無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ラジオを一回とばした事をHikaruは悔いているだろうが、「それでもよかった」と思う。第1回を聴き直しながら「次回はどんな内容になるだろう」と妄想した日々。文句無く楽しかった。そういう楽しさを提供してくれるからこそ、たとえ守られなくても破られてもやっぱり"約束"はいいものなのだ。

そう、嘘でもいいから「これをやるよ」と言ってくれれば楽しみようもある。何やってるかわからない、次どうなるかもわからない、では妄想ひとつはたらかない。やるかやらないか以前に、「毎月第3火曜は」の一言が希望そのものとなる。次の熊淡まで頑張るかーという気持ちになる。勿論毎月はぐらかされ続けていてはいつのまにか愛想をつかれる事になるんだろう。狼少年というか狼少女というか。でも、たまに失敗する・穴を開けるくらいいいじゃないか、とも思う。そこらへんのバランスは、各々のファン次第でしかないだろう。

わかりやすくいえば、うたゆなが終わってからぼくはくまの発表があるまでの1ヶ月半より、熊淡第一回からの1ヶ月、或いは第二回までの2ヶ月の方が、私は楽しかった、更に、どうせならそっちの方がいいとすら思った、という事だ。予定と約束の効果はそれである。不在でも楽しい。居たらもっと楽しい。裏切られた時のリスク、というものをもし考えるのならばちょっとしたギャンブルだが、Hikaruに裏切られたと思った経験がない…強いていえば離婚くらいかなぁ…ので、それがリスクとして実感が伴わない。嘘も裏切りもいいから、「長らく歌っていきたいので」に代表される"希望"をばんばん振り撒いて欲しいものである。



離婚くらい、という書き方は誤解を招くだろう。恐らくこれは、「"結婚"観」に対する認識の違いだろう。ヒカルは「こどもは?と訊いてくる人が多くてビックリした」と言っていたが、こちらからすれば「そりゃそうだろ」としか思えなかった。日本人の標識的な"結婚"観ならそりゃ家族を形成する宣言ととるわなぁ、と。そういう"結婚"観からすれば、3年半やら4年半やらで離婚した結婚は"失敗"と言われるだろう。幾らそれが本人たちにとって有益な時間だったとしても、だ。

いや違うな。自己訂正。もっとシンプルな理由だ。アンチ・キリヤンなヒカチュ宇のみなさんが「この結婚はもたん」と口々ににいうのをきいて「いやこの結婚は正しい」とずっと私は擁護し続けていたので、そこで梯子をはずされてずっこけた、とそれだけの話だ。裏切りというほどもない。こどもが居ない以上、結婚も離婚も2人の合意で進めればよかったのだし。つまりあれだ…信じてたのに違っていた、と私が感じた数少ない例のひとつだった、というだけのことですな。また来週っ。

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また来週、とか書いておきながら早速続きを書こうとする私。全く以て気紛れな事この上ない。

ラジオ番組の特徴は、放送日時が決まっていて、それが予め周知されている事である。当たり前過ぎる程当たり前だが、これがアーティストにとっては悩みの種だ。何しろ、当日何がしたいかだなんて、その日になってみないとわからない、それがアーティストのアーティストたる所以である。予め何がどうなるかがわかっているのなら、それがわかった時点でアートの創作は終了している。最早、興味の対象ではない。

ヒカルは、そういった"アーティスト像"から距離をおく為にプロフェッショナルとして自分を律してきた。しかし、本物であるがゆえにその"monstrous"との格闘にしばしば敗北を喫する。考えてみれば世にも珍しいタイプの音楽家である。

その折衷案、というと違うかもしれないが、ヒカルはルーティン・ワークに入る事を嫌い、「次のリリース・デートが出るまでいつ何があるかわからない」という状況で大体仕事をしてきた。レールが沢山敷かれ始めると、どこかの時点でEmergencyが鳴り響き、倒れる。それをギリギリで押し切ったのがUltra Blue United Project だった。よくもったよなあれ。

でも、その時、9月にツアーを終えてもう11月には新曲を発表していたのだ。ぼくはくまである。そして明けて1月にはFlavor Of Lifeという、こうやって文字にすると怒涛に次ぐ怒涛の展開だった筈、、、なんだが、当時のファンの心境はそれを反映したものではなかった。代々木で最終日を終えた後、皆が何を思ったかといえば「これからどうなるんだろう」という不安と期待の入り混じった感情だったのだ。ここである。

極端な話、この9月の時点で「これから11月に新曲、12月にはDVD、1月にも新曲発売!」と打たれていえばずっと祭だったんだが、そうはならなかった。その為、あとから年表をみれば「間断無い」ようにみえる時期でも当時を過ごしたファンの実感は異なるのである。確か、私は「これでここから2年休むのかな~」と言っていた筈だ。実際、Wild Lifeの時と似た感情を抱いていた気がする。

損をしている。宇多田ヒカルは、損をしてきたのだ。もしプロジェクト性を重視し、もっと演出と予定を駆使していればハードワーカーぶりを印象付けられただろうに。その、ファンの"感情の推移"を、ラジオ番組は吸い取る事が出来るのではないか、出来つつあるのではないか、そういう話を…しようと思ってたのだがやっぱ来週にしますかね。どないやねんっ。

