無意識日記
宇多田光 word:i_
 




今朝のエントリで私は「(UU06で詩がセットに)組み込まれたのは8月に入ってから」と記述したが、これは正確には誤りである。お詫びして訂正したい、のだが、この詩の取り扱いの変遷にはやや入り組んだところがある為、ここで今一度お浚いをしておきたい。



まず、どのような変遷を経たかを確認する為に幾つかキーワードを入れてグーグルで検索してみる。ちょうどこの詩が各公演でどう取り扱われたかを詳細に記述したblogを発見した。

・ 無意識日記「“詩の朗読”@UTADA UNITED 2006」 2006-11-10 02:58:55

、、、3年半前のウチだった(苦笑)。

どうもねー最近こういうのが多い。Utadaやら宇多田やらで必要な情報を検索しようとすると、すぐに自分ちのblogがヒットする。最近のgoogleは検索主のアクセス傾向等も参考にして検索結果を返してくるらしいのでウチのblogが優先的にハイランクになっている傾向もあるかとは思うが、それにしてもねぇ、、、いや余談なんだけれども。

で、だ。上記エントリを抜粋してコピペすると、

・7月初旬~下旬 仙台・静岡・福岡・大阪では映像&SEのみ
・7月~8月上旬 大阪一夜・新潟・名古屋では“朗読1stエディション”
・8月中旬 さいたま・札幌では映像&SEのみ
・8月下旬~9月 愛媛・広島・代々木では“詩の朗読2ndエディション”

、、、ということらしい。これは大枠なので今一度ちゃんとツアー日程を振り返ってみると、、、

、、、っとと、、あら、今オフィシャルには「UU06のツアー日程一覧」が観れる場所が存在しないのか?? 私の探索不足かもしれんがすぐに見つからないんじゃ仕方がない。シンプル・ノートの力を借りて、Listen Japanのサイトからコピペさせていただく。

*****


★全国ツアー『UTADA UNITED 2006』全日程。

7月1日(土)グランディ21・宮城県総合体育館
7月2日(日)グランディ21・宮城県総合体育館
7月8日(土)静岡エコパアリーナ
7月9日(日)静岡エコパアリーナ
7月15日(土)マリンメッセ福岡
7月16日(日)マリンメッセ福岡
7月25日(火)大阪城ホール
7月26日(水)大阪城ホール

7月28日(金)ZeppOsaka

8月4日(金)朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンター
8月5日(土)朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンター
8月8日(火)名古屋レインボーホール
8月9日(水)名古屋レインボーホール

8月17日(木)さいたまスーパーアリーナ
8月18日(金)さいたまスーパーアリーナ
8月24日(木)真駒内アイスアリーナ
8月25日(金)真駒内アイスアリーナ

8月29日(火)愛媛県武道館
8月30日(水)愛媛県武道館
9月2日(土)広島グリーンアリーナ
9月3日(日)広島グリーンアリーナ
9月9日(土)国立代々木競技場第一体育館
9月10日(日)国立代々木競技場第一体育館


*****

…この記事はUB発売頃のものでサプライズ・ライブ企画は未発表段階な為斜体字で7月28日のZeppOsaka分をこちらで付け加えさせてもらった。

で、その日のZeppOsakaでの特別企画「ワンナイトマジック」が詩の初披露日だったというわけだ。その後新潟・愛知でも朗読が行われたが埼玉と北海道では披露されず、愛媛から最終日東京まで“改訂された朗読詩”がお目見えする、という寸法なのです。


以上、あっさりめではありますが訂正・補足記事でした☆


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ウタダ史上最も美しい楽曲のひとつがライヴで誕生した瞬間。


*****


 宇多田ヒカル/UtaDAによる6年振りの全国ツアー「UTADA UNITED 2006」、私が最初に参加したのは7月8日土曜日静岡エコパアリーナでのライヴであった。「EXODUS」からの“OPENING”が終わった瞬間、あの懐かしい響きが――初めてこの曲を耳にしたときから既に懐かしく響いていたあの歌声が――、会場中にこだました。“Passion”である。あの幻想的なサウンドを背景に、宇多田ヒカルが神々しく現れた、、、舞台の中央に! あの眼(まなこ)の様な形状のステージの階下、舞台の奈落から彼女はせり上がってきたのだった。2年前の「ヒカルの5」での稲妻のような登場とともに突然公演の佳境を強引に手繰り寄せたあの手法とは全く異質な、神聖な儀式に我々をいざなうような自信と確信に満ちた演出だ。舞台袖のない形状、その周りのどこから登場するのも難しかっただろうが――強いて言えば真後ろくらいか――、広々とした空間、周囲どこを見回しても彼女の姿が見当たらないのなら現れるとすれば天からか地からかしかなかったわけだ。浮遊感溢れるこの曲独特の神秘性をその身に纏いドレス姿でスタンドマイクを前に凛とした姿勢で舞台中央に佇み眩い光を身体中に浴びながら虚空に眼差しを向ける彼女の姿を見た瞬間、人々は日常から最も掛け離れた感覚の中へと自然に誘い込まれていった。

 宇多田ヒカルが歌い出す。
 
 彼女の意志が声となり音となり空を漂い私の心に舞い降りる。
 
 総てが充たされていった。
 
 
 
 筆者がどれだけこのオープニング曲“Passion”に思い入れを持っているかについては、どれだけ語り尽くしても語り足りない。過去に、


・ ■2006年01月03日  洋楽ファンから見た「Passion」の音楽的位置付け
・ ■2006年01月04日  では、「~after the battle~」に似てる音楽は?
・ ■2006年01月15日  「Passion」制作を支えた人たちを検索してみた。
・ ■2006年03月04日  Passion の各Versionごとの差異について:その1
・ ■2006年03月10日  Passion の各Versionごとの差異について:その2
・ ■2006年04月08日  青空


、、、これだけのエントリを上梓してきているのにも拘らず、まだ、まだ、まだまだ私はこの曲について語り終えていない。これだけ書いても更に続編を書かねばならない。恐らく、制作に携わった人達を除けばこの世の中で最もこの曲に対してことばを発した人間のうちのひとりだと思う。それを愛と呼ぶのか執念と呼ぶのかはわからないが、ただ、この曲はひとに書かせるのだ。ひとに語らせるのだ。ひとが死ぬ時に『この曲に出会える生涯でよかった』、そう本気で呟けるだろうと思える音楽などそうそう出会えるものではない。“Passion”はまさにそれだ。どれほどの普遍性がそこにあるのかは知らない。これを耳にした皆が私と同じ感情をもつかというと違うだろう。しかし、ただただ私にとって、これほど価値が普遍的な楽曲は殆どない。透き通るように美しく、どこまでもどこまでも無限に夢幻にひろがりを持つこの曲はまるでこうやって生きて死んでゆく時間の流れの神秘そのものにすら思えるのだ。

 ところが、私がこの曲にその神秘を一つの曇りもなく感じる為には、いつも必ずシングル盤に収められた二つのヴァージョンの両方を続けて聴く必要があった。まるで寄り添う夫婦のように、車の両輪のように、花と土のように、杵と臼のように、皿と匙のように、青い血と赤い血のように、大空と大海のように、太陽と月のように、左と右のように、陰と陽のように、光と影のようにこの二つは私にとって「ふたつでひとつ」の存在だった。よって、どちらのヴァージョンをよく聴いた、ということはない。圧倒的にこの2曲を連続させた10分の世界に浸る時間が多かった。「Passion~single version~」と「Passion~after the battle~」。私にはこのシングル盤まるごとひとつが“究極の作品”であり、どちらか片方の曲だけでは物足りなかったのだ。よって、アルバム「ULTRA BLUE」には“~single version~”の方が収録されるときいて、理解はできるものの、納得しようとするものの、ほんのわずかな寂しさを感じるのは免れ得なかった。アルバムの中の1曲になるんだから、ある程度は仕方ないかな、これでこの曲の素晴らしさが損なわれるわけではないのだから、そう自分に言い聞かせることができたのもひとえにアルバムの出来が天井破りに素晴らし過ぎたためであった。重箱の隅を突く様な欲張りな自分に囚われず作品に没入しきたるべきライヴに備える方に、もう気持ちは向いていた。無論、どちらのヴァージョンがライヴで唄われるのだろうか、ということは頭の片隅にはあった。しかしともかく私は、アルバムを聴いた時点で既にライヴのオープニングは「Passion~This Is Love」の2曲に違いないと確信していたので、こうやって今、舞台下からせり上がってきた宇多田ヒカルのまわりを、種々の異世界からやってきた妖精の従姉妹同士のようなコーラスたちが空間を飛び回り舞い踊るのを目撃しても、さして新しい驚きは感じなかった。来るべきときが来たな、そう捉えて、僕は彼女の佇まいを注視し始めた。しかし、何かが違う、、、いつもの慣れたあの雰囲気もあるのだが、それに加え、更に違う何かがある、、、

 会場に、宇多田ヒカルの歌声が響き渡る。2005年12月2日、私が“Passion”を初めて聴いたときの感動が甦る。
 
 しかし、それだけではなかった。それ以上の何かがそこにはあった。燦々と光り輝くその初邂逅の感動の想い出をも霞ませるほどに、目の前で本物の宇多田ヒカルが歌う“Passion”は、熱量を一切発しないにも拘らずどこまでもどこまでも限りなく限りなく眩く眩く光という光をあらゆる方向に向けて放ち始めていた。そう、違うのだ、これは、アルバムを何度も通してリピートする中で僕に染み付いていたアルバムの中の1曲としての“Passion”と、同じでありながらも、何かが違っていた。何かが新しかった。何かがそこで、生まれ変わろうとしていた。
 
 
 僕の求めていた“究極の作品”がふわりと舞い降りて、こちらに優しく微笑みかけたのだ。(つづく)


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この流れでは“詩の朗読”に関してひとこと語っておかねばなるまいて。(笑)

*****


 曲順に語っていこうと思っていたUD06ライヴレポなんだけど、折角なのでここのところ話題になっている、宇多田ヒカル・セクションからUtaDA・セクションにクロスオーヴァーする場所に置かれていたキリヤンの手によるものと思われる映像とSE(SoundEffect/サウンド・エフェクト(効果音))のコラボに乗っかっていた“詩の朗読”について、僕なりの感想をなるたけ簡潔に、先にまとめておく。

 私は7月、8月、9月と公演を観たわけだが、うち7月と8月には“詩の朗読”を聴くことができず(つまりキリヤンによる映像&SEのみ)、ついに体験できたのが9月の代々木であった。顛末をまとめておく。各人のライヴレポによると、どうやらこの“詩の朗読”は、7月末の特別ライヴハウス・ギグであった「ワン・ナイト・マジック・イン・オーサカ」で初めてお目見え、その後8月上旬の新潟公演、名古屋公演でも披露されたらしい。(二箇所四公演総てかどうかは、確認が取れていない) しかしその後さいたま2日間では不思議なことに一旦姿を消し、どうやら札幌でも読まれず、愛媛にて別ヴァージョンとなって復活、以後広島・代々木とそのヴァージョンが使われた、という顛末のようだ。

 ↓こんな感じ。
 
・7月初旬~下旬 仙台・静岡・福岡・大阪では映像&SEのみ
・7月~8月上旬 大阪一夜・新潟・名古屋では“朗読1stエディション”
・8月中旬 さいたま・札幌では映像&SEのみ
・8月下旬~9月 愛媛・広島・代々木では“詩の朗読2ndエディション”

 こういう流れであると推測されている。

 また、5月下旬のHikkiのメッセ(この日)には次のような記述があった。
 
--- 「私はこれからちょっと詩を書かなきゃいけないんだけど、くまちゃんどうする?」

そう、記念すべきくまちゃん(@写真)初登場の回だ。覚えておられるだろうか。


 以上のようなことから、次のようなストーリーを推測した。まず、ツアーの打ち合わせが本格化していたであろう5月、インターセクション用の映像&SEのデモ(或いはアイディア)をキリヤンが提示、その扱いの中で、Hikkiが詩を載せよう、ということになり彼女が5月下旬に書き始めるも、ツアー開始には間に合わず、やっと詩が完成し朗読が録音し終わり公演で使える状態だと確認され実際に使用されたのが7月末。ところが、実際に3ヶ所で使用してみたものの、Hikki自身が突貫工事の中(なんつっても6月はあ~たシンガーとしてのリハと公演の座長としてのミーティングの嵐ですよ。よくあれだけメッセ更新してくれていたなぁ、と呆れ返る。ありがと。)なんとか完成に漕ぎ着けたものだったため、出来には満足が行かず録音をしなおすことを決める。或いはもっとポジティヴに、公演で使っているうちに、詩の改変や朗読方法において新しいアイディアが沸き出でた、といったところか。いずれにせよ“詩の朗読1stエディション”は彼女の中ではベストなものとはいえなくなり、さいたま、札幌では使用を中止する。つまり、7月当初のカタチに戻した、ということになる。中途半端なものは発表すべきでない、という判断がその時点でなされたかどうかはわからないし、その判断が妥当だったかどうかもわからない。つまり、さいたま・札幌でも1stエディションを使えばよかった、ということもあとになってみればあるかもしれない。とにかく推測に過ぎないことなのでいろいろな考え方、捉え方が可能だ、としかここではいえない、ということだ。。


 それにしても素晴らしかった。私の中では、つまりそのキリヤンによると思しき「映像&SE」は、静岡の時点から代々木公演を見るそのときまで、時計の針を止めたままだったわけである。歌なりパフォーマンスなりMCなり演奏なり、といった点では、7月の静岡と8月のさいたま(私が体験した公演2つだ)では、Hikkiのその間のツアー経験や体調の差・会場の差などで、如実に違いがみられたわけだが、この「映像&SE」というのは、録画録音した素材をそのまま使用するだけであるので、結局はどこもかしこも同じなわけだ。勿論、私が気付いていないだけで、実はこちらも徐々に改変されていっていたのかもしれないが、とにかくそれに注意を払う気が起きないくらい、この「映像&SE」は最初、激しくつまらなかったのである。

