無意識日記
宇多田光 word:i_
 



この5年で音楽制作上で何かメリットを生じるような劇的な変化があったかといえば、ちょっと思い付かない。期待外れだったのは、私はこの10年でコンピューター制御のパブリック・アドレス・システム(PA)が劇的に進化して、どんな会場でも良好なサウンドが楽しめるようになるのではないかと予想していたのに見事にハズレた事だ。そんな話は全く聞かない。ヒカルの5の時点でそういう話が出ていたように思うのだが。

ポップスやロックのLIVEに初めて行った人がまず驚くのがその音の大きさと音の悪さである。ハッキリ言って連中はもう完全に感覚が麻痺している。オーケストラの生音などに慣れている人がやってくると、その耳をつんざくような大音響と歪みきった音像に辟易する。この壁は大きい。

特に、ヒカルのようなアーティストの場合「LIVEに行く事自体が初めて」という人も結構来る筈だ。LIVEの評判は別として、敷居が低そうなイメージはあるだろう。いきなりX JAPANのコンサートに誘われても「え、なんか怖い」と思われてしまう。まぁ、SMAPや嵐の方がもっと敷居は低いんですけどね。チケットが手に入るかどうかは兎も角。

なので、出来ればもっと穏当なサウンド・プロダクションになってくれないかなぁ、というのが願いとしてはある。WILD LIFEに関しては、私の居た席では比較的良好なサウンドだったが、別の席ではそうでもなかった、という声も聞いた。パブリックアドレスというのは、本当に難しい。

「音量を下げる。」―これが何故難しいか。理由は結構単純である。迫力とか後ろまで届くようにとかではない(あんたデカい音にしなくったって十分に聞こえる)。音量を上げた方が音像の解像度が増すからである。いや、"音量を上げられるだけ上げた方が"と言った方がいいかもしれない。音像は、音量を上げようとすればするほど歪む。元の音色や音程が狂っていくのだが、それを補正するのがアンプ(リファイアー)、増幅器である。アンプが優秀であればあるほど音は歪まず、音が大きければ大きいほど音像の解像度が増す、即ち小さな音と小さな音の違いが聞き取り易くなるため、常にひたすらいい音を求めるミュージシャンたちはアンプのヴォリュームを上げ続けるのだ。

つまり、電気が介在すると、「いい音が鳴る」のと「音がデカくなる」が常に随伴した状態に特化するのである。デカい音を追い求める人は必然的にいい音を求める事に収斂するし、いい音を追究する人はいつのまにかどんどん音がデカくなっていく。なので、少し極端に戯画化した言い方をすれば、音がデカくなっているのに気がついていないのである。

そこにLIVE初体験の庶民が来たらそりゃあビックリするだわさ。翌日耳鳴りだわさ。大音量に慣れている筈の私(メタラーなんだもんいちばん音デカいよ)もLIVEでは耳栓代わりのイヤホン(最近ではイヤホン型ウォークマンをそのままつけてるだけだが)が手離せない。やっぱあれは異常ですよ、えぇ。そして、これがいちばん悪いのだが、いい音を追究してた筈の癖にギターの高音部がグシャグシャになっているのに気がつかない。なんじゃそら。

世界のトップクラスはそこを非常にキチンと処理をしている。アイアン・メイデンやスレイヤーといったバンドはギターの(音量を上げると歪む)高い音域をごっそりと削っている。その為、かなりの大音量でもサウンドがクリアーに響いている。何故か皆それが出来ない。余程技術的に難しいのだろう、と思う。

なので、冗談ではなく、次のコンサートはエレクトリック・ベースやエレクトリック・ギター無しの編成でやってみるのも悪くはないと思う。最悪なのは、かついかにもありそうなのは「リズム隊とギターがうるさくて宇多田ヒカルの歌が聞こえなかった」という感想だ。ホントやめてそれ。みんなギター聴きに来てるんじゃないの。ヒカルの歌を聴きに来てるの。そこんとこホントにちゃんと踏まえてよ。

…そんな事言ってる私はギター・レス編成だとShow Me Loveがハナからはじかれるのでこの案には大反対なのですがね。なんやそれ。

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もし来夏にツアーがあるのならそろそろ会場は押さえておいた方がいい…というのは大袈裟でも何でもなく、大きい会場であればあるほど早め早めになっていく。フェスティバルクラスなら一年以上前から決まっていても不思議ではない。

裏を返せば、今の時期にまだそういう話をしていないとすればヒカルの復帰はまだ先になるという事だ。腐っても鯛、とかいわれそうだが、しかし、現時点で会場のキャパシティを予測してブッキングするのはかなりのリスクを伴う。石橋を叩いて渡るような堅実な選択をしたとしても、仮にヒカルが大ヒット曲を飛ばそうもんなら事態は大きく変わる。極端な話、そういう事情でアルバムより先にツアーをしてしまってもよいような気もする。

ヒカルの場合だと、日程をゆったりとり、合間々々に追加公演を挟む感じで対応する、というのも可能かもわからないが、追加公演というのは基本的に仮押さえが先にあって、で集客状況をみながら実施するかを見極める、みたいな例も多く、いわば出来レースになっているパターンもある。ヒカルの場合、15年前はスタジアムで3日間の追加公演を行うなんていう贅沢な事をした訳だが、野球場、しかもシーズン中となるとプロ野球の日程をまず睨まないといけない訳でな。

残念ながらなのか何なのか、幾ら何でも現時点でスタジアムツアーのブッキングなんて事はしないだろう。これから徐々に手堅くホールとアリーナを押さえていって、追加公演候補を徐々に、といった所だろうか。ほんに、これだけの知名度の人が5年も表舞台に出ていないと色々とややこしい。

