無意識日記
宇多田光 word:i_
 



人は死を身近に感じた時、永遠に憧れる。中川翔子が事ある毎に「生きた証を残したい」と書き記すのは、彼女が死の匂いを常に身近に感じていた時期があるからではないか。知らんけど。

のこす、のこる。自分の生命の時間が有限だと感じたとき、自らが永遠と繋がる為には、カタチとしてのこる何かが必要だ。できれば、いつまでも絶えずに続いていくものであって欲しい―そう考えた時、デジタル化(根本的には、量子化)という技術を身につけた我々の世代は、限りない複製というものを目の当たりにする。

作品として、一点モノは鬼のような価値がある。特に、立体造形の類は複製自体に相当の技術を要する為雁作でも価値がつく。マ・クベが「あの壷はいいものだ」となぜ執拗に叫んだか、未だに壷のよさなんて知らない私には相変わらずわからないのだが、アートとしての価値がとんでもなくなるだろうことは、そういった複製の困難から幾らかは推測できる。悠久の時の流れの中で、一度でも壊してしまったら元には戻らないのだ。作者がもう居ない場合は特に。

デジタル世代のコンテンツは、その複製の精度があがった故に(オリジナルがデジタルデータそのものならば原理的には約100%純度の)"本物"であっても、価値、或いは値段が下がり続ける。なんらかの規制をかけなければ、いつでもどこでも手に入るのだから(これを専門用語で"限界費用がゼロに近づく"と表現するらしい)。壷は規制のあるなしに関係なく、複製自体が人類にとって困難だ。壷の値段が何億にもなっている一方、モーツァルトのレクイエムはパブリックドメインでタダで手に入る。

が、未来まで、後々まで残るのはどちらかといえばレクイエムの方なのだ。タダなお陰で、興味をもった人間の手元にデータとして置いてもらえる。それこそ世界が滅亡でもしない限り、この曲が一切聴けない事態はやってこない筈である。

壷は違う。何が何でも守り通さねばならない。厳重に保管し、湿度や温度を管理して地震やらの天災に備え、更にその機構を次の世代に継承させていかなければならない。生命を賭して仕上げた作品は唯一無二であればあるほど、生き残るのは難しい。無生物であっても、この世界の中でカタチを留めるのは容易ではないからだ。

高価な一点モノと、タダ同然の複製可能物。どちらの"生き方"が、より永遠に近付けるだろう。まだ結論は出したくないが、今のところはやはり後者、複製可能物の方だと思う。ならば、そうやって憧れの永遠と繋がれるのであれば、そこからお金が取れないのはそれはそれで自然な事ではないだろうか。

死を身近に感じるような人にとって、作品が将来にわたって生き残っていくという希望は、何にもまして切実なものだ。"生きてる感じがしない"とまで言い切ったことのある宇多田光は、自らの作品に対して、どのような感覚を持っているだろうか。死を身近に感じる、とはそれによって恐怖が増大する人と(大多数はそうだろう)、何か居心地のよさみたいなものを感じる人がいる。光は後者だ。死を恐れないが故に永遠に対する憧れが薄いのならば、"何かをのこす"というスキームに対して大きな憧れもないかもしれない。そういう光にとっては、作品の複製権というのは、守銭奴的な発想から遠くにありながらも、確実にマネタイズする何かを必ず内包してゆくようにも思われる。ひとことでいえば、"依然稼げる"。のこさなくて、のこらなくていい人の強さはお金に変わる。何しろTime is Money、金は時間の(不完全な)複製なのだから、常に過ぎ去り二度と戻ってこない"時間"に寄り添い死を恐れなければ
、他人の時間の刻印であるお金は、光の元にまた次々と集まってくるだろう。これが恐らく、真のPop Musicianの神髄である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




著作権の問題はいつの時点でも難しい。今こうしている間にも世界各地で光の曲を「歌ってみた」動画がUPされているし、様々なマッシュアップも制作されているだろう。一昔前ならこれらは私的利用の域を出ず触法の懸念も薄かったが今や瞬時に世界に向けて公開してしまえる。

当然、光がその気になれば関連動画は総て削除される。実際、ディズニーやジャニーズなどは(後者は肖像権も含めてだが)徹底した管理を行っており、時に行き過ぎだとの非難を浴びる事もある。法に準じている以上、文句を言われる筋合いはないのだが―と書くのはあクマで建て前。法を厳密に適用することで、それによって守ろうとするもの(法治社会)を壊す事だって可能なのだ。花粉症や各種アレルギー(アナフィラキシー等)、人体は過剰な抗体反応によって自らの生活を蝕める。社会だって同じである。

もちろん、だからといって総て野放しにしていい筈がない。法治か放置か、という二元論ではなく、何が適切な問題設定なのか、という所から掘り返さなければならない。

現状、光の音楽を二次使用した動画等は実際上放置されている。Youtubeなどはアップロード時に既成音源を参照して余りに酷似なものは事前に審査の上ブロックしている為、ただの海賊版は規制されていると思っていい。加工された動画、音源に対してどう対処するか。何を基準にその対処法を選別するか。

少し前にヒカルの歌声を使った人力ボーカロイドが話題になった。何と光本人からコメントがありその途方もない労力に賞賛を送りつつも「アイコラみたい」とひとことチクリとする事も忘れなかった。このやりとりは著作権に対する問題の要点が簡潔に込められているように思う。

既存の音声を切り貼りして楽曲を構成するのは気の遠くなるような作業で、これが一定度創造的な作業であることは疑いがない。一方で、歌声の"提供者"は、そういった作業が創造的であればあるほど、自分の指紋が刻印されながら作品が自らの手を離れていくことを感じる。そこには、作り上げたものが崩されていく気持ち悪さも同居している。

