようで何とも象徴的である。

『time will tell』は英語だけならまだしも歌詞にダイレクトに『時間がたてばわかる』という文言が入っているのが特徴的だが、そういえば『Automatic』の方も冒頭のヴァース部分でまず

『名前を言わなくても
 声ですぐ分かってくれる』

という一節が出てくる。『わかってくれる』。デビュー曲2曲共に「わかる」という単語が重要な役割を果たしているのはきっと偶然ではない。後に『誤解されると張り裂けそうさ』と『For You』で切々と歌うことなどからもわかるとおり、ヒカルは「わかる」という言葉に格段の価値を置いている。だからこそ、その理知的な価値観を越えてくる恋愛感情の機微を歌うのが得意だともいえ、それは『Automatic』に始まり『time will tell』を中心に据えた1stアルバム『First Love』のラストを飾る曲のタイトルが『Give Me A Reason』/「わけをくれ」という名で、その最後の曲の更に最後に『ホントはわけなんていらない』と言い放ってアルバムの幕を引くという全体の構成からも明らかだ。「わけがわかる」ことと「恋」を行ったり来たりしてこの作品が成立していると言っても過言ではない。


そうして24年の時間が経って、我々はますますヒカルの成長と進化の真価の程に驚かされるばかりで、いつも新しい曲が発表される度に「わけがわからないよ!」と戸惑わされているのでして…流石嘗てプロフィールの特技欄に『惑わすこと』と書いてた人だけのことはあるわね!

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前回した話の要点を細かく言い直すと、「同じ言葉の意味が違ってきた場合」の話なのだこれは。


例えば『Automatic』には他にも

『七回目のベルで受話器を』

という歌詞が登場する。今の若い人は「受話器」という単語を知らないかもしれない。だが、それだけだ。知らない人は「なんかよくわからんことを歌ってる」と思うだけで、もし知りたいなら検索すればいい。目で読めば漢字で大体想像がつくかもしれないし。

だが『computer screen』は違うのだ。まだ目の前にそれはある。しかし、液晶のタッチスクリーンとブラウン管では歌詞の解釈が異なってしまう。危惧する点はそこなのだ。その言葉なら知ってると安心して本来の意図とは違う解釈を何の躊躇いも無くしてしまう可能性が出てくるのですよ。

ヒカルさん本人もこの間「むしろ歌詞とはそういうものだから」と歌詞の言葉が古びる事を肯定的に捉えてはいたが、それはあクマで言葉の意味が変わらなければ、だろう。PHSもblackberryもNetflixもUber EATSも、知らなければそれはそれで済む。ブラックベリーを果物だと思ってしまうと不味いかもしれないけれどね。ともあれ「その頃の風景」を表す言葉であると捉えて貰えればそれで十分だしそれはどの時代にも可能なことだ。

ところが、時代が下るにつれ同じ言葉に違う意味が付与されていくとなるとこれは話が変わる。「わからない」と思われるのならまだいいのだ。そこで終わるから。でも、あたしも今までいろんな人と関わってきたけれど、最も厄介なタイプのひとつに〔「わかりました!」と元気よく返事するけれど実は何も理解してない人〕というのがあってだな…「なんのことだかさっぱりわからん」という人は余計なことはしないけれど、自分が理解していると誤解している人間は自信をつけてしまってるが故に行動に遠慮が無くなるのだよ…って何の愚痴だこれ? …いや、そう、「わかってないとわかってる人」なら無害だが「わかったと誤解した人」は始末に負えない、とそういう話ね。

なので、ここからヒカルの歌詞を誤解してるのにそれに気づかない人が出てきたらコトだぞとそういう危惧を想定して前回の日記を書いたのだ。


実際、それこそグリム童話なんかは時代に合わせて内容がアップデートされていってるから、そんな中で「シンデレラ」のストーリーが何らかの形で改変されたりなんかしたら『Movin' on without you』や『Find Love』の歌詞が誤解されたりするかもしれないのよ。

もっと極端な妄想をすると、喫煙が(実際に施行された禁酒法みたいに)違法行為にでもなったら、

『最後のKissはタバコのFlavorがした』

の一節なんか「歳上との初恋」の意味な筈なのに「犯罪者との恋」とかになってしまうからね…ああいや、元の歌詞も、もしかしたら「背伸びした同級生」って解釈もアリかもしんないけどね…。


という感じで、世相や技術の進歩や道徳の変化などで、同じ言葉の意味が変遷して歌詞の響きが変わってしまうだなんてことは幾つも有り得る。そうならないように先手を打てればいいなと。

でもまぁね、そんなことを考えられる位に長いキャリアを歩んできてくれてるんだなとも言えるわけでね。それについては大きな感謝をもってこのあと続いていく「25周年記念イヤー」を味わっていきましょうぞ。

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24年も経つと世の世相も移り変わり今からヒカルの昔の歌を初めて聴く人、特に若人は歌詞の解釈が違ってきそうよねあたしみたいなリアルタイムで通過してきた人間と較べると。


かの有名な『Automatic』の2番のサビの歌詞なんて象徴的だろうな。

『It's automatic
 アクセスしてみると
 映るcomputer screenの中
 チカチカしてる文字
 手を当ててみると
 I feel so warm』

いやもう、ほんとニュアンスが変わってしまったというか。1998年当時はね、部屋に置いてあるパーソナル・コンピュータというのは時代の最先端で(NECがキットを発売してから20年近く経ってたけどね)、Window95登場以降漸くインターネットをする人口が揃ってきたかなという程度だったのだ。そんな中その「最先端機器」であるところのコンピュータというのは一般庶民には理解し難い存在できっと我々の素朴な不安とかわかんないだろうなという意味も込めて「冷たい機械」だという風に捉えられていた。そこにこの歌詞が現れたのよ。「ちょっと待ってよみんな冷たいっていうけど画面触ってみ?暖かいよ?」という物質的五感的感触と、「インターネットで繋がった人との言葉の遣り取りで心が暖かくなる」という(当時は)現代的且つ大変情緒的な感慨を掛け合わせてこの『I feel so warm』の歌詞が出来上がっていたのだ。時代の最先端の感覚のほんのちょっと先を15歳の少女が見事に歌い上げた。俵万智のサラダ記念日もかくやという位、単なる歌謡曲というだけでなく詩歌としての価値も見出される程だったのだ。

