無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Hikaruの書いたリフの最高傑作は、前も書いたようにCOLORSだと思うが、"使い方"まで含めて考えるというのならば私はGoodbye Hapinessこそ至高だと思う。あのSynergy Chorusな。あれがオープニングで出てきた時点でもう既に完全ノックアウトなのだが、あのフレーズがサビの後半に出てくるアイデアには心底やられた。COLORSはサビのアタマからリフがぐんぐん来るいわば王道の使い方なのだがGBHは後ろからぐいっと顔を出してくる。あの満をじして感といったらない。しかも中間部のブレイク部分でも待ってましたといわんばかりにせり上がってくる。それはまるで晴れ渡った元日早朝の初日の出を富士山越しに拝むかのような神々しさだ。チベットのヒマラヤの方がいいか。どっちでもいいや。なお、NHKで一瞬だけヒカルがSynergy Chorusに対して"歌唱指導"を行う場面が映ったのだがその時の鼻歌がさり気ない癖にやたら美声で「人に頼まんとおまぃが歌ったらええがな」とテレビに突っ込んだのはもう四年半
も前の話か。この話ここでするのも三回目だしな。

リフ自体の最高傑作はCOLORSとうっかり断言してしまったが、冷静に考えるとテイク5となら誠に甲乙付け難い。寧ろ、一瞬にして聴き手を星空に吸い込んでしまうような"歌の世界への吸引力"でいえばこちらの方が上ではないか。COLORSはまるで棚引く雲がこれから訪れる出来事への予兆を運んでくるような、イマジネーションを刺激するサウンドとフレーズになっているが、テイク5の場合このフレーズこそがハイライトで、真っ暗闇に流星群が煌めいて、いや、もう流星に乗って宇宙に飛び出していくようなそんな感じがする。それまんま銀河鉄道やんけ。そうなのだ。歌詞の世界をたった3音だか4音だかで表現しきってしまっているところがこの曲の凄い所で。いや寧ろ、先にこのフレーズが飛び出てきていてその余りの存在感に歌詞を乗せようがなかったから『歌詞を書くのを諦めて詩を書いた』とヒカルに言わしめたのではないか。何より、『なんだ、私生きたいんじゃん』という気付きそのものが、作中でカムパネルラがジョバンニに与えた最高のプレゼ
ントだった訳で、いやはやもうこの曲の"生死を天秤に賭けた迫力"は、そりゃあ制作中に精神やられても仕方ないわと納得せざるを得ない。

テイク5のリフは幻想美と切迫感の共存という奇跡を生み出しているが、ヒカルのリフで幻想美といえばPassion/Sanctuary、切迫感といえばBe My Lastだろうか。3部作の最初の2作という事でこの2曲は左右に振り切れ過ぎたヒカルの振り幅そのものという気がするが、単にフレーズの美しさだけをみればやはりどちらも日本より世界で受け入れられるべきではと思わせる。Be My Lastの英語版、10年経ったし作ってもいいんじゃないの。

そのBe My Lastの切迫感からみれば端正な美意識の方に振れたのがSAKURAドロップスだろうし、切迫感を切り詰め過ぎて洗練された絶望感が美を生み出したのが桜流しだ。こういう並べ方をすると、ここらへんがヒカルの"日本人としての美意識"かなという思いもしてくる。

ならば、とUtadaの方をみればなにしろ一発目に名リフ中の名リフを擁する"Devil Inside"が飛び出してきていたのだから、いやはや、今更ながらこの天才の刻み込んできた歴史の恐ろしさには戦かざるを得ない。そして、そこにみられたのがSAKURAドロップスをも上回るかの"和風美意識"だったところが印象的な訳ですよ、えぇ。英語アルバムの冒頭で日本人としてのアイデンティティをこんな絶妙なバランス感覚でぶっこんでくるという"地味なアナーキー"な。いやはや。EXODUSアルバムはHikaruの全作中最も"リフ押し"なアルバムで、従って私の最も好きな作風なんだけど、いやホントまたこういう作品作ってくれないかしらん。

うーむ、やたら無駄に書き散らしてしまった。もともと纏めるつもりがなかったからわざとなんだけど、この人の過去に作った楽曲について語る時私はおもちゃ箱をひっくり返したような気分になるのよ。どれから遊べばいいか迷うあの感じ。それを出したかった。このワクワク感、少しは伝わってくれてたらいいんだけど。

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ヒカルは5月は元気が無い事が多い気がするんだが、厄年ならぬ厄月みたいなもんはないのかな。意味が違ってくるけれど。

そうこう言っている間に5月も終わるんだが。表立っての仕事はしていなくても5月は何となく調子がよくない、というのはあるかもしれない。過去に3度仕事に穴を開けた事があるというのだから。

レコード業界のサイクルに合わせてしまっているのかもしれない、とは思う。だが、アルバムが3月発売の時と6月発売の時の両方、となるとこれはどうなるんだか。

今のところ音楽業界のメイン発売日は水曜日だが、米国ではこれを金曜日にしようという動きがあるらしい。日本が追随するかどうかは私もまだ知らないが、日本でも例えばレンタルDVDは週末に合わせて金曜日発売、みたいな事も既にやっていたりいなかったりするので、移行にそんなに抵抗はないかもしれない。

違和感が出てくるのはオリコンの集計だろうか。秋元康劇場に興味を持っている人はもうあんまり居ないかもしれないが、取り敢えず日本のチャートを基にした番組なんかは曜日を2つ後ろにズラす事になるか。消費者より業界側に負担の大きい変革になるような気がする。

昔はCDを買うという行為が今よりずっと一般的だった為、皆曜日にはより敏感だった。火曜日の夜は新譜と新曲を買いにCDショップに行くものだった。今はもう曜日云々すら話題にならないだろう。今振り返ればそれも90年代からの十数年の話で、いっときの熱狂に過ぎなかったのかなとは思うが。

特定のジャンルを追い掛けている人にとっては結構影響あるわな。火曜夜が木曜夜にシフトする訳だ。まぁ週末まで塩漬けになってるケースもあったからそれはそれであんまり変わらない、なんて風にもいえるんだけど。