勝手に利用されることで収益を不当に得ることへの不快感より、作り手によってはこの"自分の作品が壊される感覚"への懸念の方が大きい気がする。が、一点モノの芸術と違い壊されているのは複製されたものなので作品自体は壊されてはいない。それによる弊害は作者の不快感と評判の誤謬であろう。

光の場合、わざわざツイートして取り上げたのは、即ち黙認とは違うという事だと思う。不快感と評判という、とらえどころのない概念をどう定式化していくか。たぶん、この問題はまだまだ始まったばかりなのだ。先は長いと覚悟しておく必要がありそうだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




これだけ色々書いているけれど、私i_と光の物事の好みが似ているかといえばそうでもない。いちばん違うのは食の嗜好だろうか。どんな理由であれ、ケーキやハンバーグが嫌いと口にする感性は私にはない。辛党だから甘いモノはダメ、という理解の仕方は出来るし、ハンバーグは嫌いな理由の素っ頓狂さからしてエピソード記憶による嗜好の表明ではないか、とか推測も出来るんだが、そもそも自分に食べれない食べ物がある現実が悔しくて堪らない私からすればそれを言う事が屈辱だ。あれ、なんだ私が変なだけか。

音楽の好みについても、何だかちょっと錯綜している。光の作ったアルバムで一番方向性が好みなのはExodusだが、これは何度も何度も触れてきた通り、光の書いた音が(他のアルバムと比較して)いちばん多いからである。でも、では光の好きな音楽をそのまま好きかというとやや微妙だ。この差はどこから来るのか。

私の場合は普段はプログレ/メタルを聴いている事が多い。King Crimsonは神、みたいなノリだ。光はプログレ好きでも何でもない。Pink Floydは何度かラジオで掛けたが、あのバンドは知名度が図抜けているのでスタンダードの一環としての選曲だろう。狂気から虚空のスキャットを選んでいたが、なるほどこういうのが好きならGentle Beast Interludeがああなるのもわかるな~なんて話は昔したな。閑話休題。

カラオケのレパートリーにMetallicaがあるのだって、あの世代(光の場合6歳ぐらい耳年増(ていうのか)と考えた方がいい)にとってブラックアルバムはスタンダード中のスタンダードだし別に特別な事じゃない。特にメタルに入れ込んでいた時期は光にはない。

R&B歌手として日本でまず認知されてしまった為、R&Bは好みなのだろう、ということは、ある程度までならいえる。Groove Theoryからの影響は真っ正面から肯定しているし、Mary J.Blige風のフェイクはお手のものだ。じゃあ光はこのジャンルが好きなのか…というと、そうでもない。This Is The OneをR&BではなくR&B風ポップスと形容したのは、この特定のジャンルに依拠する心づもりがなかった事を意味する。いや全く捉えどころがない。

試みに今私は私自身の好みと比較してあーだこーだ言っているが、これは結構普遍的な問題な気がする。たまにはいるもんだ、好きなアーティストと好きなアーティストが重なるファンって奴が。しかし、宇多田ヒカルの場合、そう言える人は極端に少ないのではないか。ヒカルに出会う前から、フレディ・マーキュリーに熱狂し、尾崎豊に心ときめかせ、スティングになら抱かれたいと発言し、Cocteau Twinsとレニー・クラヴィッツとモーツァルトを愛聴していた人が居たら手をあげて欲しい。そして教えてくれ。これは一体何なんだと。何をどうすればこんな雑食になれて、尚且つ趣味の離れた私に絶賛されるアルバムを作ることが出来るのか。そしてそのあなたは、ヒカルの作るアルバムは総て好みのドンピシャなのだろうか。何だか、そんな人は光本人しか居ない気がしてきたが、それくらい独特の好みで生きてきてこれだけCDを売れるというのはどこまでも奇跡的な存在なのだなぁ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




メロディの時代性というのは、恐らくその時間をリアルタイムに生きているうちは気がつかないのだろうけども、かなりの場合色濃くひとつひとつの楽曲に反映されている。

例えば、ひとくちにクラシックと呼ばれている音楽も、バロック、古典派、ロマン派で明らかにメロディの質が違う。ロックやポップスの場合でも確実に70年代風、80年代風という形容が成り立つ。

それぞれの違いが如何にして生まれるのか、分析は困難だろうが、ひとつにはリスナーの層とその嗜好が大きく影響しているように思われる。送り手と受け手、どちらが先かは鶏と卵ではあるものの、やはりその時代の聴衆にウケないと、そもそも21世紀の我々の耳に届かないのだから、その時代のどんな聴衆が何を好んでいたかは大きい。

例えば、古典派のメロディの場合楽しげであっても悲しげであってもどこか浮ついていて生活感がない。これは、当時のクラシック音楽(当時は勿論"classic"ではなかったろうが)が主に富裕層を相手にしていた事と結びついているのではと推測される。

これがロマン派になると、土着的なフォークのメロディを取り入れるなどして生きる切実さを感じさせるようになる。少しずつこの時代はクラシックが庶民レベルにまで浸透してきていたのか。また、何か未知のものがやってくる"予感"に満ちた旋律が多いのも特徴だ。激動の20世紀を前にした時代背景がぐっと効いてくる。

ロック・ポップスでもおおざっぱに享楽の80年代、陰鬱の90年代という風にやはりその時々の時代背景を反映した曲調、メロディが市場の大きな所に居座っていた。バブル経済や東西冷戦の崩壊など、人々の暮らしにまで影響するような出来事が原因となったと推測するのは容易である。

さて、では00年代のメロディとは何だったのかと考えても、全体像や傾向がさっぱり浮かんできやしない。これは、僕らがまだまだ00年代と距離を取れていない、最近過ぎるというのもあるだろうし、そもそも"00年代"って何て読めばいいかこの10年で結局決まらなかったというのもあるだろう。(?)

