無意識日記
宇多田光 word:i_
 



光がワガママだったらどんなにいいかと毎度思う。ファンに対してああしろこうしろと口うるさくしてくれれば、「仕方ねぇなぁ」と苦笑いしながらどこまでもついていきますのに。

でも現実は勿論違っていて。あの人ほどワガママから程遠い人も珍しい。かといって利他的な訳でもなく、公共性を重視するでもなく、正義を振りかざしたりもしない。一体我々は彼女の何に共感しているのか、私は時々わからなくなる。

「ぼくはくま」に込められた思いは端的に纏めれば『ママ』である。嵐の女神も「お母さんに会いたい」だ。ワガママを押し殺した、という言い方が違うならいちばんの願いを口にするまで時間のかかる女、という言い方でもしてみるかな。

これは、小さい頃に満たされなかった思いが未だにくすぶっているのか、それとも単純に母が好きなのか、結構判断が難しい。言い換えれば、どうにかして"母に会う"事が出来たなら、この想いは昇華されて雲散霧消し次の段階にでも進むのか、それとも、どうせなら母と一緒に暮らしたいくらいなのか、みたいな感じだ。

後者の母とはシンプルに純子さんの事だが、前者の"母に会う"に確定的な意味を付与するのは慎重になる。それは例えば、小さい頃に見た母の背中を今度は自らが表現する番だという解釈も出来るし、或いは、小さい頃に感じた"母性"の再現を、何らかの表現を通じて獲得したいのかもしれない。すごくありていにいえば、母親になるか、母性を感じさせる曲を書くか、といった所か。

ここらへんは、光の"母親像"がどんなものかによって変わってくる、のかな。寂しさなのか、幸せなのか、不安や恐怖なのか、安心と信頼なのか。年齢毎にも違うだろうし、まだまだ情報は足りてないといえる。

世には様々な人がいて、母親を頼る人、頼れない人、そもそも(もう)居ない人、等々母親像はその有無も含めて千差万別である。光の『ママ』の響きはそのどこらへんからくるのか。絵本のコンセプトに沿うならば、なんだろう、案外「"怒り"の源泉」なのかもしれない。

光が「私制作中は怒ってばっかり!?」というメッセを書いたのは16の時だったか。それは産みの苦しみともいえるし、あるべき姿に辿り着けない、あるべき姿を見いだせない自分に対する苛立ちと憤りなのかもしれない。

絵本でのくまちゃんは、自分の中に生まれた感情が何なのか把握できなくて苛立っていた。ただ親子に嫉妬していたというだけでない、仮にその感情が嫉妬であったとしても、それが何なのか表現する術を持たない段階なのだ。ここらへんのもどかしさは、あるべき姿の存在は感じてるのにその適切且つ具体的な表現方法がわからない制作段階のそれに似ている気がする。

光が、ワガママ・利己的でも利他的でもない性格なのは、ここらへんに適応したせいなのではないか。ただ自分の理想像を押し付ける事をせず、あるべき姿という"外の存在"を感じ取りながらそれに"出会う"為に徹底的に自分自身を掘り下げる。自分以外に出会う為に自分自身を掘り起こすのだ。エゴともパブとも違う奇妙な世界観。これがもしかしたら真の「ミュージシャンらしさ」なのかもしれない。

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前々回、光は幼少時の堅実な性格から、成長するにつれ"いきあたりばったり"な性向に変わっていったみたいだなぁ、なんて話をしたが、これは詰まるところ両親(或いはいずれか)の生き方に感化・同調していったプロセスでもあったかもしれない。

それは、職業としての音楽に対する態度の変化の過程でもあった。小学生の頃までは、いきあたりばったりな両親の生き方に反発心をもつと共に"ミュージシャンになんかならない"というマニフェストでもあったはずだ。それがいつのまにか、"歌ってみてくれない?"と声を掛けられて以降ミュージシャンとしての人生を驀進してしまい今に至る。と同時に、両親の生き方に同調するようになってゆく。車を売る必要はなかったが、私生活が破綻しようが作品は完成させるという執念は見事に受け継がれた。

光の両親への思いの変遷は、そのまま職業としての音楽に対する思いの変遷である。何しろ、音楽に携わる事即ち"家業を継ぐ事"だったのだから。職人の世襲は他の業界でも珍しい事ではないだろうが(梨園なんて大変である)、光にとって音楽と家族は切っても切れない関係にある。

だからこそ、光は曲の歌詞のテーマに家族の肖像を映し出す事を厭わないし(躊躇いがないともいえないが)、あまつさえ歌詞のメインテーマである事も隠さない。明喩された父性と暗喩された母性の組み合わせで構成されたEVAはまさに、誰あろう宇多田光個人の人生のメインテーマてもあった。

もう少し冷めた目線で言い直すならば、音楽に携わるという選択自体が、人の性向に傾向を与えているともいえる。絶対音楽的な"今"を最重要視する観点からも、計画的な人生観よりいきあたりばったりな人生観の方が音楽的な品質に資する、という考え方だ。この考え方に沿うならば、車を売ってスタジオ代を稼ぐ事は、そういった発想や性向自体がミュージシャン的なのであり、よい音楽はそういう人間の許にやってくるのである。作詞作曲とレコーディングを繰り返しているうちに光も、プロフェッショナリズムの観点から当然のように音楽に高品質を求めるようになり、自身の哲学も変化していったとも考えられるのだ。適応である。

