無意識日記
宇多田光 word:i_
 



昨晩。動画のツイートするなんて珍しいと思ったらジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスで、しかも『crushing on him』『恋してる』だなんてヒカルが言ってて何事かと色めき立ったが後で落ち着いてから動画を観てみた(44分もあったからね)ら、なんだ、ビルがヒカルの好みのタイプってだけじゃねーか。細面の面長で神経質そうな、作家で言ったら芥川龍之介みたいな…ってそれだったら“キリヤンやキコみたいな”って言った方が早いな。それだけのことだった。


僻み。


でも、あたしもビル・エヴァンスの動く姿を見たのは初めてだったんで、へぇこういう人だったんだと暫し釘付け。音の通りの上品さと繊細さ。音のイメージとちょっと違った神経質そうで生真面目な部分。もっとおおらかで優雅なタイプかと漠然と思ってた。まぁ言うほど彼の音を知らないんだけど。顔面も含め彼がこういう人物だと知ってたらヒカルが恋するのも宜なるかなとか切り出してただろうな昨日。

残念ながらもうビルは歴史上の人物なのでここから2人の恋模様が始まる、なんてことにはならないのだけれど、そういうところは、なんだろう、たった1回の呟きで言うのも無茶なんだが、母親になっても変わってないんだなと1人納得してた次第。特に顔の好みが変わっていないというのは信用出来る。自分で言ってて意味不明なんだけど。

人はどこまで“好み”で出来ているのか。異論噴出なテーマだが、なんだろう、好みが変わっていないうちは人が変わっていないという気はする。したい。気がしたいってなんだよ。

ヒカルの食の好みは昔と随分変わった。音楽の趣味は昔から今に至るまでずっと意味不明だ。しかし男の顔の好みが変わっていないとすればそれだけでかなり妙に安心する事が出来そうな感触がある。だってねぇ、宇多田ヒカルはブラックボックスだから。お楽しみボックスだから。次に何が飛び出してくるかわからない。毎度それを面白がらせて貰ってるんだけど、偶には“安心”するのも悪くない。ビルは動画の間中心中イライラしっぱなしに見えたけど、観ているこっちは微笑ましかった。ヒカルは変わってないんだな~と的外れなことを思いながら。いつもあんまり言わないけれど、私って安心も結構好きなのですよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




8月も末になると『プレイ・ボール』を聴くものだとなるところだが8月の終わりって甲子園終わってるから若干季節外れなんだよね野球ネタって。それを見越してなのかなんなのか、先に『それもまた風流』って曲の中で歌われちゃってるんだけども。

寧ろ部活をやってた人間からすれば、8月頭までに総体が終わってこれから次の学年が頑張り始める時期で、感覚としては新年度に近い。ヒカルは十代の長い間9月から新年度の欧米習慣に則っていたけれど、そっちの方がわかりやすいんじゃないかな。

で。毎年この時期になると新学期を控えて自殺・自死が増えるそうな。気持ちはわかるがやっぱり周りが「逃げていいんだ」と言ってくれるだけで大分違うのでは。いや、軽率な事は言えないんだけども。

『夏も終わりの気配漂う八月末
 あきらめないで
 全力尽くしてもダメだったら
 それもまた風流』

再びこの歌詞を噛み締めてみる。それもまた風流。こう思えるのもまた強さ。小6の時だっけ、『雪だるま 一緒に作ろう 溶けるけど』と詠んだ頃から一貫してある「ダメでもめげないどころか面白がれる」精神。自殺・自死を考える人にとっては遠い感覚かもしれないが、何とか肩の力を抜いて「世の中そうやって生きてる人も居るんだなぁ」とでも思ってくれれば、この歌も歌われた甲斐があるというもの。ダメだったら笑ってずらかる。とんずら放く。それが出来たらどんなにかいいか。今日も猛暑日予想だが、「暑過ぎて死ぬのも面倒くさい」とかそうなってくれたらちょっとよいな。皆々様方に於きましては呉々も熱中症にはご注意をば。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




クリス・デイヴの凄い所といえば叩くフレーズの難易度に関わらず演奏のトーンが一定なことだ。いい意味で無表情なのだ。ドラムプレイが余り色気を出さず難しいフレーズも退屈なシーケンスもほぼ同じ緊張感で叩いてくれる。これは普通安定感と呼ばれてるヤツだな。