しかし今はどうだろう。そもそもお家にパソコンが無い。学校や職場でしか触らない子達も多いという。毎年パソコンの出荷台数減少のニュースを耳にする。大体タブレットとスマートフォンで事足りてるもんねぇ。そんな御時世ではまずお家のパソコンでインターネットをして人と繋がるという行為自体がレトロだろう。更に、「画面を触ると暖かい」というのはもっとレトロだ。パソコンは家に無くても触ったことならあるよという人も、モニター画面は液晶か何かで熱なんかまるで持っていない。そもそも今の子達にとって画面ってタッチスクリーンで「触るもの」である前提なのでもし暖かかったりしたら「熱暴走かな?」「負荷を掛けすぎたか??」みたいな風にトラブルの端緒という印象を持つんじゃなかろうか。間違っても「昔のモニター画面はブラウン管といって電圧を掛けて電子線を画面にぶち当てる方式だったので画面が熱を持つものだったのよ」という“あの頃の常識”には辿り着けないだろう。

そう、最早『Automatic』の歌詞は、「パソコン」と「ブラウン管」という2つのレトロを知らないと意味のわからない歌詞になってしまったのだわ令和現在。

これが『Movin' on without you』の『枕元のPHS』のようにほぼ完全に終焉を迎える技術の単語であれば「全く知らない」ので検索するなり自分で意味を勝手に想像するなりで完結してくれるのだが、『computer screen』という単語はまるっきり知らないものとまでは言えないから、検索も想像もせずそのまま解釈しようとするかもしれない。そうなるとこれが本来は「デスクトップパソコンのブラウン管」であるところを、「ノートパソコンの液晶タッチパネル」だと誤解してそのまま『I feel so warm』に込められた小洒落た情緒をスルーさせてしまう恐れがある。これは大変勿体ない。

そもそもブラウン管でないと文字がチカチカしたりしないんだが昨今のWeb広告は動画が多くて文字をチカチカさせたりする事結構あるからな~深夜の静かな暗い部屋で「チカチカしてる文字」をみるときの寂寥感とかまるで伝わらずに「なんか煩わしくアピールしてくる広告か何か」と誤解されたら目も当てられない。そこまではいってないと信じたい…。

こういう由々しき事態が起こり得るのがベテラン・アーティスト/作詞家の宿命なのだ。だからこういった「当時の世相を振り返りつつ歌詞を解説する」タイプの新しい『宇多田ヒカルの言葉』シリーズの刊行もそろそろ計画していい時期かもしれないわねぇ。

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アラフォーの、じゃなかった、かつてアラサーだったヒカルさん、最近は請けるCMも年齢なりというか大人の女性らしいイメージをもったものが増えてきた。資生堂にカルティエに…CMじゃないけどこないだはパリコレにも行ってたわねぇ。中年男性としてはこういったコラボが増えてくると疎外感というか単純に関連店舗で何か連携企画があってもおいそれとは訪問できない気分になってしまうというのがあって(なのでいつも帯同してくれるご婦人には頭が上がりませんのすけ)、今後更に増えたらどうなることやらと感じてたのだけど、そのパリコレ行った疲れを癒す為に息子と猫カフェ行ってきた報告してくれてて、ほんとこの人は優しいわねぇぇぇと涙ぐんでましたですわ。ファンの中にはこういうおっさんも居るってわかってくれてるから、親近感を齎すネタをわざわざ投下してくれてまぁ。

コラボ相手次第での疎外感、というのであれば宇多田ヒカルの場合結構紆余曲折を経ているというか。デビュー当時は「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌を将来歌うと言われてもシリアスには捉えられなかっただろう。アニメ作品とJ-popアーティストとの距離感というものが現代とまるで異なってた。名探偵コナンやスラムダンクやるろうに剣心のようなゴールデンタイムのメジャーな作品なら兎も角、テレ東で夕方にやってたロボアニメ(と呼ぶと昔からマニアに怒られる)で最終回の納期が間に合わなくて破綻した作品なんて全くお呼びじゃなかったというか。何度も「non・no」の表紙を飾った10代女子歌手とはまるで関係のない世界だった。その頃は出るCMもMDとか携帯電話とか、もっとポピュラーなものだったしな。

しかし、それも『Beautiful World』がリリースされる2007年頃迄には随分変わっていてな。表紙を飾るのは「Casa BRUTUS」とか「Invitation」とか「ビッグコミックスピリッツ」とかになり、タイアップも「キングダムハーツ」に「ニンテンドーDS」にと少しずつインドアな方に傾いていった。エヴァの主題歌を担当すると聞いてもそこまで違和感はなかったのだそうなってきた頃は。いや、勿論J-popアーティストのトップクラスがコアなアニメ作品とコラボレーションするというのは真にエポックメイキングではあったのだけど。

…と、いう変遷を経て間もなく四半世紀。はてさてこの「宇多田ヒカルのイメージ」はどちらに向いていくのやら。案外まだアピールされてないのは「ママとしての宇多田ヒカル」よな。息子とCMに出るとかでなくても、子育て奮闘記を披露するだけで全くイメージが変わるだろう。そういう雑誌、そういう媒体の取材を受け始めたらCMとかまでもうすぐやよね。

他にも、「サントリー天然水」のCMに出たことでアウトドア系の何かに発展するかなぁとも思ったけど、こっちあんまり歌がどうのってならないかも?? 全く不案内なのでわからんわ。

という感じで全くここからの未来が読めないのだけど、ひとつだけずっと続くだろうコラボレーションがあって。それは、勿体振っていう必要の全く無い「音楽関連」のコラボレーションだ。ワイヤレスイヤホンを例に取るまでもなく、MDやらレコチョクやら、音楽に関わるCMや連携は今後もずっと途切れることはないだろうね。なので、色々と疎外感を承る機会は今後もあろうかと思うが、我々は「音楽ファン」で居続けたら未来もずっときっとどこかでまたヒカルさんのコラボレーションを素直に喜べる時が来る訳なのです。そこだけは押さえとけばいい。年齢とか性別とか人種とか云々とかとかに関係なく、ね。それ以外の時は「たまには不案内な業界のことを知るのもいいかな」くらいなリラックスした態度で臨んでおけばよろしいんじゃないでしょーか。