そんな訳で、僕らは兎も角、スタッフの皆さんは今後のスケジュールによってはもう来夏に向けて具体的に動き出しているかもしれない。今日で8月も終わり、明日から新学期という学校も多いだろう。少しずつ季節の変わり目でもあるし、そろそろ"本陣"の動きに注目し始めてみるのもよいかな。私は…そうね、あと1ヶ月位はのんびりいきますですよ:-)

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8月後半は"Speed Of Light"と"おひるねゆにばーす"がヘヴィローテーションだった私だが(前半はペンデレツキかな)、ある時ふとこの2曲のテーマが大体同じである事に気がついた。両方とも、宇宙を飛び回る夢を見ていたという話である。前者についてはPVの影響も大きい。かたや実際は60近いジジィ共が中二病前回のB級スペースオペラを歌い、かたや現実には20代の女子が中二を演じてふわふわした夢を語る。勿論サウンドのテイストは全く違うのだが、どちらも「どこかのんきなふんいき」は共通している。夏の暑さが通り過ぎた残暑の季節にピッタリの曲調だった。

長い長い夢から覚める、というストーリー自体私の大好物だが、おひるのゆにばーすに至っては歌の最後「(私は眠くて仕方がない筈なのに)君のせいかな なぜか眠れない」ときたもんだ。それ俺がTwitterのプロフィールに書いてあるヤツやがな。ほいで目が覚めたら甘いおやつが消えてるんですかそうですか。ラフィンさん今度一緒に飲みましょうか(知らん人に何を)。

なんだろうな、歌詞はいいとしても、こういう、爆発的な名曲でもないけれど、聴けば確実にいい曲だとしみじみ思えるのはとてもいい。わかりやすい、と言ってしまえばそれまでだが、「薄っぺらい」と揶揄されるギリギリをつくのって結構難しい。しかし、どうしたってシリアスになりたがるミュージシャンが多い中で、こうやってわずかな「くすぐり」「おかしさ」「おもしろみ」を込めてこれるのはセンスとしか言いようがない。

長い長い夢を見ていただけだった、というモチーフは、つまり、後に残るのは思い出だけである。しかし、この、「もう手元には何もないけど、楽しかったな」という実感は、何ものにも代え難い。もっと言えば、それが欲しくて生きているのかもしれない。

「どうせなら 死ぬまで眠って いたいのに」に続くのは勿論「あなたが居るから 寝てられない」だ。ヒカルには、私が寝てる間に見られるだろう素敵な夢の数々を上回る何かを見せて貰わねば割に合わないし、実際、今までずっと割に合ってきた。ヒカルが戻ってくれば私も目が覚める。なので、もう少しばかり私も微睡みと転寝の中に溶け込んでいようかなと思う。



…ただ、当のヒカルは、未だにずっと、何をしていても夢を見てるようにしか思えないかもしれない。そこを現実に戻すのはダヌパだろう。こどもを育て始めるといろんな意味で寝てられないのだ。あー起きてるさ、これが私の現実さ。それが幸せだとしたら、もっといい。

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ボヘサマとウタユナのお陰で、宇多田の夏といえばツアーである。12年間で2回だけとはいえ、兎に角ツアーである。このままアルバムの制作が順調に進めば、来年の今頃はツアーファイナルかもしれない。一年なんてあっという間だから、もう今から心の準備をしていても遅くはない。というか、衣替え前に今一度夏物の整理をしておいた方がいい。

今やYoutube等のお陰で、若い人でも過去の音源に触れれる環境はある。問題は機会があるかどうかだが、ツアーともなれば話題にもなりリーチも広がるだろう。それはいいのだが、LIVEdvdとかになると、若い子は買うとしても嵐や秋元康だったりして、更にLIVE映像となるとなかなかYoutubeでも見つけ難いかな。そこらへん、ヒカルの名がついていたら取り敢えず買うような人間にはイマイチピンと来ていない。

一方で、長年ファンだがまだ一度も見た事がないという人も見に来る。何しろ昔は究極のプレミアムチケットで、倍率が篠沢教授を凌ぐ程だった―という喩えがわかった時点であんたアラフォー以上確定―のでハナから諦めていた人も少なくなかったのだ。来年の夏になってもそんな事を言う人間は居るだろう。イメージって怖いね。

しかし興行元が石橋を叩く派だったらいきなりホールツアーなんかやったりしていきなりプレミアムチケットという事もなくはない。ドームツアーはやらないにしてもアリーナクラスは大丈夫だろうと高を括っているが果たしてどうなるだろうね。

そんな感じで、恐らく来年ツアーがあればしっちゃかめっちゃかだ。極論すれば、誰1人宇多田のツアーに慣れている人が居ない状況である。8年のブランクなんだから。何もかもが1からの手探りだろう。

不確定要素が多すぎる。固定ファンが少ない一方、ヒット曲が出れば猫も杓子も大絶賛になるのだから動員は本当に読めない。イメージ戦略の糸口が掴めない。

だから実際のところ梶さんも沖田さんも来年の事なんか考えちゃあいないだろうな。せいぜい既に決まったタイアップがあるならまずはそこに全力で、という具合で。ただ、昨今のコンサート事情をみるに相当前から会場は押さえとかなきゃいけないと思うので、いうほど時間もない気がする。WILD LIFEは奇跡的に横浜アリーナが空いていたから嵌めたという感じだったし。実際、ドームツアーなんて球場相手なんだから年間計画でないといけないよねぇ。

どこまでプロジェクトが巨大か、だ。宇多田ブランドの大きさを考えればかなりの規模まで許される。一方で、実態としての送り手と受け手のやりとりはどれくらいのスケールなのかはやってみないとわからない。30代の既婚子持ち女性歌手ともなれば随分と落ち着いた活動も求められる(そう予想される)だろうから、そのバランスも難しい。

そんな中で我々に出来る事といえば夏の暑さ対策だろうか。秋冬になったらそんな事は忘れてしまうので、暑さに苦しんだ残像がある今のうちに来年の夏どう過ごせば健康を維持できるかの計画をいまのうちに想定しておこう。