例えば『夕凪』でのプレイは非常に淡々としたものだが、これが楽曲に“海”を感じさせる為に非常に有効に機能している。『夕凪』のサウンドで最も大切な音はあの神秘的なピアノのアルペジオだが、このクリスによるドラムプレイもまた
目を閉じるとまるでスネアのリズムに合わせて波が寄せては返してくるような感覚に囚われる。細かく刻まれるクローズドハイハットの乾いた音色はサラサラと流れる浜辺の砂かはたまた渡り鳥を運ぶ微かな潮風か。全体のトーンが無表情で落ち着いている割に、やけに想像が掻き立てられる。多分、彼はむっつりなのだろう。仏頂面しつつも頭の中は色んな事を考えているのだ。(勝手な事ばかり言い散らしてこいつはもう)

『夕凪』では特にメロディーの変化に合わせてスネアの音色を変えてくるところが心憎い。スネアの音色が変わることで楽曲の描く情景の明度が揺らめく。明るくなったり暗くなったりするのね。ストリングスの深い響きと相俟ってゆっくりと夕陽が沈んでいくグラデーションを表現しているかのよう。ヒカルは彼ら演奏陣にかなり細かく歌詞の内容を伝えていたし、クリスもまた、ヒカルと楽曲のイメージを共有しようと試行錯誤したのだろう。

「プロフェッショナル・仕事の流儀」によれば、『夕凪』のサウンドメイキングはバンドのメンバーたちに依るところがかなり大きかったとのこと。出来上がったサウンドに耳を傾けてみると、それは技術的な貢献というよりは、各々がイメージを共有し切れた点にあるように思える。その証拠に、各演奏者のプレイはそれぞれ単独で聴いても在り来たりのフレーズの繰り返しに過ぎず余り面白いものではない。しかし、これらのピアノとベースとドラムと弦とシンセが重なると驚く程想像力を刺激する豊かで陰翳に溢れた風景が出来上がる。ここまでなるのにどれだけの音を削ぎ落としたのか。イメージの共有度が高いという意味に於いて非常に洗練されている。その中心で淡々と無表情な仏頂面で叩くクリス。彼もヒカルの作り上げた幻想的且つリアリスティックな世界観を深く理解したうちのひとりなのだ。いい音楽家に巡り会ったなぁ。なりくん、改めてぐっちょぶ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いじめに無理解を示した人を万単位の人間が糾弾するって、木乃伊獲りが木乃伊になってる典型なのでは…ま、いつものことなんだけども。「理由があったら叩いてよい」って「いじめられる方にも原因がある」ってのと同相に見えてますよ。

…ほどほどの3DVR企画を叩き続けたのはいじめにはならないのでしょうか。わかんないけど、自分ちで独りで燥いでただけだから担当者がここを見に来ていなければ或いは。でもインターネットだからねぇ。


同じ叩くなら人より打楽器だよねということで今回はドラムの話。どういう奇縁か(って推移はなりくんが説明してくれてんだけどね)クリス・デイヴが叩いてくれている本作。「プロフェッショナル・仕事の流儀」を観る限りにおいては明るく快活で社交的な、というドラマーのステレオイメージからは程遠い猜疑心すら感じさせる知的で慎重な性格に映った。ああいう感じでないとあらゆるジャンルの人達と仕事が出来ないんだろうか。それともただ単にそういう人なのか。後者だな。

ヒカルは打楽器大好きである。『InThe Fresh 2010』では自らバチを持って太鼓を叩いていたが、アレンジ脳が「ベース抜き」寄りな為ライブではドラマーとパーカッショニストのダブル体制を敷く位に打楽器主体の思考をしている。そのヒカルがほぼ全編(だよね?)アルバム1枚打楽器を任せているのだからそれはもう相当の実力と相性の持ち主であったと判断するべきなのだろうな。


で、彼のプレーに関してなんだが…時間がなくなってきたのでその話はまた次回にでも。……今回何も書いてないな……。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『夕凪』の印象的な場面の一つに最後のピアノが消えた後のシーンがある。『全てが例外なく 必ず必ず 何処かへ向かいます これまでと変わらず』の所に『波が反っては消える』が何度も被さってくる、あそこだ。