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何かいろんな話を途中までしてほっぽってるケースが余りにも多い気がするが気にしない。気にし始めるとキリがないからだ。どうしても言いたい事があったらまたその時に書くだろう。大事なのは書くという行為を途切れさせない事だ。書いてりゃ書かれるべき事はそのうち書かれる。それだけの話。

なので、Hikaruも、歌われるべき歌があるのなら、歌ってさえいればいつか歌う時が来る。「続ける」。Hikaruが自身の事を"飽きっぽい"(誰だAutumnalとかいうヤツは)と評するだけに"続けていく事が大切"とは滅多に言わない。事実、あれだけ稼いでしまうと、若くして引退して悠々自適、みたいな事をいいたげになる人々が山ほど居る事を考えると、"続ける"事のリアリティをHikaruに求めるのは筋が違うという他はない。

ヒカルには、音楽家として、どちらかというと地味めな"職人気質"をみるような目で見て欲しい、という感情がある。しかしそのためには石の上にも三年というべきか、やはり職人技・職人技というものは一朝一夕で成せるものではな…

…い筈だったんだが、15の小娘は既にデビュー時点で職人技ともいえる歌唱技術を披露していた為、やっぱりなんというか「継続は力なり」という地道さからは縁遠く。

そしてやはりここでも、前回と同じように"LIVE"の重要性が活きてくる。今やるLIVEは、常に観客たちと共に作ってきた歴史とともにある。これほど、続ける事が大切なものはない。サザンオールスターズがこの夏復帰してLIVEツアーを行うそうだが、何故彼らがあそこまでの動員数を誇るかといえば、作り上げてきた歴史があるからだ。今や昔からのファンたちも孫が居る世代だから今度のツアーでは親子三代連れでLIVEを観に行く、というケースがより一層現実味を帯びてくるだろう。

今まで何度も指摘してきたようにヒカルはそこが足りなく、従って観客動員数(本来なら聴衆数とか言いたいなー)もサザンには遠く及ばない。今からではかなり遅いが、しかし、ポテンシャルはありすぎるほどあるのだからLIVEにはビシバシ力を入れていって欲しい。

で、本当ならここで"In The Flesh"の続きとしてクラブツアーからホールツアー、アリーナ、そしてスタジアムで、なんて風に妄想が膨らんでいくのだけれど、ここも途切れたまんまなんだよねぇ。4年も経てばファンの個々の事情も変化していて、もうなかなか取り戻していく事は難しい。またいちからやり直し。そんな感じが漂ってくる。LIVEはナマモノでありイキモノである。ついでに私はナマケモノだ。それはいいか。流れを途切れさせてしまうと、どうにも逃げていってしまう。

これは、ヒカルの側の話ではない。LIVEでの歌唱は随分上達していて、最早非の打ち所を探す事すら難しい。話はそちらではなく、こちらの、ファンの方の機運や気分といった気持ちの問題である。そこをどうしていったらいいのか。考えるのも難儀だが、例えばそれをカバー出来るのがラジオなのではないか…という話の続きはまた来週。




…いや、きっと例によって続きは書かないんですけどね…。まぁ、書かれるべき時が来たら書かれるさ。心配は、していない。だって私は、Automaticに「続ける」人なんだもの。

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Making Loveの続編を今作ったらどんな感じになるんだろうねぇ、、、というところを、掘り下げない(笑)。いや、夏向きの歌ではあるけれどね。

花より男子って3はないの? 出演陣の年齢を考えるともう無理か。総入れ替えとかになるんかなー。そういやここでもちょいちょい間違えるけど、Flavor Of Lifeって花男2の主題歌じゃなくて、"イメージ・ソング"か何かなんだよね。ドラマの美味しい所で使われたせいなのか何なのか、嵐が歌う主題歌の何倍も売れちゃったんだけど…。

…だなんて一見無関係な呟きを並べたけど、これはプロジェクトの継続性の話。例えばゲームの世界だと、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーはもうナンバリング幾つめだっつーくらい出てるし、漫画ならワンピースはコミックス70巻出てもまだまだ終わらない。ひとつの名の許に、「ずっと楽しい」を提供し続けてくれる事は、消費者としてはこんなに安心し、頼もしい事はない。

僕らはつまり、「宇多田ヒカル」という名の許に集い何年も、十何年もこの"プロジェクト"を追い掛けている訳だが、こと中身の"継続性"となるとなかなか心許ない。"歌"というシステム自体、各々が4~5分の世界を形作ってそこだけで世界を完結させてしまうから、いうなればひとつひとつはバラバラなのだ。それはそれでまぁよいのだけど、冒頭で触れたような"あの歌の続編"とか"あのタイアップの続き"とか、そういうのがあると「長年追い掛けてきたが故の楽しさ」みたいなもんが味わえて有り難い。

勿論ヒカルにもそういうのはあって、DISTANCEからFINAL DISTANCEへ、とか、Beautiful World~BWPbAM~桜流し~とか、続きものもあって楽しい。しかし、Automatic Part 2のように、全体としては消化しきれていないプランもあったりして、まだまだ足りないという感覚が強い。