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アンサーソング以外でお馴染みの作曲シリーズといえば「Fで始まってeで終わるタイトルの曲」シリーズがあるわね。

『First Love』
『FINAL DISTANCE』
『Flavor Of Life』
『Forevermore』
『Find Love』

私としてはここに『Prisoner Of Love』も入れたいところ。ってイニシャルFやのうてPやんけ!ってなるのでカタカナで揃えて書いてみると

『ファースト・ラブ』
『ファイナル・ディスタンス』
『フレイバー・オブ・ライフ』
『プリズナー・オブ・ラブ』
『フォーエバーモア』
『ファインド・ラブ』

となっていい感じ。(完全なる自己満足)


さてこのシリーズだけど、もしかしたら直近の『Find Love』で打ち切りになるのでは?という気もしている。というのも、昨年末このシリーズの元祖である『First Love』がリバイバル・ヒットしたからね。そして今年、非常にリラックスした、プレッシャーから解放されたかのような『First Love (Live 2023)』がリリースされた。それに伴い「Fで始まってeで終わる」という“宿命”みたいなものからも解放される事になるのでは、と考えられるんだな。つまりヒカルが意図的に辞めるとかそういうのより、自然に終わるんじゃないかなと。つまり、このシリーズは

『First Love』
『FINAL DISTANCE』
『Flavor Of Life』
『Forevermore』
『Find Love』
『First Love (2022 Mix)』
『First Love (Live 2023)』

で一旦の区切りをみるんじゃないかな、とそう予想するのでありましたとさ。いうてて次の新曲がF始まりe終わりだったら笑うんだけども!

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『BADモード』関連のプロモーションが落ち着いてきて関心は少しずつコンサートや新曲に移る時期。しかし四半世紀にならんとするキャリアを持つ音楽家ともなると新曲といっても様々なバリエーションが有り得る。

最近少しずつ目についてきているのが「過去の楽曲へのアンサーソング」だ。『誰にも言わない』は『Can You Keep A Secret ?』への、『キレイな人(Find Love)』は『Movin' on without you』への、それぞれ20年以上を経たアンサーソングとなっているのは御存知かと思われる。

それは年月を経た為或いは年齢を重ねた為に同じテーマでも感じ方や考え方に幅が出てきたというか一言で言えば大人になったから歌えることが増えてきたというか、それこそ例えば「シンデレラ・ストーリー」というモチーフに対する捉え方がどう変わったかというのは象徴的だわね。

宇多田ヒカル自身を「シンデレラ・ストーリー」の主役とみるのは少しばかり違和感を伴う。母親が藤圭子だからだ。庶民が王族に取り立てられる物語というより、王位の継承に近い。ただ、ほぼ全く実力のみでそれぞれに「日本市場最高記録」を打ち立てた物語は二代続けてのサクセス・ストーリーとも言えるのでシンデレラと言えなくもないというか。結構微妙な二人だなこの親子は。

そんなヒカルさんが『12時の鐘に怯えなくてもいい』と歌ってくれるのはパイセン時代ならではの頼もしさに溢れている。その視点でみたとき、次にアンサーソングが作られるのは昔のどの歌になるだろう?などとふと思い。

私はそろそろ『Another Chance』がイジられるんじゃないかと思うんだが。あの曲の独特のロマンティシズムは最近のヒカルさんにはあんまりないものでは? 『夢からさめた時に君がそこにいてくれたら何もいらない』とか『二人でいれるなら強くなる』といった歌詞は、いや既に『もしも願い叶うなら君の側で眠らせて』と『Beaitiful World』で答えてくれてるとも思えるけれども、直近の『キレイな人(Find Love)』で『最高なパートナーなら一人、いるじゃないここに』と歌ってる以上、もう全然違う切り口で夢からさめてくれるんじゃないかと思うのね。『12時の鐘』ってのは魔法が解ける合図なのだけど、それは「夢からさめる」合図という解釈も出来るしな。ヒカルさんはてっぺん越しても夜中の3時AMに朝の4時まで起きてたんだから…って最近はこどもも居るし早く寝てるか!?

という感じで『Another Chance』のアンサーソングなんかを今後は期待したいのだけど、すぐ隣に『夢から覚めた後にまた眠りたいよ』っていうやる気があるんだかないんだかよくわからない『はやとちり』の歌詞が浮かんできていやこの皮肉っぽい感じも今歌ったら大分違いそうだよねぇぇ、ってなってます。ヒカルさんの眠ったり夢見たりの歌詞はどれも興味深いからねぇ。何れにせよアンサーソングシリーズ、今後もどんどん取り組んでくれるとオールド・ファンが喜びますよっ!

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そっか~『Laughter in the Dark Tour 2018』の詳細発表は5年前の今日か。日程は11/6~12/9だったからまぁ年内に全国ツアーやるとなるとこれくらいの発表でもギリギリだわね。ということで想像つくでしょうけど今年中の全国ツアーの芽はほぼほぼ無いって感じだね。

とはいえ、スペシャル・ライブ的なモノは望みを捨ててはいけないわ。2004年の『ヒカルの5』はライブ開催の初告知が2003年12月8日でライブ初日が2004年2月3日だったんだからその間僅か2ヶ月足らず。たぶんこれが最速というか最短間隔だと思うが、こんなんでもアリなのだ。20年前と今では興行を取り巻く環境も変わっているけどね。

全国ツアーとなると過去24年のキャリアの中で3回、+英米ツアー1回の宇多田ヒカル/UtaDAだが、特別企画のライブ・コンサートなら結構ある。1999年は4月に大阪と東京でデビューライブの『LUV LIVE』、同年8月には武道館で他のアーティスト達と共に『爽健美茶ナチュラル・ブリーズ・コンサート』に参加、2001年夏には『MTV UNPLUGGED』もあったわね。これはテレビ番組だけどオーディエンスを一般募集したからねぇ。それを考えると2008年3月の「Music Lovers」のテレビ収録も歌った曲数を考えると普段のテレビ出演とは違ってたかもしれないね。