…私? 毎年この時期になると夏休みの宿題であたふたしていた計画性皆無な人間が来年の事なんて考えてる筈なかろう。明日の予定ですら手一杯だよ。そうやっていつの間にかいろんな日を迎えていくんだ…。

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音楽について表現の自由が問題になるのは歌詞や語りがある場合であって、それが器楽演奏のみ、或いは声楽であっても言語を擁さないもの(スキャットなど)であれば、その自由が侵害される危険性はほぼないと言っていい。どれだけ悲しい音楽だろうが、どれだけ怖い音楽だろうが、インストで発売禁止などになった例を私は知らない。

そんななので私は器楽演奏をしばしば「ユートピア(utopia/楽園・理想郷)」と呼ぶ。その純粋さを誰も侵す事は出来ない。邪魔の入らない美、茶々を入れられない魅力、仮借無い存在性。あなたが宇宙のどこに居ようが、耳と心が繋がってさえいればその齎す愉悦に浸る事が出来る。それは、地球人でなくとも同様かもしれない。

言葉は本質的にローカルなものだ。その時その場所その人その文脈に依存する。故に歌の歌詞は音楽以外を巻き込む為、あらゆる問題に首を突っ込むようになる。「穢れる」と一言で言ってしまえば簡単だが、そうでもない。歌のメロディーは、依然としてユートピアの住民である。言わば、歌はユートピアとそれ以外を繋げてしまう魔力を持っている。それを歌ったのがGoodbye Happinessで…という展開にすると独り善がりに過ぎるのでそこから先は各自が妄想して欲しい。アダムとイヴは知恵の実を食べて楽園を追放されたが、もしそれが歌の実だったら楽園を我が家として日々冒険に繰り出す物語になっていただろう、かな。

しかし、「強すぎる楽園」というのも私の頭の片隅にはある。ヒカルがモーツァルトのレクイエムを聴いて、ラテン語はわからないのに歌詞の表すメッセージが伝わってきたという話をしていた。これには2つの解釈がある。ひとつは、ラテン語の語彙や文構造には英語と共通するものがある為、英語が堪能なヒカルの無意識が語彙の断片から有り得べき意味の通る文章を構築・創造した、という見方。ヒカルが天才だからメッセージが伝わった、と。

もうひとつは、言葉が通じなくとも、声楽のニュアンスや器楽の表現によって、レクイエムという音楽がその場面の感情を一意的に描写してしまっている可能性だ。こちらは、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが天才過ぎるという解釈だ。器楽も突き詰めれば人間の感情として一意的な意味を持ってしまうかもしれない。もし音楽がそこまで行ってしまえるならば、その音楽は人類最初の、ローカルでない、グローバルな言語となろう。そして、それが言語であるからには、楽園を飛び出して、人々の有象無象の中の混沌に身を投じ、あらゆる問題を連れてきてしまえる。それが望ましいかどうかはわからない。ただ、それは、「問題の解決」とは異なる、人の営みの全く新しい何かを生む事になるだろう。それは、人類が言語を獲得した以来の革命的な出来事となる。

流石にそれは、凄まじく遠い。人類最高峰のモーツァルトの最高傑作ですら、「…かな?」という程度なのだから。ただ言えるのは、歌というものが、「人の終わり」すら司れる程の力を持つ営みかもしれない、という事。それ位の"危機感"を持ってヒカルには新曲を作って欲しい。ヒカルなら日本語を滅ぼす事位出来るかもしれない。いや、その後新しい何かに生まれ変わるんだけどね。

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表現の自由は常に尊重されるべきではあっても、伝達に関してはまた別の話だ。表す事と伝える事ははっきりと自覚的に分けて考えねばなるまい。

だがインターネット普及以降、特にこの点は曖昧である。アップロードボタンひとつで表した事を誰かに伝えてしまう羽目になる。中には、それがアップロードボタンだとよく理解していないまま押してしまう人も居る。いや、今やそちらが大半か。

表現に他者を巻き込む時そこに必ず軋轢のリスクはある。寧ろ無いのならば表現なんて必要ない。伝えなくてもお互い知っている・わかっているのだから。知らない・わからない人に対してだから伝える意義はあるしだからこそ伝わるかどうかはわからない。

例えば言葉であっても、自らの日記に書き記す事と手紙を書いて相手に読ませるのではグッと意味合いが違ってくる。相手を傷つけたりイラつかせたり怒らせたり悲しませたりするリスクは常にある。だから法律には名誉毀損罪とか侮辱罪とかがある。

だが、近代には「放送」とか「出版」といった特殊なケースが随分と台頭してきた。表現したはいいが、それが誰に伝わるかわからない、という状態である。これは、日記を書くのとも手紙を書いて渡すのとも違うノウハウが必要になってくる。

その状況が突き詰められて、今やコンプライアンスは合い言葉になった。どこでどんなクレームを受けるかわからない。その対処法を抽出し体系化し現代の表現が出来上がっている。いや、ほぼ総てが放送や出版といった"無差別に大量に出回る"方法論を気にかけているといっていい。そして、インターネットによって、一般人もまたその領域と地続きになった事を自覚する必要がある。

その中で、ヒカルの書いた歌詞が今後どれだけ伝わるかは注目される。数少ないが、例えばKeep Tryin'のような応援歌は相手に伝わってなんぼである。世代が変わり市場が変わり人が入れ代わった状態で、果たしてどれだけの言葉が届くのか。

そもそもヒカルは誰に何を伝えたいか。それにもよるが、ヒカルの場合は言語の選択から入れる。もしかしたらイタリア語に堪能になっているかもわからないし、フランス語の勉強もしているかもしれない。中国語だって要る。どうなることやら。

例えばイタリアの家族に感謝の気持ちを伝える歌が出来るとして。それを日本語で歌っても伝わらない。我々に聴かせてくれるのは有り難いけれど、伝えたい人がそちらならばイタリア語か英語で歌うべきだろう、という事になる。