でも、果たして00年代は、近すぎて色がみえないのか、はたまた本当に色がないのか。ヒカルの曲を聴くと、1stは確かに当時の流行だったR&B路線の編曲が多かったが、それはヒカルが自分で編曲していなかったからでもあるし、同じことはUtaDAの2ndにもいえる(この点においてこの2枚は性質がよく似ているし、Automatic Part2を作りたくなった気持ちもわかる気がする)。

だが全体的には、ヒカルのメロディ自体は、彼女が活躍し続けた00年代の象徴として扱われてはいないし、また他のミュージシャンにそういった面で影響を与えたという感触も薄い。どちらかといえば、日本に限っていえば浜崎あゆみの方が"この時代のメロディ"の象徴を担っていた感じ。ロックだとLinkin Parkあたりかな。まぁ、上述したようにまだまだこの10年の空気を引きずっている中なので客観視は難しいのだけれど。

このままいけば、ヒカルが何年後かに復帰したとしても"メロディが00年代風で古臭い"と謗られる虞は少なそうである。まぁ、私としては00年代は"宇多田光との10年"であったし、21世紀は"宇多田光の世紀"だったので、そもそも古びれるとかいう不安は、ないのだけれどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




No, he's gentle beast in the rude!!

ヒカルのインストといえばGentle Beast Interludeの凄さに触れておかなくてはなるまい。何が凄いかというとどこがどう凄いのかよくわからないのに凄いと思ってしまうとこれ、何のことだかよくわからんがとにかく凄い自信です、そんな感じ。本当によくわからない。

しかし、これをまっさらの状態から作れといわれたら途方に暮れるだろう―と書けば少しは共感して貰えるだろうか。リズムセクションはいつものヒカルだが、上に乗せる歌声、コーラス、ハミング、スキャット、言い方は何でもいいが、ヒカルの声が上下左右これでもかと重ねられている。それはまるで幽霊のように虚ろでありながらも確実にどこかに導いていってくれるような力強さがあり、ただ闇雲に声を重ねただけでは出ない迫力、説得力がある。

特筆すべきは、ヒカルがこの曲を、Celebrateとほぼ同時に、恐らくHEART STATIONアルバム制作最後の5日間のうちに作り上げてしまったことである。2008.2.1のメッセ【やさぐれヒカル】を参照の事。ウチの携帯ではPage=28まで遡らないと見れんかった…。

このインストはまるで声で夢をみているかのような、いや悪夢をみているかのような不思議な浮遊感と力強いリズムの合体であり、ヒカルの声がオーロラのように空間を縦横無尽に行き来するサウンドがすーっとCelebrateのまとまったサウンドに収束していく所が魅力的だが、この時の切羽詰まった感情がこの変幻自在な編曲ぶりに反映されているとして、この声自体を録音していた時はどんな顔をしていたんだろうと想像するとなんかおかしい。Human Voice Padか何かを使ってひとり家でデモを仕上げている時はいいが、いざ起こした楽譜を皆に提示して照實さんや三宅さんや沖田さんが見守る中このコーラスをひとつひとつ録音していくヒカル…勿論やってる方は真剣そのもの、というか殺気立っていたとは思う(何しろこのあと100万枚売れる社運をかけた化け物アルバムなねだから)が、どこかの時点で冷静になって「なんつーキテレツな」とふと我に返ることはなかったのだろうか。ひょっとしたら、もっとスケジュールに余裕があるタイミングでGentle B
east Interlude~Celebrateを作っていたら、ここまで迫力のあるインストにはならなかったのではなかろうか。締め切り次第で曲がどう生まれるかが変わってゆくスリル、その感情をリアルタイムで封じ込めた曲なんだと思って聴けば、このどこかに向かって導く精霊の群れのような声たちの"目的(地)"も何となく見えてくる気がしてならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




美空ひばりの10万円50枚BOXセットが出るときいて思わず「そんなの買う人居るんだねぇ」と呟いてしまったのだが、当然ながら宇多田ヒカル名義でそんなリリースがあれば買ってしまう訳でこちらも同じ穴の狢である。

先日言及したThe Beatlesとは規模が違うとはいえ、死後もレコード会社を潤し続けるとは全く凄いアーティストパワーであるとしかいいようがない。

ダウンロード時代になってレコード会社の存在意義、存在形態のありようが問われるようになった。が、私の見解としてはあまり役割自体は変わっていないし、変わる必要もないのではないかと思っている。

レコード会社の役割というのは、マテリアルの流通もあるにはあるものの、一番重要なのは情報の流通である。幾らインターネットの恩恵で誰しも世界中に音源を発信できるようになったとはいえ、自分の好みにしたがって情報の大海を泳いで音楽を見つけれるのはほんの一握りのマニアだけだ。「次に何を聴けばいいか」を包括的に提示してくれる存在として、レコード会社の役割は欠かせないだろう。

それに伴って、もうひとつレコード会社に重要な役割がある。収益の再分配である。ご存知のように、収益の中でレコード会社の取り分は圧倒的に大きい。作者や演奏者にまわる分はずっと少ない。これによって何が出来るかというと、大多数の小規模収益アーティストを、ほんの少数の大規模収益アーティストが支える構図が出来上がるのだ。