となれば、ここで人間活動において重要なのは音楽から離れる事というより、職業として、家業として音楽に携わる事から離れる事なのかもしれない。生き方に関わってくるのは、あクマでプロフェッショナリズムを貫徹するかどうかの話だからだ。暇な時にIvoryIIをインストールしていても、それが仕事でない限り、人間活動には全く支障がないのである。

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今年を振り返った時、最大の衝撃はアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」だったという事になる。4月に当欄でこの作品を取り上げて以来、急に話の枕にアニメの話題を振る事が増えた。それだけ私には影響力の強い作品だったといえる。

何が凄いって、ミステリー的な要素も含むのに、2回目に観た時の方が感動した事だ。ネタバレ云々という前に、全体のストーリーの構造が美しいのである。誇張表現でなく、本編全12回約5時間、ひとつも無駄なシーンがない。ここからダイジェストを作るのは至難の業だろう。要点をかいつまむのが難しい、というより全編要点である。

漫画でもアニメでも小説でも、ストーリーが洗練され研ぎ澄まされ、必要にして十分な所まで磨き上げられた時、その作品には音楽的、或いは絵画的な美が宿る。

音楽的な美とはメロディーに途切れがなく、リズムもしっかりキープされた状態だ。特に、リズムという要素はダンスなどと共に音楽に美しさを与える要点となる。

イントロからアウトロまでリズムがキープされるという事は、その楽曲が演奏されている数分間、一度も途切れない、躓かない、止まらない、という事を意味する。即ち最初から最後までがひとつながりになるのだ。音楽というアートを鑑賞する場合、漫画なんかが何時間でもずっと読んでいられるのに較べ、大抵数分しか持続しないのは、リズムというテンションをキープしなければならないからだ。

まどか☆マギカは、そのストーリーの隙のなさから、まるで全編が一曲の交響曲のように"鑑賞"できる。抽象的なレベルにおいてこのアニメには"音楽的"な魅力が備わっている。

さて、では逆のケースはどうだろうか。今度は音楽の方に、漫画やアニメや小説のような"ストーリー"を付与してみるのは。オペラの昔から、多くの人々がこの試みに挑んできた。先述の通り、なかなかリズムというのは長々と刻めない。工夫としては、間に語りを挟んだり、効果音を入れたり歌い手を変えていってみたりとかなりの工夫が必要になる。

光は、そういうのに興味ないのかな。彼女は基本的に5分のPopSongを書く事に集中してきた。しかし、例えばGBHPVのディレクションを見ればわかるとおり、音楽を中心にしながら、他のメディアの表現を使ってもそのセンスを発揮できる御仁である。まどか☆マギカがアニメーションを新しい時代、新しいステップへと導いているように、光が音楽の可能性を更に押し進めるようなチャレンジをしてみて欲しいなぁとも思うのである。

一方で。逆に保守的に、音楽の最も音楽らしい、歌の最も歌らしい所を極めていってくれるのもいいなぁ、と思ってもみる。CWTCなんかはその極致だろう。この曲には音楽的な目新しさなんか何一つない。歌があって、伴奏のピアノがあるだけだ。耳を引くような斬新なアレンジもないし、メロディーも予想を裏切るような動きはしない。歌詞も、特に突飛な単語は用いていないしお得意の特異な言い回しや語尾なんかもない。至って"普通"である。しかし、この"普通"極まりない曲が、このままいけば私にとって2年連続で「再生回数最多トラック」になるのだ。こういうのが歌の力、宇多田ヒカルの力強さだなぁと改めて噛み締める時、別に新時代の扉を開ける必要もないし、新しいステップに踏み出す事もないか、と思えてくる。何というか、私は既にこの歌によって満たされていて、これ以上はもういい、と思ってる節すらあるのかもしれない。第1期宇多田ヒカルを締めくくるに相応しい楽曲なのだ、うん。

となると、ヒカルにはやっぱり奇を衒わず王道の伝統的な曲づくりを続けて貰って、そのたびごとの"今"に「歌は、いい」と呟かせてほしいな、という風に落ち着いてしまうのです。

でもやっぱり、チャレンジングな姿勢も失わないで欲しいなぁ…。いやぁ、ファンって贅沢ですね。

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ひたすら「今」を強調する光の世界観は、発達した文明社会になかなかそぐわない。小さい頃は「将来の為」といわれ勉学に励み、成人したらしたで「老後の為」「こどもたちの将来の為」といわれ保険や貯蓄に励む。いざ老人になったらこどもとは離れて暮らし老老介護から自分が介護にまわる側に…なんてのが標準的な日本人像だ、とまでいうと極端だが、確かに、こういう世情を鑑みると光が必要以上に(でもないか)「今」を強調するのもわからなくはない、と思う。

しかし、この思想は刹那的な快楽主義からは最もかけ離れた所にある。光自身からして、幼少の頃は将来など考えずに「今」のスタジオ代の為に車を売り払う親の生き方に疑問を感じ、「将来は絶対に手堅い職に就いてやる」と誓っていた位だ。未来が拓けていたこども時代の事だというのもあるけれど、その頃は"しっかり未来の事も考えられる賢いこども"だったのである。