Hikaruは今、曜日の感覚はあるのだろうか。どんな生活を送っているのかな。日本に居た頃はミュージシャン稼業であまり曜日の感覚がなかったらしいが、今もし"Monday To Friday"な生活を送っているとしたら、高校生活以来久々だろうかな。あたしゃ小さい頃テレビっ子だったので曜日の感覚=テレビ欄、だったのだが、Hikaruも小さい頃はそんなだったのだろうか。季節が一周する"年"という概念に較べて全く人工的な"週"に振り回されてるのは些か滑稽な気がするが、それに従って数十億人が一斉に動いているというのだから、全くもって罪深い話である。

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ツイートがあると、「やれやれ」という気持ちになる。息災か、嗚呼息災かと噛み締める。どんな内容かよりはまずそれである。

ただ、今回は内容が少々物騒だった。交通事故に遭っとるやないかい。無事でよかった。いや無事とは書いてないがツイート出来る程度には大丈夫なのだろう。

深夜にぼーっとツイートを読んだら「"サングラス"と"ドラマ"と"虹色バス"が何だって?」と思ってしまった。幾つかの歌の歌詞を混ぜ込んで呟いたのかなって。結局私が寝ぼけていただけだが、ココで複数の歌にまたがって歌詞を解釈する話なんてしていたもんだから寝ぼけていてもアタマはそっちに向かったのだな。

次に「タクシーに乗っておきながら次はバスを使うってどういう一日だったのだろう」という疑問がわいた。バスを使うならずっとバスでいいだろうし、タクシーを使うんならバスを使う必要が無い気がするんだが違うのだろうか。それはロンドンの地理次第か。時間を節約したいならタクシーだしお金を節約したいならバスだろう。日本に居ればのケースだが、「何か急に具合が悪くなってタクシーを呼ぶ」→「診察と治療を受ける」→「帰りは病院から出ている直通便のバスで」みたいなのを想像してしまった。行きは慌てていてタクシーにサングラスを置き忘れる。顔色の悪さを隠すとか、そういう事もあったのではないか。用事のあったビルも大病院とかではないだろうな…なんて風に。なんかちょいネガティヴだな。寝ぼけていたんで許して欲しい。

まぁでも、とりあえずロンドンでの話って事でいいんでしょうかね。事故を起こした運転手は場合によっては人生投げ打って地獄の果てまで追い詰める羽目になる所だったが、まぁよかった。気をつけてうただきたいものだ。

で、ついでのように春画展のツイートをしている。リンクつきQTなのでアピールだろうから、9月の目白か。要予約とかでないのなら行ってみるかな。多分、帰りに寄るワールドディスクで費やす時間の方が遥かに長くなりそうだが。現時点では、春画自体にそんなに興味がある訳でもないので。規模もそんなに大きい風には見えなかったし、どれくらい盛況になるのやら。

私は日本という国にアイデンティティを感じている訳ではないので、作品が過去の日本のものだと言われても「そうですか」くらいにしか思えない。普段美術館に出掛ける習慣も無いしなぁ。嫌いじゃないんだけども。鑑賞の時間の過ごし方は心得ているつもりだし。

春画については、技術は大したものだと思うが、今のところ引き込まれるような作品に出会った事はない。せいぜい、今の18禁作画家との共通点や相違点などを論って、伝統というのはそういう所にも息づいているのかと少々学問的な興味を持ったりするだけだ。昔の絵描きさんより、今を生きる絵描きさんの人生の方が興味があるのかもしれない。いや、作品とのはそういうのを超えてくるから面白いんですけどね。

その意味では、Hikaruには、具体的にどの作品が気に入ったのかについて言及して欲しい所である。最初から学究的興味での鑑賞だったのならその旨教えて欲しいところだ。それとも、日本で開催される事自体に意義がある、とかなのだろうか。だとするとわざわざ足を運ぼうとも思えず。まぁいいや、3ヶ月経ったらまた気分も変わっているかもしれないので、またその時になったら検討する事にするわね。

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言葉同士の「近さ」の概念は異様である。器楽演奏は、ちょっとズレたらちょっと、大きくズレたら大きく直せばいいから素直なものだが、言葉は正解に実際に辿り着くまで今どれくらい近付いているかさえわからない。ヒカルはかつて作詞の作業を種々の表現で喩えていたが、「部屋の中にあるはずの古い写真を探しているような」といった言い方もしていたようにも思う。正解の存在だけは何故か確信していて、しかしそれがどこにあるかは(部屋の中だろうという程度にしか)わからない。さしあたっては闇雲に探すだけとなる。

この作詞の作業を、ひとつの楽曲の枠組みを超えて捉え直してみるとどうなるか。一曲々々の歌詞はバラバラで、一見はどれも繋がりがあるかないかはわからない。しかしそこには、同じ作詞家が書き同じ歌手が歌うという別の"共通のファクター"があって、それに基づいて我々は別の歌の歌詞同士を照らし合わせてみたりもする。

勿論割り切れているケースや、そもそもそんな発想もなかった場合もある。特に、タイアップ相手がバラバラであればそれによって世界が寸断されている感覚を無意識のうちにもつ。EVAとKHの世界を繋げて考えようとはなかなか思わないだろう。同人作家さんは別として。更に、前回述べたように、歌詞とは聴き手の人生に依拠したものだから、同じ歌詞でも受け取り方が異なる。そんな中で"共感"を広く呼べる歌詞は優れているとされる。

このように、沢山のフェイズが在る。包括的な議論は難しい。一方で、いち歌手の活動を何年にも渡って追い掛けているのなら、その歌詞自体もまた我々の人生の経験の一部として参照されるようになる筈だ。

歌詞ではないにしろ、それの齎す"威力"はGoodbye Happinessで皆体感した事だろう。『出会った頃の気持ちを今でも覚えてますか?』と歌いながら過去の名曲を想起されるアクションを次々と起こすヒカルの姿を見て感動した事も多いだろう。

まだヒカルは歌詞の面で直接そういった試みをした事は無い。せいぜい桜流しで『あなたが守った街』というフレーズを出したり、とかそういうタイアップ相手との関連性を印象付ける程度で、歌詞と歌詞となると…"Automatic Part2"っていう"タイトル"くらいだろうか。

兎に角、ヒカルのように"大きくて長いキャリア"を背景にすると、歌詞の書き方にも気を遣うようになるかもしれない。過去の歌を匂わせるような歌詞を書けば明示的に繋がりが出来そこに物語が生まれ始める。そうならないように意識的に分断する作業も必要になってくるし、更に今書いた歌詞の影響で過去の歌の歌詞の聞こえ方が変わる場合もある。前回述べた通り、歌詞は歌が奏でられている時間もそうでない時間も"生きて"いる。それらの間の幾何学は我々が自前で構成しなければならない。自分でも書いてて混乱してくる位にこのテーマは論点が多い。またもうちょっと整理がついたら書き直すわ。