 私は、恐らくここらへん界隈の中では、最も高くキリヤンの才能を評価している部類に入る人間だと思う。自分はCDやMD、カセットテープやMP3ファイルといった音源の類は山ほど所持しているが、映画のDVDを買った、という経験は、あとにも先にも「CASSHERN」一本のみだったりするのだ、実は。「世界最高傑作映画のひとつ」と断言して憚らないあの小津の「東京物語」すら持っていない。(別に私があらためて評価する必要がない作品だからいいか、というスゴイ理屈もあるんだが) それだけ、「これは持って居なくてはならない」と思わせた映画だった。彼の才能は、少なくとも歴代日本人映像作家の中ではトップクラスだと思っている。私が今昔の映像作家のラインナップなんかつゆぞ知らなくても、だ。他に誰がいるかいないか、という点を鑑みなくともその歴史的な凄みが伝わるのが紀里谷和明という男の恐ろしさ、そう勝手に捉えている。

 そんな人間が「つまらなかった」と断言してしまうのだから、これは正直よっぽどだと思う。読者の中には「いや、あれは素晴らしかった」と仰る向きがいらっしゃるであろうことは疑いがないが、とりあえずまぁ待ってくれ。とにかく7月に最初に彼による「映像&SE」を見せられて、私が溜息をついてしまったのは事実なのだ。

 まずなによりも、音楽のコンサートだというのにそこに全く「音楽性」というものが感じられなかったのが痛かった。流れが一切ないのである。キリヤンという男は何よりも真っ先に写真家なんだな~というのを思い知らされた時間帯だった。まずアタマの中に一枚一枚のスチールがあり、それの価値を見抜き具現化する才能、それが彼には備わっている。が、如何せんそれを時系列に適切に(タイミング等も含め)並び替える才能、というものがない。全くないわけではないが、彼のスチールに対するセンスとテクニックの余りの見事さと比較してしまうと、皆無と断言していいくらい、ない。「CASSHERN」に対する酷評の中で一番多かった印象があるのが「シナリオがわかりづらい」&「2時間半PV観てるみたいだ」の2点だった。映像美に文句をつけるのは、非常に高い基準に照らし合わせる向き以外には、非常に少なかったように思う。つまり、一瞬一瞬のインパクトはとにかくキョーレツなのだが、それをまとめて2時間以上の時間の中のどこでどう見せるか、というのが決定的に欠けていた、という評だった。無論異論噴出な見方だろうが、私はこれにある程度同調する。

 その、「CASSHERN」にみられた欠点が、あのわずか数分間の中でも感じられてしまったのである。恐らく3~5分くらいだったんじゃないか、と思うのだが永遠かと思うほど退屈に、間延びして感じられた。一枚一枚の絵の美しさはもうやはり絶品の域だったりするのだが、何しろその場は音楽のコンサート会場。こちらの目も耳も、音楽モード真っ最中であって、つまり時系列の中でのリズムやメロディの波に40分間も慣らされてきた挙句のこの「映像&SE」だったものだから、その流れの悪さ、リズム感やメロディ感の欠如・・・即ち「“(映像とSEにおける抽象的な意味での)音楽性”の欠如」の甚だしさは耳を覆わんばかりだった。何しろそのときの私、ひとつひとつのカットは覚えているのだが、それがどういう順番で並んでいたのか、全くといっていいほど思い出せないのだ。もしかしたら彼の中にはあの順序に何か意図があったのかもしれないが、少なくとも私にはまるで伝わってこなかった。ただ、スチールとして美しい場面の無造作でランダムなスライド・ショーに過ぎなかった。

 しかし。代々木で私の印象は一変する。
 
 そこに、ストーリーがあった。鬼のように高質な音楽性が突如、そこに出現していた。
 
 まるでルビンの壷が向かい合う二人の横顔に変貌するが如く、それまでと全く変わらなかったはずの映像と効果音が突然意志をもち生命を宿し、私の目と耳を釘付けにした。モノクロとセピアの印象しか私の記憶に残さなかったカットの数々が、ショットのひとつひとつが、鮮やかな色彩を伴って次々と心の奥底に突き刺さっていく。まるで目の前で何度見せられても全く想像もつかなかった何十という数にのぼるテーブルマジックのタネを全部いっぺんに明かされたような、目も眩むような時間が私の眼前を過ぎ去っていった。そして、数分に渡るその印象の波の連続を統括していたのが、まるで虚ろに綴られるひとりの女性の呟きだったのだ。正直に告白してしまえば、私は一文たりとて、そのときに呟かれていた内容も表現も記憶していない。ただただ、そこに圧倒的な存在が、表現の威力が、宇宙を外から抱擁するスケール感が、奈落の底の底まで見通すような超越的な視点から描かれていた。そこに拡がる見たこともないような風景は、私にあの屈指の名盤「ULTRA BLUE」で体験した情景の数々の続編を夢想させた。

 「BLUE」の諦念と達観の彼方の霧を抜け、「海路」に示された黄泉への扉と道筋を手繰り、光の闇と闇の闇が交錯し悪魔が会話を交わすテーブルに着く。その筆舌に尽くし難い感触は、まさに次の楽曲“Devil Inside”への序章に相応しい漆黒に満ちていた。これこそが表現の、これこそが人間の夢幻の可能性だ、と愕然として私は会場に響き渡る虚ろな呟きに黙って支配されるしかなかった。その瞬間、その芸術家は隠された意図と不世出の黒い煌きの匂いをほんの一瞬だけ匂わせながら、音の壁と闇歌姫の傀儡を舞台上に出現せしめたのであった。


 未だに、その解釈に私は頭を悩ませている。DVDに、実際にはさいたまで披露されなかったこの“詩の朗読”が収録されると知り丁度安堵しているところだ。まさかあの超強烈な暗澹たる印象だけを私の心に置き去りにしたままあの詩と二度と邂逅できないというのならばそれは彼女にいつまでも触れていたいと願う者に対して余りにも酷だっただろう。ドキュメンタリーとしてのライヴDVDの価値は一歩譲る結果になってしまうかもしれないが、その英断には素直に拍手を送りたい。だってもう一回聴きたかったんだもん。


 それにしても、あの強烈な印象を、一体彼女はどこから運んできたのだろう?? 何より不思議だったのが、“この時間帯”の創作過程である。上述のように、恐らく先にキリヤンによる単独の映像&SEのアイディアが提示され、彼女の詩が乗ったはずなのだ。もし逆、つまり詩が先に存在しそれに彼が映像とSEを付帯したのだとしたら、映像とSEのみが先にお披露目されるはずがない。トラブルによって中途で朗読の録音の披露が妨げられた、という低い可能性しか考えられなくなる。やはり、あのキリヤンの作品が先にあって、あとからヒカルがそれにことばを添えた、と解釈するのが、限られた情報しか存在しない今、自然であり妥当だと思う。

 私には最初、彼による映像は、断片的なイメージをただ無作為に、何の意図もなく並べたものにしか見えなかったわけだ。それが突然、あの呟きが加わるだけで、ストーリーを伴った「映画」として私に迫ってきたのは、まさに魔法が掛かったとしかいいようがない感覚だった。まるで、「私は、どんな断片の集まりにもストーリーを与えることができるのよ」と不敵に(しかし無表情に)UtaDAが囁きかけてきているようだった。そう、実は、先ほど僅かに触れたが、私はこの詩の朗読の内容を、殆ど憶えていない。それどころか、それが日本語だったかどうかすらあやふやだ。冷静に考えれば勿論そうなのだが、寧ろ、その素顔と素肌の狭間に窺えるギラギラした視線の源はUtaDAのそれに近いように映った。彼女はUtaDAのときの方が、よりパーソナリティを自由に表現できている、という意味のことも昔語っていたように思う(ソース失念)。それがこの詩の朗読において、日本語を通して初めてあそこで表現された、ともいえるのではないか。まさに、このパートは、宇多田ヒカルとUtaDAの橋渡しであるとともに、全き見事な「United」だったとしか今は思えない。

 そして、日本語にUtaDAとの繋がりを込める媒介が、夫であり仕事の長きに渡るパートナーである紀里谷和明氏だった、というのが興味深いわけだ。

 極端に妄想を進めれば、いわば、紀里谷氏はヒカルにとって、最も挑戦し甲斐のある“敵”なのではないか、と思える。彼女は、読書中毒であったり音楽に没頭していたり、と時間軸に沿った流れに身を任せる或いは紡ぐことにかけては天才的だといえる人間だ。一方で彼は、時間をどこまでも短く切り取りゼロの極限にまで達したときの一瞬の印象を鮮烈に磨き上げることに長けた人間である。正に対極。そのお互いがお互いの作品のそれぞれの特性を存分に活かしつつ、尚且つその二つを融合させようと研鑚しあう。友であり敵であるような関係。切り詰めた刹那の実在の印象を突き詰める彼方、彼は彼女の中に“永遠”を見い出し、何処までも何処までも遠くまで総てを見通すような慧眼の此方、彼女は彼の中に“今”を見い出した。そう考えると、彼との幸せの中で生まれてきたと思しきあの“光”の「先読みのし過ぎなんて 意味のないことはやめて 今日はおいしいものを 食べようよ 未来はずっと先だよ」の一節も非常に説得力をもって響いてくる。なにやらこの関係はまさしく人間における「男と女」の雛型なのではないか、そう私には思えてきたのだ。そこまで想像を巡らせると、あらためてこの二人の絆の強さには嫉妬せざるを得ない。なんだこいつら。本当に仲がよく、相手のことを必要とし合っている。とても割り込む隙間なんかない。その現在形が、男女の擦れ違い様を描いた古典的ドラマの如く、夫による絵々の断片の数々と妻による詩を交互に片方ずつ味あわせながら我々聴衆を困惑と混乱に陥れ然し最終的には見事という他はない出来に辿り着いた今回の「映像」と「詩の朗読」のUnitedだったのだ。そう自分に納得させながら、“光”PVのメイキングの仲睦まじい二人の姿をまた見直して、今度は全く違った溜息をつく私だった。


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BBS1での議論でのレスが長くなり過ぎたので(汗)、こちらに別掲します。

*****


ひとつひとつ様々なケースを考えてみますね。

まず、「ライヴ会場の上空を撮影用ヘリが飛ぶこと」自体について。
これはなんともいえません。仰るとおり、
それを観客のひとたちが不快に感じるようではいけないでしょうし、
まさかそれによってMCなり演奏や歌唱なりが聞き取りづらくなるんじゃどうにもならない。
一方で、ああいう大仕掛けのものは、
会場の雰囲気を高揚させるのに一役買うことも多いですよね。
「ビデオ・シューティング」の事実を舞台上から告げることによって
観客のみんなを鼓舞する、という手法は実に昔からあります。
それだけ普遍的に有効ということです。
なので、一概にヘリの使用がよいかわるいか、というのは
ケース・バイ・ケースになるでしょう。
Hikkiの場合は、ミーティングでも誰も言わなかったのかな・・・
それほど有効活用した、という感じではなさそうですね。
もしフロントパーソン経験を積んでいれば、そういう“不測の事態”でさえ、
公演の追い風にするすべを身につけていけるかもしれませんが。
Hikkiがそこまで成長してくれたら、嬉しいですわ~(^∇^)

で、僕が持ち込んだ論点の方に照らし合わせて考えてみれば、ちょいと様相は違いますね。
あくまで、演出上の効果が“実際に”どういう評価を得るかではなく、
演出当事者の、開演前までの判断のなかで、ライヴ・コンサートの質を
“あえて”下げる、ということが、問題でした。@繰り返しになってますが。

極端な話になりますが、
例えば演出当事者が「当日ヘリを上空で飛ばしたら公演の妨げになるかもしれない」
という可能性を、事前に全く察知できていなかったとしましょう。実際にそんなことになったら
とんだボーンヘッドということで糾弾されるでしょうが、
僕が“萎える”ようなことにはならないです。
たしかに世紀のうっかりものだとは思いますけれども、
それは「公演の質を故意に落とした」のとは違うからです。あくまで“心意気”の問題ですよ。

一方で、「ヘリとばしたらお客さんイヤがるかな~でも仕方ないや、DVDの為だ」
ってあえてわかっていていうんだったら、「ん??」と訝る、ということです。
僕は公演をDVDに収録することに反対なんかしてません。(僕も見るの楽しみですからw)
撮影のためにヘリを飛ばすこともアリでしょうし、
カメラが沢山で見づらくなることもあるでしょう。しかし、
もし収録する為に他の公演に較べて何か演出上の障害が出るのが明確である、
というのであれば、単純に事前にそのことを告知すればいいだけの話です。
前回述べましたが、チケット料金を下げる、まですればかなり潔いですが、
そこまですべきかというと事情によるでしょうね。

今度は「DVD収録の事実を当日まで伏せる」といった公演演出上の意図があったとします。
そうなれば、DVD収録というイベント自体が、
ライヴ・コンサートの演出の中に組み込まれることになります。
(結構ややこしいケースですね)ここまでくれば事態は少し違ってきます。
本来アゲインストになりかねないファクターをフォローに持っていくための
機転なりアイディアが組みこまれることが要求されるでしょう。
(例えば先述のヘリ撮影なら、
 観客に「ヘリに向かってアピールしろ!映るぞ!(笑)」と煽ったりね)


もしフェアな態度を表明したければ、DVD収録を事前に周知徹底する。
逆に収録事実を当日まで伏せたい、という演出上の意図があるならば、
その演出も含めて公演を判断されるのだから、そこに何か工夫が必要になってくるでしょう、
ということです。何の工夫もするつもりもないのなら、わざわざ収録事実を伏せる必要は
全くなくなりますからね。ここで考えなくてはいけないのが、
収録事実を事前に公表した場合、公演遂行上不都合がある、といった理由でしょうか。
ちょっといい例が考え付きませんので、ここの考察は保留しておきます・・・・。
(案外大事な論点かもしれないから後日また追記するかも)