この手法は今までになかったものと言えるのではないか。歌が重なる場面は過去に幾つかあった。ライブで、録音されたヒカルのヴォーカルを使っている場面はほぼそれだ。だがこの『夕凪』ほどまるごと被せてきたのは珍しい。

最も近いやり方をとったのは『Kremlin Dusk』だろう。この曲のラスト間際では『Born in war of ...』という力強く理屈っぽいラインを高々と歌うヴォーカルと、『Is it like this ...?』を虚ろに低く歌うヴォーカルとが重ね合わされていた。あそこは激しい感情と落ち込んだ心境の対比となっている訳だが、『夕凪』の方は抽象論を歌うヴォーカル(『全てが例外なく~何処かへ向かいます』)と、視覚的なイメージを歌うヴォーカル(『波が反っては消える』)とを組み合わせている。

これは、アルバム『初恋』ならではの特徴なのかもしれない。既に解説した中だと、タイトルトラック『初恋』がある。あの歌ではAメロで一般論、Bメロで特殊論・固有論、サビで具体的な情景を描くという風に歌詞の中でそれぞれの節の役割が明確に決まっていた。これを、『夕凪』では時間的に並べる(Aメロ→Bメロ→サビ)のではなく同じ空間の中に同時に響かせる。

これによる効果は何だろう。それぞれの聴き手の印象が答でいいとは思うが、ひとつ言えるのは、ヒカル自身にとっては抽象論も具体的な情景描写も言葉の機能の一つとしては同じ、或いは平等と言ってもいいかな、違いのあるものではないのである。そして、それがこの『夕凪』という曲のテーマそのものなのだ。曲中で何度も『全てが例外なく』『真に分け隔てなく』と歌っているように、生命だけでなく、異なった機能を持つ言葉同士ですら同じ“海”の中に等しく溶け込んでゆく。確かに、我々がこのパートを耳にした時に感じる思想と情景の重なり合いは、終局に至ることで、言い方は悪いが「有耶無耶になったまま」曲が終わる。その唐突な余韻もまた、歌詞にある通り『今にも終わ』る事で生まれている。この歌にも多分に自己言及的な側面が含まれている訳だ。やはり、ヒカルの歌詞は侮れない。たとえ、本人にそのつもりがなくてもな。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




「全ては須く終わる」と繰り返す『夕凪』の中にあって、展開上フックになっているのが『せいや』のパートだ。あの場面があるかないかで楽曲の奥行きが随分と変わる。

「プロフェッショナル・仕事の流儀」の放送を観ると、仮歌のつもりで録音したものがそのまま使われている模様。何て歌詞をつけたものかと思案しているヒカルに、沖田ディレクターだったかな、誰かがそのままでいいと助言する場面があった。

つまり『せいや』に意味はない。最初に聴いた時私は歌詞のテーマもあって「三途の川の渡守が櫂を漕ぐ時に発する掛け声かな?」とか「或いは故人を偲ぶ鎮魂歌や霊歌の類か」などと考えを巡らせていたのだが、あっさりと梯子を外されてしまった。

繰り返すが、もしこの『せいや』のパートが無ければこの曲はもう随分と「ただひたすら同じ主張を繰り返すだけに終始する歌」にしかならなかった。寧ろ、この言葉にならない場面の為にこの歌が生み出されたとすら思っていたので、ヒカルが梯子を掛ける気すらなかったと知ってどう受け止めたものかと悩む羽目になってしまった。

なので、ここは個々が好き好きに解釈していい場面なんだと納得しておこうか。この『夕凪』の後、『嫉妬されるべき人生』では歌詞がかなり具体的で、想像力は掻き立てられるものの自由に思いを巡らすという風になれる場面は皆無となっているので、『初恋』というアルバム全体としてはここが最後の「聴き手が自由に解釈できる場面」なんだということもできる。そう捉えてしまえれば、『せいや』に意味を付さなかったヒカルの優しさに乾杯することもできるだろう。

実際、ここで喚起される各々の「死」のイメージはおいそれと共有できるものではないかもしれない。その上で何か互いに相通ずるものが見出せれば、『夕凪』という歌のありようとしては望ましいだろう。『Everybody feels the same』と何度も歌いながら最後の最後に『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と綴った『虹色バス』を、思い出したよ。

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )




