無意識日記
宇多田光 word:i_
 



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




@utadahikaru: 「桜流し」はDLのみのつもりだったけど、このビデオは形に残したい、DLが苦手な人にも届けたいと思うようになって急遽DVD発売を決めたからこんなに遅くなっちゃった。やっぱりこうやって作品が手に持てるモノになると嬉しい。コメントも悩んだけどがんばって書いてよかった(´`*)


29日のヒカルのツイートだ。DVDを発売するに至った動機(『このビデオは形に残したい、DLが苦手な人にも届けたいと思うようになって』)と経緯(『急遽DVD発売を決めたからこんなに遅くなっちゃった』)が書かれている。

動機はつまり大きく分けて2つのニーズ、フィジカル・コレクションへのニーズ、及び配信購入層以外からのニーズ、にそれぞれ応えるカタチとなっている。この点については概ね歓迎したい。

また、経緯については、途上で心境の変化があった事を窺わせる。(『DLのみのつもりだったけど~にも届けたいと思うようになって』) それがDVD発売のタイミングの謎への答だとすると、最善だったとはいえないが、非常によくやってくれたと思う。つまり、最初っからフィジカルを発売する計画を立てていたらもっと早いタイミングでリリースできたのではという指摘も有り得るのかなという事なんだが今更云うのは野暮というものだろう。

ただ、意地悪な事をいえば、何故それならDVDシングルのみにしたのかという疑問が残る。日本でこのシングルをCDシングルだと勘違いして購入した人は何人居るだろう。いや勿論よく確認せずに購入する方がよくないっちゃよくないんだが、CDシングルを期待した人とDVDシングルを期待した人、両方を期待した人を較べると、DVD期待派よりCD期待派の方が実数は大きかったんじゃないのか。

商売でやっているのだから、売れない媒体でわざわざリリースはしない、という判断ならわかる。未だに演歌ではカセットテープでのリリースが続いているが、だからといってヒカルがカセットテープでシングルをリリースする必要はない。買いたいという人も居るかもしれないが、営利企業がそこまでケアするこたぁないだろう。ただ、そういう人が居たとしてもMail to Hikkiなんて芸当は出来ないだろうからヒカルにまで声が届きようがないという側面も考えられる。なんか屁理屈だけども、ではCDシングルはという疑問を同じロジックで考えると難しい。

ここで鞘当てがあったと私はみている訳だ。U3側はCDシングルのリリースを主張したが、レコード会社側が難色を示したのではないか、と。つまり、前も述べたようにCDシングルをリリースしても、その売上による利益より、その売上数に関するアナウンス効果のマイナスの方が上回るのではないかという判断だ。ちょっと穿ち気味の妄想ではあるけれど、ここでU3側は「ではシングルCDを売る為にしっかりプロモーションします」というカードを切れない訳で、その中でDVDシングルという案に落ち着いたという考え方も出来る。

で、「レコード会社側」と書いたが、この妄想の中でこれがどこらへんの事を意味するのかという問題がある。エグゼクティブプロデューサーの片翼三宅さん、ディレクターの沖田さん、A&Rトップの梶さん、、、ここらへんを「レコード会社側」と想定すべきかどうか、もしかしたらEMIJAPANレーベルのトップのリリースという事でEMI本社からの声もあったかもしれない。何しろ配信に限れば100ヶ国以上でリリースされるのだし、フィジカルに限ってもアルバムCDやライブDVDなどはアジア10ヶ国(地域)でリリースされる。お伺いを立てる事もあるかもしれない。或いは。新たな親会社、親グループのUMGからの進言もあったかもしれない。わからない。

いや全て妄想に過ぎないのだが。ただ、30万ダウンロードともなれば、収益率如何によってはDVDシングルの売上が少々低くても曲全体としてはペイ出来るのでは、といえそうだ。即ち、これだけ配信が稼いでくれれば、DVDシングルは"セミロングテール"商品として存在価値があると主張出来るし、あわよくば「これだったらCDシングル出してもよかったじゃん」という主張も成り立つかもしれない。もしそうだとすれば案外重要である。桜流しのような、ラジオに全く優しくない曲(フルコーラスで掛けないと意味がわからない曲だからね)でもこれだけ売れるのだから、今後ヒカルが実験的な曲をリリースする際にもシングルCDをリリースできる可能性が高まる。これはファンとしてはとても嬉しい事態である。