もう少し微妙なケースを考えてみます。例えば、もし「詩の朗読」が、
演出当事者の判断として「もしなかったとしても公演の質が落ちることはない」、或いは
「あったほうがいいかなかったほうがいいか判断がつきかねる」という場合です。
このとき、「じゃあ、DVD収録があるからナシでいってみませんか」という提案があり
それが受諾された、なんてこともありうるかと思います。ここで重要なのは、
「“詩の朗読”は必ずしもあったほうがいいとは限らない」と
演出当事者が先に価値判断を行っている、という事実です。
それを踏まえた上でDVD収録の事実が判断の後押しをするのであれば、
演出当事者には当日の公演の質を落とす意図は認められなかったことになり、
僕が萎えることもないでしょう。(笑)
いいかえるなら、「もしDVD収録がなかったら必ず詩の朗読を入れていた」にも拘らず、
「でも、DVD収録があるから詩の朗読をハズした」という場合に、
僕は萎えます、ということです。


まとめておきますと、
「公演を撮影・収録するなら、公演の質自体を犠牲にしないこと」
「公演の質に何か犠牲を払わせるなら、それをカバーするだけのアイディアを出すか、
 それがないのならば、撮影・収録によって質が犠牲になることを予め告知しておくこと」
・・・こんな感じでしょうか。
大事なのは、ファンに対してフェアであろうとしてほしい、ということ。
別に特殊な技能を要求しているわけではありません。
(周知徹底の為の技術は必要でしょうが)
僕がもしUTADA UNITED2006のミーティングに参加してたとして(勿論ありえないですがw)、
「DVD撮影があるから、仕方ないよね~」と誰かが言ったなら、まず真っ先に異議を唱える、
ということです。それで質が落ちるなら、ファンに事前に報せておくべきだ、とね。

「世界中にライブに行けない人がいっぱい」だから、当日そこに居合わせた幸せなひとは、
そんな瑣末なことで文句をいうなよ~ちょっとくらいガマンしようよ~というのでしたら、
僕個人は確かに何も文句いわないでしょうし、その程度のガマンなら幾らでもするでしょう。

しかし、誰かが文句をいうだろうことが明らかに事前に想定されるときに、
予めちゃんと説明責任を果たしていない、という状態を故意に作るのは合点がいきません。
予め想定できていたのなら、ちゃんと説明しときゃ済むことです。
そうすれば、コンサートに行くことを検討している人は、チケットを購入する前に
DVD撮影の影響を(ある程度)考慮した上で行くべきかどうかちゃんと判断できますからね。


*****


関連しながらも、ちょっと違う(話のずれた)話題です。
実は、今回取り上げている話は(僕とすれば)他にもうひとつ微妙な論点を含んでいます。
それは、ライヴコンサートの内容に関する事前の情報告知のことです。

例えば、中には宇多田ヒカルのコンサートときいて、
「演奏曲目によっては見てみたいから、セットリストを教えて欲しい」と
チケット購入希望者が言ってきた場合、どうなるでしょう。
(クラシックのコンサートなら、演奏曲目が予めわかっている場合が大半ですからね)
実際に実験(?)してみたわけではないのでわからないですが、
恐らく「事前の曲目告知は致しておりません」と窓口でいわれるのではないかな。
(勿論現実にはネットで検索すれば実施中のツアーの曲目くらい見つかるかもしれません。
 まぁたとえば初日公演を見に行く人、とでも考えてみてください)
でも、これはフェアだと思うんですよ。公演の性質上曲目を事前にいわない、
ということが決まっているのであれば。チケットを買う前に判断できますからね。

一方でこんなケースはどうでしょうか。
今回のUTADA UNITED 2006の公演で、宇多田ヒカルではなく、
たとえば冨田謙さんの大ファンだ、というひとがチケットを買ったとします。
彼が見たくて、彼のみが目的でチケットを買った、というひとね。
彼がツアーの主要メンバーであることは告知されています。
ところが、当日会場に入って演奏が始まってみると、彼が舞台上に居ない。
きいてみると、どうやら今日は風邪をひいてしまったので、
友達のプレイヤーに代理を頼んで、別のひとがキーボードやギターを弾いている、とのこと。
(もちろん、フィクションですよ~実際のツアー、彼は最後まで遣り遂げてくれましたっ)

こういう場合、宇多田ヒカル本人は元気至極なので、公演を中止するようなことはない。
しかし一方で、この冨田さんの大ファン、というひとは、チケット購入損です。

もし宇多田ヒカル本人が風邪を引いてその日の公演がキャンセルになったら、
恐らく払い戻しか振替公演、といった措置が取られるでしょう。
(もちろん、フィクションですよ~実際のツアー、Hikkiは見事に完遂しました!(又涙っ))
それなら、最低限OK、ということになると思います。
当日しか時間の取れなかったひとからすれば悔しくて堪らないでしょうが、
最低限、お金は戻ってきますからね。実際には慰めにならないかもしれないけど、
もしお金も戻ってこなかったら怒り心頭ではすまないでしょう。

この「冨田さんのみの熱烈なファン」の方は、非常に微妙な立場になると思います。
確かに、このツアーは宇多田ヒカル/UtaDAのツアーであって冨田さんは主役じゃない。
でも、それまでずっとバンドの大事なメンバーだったし、当然そこに居るはずだ、
と思ってチケットを買ったのに、そこに居なかった。私はHikkiなんか見にきたのではない!と
憤慨することもあるかと思います。(・・・それもなんかもったいないけどね(笑))

現実問題として、たとえ当日、開場前に「本日冨田さん病欠」の報が入ったとしても、
前売り券の払い戻しは、たぶんしてくれないと思います。それが許されるようになったら、
たとえばステージには見えないひと、、、
「常見さんがマニピュレータやってないなら払い戻してくれ」とか、
「キリヤンが当日来ると思ってたのに来ないなら払い戻してくれ」とか、
いくらでもエスカレートしてしまうでしょう。ここらへん、本当にむつかしいですね。
正直、今の僕にはよい解決方法は、全く思いつきません。( ̄_ ̄;

もっと一般的な事態としては、サマーソニックやフジロックフェスティヴァルのような、
特定のアーティストでない、何十とアーティストが参加する祭り形式の公演があります。
コレの場合、チケット購入時のインフォに必ず
「参加アーティスト変更による払い戻しは致しません」
という旨、明記されています。なので、フェスのチケを購入するとき、
お目当てのアーティストが1つや2つだった場合結構賭けだったりします。
まぁでも、事前にちゃんとインフォされているので、フェアはフェアといえるでしょうね。

一方、この「冨田さん病欠」(くどいようだが彼は皆勤でしたよw)のケースは、
どうにも同情の余地がある、というか、気持ちとしては払い戻しに応じてあげたいところだが、
ルール上どうにもムリと見なさざるを得ない、という感じですね。
彼を裏方と見るかどうか、かなり微妙ですもん。たとえばこれがヴォーカリストが
一定しないロックバンド、だったりしたらまた難しい。
最初はサミーヘイガーが歌うヴァン・ヘイレンが来る予定が、
チケット発売後に「ヴォーカルはサミーからデイヴ・リー・ロスに変更になりました」という場合、
チケットの払い戻しをするべきか否か、とか、、、考え始めたらキリがないなぁ。


・・・というふうに、公演の内容(&参加人物)をどこまで事前に保証するか、
というのは、結構微妙なことが多くって難しいんですよね。

今まで取り上げてる問題も、そういう論点がさりげなく含まれているから難しい。
今回例として取り上げたのは、「詩を朗読するかどうか」とか「ヘリが空を飛んでる」とか、
あんまり目くじらをたてそうにない内容でしたが、今の冨田さん病欠ケースのように、
判断が難しいことも多々あるわけです・・・そうですね、
たとえば、宇多田ヒカルのコンサートということでいってみたら、
まるごと2時間彼女によるトークだった、とかどうでしょうか。(笑)
僕なら怒りませんが(めちゃ楽しいですが)、
「金返せ」というひとが出てきても不思議ではない。
「あんな挙動不審の喋りを聴きに9300円も払った覚えはない」とね。
これ、内容を先に言っておけば問題ないわけです。「これは2時間のトークショーだ」とね。
それならチケットを買う前に判断できる。これが更に微妙になって、
宇多田ヒカルのコンサートだというから行ってみたら、
2時間一切歌わず、ヒカルがピアノとギターを弾いているだけだった、とか。
こ、これは確かに彼女のコンサートですが、幾らなんでもやっぱり詐欺ですよね。

つまり、公演を打つほうは、できるだけ誠実に、フェアに公演内容を
周知徹底告知したほうがいいわけですが、一方で、公演内容をサプライズにしたい、という
演出意図も当然出てくる。僕らだってツアー中にネタバレが出ないように、
随分と気を遣いましたからねぇ・・・(トオイメ)・・・どこまでを告知し、
どこからを秘密にしておくか、これは観客をどうやって楽しませるか、というのと同時に、
観客をちゃんと納得させるかどうか、ということでもあります。


演出意図と、顧客に対する公平誠実な態度のバランス、これは、
ライヴ・コンサートという興行を考えるうえにおいて、非常に重要なファクターである、
といえるでしょう。今回例に出されたのは、実際には余り問題にならない「詩の朗読」とか
「上空のヘリ」とかでしたが、前回もちょっと触れた例、
「実際に会場に行ったら、DVD撮影用のカメラが真正面にずっとあって
 全然舞台上が見えなかった」なんてことが、事前に何の告知もなしに起こったら、
そりゃ誰だって怒ると思います。(※)
そういうことが起こらないような体質を、普段から整えておいて欲しい、
というのが長いタームでファンをする人間としての願いだ、と捉えておいてくれれば幸いです。


(※) ちな!みに僕の場合は
    「見えないなら見えないでいいか~音聴こう」といって、全然怒らない可能性が高いです。
    なんだかカンチガイされてないか心配なので念押しの念押しをしておくと、
    i_個人は詩の朗読があろうがなかろうが、ヘリが飛んでようがHikkiの声が出てなかろうが、
    あんまり問題にしない人です。ライヴはナマモノ、内容がダメだったときは
    自分の鑑識眼のなさを嘆いて終わりです。どのチケを買うかからして自分の責任ですからね。
    そういう人間が、“怪訝な顔をする”とか“萎える”と言っているのだから、
    実は問題は全く違うところにある、とわかっていただければ嬉しいのですが・・・。



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今回はひとことだけ。(笑)
・・・といっても、1000文字弱、ってところだけどね。

*****


オープニング・チューンはUtaDAの1stアルバム「EXODUS」で1曲目だった“OPENING”。

この曲が鳴っているときに超大型LEDスクリーンに映されていた映像は、例の『動く「ULTRA BLUE」アルバム・ジャケット』の赤Hikkiのきりっとした真正面からの表情。UtaDAの音と宇多田ヒカルのヴィジュアル、、、最初っからUtaDAと宇多田ヒカルのUNITEがされていた・・・というのはHironからの受け売りなんだけど(苦笑)、それでも、そう、まるで違和感なかったなぁ。

で、何度もそのオープニングを聴いてきて、最終日の代々木でふと思った。「あれ? これもしかしてHikki、ステージ下で今じかに唄ってる、ってこたぁないよね?」と。

実際のところは、どうだったのだろうか・・・やっぱり録音をそのまま流してたんだよねぇ。まさ舞台下からマイクが届くのだろうか・・・いやね、そう思ったのも、代々木で歌を聴きながら、「あれ?今んとこオリジナルとちょっと違う唄い方じゃなかったか?」と思った、という記憶が未だにあるからなんだが・・・ただ、どの箇所をどんな風に、という肝心なところの記憶が抜けているので、検証しようにもちょっとムリなんだよね。あぁこんなときに役立たずなオイラの耳・・・○| ̄|_・・・(失意体前屈フルヴァージョン久しぶりに使ったなぁ)。


で、この『動く「ULTRA BLUE」アルバム・ジャケット』からみんながすぐさま連想するのは、CMでも多用されていたこともあって「This Is Love」だったし、一方で「EXODUS」を聴き慣れている耳には“OPENING”からはどうしてもあの「Devil Inside」の印象的なイントロダクションを思い出してしまうところだったんだけども、そこから唄われた歌は、そのどちらでもありませんでした。次回は、そう、あの感動的な最初の歌い出しについて語りますわねw 私的には、いきなりツアーのハイライトだったなぁ・・・。


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前回に引き続き曲構成の話。といっても、内容は少々趣を変え、内容もより簡潔に。

*****

前回は、
スタートの「Passion」~「This Is Love」
エンディグの「Automatic」~「光」の流れが
それぞれアルバム「ULTRA BLUE」とライヴ「ヒカルの5」
エンディングとオープニングを連なりに演奏したものだと私的に指摘した。

今回も、選曲に見られる特徴をひとつ取り上げてみたい。

セットリストを今一度振り返ってみる。


OPENING from EXODUS

Passion ~ United Version ~
This Is Love
traveling
Movin'on without you

SAKURAドロップス
FINAL DISTANCE
First Love

Devil Inside
Kremlin Dusk
You Make Me Want To Be A Man

Be My Last
誰かの願いが叶うころ
COLORS

Can You Keep A Seceret ?
Addicted To You
Wait & See ~リスク~
Letters
Keep Tryin’

~ Encore ~

Automatic



全20曲が、非常に明解に5つのパート&アンコールにわかれているのがわかる。
セット本編は4曲/3曲/3曲/3曲/5曲の計18曲、アンコールが2曲である。
疾走する4曲からバラード3連発、UtaDA3曲は全く違ったムードに。
再びバラードの3曲を今度は今泉さんを迎え演奏、最後また5曲で盛り上がる、という
意図のハッキリとした曲の配置だ。2時間を間延びすることなく
聴き手の興味を惹き続けることを目論んだのだろう、練られた構成といえる。

で、私が言及したいのは、それぞれの小パートの中での楽曲の順番なのである。

逐一各パートを検証してみる。

「Passion」~「This Is Love」は最新アルバム「ULTRA BLUE」からの楽曲。
「traveling」は2002年の「DEEP RIVER」から、
そして、「Movin'On Without You」は1999年の「First Love」からである。

次のバラード3連発の順序。
最初の「SAKURAドロップス」は2002年の「DEEP RIVER」から。
次の「FINAL DISTANCE」も同アルバムからであるが、最初の発売時は
2001年の「Distance」アルバムからのシングルカットの体裁だった。
最後はご存知、1999年の「First Love」のタイトル・トラックだ。