他にも先述の2004年2月の『ヒカルの5』や2005年2月のUTADAのショウケースなどもある。

また、全国ツアーに付随したスペシャル・ライブなんかも結構あるのよね。2000年6月には後に『For You』『タイム・リミット』のPVにもなった『Bohemiam Summer 2000』のウォームアップギグをシークレットで渋谷のライブハウスで敢行したし、2006年7月には『Utada United 2006』の一環として大阪のライブハウスで『One Night Magic』の名を冠してこちらもシークレット・ライブを開催、ツアーへの興味を盛り立てた。それを言うなら『Laughter in the Dark Tour 2018』での「大山開山1300年祭記念」公演も特別な一夜だったわね。勿論、2010年の『WILD LIFE』の二夜も忘れちゃいけない。そう、スペシャル・ライブって結構あるのよ。そして直近では丁度大体1年前のコーチェラ・フェスの電撃出演だわな。あれはホントに寝耳に水だった…。

更にオーディエンスを入れないタイプまで数えると『20代はイケイケ!』『30代はほどほど(はぁと)』『40代はいろいろ♫』に『Be My Last』『'05以上'06未満』『『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios』…とキリが無くなってくるので今回はカウントしなくてもいいけれども。


という感じで、日本全国ツアーは3回のみでも、宇多田ヒカルさんって結構企画としてはライブやってんのよ。絶対的な本数は相変わらず少ないけれど。なので、「あー今年はもうライブなさそうなのかぁ」ではなく「あー今年中のツアーはないのかぁ」という嘆き方の方がより適切なのでござる。スペシャルなライブの告知はまだまだこれからいつ来るかわからないので耳をほんのり欹てておこう。なんつったって今年はデビュー25周年記念日を迎えるわけですからねヒカルパイセンも!

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たまにはヒカルパイセンの書く長文が読みたいなとふと思ったり。


喋りの供給ペースは最近結構豊富だったりする。毎週ラジオやってた頃には敵わないけど、今はたまにインスタライブやってるからね。昨夏はテレビ出演も複数したし、それに加えて『40代はいろいろ♫』でもタップリ喋ってくれたからかなり非常に満足な私。今のヒカルさんの喋りはこんな感じなのねというイメージはしっかり出来上がっている。

翻って書き文字の方は非常に少ない。Instagramは非常に頻繁に更新してくれているけど基本は写真投稿だからねぇ。大昔は『Message from Hikki』というのがあって(という紹介の仕方がそろそろ違和感なくなってきたぞ恐ろしい…)、時折何千字というスケールで文章を書いていてくれたからそれこそ貪るように…いやしゃぶりつくすように?(似たようなもんだろ)読んでいた。お陰でヒカ語訳なんて呼び方までされたものだ。

だけどあそこはもうエピックソニーになってから全然使ってないからねぇ。温情で置いてくれてあるというか。嘗てはレコード会社に対して中立なU3MUSICのウェブサイトに置いてあったんだけどそれも無くなってしまったしな。うーむ。

ヒカルさんはいつか小説家/作家デビューすると信じて疑わない私なのでその時になったら隅から隅まで「宇多田ヒカルの書く文」を堪能させて貰うつもりだけど、そこに到る為の肩慣らしにでもどこかに短文エッセイでも書いてくれないかね? 大昔には「mc Sister」という雑誌に直筆含む連載を1年間持っていた事もあった。「40代を迎えた宇多田ヒカルが綴る日々のエッセイ」とかあたしらでなくても読みたいって人結構要ると思うんだけどどうだろっかね??

まぁ内容に悩みに悩んで原稿を落とす未来も見えなくはないので雑誌連載というのでなくてもいいんだけどね。Webで不定期連載を持ち掛けるとこがあってもいいような。音楽以外のテーマでもいいんだし。嗚呼、書評とかもアリかもねぇ。この間もフィリップ・ガストンとアニー・リーボヴィッツの著作をInstagramで紹介していたし、普段から本は読んでいるだろうからそれを紹介したい欲もあるんでないかい。別に今読んでる本でなくても、例えば二十余年を経た今遠藤周作の「深い河」についてどう思うか?なんてテーマも興味あるわ。ポーの「大鴉」とか。歌詞の題材にした作品についてあらためて語ってくれるとかワクワクしちゃうぜ。

それにヒカルさん、将来小説を書いたら当然それを実写化させてくれ的なオファーが来る訳ですよ。そうなったら、主題歌も自分で歌うかもしれないですよ!? そうなった時の為に、ということでもないけど、自分の歌の餌食にしてきた(言い方)文学作品を振り返っておくのは結構有意義なんじゃあないでしょうか。相変わらず気の早い話ではありますが。

差し当たって今それなりのサイズの文章を投稿できるのはInstagramなので、少しずつそこに文字を投下するようにしていってくれれば有難いんだけど、そうよね今のご時世、何を書いても炎上の火種になりかねないから厳しいんだよねぇ。今までこんなこと考えたことなかったけど、有料のメルマガとか作った方がいいのかもしれないねぇ…無料だと晒されちゃうかもしれないからさ…え?電子メールも憲法第21条第2項の「通信の秘密」の「通信」に該当するの?そう、なら無料でメルマガ配信してもいいのかな…悪くないわねぇ。でもなんかちょっと違うのかもしれないね。何れにせよ何らかの方法が浮かんでくる事を祈っております。

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斯様に「なんとかリアリティ」の技術発展は盛んだが、ではその真似される方の「リアル」とは何なのかという話はなかなか記事になっていない(=一般の(って何なんだろな)リスナーに届いていない)。

よくあるのが「まるでライブハウスやコンサート会場に居るみたい」という比喩だ。それこそがバーチャル・リアリティの真骨頂だみたいな感覚で。しかし、それホントに“実際に”ライブ会場で聴ける音なの? 違うよねぇ。

特にホール以上(アリーナやスタジアム)では良い音というのは滅多にお目に(お耳に?)かかれない。ドラムやギターの音が大きすぎて歌が聞こえづらいとか、残響のせいで何喋ってんのかすらあやふやだとか、そんなのばっかである。数こなせばそういうのの少ない良席に巡り会える事もあるけれど、みんなそこまでコンサート行かないよねぇ?(知らんけど) これでもこの数十年で凄く改善され進化してるんだけどね。