しかし、妄想をググッと後ろまで戻してみると。U3側にそもそもCDシングルをリリースする気がなかったケースについても考えねばならないか。つまり、ヒカルにとって既にCDシングルという媒体が生活の中に一切ないのかもしれない、という事だ。CMに出演する際のポリシーを媒体の選別にも当て嵌めてよいものかという疑問はあるけれど、実際もうヒカルはCDシングルを4年半以上リリースしていない。あのPoLEPが最後である。以後はEternally-DramaMix-もBeautifulWorld-PbAM-もGoodbyeHappinessも全て配信のみだ。この事実をどう捉えるべきか。SC2の曲については梶さん本人の発言によると「シングルをリリースしたかったが、スケジュールの都合で出来なかった」らしい。これについてはもう少し突っ込んで訊くべきだったなと今になって後悔しているのだが、スケジュールの都合といってもGBHとCWTCとSMLNADではそれぞれ事情が違う筈である。ただ共通していえそうなのはいずれも「ヒカルの身
体が空いてなかった」という事だ。GBHはSCv2制作の最終局面、CWTCはライブリハーサルの真っ最中、SMLNADはもう人間活動中、という風に…。即ち、シングルCDのリリース=アーティスト本人による積極的なプロモーション、という図式が前提としてあるという訳だ。だからEternallyDMもBWPbAMもGBHも、遡ればThisIsLoveも、いずれもUtaDAの活動やヒカルのコンサートの準備があるせいでシングルCDのプロモーションが十分にできる体制ではなかった、と解釈する事も出来る。まぁThisIsLoveはTVで歌ったけれども。


どの解釈も根拠の薄い妄想に過ぎない。もっと言えば、どうとでも言えるとしか言えないのだ。何より、CDシングルを所望する層自体が、もうカセットテープ愛好者並みにニッチになってきたともいえるんだし。

そんな事より、今は兎に角、冒頭に述べたようにDVDシングルがリリースされた事を素直に喜んでおけばいい。高画質、何より高音質である。ファン、マニアは買わない手はないだろう。更にいえば、このタイミングでヒカルのまっさらな新曲が聴けたのだ。しかもそのクォリティーはとんでもなく高い。その圧倒的な事実の前では発表する媒体が何であろうと小さな事でしかない。極論すれば、桜流しを味わえるプレイヤーを買ってしまえばいいのだ。そうするだけの価値のある曲である。もしこの曲がスマートフォンのみの配信だったら私は一瞬も迷う事なく新しくスマートフォンを購入した事だろう。まぁこんなファナティックの云う事なんてどうでもいいですねすいません…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




といいつつ、続きを書くのは難しい。まともなインタビューひとつ取れてないのにヒカルの気持ちなんかわかりっこない、とも言えるし歌に全部乗ってるんだからそれでもうよい、ともいえる。どうでもいいわけではないが、どちらでもいい。

感情の問題である。事実の問題ではない。自分の国の危機という側面もある。大半は自滅な気もするが、それが震災の齎した最大の災厄なのかもしれない。我々は殆どの人間が身の丈に合わない反映を享受しているのだ。その為、少しこうやってズレただけで、100年後の人間に呆れられたり憤られたりする愚行を撒き散らしたりする。普段の日常の行動は、非常に確率の高い偶然に過ぎない。高度な文明はやはり脆いのである。しかしその贅肉の肉づきを削ぎ落としても、野生は野生でひたすらに危ない。ただの殺し合いの世界である。脆さと危うさ、どちらをとっているかといえば日本という国は脆さをとったといえる。いつまで続くかわからないが…。

そんな私の戯れ言はいい。重要なのは、ヒカルにとって震災がエモーショナルな出来事だったという事だ。メディアを通じたイメージだけでも大きかったろうが、もしかしたら長年の、彼女も名前を覚えているようなファンが亡くなられているかもしれない。つまり、"僕ら"のうちの1人である。ともなれば、それは彼女にとって他人事たりえないし、"僕ら"にとっても他人事たりえない。明日は我が身、今僕らがこうやって呑気にBlogなんぞ読んでられるのも非常に確率の高い偶然に過ぎない。いつ何時、津波に全てを攫われるかわからない。津波というのはただの象徴で、要は"昨日まで考えもしなかった脅威に突如曝される"事態の事だ。確かに、どうにもならない。

だからこれはイマジネーションの問題であると同時に、リアルな問題でもある。油断して生きている僕らの心の全体が桜流しを聴く前提となっている。だから多くの人々に届く筈だ。生き残った僕らの心に。

気づきの問題である。桜流しを聴く度に、大きな力に押し流されて大切な人を喪う人の事を考える。この歌が歌い継がれる事で、記憶が呼び覚まされる。その機能は筆舌に尽くし難い。恐らく、例えば毎年3月11日を特別な日とみなす機会は、そのうち一年ごととなり、五年ごととなり、十年ごとになり、どんどん他人事になっていく。今この瞬間、1月17日といわれて何の事かすぐわかった人はどれ位居るだろう。忘れる。お陰で生きてもいけるのだから、復興により恐怖が歴史の一ページに封じ込まれるのも悪い事ではない、けれどね。

しかしこれは感情の物語である。事実とは直接関係ない。表現者は、この感情の渦の中で何を刻むのか。何をしなければいけないか。

庵野総監督は、EVAQを随分改変した筈である。でなければ、そのような発言をひとに伝える訳がない。私も影響を受けたのだから貴方も遠慮なく影響を反映してくださいという事だ。EVAは作り話であり、その中にどれ位現実の時間の流れの話を、リアルタイム・ストーリーからの影響を流し込んでいいものかどうか、総監督の周りの人間は気になっていたのではないか。彼の一言は、その気遣いに対する謝辞と許可となった。「遠慮は要らないよ、寧ろ向き合え」と。ヒカルも勇気付けられたか。どうだろう。