UtaDAパートは、勿論総て2004年の「EXODUS」からの楽曲である。

続いては今泉さんパート。
3曲とも2006年の「ULTRA BLUE」からであるが、
シングル盤自体の発売は「Be My Last」が2005年、
「誰かの願いが叶うころ」が2004年、
そして「COLORS」が2003年なのであった。

ここまでくれば、私が何が云いたいかは瞭然だと思ふ。
そう、ひとつのアルバムからの選曲であるUtaDAパートを除いて、
それ以外の3つのパート総ての中で、
新しい曲から古い曲へと遡る順序で歌われているのである。

思えば、元々このUTADA UNITED 2006は、
宇多田ヒカル/UtaDAの集大成という触れ込みもあるほどであったから、
例えばキャリアを年代順に辿ったり、逆に遡ったり、という安直なセットでも
別によかったと思うが、そうはせず、上記のように本編を5部構成とし、
その中で小さく何度もキャリアを遡るカタチにしているのだ。
更に、ココから先の選曲/曲順も吟味しておこう。
この本編5つめのパートがまたミソなのである。

皮切りは2001年の「Can You Keep A Secret ?」
そのまま続いて1999年の「Addicted To You」へと突入する。
直前の今泉さんパートの流れのまま、更に遡っていくかたちだ。
しかし、ここから流れが反転する。
今度は2000年にシングルとなった「Wait & See」が前曲の興奮を引き継ぎ、
2002年のシングル曲「Letters」へと雪崩れ込む。
最後には2006年の16thシングル「Keep Tryin’」で大団円という展開なのだ。

それまでのUtaDAパートを除く3つのパートでの方法論を踏襲するのならばここは
「Keep Tryin’」~「Letters」~「Can You Keep A Secret ?」~
「Wait & See ~リスク~」~「Addicted To You」

という風になっていたところだったわけ。


何故このような曲順になっているのだろうか。
そのことについての考察はまた稿を改めて。(次回とは限らない。たぶん違う)
私の考察を記す前に、読者諸氏のご意見もコメントして頂ければ面白くなると思ふ。
それによって私が書く内容がまた変わるでしょうからね。(卑怯かな~?(笑))


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わらがい父ちゃんち(宇多田合衆国(BBSはこちら))に、私にしては驚くべき字数、たった全角600字のライヴレポを上梓いたしました。合衆国下ライヴ・レポートのページのUTADA UNITED 2006のページより、ご参照下さいませ♪

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1ヶ月以上もコメントを放置していたから(汗)、あらためて返信したエントリを羅列してみたぞっ。ずばり、mintmaniacsのパクリだいぃっ(泣きながら)

*****


あなたは、ライヴに何しに行くの?

* うるみ様~3行。(笑)


あなたは、ライヴに何しに行くの?2~若干私編~

* まにまにな人~1行。(^^;


「見に来い! 損はさせないからっ!!」

* おたりまさん、ちゃきっこ、SKYHIGHさん


各曲のライヴ・ヴァージョン分析。

* おたりまさん、パパイヤさん、うるみくま、鷹輝さん



・・・羅列するほどの人数ではなさそうですが…返信字数がね…いつものことだけど
それだけでいちエントリ出来上がっちゃう量なので、こうやってまとめました。
毎度遅返信ですいません。怠慢な管理人デス・・・。


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今回の「UTADA UNITED 2006」のライヴレポは、ヒカルの5のときとは全く趣きを変え、きたるべきライヴDVDの発売に備えるように(まだ発売決まってないけど;)&ブログスタイルに対応して、各項目ごとに、短文(あくまでも僕にしては短め、という意味(苦笑)を細切れに掲載していきたいと思います。

といっても、飽く迄も現時点での予定なので、今後どこで主旨変えするか、わかったもんじゃありません。頂いたコメントに応じて、臨機応変に書く内容も変化(へんげ)していくと思います。前回の「ヒカルの5」が“超私的な心のドキュメント”であったのと真逆の方向性である“読者との交流の中で作り上げていくライヴレポ”を想定していますので、僕の遅返信に耐えられる方限定ですがっ!(泣爆)、コメント&メール、お待ちしています~!!(^0^)

*****


今回は、ツアー全体を貫くテーマについての話。


 代々木最終日を体験した方々には、ツアーが終わった直後、「ヒカルの5」の最終日のような寂しさは然程感じず、どちらかといえば充実した、未来に向かっての力強さのようなものを感じている人が、多かったように思う。僕もそのひとりだ。ツアーの終わりが新たな始まりとなるこの感覚、Hikkiが全公演に皆勤したという成果が何より大きかったがそれにしてもこの鮮烈な充実感はユニークであった。総てが最終日にユナイトし、そこが次へのステップになっていて、ツアー終盤を前に皆が感じていた「これで終わってしまうだなんて」というそこはかとない寂しさを忘却の彼方に置き去りにしそうですらあった。


 しかし、振り返ってみるに、代々木最終公演を迎えるずっと前の段階から既にこのツアーでは当初から一貫して、“終わりが始まり”がテーマだったように私には思える。それは、22公演総てに共通したこのセットリストの設えの中にも見て取ることができた。みてみよう。


 セットの中で何より強烈な印象を残したのが、まずは1~2曲目の流れだろう。私自身が2006年6月1日の共和国への投稿で「最初2曲は「Passion~single version~」「This Is Love」が最強だと思う」とレスした通りの展開の2曲で、これはもう我が意を得たり願ったり叶ったりだった。(正確には「Passion」は単なる「~single version~」ではなく導入部を「~after the battle~」として2つを1つにユナイトした、いわば「Passion ~ United Version ~」ともいうべきものになっていたが)

 そして、もうひとつ印象的だったのが、アンコールの選曲だ。“これを聴かねば帰れない”と殆どの人が思うデビュー曲の片方「Automatic」から、宇多田ヒカル自らの名を冠した「光」への感動的な連なりである。「B&C」が聴きたかったという意見にも十分に頷くが、それをさて置けばこの2曲による締め括りの素晴らしさには多くの方が賛同してくれるのではなかろうか。


 私はここで、この冒頭と終局の2つの「2曲の流れ」が、共に“終わりが始まり”を象徴した選曲だと考えた。


 最初の方は明白だろう。最新大傑作アルバム「ULTRA BLUE」のオープニングを飾るのが「This Is Love」であり、エンディングを飾るのが「Passion」なのであるが、このエンディングとオープニングを繋げてコンサートの最初に置いたのである。

 アンコールの方は、読者からするとなかなかピンと来ないかもしれない。私はこれもまた(私見に過ぎないが)『“アルバムの終局から冒頭へ”という流れでライヴ・スタートを形成したのと同じ発想』で選曲されていたと考えた。2004年の武道館ライヴ「ヒカルの5」のセットリストを思い出してほしい。あのときは衝撃的な「光」から始まり、セットをデビュー曲「Automatic」で〆る、という選曲だった。そしてこの「UTADA UNITED 2006」ではその「ヒカルの5」の本編エンディング曲「Automatic」から本編スタート曲「光」へ、という流れを最後の最後にもってきている、と、そう私は解釈したのだ。

 少し考えてみてほしい。この「UTADA UNITED 2006」の最初の最初のスタートは、どこにあったか。私がそこで真っ先に思い出すのは、「ヒカルの5」最終日の最後の最後に彼女が観客席に向かって叫んだあのことば、「今度は、私が全国を回るから!」だ。あのひとことから、今回の6年ぶり2度目の全国ツアー「UTADA UNITED 2006」が始まっていたのではなかろうか。

 そして、以来この2年半の様々な活動を経て2006年6月、宇多田ヒカルの努力の結集たる最新アルバム「ULTRA BLUE」がリリースされ、すぐさまこのツアーに突入したわけだから、「ヒカルの5」から「ULTRA BLUE」までの一連の流れの結実が、この
全国ツアーの直接の土台になっている、そう私は捉えた。

 ツアーまでの2年半の始まりとなる「ヒカルの5」をライヴのエンディングに、ツアー直前の一旦の終結&集結となる「ULTRA BLUE」をライヴのオープニングに、それぞれ配したのだ。


 この多層構造。もう一度反復しておこう。宇多田ヒカル/UtaDAによる全国ツアー「UTADA UNITED 2006」のセットリストは、ツアーの“始まり”となった前回の局所集中連続公演「ヒカルの5」のオープニングとエンディングの2曲を順序逆としてライヴのアンコールに配置、この2年半の活動の一旦の集大成といえるアルバム「ULTRA BLUE」のオープニングとエンディングの2曲を順序逆としてライヴのオープニングとする、という2層の“終わりが始まり”で形作られている、とそう私は解釈した、とそういう話である。以下に図解しておく。(テーブルタグが使えないのでレイアウトがズッコケ気味なのはご愛嬌;)

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┣━ ライヴの始まりの2曲 ━ / ━ ライヴの終わりの2曲 ━━

「Passion」~「This Is Love」 / 「Automatic」~「光」

┣━終わりの曲~始まりの曲━  ━終わりの曲~始まりの曲━

┃  アルバム「ULTRA BLUE」 / ライヴ「ヒカルの5」
┃この2年半の一旦終わりの作品この2年半の始まりの5公演
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 もちろん、今回の考察だけでは、「なぜ、このツアーのテーマが“終わりが始まり”になったのか」或いは「そもそも“終わりが始まり”というコンセプトには、どんな含意があるのか」といったもっと興味深い疑問には答えられない。今の私にはその能力も理解も欠けている。寧ろ、これから書いてゆくライヴレポを通して、そういった疑問についての(ある程度の)答えも突き止められていけば、と考えている。何より、筆者自身が、このライヴレポの続きを期待している、というわけだ。とりあえずは気軽に受け止めておいてくれれば幸いである。次回に続く!(予定!;)


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「UTADA UNITED 2006」でのHikkiの歌唱の特徴と調子についての記述を、CDのヴァージョンと比較しつつ羅列してみました。激しくネタバレ(セットリスト全部開示)なので、閲覧の際にはご注意くださいませ。

*****

この企画の意図ですが。単純に、あなたの耳に届いた歌唱に芳しくない印象が残ったからといって、それがすぐさま「喉の不調」に原因を求めてよいのかどうか、という疑問がわいたからです。もしかしたらそれは意図された改変であって喉の不調とは関係ないかもしれないし、それどころか、ちゃんとあなたの望むとおりに歌っているのに会場の音響の不調でそれがあなたの耳にまでちゃんと届かなかっただけのかもしれません。筆者はこれまで3つの公演を観たので、それらについては違いを比較し、ある程度何が私の耳に届く歌の印象を左右していたのかを分析することができます。その妥当性や真偽に異論が出るだろうことはもちろんでしょうが、とにかく複数公演観ることでわかってくることもあったということです。とはいうものの、原因が何であっても、結局はあなたの耳に届いた音が総てです。その評価を変える必要はありません。ただ、その評価の原因に言及する段階に入った場合、そこに事実認識に関する誤謬が紛れ込む可能性がある、そこの部分を整理したい、という意図で、このエントリを書き上げました。その点踏まえて頂ければ幸いです。それでは、以下、どうぞ。

***** *****

予めお断りしておきます。ここで述べる内容は、あくまで「どこがどう違うか」及び「意図的か否か(つまり声の調子によるものかライヴアレンジなのか)」といった“事実”の解明にスポットを当てています。どちらのヴァージョンがよりよいか、という“評価”については、(できるだけ)脇においておくこととします。ご了承ください。

また、完全版ではありません。今回筆者が思い出した点についての羅列です。また後日補足することもあるだろうし、訂正することもあるかと思います。鵜呑みにせず「i_にはこうきこえたんだな~」くらいに気楽に捉えておいてくれると助かります。

*****

筆者が見た公演は静岡初日&2日目とさいたま初日、の合計3日。これをもとに分析します。

「Passion」: 前半が「~after the battle~」、後半が「~single version~」という(筆者にとって)夢のような構成。当然、前半はあのCDできけるゆったりとした歌唱、後半は激しさとリズム感を増した歌い方でした。3回とも、声が出てないところは特別ありまえせんでした。最後の「My Feel My Life My Fears, My Lies~♪」の前の高音の「Hu~~u~~~♪」の前に声の伸びが足りない、ということはありましたが。

「This Is Love」: 観た3度とも、2006年6月16日金曜日の「ミュージック・ステーション」でみせた歌唱と大体同レベルだったように思います。若干全体的にフラット気味でした。音程に厳しいひとは、ここで不満があったかもしれませんね。メロディ自体は、CDと、あるいはMステとほぼ同じでした。

「traveling」: この曲は、全体をとおしてよく歌えていたと思います。静岡初日は、声自体に元気がなかった、とはいえました。静岡2日目は問題なし、さいたま初日は、その中間くらいかな。歌唱のアレンジは、DVD「ヒカルの5」と似たようなものだったかと。観客席にマイクを向ける場面も見られたので、その部分をさして「歌っていない」と不満をもたれた方もいらっしゃるかもしれませんね。

「Movin’On Without You on without you」: ヴァースの低音部が課題の楽曲ですが、「ヒカルの5」最終日を見たときより寧ろその点は改善されていたように感じました。えらい難易度の高い楽曲ですが、声の張り以外、特に音程面ではさほど乱れはなかったように思います。静岡1、さいたま1では「Nothing you can stop me Nothing's gonna stop me, only you can stop me~♪」の部分のミエの切り方が少々迫力不足に感じました。静岡2では問題なかったように感じました(CDと大体同等だと感じました)。

以上ここまで4曲は、スタジオヴァージョンとさほどメロディを変えることなく歌っていたように思いました。ただ、僕自身、CDヴァージョンにそんなに拘っていないので、結構聞き落としているかもしれないことはご注意をば。

むしろ、ここから先の楽曲が問題かと思います、不平不満が出るかどうかについては。引き続いて参りましょう。

「SAKURAドロップス」: 吐息の効果音をバックに、Hikkiが単独アカペラで歌いだす楽曲です。静岡1埼玉1では、半音以上下がっていました。楽器陣が挿入された瞬間ずっこけたのが思い出されます(T.T) 静岡2では若干フラット気味になりつつも、綺麗にまとめていましたので、この曲の出だしは、彼女のその日の調子をはかるバロメータになるのではないでしょうか。普通アカペラで始めるときは、周囲の楽器の人に最初の音を一音出してもらって確かめてから入るものですが、3公演とも私が見た限りなかったです。絶対音感のない彼女が吐息のSEのみではじめるのはリスキーだと思います。ただ、楽器が入ってからは高音部まで含めてしっかり歌えていたので(特に静岡2)、イアーモニターで最初の音をちゃんと指示する、とかすればすぐに改善できることではないかと。それとも、半音下げで始めようという意図があるのかなぁ・・・。