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前にHikaruが一度「今歌のない音楽を聴いている」的な事を呟いていた。その心境を詮索する気はない。「歌詞があると」というifを掘り下げてみたくなっただけだ。

歌詞があって歌手が居てそれを歌う。人が言葉を紡ぐ以上、それは文脈で語られ得る。

毎度言ってるように(ほんになぁ)、Hikaruは音楽性に統一感が無い。ジャンル分けを拒否するPopsである。よくある、「こっちはサーフ・ロック風、こっちはボサノバ風、こっちはフレンチ・ポップ風…」みたいな、既存の音楽性をいいとこどりした作品ではなく、一曲々々が独特のサウンドになっている。だから「~風」という言い方をしにくい。しかも、そのUtada Hikaruワールドの中でも"似た曲"が非常に少ない。その為、曲と曲同士の関連は薄く、それぞれがバラバラに存在している。

これがもし、インストゥルメンタルだと何の問題もない。メロディーは何を参照するまでもなく聴いたままで美しく、リズムに乗る人はまず間違いなくそのリズムが刻まれている"真っ只中"でリズムに乗っている。曲が終わった後にノっている人は居ない。居たら単にその人の頭の中でまだ曲が鳴っているだけだろう。器楽演奏は、その時その場のものである。まさに今、鳴っている音に反応するのみだ。

言葉というのは、そういった"音楽の作法"を逸脱するものだ。歌詞だからといってそれは例外ではなく、そこで使われている言葉に対する事前知識が必要である。

逆に考えてみよう。例えば、歌詞の中に知らない単語があったとしよう。例えば若い人は、『枕元のPHS』が何の事かわからないかもしれない。それを歌うのを聴いて、「どういう意味なんだろう?」と小首を傾げたのが曲を聴いている時のリアルタイムの反応だったとして、「そうか、電話なのか!」とはたと膝を打つのは曲を聴いていない時間帯に意味を検索した時である。その人にとって歌詞の意味が伝わったのは歌が鳴っていない時なのだ。

インスト曲ではそんな事は起こらない。「あの楽器はカリンバっていうのか」みたいな知識を後で知る事はあっても、音楽の魅力自体には何ら影響を及ぼさない。一方、歌詞の意味を知る前と後では、歌詞に対する感想が変化する可能性がある。これが器楽曲と歌曲の本質的な違いである。つまり、歌詞は、曲が流れている時と流れていない時の区別が無いのだ。もっと言えば、我々は時間軸の中で、曲の歌詞で使われている単語ひとつひとつの意味を実際に知った自分の人生の時間の中の瞬間をその都度参照しているのである。極端な話、今、目の前の音楽だけを聴いている訳ではなく、人生の中の様々な時間を一度にめまぐるしく再体験しているのである。

この、歌(メロディーに歌詞を伴った何か)の特徴を考える時、ひとつの曲の歌詞は、どうしたって他の曲の歌詞の参照対象となる可能性を持たざるを得ない。

物凄く平たく言えば、作詞家宇多田ヒカルの書く歌の歌詞は、それぞれに繋げて受け取られるって事。あっちの歌の"あなた"とこっちの歌の"あなた"は同じ人だろうか違う人だろうか? こっちの"Mama"と"かあさん"と"お母さん"は同じ人なのか違う人なのか。同じ言葉を使ったり、似た言い回しをしたりすれば、どうしたって繋げて考えてしまう。

器楽演奏でも似たフレーズや同じ楽器を関連付けて考える事も出来るが、その"近さ"は常に連続的でとてもわかりやすい。1音半高い音は1音高い音より半音高い、或いは2音高い音より半音低い。そういう感じ。

しかし言葉は違う。同じ「あなた」という単語が各文脈であらゆる姿に形を変えてやってくる。言葉遣いによっては、宇宙の総ての事物のいずれにもあてはまるかもしれない。これも平たく言えば「バラッバラ」だ。

だから…という話をしたかったのだがここから思ってたより長くなりそうなのでまた次回。

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ヒカルは一時代を築き上げて生き切って"アーティスト活動無期限休止"期間に入って現在継続中な訳だが、果たして戻ってくる場所はあるか?戻ってくる気になれるか?というテーマでずっと書いている。余計なお世話だろうかとは思うが、「充分稼いだ。知名度もある。社会的貢献もした。」と来れば普通は「じゃあこれからの人生は自分の好きに生きよう。」となるものだろうに、UMGと新たに契約しておいたというのはどういう事なんだろうかとずっと引っかかっているのだ。

今年も来日したが、ポール・マッカートニーは何故70歳を迎えても新譜を作りツアーをするのだろうか。20世紀最大の巨人なのだから、それこそジミー・ペイジのように過去の遺産を整理しながら生きていってもよさそうなものなのに。あそこまでいくと、もうただ単に「それがポールの人生だから」としか言えない。ずっとそうしてきていて、今それが出来るからやっている。惰性でやるには必要な情熱や体力が尋常ではない気がするのだが、それを上回るだけの"勢い"が、彼にはあるのだろう。結局は、「好きでやっているだけ」だわな。

生き方にも色々ある。現在開催中のテニス全仏オープン、王者ロジャー・フェデラーは今大会の出場によって62大会連続四大大会出場の男女通じて歴代1位タイの記録に並ぶ。15年以上大きな故障もせず更にTop100以下に実力を落とす事もなくやってきたという化け物記録だが、今までの第1位が日本の杉山愛だったというのはどれだけの人が知っていただろうか。この記録を知っていた(ギネス登録の話もね)私ですらすっかり忘れていたのだからそんなに大きく取り上げられた記録ではなかったかもしれない。一方、13年休んでいた伊達公子の復帰は結構大々的に取り上げられた。

15年間休まず続けた元世界複1位と、13年のブランクを間に挟んで通算15年以上のキャリアを積んでいる元世界単4位。Hikaruはどちらかといえば伊達のタイプだろうか。前にも触れたが、結婚して精神的に安定し、復帰した後の方が遥かにテニスに対する情熱が強いようにみえる伊達のように、ヒカルも復帰後の方が更に精力的に活動できたりするかもしれない。続ける事自体がモチベーションになったり、休む事で情熱が深まったり、まちまちである。