実際、総監督は現実の世界を題材にEVAのストーリーを描いているとは専らの評判である。ヴィレとネルフをカラーとガイナックスになぞらえた解釈もあったっけね。まぁ、ただのヒントといってしまえばそれまでだが、創作のLIVE感に制限を加えない宣言は、虚構世界の構築に携わる者同士の会話の中だから成立したともとれる。

話がだいぶ逸れたうえにとっちらかったな。次回の更新いつになるんだろう。わかんねw

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




DVDシングルのメッセージで、妙に気になったのは、2人の言葉ではなく、庵野総監督の一言だった。「表現者として震災は避けて通れぬ」という趣旨なのだが、はてこれをどう解釈したものか。

こういうのって、何を指してるのだろう、と意地悪く考える。答は空気なのだが、彼らのような超一流の表現者たちの考える事を理解するには何か捻ってみなければならない。大抵その捻り自体は間違いなんだけれども。

震災の何が影響しているのか。それが地震と津波であった事なのか、それが万単位の人の命を奪った事なのか。それなら2004年のスマトラ島沖地震は死者22万人とも言われてるが庵野総監督はその時この震災と向き合ったのだろうか。規模の大小でないのなら、毎年世界各地で地震や津波の被害者は出ている。「よくあること」なのだ。

要点はそこではない。「表現者として」というのが肝心だ。表現したら、受け取る相手が居る。その彼らの気分の問題なのだ。何かを表現して伝える相手の気持ちが、震災を境に大きく変化している事から逃げてはならないのである。そして、我々の気持ちが大きく変化したのは、沢山の映像や記事を観たからである。スマトラ島沖地震の時の映像を遥かに上回るインパクトの映像を目の当たりにした。あの黒い波の恐怖。死者ゼロなのに原発事故が殊更取り上げられるのも、プラント事故が生中継されたというインパクトが大きい。そういった諸々が、我々の気分を変えていった。

勿論、被害規模を考えると実際に被災された方や、被災者を身内や知人に持つ人もあろう。亡くした人も居るかもしれない。しかし、例えば私自身は、津波にさらわれた街跡、いや街痕を実際に見た事は一度もないし、死体や遺体に触れた事もない。全ては情報でしかない。幾ら想像力を働かせたところで、リアルとはベクトルが違う。

極端に言えば、高視聴率のテレビドラマを観たのと変わりがないのだ、私を含め大半の人間にとっては。皆が観て、気分が変わった、その空気の変化を前提にしなければ表現にズレが生じる、思い切りドライに書けば、そうなる。

しかし、桜流しはその「気分の変化」の生み出した作品なのかといえばそれは違う。続きはまた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうにも「外側から見た今年の宇多田ヒカルに対する評価」がわからない。桜流し一発なのでアーティストに対する評価云々云ってても仕方無い気がするが、年々邦楽を聴く割合が減っている当方としては、極端な話、宇多田ヒカルの居ない邦楽市場よりも邦楽市場はないけど宇多田ヒカルは居る、という状況の方がよりリアリティがある。日本語で歌われる他の新曲が生まれなくなっともまぁいいかな、と、、、ヒカルさえ歌ってくれていればいいんじゃないか、と身も蓋もない事を考えてしまう。それ位、桜流しを創って歌えるヒカルは別格であり別格過ぎて他と比較する気にならない。今までは「余りにヒカルに入れ込み過ぎていた為」に外側からみた視点を構築するのにひと難儀だったのだが、最早そもそもそれに意味を見いだせないという事だ。図抜け過ぎたな。

勝負として面白いのは動員数で、邦楽市場にはヒカルじゃかなわないミュージシャンがやまほど居る。今から生涯動員数でミスチルを追い抜けるかというと難しいんじゃないか。ジャニーズまで含めるとヒカルの動員数は二流の烙印を押されてしまいそうだ。うげげ。

まぁ次の五輪の年まで待つ事になると思うけどねー…。

という訳で2012年はとても総括し難い。というか総括がない。AKBが居ても居なくてもオリコンチャートは参考にならないしLIVEやってないから動員もないし。桜流し。三文字で総括終了である。敢えて言うなら、ね。こんな年は流石に二度と来ないんじゃなかろうか。豪快だ。4月にロンドンの地下鉄で一緒になった人に告げた"New Stuff Is Coming Soon"の一言に嘘はなかった。本当に新曲だった。満足至極。他に言う事がない。

もうそうなると桜流しのディテールの話を延々と続ける以外なくなる。まぁ最初っからそうだっけ。この曲のシーンの中での位置付けとか最早興味がない。先述の通り、レコード会社でのヒカルサイドの発言力が低下しない程度に売れれば十分である。そして十分に売れたので、中へ中へと入っていこう。

そろそろ読者の皆にはDVDシングルが行き届いただろうか。そこに書かれた2人のメッセージは真摯なものだ。この美しい作品を取り巻くそれぞれの思惑と立ち位置。一人々々がクリエイターとしての矜持を持ち合わせていて、それがぶつかつりあったんじゃないかとヒヤヒヤする。ちょっと想像力をはたらかせ過ぎかな。