そういう真面目な時期を経た上での『人はなぜ明日を追いかける?』なのだから、よく言う言い方をするならば"一周まわって"今の態度に辿り着いたのだとみるべきだ。未来への不安や恐怖、過去への不満や悔恨を総て眺めた上で「今」を大切にしよう、という境地なのである。

ならばLIVEコンサートの本数が少なすぎる。音楽の最大の特徴は、"絶対音楽"という単語があることからもわかるとおり(詳しくはWikipedia参照)、"なにものの代えではない"事だ。生演奏が表現するのは、映画のようにフィルムに焼き付いた夢でもなく、舞台の描き割りに描かれた背景のさす時代や国の話でもなく、今、ここで鳴らす音そのものなのだ。そこから先はない。「今」を強調するのに、スポーツなどと並んで最も適した娯楽なのである。だから光はもっとLIVEコンサートをやるべきなのだ。そこまで「今」を歌い続けるのなら。

でも、まだこの話には続きがある。いや大した話じゃないんだけど兎に角それはまた次回に。

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明日はイカ娘とゆるゆりのDVD/Blurayの発売日だ。既に実績十分の2作品だけに、今回もきっちり売上を記録するだろう。イカ娘は現在第2期、ゆるゆりも週末に第2期制作決定と、テレビ東京はこの2作品をTBSの水戸黄門と大岡越前の如くかわりばんこに放送していけばいいんじゃないかと思う位だ。いや私が両方気に入ってるってだけですけどね。

目を引くのは、こういった「なんでもない日常」を描いたアニメのセルビデオが売れているという点だ。EVAのような重厚かつ壮大な作品ならコレクションとして手元に置いておきたいと思うのはわかるが、何気なく見かけたら和む、という程度のこういった作品に"熱心なファン"がつくのは面白い。

宇多田ヒカルの歌が日常に根付いている、という時リスナーは歌に何を求めているのだろうか。1日10万回。ヒカルの歌声を聴いて皆どんな感情になっているのか。ヒカルの歌声はクリスマスケーキのように特別なのか、ご飯と味噌汁のように毎日当然のように摂取する対象なのだろうか。

宇多田は今動いていない。曲を聴くことで誰かの人生が大きく動くこともない。参加するイベントがある訳でもない。もっといえば、歌が齎してくれる以上のものは齎さない。+αがゼロ。それでも耳を傾ける。日々の生活にヒカルの歌声が根付いている。

それが与えるのは特別な深い感動なのか、さりげない鼻歌なのか。十人十色千差万別といってしまえばそれまでだが、イカ娘やゆるゆりのようにゆるく締まりのない作品でもそれに執心する層ができる。

ヒカルが30代を迎えた時、どういった路線になっているのか。大仰で豪奢な、スケールの大きなサウンドになっていくのか、素朴でさり気ない、しかし味わい深い歌を唄うようになるのか。ひとつ言いたいのは、そんなに派手に人を感動・感涙させなくても、ちらっと聴いてささやかに和める、それだけの事でも人は熱心についてくるという事である。力まずに、ただこの日常を淡々と過ごす。その中で生まれる歌。それもまた大切にされていくのだ。

ヒカルの歌には大きな感動を呼ぶタイプの曲が多い。First LoveやFINAL DISTANCEを生で聴いて号泣した人手を挙げよう。沢山居るんじゃないかな。でも、ヒカルがULTRA BLUEでいちばん好きな歌はいちばん地味な日曜の朝だし、HEART STATIONでは勿論、いちばんちんまりとしたあのぼくはくまなのだ。作曲者が、あれだけ大きな感動を与える楽曲群の中から、いちばんさり気ない曲を選ぶ。そこら辺も、ちょっと頭にある。

何でもない日常がいちばん尊い。陳腐過ぎる結論だが、それを描けた歌が、いつかいちばん熱心なファンを耕していく気がする。ぼくはくまはその象徴だが、ヒカルが復帰した暁には、この歌を何らかの意味で超える歌が生まれるのだろうか。それは、僕らみんなが、ヒカルの歌と共にこの日常を淡々と生き残っていかなければ、耳にする事はできないだろう。生きてるっていちばん大切なのです。

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世は年末ということで2011年を振り返る企画が目黒引き、もとい、目白押しだが、勿論宇多田ヒカル関連では話題が殆どない。1月にNHKに出演し、震災で100万$の寄付、Wild LifeのDVDとBlurayがそれぞれ発売された事、くらいか。

こんなでも世界のどこかでヒカルの歌が必ず聞かれ話題にされていたというのは何というか果報者だなぁと思う。ここの読者の場合はこちらが果報者という認識かもしれないが。

特にUTUBEでは連日10万回の再生を記録しており、当欄でも何度も取り上げてきた。まぁそりゃ宇多田ヒカルくらいにもなると毎日誰かが耳を傾けてくれるだろう、とタカをくくってはいたのだが、こうやって実際に毎日数字を見せられてきてはその安定した"愛されぶり"に驚きを禁じ得なかった。たとえ話題が少なかろうとも、リスナーの生活にはしっかりヒカルの曲が根付いているのである。当たり前過ぎるが、そんな事を確認できた一年だった。

あれ、今回のエントリーは短いな。まぁここから先に分け入るとどうやっても長くなるので取り敢えずこんなところで。

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UTUBEの再生回数カウントが故障中だが、それとは関係なくこの間滞りなくPrisoner Of Loveが400万回を達成した。新しめの曲、特にUH5として発売されていない曲は開設序盤に再生回数を稼いだ感があり、PoLもその例に漏れないがデイリーでもFirst Love、Goodbye Happiessと常に1位を争っている。いや別に曲同士は争ってないけど。数字の話ですね。