でも歌手の場合、"LIVE"という最終手段がある。過去に作り上げてきた名曲の数々をパーツにして組み上げられた2時間のショウは、それだけで今までの歴史の重みと凄みを感じさせてくれる素晴らしきコンテンツだ。ただ、その2時間のショウを"ひとつの作品"としてまとめ上げられるかどうか、という点は未知数で、それはひとえに各作品各楽曲が緩やかにでも何らかの繋がりや共通点を持っている必要があるだろう。

そう考えるとヒカルの作品は…という話を続けるとかなり壮大な話になりそうなので、今回はこれくらいで筆休め。ふぅ。

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「女性の声」特集で、Hikaruが自身の曲を選んで流した事は感慨深いが、その曲が桜流しであった事は更に感慨深い。どの曲でもよかった筈である。何しろ、もう一年近く前の曲なのだ、Hikaruからすれば。もう別に、昔からの名曲と変わりない位置づけになっていてもおかしくはない。しかしそれでも、桜流しを選んだ。

勿論理由は単純なのだろう、「いちばん新しい曲、いちばん最近の歌声」なのだ。それはそれでいい。いいんだ。

何が言いたいかといえば、Hikaruが桜流しの曲にも歌唱にも満足している、という事だ。誰よりも早く、Utada Hikaruに飽きる人はHikaru自身だ。「もう私という素材に飽きちゃって」と言われた時のヤルセナサといったら。そっちは四六時中一緒やから新鮮味もなくなるんやろうがこっちは全然そんなことあらへんわい!と叫びたくなった。飽きるのは、いつだってHikaruの方が先である。

しかし恐らく。今Hikaruは、桜流しを作って歌った自分の事が相当に好きなはずだ。でなくば、女性の声特集でかける必要がない。他のあらゆるフェイバリット・シンガーの中で、HikaruはHikaruの事をえらく高く評価している―なんだか隔世の感を禁じ得ない。

今、HikaruはHikaruに期待している。期待する事が出来る。この事実は、これ以上ない程ポジティブだ。そしていつか、HikaruがHikaru自身の期待に応えてやろうじゃないか!やったるぜぃ!となった時が復帰の時なんだと思う。映画の主題歌をリリースし、月一ラジオのDJをやっておきながら「アーティスト活動休止中」とはいつきいても何だか不思議な感じがするが、Hikaruの描く「復帰」というのはもっと、こう、私的かつ"たかい"ものなのだ。自らの期待に応えれる自信。自身を飽きさせない素材としての自信。Confidence。アレサ・フランクリンのLIVEを観た時にヒカルはそう言っていた。誰しもを、自分自身をも納得させるだけの、根拠のない、或いは根拠の大いにある自信。それこそ「ただ信じる」だけの事なのだが、それがいちばん難しい。人間活動を通して、Hikaruが自身に自信をつける。これは、大切だ。


だとしたら…くまちゃんはどうなるのだろう。最近殆ど出てこないのだけれど、彼の存在の"大きさ"は、今のHikaruにとってどれ位なのだろう。

ラジオ番組のタイトルが"クマ・パワー・アワー"である。未だにくまちゃんを溺愛しているのは間違いない。ただし、まだラジオではクマな話は出てきていない、かな。余りにも日常に普通に居るから、わざわざ取り上げないのだろうか。ちょっとくらい、触れてくれてもいいのに。


何のことはない、ただ私が、くまちゃんに会いたいだけなのだ。それには、Hikaruが命を代弁しなければならない。もどかしい。ラジオで「ぼくはくま」をかけるのはいつになるのだろう。タイトルからしたら毎週かけても、いいんだけどな。いやもうどうせなら、鼻歌歌っちまってもいいんだぜ…。

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何だかんだ言って、再生機器の音質というのは重要なのではないかという気がしている。

受け手は、画質のよしあしには自覚的だ。4Kテレビ批判にしたって、「確かに画質はよいけれど…」という、画質の良悪の判定がなされた上で入ってくるが、これが音質の話になると途端に「私は音の良し悪しなんてわからないから…」と後退られる事が多く、即ち音質については話題になる事すら避けられている。

がしかし、自覚はなくとも、音楽に対して評価を下す際に音質が無意識下に影響しているのは大いにありそうな事だ。そして、無意識下であるが故にその評価判定の自覚的な理由付けは、もしかしたら作詞や作曲や演奏や歌唱といった、他の音楽的要素の方に間違って偏っているかもしれない。つまり、音が悪いせいで「最近の曲はつまらないなぁ」という判定が下されているのかもしれない。だとしたらこれはゆゆしき事態である。

視覚面では、この20年間で大いに進歩した。テレビは総デジダル化され、DVD画質とは高画質から低画質の象徴へと意味が変化した。スマートフォンの解像度は最早凄まじく、そんなに克明な写真撮ってどうすんのという感じ。

聴覚面では、寧ろ事態は悪化している。ラジカセやミニコンポは姿を消し(は大袈裟かな)、スマートフォンのデジダルアンプやスピーカーは心許ない。それだけならまだしも、本来音楽消費の主軸になるべきipodの付属のイヤフォンなんかは音質があんなであり、スピーカーなんかそもそもついてたりついてなかったりだ。音質はどんどん蔑ろにされている。こんな状況が続いたせいで、音質ではなく、音楽そのものの評価が下がっているとしたら。