ミュージックビデオを作るという作業は因果なものだ。映像作家というのは、映像が主役だと思っているから映像作家をやっている、とまで言うと言い過ぎだが、そりゃミュージシャンと比較すれば映像に比重を置いているのは明らかだ。そして、ミュージシャンという人種もまた、自らの手掛ける音楽こそが主役なんだと思っている。この具合。この噛み合わせ。ミュージックビデオの場合、曲が先にまずあるんだからこちらが主体に決まってるよねとなる。

映像作家はここで、どう踏みとどまるか。最初にこのオファーを受けるか否かの判断から始まり、どこで自身のイマジネーションを押し出すか、ミュージシャンのどこらへんの意志を尊重するか。色々と考える筈だ。特に桜流しの場合、映画という強力なバックグラウンドピクチャーが先に存在する。これとどう折り合いをつけるかがポイントなのだが、監督は、ツイッターによるとEVAを観ていないらしい。なるほど。その予備知識に立って、映像の内容を紐解いていこうかな。次回からすぐ、かどうかはわからないけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




桜流しDVDシングルの発売日が12月26日になったのは、梶さんのツイートの感触からすると「最速」のタイミングという事らしい。それだけ、フィジカルのリリースに時間が掛かるという事か。

どうにも、そこにスピード感の噛み合わせのズレを感じる事になる。Flavor Of Life以降、公開即販売がお馴染みになった。いやまぁフル解禁までのタイムラグとかあるけどね。欲しいと思ったその時にすぐ買えないとすぐ忘れ去られる。少なくとも話題に乗り切れない。先日もラジオで一回かかっただけで一両日中にiTunes Storeのソング総合チャートで2位まで上った楽曲があった。発売直後でもなんでもなかったけれど、"最大の商機"はまさに全国ネットのラジオを皆で実況しているその瞬間と、その話題がまとめサイトやTwitterで拡散していくその間だった、という事になる。ここを逃してはならない訳だ。

然るに即ち、映画公開から5週間経った今DVDシングルを発売した所でそういう一時的な盛り上がりに乗じて売り抜けるなんて事は出来そうもない。これから映画界は年末年始特需かもしれないが、Qみたいな憂鬱な映画を新年早々観たいかというと、ねぇ。

という訳で前に述べた通りこのフィジカルはファンにとってのコレクターズアイテムという事になる。ファンへ向けての、レコード会社からの遅れてきたクリスマスプレゼント、或いは一足早いお年玉といったところか。配信で楽曲を"消費"する感覚とは違い、実体が手元に残り続けるのはやはり作品に対する愛着も違ってくる、かも。ポスターが付属でついてくるのも、フィジカルの特性だ。今は画像はなんでもPCで手に入れられるが、あのサイズを映せるディスプレイやプロジェクタを持ってる人はそうそう居ないだろう。

もっとPVの完成が早ければ、発売日は早まっていたのだろうか。今更考えても仕方がないが、フィジカルのスピード感と配信のスピード感の違いを各々どう活かしてコラボレートしていくか、もう暫くは悩みの種になりそうだ。売れてるといいな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




やれやれ、奴がツイートを始めるとこっちのペースが狂うわ。いやもう何が本末転倒なのかようわからんわい。

今日はEMI JAPANからプレスリリースがあり、ヒカルの総ダウンロード数が3600万だと発表されたらしい。いやはや凄いもんだ。桜流しも35万DLを突破したらしく大したもんだが、それでも全体の1%に満たないというのだから恐るべし。

とはいえ今や音楽の人気を測るのに最適な数字は動員数なのだから、なんだかこれだけデカい数字を出されても「本番じゃあない」という気分になってしまうのは私がひねくれ過ぎているんだろうかな。立派に商業活動として成立してるんだからもういいだろう、とは思うもののどうしてもこういう数字って漠然とした破壊力だけが伝わってきてそれに基づいた分析等には向いていない気がする。ここは素直に「スゲー」と言って驚いておこう。

商業的な成功は重要である。売れていればヒカルの発言力は維持される。幾ら周りのスタッフが好意的だからといって数字が上がらなければ肩身が狭い。ヒカルは喜んでいるのではないか。喜ぶべき事なのだから当然なんだが、売る事に特化している訳ではない売り方(なんか妙な言い方だな)をしている以上、売れる事は運でもある。数字というのは強力で、或いは強力であると思われていて。「何が好きかより売上を語れよ!」という名言(迷言)もある位だから、雑音は大きく減る。それが創作環境に及ぼす好影響は計り知れない。

なので…DVDシングルの売上は心配である。思わずあと5枚位買ってしまおうかと思ってしまう。生活の中で桜流しの占める割合を考えたらそれだけ支払ってもまだまだ安い位なのだが、それをしてヒカルが喜ぶかというと微妙だな。私がミュージシャンなら「それだけ予算があるのなら他の音楽にも費やして見聞を広めて欲しい」だなんて差し出がましい事を思っちゃいそうだが、ヒカルはどうなのだろう。

チャートアクションの発表は来年まで持ち越しである。DVDのみのフィジカルリリースという冒険がどのような実を結ぶか、暫し待っておくとしよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