「FINAL DISTANCE」: まさかライヴで聴けるとは思ってませんでした。楽曲の性格上、非常にCDヴァージョンに忠実に歌っていましたが、ところどころ長音部では声の伸びが足りないように感じました。(静岡2ではかなりよかったですが) ただし、音程を変える場面は、見当たらなかったです。スキャット(をうをうをー、とかあそこらへん)は、埼玉1ではちょっと簡略化していたかもですが、記憶が定かではありません。歌詞のあるところで大きく変えてた場面はなかった、ということです。

「First Love」: 前曲と同じく、CDに忠実に歌う楽曲です。比較的容易な歌ですし、「だはーっ」も、僕が聞いた会場ではちゃんと歌えてましたですよ。ただ、忠実度では「ヒカルの5」のほうが上だったかな。

このバラード3連発で不満をもったひとが多いのかと思ったのですが、こうやって思い出してみると、結構ちゃんと歌えてたように思います。結局、最初の「SAKURAドロップス」の歌いだしのずっこけブリのインパクトが全体の印象を左右しちゃってる、ってだけかもしれません。続いてはUtaDAパートですね。

「Devil Inside」: 泣く子も黙る「ニューヨーク・ショウケース・ギグ・ヴァージョン」です。(略してNYCSCGVer.ね) 映像・演奏とも、ライヴでしか観れない・聴けないスペシャルなヴァージョンなので、UtaDAファンはライヴに行かない手はないですね。もしかしたら、ここでのヴァース部分の「They don't know how I burn~♪」のところ、音をはずしているようにカンチガイされた方もいらっしゃるかもしれませんが、NYCSCGの時点で、あそこで音を下げて歌うようになってました。すなわち、声の調子云々で変えたのではなく、元々こういうメロディなんです。お間違えなきよう。サビの最高音部で声がカスれることが何度かありましたが、それ以外は問題なかったです。あの最高音を期待した人には、物足りない歌唱だったかもしれません。(この曲で掛け合いやりたいんだけどなぁ。@余談)

「Kremlin Dusk」&「You Make Me Want To Be A Man」: この2曲については、突っ込みどころ満載すぎるので、省略します。(苦笑) というのも、今のHikkiの実力だと、たとえ絶好調時でも、この2曲をライヴで歌い切るのはムリだからです。特に「YMMWTBAM」のサビのシメのシャウトは、音程的には無理ではないものの、あのアグレッシヴなトーンのままで連発したら喉が完全にやられます。逆に、この2曲をライヴで完全再現できたなら「現役最高のメタル・シンガー」である、と認定してよいでしょう。それくらいに困難な楽曲です。ぶっちゃけ、単純に選曲ミスですね。(あくまで、「歌いこなすため」には、です。僕個人はUtaDAからこの3曲を選んでくれたことに関しては絶賛以外の言葉を彼女に贈る気はありません) ですので、この2曲でのパフォーマンスについて不満をもたれた方には「ごめんなさい」と平謝りするしかないです。ごめんなさいm(_ _)m

・・・とはいっても、UtaDAの楽曲なんて会場のうちの1割くらいしか反応してなかったので、そんなに不満が多いとは思えないんだけどなぁ・・・まぁいいや、次は生楽器セクションです。歌にアラがあった場合、最も突っ込まれる場面ですね。

「Be My Last」: これも「Devil Inside」同様、いやそれ以上に“ライヴでは大幅にCDと違うラインを歌う楽曲”です。その程度は全楽曲の中でも一番です。ここでの歌メロは、2005年10月28日フジTV系列で放送された「僕らの音楽2」のヴァージョン、および、2005年11月11日テレビ朝日系列で放送された「ミュージック・ステーション」での歌唱がベースになっています。(それぞれ、ttp://www.youtube.com/watch?v=VCsfp4V0A_4/ttp://www.youtube.com/watch?v=htRrB7fbMcM) 特にサビは別モノといえるくらい変わっています。ヴァースの部分はMステっぽく、サビの部分は僕らの音楽2っぽい、そういうメロディの組み合わせ方だったように思います。静岡2では、全く問題ありませんでした(CDやTV以上でした)。一方で埼玉1では、サビのメロディを下げており、「僕らの音楽2」できけるような飛翔感は損なわれていたかもしれません。ちょっとジャズっぽいフィーリングともいえたかな。僕が聴いた感じでは、この日(埼玉1)のサウンドチェックの時点で「のどに負担がかかるから、下のメロディに変えよう」と決めていたのでは、という感触と、歌いながら喉と相談してライヴの途中で「こっちにしよう」と咄嗟に決めたのでは、という感触と、半々でした。どっちだったかははかりかねます。いずれにせよ、上記二つのテレビ・ヴァージョン両方を聴いていないと、そのCDとのあまりの差に面食らってしまったことでしょうね。とにかく、繰り返しますが、静岡2日目のは、水準を越えた出来(CDやTV以上)だったと思います。

「誰かの願いが叶うころ」: BMLに字数を使いすぎたので(汗)、この曲は一点に絞っておきましょう。サビの「わがままが増えてゆくよ~♪」の部分です。3公演とも、同じ変え方をしていました。つまり、音をハズしたのではなく、わざとこう歌っている、ということなのでしょう。CDと比べて歌いやすいからなのか、あとから考えてこっちのメロディのほうが好きになったから変えたのか、変えた動機は定かではないですが、比較的声の出ていた静岡2でもこう歌っていたので、声の調子云々という理由ではなさそうです。純粋に、これがライヴ・ヴァージョンなのでしょうね。(なお、Mステで歌ったヤツはモニターがぶっこわれてたようなので、参考になりません。てことでリンクもなしw)

「COLORS」: 3回とも問題なかったと思います。ベースとなっているのは「20代はイケイケ!」のバージョンですが、更にそれ以上に抑揚とスケール感があり、声の伸びも申し分なしだったかと。もちろん、欲を言えばキリがありませんが、あんまりこの曲でのパフォーマンスに不満の声は出ていないですし、これくらいでいいでしょうか。

・・・ということで、あれ?一番文句が出そうなこの生楽器パートですが、突っ込むほどのところはなかったような・・・。私のきいた3日間が結構無難だった、ということなのかなぁ。どうも、聞き慣れない「BML」のヴォーカル・ラインに戸惑っただけのようにも思いますが、僕が聴いてない公演については、わかるはずもないのでなんともいえません。ここから先は盛り上がるパートですね。

「Can You Keep A Secret?」: 出だしのアカペラの部分で「おとなしくなれない Can You Keep A Secret?」のところで、「Secret~♪」の部分を下げて歌っていますが、これは3度ともそうでした。たぶん、声の調子に関係なく、「シックに」歌いたかったんじゃないのかな。この場面では、アカペラで始まりますが、ちゃんとコードがバックで鳴ってますので、音をはずすことも(3回では)ありませんでした。桜もちゃんとコード鳴らせばいいのに・・・と考えるのは素人の浅はかさなのかなぁ。

「Addicted To You」: 難易度抜群の楽曲ですが、3回ともほとんど問題なかったですね。なぜかこの曲はちゃんと歌いきってくれますw ボヘサマのときからですから、歌い慣れているのかなぁ。不思議だ。高音が出なくても、リズム感さえ失わなければ歌いきれる、ってとこなんかなぁ。

「Wait & See ~リスク~」: キーが高すぎるなら下げてもいいよ、と歌っているこの曲に野暮なことはいいづらいです。(笑) これも曲自体はちゃんと歌えてましたが、要所をしめるハイトーンは出てなかったので、それを期待していった向きには不満だったかもしれません。ほかは、ちゃんと歌えてましたよ~。歌詞は間違えていた気がしますがw

「Letters」: あれ? ごめんなさい、なぜかこの曲については3日間ともあんまり記憶にないです。後日何か思い出したら書きますね~。

「Keep Tryin’」: 「どんなときでも価値が 変わらないのはただあなた」の部分の「あなた~♪」の高音を出さなかった(次すぐ歌いださなきゃいけないからね)以外は、こんなに難しい曲なのに、ちゃんと歌えてた気がします・・・なぜだ。(笑)<そこは疑わなくてええやんw

続いてはアンコールです。

「Automatic」: まったく問題なし。以上!(笑)

「光」: うーむ、なぜなんでしょう、もっともハイトーンを連発する曲のひとつなんですが、ばっちり歌えていたように思います。もしかしたら、半音、もしくは1音下げていたかもしれませんが、僕には音感がないので(涙)、正確なところはわかりません。

*****

駆け足気味(特に後半は(汗))でしたが、こんな感じです。こうやってまとめてみると、実は案外歌唱がダメな箇所って少ない気がしました。むしろ、大きくはずした場面が印象に残りすぎたことと、MCで披露した元気のない掠れた声に驚いた、という面が大きいのではないかと思われます。あと、(さいたま2日目などで)不評だ、という楽曲ほど「メロディ自体がライヴ・リアレンジされている」のも特徴ですね。3日間見たので、「声の不調で変えたわけではない」パートがどこか僕にはよくわかるわけですが、一度しか見てない人の場合、ネガティヴに捉えても仕方がないかな。

どうも、「SAKURAドロップス」の出だしと「Be My Last」のサビメロ、という2点を無難にまとめるだけで、ずいぶんと全体の印象が変わるのではないかと思われます。両者とも、新しいパートのアタマの楽曲なので、その印象に引っ張られてしまうのではないかと。その2点を改善した上で観客のみんなからどういう不満があがってくるのか、それがちょっと興味ありますね。UtaDAの3曲についてはお客さんが曲を知らないので評価の対象外でしょう。知らない曲・英語の曲でも圧倒できるくらいになれれば別ですが、今はそこまで行っていません。尤も、新潟2日目や埼玉2日目は、そういう問題以前に声自体が出ていなかったようではありますが・・・。


後日何か追記するかもしれません。その場合は、BBS1或いはココのコメント欄で告知したいと思います~。以上!


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NHWBBSのカキコの続きv 300字ほどです。ライヴについてのネタバレを含みますので御注意ください。

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今回のUDUD2006の曲構成は、大雑把に分けて6つのパートに分かれています。
最初の賑やかな4曲、次のバラード3連発、攻撃的なUtaDAの3曲、
生楽器演奏の3曲、イケイケの5曲、アンコールの2曲、という構成です。
このうち、バラード3連発と生楽器演奏の3曲の部分は、座って見てる方も多いので、
2時間ずっと立ちっ放しでなくてもいい場合も出てくるかと思います。
じっくり聴かせる場面でもあるので、座って目を閉じて聴くのも乙なものです。@経験者談
起立にしろ着席にしろ、ずっと同じ姿勢というのが一番負担だと思うので、
立ったり座ったりも大変かと思いますが、ほどよく休みながら鑑賞すれば、
そこまで極端に疲れたりはしないんじゃないでしょうか。以上~♪

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ツアーが始まる前に、頻りに「今度のツアーは自信がある。是非見にきてほしい」と各媒体でシャウトしていたHikki。どういう心境でこの発言を繰り返していたのだろうか。その真意を(私にしては短めに)推測する。

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単刀直入にいう。「自らの退路を断った」のだと思う僕は。やっぱり彼女は今までのコンサート同様、ステージに上がることに対する不安と恐怖は持っているのではないか。静岡初日を見た時点で僕は、今まで以上に彼女が「精神的に戦っている」という印象をもった。年齢を重ねるとともに確かに逞しさもついてきた一方で、なぜか(通常と違い)その繊細な神経と感性はより玄妙になり、儚さも増してすらいるように思う。ヘンな話だが、10代のころにくらべ、更に傷つきやすく敏感になってきているように感じるのだ。でなくば、『「言い訳だ」って言われるとすごくさみしい。部屋に閉じこもって出られなくなっちゃいそうになる。』なんてセリフ、いまさら出てくるはずがない。 そんな発想すらないだろう、本当に感性が鈍くなっていたとすれば。

なのに、自信満々な発言を繰り返す。その原因は、自らのファンが「優し過ぎる」ことにあったとみる。どうしても宇多田ヒカルのコンサートとなると、観れるだけで価値があって、それで満足してしまうところすらあった。しかし、今度ばかりは、中身を見てちゃんと評価してほしいと彼女は考えてわざと「見に来い」を繰り返したのではないか。「ファンのためにライヴを」となると、どうしてもこちら側は「やってくれてありがとう」という気持ちになるが、「見に来い」などといわれたらこちらも「それなら見に行ってやる。なんぼのもんじゃい。」てな“横柄な”態度にもなれる。もし内容に不満があった場合、遠慮なく「来いっつったから行ってやったのにこの程度か。」と文句のひとつも言い易くなる。そういう「内容が芳しくなかったら遠慮なく、そして容赦なく叩かれる」状況に、彼女は自らを追いやったのではないか。いうほど自信があるわけでもなく、うまくいかなかったらどうしようと不安に苛まれつつも。やっぱり、自分に厳しいひとなのだ。だから、あなたもライヴに不平不満があれば、どんどん言ってやればよい。それが彼女の望むところなのだから。

そして、それと同時に、彼女が昔と変わらず、いやそれ以上に今「すっげー切ない」心持ちでいることも、覚えておいてほしい。自信満々な態度の裏にそういう「決意と覚悟」があったことを知れば、同じ不満の表明をするのでも、言い方を変える気にも少しはなってくれないかなぁ、とちょっと淡い(甘い)期待をする筆者でした。まる。


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引き続き煽り口調でライヴに対する観客としての態度の話です。後半はちぃと個人的な話になっちゃいましたが(^∇^ヾ