だから、伊達公子が国内の下部大会から順々にステップアップしていったように、Hikaruがかなり小さい規模から復活をする、なんていうシナリオもありかもしれない。周囲がそれを許すかどうかは微妙なところだが。あとは、UMGと結んだ契約の規模内容次第だろう。それが枷となるか助けとなるか、それにしてももう5年経つ訳で、えらく気の長い話だなこれ。

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週末に庵野監督が「このままではアニメは後5年」的な話をして話題になった、という記事が出ていた。労働環境を問題視していたのかな。詳しい事はよくわからない。私からみると、後5年とかいう年限で限界が来るものといえば、アニメ業界でいえば"原作の枯渇"の方だろうとは思う。昨今、ジョジョや寄生獣など随分と古い作品がアニメ化されているが、これは現代にリアルタイムでアニメ化できる作品が少なくなってきた事が背景にある。昔に較べて漫画や小説が衰退したのではない。誰の目にも明らかなように、アニメの本数が異常なのである。深夜枠主体とはいえ、それなりの視聴率をとるにはそれなりの質の原作が必要で、そんなものが爆発的に増える訳もない。アニメ業界が肥大化し過ぎているのである。補食者と補食対象のバランスが崩れれば、確かに生態系の再構築が始まるだろう。

ただ、それは今手元にある発想に基づいて予想したものだ。同じく先週末、ラジオ番組「洲崎西」のアニメ化の話にも話題になっていた。ハッシュタグがトレンド入りしたというから相当だろう。番組中、冗談か本気かアニメ化の話もしていたし、ニコニコ動画にはラジオ音源を元にした"紙芝居"もアップロードされている事から、リスナーからすれば「あの番組ならアリかな」と思えるが、番組を聴いた事のない人からすれば「ラジオ番組をアニメ化? ちょっと何言ってるかわかんないんですけど?」という感じじゃああるまいか。確かに、突拍子も無い。

先の庵野監督の発言と結びつけるのは無理があるが、しかし、アニメの原作としてラジオ番組をという発想は皆にあったかどうか。現時点ではアニメ化に向いたラジオ番組が沢山ある訳ではないから我も我もと後続が続く事を期待するものではないが、この話の要点は、「思いも掛けない発想からガラリと風景が変わる」という事だ。発想は常に希望である。ま、洲崎西は5分アニメなんだけどね。


結局は、「何でもいいからいろいろやってみる」事に尽きる。そのうち何かが生まれるのだ。最初に西明日香を知った時は、こんな展開が待っているとは夢にも思っていなかった。当たり前だけど。最初は「何で洲崎綾と?」としか思ってなかったもんねぇ。それが中野サンプラザや大宮ソニックシティを売り切る(後者はこれからだが、あそこのキャパだったら99%間違い無い)のだから世の中わからない。


どうにも、宇多田ヒカルクラスになると、皆がプロフェッショナルなものだから(それでも結構手作り感ある方だけどね)、総てがオーガナイズされ、約束されたタイアップ、決められたプロモーション日程、賛否両論を呼ばないサプライズなど、いろいろとスムーズに行ってしまう。いやそりゃあ常に社運を賭けたビッグ・プロジェクトであり続けたのだから当たり前なんだけど、本人は兎も角、周囲は石橋を叩くように緻密にオーガナイズしてプロモーション態勢を整えていたのではないか。それでも、ヒットするかどうかは最後の最後までわからないんだと思うけど。

そういう、「え、何、次それなの? どうなるの?」みたいなプロジェクトがヒカルにはない。「点」と「線」を作るだなんて心底吃驚したものだけど、それはヒカルが大変じゃまいかという"心配"が大きかった。中身はメッセージとインタビューを纏めただけの"無難"なもので、それ自体にはサプライズはなかった。いや私個人は枕にして寝てるほど"なくてはならない"存在になってますのやけど。

一言で言えば、プロジェクト自体に"無茶"がないのだ。確かに、ひとつひとつのプロジェクトには「その発想はなかったわ」というものが多いが、しかし実際に触れてみると手堅く、明らかに"成功を狙って"作られたものが多い。宇多うたなんかそのいい例で、肝臓先生にも「その発想はなかったわ」と直に伝えてしまったのだが、内容的には大体うまくいくだろうという感じだった。あまりにもプロフェッショナル過ぎて「だだだ大丈夫なの!?」みたいな感じではなかったのである。売上予想の話じゃなく、作品の質として。

そういう意味で、宇多田ヒカルという"プロジェクト"はビッグすぎてThrill is goneな感じが否めない。しかし、だからこそ、なんというんだろうか、爆発力が期待出来ないようにも思えてきている。無茶な事をして欲しいのか欲しくないかは書いてて自分でもわからないのだけれど、そういう生き方もまたあるんだという事は頭の片隅に置いておいていいんじゃないかな。

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前回のタイトルを「こら、予算の話はよさんか」にし損ねた。だから何って話ですが。

制作費の捻出と回収はプロジェクトの主幹と言ってもいいのだが、音楽制作に於いてはあんまり重視されない。映画の売り文句が制作費なのとは対照的である。これは、音楽が個々人の創造力に依る所が大きいのに対し、映画はかなりの部分人海戦術で補える面があるからだろうか。ヒカルが行定対談の時に映像の現場は体育会系で内気な音楽制作の場とは雰囲気が違う、と言っていたが、つまり人数が居て組織立って手足を動かす事で映像の現場が回る~つまり、予算をかければクォリティーを上げられるセクションが多いという事だろう。

そういう実状を考えた時、映画はひたすら宣伝して収益の規模を拡大するのが大正義になる一方、音楽の場合は必ずしも経済的規模が創造性の一助になるとは限らない。人によっては、儲かれば儲かるほど上限なく意欲的になれる人も居れば、大成功によって追い詰められて自殺する人も出てくる。いやまぁ音楽家に限ったこっちゃないけどな、それは。個々の創造性に依拠する以上、ひとりひとりの価値観とモチベーションとそれに沿った環境作りは必須となる。

Hikaruの場合は、どこでどれくらいの規模でどんな結果を出せば"成功"といえるのか。それが話のテーマである。ここが明解であるかどうか、もっといえば、周囲のスタッフとどれだけ価値観を共有出来ているかが鍵となる。有名になっていい事があんまりなかった、と言いたくなったりしたのは、その"代わり"として得た資産にHikaruがあまり励まされなかった事を意味する。まぁ、それは見てりゃわかるんですけどね…長者番付に載った頃の"高い買い物"が卓上噴水ですから。