例年だとそろそろ「今年の総括」みたいなエントリーを書く所だが今年は桜流し一発なのでわかりやすい。

にしても、これで、1998年から続く「毎年リリース」が15年連続と更新される事になった。音源と映像という観点からいけばUtada名義も含めて、になるけど。書籍「点」「線」も含めれば宇多田ヒカル名義のみでも15年連続になる。

1998 Automatic time will tell
1999 Movin' On Without You他
2000 Wait & See ~リスク~他
2001 Can You Keep A Secret ?他
2002 光 他
2003 COLORS 等
2004 誰かの願いが叶うころ 他
2005 Be My Last 他
2006 Keep Tryin' 他
2007 Flavor Of Life 他
2008 Heart Station / Stay Gold 他
2009 「点」「線」
2010 Single Collection Vol.2
2011 WILD LIFE DVD/Blu-ray
2012 桜流し

いやはや、こりゃ凄い。将来ディスコグラフィー書いたらいつ人間活動してたかわからないんじゃないか。

という事で目下の注目点はこれが16年連続になるかどうかだ、なんて言うと鬼たちを大爆笑させてしまいそうだが、どうせなら桜流しDVDシングルのリリースを一週間遅らせて来年にしてれば…いやまぁそれはいいか。

勿論、最大の問題は次の「EVA:∥」がいつ公開されるかだ。当初は2013年中の公開予定だったが、今はその表記はどこにもない。Qの作風のお陰で、期待のハードルが熱く上がっていく中で、はてさてそんな拙速な公開が望まれているかというと決してそんな事はなく、ファンの方は大抵、出来るだけ伏線を回収して締めくくって欲しいと思っている筈だ。一方で、人々の興味を惹いているうちに、鉄は熱いうちに打て、矢継ぎ早に公開してくる方法もアリだろう。どうなるかはわからない。しかし、3作目に対して人間活動中にもかかわらず新曲を持ってきたのだから4作目に対しても必要とあらば新曲を書き下ろす筈である。なんだか慌ただしい人間活動になっているが、十二分に毎年リリースは「16年連続」に更新される可能性がある訳だ。


…気が逸りすぎだな。まぁまだDVDシングルが発売になったばかり、というか正式な発売日は今日なんだな、な訳だから焦らずに参りましょうぞ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ポスターでかいわ(笑)。

2人のメッセージについてはまだ楽しみにしてる人が居るだろうから書くのは暫く待つか。まぁクレジットの話ならいいだろう。

その前に。ほんに邦楽のCD/DVDって素っ気ないなぁ。今やお布施で買うのが主流だからもう構わないんだけど。洋楽盤を買った時に伝わってくるあの「何とか買って貰おう感」が皆無だぁね。それが不満というより、そういうもんだよねという気分。今回も、映像は配信で買ってるしお目当ては正直ポスターですという人が多そうだ。

店頭の感触でいくと初週一万枚はいかないかな…EVAのヱの字もないからね。EVAファンが買う理由がない。これがCDシングルなら「Qの主題歌音源ktkr」となるのだが、河瀬Visionが加わる事でEVAが押し出される格好となった。最早このDVDシングルはEVA関連商品ではない。

逆にいえば、非常に純粋な宇多田ヒカルの新曲のリリースになったともいえる。そもそもEVAがなければ、EVAでなければ人間活動中に曲を書こうとすら思わなかっただろうからEVA抜きでこの曲を語る事は難しい筈なのだが、ビデオクリップの存在がその出自の堅牢さを淡く打ち溶かしたようにも思えてくる。ここらへんは個々人の感覚かな。

DVDを再生したら音源部分のサンプリングレートやビットレートなどをチェックせねば。単純に考えていちばんいい音で聴ける筈なのだ。えぇっと、音声部分を切り出すのは今法的にどうでしたっけね…だなんてリスナーが一瞬でも躊躇する事自体、この法律の負の効果が…まぁ、いいか。いい音で聴く為にはDVDプレイヤーを駆動させよう。

クレジットに関して。このいちばん上の「Produced by」は、何についてのクレジットなのだろう。普通に考えれば音楽部分のみなんだろうなぁ。映像の場合監督にあたる役職はDirectorだし。でもちょっと違和感。ミュージックビデオのクレジットってこれでいいの? 確かに、今手元にないけど、UHシリーズもDVDシングルもこんな感じで書いてた気がする。でも、これでいいの? 音楽と映像は全く別に作ってて統括責任者は居ないの? うーん…

いや、実質はヒカルが"総監督"なんだと思う。河瀬監督ともミーティングを重ねてヒカルの意向も随分映像に反映されただろう。ならば、そういう側面も鑑みた何か新しいクレジットを設置した方がいいかもしれない。

いやクレジットというのはその名の通り「あなたに取り分を差し上げますよ」のサインだからそうそう新奇な事もできないか。大事な所だもんね。しかし、今回は「CDシングルは出さずにDVDシングルを出す」という状況なのに、このDVDシングルは普通のDVDシングルであるように思う。極少数かもしれないが、配信を利用できずDVDも再生できる環境にない人の購入を阻害してまでの販売戦略なのだから、どこかこう、ブックレットに「今回は私が主役。替わりはいないわ。」という風格と責任感が欲しかった。これじゃまるで、先にCDシングルが出てるような、或いはCDシングルが同梱であるような、そんな錯覚を覚える。過渡期、かな。また次だ。