実際、音質がいいと、お金を払う価値みたいなものが感じられる、というのはかなり大きいと思う。ちゃっちさではなく、隅々まで精魂込めて磨き上げられたサウンドは、楽曲や演奏や歌唱の良し悪し以前に、「商品」としての佇まいを保証する。そこらへんの感覚を演出できるようになれば、「音楽にお金を払おう」という機運がまた戻ってくるかもしれない。


なんて言ってるが、Utada Hikaruの場合は音質の良し悪しなんて関係ない、というか音質が悪くても響いてしまえる歌を歌える、のだ。そんな話からまた次回。

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宇多田ヒカルは98年当時の"和製R&Bブーム"の中で売れた、という言い方もあるが、今まで何度も繰り返し指摘してきた通り、ここ日本では"R&B"という言葉より"宇多田ヒカル"の方が遥かに有名である。つまり、「R&Bってどういう音楽?」「宇多田みたいなヤツ」「ヘー」という会話は成立しても「宇多田の音楽ってどんなの?」という質問に対して「R&B」と答えても殆どの場合質問者は納得しない。R&Bというのが何を意味するか知ってて宇多田の曲知らないなんてよほどの偏屈なマニアくらいなもんだろう。

そこまで突出した「個」は結局「孤高」でしかなく、そこから何も広がらなかった。ヒカルに憧れて歌手を目指した人は沢山出てきただろうし、それは非常に意義深いものだけれど、ヒカルの"音楽にインスパイアされて"出てきたミュージシャンはあんまり見えない。それ位に属人的要素が強い、のだ。宇多田ヒカルは流行ったが、ヒカルの音楽・音楽性は流行らなかった・流行れなかった。例えばTHE BLUE HEARTS以降の日本のPUNKが総て彼らを無視する訳にはいかなくなったような状況とは全く対照的である。

これからもずっとこう、だろう。ケイト・ブッシュやビョークにフォロワーが居ないように、ヒカルもまた今ココで孤高の存在として歴史に名を刻みつつある。

だが、Utadaの2ndアルバム「This Is The One」は若干違う。メインストリームポップを標榜しただけあって、あの音楽性なら"追随"が可能だ。まぁ、フォロワーが出来たとしても日本人ではない気がするが。ああいう"無難な"音楽性を、今のHikaruがどう捉えているか訊いてみたいものだ。何しろ、もう4年も前のアルバムだからね。


そこで次に注目したいのは、Kuma Power Hour で、Hikaruによる"英語で歌われた曲"が掛かった時に、どんな響きになるか、番組の中でどんな位置付けがなされるかという点だ。熊淡弐において桜流しが流された為、あの洋楽中心の番組で日本語の、ヒカルの歌が流れた時のインパクトを体感する事が出来た。女性の声特集の中で、あの時間帯、あの曲順で自分の日本語曲を流す。次がクラシックのインスト曲であった事も色々と妄想を掻き立てる。

これが、自身の英語曲だったらどうなるだろうという話である。踏み込んでいえば、自分の音楽を、自分の好きな音楽の中でHikaruがどう位置付けているかを、ラジオの構成から読み取る事が出来る訳だ。仮にEXODUSやTiTOからの曲が掛かったとしても、その扱いはそれぞれまるで別のものになる気がする。まだ番組が始まったばかりな為、どういった文脈で紹介され得るかについて具体的なシミュレートが困難な点は歯痒いけれど、Hikaruの英語曲に魅力を感じる人にとっては非常な"楽しみ"になる事は間違いない。もし仮に番組継続中にUtada In The Flesh 2010 footageが発売されるような事があったら、この夢想は現実のものとなるかもしれない。いやはや、ワクワクするでありますな。ハハ。

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音楽家に対してどうしても私は「現役感」を求めてしまう。つまり、新曲を作りLIVEをやる。こうやって書くとシンプル極まりないが、実際に実行し続けるのは恐ろしく難しい。プロでやっていくとなれば尚更だ。

「新曲とLIVE」というものを求めないのであれば、モーツァルトとビートルズを聴いて一生を過ごせばいいじゃないか、という皮肉?悪態?いや"正直な気持ち"がそこにはある。実際、楽曲、特に器楽演奏は時代や地域と無関係に響いてくる上に、ここが重要なのだが、技術の進歩と殆ど関係ない。必要なのは鼻歌が歌える程度の器官であって、もうそれ以上は必要がない。

例えば、映画を例にとれば、黒澤明の「生きる」でブランコを漕ぎながら命短し恋せよ乙女と歌う志村喬の姿や、Just singing in the rain~♪と雨に唄えばなジーン・ケリーのダンスは最早映画そのものより有名だ。名場面を印象付けるのに歌はかくも効果的なのか、と思うが、それはもうシンプルに、歌詞がなにを言っているかわからなくても「さびしそう」「たのしそう」というのがメロディーから伝わってくるからだろう。