冒頭の『鏡のような海に小舟が傷を残す』、前に触れた通り“鏡のような海”とは凪を表す常套句であって静かに波の立たない海を表す。ヒカルが散骨時に本当に凪だったのかもしれないしそうではなかったかもしれないが、歌詞としては、穏やかな心のありようを表現することと、海の広さと大きさを表現することの両方を意図しているのだろう。

『小舟が傷を残す』。この一節の持つ詩情がこの歌の方向性を端的に指し示している。傷。まるで鏡を切るように、静かで平らな海に航路を刻んでゆく姿。散骨に来た人間の小ささと海の大きさの対比。こののちに『波が反っては消える』という歌詞が登場するが、舟の残した傷も同じようにまた静かに、まるで何もなかったかのように消えていくのだろう。

この印象的な冒頭に、余計な解釈を与えておきたいと思う。海が鏡のようだとすると、海に映るのは何か。空である。小舟はまた、海にだけでなく、空にも傷をつけたのだ。

夕凪。凪とは風の話だが、夕とは空の話、太陽の都合である。常に言い続けてきたように、太陽はヒカルにとって母圭子さんの比喩だ。

『海路』でも冒頭に『船が一隻黒い波を打つ』とある。『夕凪』の冒頭が描く風景と酷似している。『海路』では『春の日差しが私を照ら』していた。『夕凪』では夕方で、これから日が沈む。『海路』は父の話で、『夕凪』は、歌詞では何も触れられていないが聴き手の多くは母の話だと解釈するだろう。

恐らくシンプルに、舟や船は人の人生が死に向かって進んでいることの暗喩として機能している。黒い波や傷は、死に抗うことで生きる生命を表し、だからこそ『波が反っては消える』のだ。生まれるや否や死んでいく儚い生命の一瞬の煌めき。それに比してなんと海の、死の大きいことか。

そういった幾つもの内容を『鏡のような海に小舟が傷を残す』の一文で表現している。もうこれだけでひとつの歌として完成していると言いたくなるほどに印象的な出だしを持つ、それが『夕凪』という歌なのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『夕凪』の歌詞は最初から最後までひたすら「全てに等しく終わりは来る」ことを説く。散骨の場面を除けば最早それだけの歌詞であるとすら言えるかもしれない。なぜそこまで執拗なのか。

シンプルに解釈する。喪った人が特別過ぎるからだ。掛け替えのない、唯一無二の存在。もうどうやっても取り返しがつかない。その過酷な現実を何とか受け容れる為に自分に言い聞かせ続ける。これは何も特別なことなんかじゃない、よくあること、ううん、いつもあること、どこにもあること、みんなにあることなんだと。ありふれた、世界が生まれてからひたすら続いてきた変わらぬ真実なんだと。毎日が過ぎていくのと同じに、人は須く死ぬ。毎日が過ぎていくのを何も特別に思わないように、このことも、何の変哲もない、毎日のことなんだ、と。

そう言い聞けせ続ければ続けるほど、喪った哀しみの深さ大きさが伝わってくる。

『全てが例外なく』。普通歌の歌詞には出てきづらい一節だ。そして、ヒカルの歌詞にこんな強い口調はなかなか出てこない。『Prisoner Of Love』くらいかな、でもあれは自らに対する決意表明だし、今回は世界まるごとに対する言及だ。そして、当たり前過ぎるくらいに当たり前なこの真実を最後まで受け容れられない人物は結局自分自身であり、それを何とか説得しようとしてこの歌は何度も同じ意味のことを繰り返す。ここだけは特別に終わりの来ない世界であったなら、という無茶で淡い希望を、噛んで含めるようにして静かに潰していこうというプロセスだ。目には見えるものの、未だに信じられないーそれが真実。淡い希望はまるで大海に消えていく小さな波の泡(あぶく)のよう。


その中から何を見出していくかが、この『夕凪』の主題である筈だ。掛け替えのない人を弔いながらこの歌は何を指し示していくのだろうか。もう少しばかりみてみようと思う。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




『夕凪』の歌詞のテーマはシンプルだ。「人は死ぬ」。ただそれだけ。或いはもっと広く「命は絶える」とか「命は消える」とかでもいい。ただ、言い方に気を付けないとこの歌の言わんとしていることを見逃すかもしれない。少しばかり、注意深く行こう。