尤も、その事と内容の素晴らしさは関係がない。それとこれとは関係ない。


追伸気味に。三宅さんと照實さんが"エグゼクティブ・プロデューサー"として名を連ねているが要するにこれは"名誉顧問"みたいなもので、極端な場合だとただの名義貸しである。ヒカルの場合は、長年プロデューサーだった人たちなのでこの2人の名前がないと座りが確かに悪くなる。まぁそれはそれとして、今や完全にヒカルがイニシアシブを取るようになったんだなぁと感慨深くなってみるのも、いいかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




桜流しでは、サウンド構造にも表れているように「目線・視線」の動きが重要である。

『見ていたあなたはとてもきれいだった』の一行には、花が散るのを見ていた"あなた"の視線と、その横顔を見る"私"の目線の両方が含まれている。見る人を見る人。この思い出の中の情景から今という時点の仮想の中で『もし今の私を見れたなら』という"あなた"から"私"への視線に推移する。"私"から"あなた"への目線は変わらずそのままだから、この視線と目線は交錯する。仮想の中で。

翻って次のパートでは、視線と目線から「音」に話が移る。『今日も響く健やかな産声を聴けたなら』に『私たちの続きの足音』。ここでは"私"が鑑賞の対象とする(『とてもきれいだった』)相手の存在もないし、目と目を合わせる相手の存在はない。既述の通り、疑問を投げかける(『見れたならどう思うでしょう』)最初のパートと、確信をもつ(『聴けたならきっと喜ぶでしょう』)二番目のパートという組み合わせである。視線と目線が交錯する視覚の物語はこちらが見る者がこちらを見る者でもあり、自己と他者の物語になる。即ち、相手の心がわからないから「他者」なのだ。他方、聴覚の物語は心を一つにして同じ気持ちになろうとする共感の物語。私とあなたは相対する存在というより同じ場所に立つひとつの存在となる。その為聴覚の物語は確信を以て届けられる。ここらへんの対比が巧い。疑問と確信を、視覚と聴覚の性質と呼応させているのだ。

そして、次のパートで『もう二度と会えない』と視覚("会う")、及び『まだ何も伝えてない』と聴覚("伝える")の両方を組み合わせてくる。ここが何ともドラマティックだ。実に練られた歌詞構成である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




周りが全部カップルなんですけど…(笑)。

こういう雰囲気の中で桜流しの話をしたがる私。そして明日はDVDシングルのフラゲ日だ。ヒカルのクリスマスはどんなかな。

前に最後の一節が「全ての終わりに愛がある"から"」ではなく、『全ての終わりに愛がある"なら"』になっているのは、確信の不在が理由だと述べたが、もう一つ、"伏線の回収"という役割もある。これは結構わかりやすい。『もし今の私を見れた"なら"どう思うでしょう』と『今日も響く健やかな産声を聴けた"なら"きっと喜ぶでしょう』の2つが伏線になっているのだ。

どちらも「仮定の話」である。そして、最初は疑問形、「どう思うでしょう(か?)」で次は推量の「きっと喜ぶでしょう(ね。)」だ。そして最後は、順番を入れ換えて書くと「全ての終わりに愛があるならどんなに怖くたって目を逸らさないよ」になるが、これは決意表明、断定といえばいいか。もっと直せつ的に言えば、希望だ。いずれも仮定の"なら"だが少しずつ意味合いが異なる事に注意。そして、大切なのは一つ目より二つ目、二つ目より三つ目の方がより調子が強くなっている事だ。最初は儚げな疑問形。恐らく、本当に彼がどう思うかわからないという不安が拭えないのだと思う。なぜなら、お互いがお互いに対して「あなたなしでの人生を考えていなかった」からだ。今の私が、生きてる筈のない私が生きている事への疑問そのものをこの"なら"は引き受けている。

次の"なら"が導くのは"きっと"である。これは確信である。"あなた"はこう思うに違いない、"なのに"あなたは居ないから"思えない"。確信が強ければ強い程悔恨の度合いは増す。即ちこの"きっと"は悲しみの深さを表す。その為の"なら"である。

そして最後の"なら"は「そうであってほしい」という"希望"を導く。疑問より確信より、祈りをも伴った希望への思いこそ最も強い。「生きねば」。一言でいえばそういう事だが、過酷である。それを耐える為には「全ての終わりに愛がある」という希望がなければ、たちゆかない。しかし、それは最後まで行かなければ愛に辿り着けないという事でもある。難しい。

そして、この三つの"なら"に載せられた思いが強まるにしたがって曲調も歌の調子も強さが増していく様をじっくりと聴き届けて欲しい。歌詞を斯様に構成する事と、編曲上の展開と歌唱の抑揚が見事に同調している。作詞作編曲歌唱を全て自前で執り行うからこその統一感だ。桜流しの気迫、迫力はこういった意志の強い演出志向の統一を源泉としているのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『開いたばかりの花が散るのを今年も早いねと残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』の部分と『開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無き哉』の部分の歌詞の比較をした。今度はこの部分のメロディーの違いを見てみよう。