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ライヴの観客になる、ということを、家のリビングでテレビを見たり部屋で本を読んだりすることと同義と考えるケースがある。これは大きな間違いではなかろうか。ライヴの観客になるということは、いうなればテレビの中に飛び込んだり、本の中の世界の(例え通行人役としてでも)住人になったりすることに近いと思うのだ。それはきっと、ただ流されてくる情報を何も侵すもののない状況で享受するのではなく、その流れの中に飛び込んで、ときには流れの潮目を変える役割すら果たせる“参加者”になるということなのだと、筆者は考える。

「そんなことはない。私は、どんなライヴにおいても、殆ど反応を示さない。必ず傍観を決め込む“鑑賞者”でしかない。“参加”なんて、しているつもりはない。」という人もいるかもしれないが、それはちょっと違う気がする。というのも、実は僕もかなりのライヴにおいてその“傍観する鑑賞者”のスタンスで臨んできたのだが、そのたびに(全く僅かであるとはいえ)自分がひとりの人間としてそこに存在することの影響を消すことはどうやってもできない、と何度も痛感してきたからだ。確かに、声援を送ったり腕を振り上げたり身体を動かしたり、と目や耳で捉えることのできる所作動作があればいかにも“参加している”という印象を人はもつ。しかし、そこにそうやって「黙って座っている」こともまた、ひとつの所作・動作といえるのだ。必ずそれは周りに影響を及ぼす。(「沈黙もまた答えです」byナウシカ) そういう人が多数になる場面を想定すればわかりやすいだろう。複数の人が掲示板で「自分は盛り上がりたかったのに周囲がみんな冷めていて気持ちが乗り切れなかった」ということを書いていた。これを安易に“水をさす”とは形容したくないが、ただ黙って座っていることが周りに影響を及ぼした、という点では、たとえば真ん中に物凄く盛り上がってる人がいてそれにつられる形で周囲の人も高揚してくる、といった典型的な盛り上がりケースと結局は同じことである。影響力という点ではね。特にこれはクラシックのコンサートでは顕著であり、数千人、ときには数万人のひとが、ひとつところに集まって一言も話さずに一点を凝視し注目を集中させる、という冷静に考えれば凄まじく異様な空間がそこに出現するのだ。その“特異な(非日常的な)空間を創造する”ことについて、そこに集まった観客たちひとりひとりは何千分の一ずつであるとはいえ“ただ黙って座っている”ということによって、間違いなく「寄与している」といっていいだろう。この場合、ただ座って黙っていることが何よりもの“ライヴへの参加”であり、結果それが舞台の上の演者に対して大きな影響力を行使することに、なる。家でアナログテレビを見たりマンガを読んでいるだけでは、こうはいかない。逆立ちしてもでんぐりかえりしても、コンテンツの内容は変わらないのだ。(マンガに塗り絵して全編カラーに書き直してもいいけどね~、でも作者には何の影響も及ぼさないでしょう?お便りを出さない限りは) しかし、ライヴは違う。必ずアナタはそこに居る。それは覆しようのない事実なのだ。「黙って座ってることも参加形態の一種」であることに気持ちが至れば、周囲への影響を考えずに「俺達は客なんだから好きにさせろ」と傍若無人に振舞う気も失せるはずである。『全く厨房に立つことなく(つまりお金を払った対象に影響力を行使する機会を一度ももたずに)出てきた料理を食べて美味い不味いといえ済むようなレストランでの“客”』のように振舞うのとは、わけが違うのだ、ライヴの観客という立場は。

僕がこんな風に考えるようになったのは、どんなジャンルのコンサートに行っても、余りにもチケットの値段が高かったからだ。「それとこれとに何の関係があるんだ?」と思われるかもしれない。思考過程の顛末はこんな感じ。最初のころ、上述のように僕は、できるだけ「傍観者」になって、公演の内容をできるだけフェアに「鑑賞」して「評価」しようという態度でライヴに臨むことが多かった。しかし、そのスタンスで実際に会場に行っても、払った金額に見合った演奏を聴かせてもらえることは非常に稀であった。中には余りにも生演奏が凄まじ過ぎて「なんでCDはあんなに気のない演奏やねん」と思ってしまうようなこともあるにはあったが、やっぱり殆どなかった。大体において、CDのほうが歌はちゃんと歌えてるし、サウンドはずっとキレイだし、会場で聴くことのメリットといえば、家でヘッドフォンで聞くより(音は少々悪くても)でっかい音量で聴けることと、ライヴならではのアレンジを聴けることくらいだった。(洋楽が多いのでMCは元々期待していない) しかし、実はそれも冷静に考えれば、ただデカイ音で聴けるのが嬉しいのならわざわざ海外から高い渡航費払って演奏者達を呼ばなくても、PAだけ用意してCD掛けてくれたほうがずっといいわけだ。実際、そういう風にいろんなバンドの曲をライヴハウスでDJのひとがCDで大音量で掛けてくれるイヴェントとかあるしね。そっちのほうがずっと安く済むし、名曲ばかり揃えてくれるからずっと楽しい。また、ライヴならではのアレンジ云々といっても、後日西新宿に行けばチケット代よりずっと安価でそのときの公演の海賊盤が手に入るし、そっちならライヴと違って何度でも聴き返すことができるからコストパフォーマンスはずっとイイ。だって、ライヴってCDの2倍~4倍くらいの値段がするのだもの。それなのにライヴのほうは楽しめるのはたったの2時間。ブートレックCDを10回聴き返せば結局、単位時間当たりのお値段は50倍とかになるのだ、チケット代というのは。これは凄い差である。やっぱり、「音楽を鑑賞」しに行くという目的だけでは、6000円とか7000円のチケット代は非常に割高感があった。(例外なのがクラシックのコンサートで、何しろ生楽器生歌唱だからCDよりも抜群にサウンドがいい。あれは、それだけでも高いお金を出して生演奏を聴きにいく価値があるw(もちろんそれ以外の価値もあるよん))

しかし、そこで僕は翻って違う考え方をしてみた。ライヴというのは「アーティストとファンがお金を出し合って一緒に作り上げる“作品”なんだ」という風に。こう考えると途端に気が楽になった。まず好きなアーティストが新譜を出したらみんなで率先して購入し、レコード会社及び招聘会社候補に「このひとたちが来日してくれたらもちろんライヴに行きますよ」と圧力をかける。添付されたプレゼント応募葉書にも「来日希望」と書いて投函する。ひとたび来日が決まれば、今度は彼らが来日するための滞在費や渡航費を、チケット代というカタチでファンのみんなで協力して用意し合う。もちろん、会場の設営のための費用でもあるわけだ。そうやって、みんなでお金を出し合って好きなアーティストを招いて、会場を設置して、一緒に歌って一緒に騒いで一緒に腕を振り上げて、お互いのお互いに対する愛情を遠慮なく伝達しあおう、その楽しくて仕方のない空間と時間を、ファンとアーティストが一体になって作り上げよう、チケット代とは、そのための“会費”“参加費”もしくは“制作費”みたいなもんなんだと思ったら、そのCDの何倍もの値段というのが、結構妥当なものに思えてきたのだ。面白いことに、完全に受身で「鑑賞・傍観」して、音楽を“享受しよう”“何かを得よう”という態度でいるときより、そうやって「自分も、自らが愛する音楽の担い手の一部になるんだっ!」と(まぁ、99%カンチガイみたいなもんなんだけどね(笑)残り1%に夢を見たっていいじゃないかw)“創り出そう”“自分も何かを与えよう”というふうに考えるほうが、高いお金を抵抗なく出せたんだよね。あくまでも僕一個人の経験に基づいた感想・印象に過ぎないんだけど。

で、そうなってくると、さっき“観賞・傍観する態度”でいたときに感じていた、「CDに比べて声が出てない」とか「演奏が物足りない」とかいった感想も、全く逆の様相を呈していくる。「なんだよ声出てねぇなぁ」と愚痴をいうことなどせずに、「あそこのハイトーン、お前ライヴで出ないだろう! 代わりに観客である俺たちが歌ってフォローしてやるから、マイクこっちに向けやがれ!!」っていうノリになったこともあるし(笑)、「CDに比べて演奏物足りないねぇ」と落胆したりせずに「中間部、CDだとギターが一本増えてバッキングを補うけど、ライヴではそういうわけにはいかないからサウンドが薄くなっちゃうだろう?? だったら、俺たちがクラッピングして(要は手拍子w)ラウドに盛り上げてやるぜ!」なんて妙に熱くなったこともある。(笑々) そして、そういう風に過ごすのが、にんともかんとも楽しくてたまらないのである。どうせ、周りは、知ってる人も知らない人も結局は同じ音楽が好きなどうしようもないヤツら(笑)ばっかりなんだし、舞台の上にはそのみんなの憧れのひとたちが居並んでいるわけだ。なんだかんだいってそんなふうにやってると、舞台の上も下もおんなじような気持ちになっていくんだよね。(これが感じられるのは、大抵前のほうに陣取った場合に限るんだけどね~) だから、その場限りかもしれないけどそのときにしか味わえない一体感でライヴはどんどんどんどん盛り上がっていく。アーティストのほうも、そのファンのエネルギーに感化されてどんどん演奏に熱を帯びていったり。(でもやっぱりハイトーンは出なかったり(笑)) もちろん、演奏は素晴らしいにこしたことはないし、ハイトーンもちゃんとCDどおりに出してほしいのはヤマヤマなんだけど(笑)、そうやって「ダメじゃん」と諦めてしまうよりは、結果的に何もならなくてダメってことになったとしても、声を張り上げてアーティストにパワーを伝えよう、っていう風に「自らを前向きな気分にすることができる/自分の中の積極性を引き出すことができる」っていうこと自体が、ライヴに“参加する”ことの大きな魅力だったりするんじゃないかな。そして、その積極的な、ポジティヴなフィーリングを掴み取れることの威力は、ただ家でCDを何度も繰り返し聴いたときに音楽から貰えるものより、何倍も何倍も大きい。これをいったん体験すればチケットの値段がCDの2~4倍になってることに納得がいくようになると思う。結局騙されてる/カンチガイしてるだけかもしれないけど。(笑) でも、「お金を払う」っていうのは、そのリターンに対して何よりも自分自身が納得できるかどうか、っていうのが大事なんだから、一応はそれでいいんじゃないかな~。


余談になるが、この「積極性」とか、「アーティストと一緒にライヴという“作品”を共同で創造する」といったことは、ウェブ上での振る舞いにも当て嵌めることができるかもしれない。彼女は結構ファンサイト巡りをしていると思われるフシがあるので、自らが公表したライヴに関しての意見・感想・論評などは、彼女の目に触れている可能性が結構高い。つまり、あなたの書いたことは、少なからずツアー中の彼女に影響力を及ぼしているのである。ライヴに何か不満があったとき、あなたが受身の享受者であれば、もしかしたら「こんなライヴ二度と行くか。つまらなかった。」という感じのネガティヴな表現に終始するかもしれない。恐らく彼女のことだから、テトリスDSのイベントで見せた大人気ないまでの負けん気の強さで、そういったリアクションも明日への糧にしてくれるだろうが、やはり「一緒にライヴを創り上げよう」という積極的・能動的な意識のもとで書かれたリアクションの文章の方が、有体に言って彼女にとってより“役に立つ”ものだと思う。「あそこがよかった。あそこがつまらなかった。」というだけの文章も、もちろん役に立つことにはかわりないのだが、そこからもう一歩踏み込んで、「あそこはこう改善したらどうか。ここはわかりやすさのために省いてみるのもいいんじゃないか」と、“UTADA UNITED 2006の一員としての態度”で、提案なり提言なりを基本としたリアクションを返したほうが、更によりよいものになると思う。まぁ、そこらへんは好き好きでいいんだけど、今ツアー中に僕らが気軽にとっているリアクションの数々も、UDUD2006の一部になって昇華してるかもしれないから、そこのところを気にとめておくのもいいんじゃないかな、ということなのでした。以上、余談終わり。



さて。最後に話を元に戻して。当然、今まで書いたような、“ライヴに参加しようとする意識”を、宇多田ヒカルのライヴに来てくれるお客さんみんなにそのまま求めるわけにはいかない、というのは、わかっているつもりです。年齢層が高かったり、仕事帰りのコンサートだったりすれば、そんなエネルギーが余ってなくっても無理ないし、そうでなくともふつーに座って「音楽を受身で享受したい」と思うひとだってたくさんいるだろう。そして、もしかしたら、そういう受身のひとたちは「あんなに騒いでたんじゃ、肝心の音楽が耳に入らないだろうに。一所懸命彼女が歌ってくれてるんだから、ちゃんと耳を傾けてあげなよ」って思ってるかもしれない。確かに、僕もよくそう思う。(笑) でも実は、そうやって騒いでいるひとたちは、今ここまでに書いたような、ただ座ってるだけでは得られないいろんなものを得られている(こともある)んだ、っていうことを知ってもらえれば、少しは見方も変わるんじゃないかな~と思って、この文章をまとめてみました。今度ライヴに向かわれたときに、遠くの方から騒いでるやつらを眺めながら、僕の書いたことをなんとなく思い出してくれれば、とっても嬉しいです(*^_^*) 以上!