レコードの売上というものは、百花繚乱なアーティストがそれぞれに収益をあげている、というよりは極一部のビッグアーティストが大半の収益をあげるものだ。宇多田ヒカルがどん!と売り上げてレコード会社が潤い(その昔EMIはFirstLoveの収益でビルを建てた、なんて噂もあった位だ)、そのお金で他のアーティスト、とりわけ次世代を担うと期待されている現時点では未熟なアーティストを育てる事ができる。そういうサイクルが完成するのだ。

これが、レコード会社なしで宇多田ヒカルが全ての収益を独占していたら、他のアーティストたちはその恩恵を受けれない。レコード会社という機構があって初めて、"レコード業界"という枠組みが出来上がっているといっていい。業界全体の維持発展の為には、こういった機構が必要不可欠なのである。

尤も、これはあクマで理想論であって、レコード会社が自らの使命を全うしているかどうかは、各自で判断するべきだろう。

そう考えると、そのほんの少数のビッグアーティストであるヒカルの復帰を本当に待ちわびるべきなのは、これからデビューしようとする若いミュージシャンたちかもしれない。こういう観点からタイミングをはかるのも、大事だと思うよ~。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




12年のキャリアの中でライブ本数が少ない事が不満のタネとなりがちな光だが、これにはよい面もある。所謂"勤続疲労"が、彼女の喉にはあまりないのである。

UU06で喉が危機にあった事は周知の事実だが、その時の後遺症は殆どないだろうことはIn The FleshとWILD LIFEで証明されたといっていいだろう。昔と同じ声質でない事を嘆く向きもあるかもしれないが、身の回りで15歳の時と27歳の時で同じ声をしている女性が居るか否か、と問われればそれも無理な相談だとわかるだろう。

若い時の喉の酷使は何十年単位で響く。裏を返せばそれは、40代50代になってから喉が"復活"するシンガーが存在する事を意味するのだが、光の喉はまだまだ瑞々しいままだ。誰がBLUEをスタジオバージョン通りに歌うと思ったか。これ1曲でステージを降りるのでもない、他に20曲以上歌わねばならなかったのだから。

ライブアーティストに求められるのは、そう、スタミナである。数曲だけなら素人でもHigh&Loudに歌い上げる事も出来ようが、それを一晩に2時間、更にそれを数ヶ月で何十回にも及ぶ回数疲労しなければならない。これが出来てこそプロである。

光の場合、ツアーはおろか、殆どライブの経験もないままレコードデビューしてしまった。これが何を意味するかといえばつまり、1stアルバムで披露した歌唱法がツアーに適応・適合したものかどうかわからなかったという事である。ボヘミアンサマー2000の各公演の出来不出来について私は詳しく知らないが、ツアーを通過していない歌唱法で押し通すのは随分辛かったのではないかと想像する。

一晩で燃え尽きるような、先に予定のないライブであれば翌日に声が出なくなっても確かに構わないかもしれない。しかし、2010年12月8日9日の光のアプローチは、喉に過度の負担をかけているようには思えなかった。あのままツアーに出ても、あのクオリティで突っ走れるかもしれない。それだけの余力があったようにみえる。余力というと違うか、喉を破壊する事で得られるパフォーマンスに縋らなくても聴衆を納得させられる歌唱を披露できたのだ。

これは、強い。短期の疾病は兎も角、長期の勤続疲労を通過する事なしにこの"長丁場のツアーを歌い切れる歌唱法"を会得したのであれば、ライブアーティストとしての宇多田ヒカルの寿命は存外に長いものとなるかもしれない。あるクラシックの歌手は80歳を過ぎて「歌とは何かがわかってきた」と言ったらしいが、そこまで行かなくても、じっくり何十年もかけてその喉を、歌を、ワインのように熟成させていって貰いたい。その時その場所でしか聞けない歌を聴かせ続けながら到達していく領域には、一体どんな景色が待っているのか。その景色を一緒に味わう為にも、みんな長生きしなくっちゃねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昔、「毎週異なる人が来てヒカルにインタビューする」という"逆・徹子の部屋"なTV番組を提案した事があったが、これの音楽版ならほんの少し実現可能性が高まるかもしれない。

企画はシンプルで、毎週異なるミュージシャンがやってきてヒカルに歌って欲しい歌を唄って貰ったりデュエットしたり、という"固定版僕らの音楽"みたいな感じだ。勿論ヒカルからの提案や持ち込みがあってもいいが、ヒカルのプロデュース能力がここまで高まってしまった現状だからこそ、単なる素材として、いち歌手として扱われてみるのが面白いんじゃないか。

まぁ、「人当たりはいいけれど社交性は低い」ヒカルがこういう企画を承諾するとは考え難いけど、それはまぁ置いておいて。

こういう場合誰とどういう曲をやって欲しいかという"希望"と、この人ならこんな企画を持ち込むんじゃないかという"予想"の双方を思い浮かべる。希望としてはQUEENのヴォーカルをやってみて欲しいとかLADY GAGAの横でベラメイクをかまして欲しいとかがある。予想としては例えば小室哲哉がエセR&B路線の曲を持ち込んできてそれをヒカルが本格的R&Bに変えてみせる、とか坂本龍一との"デュエット"とか中田ヤスタカとリズムの打ち込みで喧嘩するとかかな。(最後のは何なんだ)

でまぁそれをワンクールやったらCDとDVDでリリースすればよい。かなりの一大プロジェクトだ。更に各ミュージシャンによるヒカルの曲のカバーを収録したディスクもつけて二枚組にしてもいいか。

そういえば、今までヒカルの歌をカバーしてきたミュージシャンて、ヒカル自身をどうみているのだろうか。桑田佳祐だとか槇原敬之だとか。曲が気に入って自分が唄ってみるのと相手を気に入ってプロデュースなり提案なりしたりするのと、近いようでいて思考海路、もとい、思考回路としてはかなり違いそうだ。