狂ったくまちゃんのように「富~名声~」と嘶ければ悪くないのだが、未だにそんなキャラじゃないし、これからもそうなりそうにない。ふぅむ。

モチベーションとはつまり、「また次も作りたくなる」とか「ずっとここに居たい」或いは「次はあそこに行ってみたい」とか人として意欲的な側面を見せる事なのだが、ここの母娘は揃って「今ある環境で物事を改善する」癖がついているから困ったもので。何が困るって、別にそこでなくてもよかったかもしれないのに周りに居る"同胞"たちをあっさり追い抜いてしまう事だ。場に対する執着が無いのにトップを取ってしまうというのは、事態を結構ややこしくするんだが、まぁその話は今はいいか。

何をすれば自分が満足するかを事前に見極めるのは案外難しい。手に入れてから初めて「私が欲しかったのはこれだったんだ」とか「私が欲しかったのはこれじゃなかった」とかわかる。やってみなければわからない。やってみてもよくわからないかもしれない。だから、「その結果次にどうしたくなったか」をみるしかない。その"サイクル"をどう助けるかが周囲の課題なのだが、"望ましい環境"作りは、果たして捗っているのだろうかな…。

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予算。極論すれば、"日本で売れるべき理由"はそれしかない。いや、無いは言い過ぎだが、それ以外はHikaruにとってはデメリットばかりである。

ファンは応援するアーティストが売れると気分がいい。知名度が高いと何かと楽だ。売れ過ぎるとチケットが取り難くなるとか支えている実感が薄くなるとかマイナス面といえなくもない要素もあり、一概には言えないが、人によっては「売れていて欲しい」と思っていても不思議ではなく、その割合がかなり大きくても驚かない。

しかし、Hikaruは今までより売れたりしたらまたマスメディアの餌食になるだけである。「売れたらレコード会社に対する発言力が増す」というメリットも考えたが、よく考えたらHikaruが売れた売れないや発言力の大きい小さいで自分の言う事を変えるような人間であるとも思えない。イヤなものはイヤ、やれない事はやれないと、どれだけ売れてなくても言えてしまいそうな気がする。それで契約を破棄されても構わないだろう。違約金払えとなったら別だろうが、違約するような約束をHikaruはそもそもしない。

となると結局、かなり際立ってメリットだと主張出来るのは、予算なのだ。一流のミュージシャンは、時間と手間と金をかければかけるほどよりよいサウンドを生み出す。何故だか知らないが経験則からそうである。高い予算と長い制作時期をかけた作品(なぜか私の頭に最初に浮かんだのはDEF LEPARDの「Hysteria」)は、水も漏らさぬ完璧な完成度に到達する。Hikaruとて例外ではないだろう、能力的には。

Hikaruがそれをしたいかどうか、だ。完璧なサウンドにこだわるよりは、楽曲自体を生み出す事に注力したい、というのなら予算はそんなに要らないだろう。個人の才能によるところが大きいからだ。Hikaruにラップトップと鍵盤楽器、そして集中できる環境さえ与えられれば、Hikaruは次から次へと名曲を生み出すだろう。その為にそんなに予算が必要だとは思わない。軽井沢に一軒別荘を借りたとして、更にお手伝いさんを雇ったりしたとして(なんだその設定は?(笑))、いったい幾らくらい掛かるんだろう。それが3ヶ月4ヶ月というならかなりのものだろうが、2、3週間ならどうだ…と考えていくと、そんなにお金が要るとも思えない。いや、例えば既に今までの資産を利用してプライベートスタジオをもち、かつHikaruが「ここがいちばん落ち着く。」とでも言い出せばもう殆ど予算はかからないだろう。Hikaruに浪費癖は無いのだ。


ただひとつ、「妥協しない」という点で予算が掛かってしまうかもしれない。フルオーケストラを雇っておいて「よくなかった」とボツにしてしまう冷静な判断力を、Hikaruは持っている。しかしこれも、納期と予算の制約の中で最善の選択肢を選んでいるだけで、上限が決まっていればその中から選ぶだけだろう。具体的な予算の金額がクリティカルになるとも思えない。

となると、程度の問題というか、「予算があるに越した事はないけれど、なきゃないでなんとかなる」のが作曲家・プロデューサーUtada Hikaruのキャラクターなのではないか。ある意味、一度低予算で作ってみてどれくらいのクォリティーになるか試してみて欲しいくらいだが、まぁわざわざそんな事する必要もないか。あればあるだけ使ったったらええねんな。

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話を纏めておくと。もしHikaruがEntertainment BusinessやPop Music Sceneに興味があるなら日本から始めずに米国や英国から始めて、その人気を日本に逆輸入すべきだ、という事。確固たるファンベースのない日本で、こうやって世代の入れ替わりを経た後に十分な支持を得るのは難しい。そのうち、"渇望"すら失われていくだろうからだ。

ただ、何をもってして日本の"市場"が失われたのか、というと難しい。減っているのはCDの売上であって興行は依然活況だとは何度も述べてきたし、各ジャンルのファンは何不自由なく暮らしている。

例えば私はHR/HMファンだが、1991年から1994にかけての時期にこのジャンルは完全に"終わった"と言われた。実際、それまでよりチャート実績は落ちたし、大半のロックファンはオルタナ世代に流れた。そして、シーン全体からみても、ロックというジャンルは完全にヒップホップ/ソウル世代に対抗出来なくなっていった。Nickelbackが"孤軍奮闘"状態になる2001年頃以降、つまり21世紀に入る頃には、従来からビッグだったベテラン以外はまるでビッグヒットを飛ばす割合が減ってしまった。その中のいちジャンルでしかないHR/HMなんぞ、もう推して知るべしである。

だが、個人レベルではまるでこのジャンルは衰退していない。それどころか、LOUDPARKの定着によって見られるバンドの数が増えた。カップリング公演やフェスティバル形式も定着、OzzfestにKnotfestと後続まで現れている(いや歴史はOzzfestの方が長いが)。購入形態も、配信販売やネット通販によって手に入れられるケースが拡大に増えた。輸入盤や中古盤もクリックやタップひとつである。昔よりずっと恵まれた環境にいる。"終わった"と言われたジャンルのファンをそのあと20年以上も何の不自由もなく過ごせているのだ。関東在住、ってのがいちばん大きいのですがね。