作詞のノウハウはここらへんに尽きると言っていいかもしれない。そして、いちばんの問題は、「どこで誰が聴いているかわからない状態でどう作詞するか」という方法論なのだがそれについてはまた別の機会に。

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私はお腹が空いててすぐに食べられない時―それは我が座右の銘「腹が減ったら食うんだ」に著しく悖る行為なので非常に憤懣遣る方無いのだが―にはデスメタルを聴いて気を落ち着けるようにしている(食い物は無くても音楽はすぐに聴ける態勢でいつもいるんだな自分)。そうするとすっと怒りが収まる。憤懣遣る方が出来るからだ。

私の空腹に対する怒りは相当強い。宗教的と言ってもいい。空腹と飢餓は全人類の敵である。駆逐放逐するのに何の躊躇いも感じない。その怒りを受け止められるのだからデスメタルという音楽は相当に強い。勿論"ごまかし"でしかないのだが、感情の制御には非常に役に立つ。音楽の効用の一つだ。

若干種類にもよるのだが、デスメタルのようなヘヴィ・ミュージック、エクストリーム・ミュージックの愛好者には"気のいいヤツ"が多い。日常生活で怒りや悲しみがあったとしても、それを発散したり解消したりする術を知っているからだ。なので、デスメタルのLIVE会場に笑顔が広がるだなんていうのはいつもの事だ。IN FLAMESなんてもうみんな楽しそうだよ。

代償行為、と言っていいのかはわからないが、音楽にはそうやって一時(いっとき)の感情を制御する効用があり、それを使えば様々な人間関係や個々人の問題が、解決されるまでにはいかないまでも前向きに対処するよう促す所までいけるのは特筆すべき点だ。

従って、逆からみれば、正負あらゆる感情は音楽に貢献し得る。誰かを殺したいという感情に従ってその誰かを殺したら失われるものは計り知れないが、その感情をもって「誰かを殺したい」という曲を書いてしまえば、もうその感情から解き放たれる可能性が出てくる。自分で作らなくても、誰かが似た感情を基に作った音楽ならかなりの部分が共感でき、それによって解消される感情も在るだろう。

ならば、あらゆる音楽の創造を妨げてはならない。感情の可能性は、総て取り付くして楽譜に封じ込めてしまおう。

危惧もある。「殺せ」という感情を込めた歌を聴いて、それを実行に移す人間がありはしないかと。実際にそういった裁判の例もある。息子が自殺したのはあなたがたの音楽を聴いた為だという訴えだ。私の知る例ではその訴えは退けられたが、遺族からしてみれば因果関係を探りたくなるような歌詞やサウンドやアートワークが目の前にあればそうなるのも仕方が無い。

話は整理しておかなくてはならない。実際に作る事と作品に触れる事は別である。作品に触れた事で負の行為が引き起こされたなら問題だが、だからといってその作品が作られるべきではなかったという事にはならない。剣によって行われた殺人の責任を剣職人に負わせ、剣の制作を中止させるような事があってはならない。元々はそんな事の為に託された剣ではなかったのだから。その気になれば、万年筆でだって人を殺せるかもしれないのだし、そうなれば我々は何も作れなくなる。

そう反論するのが通常だが、仮に音楽に宗教的なまでの影響力を認めたらどうなるか。剣のようなただの道具なら使用者の責任、使用者が原因だと結論付けるのも吝かではないかもしれないが、人が音楽によって齎される感情に"支配されて"しまっていたとしたら、どう判断すればいいのだろう。音楽による宗教的洗脳、或いは暗示である。

これは、例えば「休みの日はお昼寝して過ごそう」という歌詞の歌と「奴を殺せ」と連呼する歌ではどちらがより悪影響が強そうかという問いを発した場合答えは明らかなのだから、"旗色が悪い"のは間違いない。つまり、言葉による扇動が認められたら如何に音楽とはいえその制作に疑義を唱えられても仕方が無いかもしれない。

何だかテーマが広く重くなってるな。話が次回に続くかどうかは…明日の天気次第という事で。

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前回はちょっと小休止。たまにはそういう回があってもいいかなと思って。…って、正確に言えば、ヒカルからアルバム制作の言葉を貰って以来、気が抜けてるんだな私。もう見える所まで新譜が来ているのか、となると俄然テンションが上がりそうだが、寧ろ逆で、アルバムがリリースになれば黙っててもテンションはヒートアップするので敢えて自分を盛り上げる必要はなくなったと。

でも、冬山での遭難者は山小屋の数十メートル手前で力尽きるというし。山小屋を見た途端安心してしまってその場で眠り込んでしまうんだと。実際の山小屋に到着するまではぼちぼち歩き続けよう。

しかし、確かに、このままでは難しい。5年ぶりの、とか7年ぶりの、とかいう冠がつくとどうしたって「期待に胸を膨らませて」とか「はちきれんばかりの」とかが続いてしまう。この状態で、作品の穏当な評価が出来るだろうかという危惧があるのだ。

売る方はどうしたって盛り上げようと色々と仕掛けてくる。それはいいとして、こっちがそれに過剰に反応するとバブルが起こる。或いは反感を買う。こういうのは、落ち着ける所にさっさと落ち着いてしまった方がいい。

一方、「定評」という言葉も嫌いだ。評価は個々人が別々に下してこそ価値があるというのに、それが多数派だからと決まった評価を他者に押し付けようという空気がある。何がそんなに不安なんだと思うけれども、要は自分の耳で聴くのが面倒臭いんだろうな。評価なんて人による日による天気による。その都度々々に味わうものだ。