大半の人が、今に至ってもなお、ヴォーカリストとしてみた場合"日本人なのに本場顔負けのR&B"を歌えるという価値観でみるのだろうか。例えば、大黒摩季はどういう視点でアプローチしてきたんだろうか。何か、友達として気が合ったから頼んでみた、という雰囲気だった気もしたが…。

そうか、2枚目がヒカルの曲のカバー集なら1枚目はもっと素直に相手の曲をヒカルがカバーしたのを収録した方がわかりやすいか。でも、そんなアルバムもう誰かがやってなかったっけ―

―こうやって人間活動の間に膨らませるいろんな妄想はどこまでもとどまる事を知らず続いていきます―

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




The Beatlesといえば、来年2012年で(英国での)レコードデビューからちょうど50年、半世紀である。という事は何かにつけてお祭り騒ぎが巻き起こるのではないか―という当然の予想ができると共に、やや懸念といえる節目も迎えるのである。英国では、発売から50年で著作権が切れるのだ。

著作権、と一口で言っても包括的な定義は難しい。著作隣接権、なんてのもあるし、原盤権だとか出版権だとかいう用語もある。国や時代によっても事情が違う。今"英国では"、と言ってみたものの、この国の事情もまだまだ予断が許されないらしく、この50年という数字もいつまで有効かわからない。実際、アメリカでは"ミッキーマウス延命法"と揶揄されてきたように、失効直前になって著作権保持の期間が延長されたりしていて、なかなか一筋縄にはいかない話題なのである。

であるからして、ここでは物凄く大ざっぱに、著作隣接権やら原盤権やら国ごとの事情やらも区別せず、時期や時代も特定せず、僕らに影響があるであろう、興味を引くであろう一点のみを取り上げておく。

それは何かといえば非常に単純、The Beatlesが(解散から40年以上経過した今も尚)EMI所属のアーティストであるという点だ。彼らのバックカタログは今もって強力で、アメリカでは旧譜だけで毎年ゴールドディスク、なんて話もあった位。世界中で、(新しいものもあるにはあるが)古いモノを出し続けるだけで濡れ手に粟で(は言い過ぎだけど)収益を上げてくれるコンテンツ。EMIがこの史上最強のロックバンドの権利を手放す筈がない。経営難が伝えられる中、何が何でも看板アーティストとして死守したいだろう

という事は、EMIと世界契約を結んでいるHikaru Utadaの動向もThe Beatlesと無縁ではいられないのである。The Beatlesの権利をEMIが何らかの形で手放せば、収益はガタッと落ちるだろう。それによって身売りのモチベーションがあがりレコード会社業界の再編が加速していく―という考え方も出来る一方で、The Beatlesを擁するから高値での買い手がつく、即ち売却に積極的になる、なんて考え方も出来るかもしれない。いずれにしてもThe Beatlesの動き次第で、EMI World Wideの方向性は変わっていくだろう。動かない事も含めてね。

日本という特殊な市場で考えた時、EMI UKの身売りが即EMI JAPANの変化に結びつくかといえば、そうとばかりも限らない。三宅PがEMIを退職して選んだのが国内大手独立系の会社な事は示唆的だ。独立系、インディーズといってもただ海外での(昔でいう)四大メジャーを親会社に持たないというだけで、日本国内に於いてはそういったメジャー系と遜色ない販売網と実績をもっている。EMI UK、或いはGlobal、World Wideとの契約は残しつつ、日本国内では別のレコード会社、或いはその逆に日本ではEMI JAPAN、しかし世界では…様々なオプションがHikaru Utadaの場合考えられる。

が、当然ながら、人間活動前にわざわざEMIと世界規模契約を結んだ事を発表したのだから余程の事がない限り世界中のEMIからのリリースとなるだろう。SC1発売時のEMI UKのプレスリリースを思い出せばわかる通り、Hikaruの売上は日本国内のみの規模でも本社から重要な収益源として期待されている。それから大幅にスケールダウンしているとはいえ、市場比率でいえばまだまだ強力、そうそうEMIとのタッグは解消されそうにない。

しかし、UMGとの契約だって当初はまさかたった3枚(実質2枚)で終わるだなんて考えてもみなかったのだ。UMGのトップの交代劇が遠因の1つとすれば、三宅Pの居なくなったEMIの吸引力は、如何に新たに契約を結んだとはいえ盤石とまでは言い切れないかもしれない―いずれにせよ、The BeatlesをはじめとしたEMI所属アーティストの動向や、業界再編の動ききなど、Hikaruの留守中に何が起こっていくか、具に見ていった方がいいかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「また27歳か」。英国のソウル・シンガー、エイミー・ワインハウスの訃報を聞いた時、私は当然のようにそう呟いた。死者を前にしてこういう事を口にするのは不敬である事重々承知で付言するが、彼女の破滅は誰もが予想した、予定調和とすらいえる出来事だ。それ程までに生前のスキャンダルには事欠かなかった。それでも尚、やはり実際に破滅が訪れるのはショッキングだ。

彼女は所謂ロック・ミュージシャンの系譜ではないし、27歳でない年齢で死んでいったミュージシャンは幾らでもいる。不正確な伝説に踊らされているだけかもしれない。しかしながら、人の成長には一定の年齢傾向がある事は確かで、誰しもに当てはまるという訳ではないが、この27という年齢はひとつ山場として立ち塞がっている気がしてならない。