ここでは命を波に喩えそれが消えゆくさまを描いている訳だが、ただ比喩というだけではないところがある。「深い河」は現実に死体が流れてくる河であり、河の行き着く先は海である。つまり、実際に命は海の中に消えてゆく。「土に還る」のと同様に「海に還る」のだ。物理的に。

更に、ヒカル自身に纏わる“現実”もある。母の遺灰或いは遺骨を海に撒いた。散骨である。これは呟きでも触れているし、歌詞に『落とさぬように抱いた小さくなったあなたのからだ』ともある。位牌か遺灰か遺骨か、故人を偲ぶ何か或いは故人そのものを『小さくなったあなた』と表現している。普段取り立てて論うことはないけれど、この淡々とした描写のリアリティは、大袈裟に嘆かれるよりもずっと重い。

そんな時に『こんなに穏やかな時間をあなたと過ごすのは何年ぶりでしょうか』と語るのだから、生きているうちはなかなか落ち着いて相対することができなかったんだろうなという思いが込み上げてくる。まさに歌詞の通りに穏やかな語り口だが、そこにあるのは激しい後悔だ。このパートではガイドヴォーカルのように歌詞を先んじて囁いている。これをどう解釈するかだが、余りに悲しみが大き過ぎて自己防衛の為に人格を仮想的に分離しているのを描いているのではないか。つまりここでは、感情を喪った自己に対して客観を担う人格が、今何を自分が自分自身に言い聞かせるべきなのかを諭している場面なのだ、と私は読み取った。故に主人公は激しく後悔をしている、と。ただ感情の振幅が大き過ぎて茫然としているだけなのだと。


このようなイメージを基に『夕凪』を読み解いてみたい。果たしてどうなるか。自分でもわからない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




また変な時間帯に突入してるな…。「ペンギンハイウェイ」がまだ絶賛上映中なので余計な動きはする必要がないとはいえ、そろそろツアーまでのカウントダウンが数えやすいくらいの数字になってきている昨今、ではどれ位のテンションで過ごせばよいかというのがちょっと見えない。

とはいえ。サントリー枠の応募も今週までだし、それが終わったら新たな応募枠の発表もあるかもなので、それこそ今週くらいが話題の途切れる凪の時間帯なのかなとも思う。


「凪」という漢字を使うと、妙に過剰反応するようになった。『夕凪』のせいである。ファンになってから『宇』の字に過剰反応する人が増えたかとは思うが、一方で『多』や『田』に過剰反応する人はそれ程多くない。当然と言えば当然で、有り触れた使い勝手は頭の中で切り離される。『宇』の字はそれだけレアということだろう。

同じく、「凪」の字もレアだ。読んで字の如く「風が止まる」事を表した表意文字だが、基本的には、静かな海を指している。

『夕凪』の冒頭で『鏡のような』という形容が出てくるが、これは凪の静かな海の水面を表す時の常套句である。そのわかりやすいところに普通ではない風を匂わせて舟が一隻入り込んでくることで物語が始まる。或いは、その静かな海に何かを遺すために。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で大胆にフィーチャーされたことで余計にこの歌『夕凪』の存在感が増している。liveで歌うかも含めて、ツアーまでに予習しておかねばならない必須曲のひとつだろう。夏と秋の合間のこの時期に満ち潮と引き潮の合間の歌の話を…って思ってたんだけど8月最終週の今日の時点でまだまだ猛暑日ってどういうことなんだこんにゃろめ(笑)。なんだか気分が乗らんわな、ま、今週は自然な流れに身を任せてみましょ。

……凪だから自然な流れって止まってることだけどな……。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




不思議なことに、アオヤマ君のお母さんが声を出したその瞬間に「能登だ!」とわかったのにその後アオヤマ君のお母さんが喋っててもあんまり能登麻美子だとは思わなかったんだな。これが本業声優の技術と実力ということなのか…。いやまぁ、今や能登麻美子の声はブランドそのものであって、特殊例過ぎるというか特別過ぎるというか、一例として持ち出すにはあまりにもワン&オンリーというか。よく声質が似ていると指摘される早見沙織もまたアナザーワン&オンリーでしかなかったりして代えがきくきかないの話じゃなかったりするしな。やっぱり2次元へのアプローチそのものへの心構えからして別な気がする。