この2つは矛盾するか。落ち着くべきところに落ち着くのを望む心と、個々の評価を尊重する気持ちと。いやまぁ両立するか。単に、こちらの期待や妄想を作品に押し付けるなという事だ。期待に応えてくれれば嬉しいが、それはひとつのアドバンテージである。期待外れであったとしても、その落胆とは別に、目の前の作品が実際の所どういった価値を持っているのかは判断されねばならない。そういう事だ。

しかしそもそも期待をしなければ耳を傾けようともしない訳で、このプロセス全体が通過必須事項なのである。それをまた味わえるというのは、何だこれ、幸せか。

偏見や先入観は、見たり観たりし始めるから起こるものだ。まずはそこから始めて、次第に実態に近付いていけばよい。焦る事はない。引き続き私は、アルバム発売まで気の抜けた状態で過ごす事に致しますかの。

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安全保障というと「国と国同士」のものだ、というのが何だか常識みたいになっているけれど、21世紀は国の体をなしていない"テロリズム"が台頭してきているのが特徴だ。昨今のあいえすとかいうのもそれにあたる。そういう視点を皆忘れてやしないか。

どこかの国が自分の国を攻めてくるかどうかは、誰もが本気で考えるべきテーマだが、本当に皆、特に専門家たちは本気で考えているのか疑問に思える。

例えば、"非武装中立"という立場がある。いや、実践した国がまだ(知る限り)無いので立場と言うには危ういが、その、誰も実践した事の無い状態について、「考えるまでもなく馬鹿馬鹿しい」と言って切って捨てる人が大勢居るのに私は驚いている。テーマについて、本当に本気で考えてるのそれで?

曰わく、「そんな状態になったら途端にどこかの国に攻められる。そうでなくても、外交上軍事的な圧力が全くかけられないのは著しく不利だ。」みたいな事を言う。誰かからの受け売りだろうか。では訊くが、もしどこか日本の隣国が非武装中立になったとして、この日本という国はその隣国に攻め込むの? 自衛隊や駐留米軍の軍事力をバックにして圧力外交を展開するの? 「いや、それはしないだろう」と言う人がここで増えるだろう。それでも「うん、するだろうね。」と答えた人はもう踏み絵を踏んでいる。

どうにもここに誤解がある。憲法9条とか在日米軍の存在とか色々あるけれど、逆からみれば、どの国も日本のようになれば、軍事的な問題の多くは解決する。

勿論それは絵空事だが、踏み込んでいえば、今在る「日本に攻め込んでくるかもしれない」と想定されている幾つかの国が無くなれば、という仮想について触れる人が少なすぎる。実際、私が小さい頃はソビエト連邦が内部から崩壊するなんて事を言う人が日本で主流派になって発言を謳歌する場面なんてなかった。その状態から10年もしないうちに人類史上最大クラスの連邦が分裂したのだ何が起こるかわからない。

即ち、危険な国が在ると言うのなら、そこが本当に"国"としてやっていけるかどうか、内政についての情報がもっと必要だと言っている。次の10年で大国にクーデターや革命が起こる可能性については真剣に考えておかねばならない。もしそんな可能性があるのなら、安全保障はその線についてもリスクを再計算しなくてはならないだろう。最初から「国と国」という枠組みだけで安全保障を考えるのはとても安易で短絡的だ。


反対側のスケールについても、思考実験をしておかなければならない。何故あなたは普段、「隣の県が攻めてきたらどうしよう」という不安に駆られないのか。各都道府県には警察という実力組織がある。その気になれば、戦争とはいかないまでも、銃火器等で住民を殺して周り、自治体の行政機関を制圧する事位は出来る筈だ。「何を馬鹿げた事を」と誰しもが思うだろうが、400年ちょっと前の何十年かの時期のこの国はそんな事ばっかりやっていたのだ(そん時は県じゃなくて藩だが)。そこから頑張って、そういう話を馬鹿げていると切って捨てられる状態まで持って来れているのだ。県と県で出来た事と国と国で出来る事にどれくらいの相関があるか。真剣に考えなくてはならないだろう。

だから、安全保障について、老人の判断だけに任せるのは危うい。彼らはこの70年の常識にとらわれ過ぎているし、確かに、彼らが生きている間はその常識のまま事が運び切る可能性が高い。それに乗ってしまった後のリスクは次世代・次々世代が背負わなければならない。

それが、少子化が本格化してきた今の状況である。兎に角、冷静に。感情的になっている人は、どの意見を言っていようが既に事態に飲み込まれている。まずは、冷静に議論出来る人間同士がお互いを認識する所から始めよう。感情的になっている人たちには最初から相手をしない、早々にやりとりを終える事が肝要である。彼らに対しては、存在を知れればもうそれでよいのだから。でも自分が冷静で居続けるって恐ろしく難しいぞ。頑張れ、私も。

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このblogは「日記」だ。何故か日本最古の文学のひとつが日記文学なので(そういえば他の国ではどうなんだろうか)、まぁそのいちばんの伝統の系譜を受け継いでいるのさ、ふっ、と嘯く事にしているのだが、要は言葉の落書きである。評論っぽかったり感想っぽかったり様々だが、「取り敢えず書いておく」というのがスタンスである。そうやって日々感じた事を綴っていけばそれが自然と日記になっていくのだ。

だからどう、という話でもない。ただ、何かを書き記せばそれは日記としての機能、例えば読めば過去のある時点での思い出を想起させるといったような風な事はどうしたって出てくる。それが買い物のメモやレシピのメモであったとしても、日付さえ入っていれば、あぁこの頃はこんな事をしていたなという記憶が甦ってくる。

昔の歌を聴くと当時の思い出が甦るというのはよく聴く話だ。それが不思議がられるのは、例えばテレビを見ていたり本を読んでいたりした場合は、記憶がその番組や小説やの記憶で閉じてしまっていて、周りの状況がどんなだったかを想起させる手助けにならないケースもある(なるケースもある)からだろう。歌を聴く事は、小説の世界に没入するのとは一風異なる、日常生活の一部としての側面がより強いのだ。