なのでそういう「現実」を忠実に再現してもマニア以外にはニーズが無い。あるのは「もし特等席で聴けたら」という特殊な設定の場合のみだろう。なのでそう書いた方がいい気もする。

これが総て生楽器ならそれで済む。立体音響の位置情報も十全にその価値を発揮できる。しかし電気楽器、電子楽器が絡むとどうなるか。それらはスピーカーから出る音が「最初の音」だ。それは必ずしも演奏者の居る場所から出る音ではない。それを真似してさて何がリアルなのか?を考えるとよくわからなくなってくる。

生楽器のドラムサウンドも、スピーカーで増幅された場合の「リアル」って、何? 右端のハイハットと左端のスネアドラムの定位をスタジアムクラスで再現したら例の「巨人の演奏」になってしまう。迫力はあるだろうけど、これは「リアル」なのだろうか?


…とかとか様々な懸念はあるが、多分我々が関心があるのは「如何にヒカルの歌声を身近に感じられるか」だろう。まるで目の前で宇多田ヒカルが歌っているように感じられたらそれがバーチャル・リアリティのいちばんの魅力になる筈だ。極論すれば、そこさえ達成されていればバックの演奏がどうなっていようが構わない。

それを考えたときに、さて今回の360RAと以前の3DVR、どちらがよりヒカルを身近に感じられただろうか? 勿論両者が組み合わさればいちばんいいのだが(って何度も言ってきたから言うの飽きてきたな…)、現行片方ずつしか実現していない。…そうね、まぁそこの感想は各々に委ねるか。

だがマニアは先に踏み込む。ヒカルの姿を目の前に身近に感じるのも勿論素晴らしいが、「脳内を覗けたらもっといいのでは?」と考えてしまう。危ないヤツまっしぐらだが、「ヒカルの思い描いたとおりのサウンド」が聴けたらそれが一部実現する事になると解釈してもいいよね、と。

なのでそこから先はヒカル次第と言いますか。ヒカル自身の感じる「リアル」とは何なのか。そしてそもそも、ヒカルは「リアル」を伝えたいのかどうなのか。ここは訊いてみないとわからない領域だわね。

目下、私にとっていちばんの「宇多田ヒカルのリアル」は『気分じゃないの(Not In The Mood)』だ。実際にヒカルの私生活に起こったことをヒカルの書いた歌詞と曲で、その歌声で表現して送り届けてくれたもの。徹頭徹尾宇多田ヒカルが染めた何かで出来ている創作物。脳内や肌触りやヒカルが見た景色や感じた感想や感情や、そういったものが総て込められていて、極端にいえば単に私生活のドキュメンタリーを映像化したものよりもずっとヒカルの「リアル」がそこにある気がする。「リアリティ」とは斯様に複合的で多岐に渡り豊かなものだ。そしてこの歌をライブで演奏してくれて自分がそこに居合わせられたとしたらそれこそがもっともリアルな宇多田ヒカル体験になる気がする。いや勿論、息子や友達たちみたいにヒカルと目を合わせて会話してる人々の感じる「現実の宇多田ヒカル」像には敵わないのですけどね。いちリスナーとしての話です。

そこまで踏まえた上で「バーチャル・リアリティ」とは何なのかと考えたときに、いやこの道は先がまだまだ長いな!と痛感したのでありましたとさ。何もかもまだ始まったばかりなのですわ。

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SONYストアで360RAを体験してきた。いや~音の良さって際限がないのかね? スピーカーから流せるサウンドってますますクリアになってるな。メタルテープだCDだHQだBlu-rayだハイレゾだと高音質音源に触れる度に「もうこれ以上は無理だろ」と毎回思ってきたのだがそれでも少しずつではあるが音作りって改善されていく。「13.1個のスピーカーによる抜群のサウンドで宇多田ヒカルの歌が聴ける」事に少しでも関心があり近場に住んでいるんならまず行ってみて損はないだろう。タダだし、あの様子だと直前でも席あるんじゃないかな? まずは問い合わせてみてほしい。


とまぁそれが第一印象だったのだが、ここから「立体音響」という枠組で物事を考え始めると途端に「課題だらけ」という現実にぶち当たる。まだまだポテンシャルを活かしているとは言い難い、というのが率直な感想だ。第二印象、になるのかな? 裏を返せば、まだまだここからよくなる可能性が満載だということだ。なお良くなるのかスピーカーのサウンド作りって! 未来が楽しみだな。


で。まず、立体音響以前の問題だったのが─前回の『Laughter in the Dark Tour 2018』視聴会(同じくSONYストアでの)でも同様だったのだけれど─、映像と音声の同期がよくない点だ。要は音と口がズレてる。それが立体音響と何の関係があんねんと言われそうだが、音声に空間位置座標が付与されているという事は、音源が動いた場合に音の座標もそれに伴って動くわけでそこがズレると結構目立ちそうなのよ。末端の再生環境に左右されない同期の方法を見出さないといけないんじゃないかコレ。ゲームってそこらへんどうやってんだろね? 全然知らないや。いやでも立体音響は置いておいても口と音がズレてると途端に映像のリアリティが落ちるのでどちらにしろ要改善なのは変わりが無いわな。

そして、差し当たってメインの課題は「リズム隊のミックス」だ。まずはドラムの話から。

シアタールームではスピーカーが前面に9つ(とサブウーファー)、後面に4つ設置してあるのだがそれぞれ部屋の中央までの距離は3~5メートルってとこか。結構近い。視界にすると400人規模の映画館七列目で銀幕を見上げてる感覚かな。…わかりにくい!(笑) 普通に80インチくらいのスクリーンサイズとか言えばいいのか。まぁそれも置くとして。

その見上げる広い視野を目一杯使ってドラムサウンドが視界全体に拡がっているのだ。お前名前を「サンロクマル・リアリティ・オーディオ」と言ったな? なのにリアリティの欠片もないぞお前のドラムサウンド?? 目の前で人間にドラム演奏して貰った事がないのか? まるで5メートル級の巨人(ワンピースの世界では8メートルを超えないと巨人と呼ばないそうですがそれもまたまたさて置いて)が演奏してるみたいだったぞぃ。5mの巨人のドラムをバックに歌う158.9cmの宇多田ヒカル…なかなかにシュールだな!(笑)