人間のシンプルな感情を表現するのに、音楽は非常に有効な手段だが、だからこそ新しい曲を作るのは難しい。"クラシック"というジャンルが多くの国で現在進行形で人気があるのは、そういった"音楽的手段"がある程度その時代に出揃ってやり尽くされていてその伝統力により質がぶっちぎりに高い、というのが理由だろう。確かに、J.S.バッハの質と量には未だに誰もかなわないが、もう何百年前の人間だよ、と思わなくもない。

不思議といえば不思議である。陸上競技の世界記録はいろんな種目で毎年塗り替えられているというのに…尤も、これもいつか頭打ちになるのかもしれないが。

そういった中で「新曲を作る」という行為は、今という時代、ここという地域性に依拠した、独自性のあるもの、踏み込んでいえば、今までの時代の人間が感じた事のないような気分や感情を表現するものとして価値を発揮するだろう。流行歌というのは、本来そういう"受け皿"として機能していた。

Hikaruの場合、そういう"同時代性"に関しては奇妙な立ち位置にある。というのも、時代の機運というものを飛び越えてひたすら個人として売れてしまったからだ。例えば、X JAPANやLUNA SEAの後に続々とヴィジュアル系バンドがデビューしたり、ファミリーとして組織的に後続を出し続けるアイドル勢のようなシステム・系譜を一切作り出さなかった。つまり、宇多田ヒカルは流行ったが、宇多田ヒカルは流行りを作り出さなかったのだ。少しややこしい話だから、続きはまた次回。

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いや~、熊淡弐ばかり聴いているのもバランスがよろしくない、たまには他のものにも耳を傾けねば、と思って最初に手に取ったのが、「Kuma Power Hour with Utada Hikaru Erisode 01」―熊淡壱だった私は最早病気ですよね、わかります。はいはい。

いやしかし第1回もいいなぁ。第2回を聴いた後に聴き直してみるとまた違うもんだ。特に最後の「聴いてくれてありがとうございました」の言い方のかわいいことかわいいこと…三十路過ぎのバツイチBBAにかわいいも何もあったものではないが、仕方がないだろ萌えるんだから。三次元万歳。(謎)

そんなに何度も同じ放送を聴いて何が面白いんだ、と思われるかもしれないが、「感覚」を掴みたいんです、私は。Hikaruの選曲は、ジャンルレスでありながら統一感がある。しかし、その統一感とは具体的に何であるか、というのを表現するのはとても難しい。例えば、パッツィークラインとエリザベスフレイザーの間にシンガーとしての共通点を見いだすだなんて恐ろしく難しい。しかし、番組全体、第1回第2回を通して聴くと何故か「全体としての統一感」が感じられ、しっかりとしたコンセプトというか感性というか、ただ雑多なだけではない多様性の中に潜むものが感じ取られてきそうな予感があり、それは即ちUtada Hikaruの趣味嗜好であり価値観であり、つまり彼女自身のマインドの一端がそこにはある。確かに、彼女の作るオリジナル・アルバムに比すれば随分薄味でバラバラで全体に広がっていて捉えどころがなく曖昧模糊としているが、これがまた何度も聴いているうちにその「感覚」の方がこちらの心に沈澱して定着しているようなタッチが嗅ぎ取られてくる
のだ。反復の魔法、リフレイン・マジック。同じ意味か。兎に角、その、Hikaruの"歌"に集約されてしまわないUtada Hikaruの"好き"が、熊淡には断片的にではあるもののちりばめられている。

言わば、熊淡はUtada Hikaruの心のジグソーパズルのようなものだ。まだまだ、たった2時間ではピースが足りない。もっともっと埋めていかねばならない。しかし、今組み合わされている数少ないピースの形作る断片的な"絵"も、じーっと眺めているうちに、こっちはこんな風じゃないかな、あっちにはこんな風に続いてるんじゃないかな、といった妄想という名の仮説が自然に湧き上がってくる。それを心の中に携えて次の回を聴く事で、よりHikaruの心のありように近付いていけるように思うのだ。


尤も、それは集中力にはかなわない。やはり、Hikaru自身が精魂込めて作った楽曲5分の方が、何時間にも及ぶラジオ番組の選曲を上回って、彼女のマインドをこちらに届けてくれる。だからこそ、その中でHikaruが熊淡弐で「桜流し」を選曲した事が意義深いのである。曖昧模糊とした"好み"の中に設えられたHikaruの凝縮された心。断片だらけのジグソーパズルの中に突如として現れた、それひとつで絵画として完成しているワンピース。そのワンピースが、バラバラのジグソーパズルの中でどこらへんにはまり込んでいくのかを夢想するのが限りなく楽しいのだ。非常にシンプルに、Hikaruは自分で書いた曲が好きな筈である。でなくば完成なんかさせない。嫌いな曲なんか作らない。好きでも嫌いでもない曲はもっと作らない。つまり、Hikaruが自分の曲をラジオで選曲するのもまた必然なのだが、それは今回述べている"曖昧模糊とした捉えどころのみつけにくい統一感"の中で一体全体「何である」のか、がいちばん難しい問題
なのだ。その感覚を纏った空気の中で聴く「桜流し」は、今まででは思いもよらなかったようなクオリアをこちらの心の中に生成してみせる。Hikaruの好きな歌たちとともに響くHikaruの生み出した曲…これは多分、Hikaruの言う"エヴァンゲリオンのダシの部分"そのもののように思うのだ。恐らく、シン・エヴァンゲリオンでHikaruが新曲を書くのであれば、こうやって桜流しを自分のラジオ番組で流したという事実は、必ずや曲作りに影響を与えるだろう。そう予感するものである。もう出来てるんだったら知らないけれど。(笑)