兎に角、別にジャンルとして、シーンとして"終わった"からといって、ファンは嘆く事はないのだ。新曲が聴けてライブに行ければそれで事足りる。ラジオやテレビの出演がなくてもいくらでも音声や動画が配信できるしインタビューもWeb媒体で十分だ。何の問題もない。売れないとかメジャーじゃないとかは大した問題ではないのである。ファンの方からすれば。

シーンが小さくなって収益が少なくなった時に困るのはファンの方ではなくて制作側だ。制作費が低くなる。これが痛い。というか、まさにこの一点に絞られるといっていい。

そこで、Hikaruの場合である。制作費はどれ位必要なのだろうか。それ次第だ。制作費がそんなに要らないのであれば、使わない方がいい。使えば使うほど、広告宣伝に力が入り、Hikaruの体力が削られていく。2002年にしろ2009年にしろ倒れたのは制作途中ではない。プロモーション活動中だ。勿論疲労は蓄積されているだろうが、それがなければ倒れる事もなかった。Distance制作後のように三週間でも幾らでも休養をとってから復活すればよかった。結局、問題はそこなのだ。制作規模と宣伝規模。ここを勘案しながら進んでいかなくてはならない。

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多分私は知り合いから「物凄い食いしん坊」と思われているだろうが、意外な事に(でもないのかな?)食に対する拘りは殆ど無い。Twitterのプロフィールに堂々と家訓として「あるもん食っとけ」と掲げている通り、兎に角食べられればよく、それが何であるかは問わない。明日からベジタリアンになれと言われても恐らく大丈夫だ。チキンラーメンが食べられなくなるのは痛いけども…。

音楽の趣味も、ちょっと近いものがある。何らかのメロディー、或いはリズムさえあれば機嫌がいい。我ながら現金だが、音が聴ければまぁそれでいいのだ。ただ、一方で非常に好みはハッキリしていて、この20年、"飽きて聴かなくなったジャンル"はひとつもない。新たに魅力を発見して聴きたくなる音源は増える一方である。

ただ、まぁ例えば小室哲哉なんかは"聴かなくなった"一例かもしれない。いや去年のTM NETWORKのアルバムとかも買って聴いてたけども、どちらかというと飽きたというより彼の力が落ちてガッカリして、という感じが強い。毎年この季節になると"Dragon The Festival"が聴きたくなってくるし、夏になったら"8月の長い夜"を聴きながら夜を過ごすのも定番だ。ここ十年は"プレイ・ボール"とセットだわね。まぁそんなだから、20年以上、自分の方は変わった気がしない。最近モーツァルトを遠慮なく讃えるようになったのは大きな変化だと思うけどそれも広い意味で"お気に入りが増えた"方向への変化なので、大体同じ流れの中にあるのよね。


なんでこんな事を話してるかというとだ、つまり、"飽きた"という経験が記憶が無いのだ。いや、例えば初日に10回リピートしていた"Heart Station"を今では一週間から二週間に一回しか聴かなくなった事を"飽きた"というのなら、総ての曲に対して私は飽きている事になるがそんなごむたいな事言う人は居らんだろう。

一度気に入った曲を聴かなくなる、というか聴いて何も感じなくなる事ってあるのだろうか。余りに初聴のインパクトが強すぎてその感動を思い出す事はあっても再現される事はない、というなら私もそうだが、初聴インパクトは早い話が"驚き"だ。そりゃあ二度目からは差し引かれるだろう。寧ろ、最初聴いてピンとこなかった曲を二回三回と聴いているうちに「あぁ、そういうことか」と要領を得られるケースの方が抜群に多い。

つまり、今昔の曲を聴き直して「どうしてこんなのに熱狂していたんだろう」と思う事が無い、って話。今聴いてもやっぱりお気に入りだ。いや、確かに昔ほどは感動しないケースもあるけれど、それはそれより後に同じ系統の音楽でより優れたものと出会えたせいであったりする。

だから、「今聴いても古臭くない」ってのは、時々意味を見失うフレーズだ。ピンク・フロイドは今聴いたらもうまさに70年代の臭いだらけで古臭い事この上ないのだが、その魅力は勿論今でも20世紀最高水準だ。何が悪いのやら。


と書いていて大体見えてきた。私は、こと音楽の評価に関しては、周りの熱狂にあんまり左右されないのだ。自分の耳で聴いたもの、聞こえたものにしか興味がない。人が高く評価しているものがあるときけば「是非聴いてみたい」と食いつくけれども、聴いて何も感じなかったらそれまでだ。周りに合わせて自分が気に入ったふりをする事もない。ああ、そうね、私がもし学生時代にボタンをすり減らすまでテトリスに夢中になってたら、友達にバカにされようが全く遠慮無く「テトリスは最高だ!」と叫んでいただろうな。自分の好きなものをバカにされるんだったら自分もバカにされても構わないという風に考える少年だった。そこだけ言うと凄く心の強い子に聞こえるだろうけど、実際は全くそんなことはなかったぜ…。

私自身の趣味が20年以上変わらず、また、私自身その間自分の趣味嗜好を歪めようというアプローチをとってこなかったのだから、確かに何かに"飽きる"様子は全く無いわな。四半世紀経っても「今月はHELLOWEENの新譜が出る!!」とか言ってんだから推して知るべしである。


何の話をしたくてこんな話をしたのか忘れてしまったが、要するにそんな私が愛しているのだから宇多田ヒカルの音楽の魅力は永遠だから皆さん安心してください、という事でいいのかな。まぁ、そんな所で今夜はひとつ。

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"宇多田ヒカル"という看板があるから私はやたらと市場だPopularityだと言っているが、個人としてはそんなに興味がない。ヒカルの歌声がこちらの耳に届いて心が揺さぶられればOKな訳で、インターネットのある今の時代に音楽を届けるのに"市場"なんて必要ない。音源のアップロードとダウンロードがそれぞれに出来ればいいのだから。勿論そのアップとダウンの間を取り持つのが恐ろしく難しいからこそ、レコード会社とA&Rの仕事はいつまでもなくならないのだが、我々の場合もう宇多田ヒカルを知ってしまっているのだからそれも必要ない、とキッパリ言い放つ事も出来るのだ。あとは個人的な関係性のみになる。