或いは、各太鼓を別々の人間が叩いてる様を想像してしまった。ただひたすらひとりで黙々とハイハットでリズムを刻む人や、ドラムロールまで待機しているタム係…うーん、オーケストラのティンパニやトライアングルみたいな感じだろうか。兎に角、「まるで目の前で一人の人がドラムを叩いてるみたいだ!」とはならなかった。もっと人間サイズにおさまってるもんだよ生のドラム音って。

嗚呼、ただ1箇所、こんな風に聞こえる場所があるわ。ドラマー本人の座ってるとこだ。いやぁ、確かに彼女たちならこんな風に聞こえてるかもしれないが私あそこに座った事が無いのでわからない…というかそれって360RAがやりたかった事と違うよね?? あクマで聴衆が聴く「目の前で演奏してるみたいな音」を目指してるんだよね??

恐らくヘッドフォンで聴く事が前提の録音だったのだろう。なるほど視聴会の後にストアのウォークマンで同じ音源を聴いてみたら何ら違和感はなかったわ。それを13.1個のスピーカーで聴いたらあんなことになるのねぇ。

まぁこの課題は各キットの位置情報をイジればいいだけなので早々に改善されるだろう。ただ、ミックスをヘッドフォン用とスピーカー用で分けなきゃいけないとしたら難儀だよね。そこは再生機器との連携で自動的に切り替わるようになって欲しいところ。課題点満載だな。


次に、ベース・サウンドだ。これも自然さとは程遠い。音質自体は抜群に良かったけど。ちょっと音が大きすぎたのかもしれんな。普段は私ベースサウンドはデカければデカいほど大歓迎なので課題として「ベースの音が大き過ぎた」だなんて口にすることはまず無いのだけれど、ここは「立体音響で位置座標を正確に決めて再生する」サウンドを目指している場だ。そういう場所では強過ぎる低音というのは仇となる。

というのも、音って音程が低ければ低いほど「膨らむ」ものなのですよ。低い音ほど定位が曖昧になって音の出所がわかりにくくなる。なので低い音は部屋全体がボーンと響いてる感じになるのだが、ここで360RAが音源の位置情報を持っている為、ベースが高めの音を出すと途端に音の出所が"判明"するのだ。あらそれっていいことじゃない?と一瞬思うとこだが、ひとつの音だけ高いのならそれでもいいけれど、ベースラインというのは往々にして高い音から低い音まで連続的に音程を変える。そういう時、下からせり上がってくる音程は徐々に音の場所が定まっていき、上から下りていく音程は徐々に位置があやふやになっていく。そういうもんだと思って聴けば何の問題もないけれど、あれそれって360RAが目指してたことだったの?となるとちと心許ないなぁ。意識して聴くとかなり奇妙な印象を残すんですよ、えぇ。

この、「音源の位置がわかる」というのが本当に曲者で。以前にヘッドフォンで聴いた時の感想でも書いたけれど、音源の位置をそれなりに確定させる為にその音源の音自体に制限が掛かる。ここで取り上げたいのは残響のバリエーションが少なくなる点だ。

残響というのは、教会音楽なんかを思い浮かべてもらえばいいが、広い空間で、本来の音の出所と異なる時間と空間から音が返ってくる現象のことだ。ほぼほぼエコーってやつですな。それを様々に工夫することで豊かな音色を実現させるのだけれど、これをやりすぎると音の出所があやふやになっていく。故に位置情報の威力を削がないためには残響のバリエーションを減らさずを得ず、いきおい全体的に締まった音色に落ち着いていく。或いは「キュッとまとまった」音とでも言おうか。そういうサウンドが好きな人には朗報だが、そうでない人に対しては「少し音が地味に、固くなったなぁ」という印象を与えるかもしれない。特にヒカルの歌声はその「響き」が結構重要なので、普通のハイレゾステレオ音源と較べると印象が変わるおそれがある。まぁ好みの問題として片付けてもいいんだけどねこの程度なら。

そして、再三再四指摘してきた「普通の平面映像との組み合わせ」は当然改善されないまま。まだ生まれたばかりの技術なのでこれは時間が解決してくれるだろうから(と言っても一流の技術者が頑張って、なんだけどね)悲観はしていないが2023年時点でもそんな感想だったという事は備忘録の為にここにそう記しておこう。


そんな中でいちばん感動したのがヒカルのMCだ。YouTubeで確認できる通り、曲間のMCは全体を引きで捉えていて(あのライブミニアルバム『40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios』のジャケットのに近いアングルっすね)、その中でヒカルが中央で立ち姿で映っていて大変可愛いのだが(いつものことだね)、その喋りを聴いてる時に「うわ、声が口の辺りから出ているぞ!」と思えたのだ。これは収穫だった。その時初めて、ヒカルのマイクの空間位置座標が画面中央やや上辺りに設定されているのだと感じる事が出来た。いやぁ、視聴会の中でいちばん「リアリティのある」体験だったですよここが。いやホント、これはこれでいいんだけど、マジで定点カメラ映像と360RA音声の組み合わせでコンテンツ作ってみた方がいいのではないの? 過渡期ならではの徒花になるだろうとはいえ、ね。外からみると地味極まりないからね定点カメラって。

まぁそんなこんなで課題は山積しているが、それというのも360RAという規格がヘッドフォンで聴くのとスピーカーで聴くのでまるで異なる音作りをしないといけない…というか、スピーカーを置いた部屋の広さまで勘案しないといけない仕様になっているのが大変なんだよね。今までのステレオ音源ってヘッドフォンで聴くのもスピーカーで聴くのも同じ音だったんだけど、次世代の立体音響はそこを配慮しないといけなくなりそう。