だから歌は「ながら」で聴くのがよい。車を運転しながらとか料理をしながらとか勉強をしながらとか。そうする事で歌は日記の代わりを務めてくれる。また、歌はたくさん聴いた方がよい。極端にいえば、毎日違う歌を聴いていればある記憶が何年何月何日のものなのかが特定できる。そこまではいかなくても、何年何月の流行歌、という風に記録されていれば、自らの記憶の参照は容易い。

流行歌にあたるものが無い人が増えている、のかもしれない。思い出と共に歌が無い、という。その代わりに、例えばこのblogのような直接的な記録を残したり、或いはログの取れるゲームなら、とかそういうので思い出を刺激するようになっているかもしれない。しかし、歌のように、当時の匂いまで忽ち運んできてくれる即効性には欠けるだろう。それぞれに違うものだ。

この5年について、皆さんは歌で記憶を取り戻せるだろうか。心許ない、という人も多いかな。その分の埋め合わせを求める位なら、そんなに贅沢じゃあないと思うよ。

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先週、レディ・ガガの記事を読んだ。彼女はこう言ったという。「私はよく“次のマドンナ”と言われるけど、違うの。私は“次のアイアン・メイデン”なのよ。」

妙齢の女子が、自らの目標を同じ女性ソロ・シンガーではなくむさくるしいおっさん6人組、いや、最早おじいちゃん六人衆かな、そんなものにおくだなんて奇異に感じる所だが、いやはや、素晴らしい。確かに、現役であんな高い所まで登った大衆音楽は他に無いのだから、そのモチベーションの高さを表現するには彼らの名前を出すしか無いかもしれない。ならば「私は“次のエディ”なのよ」とでも言った方がよかったかも。いや通じないか。(エディはアイアン・メイデンのマスコット・キャラ)

そして彼女は「"FINAL FRONTIER"ツアーを体験して感銘を受けた」とも述べていた。いいセンスをしている。既に生ける伝説となったバンドの、“現役としての凄み”を直に感じたのだ。「昔のアイアン・メイデンはよかったよ。」としか言えない日本の(ry

モチベーションの高さは重要である。同時に、その"高さ"に近付いている事を日々感じられる事も重要だ。それをどう賄うかはヒカルにとってクリティカルである。5年前に「私に"それは違うよ"と言ってくれる人が居ない」と嘆いていたけれど、今、そういう人は見つかったのだろうか。P.J.ハーベイには会えたのだろうか。レディ・ガガのように、エキセントリックで、誰にも似ていない孤高の存在にも、「私もあんな風になりたい」といって目指せる存在が在る。ヒカルにも在るのか。

要らない、という考え方もある。しかし、だとしたら、日々の中で自らの成長をどうやって推し量るのか、ちょっと見当もつかない。間違った道を行った時に、レディ・ガガなら「あら、アイアン・メイデンから遠ざかっちゃったわ」と軌道修正が出来るかもしれないが、ヒカルは自分が間違った道を進んでいるかもしれない事に、いつどうやって気付けるのか。それをわかる"理想"を、変わらず心の中に持ち続けている事は可能なのだろうか。

プロフェッショナルに割り切れるなら、或いは。常に、ただひたすら次の曲を完成させる事に集中する。その繰り返しで日々が過ぎていくとして。それでいいなら、いいのか。そして気がついたら高い所まで来ていた、と。本当にそうなるの? わからない。

結果的に沢山曲を書いたら財産と呼べるものになっているのだろうか。そこで自分に嘘をつかない自信はあるのか。

音楽家には、過去の財産を最大限活かせる場がある。それがライブだ、と昔書いた。今まで書いた曲を総動員してひとつの演奏会を作り上げる。それは楽曲と人脈と聴衆が総て財産として眼前に生きていなければ不可能な事だ。寧ろそれ以外に財産なんてあるのか。それを"やりがい"にし続けられればかなりの所まで行けると思うが、ひとつ懸念がある。聴衆だ。

ヒカルは聴衆に対して甘過ぎる所がある。「聴きたいなら歌ってあげる」と。しかし、それを続けていくとお互いの首を絞めるかもしれない。「それでもいい。先の事より、今夜来たお客さんを精一杯楽しませたいの。」とヒカルなら言うかもしれない。そう言われたら黙るしかないが、ここに目標の有無が効いてくるのではないか、とも思える。レディガガと宇多田ヒカル。両者の生き方の違いがそれぞれに今後何を生み出していくのか、少しの不安と大いなる期待と共に、楽しみである。

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宇多うたアルバムのプロモーションでも使われていたARとかいう技術、あれ生放送でも使えたりしないのだろうか。独特の透過技術で、カメラ付きガジェットを翳すと3Dオブジェクトや映像が画面に映し出される。それとクロマキー(ってすんごい昔の技術だが、簡易だからか未だに使われとるな)を合わせれば、まるでそこでヒカルが喋って歌っているような絵が得られるなぁ、とぼんやり考えた。ずっとスマホかざしてると腕疲れそうだけどなっ。

20代はイケイケから12年が経っているが、その間の生中継の進歩は一昔前の"12年"という感覚からは程遠い程速い。スマホでもフルHDが当たり前になってきていて、いつ何時でも高画質、そりゃメイクに気合いを入れなきゃならなくなるだろうて。

私は疎いが、プリクラから写メール、更に今の動画撮影に至るまでの流れがメイクやファッションに与えた影響って誰か研究してないの? そういうのって若い子考えないのかな。まぁその話題は膨らまないので置いておいて。

誰でも気軽に動画を撮影・生中継出来る土台が整った為、逆にプロの撮影技術や編集技術、リポーターの話術など、プロの技が見直されていく気がする。それっぽいものを作りたかったら、相応の投資が必要なのだと。