そこはそういう感じで基本的にドライなのだが、もし何かひとつ引っ掛かる事があるとすれば、私個人の話だが、70年代UKプログレッシヴ・ロックの辿った歴史的な経緯があるかもしれない。後追いで知った"知識"でしかない故に本当のところ当時どうだったのかはわからないのだが、彼らは80年代に"セルアウト"してあからさまな売れ線狙いに路線変更後大ヒットを記録した。YESは"Owner Of A Lonely Heart"で、Genesisは"Invisible Touch"でそれぞれ週間全米1位を記録、King CrimsonやEL&Pの合体であるAsiaに至っては1982年の全ジャンル総合全米チャートで第1位である。これを大成功と言わずして何という活躍ぶりだった、らしい。

しかし、後追いのこちらからすれば音楽性としては70年代に彼らが展開したロマンティックな大作主義にこそ惹かれる訳で、そのギャップに対してどう意見を表明すればいいか未だに戸惑う。彼らからすれば、「俺たちだってやればできるんだぜ」という事を証明したかったのかもしれないが、ここ日本ですら、YESのLIVEでいちばん歓声が大きくなるのはロンリー・ハートだ。もしこの全米1位曲がなかったら来日公演もままならなかったかもしれない、なんて風にも考えてしまう。

一方、一度も世界的大ヒットをとばさなかった北欧や南欧のプログレバンドたちは今でも元気に新譜を発売し来日公演を行っている。ファンからすればそれで十分な訳で、別に大ヒットを飛ばす必要なんてなかったのかなと思う一方、現実はそういった彼らのような無名のバンドたちに光をあてる事が出来ているのも英国勢が80年代にセルアウトしてこのジャンルと人脈の知名度を上げておいてくれたからだ、なんて解釈も出来、評価を躊躇うのである。

つまり、ヒカルが売れてようが売れてまいが知った事ではないけれど、これだけの才能は"売れ続ける義務"があるのではないかと心の片隅で思っているのだな。だからこうやって市場の話ばかりをしている。そこらへんは、自分でもよくわからない。

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"リフ"というと大抵はギターリフを指す。楽曲のイメージを決定づける短いフレーズの事を指すが、短い分何度も繰り返されるし、ギターがメインな用語の為単にリズムギターの事をいう場合すらある(“リフを刻む”などと)。したがって、"キーボード・リフ"だなんていうと何だか未だに妙な違和感があるが、要は繰り返される楽曲のテーマ・フレーズである。

『リフを作るんだったら誰にも負けない』と豪語した事のあるヒカルだが、確かに彼女の書いたキーボードリフのうちには非常に秀逸なものが幾つかある。

キーボードリフ、と言った時にロックファンとしてすぐに頭に思い浮かぶ曲が2曲ある。VAN HALENの"Jump"とEUROPEの"The Final Countdown"である。多分、このバンド名にも曲名にも一切見覚えがないという人も含めて、この2つのキーボードリフを聴いた事の無い読者はここには居ないんじゃないか、と言いたくなるくらいに超有名だ。もうジョセフ・ジョースターになった気分で呟きたいよ。「次にお前は“あーこれ聴いた事ある”と言うッ」って。

ヒカルの書いたリフのうちの幾つかはその超有名な2曲に勝るとも劣らないクォリティーだ。私が思う筆頭はやはり"COLORS"である。シンプルの上にもシンプルで、誰でも鼻歌で出てきそうなフレーズだが、世のリフ・メイカーの皆さんはこのシンプル極まりなさを求めて日々苦悩しているのだ。シンプルであるが故に、コロンブスの卵の如く永遠に思い浮かばないのである。発売当時親子揃って「『前奏と間奏と後奏を聴いて下さい』」とアピールしていただけあって、とても自信があったのだろう。もう12年も前の話だが。

しかし、ヒカルの凄みはそこにとどまらない事だ。先述のJumpにしろThe Final Countdownにしろ、キーボードは思いっ切り印象に残るが、肝心のヴォーカルはあってもなくてもいいレベルである。デイヴ・リー・ロスに至っては邪魔ですらある。まぁそれくらいキーボードが強いのだから仕方がないっちゃ仕方がないのだが、“歌が聴きたい"という日本人に多いタイプには昔からあんまり評判がよろしくない。

ヒカルの"COLORS"は違う。AメロBメロサビの構成がしっかりある。正直、ここまでキーボードが突出しているのに歌単体でも楽曲として成立している例を私は他に知らない。しかもサビではちゃっかりそのメインリフが流れていて、最後のサビ前なんぞ二小節余計に歌って大見得を切ってリフ&リフレインに戻ってくるという贅沢さ。参りましたというしかない。

曲を作ってみればわかるが、ここまで存在感のあるフレーズを"後ろに従えて"ヴァース~ブリッジ~コーラスの三部構成を仕上げるのは至難の業どころか一体何がどうしたらいいのかさっぱりわからないレベルなのだ。こんな曲を新婚旅行のついでに作ってしまうとは最早何を考えているのかわからない。天才に脱帽である。


で。前々から気になってるんだけど。今回は新婚旅行したんだろうか。そして。旅先で曲作りはしなかったんだろうか。それが、"COLORS"のようなぶっとんだ名曲だったりしないのだろうか。確かに、今は音楽業界の仕事はしていないかもしれないが、アイデアは書きためてある筈である。これは宇宙に住む生命体としての義務だからヒカルもちゃんと楽想を書き留めていてくれるだろうから、今後そのアイデアをもとにして曲を作った時には「これはまたもや新婚旅行に行った時に思いついた曲でして…。」と気まずそうに語って欲しい。そして、「じゃあまた離婚してまた再婚してまたまた新婚旅行に行ったらまたまた名曲が出来上がるじゃあないか、うわっはっは!」と酷い冗談を飛ばすおっさんを蛆虫をみるような冷たい目つきで睨み付けてあげて欲しい。ドMな人には御褒美にしかなりませんけれでも。というのを楽しみに待ってるおっさんが今宵もお送りしましたとさ。まるー。

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日本以外でのHikaru活動が本格化した時にいちばん心配なのは照實さんだ。足の具合が今より改善されるかどうかはわからない。特に米国のプロモーション・ツアーは短期間に長距離を移動する為かなりの負担になるだろう。となると、米国だけでも現地でマネージャーなりエージェントなりを雇った方がいい気もする。