これをどう回避するか、またしてもひとつの才能を喪う事で我々の進歩のなさと無力を痛感する事になったのだが、本当に何か方法はないものか。ひとつは、孤独を拭う方法だ。NIRVANAにせよROLLING STONESにせよ、もしこれらが生前に解散していたなら、何か違っていたかもしれない。バンドというのは不思議なもので、時としてまるで生き物であるかのように振る舞う。オリジナルメンバーがひとりも居なくなってもそのバンド独自のサウンドが継承されていくような自立した力がある。その"生き物"を"生け贄"として捧げる事で、"生身の"人間を救う事はできないだろうか。

例えば、THE BEATLESの解散は1970年。メンバーの生まれ年が1940~43年だから、彼らが27~29歳の時に解散した事になる。こじつけ気味だが、この時THE BEATLESというバンドが生け贄になった事で、この4人の天才達はこれ以降も生身の人間として活動し続ける事が出来たのではないか。一方LED ZEPPELINはこの年齢を超えても活動を続け、ジョン・ボーナムを喪う事で(享年32歳)バンド活動は終局を迎えている。

宇多田光は27歳を乗り切った。しかも、過去最高に充実した活動を経て、である。15歳の頃から伝説化し、半ば生き急ぐように命を削って作品を作り続けてきた彼女が差し出した生け贄とは、あるとすれば果たして何だったのか。元々その類いの運命と無縁であったのなら構わないのだが、もしその系譜のミュージシャンとしての資質が少しでも存在するのならば今後もありとあらゆる手段でその系譜の血を封じ込めなければならない。杞憂と言われ続けようが、それだけは注視していきたいと思っている。

光の差し出した生け贄…普通に考えたら"くまちゃん"なんだけど、別に死んでないしな。てか、不死身っぽいけど。その存在に生命を救われたという実感があの溺愛ぶりに繋がっているのなら至極納得ではある。またメッセやツイートに顔を出すだろう。ペコちゃんのように舌を出して笑う光を想像しながら、こういう所が生き続ける生命力なんだろうなぁやれやれ、と安堵する私だった。エイミー、R.I.P. 我々は、学びます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スポーツの日本代表が勝った時、或いは負けた時、優勝した時、敗退した時、なんでもいいが、みている方が彼ら彼女らに求めるコメントは、喜怒哀楽とか意義、意味である。ここまで勝ち上がれて嬉しい、とかこの勝利が被災地の方々の励みになれば、とか。応援感謝しています、とかまぁそんな感じ。

インタビューに慣れているひとはきっちり無難にそう答えるが、試合が終わったばかりの時に彼らの頭を占めているのはそんな事ではない。大抵は、あの戦術がうまくいったから勝てた、だとか、あそこで右に動いていたら勝てたかもしれない、とかそういうスポーツそのものについての事しか頭にない。当たり前である。

しかし、この乖離はとても大きい。受動者の求めるものは意義や価値であり、能動者の求めるものは技術論である。その昔「ロスタイムに追いつけると思いましたか?」と質問したインタビューアが居たが、これは受動者と能動者を完全に取り違えた質問だった(余りにも印象的なのでこのやりとりは今後も私は引用するだろうな)。能動者は"何をすればおいつけるか"、"こうすればいけるかもしれない、この方法はダメだろう"といった風に考えることはあっても"おいつけるかおいちけないか"なんていう質問設定はしない。諦めたらそこで試合終了ですよ。

余計な話が長くなったのでここで切り上げる。要は、ミュージシャンも同じで、音楽について興味があるのは本来、このコードを鳴らせばこういう効果があって、とかこの場面でフルートを登場させてはどうだろう、といった技術的な話だ。

歌詞の方がわかりやすいか。書き手は、音程や音韻の縛りの中で適切な解を求める事、もっと砕けて一般的にいえば"うまいこと言えた"時が最も喜ばしい。例えばこのblogも似たようなもので、書いてる時に考えているのは光の事ばかりかというとそうでもなく、修飾節の順序だったり段落の構成だったり助詞の使い分けだったり、と殆どが文法の話である。書く着想は時間にすると一瞬で、確かに内容は読者にとって興味のある所だろうが、僕が今考えているのは"今まできいたこともないような言い回しや言葉の組み合わせがみつからないかな~"という事だったりする。こんな風に書いちゃうと思いつかなくなるんだよね。あらら。

だから、光の歌を聞いてエモーションやエネルギーを得ているからといって、別に光はエモーショナルになっていたりエネルギッシュになっていたりするとは限らないのだ。表現とはそんなもので、送り手と受け手、能動者と受動者の間にはやはりどこまでも乖離がある。

しかしながら、音楽の場合は奇妙な事が起こる。最も優れた送り手は、ただの受け手と区別がつかなくなるのだ。毎度ここでモーツァルトを引き合いに出すが、彼は頭の中で幾らでも勝手に鳴っている音楽を"写譜"していただけらしい。つまり、ただのひとりめの受け手なのだ。そのせいかなんなのか、彼の書いた楽曲というのはどこまでもスムースで、苦労した痕というものを感じさせない。受動者が受け取りたいと思う滑らかさを、どこまでも体現している。ここには、能動者と受動者の間の乖離は消え失せる。技術論は不要になり(だって写譜してるだけだからね―写譜自体の技術は必要ですこど)、意義や意味、もっといえば純粋な美を讃える事が可能となる。