UTUBE1日10万回再生のうちFL,GBH,PoLの3曲で大体3万回位再生されている計算だ。次に続くのがFoL,桜,トラベ。更にはCOLORSオートマキャンシー光と続く感じである。

この様子を鵜呑みにすれば、現在のヒカルの代表曲はFL,GBH,PoLの3曲となるが、Hステ発売当時あれだけPoLを推していた私も流石にこの評価は意外である。視聴率13%台から始まり結果的に20%を超えた人気ドラマラストフレンズでフィーチャされていたとはいえ、それをいうなら全回30%超えの化け物ドラマ「HERO」の主題歌キャンシーの立場はどうなるんだ、となる。つまり恐らく純粋に曲の評価なのだUTUBEの再生回数は。(だとしたら)凄い。

何がこんなにウケたのだろう。一歩間違えれば演歌になるコテコテのメロディーライン、友情とも恋愛感情ともとれる微妙な機微を歌った激しい歌詞、宇多田ヒカルのトレードマークともいえる絞り出すように切ないエモーショナルな歌唱。美点は幾らでもある。ヒカルが自身にとって最も得意とする楽曲を出してきた事に素直に感動した。ここにもそう書いた。皆の期待する宇多田ヒカルがここに在る、と。本当に皆そう思っててくれたって事なんだろうかなぁ。

何故懐疑的になっているかといえば、自分でもよくわからないのだが例えばTwitterを見ててもPoLの人気はそんなでもない。やはりFLがいちばん人気、GBHも新奇さが薄れて評価が定まってきた、意外に誰かの願いが叶うころが取り上げられる回数が多いのは、歌詞が使いやすいからだろうかな、とかとかとかとかあるんだけど、PoLはそんなに目立っている訳でもない。あと、「宇多田ヒカルでいちばん好きな曲は光」というのも目立つ。この曲が一番人気という訳ではなく、私と同様"そう訊かれた時の答えとなりやすい曲"なんだろうな。まぁそれはさておき。

となると、あれだ、PoLって1人で密かに楽しむタイプの曲だという認知なのだろうか。Tweetに乗せて好き好きアピールとかはしたくならないけど、ひとりで部屋でむっちむちのヒカルの作業姿を眺めながら浸りたくなるような、そういう風なのだろうか。For Youがそういうのの代表格だと思っていたが、UTUBEの再生回数はそんなに伸びていない。うーん、判断が難しい。

支持している年齢層も気になる所だ。一歩間違えれば演歌になるメロディーを指して私は「この曲は40代50代にアピールする」と盛んに喧伝したが、果たしてこの予想は当たっていたのだろうか。AMから流れてくるこの曲のメロディーの、ノイズに打ち勝つ力強さに、世の中年のおばさんおじさんたちは励まされたのだろうか。わからない。

GBHがヒカルの代表曲になるのには何ら抵抗はないのに、PoLだと何かがどうも引っ掛かる。いったいこれは何なのだろう。誰よりも(いやヒカル以外で)この曲を高く評価してる私のこの逡巡。解決するにはまだまだ時間がかかりそうだ。


なお、タイトルと本文はまるっきり関係ありません。(てのを一度やってみたかっただけ(笑)) 

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昨日の2つのエントリーは要は「リア充しっかりしろ。ヲタクをやってる甲斐がない」という話だ。昨今のCD/DVD市場で目立つのはやはりアニメ関連なのだ。順位もそうだが、金額ベースだと更に驚異的。なぜアニソンという偏狭な筈のジャンルにここまで押されるのか。チャート最上位陣は悉くアイドルで、結局市場は2次元ヲタと3次元ヲタが買い支えているという感じ。

何より致命的なのは、楽曲の質でアニメソングやアイドルソングに太刀打ちできない事だ。要はヲタク相手の方が儲かるから数少ない才能もアニメとアイドルに流れている。ここ5年くらいこの潮流は変わってない。

昔は、音楽をやっているとなればもうちょっとイケてた筈だ。(いや言い回しから単語の選択から死語臭がプンプン漂うなぁ) 今音楽をやっているといっても余りにも"なんとなく感"が強すぎてかっこよくない。この10年で着実にフェスが定着している事だけは救いだが、目立った才能は生まれていない。ボーカロイドやバーチャルアイドルといった無機質なコンセプトを苦労人の幼なじみ3人組という生々しいにもほどがある"人間らしさ"で料理したPerfumeの存在は、秀逸であったと共に"ここまで煮詰まっちゃったんだなぁ"と思わずにいられない。それはそれでよいんだけども。

宇多田ヒカルも、泰然自若としながらもこの潮流にうまく対処してきている。実際、デビュー当時より完全に「あのコ(重度の)ヲタクだよね」感が増量されている。テトリステクの話を横耳に聞き流してた頃とは、確実に時代が変わってしまったのである。

人間活動の実践や"Wild Life"という名称から「今のヒカルはリア充度をアゲにかかっている」と読み取る事は可能である。しかし、音楽家として、本当にそれでいいのかどうか。もしかしたら、ねえさんとして大御所感を漂わせつつ、時代を二歩位先回りしているのだろうか。リア充な音楽に才能が集まる時期がいつかやってくるのだろうか。