2つに別れる。やっぱりプロっぽくしたいというのと、あれ、じゃあ別にそういうプロっぽさ要らないじゃん、というのと。用途と目的次第だろう。

ヒカルが次にどちらのアプローチをとってくるかは結構わからない。「手作り感」というのはかなり重視されていて、「点」「線」の出版は装丁から流通確保から総て手をかけた。20代はイケイケ!もひとり喋りで自由な配信、という面もある一方、乗用車をプレゼントとして放出するなどゴールデンタイムの地上波番組並みの予算も匂わせた(ちょっと大袈裟)。

どちらもできる。だから読めない。そもそも映像配信自体まだあるかどうかわからないし。いちいちメイキャップさんやスタイリストさんを呼ばなきゃいけないのが映像配信の面倒なところで。音声配信なら声だけでいいんだけど。衣擦れの音がしない服来てくりゃいいんだし。

Kuma Power Hourは総て自前で1時間の音声を編集していたという事で、いわば公共の電波を乗っ取った音声配信だった訳だが、一方で公共の電波側は著作権の包括契約を提供する事で音楽トラックの放送を可能にした、なんだかんだで連携プレーである。

つまり、今後は、旧システムと新システムのいいとこ取りをしながら進んでいくのではと考える。どちらか一方、という事はない筈だ。その具体的な方法論についてはまたいつかの機会に考えてみたい。

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梶さん今井美樹の担当するのか。ロンドンに住む気?(笑)

今井美樹といえばつまり布袋寅泰プロデュースで。彼女の元々の芸能界の立ち位置を考えるとちょっと違う人脈を引っ張って来れる人が居るというのが独特の存在感を生んでいる。変な話、“PRIDE”みたいな曲を大ヒットさせるのは案外難しい。あのスタイルは毒にも薬にもならず、なんか綺麗なサウンドだねで終わってしまう危険性もあるからだ。松任谷由実&松任谷正隆のとはまたちょっと違ったコラボレーションである。

今井美樹を支持するファンの声で大きいのは「憧れの存在」というヤツだ。女優さんというのはお芝居を通じてそういった夢を見させる商売をしている。私からみればこどもなら兎も角大の大人が芝居の中の人物に憧れるとかアニメに夢中な大人よりずっと危なっかしいと思わなくもないんだがそれは置いといて、今井美樹はそこらへんに現実のライフスタイルも織り交ぜながらこの30年を生きてきた為、歌手としての説得力を幾らか持ち得ている。いわばこの30年女優として歌手も演じてきて、その中に現実として音楽家を伴侶に持ち、家族で海外に居住するという確かに"憧れられる人生"を歩んできた。歌手としても女優としても清潔感や透明感、分別のある大人の女性としての気品などをセールスポイントとしている割に、"狡猾"というのがとても似合う人である。山下久美子さんお元気ですか。

梶さんみたいなストレートな人が、彼女のA&Rを担当するというのは興味深い。ぶっちゃけ奥さんに相談してそのままやるのがいちばん成功しそうな気がする。女って恐ろしいからね。

そう考えると宇多田ヒカルは全く真逆のキャラクターである。様々な屈折した表現はピュアでシンプルなハートをメインテナンスする為の処方箋。そんなのMaking Loveを聴けばわかる。Making Loveは、メロディーだけならそれこそ今井美樹にもピッタリだが、あんな歌詞歌えるかというと難しい。なんであんな風になるんだ、とヒカルの事をよく知らない人が歌詞の由来を知ればそう言いたくなる曲である。

勿論ヒカルの生き方は芝居ではない。歌の中でしか役者になれない性格である。あれだけ声優として魅力的な声質の持ち主なのにピノコが残念な出来(私は大好き)になったのは芝居が下手だったからだ。どうにも、そういう意味で嘘のつけない人である。今まで沢山嘘ついてきてるけどな。コンサートのMCも、人によっては芝居のように台本通り一字一句喋る人も居るし、巧くなればそれが全く台本を感じさせない人も居る。しかしヒカルは本当に素で喋る。素敵です。

そんななので、なかなかヒカルの生き方は憧れの対象になって来なかった。そういうキャラクターであるというのもあるが、正真正銘"音楽家の人生"を歩んでしまったからである。何かを演じている訳ではない、音楽家そのものを。

しかし、イタリアで年下の白人と結婚してハーフの子を産むとか女子からしたら憧れとかじゃないのん? 未だにそういう声を聞かないぜ。私の耳に届いてないだけか。

そういう意味では、梶さん的にはヒカルより今井美樹の方がやりやすいんじゃないかという風に思えるが、残念ながら男子の真っ直ぐは本当に真っ直ぐなのだ。そこさえ踏まえればうまくいくだろう。彼らの成功を祈りたい。

A&Rが担当を掛け持ちするのは当たり前の話だが、多分、梶さんの場合ヒカルの話ばかりが大きくて、それは大変有り難いとともにやりにくい面もあるだろう。だから、出来れば他の担当アーティストも大成功を収めて盛り上がっていく方がヒカルにとってもいい。ロンドン発の人妻歌手が立て続けにヒットを飛ばす、そのどちらもマーケティングしたのが同一人物で…なんていう流れが望ましい。私も演技が下手だなぁ。あはは。

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そういやテレビの方もここ10年、キーワード予約みたいなものが出揃って、録り貯めたものの中から都度見繕って視聴する、という動画サイト閲覧と変わらないスタイルでの接し方が定着している。

しかし元々テレビの強みは「誰しもが同じ日同じ時間に見ている」事にあった。録画機能の発達でその醍醐味は薄れた。となると生中継こそがテレビの真髄、という事になり、スポーツの、特に日本代表の競技の生中継が高視聴率をとるようになる。

これも考えてみれば皮肉なもので。テレビはその未熟な黎明期、殆どが生放送だった。VTRを編集して流す為の技術と予算が足りなかった為だが、従って、テレビ番組の進化は如何に上手に編集するかに偏っていった。そうして突き詰めていった結果が今の「テレビの強みは生中継」という。