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熊泡弐は、第2回めでいきなり特集を組むという変則技できた。これが当初の予定通りだったかどうかはわからない。5月21日にこの内容を放送するつもりだったのか、6月18日はいずれにせよこの内容だったのか、一回とばしたのを契機に両方をミックスしたのか、はたまたいちから考え直したのか、選択肢は幾つかあっただろうが1人宅録である以上Hikaruの判断な訳で、恐らく長い目でみれば適切なのだろう。短い目で見たとしても何ら問題はないのだが!(何故か翻訳調の感嘆符)

取り敢えず第2回でわかった事といえば、"おたより"を番組中に読む枠が全くない事だ。次回からどうなるかは例によってわからないが、少なくともたとえ今後一通もお便りを読む機会がなくても第1回のフォーマットのままで番組を構成し続ける自信が出てきているとみるべきかな。

一方で、別の可能性も出てきた。Twitterである。今回、Hikaruは放送前放送中放送後と登場してラジオについてのツイートを繰り返した。これにはファンも驚喜乱舞(あ、字が違うか)。次々に@UtadaHikaru宛てにリプライが飛ばされた。更にHikaruもそのうちの幾つかに返信。今ラジオで喋ってる人が自分の声を聴きながらファンと対話するという不思議な空間が出来上がった。

これでふと思ったのだ。"これ"があるんだったら、わざわざ番組中におたよりを読む必要はないんじゃないか、たった60分しかない短い枠なのだから目一杯Hikaruの声と音楽を詰め込んで、ファンとの対話はリアルタイムにツイートでやればいい。何というか、新しいね。収録を使ってこんなやりとりが出来るなんて。

問題はこれが毎回放送時間に出来るかどうかだ。本人がその時間帯に関東のラジオを聴けてipadを操作できる必要がある。なかなか、その条件は揃わないだろうが、どちらがリスナーを楽しませられるかは明白過ぎる程に明白だろう。本人も、限られた時間枠では語り切れなかった部分について補足できる。いいこと尽くし。やらないテはない。私もやって欲しい。

しかし、それでいいのかな、ともちょっと思う。折角の人間活動中にそこまでサービス精神旺盛では、普段の活動と何ら変わらない。どこかで線引きをしないと、このままズルズルと復帰まで雪崩込んで…いいことじゃないか(笑)。まぁそこらへんは自由という事で。


それよりスリリングなのは、多分熊泡放送期間中にUtada In The Flesh 2010の発売が決まる事で…という話からまた次回。

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熊淡壱を10回以上聴いている、と書いたら何方かが驚いてはったが、そんなに特殊な事でもないだろう。1時間のランニングタイムのアルバムCDを買って10回聴くなんて普通でしょうに。それが種々のアーティストによるコンピレーション・アルバムで、合間にエクストラ・トラックスとしてDJによる曲解説(とついでにタイムラインを賑わしまくる鼻歌)がついてきてるんだと思えば何の違和感もない。さぁ貴方も10回聴こう。

いや、そこまでの無茶は(いや無茶だと思ってないけどね)言わないが、各アルバムを数百回単位で聴いている(曲単位だと1000回超えてる曲もあったっけな。合算してみないとわからないが)こちらからすれば、新しいアルバムが手に入ったのと似たような高揚感なのだ、1時間のラジオ番組を録音するというのは。

…となると、これが一年間続いたらアルバム11枚分か…まずまず、だな。

この選曲の中から将来本当にカバーする曲が出てくるかもしれない。折角だから一曲でも多く覚えておこう。リクエストする際にも参考になるやもしれん。

流石に制作期間に入ったらラジオを続けられないかもしれないが、寧ろ、またアーティスト活動休止期間に入った時にこうやってラジオをやっていけばいいのではないか。また、合間にカバーアルバムをレコーディングしてリリースしてもいいかもしれない。Hikaruはプロデューサー兼任なので、本格的な創作活動を始めたら四六時中関わらなければならない。幾らかは補助的な役割を照實さんや三宅さんにして貰ってるだろうが、スタジオのブッキングからミックスやマスタリングの最終チェックまで、プロデューサーの仕事は幅広い。常にその仕事を続けていたら磨り減ってしまう。

そうはならないように、今のようにアーティスト活動休止期間を度々設ける必要が出てくるが、そんな"おやすみ"の時間の間でもアウトプットが可能なのが、ラジオ番組とカバーアルバムだろう。どちらも凝り始めたらキリがないが、もっと気楽なものだと思えてくれば"量産"も、可能だろう。つまり、逆転の発想。Hikaruがラジオをやるのは、アーティスト活動休止期間中に限る、みたいな縛りでも面白いんじゃないか。いや勿論、アルバムも作りツアーにも出掛けラジオ番組も毎週、なんて事になったら目が互い違いになる位に目まぐるしい日々を送れる事間違いなしなんだけど、そこまで大忙しになってもらわなくたって構わないのだ。まさに、「長らく慕っていきたいので」双方に無理のない活動ペースと方法論を見いだしていきたい。やっぱりそう思う次第なのである。