真性のヲタクとしては、まぁ結構どっちでもいい。新しかろうが古かろうが、いい曲、いいLIVEに接せればそれで十分至高である。70年代中期のプログレや80年代初期のNWOBHMを聞きながらやっぱこの時代の音は肌に合うなぁ、とか日々抜かしている時代遅れですらない人間にとっては、光の曲はただただひたすら"いい曲"に過ぎない。そこさえハズさなければ、ヲタクに近づこうがリア充な感じになろうが相変わらず好きである。

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このBlogを読者だと流石に言わないとは思うが、未だに「アニメはこどものもの」と本気で思ってる人がかなり居る事に…なんだろう、呆れるとも違うし驚くでもない、「そうなのか」と感じる、位が適当かな。何だか妙な気分がする。

単純に考えれば、表現の自由度から来る抽象性の高さの点でアニメーションという分野は実写より大人向けだといえるだろう。なぜ昔から「アニメはこどものもの」と言われてたかといえば、それはもうシンプルに文化として生まれて日が浅かったからだ。アニメという表現技術自体がこども向けだったのではなく、アニメ自体がまだまだ生まれたてのこどもだったのである。

時は過ぎ今は21世紀。実写と比較しても遜色ない文化としての蓄積がアニメに備わってきているのを感じる。元々その表現の自由度から技術を磨き継承してゆくにはやる事が多すぎて成長が鈍かったこの文化も、漸く"手法が出揃ってきた"感じがする。日本ではジブリ、米国ではピクサーが一歩抜け出ていたが、そろそろもっと群雄割拠になってもおかしくない。この分野は、まだまだ発展する。人間の年齢でいえば19歳くらいなんじゃないかな。

で。この後の話の流れは前回エントリーと同じである。Popsとしての歴史、西洋音楽としての歴史の積み重ねを背景に持ちながら、ここ10年、商業音楽が世界的に停滞している。いやクオリティがそんなに落ちている感じはしないのだが、兎に角斬新さがない。多分、何か革新的な事をやろうという人材が音楽業界に集まらなくなってるんじゃないだろうか。日本でいえば、創造力のある人は漫画を描き、腕に自信のある人はゲーム業界に飛び込んでいる気がする。両方から美味しい所を後からアニメ業界がとっていってる、そんな感じだ。さらにそのあとに実写ドラマ化、実写映画化とくるが、ここらへんになると抽象性についてこれない人たち向けに随分とわかりやすくせねばならなくなるのでクオリティはどうしたって低くなる。致し方ない。最初っから実写で勝負すりゃ別なんだがその話は長くなるので割愛。

何が言いたいかといえば、宇多田ヒカルという、恐らく科学者になっても漫画家になっても業績を残したであろう天才がこうやって音楽をやってくれてるのに余りにも彼女の孤軍奮闘感が強すぎやしないかという事だ。50~60歳の大御所ミュージシャンでもヒカルには一目置いている。みんな期待はしている、が、それ故にヒカルには刺激が足りなさ過ぎる。自力で音楽を推進せざるを得ない。これでは厳しい。

ヒカルにも原因があるといえばある。どうにも、ルーツがわかりにくいのである。一応Popsなのだが、"どこからきてこうなったのか"が他のミュージシャンにはわかり難い。要は音楽的に絡みづらいのである。まぁ遠くに眺めていようかな、曲はいいんだし、となる。

アニメの例を出したのは、彼らには"利用できるもの"が沢山あるからだ。2010年代を代表する傑作「魔法少女まどかマギカ」は、魔法少女ものというジャンルをうまく利用した作品だった。材料として用いる為の流行や素材に事欠かないのである。そして、受け手がそれを受容している。邦楽の世界でそれをやろうとしても皆頭に「?」マークが浮かぶだけだ。何の準備も出来てはいないのである。

こういう状況の中でヒカルがモチベーションを維持しつつ復帰するのだったら、それこそこども向けの曲を増やした方がいいかもしれない。勿論先鞭は「ぼくはくま」な訳だが、ひとつの文化として邦楽がヒカルに何ももたらさないのであれば、何の予備知識もない、出来るだけプレーンな(そして多分とても残酷な)リスナーである幼年層を相手にしてみるのもやりがいがあるのではないか。ちょうど30代という事で1ジェネレーション、こどもの居る母親世代になる訳だから母から子へと語りかける視点を主軸にするのも悪くない。ぼくはくま、嵐の女神(いいタイアップだったな~)ときて、さらにおとなからこどもへのメッセージを強化する事が、19歳のDeep River+に報いる事になるのではないだろうか。

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2011年のアニメの豊作ぶりには恐れ入る。多分一般レベル?(なんだそれ)では余り話題になっていないんだろうが、あんなに単価の高いセルビデオ(DVD/Blurayね)が万単位の売上を次々とあげていくのだから、市場の横幅は狭くとも縦幅は相当なものだ。

今年の作品を見ていて思うのは、王道を厭わず奇を衒わず直球の作風が目立つ事である。一昔前、それこそEVAの時代までは「アニメなんて」という謙遜なのか怨恨なのかよくわからない感情が渦巻いていたものだが、鉄腕アトムから半世紀、アニメの技法が一通り出揃って"thoroughly available"な状態に成熟してきたせいか、他のジャンルに対して引け目みたいなものを感じなくなっている風がある。いやそれにしても凄いね。