うぅむ、声質だけならヒカルだって唯一無二なんだが、きちんとした訓練を受けてないと声優業はままならない、という事実はオールドファンならとっくの昔に痛感している筈。嗚呼黒歴史。そう、ブラックな奴の話です。

だからこそ、逆に、今度こそちゃんと声優としての訓練をしてから挑戦して欲しいなと思い続けて早十数年。気が付いたら35歳。今からやらせて貰える役となるとそれこそ能登麻美子みたいにお母さん役とかってことならぁな…。いやそれ自体に不満があるわけではないのだけれど、そんなに時間が経ったんだなぁ、と。いや“前回”も〈奥さん役〉ではありましたんやけどね。自称ですが。

そういや元々釘宮理恵や能登麻美子とそんなに歳離れてないわ。3~4歳くらいか。歌の方でも『あなた』で母親目線を公言しているし、それに何の違和感も覚えてなかったんだけれど、声優という「役者」に当て嵌めてみるとこんなに感慨が違うもんなんだね。不思議なもんだ。

でもま、次にまた映画の主題歌を担当するときには、チョイ役のウェイトレスとかでもいいから何か演技に挑戦してみて欲しいな。歌と違って、その時期にしか演じられなかったりするのだし…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「ペンギンハイウェイ」、芸達者な声優が居並ぶ中、1人だけ違和感のあった人物が居る。ハマモトさんのお父さん役の竹中直人だ。どうにも自分には合わなかったな。竹中直人が喋っているようにしか聞こえなかった。

いや、ハマモトさんのお父さんは劇中そこまで大した役割を果たさないから、型通りの演技をしといてくれればそれで十分だったんだが、或いはそのせいで竹中直人も気が乗らなかったのかもしれない。もう何十年も前から大河ドラマの主役を張るような大御所俳優が友情出演でもないのに(彼からすれば)端役で起用されては、仕事を流してしまっても仕方のないこと、か。でも仮にそうだとしても、そんな事情はこちらにはわからない。銀幕から感じたことを、こちらは素直に表明するだけだ。

単純に、1人だけ声優としての技術ランクが落ちる。そう思った。キャラの声になりきれていないのだ。特にこの作品、北香那や蒼井優が徹底してそのキャラになりきって声を作り出しているから、何の工夫もなく殆ど竹中直人のままで演じられては乖離感が出ても無理はない。

これは彼の問題というより起用した方の失策だろう。本来竹中直人という人は演技力で圧倒するというよりはそのキャラクターの存在感で押し切るタイプ。名優というより怪優と言った方がいい役者である。それをハマモトさんのお父さんのような、ある意味普通の役で起用しても持ち味が活きなかった。

しかし、だからこそ端役であるが故に作品自体への影響が然程でなかったのは幸いだ。常識からいうとちょっと台詞量・登場シーンともに多過ぎるけれども一応映画の箔付けの為の友情出演だったと割り切っておこうかな。彼の本来の演技自体は面白いと思うしね。また別の作品で持ち味を発揮してくれることだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ニーズがあるということなので気にせず行きます(笑)。


一方で評価が難しいのはお姉さんを演じる蒼井優の演技だ。観ている間一度も蒼井の顔はおろか名前も思い浮かばなかったという意味で、釘宮理恵と同じく声優としての能力は(本業ではないはずなのに)大したものだと思うが、ここではもっとレベルの高い話、「果たしてこのアプローチでよかったのか」について考えたい。

お姉さんはアオヤマ君に謎解きを持ち掛ける、彼の目線からしたらミステリアスな存在で、どこか含みを持たせた言動を匂わせる一方、彼女自身もまたその謎の答を知らない、やや頼り無げというか不安げというか、一筋縄ではいかない感情を持ち合わせた人間である。それを基準に考えると、蒼井優の演技はやや老成し過ぎているというか、単刀直入に言えば老けすぎだったのではないかという疑問が残った。

ただ、それが奏功していた面もある。おっぱいだ。この映画において、お姉さんがあまりに若さ溢れるミステリアスな妖艶さを振りまくとストーリーのコンセント上邪魔になるくらいにエロくなりすぎる。アオヤマ君が力説していたように、おっぱいとはそれのことを考えるだけで怒りが収まるような、安らぎと陽性と神聖性に満ちた美しい存在である。その点、蒼井優の演技は色気を振りまき過ぎなかった点では正解だ。ただもうちょっと元気というか、張りがあった方が、お姉さんが持ち合わせていた、ペンギンを引き連れて現れるような若々しい力強さも表現できたのではないだろうか。