後継者問題は難しいが、今更Hikaruがどこかの大きな事務所とマネージメント契約を結ぶとも考えづらい。何より、U3MUSICはその名の通り家族経営であって、僕らの知ってる家族以外のスタッフって村上ちえちゃんくらいしか居ない。その上今はU3のうちの1人はもう参加できないのだから現状U2である。残念ながらこの名前は使えない。果たして、どうしたものか。

たかが名前と言われそうだが、これは大きな問題である。U3という名に込められた思い。それをどう継いでいくか。現世での活動には参加できなくても心はともにあるからこれからもU3だ、と口にしてみるのは容易いが、それは居ない寂しさを増幅するだけのようにも思えてくる。

どちらかというと"増える"方向に期待したいくらいだ。U4とかU5とかな…。U1000までいってしまうとこれまた使えなくなるがその心配はないか。ファンクラブでもあって、その番号表記がU830119みたいのになるならありえるけれども。U3という書き方に、二人とも思い入れはあるだろうなぁ。

こと母の事が絡んでくると、Hikaruは冷静な判断が下せない。これは昔からで、冷静さを失う唯一の要素と言ってもいい。そう考えると今やHikaruは…うーん、どうなんだろうか。いつまでも引きずっていても仕方がない、と言ってもどうなるもんでもないしな。

海外を飛び回ったりしなければ、照實さんはまだまだやるるだろう。スタジオワークなら移動の負担は減る筈だし。音楽プロデューサーとしてのクレジットは暫く問題がない。ただ、このままいくと更に"何でもできる"Hikaruが"あれもこれもやってしまう"状況が増えていく可能性もある。そしてまたオーバー・ワークだ。いや、もういいよそれ。

実務的な面と感情的な面の両方を考慮に入れると、ますますこの問題は解くのが難しくなってくる。「U3」という看板が今後どうなっていくのやら。今は、照實さんが@u3musicアカウントを"私物化"してるから気が付かれないんだけど、あの名前である以上会社のアカウントなのだから、そっちでHikaruが呟いても何の問題もないんだわな。いつか悪戯でやってみてくれないかねぇ。

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西野カナの名前を出したけれど、こちらからみれば彼女は今数少ない"流行歌"を歌える可能性のある子だなぁ、と思うが、そう、"流行歌"というイディオム自体、今や昔、昭和というかいっても平成の最初の10年くらいまでしか通用しなかったものだろう。

そういう意味では彼女は可愛そうだな、と思う。この間も新曲が配信チャート等で1位を獲っていたが、何だか高揚感が伝わってこない。私がチャートに興味が無いからそう感じるだけだ、と言ってしまいたいところだが、もっと興味の無い全米シングルチャートを聴いていると昔ながらの高揚感を感じる。あのアーティストがこのアーティストより上だった、向こうはまだ粘っているな、とか勝ち負けを楽しく語れそうな雰囲気が漂ってくる。つまり、ヒットチャートが"ひとつの土俵"として機能している為、順位付けに意味が出てくるのである。日本のチャートにはそれがもう無い。西野カナの次の2位や3位は西野カナに僅差で負けたというよりは、別の土俵でおんなじくらい売れた別の世界の歌、という感じ。本当に細かく分かれてしまったなぁ、と。

細かいジャンル分けならそれこそ米国の方がずっと徹底しているのだが、日米の何が違うって"中心"の有無である。これは非常に感覚的な話でしかない。比喩でいえば先述の"真ん中の土俵"の有無である。ヒットチャートには、ただの数字の羅列以上の高揚感があった。なんか忘れてたわ、という感じ。


だから、ヒカルの復帰後の日本でのチャートには、今の時点の気分でいえば、私は興味が無い。いやもっといえば、順位や枚数で何かを評価する事は出来ないし、誰かに勝ったとか負けたとかもない。ああ、それだけ儲かったんだね。で?てな具合。1人々々が音楽を聴いてどう思ったかとか、それが何人くらい居て分布はどんな感じだろうかとかそういった興味は恐ろしくあるが、ヒットチャートは、無い。

だからHikaruが復帰したら、全米チャートは楽しみである。思ってたより売れたなとか思ってた程売れなかったなとかチャートを見ながら予想が外れて悔しがったり予想が当たって嬉しがったりしている自分を今想像している時点で既に楽しい。何位だろうが構わないが、順位が出て、HikaruがPop Musicianとしてどんな位置に居るのかを知れる。いい感じ。


…うーん。あたしゃこの国に未練が無いんだろうか。日本で売れても売れなくてめ、売っても売らなくても、はぁそうですかくらいのリアクションしかとれない。日本語の歌は相変わらず好きだ。いや元々英語の歌より日本語の歌の方が好きなんだが、それなのになんだろうこの興味の無さは。諦めて、いるのかな。素直に世界中で歌えばいいのに、と相変わらず思っている。

私ほど極端でなくとも、似た感じで邦楽のヒットチャートに何の興味関心も示さなくなった人は私以上の世代に結構多いのではないか。自分の場合洋楽というオプションがあった為音楽を買って聴くという習慣が途切れる事はなかったが、邦楽なりJpopなりしか聴いていなかった層は、チャートの衰退とともに音楽を聴く習慣すら失ってしまったように思える。

やはり、信頼のおけるチャートの設立が課題なんだと思う。難しいのは、その設立によって誰がメリットを被るかが不明瞭な事だ。これは、リスナーも勿論だが、業界ではたらく人間たちや、ひいてはミュージシャンたち自身にも「やりがい」を与える。

「シーン」の存在の要はそこである。「いい曲をリリースすれば売れる」という"期待"が皆を駆り立てていたのだその感情が結集してチャートが作られていたのである。どこで勝負するかという土俵さえ見いだせれば、我々より上の世代もまた"帰って"くるかもしれない。

どうやってその"期待"を作り出すか。それがいちばん難しい。例えば週間動員数チャートなんかを作れたとしても、その数字同士を比較する事に意味があるかと言われたら難しい。そう考えると、CD購入行動ってあの時代特有の市場形成要因だったんだなと時を経て思う。そのバブルの最後の最後でヒカルがデビューした、と考えるとヒカルは旧時代の完全なる破壊者なのかもしれない。ならば、せっかくなので次の何かを生み出してはみませんかと言いたくなってくるが果たして。何までが宿命なのか、やっぱりさっぱりわからないッス。

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