光がそういう作曲今までできたことがあるかというと、多分ない。FINAL DISTANCE もPrisoner Of Loveも、紆余曲折回り道しながら到達した境地だ。この"ストレートでなさ"が愛おしさの源泉とすると実に愛すべき所なのだが、お陰で光は「苦悩なくして名曲なし」みたいなのが基本になってしまった。能動者の苦悩と技術論。それ全体を作品として眺めれれば完璧なのかもしれないがそれが出来たら、それこそ苦労はないだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日は光の照實バースデイを祝うツイートがあった。何気ない文章だったがメンションを見る限り頗る好評で、いやそこまでいい事言ってる訳でもないでしょう、と言おうと思ったがいろんなツイートが入り乱れるひとりひとりのフレンズタイムラインの中にふとあの一文が飛び込んできたら、そりゃ心が洗われるだろうなぁ、と考え直した。時折ニュースをふりまき、余計な事は呟かない。結果的にフォロワーを最も効率的に増やす方法論を選択している。本人はそうしているつもりは全くないだろうになぁ。彼女はどこまでも人を魅了する事に呪われているのだろうか。

翻って、今回の文章を読み直してみると、内容のさりげなさとは共に読者として示唆の恩恵を享受できる技術的な美点がある。照實さんを指す言葉がお父ちゃんとお父さんの2つがあるのだ。

使い分け方は単純明快で、お父ちゃんは読者に対して語りかけている文章で使われているのに対し(『今日はうちのお父ちゃんの誕生日でございました』)、お父さんは照實さんに向けてお祝いの一言を云う為に(『誕生日おめでとうお父さん!』)使われているのだ。ちょっとした呼称の変化で誰に語りかけているのかを瞬時に伝える、というツイッターの限られた140字に情報を盛り込む為の粋な処方箋である。

圭子さんに対しても、『ちなみに5日は母の誕生日でございました』という言い方をしている為、母という呼び方は読者向けのものだ。そして最後の一文は『ママとお父さんがこの世に生まれて出会ったことにすごく感謝してます』となっている。照實さんをお父さんと呼んでいる事からこれは当人たちに向けられた言葉であるからして、ママとは光が圭子さんに呼びかける時の名称であり、この文全体が両親に向けての謝辞である事が読者に自然に伝わる仕掛けとなっている。ここがお父ちゃんと母だったら読者に語りかけている事になり、ちょっとニュアンスが変わってくる。こういう僅かな気遣いで読者に与える印象は地味に、しかし確実に大きく変わる。本当に示唆に富む文章である。

しかし、圭子さんをママ、照實さんをお父さんと呼ぶのは、光がそれぞれと親密だった時期や、その時の居住が関係しているのだろうか。とすると幼少の頃、或いはNY在住時は圭子さんと親密で、ある程度成長してから、或いは日本在住時には照實さんと、なんて推理も出来そうだがまぁそこらへんは野暮になりそうなので今回は突っ込まないことにするか。改めて、お誕生日おめでとうございました、照實さん。こんな可愛い娘に祝われてよかったね☆

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




光の作品でいちばんインパクトがあったものは何か、と問われた場合どう答えるか。やっぱりAutomaticやFirst Love等、初期の作品を挙げる人が多いだろう。しかしそれは、ほぼ何にもない所に宇多田ヒカルが登場してきたからだ。人は変化の変化に反応する。0点が100点になった時のインパクトを超える事は、もはや不可能なのだ。次200点取ったとしても人は0点→100点の時程感動しない。100点が200点になったとしても100点増えたと思うより「2倍になった」程度にしか受け止めない。1点が2点になっただけなのだ。

ミュージシャンはとかくこういう比較を受ける。後からファンになった人間は「なんで昔からのファンはこんな曲を有り難がるのだろう?」と不思議がる事態に陥るが、「何にもない所にいきなりこの曲が現れたと考えてみるといい」。ヒカルの場合、それがなんと今聴いても素晴らしいAutomaticやFirst Loveだったのだから恐ろしい。特にFirst Loveは邦楽史上に輝くスタンダードナンバーと化してしまったのだから、この曲をほぼ最初に出してきたあの時のインパクトを超えるのはほぼ不可能だ。

中毒発売時16歳の時に"将来こうなる"事を予想して"一生AutomaticとFirst Loveの宇多田ヒカルと言われても構わない"旨言い切っていたのは今から思い返してみてもその冷静さと洞察力に感服するが、光は光でその後の音楽活動に於いて自信をもてる結果を残していきたいという葛藤があった筈だ。

私の場合、今までで最もインパクトがあったのはPrisoner Of Love EP と Sanctuary Opening & Ending である。確かにFirst Loveを初めて聴いた時も「世界でもトップクラスの才能だ」と驚愕したし、travelingを初めて聴いた時も「Popsのお手本だ」と手放しで喜んだし…なんて言い始めると正直キリがないのだが、この2曲、というか、それぞれが「2曲の組み合わせ」なんだ。そこが謎なんだ。

脈絡を総てすっ飛ばして結論だけを書くと、光はそのインパクトを一曲にまとめることがまだ出来ていないんだと思う。私は私で、何とか2曲に分裂してしまった"何か"を自分の中で再融合させてその"何か"の一端に触れる事が出来たんだと思う。ここまで来ても尚、宇多田光にはまだまだ"ストレートに一曲にまとめきれない""何か"が秘められている。それを知った者として、それに触れてしまった者として言いたい。彼女はまだその本質を総て出し切れていない。12年全力で頑張り続けてきてもまだ、彼女の中に、自分で届いていない領域があるのだ。

年齢を考えても、その"何か"に今後近づくことはなく、遠ざかる一方になるという可能性だって、ある。神様というのはそこは賢しく気が利いていて、そうやって本質から遠ざかり始めると富や栄光を与えようとする。『栄光なんて欲しくない』と声を振り絞って叫ぶ光は、自らの本質に近づき続ける事を諦めてはいないのだ。割の合わない話だが、宇多田光として生まれ、宇多田光として生きていくとはそういう事。この切なさは、世界の核に触れる事で生まれている。何を言っているのかよくわからないが、光には音楽家としてまだまだやる事、やれるかもしれない事が存在するのだ。まだまだここからが長いんだよ、諸君。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