様々な娯楽ジャンル毎の成熟度・充実感を総体的・相対的に比較する事は確かに難しいが、ひとつの尺度にインタビューがある。訊き手がいて質問し、クリエイターがそれに答える。勿論喋りをメインにする人たちに優位は出るものの、おしなべてどのジャンルの人も同じ土俵に立っているとみてよいのではないか。インタビューの面白さで、そのクリエイターと彼・彼女が身を置く業界の現在のありようを推し量る事が出来るのだ。

Webや紙雑誌で様々なジャンルの人たちのインタビューをつまみぐいする中で、圧倒的につまらないのが邦楽ミュージシャンたちの言動だ。中身のある事を言っている例に殆ど見当たらない。まぁ途中で時間の無駄だと思っちゃうので最後まで読む事も殆どないのだけど。田家秀樹さんも苦労する筈である。違法ダウンロード云々言う前に、矢沢永吉みたいに「インタビューを読んだら面白かったので聴いてみた」と読者に言わせるようなアーティストを見つけ育てないとと強く思う。

勿論、ヒカルのインタビューはファンとしての興味を差っ引いても示唆に富む面白い内容が多い。しかし、上記のように邦楽ミュージシャンの言動が平均的につまらない為、訊き手であるインタビューアの方が鍛えられていないのだ。なかなかヒカルから面白い発言を引き出す事が出来ない。

その辺を解決するのが対談形式で、桜井和寿とのトークはなかなか面白かったりしたものだ。だが、対談といえば決定版はやはり浦澤とのInvitation対談で、アニメ同様充実の続いている漫画業界のトップクラスとの対決は示唆だらけのスリリングでエキサイティングなものだった。またこういう対談が実現したら、と思うと同時に、同じ邦楽業界でもこれくらいヒカルから言葉を引き出せる人間が現れて欲しいものだ、と遠くから勝手に思ってみたりもする。

まぁそんな事言ってたら光復帰後の最初のアルバムが完全英語盤だったりして、邦楽業界からますます離れていっちゃってるかもしれないけどねー。

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なんだかんだでヒカルはメディアごとに記録を打ち立ててきている。CDアルバムFirst Loveは言わずもがな、iTunes Storeでは2005年にBe MyLastが年間2位、2006年にKeep Tryingが年間1位を記録している。そして2007年にはFoLが800万以上のダウンロードを記録した。よくもまぁ、である。

メディアの寿命は短い。CD市場のピークは98年だった。First Loveは99年である。iTunes Store日本開始は2005年8月でBMLは2005年9月発売だ。そして今はもう携帯電話は(電話なのだろうか)ガラケーからスマートフォンへと軸足を移し始めていて、着うたのビジネスモデルはいつまで続くかわからない。2007年に着うたを売りまくったヒカルはCDの時と同様ここでも特大ヒットを飛ばした訳である。ある意味これはとっても抜け目ない。

これは別にヒカルが進取に富んでいるとかいう話でもない。新しいものに抵抗がないだけである。彼女自身は案外保守的というか、「新しいものが大好きな私たち」と歌っている割にそういう飛びつき方はしない。やってみる事に躊躇いがないだけである。

となると、次はどうなるのだろう。DVDはLIVE、シングルともにかなり売ったが、Blurayでは目立った成績を残していない。そろそろヒカルもメディア開拓の役割を終えるのだろうか。

思うに、ヒカルが次に新しいメディアで何か目立った活躍をするとすれば、電子書籍なのではないかと思う。

私見だが、そもそも"電子書籍"という発想自体Webに要らない。別に文章を書籍の体裁で見せる必要は全くない。文章だけの雑誌なら有料メルマガで十分だ。長編の書籍ならやっぱり本で読んでしまえばいい。というか、電子書籍に要求されているのはアクセスするメディアとしての役割ではなく、持ってる本が"かさばらない"事だ。所有という欲求を日本のうさぎ小屋な住宅事情で満たしてみたい、という発想なのである。だから、どういうリーダーがいいか未だに定まらないし、結局携帯電話やPCのブラウザーで文を読んでりゃ今は事足りてるのだ。

こういうややこしい、というかはっきりしない世界だからこそ、ヒカルのネームバリューは面白い。09年には世がすわ電子書籍の時代到来かと浮き足立っている所に重厚な(重いってだけか)装丁の点線を発売した。片方はWebの文章を書籍化した代物だ。こういう展開を見せれた人間だからこそ、電子書籍が混乱しているタイミングで逆に侵入して大きな売上を見せてみてほしい。多分、痛快だろう。

で、具体的に何をリリースするかの話になるが…今日は時間がきてしまったのでこの辺で。

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【久しぶりの大事なおしらせ】によると、今は『「休養」でも「充電期間」でも無い』という。どうにもここが引っかかったままである。

直後に書いてある、『新しいことを勉強したり、この広い世界の知らないものごとを見て知って感じ』る時間とは、まさに世間でいう「充電期間」である。13年間ずっと音楽で放電、即ちアウトプットを続けてきたのだからここらで充電、インプットをしよう、と。極めて普通の話であって、お馴染みの"人間活動"というキーワードを持ち出してくる必然性に欠ける。