まず、見てわかるとおり尺が違う。最終部は冒頭部の半分の長さである。恐らく、いままで「尺の異なる歌詞の部分同士の対応」なんて話を書いた覚えがないので、初めての試みかもしれない。

こうやって半分の長さだけを対比させる理由が、メロディーの振り分け方なのだ。

冒頭部の方は

― 開いたばかりの花が散るのを
― 今年も早いねと残念そうに
― 見ていたあなたはとても
― きれいだった

という具合に切る。このうち、『ひらいたばかりの』『ことしもはやいねと』『みていたあなたは』の3ヶ所の8文字ずつは同じメロディーだ。しかし、『はながちるのを』と『ざんねんそうに』『とても』はそれぞれ別のメロディーだ。最後の『きれいだった』に至っては次の『もし今の~』と繋がっていてまるで別個である。3ヶ所の8文字以外はメロディーを変化させている。

一方最終部は

― 開いたばかりの花が散るのを
― 見ていた木立の遣る瀬無き哉

ともに最後まで同じメロディーを繰り返す。ここがポイントだ。結果的に、まず最終部の一行目『ひらいたばかりのはながちるのを』と冒頭部の一行目『ひらいたばかりのはながちるのを』は歌詞も同じであればメロディーも同じになる。これはいい。次だ。最終部の二行目『みていたこだちのやるせなきかな』とメロディーが同じになるのは冒頭部二行目の『ことしもはやいねとざんねんそうに』の方ではなく、冒頭部三行目の『みていたあなたはとても』の方なのだ。

つまり、歌詞の内容として『見ていたあなた』と『見ていた木立』が丁度対比されるように、メロディーを同じものに揃えてあるのだが方や二行目、方や三行目なのである。この構成が憎い。普通なら歌詞を対比させる場合二行目と二行目同士、三行目と三行目同士を対比させるものなのだが、ここでは違う場所同士を対比させている。その為のメロディー構成が象られているのだ。物凄く地味なポイントだが、こういう所でこそ作詞と作曲の両方を一度に手掛けられる強みが出ているのだと痛感させられるよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


木立  


で、桜流しにダブルミーニングの類はあるのかという話だが、無い。

これは、歌詞に余り音韻を持ち込まなかった事と直接関係がある。単純に、一般的なダブルミーニングというのは駄洒落がいちばん多い。次に比喩だろうか。なので桜流しにはダブルミーニングを仕込む余地がないのである。

とはいえ、前回触れたキャンクリやグッハピの歌詞は駄洒落でダブルミーニングになっているのではない。比喩でもない。聴く側の心理を汲んだ叙述トリックに近い。普通の叙述トリックは、書き手が意識的に読み手の注意をミスリードする事によって成り立っているが、ヒカルの歌詞の場合は聴き手の主観的心理が主役となっているから生じるのは騙されたという感覚ではなく、純粋な共感である。なかなかにこういった作用はどのジャンルを見渡しても見当たらないのではないか。

桜流しでは、しかし、その代わりといっちゃあなんだが、鍵となる表現、言葉遣い、言い回しというものはある。音韻以外にも歌詞を技術的に構成する方法は幾重にもあるのだという事を見せてくれる作品だ。

例えば、まず印象的なのは『開いたばかりの花が散るのを』の一節。冒頭部と最終部のそれぞれ一行目で同じフレーズだが、続きが違う。『今年も早いねと残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』と『見ていた木立の遣る瀬無き哉』である。最初に花が散るのを見ていたのは"あなた"だが、最後に花が散るのを見ていたのは木立である。ここの描写の見事さは語るまでもないだろう。"木立"とは、元々"あなた"の背後に広がる光景、背景であった。花が散る場所なのだから当然だが、そういう風景を聴き手が想像しているだろう事を見越して、この、最終部での「"あなた"の不在」を「木立」の一言で表現しきった。

"見ていた"という擬人化がまた抜群に効果的で、『見ていたあなたはとてもきれいだった』の一節から、主人公の"私"が、花の散るのを見やる"あなた"の横顔とその差し向ける目を強く記憶に残しているのがわかる。この横顔と目線の"残像"だけが、木立をバックに浮かび上がるのだ。浮かび上がる、花の散るのを見やる視線と、その主の不在。なんだか私はファインマンさんの例のエピソードを思い出してしまった。妻を亡くした時も葬儀の時も泣かなかったのに、幾らか経ってから街角でショーウィンドーを眺めて『この服、妻に似合いそうだ、買って帰ってあげようか』と思い妻の不在に気付いた瞬間涙が止まらなくなった、というアレだ。桜流しでも、花が散るのを"あなた"が見ていた頃から季節は一巡以上しているのだろう。去年と同じように、そこには木立があり、同じように花も散っているのに、"あなた"だけが居なくなっている。この変化。『やるせなきかな』の一言に、その時の感情が集約されている。

またここでのメロディーの配し方が秀逸で…という話からまた次回。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