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Hikaruはデビュー当時以来"期待される洋楽路線"というものがあって、恐らく日本人で初めてインターナショナルに普通に活動できるミュージシャンとして、一体どういう方向性で行くのかが注目されていた。

ひとつは、アレサ・フランクリンやメアリーJ.ブライジのような、ソウルシンガー路線。確かに、確かな英語発音で本格的なソウル/R&Bを歌える日本人シンガーは今まで居なかったので、ここらへんを期待されるのは自然なところ。

もうひとつは、ケイト・ブッシュやビョークのように、独自の世界観を独力で構築する孤高の音楽家路線。これも、今までHikaruのように独りでここまで作曲を展開できる女性アーティストは他に居なかったので、それを期待されるというのも頷ける。

つまり、シンガーソングライターとして、シンガーの面を期待されていたのが前者、ソングライターとしての面が期待されていたのが後者という訳だ。

しかして、今のHikaruはそのどちらの路線を進んでいるのかといえば、どちらでもあるような、どちらでもないような。例えばUtadaに関していえば、シンガーとしての実力を前面に押し出したのは2009年の2ndアルバム「This Is The One」の方だったし、ソングライターとしての実験性を前面に押し出したのは2004年の1stアルバム「Exodus」の方だった。両方の作風で、一枚ずつ作っているのだ。

これからは、どうなるか。それを推察するには、今の感性で選曲されたラジオのオンエアリストは格好の材料だ。ビョークやエリザベス・フレイザーは孤高の世界観を構築する手腕が目立つアーティストだし、カサンドラ・ウィルソンやシャデーはその声に特徴のあるアーティストだ。やはり、どちらの路線にも興味を持っている事がわかる。

シンガーとしての評価とソングライターとしての評価は、恐らく、Hikaruの中で特に分けられている訳でもなく、つまり、これからもHikaruの作る作品は、全体としては、シンガーとしての側面に偏る事もなく、ソングライターとしての側面に偏る事もなく、その振り幅の中で自在に動き回っていくのではないだろうか。そして、その振り幅自体も、動き回るにつれ大きくなっていくだろう、そんな推察を、今回の熊淡弐からは感じとる事が出来た。これからどうなるかなんて確かにわからないけれど、『長らく歌っていきたいので』の一言を信じて、具に見守っていきたいと思います。

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熊淡弐で、いちばん嬉しかった瞬間といえばもうこれしかなかろう。なかなか未来の事を語りたがらない人が「ながらく」ということばを使った時点で感慨深い。

多分、根が真面目なんだと思う。将来自分の気がいつ変わるかなんてわからないから軽々に「約束」なんてしたくないんだろう。あれなんか歌の歌詞みたいだなこれ。でも、それが理由でU3MUSICはちえちゃんしか雇ってなかったのだ。ヒカルが辞めたいと思った時はいつでも辞められるように。

こちらからすれば、「約束」なんて空手形でいいのである。長らく歌っていきたい、という"今の気持ち"があって、それを教えてくれた事が嬉しいのだ。つまり、別にこの感情はHikaruがこれから長く長く歌っていく事で昇華していくものではなく、6月18日の夜にそう言われた瞬間に既にこちらは報われているのだ。未来がどうなろうと関係ない。気だって変わるだろう。しかし、少なくとも今のHikaruはそう思っている。それが聞けただけで十分だ。


…という事を前提にした上で、この発言を真に受けてみよう。今週、ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル・バンドのBLACK SABBATHが全米1位&全英1位を獲得した。全米1位は、1970年からの43年のキャリアで初。全英1位も1970年の2ndアルバム「PARANOID」からこれも約43年ぶり2回目の事だそうな。凄い。何が凄いって43年も音楽活動を続けて今がいちばん売れているのである。メンバーはもうみんな60代、おじいちゃんばっかなのに。

こういう事実が歴史として残るというのはとても心強い。売上はひとつの目安に過ぎないが、Hikaruだって同じように60歳を過ぎてからキャリアのピークが来るかもしれない。音楽家とは、そういう職業なのだ。我々は、これから30年40年、そういった期待を胸に生きていけるかもしれない。何ということ!

約束は、繰り返すが、別に守られなくったっていいのである。希望の灯火として我々の生きる力になればよい。大事なのは、約束を守る事ではなく、約束をしようとしてくれる事とその気持ち、その心意気なのだ。お陰で、Hikaruが歌っていない時でも下や後ろを向かずに済む。

勿論、約束を果たしてくれてもいい。今回の場合は、Hikaruの願望や欲求という体での発言であるから、約束をしている相手は我々というより未来の自分自身、未来のHikaruに対してであろう。なんだかPassionの世界観だが、約束をする事によって将来過去を振り返る時に「心から満足のいく人生だった」と価値判断する事が出来るようになる。約束とは目星であり目安であり目論見であり目標であり即ちそれは目を見る事なのだ。瞳の中に映る私は一体どんな…ってまた歌詞みたいになってるけど、Hikaruはこの一言によって、元気に生きていかざるを得なくなる。我々が元気になるのは言うまでもない。そんなに都合のいいコトがあるのかと思ってしまいそうになるが、幸福になる事を恐れてはならない。Hikaruはこれからも長らく歌っていってくれるのだ。それをひたすら信じる。我々のやる事といえばまさにそれに他ならない。