電気は放電するか充電するか蓄電するかしかない。これが"「充電期間」ではない"というのなら、蓄電か放電である。

蓄電、つまり電池の意義は、電圧を時間と空間を超えて利用できる事にある。勿論最初に電圧(電位差)を作り出さねばならないが、そうやって作り出した電圧を化学的に隔離して携帯しいつでもどこでも電気を利用しようというものだ。ポータブルなのである。

光はもしかしたら、何かの才能なりアイデアなりを、時間と空間を超えてポートしたいのかもしれない。インポートでもエクスポートでもトランスポートでもいいが、今まで築き上げてきた何か、それは音楽的業績でもいいし知名度でもいいし市場の評価でも資産でも人間関係でもいいが、ありていにいえば何かやりたい事の為の"時間稼ぎ"、或いは"空間的移動"が人間活動(のうちのひとつ)なのではないか。充電でも放電でもないのなら蓄電なのだ。

放電、というからには電位差のある所同士が繋がって電流が流れなければならない。ただ電子を吸収しようとしても、どこか電子のある所が必要だ。放電には必ず相手が要るのである。今の所、公表される形で光の人間活動中の"放電"を知れた例は殆どない。目立つものといえば100万$の寄付行為くらいだが、いちおうこれは後から起こった事態に対するリアクションであり、昨年8月時点の考慮の対象ではなかった筈だ。

光が今何か放電を行っているとして、日本でそれを知られないのは無理である。ちょっとお店に入っただけでツイッターで呟かれ拡散される時代である。とするとやはり、光の名を知らぬ国のどこかで活動してるのかなぁ、というありきたりの結論にしかならない。光は今何してるんだろう。別に今は報告してくれなくてもいいから、時間が経ったあとに何かきければいいな。人間活動の成果こそ、時間方向にポータブルであって欲しいものである。

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光に「若い子が何考えてるかわからない」という時は来るのだろうか。

15歳でデビューした当時は、10代の心の機微は無論現役な為描くのは得意とする所だったが、それと同時に自分より上の世代、ずっと上の世代の心も捉えて離さなかったのが凄かった。普通、10代の支持を受ける音楽なんて40,50の大人は興味を示さない。それがこうなったのだから光のソングライティングは年寄りたち(失礼)のツボを知っていたと言い切っても構わないだろう。

しかし、今は光も29になろうとしている。普段10代の子たちと触れ合う場面などあるのだろうか。彼らが何を考え、何を感じ日々を過ごしているのか、その世代の特色を、把握しているのだろうか。

「ねえさん」と呼ばれ始めていり今の状況では、宇多田ヒカルは尊敬はされても"仲間意識"みたいなものはちょっと違うかもしれない。

色々な視点がある。例えば年齢に関係なく、どのアルバム、どの曲から入ってきたかによってヒカルのファン層は特徴が分かれる。その時の光の色の反映だといえる。そういう捉え方をするのなら"若い子たち"という区切り方自体、光には不要かもしれない。

若い世代は常に前の世代の呪縛から逃れる為にもがく、足掻く。その中から、反骨心や反抗心の中からアイデンティティやオリジナリティを確立してゆく。光ももう若くない。寧ろこれから、いや既に一部ではそうなっているだろうが、旧世代の象徴として語られていくかもしれない。

実際、年をとった大御所がその時旬な若いアーティストと共演する姿は幾度となく見られてきた。親子ほども、とはいかないまでもこれから光は年下のミュージシャンたちとも仕事を始める筈だ。そういった時に、光にとっての"若者"って何になるんだろう、と考えるとちょっとピンとこない。男子と女子でも違いはあるだろうけど。

Stay Goldが解禁になった頃、この曲は10代にウケがいいと光は言っていた。おぉなるほど、いわれてみればと思ったものだが、何よりこの歌の主人公が「ねえさん」だった所が、10代の子たちにとっての宇多田ヒカルという存在にしっくりと来たのではないか。「私は今10代だからおじさん作詞家よりも彼女たちの気持ちをわかって詞が書ける」みたいな意味の事を嘯いていた少女が、年下の子を優しく見守る目線の曲を書いて、それが彼らに受け入れられた。こんなケースが今後も増えていくのだろうか。

光の作詞からして、特定の年齢層に偏った内容ばかりになるという事は考えづらい。ぼくはくまでくまにもなった人である。恐らくこれからも、様々なひとやものに"なる"だろう。なって、歌を唄うだろう。しかし、周囲の目は否応無しに変化していく。光の精神が年を取らなくとも、周りは確実に老いていく。それは抗い難い事実である。まぁもっとも、ヒカチュウでいちばん元気なのは還暦を過ぎたみなさんだったりするんですけどねー。

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歌の世界というのはとても短い。歌手寿命もそうだし流行の移り変わりもそうだが、歌の中の世界の物語の持続時間自体が短い。どんなストーリーもPopsであれば5分ほどで済まされ切り上げられ次の世界へと移ってゆく。掌編小説とか、読み切りばかり掲載された漫画雑誌みたいなものだ。数分堪能した後は、すぐ忘れられてもう次である。

勿論それは近年のPopsの話であって、クラシックであれば数十分の楽曲は珍しくないし、オペラなら日を跨ぐ事もある。プログレはアナログレコードの収録時間限界に挑戦した。しかしまぁ取り敢えず宇多田&UtaDAにとっては約5分の世界がずっと続いている。