もう実際ヘッドフォンの方は「耳の写真を撮って送る」事で個人最適化を行っているわけで。となると次はスピーカーを置いた部屋の写真(360°写真とかあるよね?)とリスニング・ポイント(聴く人が居る位置と高さ…座って聴くのか立って聴くのか寝て聴くのか)の情報を送ってカスタマイズして貰うようになるかもしれへんね。具体的な方法論は専門家に任せるとして、それくらい面倒な設えが要るという事実がこの技術の可能性を物語っている。そこは大いに期待したい。

でも、ポピュラリティを得られるかどうかという問題はまた別だからねぇ。日本の住宅事情を考えると他の国の方が流行ったりしそうよねスピーカーで聴く360RAって。でもそんな時も宇多田ヒカルは強力なコンテンツ。世界中で聴かれてるからな。なので今後もエピックソニーに居る限り協力していくことになりそうですわ。


…とと、日記がいつもより相当長くなったか。いやまぁ、通常更新で何回かに分けて書こうかなと思いかけたんだけど読んでて楽しい話でもないし(興味深くはあるかもしれんが)、メーカー発の規格の課題云々なんてヒカルには直接関係ない話なのでさっさと済ませてしまおうかなと思いまして。ハッシュタグもつけずにおこうか。ただ、前も書いたとおり360RAに基づいた作曲ツールがアーティストに配られたら事態は一変するかもしれない。それこそ『Laughter in the Dark Tour 2018』で聴かせてくれた『SAKURAドロップス』のアナログシンセ演奏とか、『気分じゃないの(Not In The Mood)』のインストパートとかを新時代の立体音響で聴かせてくれたら悶絶必至だろうし…だなんて妄想を呟きつつまた平日にお会い致しましょうノシ

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最近の無意識日記は「それ140字で呟けるやん?」というシンプルでシングルなテーマを10倍くらいに薄めて引き延ばした日記と「それで何冊何百万字書けると思ってんのん」という複雑多岐に渡る内容を無理矢理押し込んだ日記が相互に入り乱れていて面白い傾向だなと思ってたんだがこれあれだ、最近の漫画「ONE PIECE」の影響だわ。

ここ1年の同作は最終章に入ったということで毎話世界情勢編という様相を呈していて、これ第1巻の頃のペースで描いたら200ページは費やすよね?という内容を2コマ位で駆け抜けている。とんでもない密度なんだけど一方でくだらないギャグにもしっかりコマを取っていて尾田栄一郎って変わらんなぁとよく感服している。乱視の所為か線は一定してないけど。

で、これ多分なんだけど、描いてる方はくだらないギャグ描いてる時が楽しいんだよね。積み上げたアイデアを描写する時は背景にある蓄積に基づいて「否応なくそうなるもの」を渋々ではないんだけど淡々と描き下す感じになるからね。義務まではいかなくてもそうして然るべきというか。

あたしも、いや尾田みたいな人類史上最高の天才と比較する気は無いけれど(無いですよ?)、何冊も本が書けそうなテーマについて書く時よりひとネタを薄めて書いてる時の方が楽しいし…と言おうと思ったんだけど分厚いテーマ書いてる時も楽しいわ。思ってたんと違った(笑)。

ただ、うん、薄めて書いたものの方が読みやすいのよね。こう、リラックスした感じでシンプルなワン・アイデアを頭にやんわりとインプットしてくれるから。前回ので言えば「ライブでヒカルが『気分じゃないの(Not In The Mood)』の間奏を自分で弾いてくんないかな?」っていう欲求だけ頭に残れば良い訳で。これなら140字内で呟けちゃうし、実際その程度のことしか言ってない。でも書き手としても読み手としても、それでいいんだよね。読んだり観たり聴いたり嗅いだり味わったりした後に、何か一言感想が残ればいいのよ。印象に残った一瞬なり一言なり一音なりが在れば。その為には、分厚いテーマも薄めたテーマもどちらも同等の素材の一つでしかないのよねぇ。

日記閲覧とはいえこれも「読書体験」の一種だと思ってるので、そんな感じでここに訪れてうただければ幸いです。


ヒカルも似たようなこと感じてるんだと思うわ。「ここでキーボードが3つ、少しずつ強勢をずらしながら拍を刻んでるよね」って指摘されても勿論嬉しいんだけど、誰かに「パクチーパクパクって歌、なんかついつい歌っちゃう」って言われるのめっちゃ好きだと思うんだわ。「音楽のややこしい話はわからないわ」という人も「歌詞の深い解釈とか難しい」という人も、きっと全く気にしなくていい。作る方は複雑さや難解さもその最中には拘って作ってるだろうけど、完成品に対する感想はシンプルなものでいい。シングルなものがいい。たったひとつ残ればそれが答えなのよね。なので、物事に触れた時の感想は「美味しかった」「歌うまいね」「綺麗な絵だった!」みたいなので必要十分なのです。書き手としても読み手としても、つくづくそう思う春の夜なのでありましたとさ。

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そういえばヒカルさん、5年前の『Laughter in the Dark Tour 2018』では『SAKURAドロップス』の後奏でキーボード・ソロをとっていたっけか。観たのが最早懐かしい。

ヒカルさんの鍵盤演奏の腕前は本人の謙遜の通りだが、心に残る演奏というのは高度な技術を必須としない。またパイセンの楽器演奏が舞台上で観れたら嬉しい。

それは私の感想なのだが、全体のニーズとしてはどうなんだろうね? 1万人規模のアリーナで歌手が楽器を演奏したとして「待ってました!」となるだろうか?