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ちょっと挑戦的な文体のエントリです。扇情的な文章(煽り、とか釣り、とかいわれるタイプのこと)が好きではない人は不快になる恐れがありますので、読む前にご一考くださいませ。あと、わずかながらUtadaUnited2006のネタバレ的部分も含みますのでご注意ください。

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このあいだメッセンジャーで会話していたときに、「ライヴには歌を聴きにいくものだから」という主張を言われて、ちょいと反論をしたことがあった。読者は、「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれない。「宇多田ヒカルはミュージシャンなんだから、彼女の歌を、彼女の音楽を聴きに行くのが一番の目的であるとみんな思ってるに決まってるじゃないか」と。しかし、私はそうは思わない。少なくとも、音楽を第一義にコンサートに向かう人は、ほとんどいなかったはずだ。なぜ私はそう思うのか。

実は、今回の「UTADA UNITED 2006」のコンサートツアーが決まって以降、私はある点に注目して各地の書き込みを観察していた。特にチケット関連の書き込みは、斜め読みではあるものの、いちおうひととおり目を通していた。その“ある点”、とはチケット希望者の席種へのこだわり方であった。当然、みんな「いい席」を取ろうと必死だった。宇多田ヒカルに対して、そこまで情熱を掛けてもらって有難いなぁ、とファンサイトの管理人として思う一方、どれだけ読んでもその中には「音楽を聴きにいこう」という意気込みが感じられる書き込みが、ひとつも見られず、残念に思ったのだった。そう、「SS席希望」とか「前の方で観たい」「後ろのほうじゃHikkiが米粒にしか観れない」という事前の意見はたくさんたくさん見られたのだが、「いい音の席で歌を聴きたい」という趣旨の書き込みは、それこそ1件も僕は見つけることができなかった。見落としてる可能性は幾らでもあるものの、それでもその割合は極端に少ないものだったことは確実だろう。もし仮に僕がチケット希望の旨をチケット掲示板に書くとしたら、まず間違いなく「前から15列目~25列目で、とにかく左右においては真ん中のポジションで“聴きたい”」と書いたことだろう。しかし、ウェブにあふれるほとんどすべての書き込みは「いい席で“観たい”」「前の方で“観たい”」というものだった。つまり、コンサートに行くときに一番みんなが気にしているのは、「宇多田ヒカルをどれだけ間近に見られるか」という点であって、彼女の歌をよりよい状況で聴きたい、とかいうのは2の次3の次だったのだ。(僕なんぞ昔、「ライヴでは半分くらい目を閉じて音に集中してる」といったら「もったいない」とか「変。」とまで言われたものだ。大体、ファンの意識というのはそういう感じなのである。) たとえば、もしコンサートに行く人がライヴ初心者で「どこの席がいい音響なのか判断がつかない」というのなら、どこかで「どこらへんの席なら音がいいでしょう?」という書き込みが散見されたものだろうが、それすらも希少だった。(いくつかはあったが少数であった) ほとんどの人間が「音の聞こえ方」などには注意を払っていなかったことがよくわかったのだった。

ところがどうだ、いざライブが始まったら、やれサウンドが気に入らない、歌の音程がはずれていた、と音や歌についての文句がどんと噴出してきた。単に「事前にそういうことが問題になる、という点に気がつかなかっただけ」ということもあるだろうが、それならまず前置きとして「行く前には考えてなかった点なんですが」とか「私の席はあまり音響的に恵まれてなかったからかもしれませんが」というのが“常套句として”いわれてもいいはずなのだが、そういう感じも全くない。最初にコンサートを「観に」行く姿勢ばかり強調しておきながら、今度は「聴きに」行ったかのような態度を見せるというのは、周りから見ていたら如何にも滑稽であった。それなら「Hikkiが間近で見れてよかった!」とか「舞台が遠かったけど、コンサートの雰囲気が味わえてよかった!」といったほうが、よっぽど“正当な評価”である。自らの事前の自覚のなさや意識の希薄さを棚に上げて今更音楽や歌を「論評しよう」というのは、あまりにもムシがよさすぎやしないか。それなら最初っから「ステージからの距離や角度は関係ない。PAも含め、私はテッテー的に音楽をチェックする」という態度を示しておいてほしかった。だってそうだろう、きてくれるお客さんたちに少しでも気に入ってもらおうと、UtadaUnitedのツアー・チーム総勢100人超は今までもがんばってきたはずなのだ。もし事前にファンからいろいろいわれるポイントが「観る」ことに関する点ばかりだったら、当然見栄えに気を使ってくるだろう。そして、実際そうだった。(そういう点ばかりファンは気にしていた) 仮に事前のファンサイトでの投稿を予め見ていたとしたら、僕がプロデューサだったなら「少々音楽的な点を犠牲にしてでも」という考え方で視覚面を強化していたことだろう。実際、今回のUtaDAUNited2006は、Hikkiの着る派手な衣装は見るからに歌を唄うには適していないし、とにかく彼女はステージを大きく動き回ってできるだけいろいろな席種のひとたちにとって視覚的に興味深いものにしようと必死になってやってくれていた。そのせいで歌が疎かになりがちになるのは想像に難くない。また、発光ダイオードによる大画面を使った映像演出は、音楽とシンクロさせる手法のため、生演奏における制約は相当のものだ。ステージの見栄えの為に、楽器のセッティングの段階ですら制約があったかもしれない。今回の演出は、かなり音楽の出来を「邪魔する」ものになっているといって差し支えないだろう。もし、もし今回のライブに行くようなひとたちが事前にもっと声をあげて「視覚面での演出はまったく必要ない。音楽に集中してほしい」ということを大量にアーティスト側に伝えていたら、事態は全く違うものになっていたかもしれない。それこそ「アンプラグド」のように、音楽に焦点を絞った内容になっていたかもしれない。「そんなことくらい、アーティスト側が読み取ってライヴを行うべきだろう」といわれるかもしれないが、それは無理というものだ。前の段落で書いたように、“実際に声を上げている大多数がライヴを<観に>行く態度を宣言している”のだ。当然、こういう層の反応を大事にするだろう。何を考えているかわからないサイレント・マジョリティより、ちゃんと声を伝えてくれるラウド・マジョリティ(筆者の造語)の方をより重視するのは当たり前だ。もし今後、彼女やバンドのライヴでの音楽面について文句をいいたければ、平素から「そういうファンがたくさんいることを考えてくれ」と言い続ける・伝え続けるしかないだろう。そうでなくば、「かわいいHikkiをとにかく間近で“観たい”!!」という情熱にどんどん押されて、コンサートの内容もそういったファンに合わせたものになっていくことは明白である。よいですかわかりましたか“音楽ファン”のみなさん??



※ 今回のエントリは、“わざと挑発的”な文体で書いた文章ですので、もしこれを読んで感情的になられたとしても、その勢いで反論の文章をこちらに寄越すのは得策ではありませんです。なにしろ、こういう書き方をしている時点で、僕はいろんな“罠”を張って、そういうひとたちの文章を“手薬煉引いて”待ち構えているのですから・・・それでもよい、僕の遊び相手になってくれる、という方がいらっしゃるのなら、遠慮なくどうぞ・・・さぁ、一緒に遊びましょう、ふふふ・・・。(気色悪笑)


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このエントリは宇多田共和国ライブ用掲示板でのレス用に書いたものです。したがってライヴの内容に関する記述が多用されていますので、読まれる際には十分に御一考くださいませ。

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宇多田ヒカルというひとは、とにかく多面的な魅力をもったひとです。これをお読みになっているみなさんが、彼女の虜になった切っ掛けを思い出してくれればわかると思いますが、曲を聴いてファンになった人もいれば、ラジオでのハイテンション・トークに触れて好きになった人、PCや携帯でメッセを読んで初めて興味を持った人、雑誌に乗ってる写真やインタビューに惹かれた人、好きなアーティストのカバーを歌っていたからという人、絵本の翻訳を読んだ人、他にも、テトリスが上手いと知ったから、とか、プロフィールの好きな作家が自分とよく似ていた、とか、もうありとあらゆるアクセス方法、好きになるきっかけがあったと思います。その分、それぞれがファンとして生活していくなかで、ひとりひとりが彼女に求める要素も、多岐にわたるようになりました。UtaDAでデビューした際には、「私は彼女の日本語の歌が聴きたいのであって、何をいってるかわけのわからない英語の歌を聴きたいわけではない」という意見が多数あったのを僕はウェブ上で目撃していますし、他方、彼女の新しい写真が公開されるたびに「かわい~~!!」と黄色い悲鳴をあげるひとたちがたくさんいることも知っています。また僕のように、「音楽やめてもいいからメッセの更新だけはなんとしても続けてくれ」なんて思ってるファンも(わずかでしょうが)存在します。彼女自身の魅力が、メインとなっている音楽(作詞も作曲も編曲もプロデュースも歌唱もピアノも・・・あとギターもねw)だけに留まらず、とにかくたくさんあることの顕れだと思います。

いきおい、彼女のコンサートに求めるものも、その多様性の分だけ多岐にわたっていくということは、容易に想像がつくでしょう。最初に触れた「日本語の歌・英語の歌」云々からすれば、「英語の曲なんか知らない」というファンが一方にいて、もう一方には「EXODUSから全曲やってくれないか」というファン(僕なんかこれに近いかも)もいる。選曲からして大変難しい。その上、ほかのアーティストたちと較べても、非常に音楽性の幅が広い。メタルクラシックス然とした「Kremlin Dusk」と、黒っぽくすらあるR&B路線の「Wonder’bout」を一枚のアルバムに収めて平然としてられる人は、そうはいないと思います。そんなですから、その非常に幅広い楽曲群の中で、どの作風が好きであるかによって、聴き手の音楽との接し方もまた幅広いものになっていきます。彼女のバラードが好きな向きは、もしかしたらじっくり座って耳を傾けていたいかもしれないですし、彼女のハードロックチューンが堪らない、という人は、腕を振り上げて大声で一緒に歌いながらスタンディングでライヴを楽しみたい、と思うかもしれません。もう既に、この時点でそれぞれのファンの立場の違いが明白になるでしょう。

しかし、上記のように、彼女の魅力は音楽面だけに留まりません。そのルックス面に惹かれている人は、もっと彼女を視覚的に演出してほしいから、音楽は脇においておいてほしい、と願っても不自然じゃないですし、ラジオのトークに惹かれてファンになった人は、もっとMCを増やしてあの挙動不審な早口喋りを披露してほしい、と願っているかもしれません。またプロモーションビデオの美しさに魅了されてファンになった、という人は、もっともっとキリヤンの映像演出を前面に押し出して、Hikkiとの融合と相乗効果を狙ってほしい、とそう思っていることも十二分に考えられます。

・・・と、いろいろ書き連ねても、残念ながら宇多田ヒカルのカラダはこの世にひとつしかないわけで。でも、そういった多種多様な願望希望欲求を相手にして、彼女は出来るだけの努力をしてくれています。コンサートといっても、会場の都合などもありますし、永遠にできるわけではありません。体力にも限界があります。そのわずかな2時間の中で、音楽についてのいろんなリクエストに応えよう、自分のキャラクターに対する期待にも応えよう、視覚面での期待にも応えよう、と小さなカラダをフルに活用して躍動してくれています。

・・・なんて書くと、「だから観客は、いろんな欲求をするのはガマンしろ」と書きそうな雰囲気になっちゃいますが(笑)、僕個人は、そうは思ってません。寧ろもっと単純に、それぞれの欲求や希望をはっきりと彼女に、アーティスト側に伝えてほしいと思ってます。彼女の何を好きになるか、っていうのはそれこそファンの側の自由ですし、何より、越えるべきハードルが高ければ高いほど負けず嫌いな性格を燃やして向かっていこうという性格のひとのようなので、何より僕らはそれなりの対価(時間や手間やお金)を彼女に費やしているのですから、それなりの希望を伝えるのは当然であるどころか、義務でさえあると思うのです。

さて、ここで問題になるのは、では、僕らファンのほうはそういう多種多様なファンの「仲間たち」とどう接していけばいいか、ということです。なにしろ、最初に好きになった理由からして違うのですから彼女に求めるものにもずいぶんと乖離がある。今回のツアーは「宇多田ヒカルとUtaDAのUnited」でもあるわけですが、例えばUtadaに興味のない人は、「Utadaの曲なんて知らないから、そのぶん宇多田ヒカルの曲を増やしてほしい」と思うでしょうし、Utadaのファンのひとはその逆、となります。コンサートでやる楽曲数は限られていますから、やっぱりこの両者の利害は正反対、ということになりますね。ということは、この2人はどこまでいっても喧嘩しなくてはいけないのでしょうか。

また、彼女のトークやメッセに魅力を感じている人は、「もっとMCを増やしてほしい」という希望をもっているかもしれません。一方で「彼女のパーソナリティはともかく、音楽は素晴らしいから歌を聴きにきた」という人も、もちろんいるでしょう。やっぱりコンサートの時間は限りがありますから、MCを増やせば曲が減るし、その逆もまた然り。やっぱり、この2派も利害の対立を理由に喧嘩しなくてはいけないのか。

さて。そういった様々な利害をもって、ファン同士が対立したとしましょう。今ならWEB上で(一昔前なら、私設ファンクラブの会合とか同人誌上で、とか、リアルでもあったかもしれませんがね)意見を闘わせたりするでしょうね。で、どちらかが説得力をもち、意見として優勢となったとする。劣勢になったほうは、数で負けているだけで、完全には納得していない。こうなったときに、その優勢になったほうの意見(たとえば、Utadaの曲を演奏する必要はない、とかね)をアーティスト側に上梓したとして・・・さて、Hikkiはどういう反応をするか。

ここからは推測に過ぎませんが、まず悲しむでしょう。ファン同士が反目しあい、対立しあう状況。あんまり好きじゃなさそうです。次に、ではその上梓された意見をそのまま受け入れるか。多少は考慮に入れるかもしれませんが、完全に折れるようなことは恐らくしない。少数といえども、彼女の作品のファンなのですから、たとえばUtadaの曲は1曲減らすけども、2曲は必ずやる、とかそういうことになる。いわば、大して状況は変わらない、ってことになるでしょうね。

ここらへんは、確かにパワーバランスの話になるのですが、こういうことが繰り返されていくと、おそらくそれぞれの趣味に分かれて派閥ができ、ファン同士の交流は硬直し断絶が起きるでしょう。別に特定のアーティストが思い浮かぶわけではありませんけれども、過去にそういう事例は沢山起こってきたような気がします。これは、おそらくかなり高い確率で「Hikkiの望まない状況」に着地すると、僕は推察します。もちろん、アーティストが主観的に何を感じていても構わない、いい歌を唄ってくれさえすればいい、という向きには、それを気にする必要はありません。では、そういうファン同士が反目しあう状況が「Hikkiの望まないもの」であるという僕の推察に賛同してくれ、尚且つ、それはHikkiにとってのみならず自分にとっても望ましくない、と思い、更に、そういうことは避けできるだけみんなが仲良くファンをやれないか、と考える人は、どうすればいいか。それをここから考えてみたいと思います。