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番組1時間全編を通じて、しかし、いちばん驚いたのは桜流しの放つ美しき「妖気」であった。歌、歌唱だけならHikaruと比しても聴くべきところのあるトラックが居並ぶ中、こと楽曲自体に関しては、あの超々スタンダード・ナンバーのAmazing Graceが霞むほどに桜流しの「クラシック感」は図抜けていた。時代を超えて魅力を放つという意味である。

ここら辺が、難しい。ダウンロード数や、EVAQで流れる事を考えると、桜流しは非常に多くの人々に知られており2012年最も聴かれた曲の…そうだな、TOP20くらいには入るかもしれないが、だからといってこの曲が邦楽のスタンダードナンバーになる、という事はなさそうだ。それはつまり、残酷な天使のテーゼのように、毎年カラオケランキングの上位に名を連ねるといったような事だ。

「現代日本」という"偏った"価値観の元では、出来得る限りの評価をあらゆる楽曲に対して適切に付するのには限界がある。どうしたってその時の流行に依って取捨選択を施し衆意を問うという事をしなければならない。本当はこんなにいい曲なのに…と臍を噛む場面は幾らでもある。

しかし、だからこそ"最大限の評価"を得られるその時その場所に辿り着くまで、楽曲は生き残らねばならない。それが、出来るか。例えばヒカルのレパートリーでいえば、Passionは、キングダムハーツ2とUtada United 2006を通じてその地位を確立していった。もし、評価の基準がオリコンチャートのみだったら「宇多田史上に残る駄曲」という烙印を押されたまんまだったかもしれない。いや尤も、未だにピンときてない人はピンときてないだろうけど。

桜流しは、残念ながら、Popではない。メロディーにしろ曲調にしろ曲構成にしろ、特異性が満載で、今の日本で万民に受けるとは私ですら思わない。しかし、こうやってラジオで流され古今東西の楽曲に囲まれた中で耳にすると、その特異性の際立ちが存在感となって、響かない人の心にすら強い印象の痕を残すような気がする。やはりラジオでかかるというのは違う。Hikaruも、ラジオ持ってないとか言わないで、災害時の対策という意味も含めて一台位所持しといた方がいいんじゃないかなぁ。

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熊淡弐で吃驚したのは、エリザベス・フレイザーの事を「生きている中で世界一好きな歌手」と言ったり、P.J.ハーヴェイの事を「生きている中でトータルのパッケージとしていちばん尊敬できるアーティスト」と言ったりしていた事だ光が。これは、まずラジオDJとして大切な点だ。というのは、以前指摘したように、優れたDJというのは紹介する曲、アーティストが「全体の中でどういう位置付けにあたるのか」を"系統的に"述べる事でリスナーの音楽的理解を容易にさせる事が求められるからだ。

シンプルな話である。次にP.J.ハーヴェイの曲をラジオで耳にした時、「あぁ、あのヒカルちゃんが憧れてるっていう」とリスナーが"気付ける"事。これはとてつもなく重要である。この一言が言えるか言えないかで音楽のある生活の楽しさがまるで違ってくる。光はただ自分の趣味嗜好を素直に吐露しただけかもしれないが、それでいいのだ。それが、いいのだ。

それにしても"総合的なアーティストとして"というのには驚いた。今まで私は、Hikaruには、部分的に憧れたり好きになったりするアーティスト、ミュージシャンは山ほど居ても全体として目指せるようなタイプの人は実在しないんじゃないかと思っていたのだが、居たのだ。自分の不明を悔いるとともに、その事実とそれを知れた事に喜びを禁じ得ない。

しかし、困ったものだ。P.J.ハーヴェイといえば(元々の発音は"ハーヴィー"により近い)、かなり有名なアーティストだ。毎週ツイートさせてもらってるNHK-FMの「ワールド・ロック・ナウ」でも、P.J.の新音源がリリースされるその都度必ず選曲される人なので、私にとってもそれなりにお馴染みの人なのだが、今の今まで彼女の曲で私の琴線に触れたものはなかった。そして、今回かけてくれた曲も、そんなでもなかった。これは、無意識日記執筆者としては大きな痛手である。そこらへんを理解出来ていないと書いてる事の説得力がまるで無くなってしまうではないか。いや別に誰かを説得したい訳じゃないけど。

まぁそれを行ったらHikaruだって1年半前にロンドンのロイヤルアルバートホールで二夜連続で観るまで(恐らく2011年10月30日&31日の公演の事だろう)は、"そこまでじゃなかった"というニュアンスで喋っていたので、彼女の魅力というのは直にナマで観ないと伝わらないタイプのものなのかもしれない。次に観れる機会があれば観ておいた方がいいかもしれないな。

それにしても、嬉しい。Hikaruに、「目指せる人物」が生きて存在してくれている事に。ぐっとこれで孤独感が減る。とはいうものの、オリジナルなアーティストのプライドがある以上、どこかからは絶対孤独でないといけないけどね。とまれ、いいことなのだ、これは。

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