なんだかんだで人数や割合というものは大きい。歌えば必ずや感涙に咽ぶ聴衆が存在することがわかりきっている『WINGS』やら『Apple And Cinnamon』やらの"隠れた名曲(別に隠れてないけどな!)"は幾つも存在するが、ライブで選曲されるかと言われれば可能性は低い。ゼロではないから諦めはしないが、ある夜にそれらが歌われなかったとしてもそれで不満を口に出来るかというと気分は乗らない。

それはどの曲もそうかというとそうでもないのは明白でな。もしある夜に『First Love』を歌わなかったら「聴きたかった!」と多くの人が何の躊躇いもなく声を上げるだろう。言うのに気分が乗らない、とはなかなかならない。良し悪しは別にして現実として楽曲毎に人気と知名度にはバラつきがあり、人気の高い曲ほどライブで選曲されやすい。

そんな中でヒカルの鍵盤演奏を差し挟む余地がどれくらいあるのか?と思えばその5年前の『SAKURAドロップス』は画期的であった訳で、しかし、歌った上に鍵盤演奏もというのはなかなかに負担が大きい。

それでも敢えて次のコンサートで鍵盤演奏に挑んで欲しい曲があって。『気分じゃないの(Not In The Mood)』の後半部分ですよ。オリジナルのテイクからしてヒカルの演奏ではないのだけど、あそこを作曲者自身が演奏するというのは何故か外せない気がしてな。実現すると私確実に咽び泣きますわ(予告)。

まぁでもそもそもタイアップだらけの人気曲が犇めく『BADモード』アルバムの中で唯一タイアップがつかなかった(未来はわからないが)同曲がそもそもライブで演奏されるかどうかからして怪しい訳で。もっと公演の本数が多くて選曲も自由になっていれば違うんだろうけども現状では難しいと言わざるを得ない。こうなればあれだ、ダヌくんに「自分もツアーに帯同してステージで『気分じゃないの(Not In The Mood)』を歌いたい! メイクかマスクかするからさ!』(KISS? SLIPKNOT??)とかなんとか言って貰って押し切って貰うのがいちばん効果的か? いやまだ流石に幼いか…って男の子だからモタモタしてると声変わりしちゃうかもしれんし、次のツアーが生涯最初にして最後のチャンスじゃね? 本人の意向最大尊重ではあるものの、実現したら思い出深い日々になりそうだわね。

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昨今は邦楽のトップアーティストたちが軒並み深夜アニメのテレビシリーズ主題歌を手掛けている。米津玄師、Official髭男dism、YOASOBIなどなど…昔はアニメ主題歌担当とか一流半扱いだったんだぜ…いつの時代の話だよ?

で。宇多田ヒカルも遂に『PINK BLOOD』を「不滅のあなたへ」に提供する事でテレビシリーズ初挑戦を遂げたのだけど、そこまで話題にはならなかったよね。偏に、漫画原作が読む人を選ぶ非常に癖の強い作品だったからではあるんだけれども。(まぁ、アニメ映画であればエヴァという超強力コンテンツにガッツリ関わった実積はあるのだけどね宇多田ヒカルは)

しかし、多分これっきりでは終わらないよね。ヒカルがまたテレビシリーズに参画するのはほぼ間違いないかと思われる。では、一体どの作品に主題歌を提供する可能性が高いか。恐らく同じ事を思った人も多いかと思うが、この2月に制作発表になった手塚治虫原々作・浦沢直樹原作の「PLUTO」はひとつの候補となるだろう。

浦沢直樹と宇多田ヒカルの相性の良さは「Invitation」2006年5月号での対談企画で証明済みだ。更に、ヒカルは手塚作品で声優を務めたこともある!(多くは語らないが) これはもう御縁があると言っていいのではないか。特に、この「PLUTO」アニメ化のニュースでトレント入りした「ノース2号」のエピソードに関してはヒカルも乗り気極まりないだろう。

となると主題歌を…と思ったが、もしかしたら挿入歌とか、そこらへんの方がいいのかもしれない。『Flavor Of Life』だって「花より男子2」で名を馳せたがあのドラマの主題歌は嵐の「Love So Sweet」だったんだよ。別に主題歌にこだわることはない。

かといって、ノース2号関連のインスト曲の作曲依頼を受けるとかになるかというとなんかそれもなーとも思ったりも。ちょっと感情としては複雑なんだけど、何らかの形で「PLUTO」に関わってくれたら嬉しいなと思ったのでありましたとさ。またNetflix独占ってのも引っ掛かるけどね。ってそもそもまだ主題歌決まってないよね!?(不安になった私)

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嗚呼、前回の日記は『Beautiful World』のPVが念頭にあったというのを書き忘れていたな。『Kiss & Cry』もそうだけど、ヒカルが姿を現さないビデオというのは扱いが基本別なんだわね。『桜流し』や『真夏の通り雨』みたいなケースもあるけれど。

PVとは言ってみたが、『Beautiful World』の動画は宇多田ヒカル公式には存在せず、ユニバーサル・ジャパンのYouTubeに掲載されている。もう前のレコード会社のものなのな。『Kiss & Cry』もか。あクマで、それぞれのアニメーションの映像を使用した特別動画という位置付けなのだろう。

今回の「不滅のあなたへ」前世編『PINK BLOOD』スペシャル・ムービーも、アニメ公式YouTubeで期間限定公開という扱いになっている。これだけのクォリティのものが間もなく観れなくなるというのも勿体ない限りだが、アニメ制作会社との関係性で仕方のない事なのかもしれないわね。

どちらかというと、私としてはヒカルの出るミュージック・ビデオとタイアップ相手の映像をフィーチャーしたミュージック・ビデオを並立させて何ら問題はないと思うのだが如何だろうか。実際、『花束を君に』に関しては、こちらはアニメではないけれど、ドラマのオープニング映像に即した切り絵バージョンとヒカルの艶めかしい肢体をフィーチャーした18禁バージョン(嘘つけコラ…でもそう言いたくなるのよアレは!)の2つが宇多田ヒカル公式に両方とも掲載されている。アニメ映像を同じ扱いに出来るとは思わないけれど、タイアップによる相乗効果を促進する為にも、新しいルールを作ってでも2種類以上のMVの並立を助けていって欲しいなぁと切に願わずにはいられない。観る方としても楽しいしね単純に。

昔は声優アーティストの出すアニメ主題歌なんかはジャケットが声優盤のものとアニメ盤のものの2種類がリリースされていた。いや今でもちゃんとあるけどさ。ああいうことをした時のアーティスト・イメージへの配慮という側面があることは否定しないが、双方のファンがそれぞれに手に取れる、手を出せる設えは必要かなと思わされる。でも確かに、例えば2007年にリリースされたその『Beautiful World/Kiss & Cry』の両A面シングルのアニメ盤を作るとすると、庵野秀明と大友克洋の2人の大物の絵柄を並べることになるからいや宇多田ヒカルってホントにスゲーのなってなって…それでいいんじゃん?(笑)。あはは、何の問題もないか!(*≧∇≦*)

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