そうはいっても、これは非常に難しい問題です。なにしろ、実に多様な価値観を持った人間が、日本全国津々浦々から集まってきているのです。なので、まずは、Hikkiファンにはどういう人種がいるのか、ということを観察し、自分がその中でどういう位置付けにいるかを、最初の最初に確認するのがいいと思います。具体的には、単純に、自分がHikkiの「今まで」のどこが好きだったか、また、「これから」について、何を期待したいのかを内省し、それを掲示板やHikkiへのメールなどで表明することから始めてみましょう。まずは他の人のことはともかく自分のことについてよく考えてみること。そのために、同じように「自分の価値観・立場・意見」などを表明している人たちと比較して(彼ら彼女らの書くことをよく読んで)、どこが同じでどこが違うか、見極めようとすること。もしわからない点があるならば、相手が答えてくれそうな雰囲気なら素直に質問してみること。そういう感じで、自分の「Hikkiファンの中での立ち位置」を明確にしていってみてください。そうすれば、自分がどのファンサイトが居心地がよさそう、とかどういう情報に気を配ればいいか、というのがわかってくると思います。例えば、「Hikkiは英語も喋るし、英語の歌も歌うけど、英語のわかるファンのひとたちとちがって、自分は英語がわからないから、彼女がUtaDAとして何を思っているのか、何を考えてるのか知りたい。」という人がいたとすれば、i_の翻訳BBSでも覗いてくれればいい、とか、そういうことがわかってくるわけです。彼女のルックスとかが気に入ってるならば、VisualBBSにお邪魔するのがいいし、最新の情報をいちはやくゲットしたいならNHWBBSをブックマークすればいい、なんてこともわかってくると思います。そうやって、まずは「平和な棲み分け」ができないか、考えるのがわかりやすいですね。既に多くの人が、こういうことを実行していると思います。

そういうケースにおいて大切なのは、他のひとたちがどう振舞っているか、についてあまり踏み込みすぎないことです。多様な価値観があるのですから、自分とは違う価値観の人の話してること、書いていることが自分の意見と違うからといって、わざわざそれに反論する必要は、最初の段階ではありません。ファンサイトは何十とあるわけですから、そういう人のいる場所をあえて選ぶことはせず、もっと自分にとって居心地のいい場所を探すなり、同じ場所でも、そういう人の相手を進んでしたりすることなく過ごせばいい。発言や介入を他者から強要されるようなことは、この日本という自由な国では本来(理想論としては)ありえないことですし、Hikkiファンサイトという平和を基調とする場所では尚更でしょう。ときには「それは違うだろう」といいたい感情が高まることもあるとは思いますが、まずは、耳を傾けて冷静になり、自分と相手の立ち位置の違い、価値観の違いを見極めましょう。それを踏まえてから反論なり反駁なりをしてからでも、ほとんどの場合決して遅くはありません。

さて、そういう考え方を、今回のツアー会場や、その後の感想なり評価をする場面にあてはめてみます。事態は「同じように考えてもOKな側面」と「そうは問屋が卸さない側面」との両方が浮き上がってきます。ツアー会場内では、「そうは問屋が卸さない」ことが非常に増えます。一番の代表例は、「立って聴くか座って聴くか」という話。自分は座って聴きたい&観たいのに、前の席の人が立たれては、音は聞こえるかもしれませんが、視界は遮られてしまいます。ここで利害の対立が起こる。僕の考えるところでは、この対立は非常に根深く伝統的なもので、宇多田ヒカルに限らず方々で起きていることです。一番理想に近い解決方法は、ZEPPのような会場を使い、一階をスタンディング、二階を座席、という風に棲み分けを物理的にはかってしまうことです。必ずしも座りたい人と立ちたい人の人数配分がその会場の人数配分通りにいくとは限らないので、これが万能の方法とはいえませんが、かなりの場合こういうことをすれば解決するでしょう。んが、だからといって、そのような会場が全国でカンタンに用意できるとは限らないのは明白でしょう。とはいえ、余談にはなりますが、今回のUDUD06のチケットの販売方法にはいささか問題があったと僕が思うのも事実です。かなりの会場で、S席として指定されているブロックは、アリーナ席とスタンド席の両方を含んでいました。このように折角席種ごとに販売を分けてくれているのですから、「S席アリーナ」と「S席スタンド」の2種類を販売してほしかったな、というのが正直なところです。これで、前が見えない、という愚痴や、自分は立って盛り上がりたいのに周りが座って興ざめ、という落胆を、全部ではありませんがかなりの割合で防ぐことができたでしょうに。何かそれが出来ない事情でもあったのかもしれませんが。まぁ、余談でした。

今のひとつの例をとってみても、“物理的な制約”によって、双方の利害が真正面から対立してしまうことがあり、また、それに対する、完全ではないまでも対処法が存在したりしなかったりする、ということは、わかっていただけると思います。

次に、今度は「同じように考えてもOKな側面の話」です。これは、後者の「その後の感想なり評価をする場面」です。これは単純に、たとえば今では掲示板上での人の書き込みだったりするわけですが、先述の「ファンサイト選び」と、ほとんど同じ態度で臨めばいいかと思われます。自分と似た意見があればウンウンと頷き、異なる意見があれば「違うんじゃないかな」と思う。まぁ、それだけなら単純ですが、どうしてもここで、フライングをしてしまうケースが増えてきます。「いろんな意見や価値観があって、それぞれのひとが書いている」ということを踏まえれば、その場所にとどまるべきかどうか、ということから始まって、さまざまな選択肢が可能なんですが、中には、自分の感じたことや、自分の期待や欲求にとどまらず、ほかのファンの方々に対して「こうするべきだ」「こうしなくちゃいけないんじゃないか」という提言にまで踏み込んだ内容が出てくるんですね。

ここで、立ち止まって考えてみるべきなんじゃないでしょうか。ファンとして考えてみなくっちゃあいけない。(←今の言い方はシャレです。ご了承を) つまり、上で「それは違うだろう、と反論したい感情が高まることがある」というふうに書きましたが、これの多くは、「ファンはこうあるべきだ」とか「ファンはこうしなくちゃいけない」という、「自分の価値観の表明ではなく、他者に振る舞いを強要しているように受け取れる内容の書き込み」に対して、起こるものなんじゃないでしょうか。単に自分が「私は立って応援する」と書くだけなら、もし自分が座って聞きたい場合でも、そんなに反発心は起こらない。そこに「だからみんなも立ってくれ」といわれると、「ちがうんじゃないか」と反論をしたくなってくる。ここが問題なんだと思うんです。こうやって、議論は反目と対立を起点として発展することになり、結局不毛になることが多い。非常に非生産的です。

ところが、実はこれは、その起点からして「ちょっとしたカンチガイ」で起こることが多い。実は、最初に書いた人がいささか感情的になり過ぎてしまっているだけで、本当は別にまわりのひとに立ってほしいと強要するつもりなんぞさらさらなかったんだけれど、「ことばのあや」でついついそういう言い方になってしまっただけ、ということが、往々にしてあるんですね。しかしながら、反論してくる人というのは、その“ものの言い方”に焦点を合わせて反論をしてくる。よくよく考えたら単なる揚げ足取りなんですが、とるほうもとられたほうも、そういう解釈はせず、結局、悪意と悪意のぶつかり合いになります。誤解同士の上に積み重ねられる、誰も望まない状況。こうなっては、当人たちもまわりの掲示板の利用者も、疲弊困憊するのが関の山です。

要はだから、自分の意見の表明をするときの、言い方次第なんです。これが僕は言いたかった。ああここまで長かった。(苦笑)

たとえば、僕が今回のUDUD06のコンサートを見て、今剛さんのギタープレイを耳にし、いたく感動した、ということを掲示板上で表明するとしましょう。過去ログを見たら、誰も彼のプレイについて触れてない。あんな素晴らしいプレイを披露してくれたのに、それではちょっと彼が不憫だ、と少々感情的になった僕は、次のように書くかもしれません。「おいおい、お前ら、耳ついてんのか?? 今剛のギタープレイは最高だったのに、お前らシカトかよ?? そんなんで本当に音楽聞きにいったっていえるのか? ヒカルの歌の出来がどうのこうのっていってるけど、じゃあ他の一流ミュージシャンのプレイがどうなってようとお構いなしってなんかおかしくないか? そんな論評振り翳して音楽ファン気取るくらいだったら、今剛の絶品のオブリ耳に入れてから出直して来い。そんなヤツラに音程がどうの高音がどうのなんて語る資格なんてないんだよ。けっ。」・・・こんな感じにね。(^_^; きっと、これを掲示板上で書いたらかなりの反発を食らうことになるでしょう。つまり、今剛さんのプレイをほめているうちに、いつのまにかファンを貶し始めてしまい、挙句の果てには、自分以外のファンの“語る資格”についてまで言及してしまう。最初に自分が今ちゃまのプレイに感動したことを話すにとどめておけば、恐らく、反感を買うことはなかったでしょうに・・・。

これも、ちょっと書き方を丁寧にするだけで、ずいぶんと印象が変わると思います。たとえば、こんな感じ。「私は、宇多田ヒカルの歌に期待していたのはもちろんですが、同じように大好きな今剛さんのギタープレイにも注目してライヴに出かけました。特に、CDではギターの入っていない“Kremlin Dusk”のような楽曲での彼のプレイは、今のところライヴでしか聴けないものなので、貴重であり、なによりそのフレージングが素晴らしかったです!すっごく感動しました。もしこれからまたライヴに向かわれる方がいらっしゃったら、彼のプレイにもちょっと注目してみるのは如何でしょうか。ぐっとコンサートの楽しみが、増えると思いますよ♪」 ・・・ちょっと不十分かもしれませんが(苦笑)、前段落の彼の言い方と比較すれば、かなり好印象だと思います。“自分自身が”今ちゃまのプレイに期待して赴き、そして実際に聴いてすばらしかった、と感想を言い、最後に、あくまでオススメとして、他の人たちに自分の着眼点や価値観を紹介する感じでまとめています。これを読んだ人は、「私は歌を聞きに行くからそんなのは関係ない」とか「なんだ、そういう聞き方もあったのか。しまった、そこまで頭がまわってなかった」とか思うことはあっても、あなたの立場を追い落とすような感情を持った(たとえば「そんな風にライヴを聞くようなやつはこなくていい」とかね)返答をかえしてくる可能性は、非常に低くなるでしょう。これなら、それなりに平和に穏便に、ことは運ばれていくと思います。

しかし、反発をくらった前者の彼も、穏やかな書き口の後者の彼女も、実は「最初に言いたかったこと」は殆どおんなじなんですね。多くの人が今ちゃまの素晴らしいプレイを通り過ぎてしまっている・・・それではもったいないから、なんとかそのことを知ってもらいたい、という最初の感情自体、はね。しかし、その表現の言い方・言い回しひとつで、その後の掲示板の展開は、ガラリと変わってしまう、とそういうわけです。(もちろん、それも僕の妄想・予想に過ぎませんけれども)

同じようなことが、他のテーマについてもいえると思います。たとえば、「宇多田ヒカルはアイドルなのかアーティストなのか」という論点も、一部でテーマとして浮上してきているでしょう。これも、前段と同様「“ファンサイトの選択”のケースと同様に考えていい場面」なんです。かなり派手なアクションを起こさない限り、コンサート会場でのこの両者(アーティスト派とアイドル派)の利害はぶつかり合いません。(うちわなんか持って応援するなよ~雰囲気が壊れる、なんてことはあるかもしれないけれども) むしろ、コンサートを見終わった後の「感想や論評」の場面で、この両者は対立しているでしょう。あっさりいってしまえば、他の人たちが何と思っていようと、自分が「Hikkiはアイドルだ」「Hikkiはアーティストだ」と思い込んでいればそれでOKなわけです。そして、それを素直に表現したり文章化したりすればよい。それによって他者を攻撃したりしないかぎり(応援する資格なんかない、とかそういう言い方をしないかぎり)、似たような価値観の人がみつかり、異なった価値観のひとたちとはうまく棲み分けができていくようになるでしょう。

こういう場面でよくいわれる反論があることも踏まえておきます。いわく「私は、アーティスト派の人間なんだけれども、アイドル派の人間が台頭してきて、Hikki本人を甘やかして“生歌がヘタでもいい”と妥協していい環境ができてしまうと困る。だから、まわりを巻き込むようなことをいいたい。」と。気持ちは、よ~くわかります。僕も、個人的には、彼女にそんな妥協はしてほしくない。もっともっと生歌を磨いていってもらいたい。でも、それを「アイドル派のファン」のひとたちにいうのは、お門違いというものです。第一、価値観が違う。価値観の醸造は何年・十何年・何十年にもわたって行われるものですから、そうそうは覆りません。殆どの場合、相手の価値観の否定をしようとする言動は徒労に終わります。そればかりか反発を食らって、自分の立場を悪くすることに繋がることになる。第二に、これは冷たい言い方になってしまいますが、それを貴方がファンに言う権利は、どこにもありません。なぜかというと、あなたがお金を払ってる相手はHikkiであって、そのファンの皆さんではないからです。つまり、言う相手が違うというわけ。CDをお金を払って購入し、コンサートに時間とお金と手間をかけて参加しているのですから、「生歌を妥協するな。私にとってあなたはアイドルではなくアーティストなんだ」というべき相手は、そのお金を受け取っているHikki本人や、スタッフのひとたちなんです。幸いなことに、東芝EMIには、Hikki本人のみならず、てるざねさんをはじめとしたスタッフあてのメールも受け付けているので、彼らに抗議なり意見表明をするのがいいと思います。そして、そうしたのち、「自分はこれこれこういうことをスタッフのひとやHikki本人にメールで送ったんだが、みんなの意見をきかせてほしい」という風な流れを作れば、建設的な議論が可能になるかと僕は思います。僕個人は、そういうのはやったことないので、これまたまたまたあくまでも推測・妄想に過ぎないのですけれども。

結局、僕らひとりひとり各々がお金も何も払ってないファンのみんなを相手に、アーティストにするのと同じような要望なり希望なりを出すのは些か“行き過ぎ”な感が否めまない、ということです。賛同してくれる人もあれば、乗ってきてくれない人もいる。そこから先をどうこうする権利は、ひとりひとりのファンには、ないのですから。みんな、おのおのの思い入れに従って、アーティストを応援する権利を、等しく持っている。それを第一に踏まえてほしいかな、と思います。以上。


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