さてさて本日7月21日は照實さんのお誕生日。おめでとう。光の父でありマネージャーでありプロデューサーである一人の初老の…とは最近書かない年齢だよね。

どこかでも書いた気がするが、00年代って"上のつっかえていた"時代な気がする。テレビをみると、まだまだかなりの割合で"10年前も冠番組をもっていた"タレントたちが元気だ。一方、新人~中堅だと思っていた人たちが軒並み40歳を超えている。これを成熟ととるか衰退ととるかは微妙なところだが、伝統芸能はよく"60歳で一人前"なんてことを言われるし(本当の所は知らない)、それだけ(TVの娯楽番組というクラスタは)層が厚くなり、文化として安定しているとみるべきか。

照實さんはちょうどその"つっかえている上の世代"にあたる。一年中Tシャツで過ごす強靱さがある一方でここ最近は足をいためているという話もあり、元気なんだか衰えているんだかよくわからない。彼が光の人間活動を快く認めた背景としても、二つの考え方が出来ると思う。

ひとつは、光が何年後かに戻ってきた時にもまだまだ現役でマネージャー/プロデューサーの仕事をこなす自身がある、というもの。自身の肉体や情熱が衰えるだなんて考えも及ばない、といった所か。

もうひとつは、全く逆に、光の復帰後はマネージャープロデューサーとしての仕事から、片方、或いは両方手を引くつもりであるという考え方。光自身が「マネージャーなしでは何も出来ないおばさんになりたくない」と言っていたが、この人間活動を機に照實さんからプライベートのみならずプロフェッショナルとしても独立する事を視野に入れているのではないか。照實さんが引退してしまう前の段階で様々な準備なり引継なりを完了しておきたい、というのもありえるだろう。彼も力を残しながら、例えばまた新たに新人を発掘してプロデュースする、なんてこともあるかもしれない。

しかし、上記で示したように彼の世代はやたらと元気なのである。なんだったら10年後も同じように活動しているのではないか、とも思えてくる。そうなったらそうなったで喜ばしいことなのだが、確かに光が"ひとりだち"をするタイミングが掴めなくなる虞は残る。この二人を師弟とみるか、タッグとみるか、主従とみるか、あるいはどれでもあるのか、どれでもないのか。この親子の関係の今後の在り方は、(珍しく?)世間の一般的な世代問題に対して何らかの示唆を与えるかもしれない。かなり特殊な親子では、あるんだけどねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




何度も書いてきたように、音楽産業の漸減的な衰退ぶりの原因はインターネットの普及にあると私は考えている。メッセージの伝達や敷衍、話題の提供といった、何万年も続いてきた音楽という人の営みに、メールやらSNSやらがある程度とって変わろうとしているのだ。違法ダウンロードによる売上減などの表面的な弊害だけではなく、インターネットの登場は音楽の根源的な存在意義を揺さぶっているのではなかろうか。

寧ろ、ipodやyoutube等の登場によって音楽を聴く人が増えているという見方も出来る。LadyGAGAの曲には再生回数が4億回に迫るものもある。しかしそれでも尚、音楽に今足りていないのはもうどこでもありふれた"双方向性"である。

例えば今やアニメファンはネットなしでアニメを楽しむなんてことはしない。アニメを素材にして意見を交換したり二次創作に励んだり、そういうキッカケとしてテレビでアニメが放送されている。音楽には、そういった双方向性を支える機構が決定的に足りない。

その代わり、全世界的に"LIVE"の価値が見直される事になった。これぞ元祖双方向性。好きなアーティストと、それを支えるファン仲間たちと作り上げる圧倒的に魅力溢れる空間。エジソンが蓄音機を発明して百余年、束の間の"録音の時代"を経て音楽はまた生身の、一過性を伴った娯楽となった。

生身、一過性を最も前面に押し出してきた音楽が、ジャズである。最近では上原ひろみなんかが素晴らしいが、即興でその場のフィーリングを音の塊に変えていく手腕の鮮やかさはまさに筆舌に尽くし難い。無論そこでは聴衆の反応も大きく作用する。インターネットが普及すればするほど、その場で自分自身や、演奏仲間や聴衆たちと即興で"会話"ができるジャズという分野は誕生から100年以上経過してまた脚光を浴びる段階に来ているのではないか。

光は、昨年愛のアンセムで初めてジャズといえるサウンドを導入した(世代的にはジャズロック~フュージョンといったところだが)。が、あクマでそれは既存の気に入った楽曲がジャズの分野であったというだけで、結局曲づくりの要はその変態的に奇抜な発想力による天下無双の編曲術にあった。いつものとおり、練りに練り、きっちり磨き上げドモホルンリンクルのように絞り上げて純度を高めたサウンドだった。やっぱり生粋の宅録&スタジオミュージシャンなのだ。

ならば我々は、光の即興性にはライブの歌唱のアドリブ・フェイクくらいしか期待できないのだろうか。まだまだいい発想は出てこないが、例えば、音楽版「らくごのご」をUSTなんかで出来ないかな。ファンからチャットやツイートでお題を募り、その場でそのお題を盛り込んだ歌詞を作詞、そして作曲しその場で歌うのである。演奏や歌唱での即興性が希薄なら、作詞作曲に即興性を持ち込んでしまえという訳だ。あのCelebrateを5日で作り上げてしまうなど光の作曲スピードは年々上がっているように見受けられる。もし実現したらファンとしては堪らない企画になるんだがなぁ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