少しグダグダ言ってしまったが、今回の話は微調整レベルの視点でしかない。全体的には、蒼井優もまた好演だったと評価していいのではないか。ただ、全く違うアプローチからのお姉さんもありえたのではないかなという思いは、やっぱりちょっと燻っていてしまうのであった…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




気ぃ遣て今朝は触れへんだのにな。自分から言わはった。

当時も書いたが私は父方の祖母が五年前の8月20日に亡くなっているので、圭子さんの訃報は喪服を着て葬儀場で知った。日付が2日先なので、忘れようがないのだ。なお祖母は誕生日も7月2日で、圭子さんより3日早いだけ。歳は四十近く離れていたけれども。なので、こちらも私は忘れようがない。さおりんの誕生日もここら辺なので纏めて祝ってる感じ。ダヌパの誕生日も近い筈だが、まぁこれは公表されてないからいいやね。

その昔誕生日に祖母に電話したら「この歳になっても誕生日祝ってくれんのはあんたくらいや」と笑われた。喜んでくれていたようで何よりだった。2人とも立て板に水のごとくよく喋るので、お茶を挟んだら延々何時間もお喋りしていた。それが幼稚園児の頃から大人になってもずっと続いていた。おばあちゃん子だったのかな、というより、人としてうまが合っていたのだろうか。母方の祖母は震災を境に認知症を患い、ずっと同じ話を何十回と繰り返すようになっていたが、1度その話を何時間も聞いていたことがある。特に苦痛ではなかったのは、そもそも認知症というものに興味があったというのと、なんだかんだでお喋りしてるおばあちゃんが楽しそうだったからだろうか。…やっぱり根本的におばあちゃん子なのかしれないわ、私は。

ダヌパのおばあちゃんのうちの1人が、五年前に亡くなっている。父方の方は、知らない。今時親ですら血の繋がりが幸せに直結しないとわかっているのにおばあちゃんが居る居ないの話をするのは不粋極まりないのだけれど、でも、2人ともとも仲良くさせてうただいた身としては、おばあちゃんが居てよかったなぁと思う。父方の方は100歳まで生きたし、母方の方も83歳が享年だ。お蔭様で、楽しい時を沢山過ごせた。


なので、圭子さんの命日の頃に考えるのは、本当に、なんだろう、くらべないことである。それはそれだし、これはこれ。そっちはそっちで、こっちはこっち。でも、それぞれ、知っている。こう世界は在るのだと、知って、居る。それに対してどうこうするつもりもない。なるほど、だからかな、『五年かぁ』の一言より先って、本当に何も言葉が浮かばなかったのかもしれないな。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




本来アオヤマ君とお姉さんのオネショタを楽しむための映画だと思っていたのに釘宮理恵のせいで?完全にウチダ君のかわいさを愛でる映画という印象がついてしまった。いいんだろうか。いいんです。いいでしょう。(博多華丸の川平慈英と児玉清のモノマネを思い浮かべながら)

ここまで声優の演技力が作品に影響を与えるとはね、、、ってそれは自分がそういう見方をしているからに過ぎないと思うが、楽しみ方は人それぞれ。そういう人もいるってことで。


MVPはくどいけど釘宮理恵として、まず主演の北香那という子が好演だ。私は彼女のことを知らないので好き勝手書かせて貰うけど、このアオヤマ君という役、一歩間違えた演技をすればこましゃくれた小生意気ないけ好かないガキになってしまうところをかなり抑えた演技で中和している。かといって抑え過ぎても今度はまるでこどもに聞こえなくなってきて難しいところ。こどもらしさと冷静さと胆力と情熱とお姉さんとおっぱいに対する愛と知性を総てフラットに演じなければならない非常に難易度の高い役なのだ。そこのところを然程の不満点も感じさせずに作品世界に没頭させて貰えたのだからこれもう主演の役割を果たしたと言っていいだろう……


……って、こんな調子で声優評を続けてて読者的ニーズはあるんすかね?(汗) まぁいいか、マイペースで参りますよ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