つまり、今のテレビの強みとは大層な放映権料を払えるその資金力にあるという事で、積み上げたノウハウやら何やらはもうさほど重要ではなくなった。成熟した技術を駆使した番組作りの数々は安心感は申し分ないがスリルには欠ける。確かに、メディアとしては老いているのかもしれない。

かといって、皆どうせキーワード予約録画で見るんだからと言ってしまうと総てがオンデマンドになり、もうそれは「放送」といえるのかどうか。いえるかどうかが大事かどうかもわかったものじゃあ、ありませんが。

ネット・メディアの人間からすれば、テレビの持つ求心力は羨ましく映るだろう。ネットワークという位だから中心部のない構造をもつ。したがってロングテールな細分化には強いが一極集中は生み出し難い。そんな中でMicrosoftやApple、GoogleやAmazonといった"巨人"も誕生している。

この観点からみると、宇多田ヒカルというアーティストは本来最もテレビと親和性の強い存在なのだ。本来は、ね。一極集中一点突破の出来るスケールを持っている点で相通じるものがある。

なのに両者の相性がよくないのは、テレビの方が老いていてヒカルの方が若かったからだ。テレビは電波を独占する事で一極集中を保ってきた。一方ヒカルは何もないところからまず歌の力で周囲を巻き込んで、そして肥大化していった。全く成り立ちが異なる。親和性といっても結果論で、既得権と実力という、相反する原因を持っている。

という事は、だ。もし今後ヒカルが老い始めれば、テレビとは本当に仲良くなれてしまうかもしれない。波長が合ってくる。実年齢の話ではない。生き方の次第の話だ。何歳になろうと、その瞬間の実力で勝負しているうちは人は老いない。そういう意味での若々しさである。そして、ヒカルの事だから、その瞬間の実力に満足出来ないとなったら引退を選択するだろう。結局、ヒカルとテレビの蜜月関係は幻だ。

ただ、テレビの方が若返ったら知らない。黎明期のような創意工夫が戻ってくればまた話は違うだろう。そうならないうちは、ほどほどの付き合いに留めておいた方が良いだろうね。

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IRON MAIDENの話を始めると無意識日記をもうひとつ作る羽目になるので自粛する。未だに「生涯で最も聴いた音」が「スティーヴ・葉リスのベースとデイヴ・マーレイのギター」である私なので仕方がないのだが。ヒカルの歌最初に聴いてからまだ16年しか経ってないし。まだまだ追いつきそうにない。

なんでプログレメタラーがヒカルの話をしているか不思議な気はするが、じゃあ誰が話していれば自然かと言われてもこれが結構わからないんだな。

例えば、SOUL/R&Bが好きで、「やっと日本にも本格的に歌えるヤツが現れた」とファンになった人は、これ途中で脱落するよね。「ぼくはくま」とか、どんな気分で聴いただろう。

「海外でも活躍できる日本人ミュージシャンを」と思ってた人は、EXODUSやThis Is The Oneをどう思ったのだろうか。TiTOはビルボード69位で、これが再デビューだと考えればまずまず普通で、ここから4~5枚かけてキャリアを構築していくの定石。そうしなかった事で、やっぱりガッカリしたのだろうか。瞬間風速とはいえ、USA iTunes Store 総合チャート18位までいったのだが。これ、今でも日本人最高位なのかな。

たまには「日本人アーティストを中心に聴いていて、なかでも宇多田ヒカルさんがいちばん好きです」みたいな人が熱く語るところを見てみたい…だなんていうと「いくらでもあるやんけ」と返されるのだろうか。そりゃそうか。

結局、「ずっとファン」である秘訣は「音楽性にこだわらない」事なのだろう。だから、私みたいな風に成り得る。ミュージシャンとしてはどんな気分だろうか。ある意味浮気者というかジゴロというか、いろんなリスナーをその都度魅了していつのまにか"飽きさせて"また次に、という感じか。確かにヒカルが男子だったら「カワイコチャンニモテモテモード」になる気がする。ナンテ昭和ナ響キナンダ。

あ。そうか。と話はやや飛ぶ。ダヌパがイケメンに育ってクマチャンが惚れてしまうという展開は面白いな。なんだこれ母親としてはニヤニヤが止まらないじゃないか。あーこれは面白い。ダヌパからみたら「何してんのウチのママンは」とドン引きだろうけれども。なるほど、クマチャン同性愛設定はこういう風に活かすのか。

例えばダヌパがヘテロだったら。彼がガールフレンドを連れて家に帰ってきたら嫉妬展開だぬん。いやはや、どんな台詞が飛び出すかしらん。

ダヌパホモ設定だとまた味わいが違うわな。まぁ恋人に嫉妬する点では違わないんだが。ただ、あれか、クマチャンに振り向く可能性がゼロじゃなくなるあたり、より嫉妬が攻撃的になるかもしれない。切なさの色彩の変化。いい情緒だぞイタリア人と日本人のハーフと中国生まれヒカル育ちのぬいぐるみの熊の物語。なんかいろいろもらい泣きしそう。

くまちゃんは、ヒカル以外とは滅多に話さない。照實さんと会話をした事があったな、という程度。果たして、ダヌパとの会話はあるのかな。「ヒカルちゃん、ぼくイタリア語わからないよ」―んあーもう。「でもフランス語ならしゃべれるよ」 いかん、萌え悶えるわこれ。

ダヌパとの会話がないと、ヒカルと一緒に遠くから彼を眺めながら寂しそうに呟いたりするのかな。「クマチャン、小さい頃はあんなに一緒に遊んだのにね。」 ヒカル、なんて事言うんだ。「もうおぼえてないのかな。」


…誰かこの設定でSS書かねーか? 冬コミには間に合うぞ。おまえが書けってか悩ましいぞおい。ぷはー、困った。

…なんだこの後半のテンション(笑)。

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