漫画の喩えを出したが、これが雑誌連載であってもストーリーの続きものであれば作品としては継続してゆく。昔に比べ続きものの漫画が長期連載になっているのが最近の傾向で、ゴルゴ13やこち亀は短いエピソードの集まりだがONE PIECEは完全に(タイトル通り)ひと連なりの物語である。

続きものの利点としては、その時に少々面白くなくても、期待感さえ持たせられればある程度OK、という側面がある。期待感を煽れるだけの内容がつまりは必要なのだが、そこさえクリア出来れば受け手を"満足"させるのは次の回以降でいい。当然その期待感の分だけハードルが上がる訳で、これは未来から読者の注意をレンタルしてるようなものだ。破産した時が恐ろしい。

一人の音楽家の音楽をずっと追い続けるという事は、その両方を堪能する事である。かたや5分の読切楽曲の中でその時その瞬間を満足し、かたやその次々と現れる5分の連なりに、その音楽家の人生を見る。歌の流行廃りは儚いものだが、人の営みは続いていく。ただ、後者の"ひとりの音楽家の人生を堪能する"というのは、そこに何かの物語を見いだせねば機能しない。ここが難しい。

更には、光自身がそういう見方を好んでいないかもしれないという虞もある。歌ひとつひとつの好き嫌いで判定してもらって、別に私自身のファンでなくてもいい。それは、裏方ならではの志向といえるかもしれない。儚い栄枯盛衰に身を置きたくない、のもあるかな。それはないか。兎も角、光はどちらかといえばその時その瞬間の"満足"を狙っているのであって、期待感とか希望とか夢とか、その先の連なりに委ねるのは性に合ってないのかもしれない。

未来に保証なんてない、そう歌う精神は、つまり今歌ってる歌だけで受け手を満足させなければならないプレッシャーに満ちている。この態度自体が、歌の5分だけの世界を作り上げ、受け手を満足させるのだ。我々はHappyである。でも、やっぱりこれだけいい歌を聞かされ続けてきたら、どうしたって未来に期待しちゃうよねぇ。そのバランスは、確かに難しいのでした。

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曲を書いていると不意にある感覚に襲われる事がある。「あれ、どうして今までこの風景を忘れていたんだろう」。ここまで来ると、次の音符を置くのに何の躊躇いも感じない。だって、もうそれは既に知っているのだから。あるべき姿は、見えている。

その風景の中に身を投じると、無性に泣きたくなってくる。普段せわしく生きている中で忘れていた場所。気がつけば、気がついてさえいれば、ずっとそこにあった。悔恨の念にも似た心の高ぶりは、音楽がどこから来た訳でもなく、ずっとそこに静かに黙って居た事を教えてくれるのだ。

その風景は、生きていく上で全く役に立たない。一生ずっと思い出さなくても何の支障もない。そこに行かなくても人は生み生まれ、食べて寝て死んでゆく。砂時計は何度でも翻るのだ。知らなくてもいい場所である。

しかし、なのか、だから、なのか、そこに僕らは猛烈に惹かれる。光の歌が好きな貴方は、既にその感覚を知っている。だから今ここに居るし、こうして私の書く文章を読んでいる。

『メロディーは、誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。リズムは、死へ向かう生命の行進の音。歌は祈り、願い、誓い。音楽は、慈悲。それ以上、音楽の難しいことは知らなくてもいいと思う。』

点の一節だ。今とっさにググッてBotのTweetを書き写しただけだから正確ではないかもしれない。原風景、懐かしい場所。光ほどこれがよく見えている人は居ない。もしかしたら、生きている間中ずっと見えているかもしれない。

だとしたら、孤独だろうな。何の役にも立たない、誰も気付かなければ知ろうともしない場所にずっと居るのだから。

その筈なのに、時折その場所に、そのメロディーに共鳴してくれる人が居る。「もしかしたら、私はそれを知っていたかもしれない。」―そう言われた時の、喜びよう。孤独に変わりはないのだが、しかし何かがそこに在った。寄り添うとはこの事かもしれない。

アーティストはおしなべてそれをひとに伝えようとする。だいたい、暑苦しい。力ばかり入って、何の事を言っているのかわからない。そうしているうちに、アーティストたちは"アーティスト"になって、消費され、懐かしい場所を忘れていく。勿論、それで何の問題もないのだ。いっさいをわすれさってしまって、それでもなおひとはしあわせに生きていける。何の、問題もないのだ。

風景を忘れるにしたがい、人は光から離れてゆく。ふとしたことで思い出せばまた、光の許に戻ってくるだろう。勿論それで、何の問題もない、何も問題はないのだ。

その場所に居る時に湧き上がる心の涙は、行き場所がわからない。それを揃えるのがリズムなら、光は今もしかしたらリズムを抑えているのかもしれない。波打つ時間、翻る砂時計。懐かしい。ただただただただ、懐かしい。でもいつか巡り会っていた訳ではない。それでも何故か、知っていた。訊かれてもわからない。

だから音楽は滅びない。何の意味もない。何の問題もない。気づくかどうかだ。気付いた時は、ただ涙を流せばいい。何の問題もないのだ。

音楽が生きるならば、我々も生きる。逆のように思うだろうが、そうなのだ。歌が途絶えた時が、見捨てられた時。『見捨てない、絶対に』と云うからには、光の歌が途切れる事はない。問題ない。何の問題も、ないのだ。うん、うん。

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