そういや12月だというのにキャンクリの話を全然していない。まぁアンチクリスマスソングだから寧ろクリスマス以外の時期に聴くのが正しいんだが。"Can't wait 'til Christmas"というのは、通常用いられる時の意味は「クリスマスが待ちきれない」→「クリスマスが待ち遠しい」→「クリスマスに早くなって欲しい」→「クリスマスに対する期待感で胸が一杯である」という事なんだがヒカルのキャンクリの場合はこう解釈する訳にはいくまい。敢えて極端に書けば、「クリスマスまで待つだなんて無意味な事はやめろ。あんなの特別な日でもなんでもないのにそんな先まで待っていられるか。今すぐだ今すぐ。」みたいな感じである。こう書けば、『いつか結ばれるより今夜一時間だけ会いたい』と歌った人と同一人物である事を思い出せるだろう。ビマラとキャンクリでは曲調も親切さもまるで真逆なんだがやっぱり宇多田節なのだ。

同じようにグッハピも誤解されている。あの歌はどうしても『何も知らずにはしゃいでたあの頃へ戻りたいね』のせいで過去を美しく思い出すノスタルジー満載の歌だと捉えられているが直後の『そしてもう一度Kiss Me』からわかるように、「もしもう一度人生やり直せるとしてもこの"今"に戻ってきたい。それ位に私は"今"が愛しい」という歌なのだ。もう何度も書いてきたからイヤーオクトパスだが。

誤解、と書いてしまったが、それもちょっと違う。ヒカルは、別に聴き手を出し抜きたいのではない。そうではなくて、歌詞自体がダブルミーニングになっていると解釈するのがより適切だろう。普通のダブルミーニングというのは大抵ただの駄洒落なのだがヒカルのダブルミーニングは最強だ。何故なら、本来全く相容れない反対意見を持つ者どちらからも共感が得られる、という意味でのダブルミーニングだからだ。こんなもん他に例がない。クリスマスに興味のない人も期待感で胸を膨らます人も、どちらもキャンクリを聴いて「私の気持ちを代弁してくれている」と感じるのだ。美しかった過去を懐かしむ人と今現在を愛でる両方の人がグッハピの同じ一節を口遊んで笑顔になる。なんじゃこれ。

ツイートにも見事なのがあった。『原発には反対だけど、運動はしない。』このツイート、自称反原発派の人達からも彼らに原発推進派と呼ばれている人からも支持されたのだ。ヒカル凄いよね。全く異なる意見の人同士でも同じ歌を愛する事が出来る。それを具現化する能力があるから、彼女は万民に愛されるのだ。確かにやり方は技巧的にきこえるかもしれないが…それは俺の説明が下手なだけ。実際はあなたが耳にしているように、素敵な歌がそこにあるだけだ。野暮ですいません。

では、桜流しの歌詞にそういったダブルミーニング的な側面はあるのだろうか…という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




旧劇版EVAは自己批評性が際立っていた。「アニメなんか描いていて/観ていていいのか?」という葛藤が行き過ぎて、最終的には観客席をスクリーンに映し出すまでになっていった。そういった自己批評性が「アニメとは何か」という命題に向き合わせる事になり、人はアニメの可能性の縁(ふち)を探るようになり、結果としてアニメーションの可能性をそこから押し広げていく事になる。これは漫画も同じで、手塚治虫は常に「漫画」という表現形態の限界を探っていた。「先頭を走る」には、自己嫌悪や過剰謙遜と紙一重の自己批評性が必要になる時もある。小津安二郎ですら「所詮映画」と言っていたのだから。

邦楽を聴いていて思うのは、有名どころに「俺、歌なんか唄ってていいんだろうか?」と悩む人を余り見掛けないという事だ。売れない人がそう悩むのは当たり前体操として、いちばん売れてる人が卑屈になってるケースがなかなかない。これが、邦楽があんまり発展しない遠因だと勘ぐるのは穿ち過ぎか。そうやって日本語の歌の可能性の限界と向き合い、結果歌の可能性を押し広げる貢献を果たす人がなかなか現れないのではないか。

ヒカルはその点でも突出している。小さい頃から「両親のようにはなるものか」と安定した職業を所望し、ミュージシャンになった後もいつでも辞める事や休む事を考え続けていた。それが結果として誰にも成し遂げ得なかった記録を打ち立てて結局12年間実働した。自己批評性という点に関しては他のジャンルと比較しても遜色ない。ただ、あんまり「所詮は歌」という風に言わないのは…まぁ、立場上言い難いのかな。本音としてはそう思ってないだろうし。

桜流しは、また「日本語の歌」の可能性を押し広げた。大事なのは、30万ダウンロードというヒットの規模だ。今までにない音楽性を指向するだけなら、私たちの知らない所で素晴らしい音楽を創っている人たちが居るかもしれない。しかし、マスメディア全開でこういった楽曲が敷延していくのは革新的だ。商業音楽でどこまでいけるか。Passionに"Single Version"があったのを思い出す。ヒカルは常に商業邦楽の限界を探り続けている。今回も"アウト"だったか否か。Passionの"その後の評価"を想起すれば、自ずと答は見えてくるんじゃないかな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