無意識日記
宇多田光 word:i_
 




英語には、結構早めに学校で習うし辞書に載ってる意味もカンタンなのに
いざ訳すとなったら困る、という単語がある。
生徒・学生時代に英語の授業宿題テストなんかで実感したことがある方も、
読者の中にはおられるだろう。(小学生以下の人は、これからだよ~w)

今回取り上げるのは双方動詞の「find」と「sound」。
たとえば、こんな文章だ。

1.「I found it good.」
2.「It sounds good to me.」

直訳すると
1は「私はそれがよいと見つけました」、
2は「私にはそれがよく聞こえます」となる。各々、
なんとなく意味はわからなくはないものの日本語としてはやや不自然な1と、
日本語としては意味が通りそうなんだが違う風に捉えられてしまう2と、
それぞれ理由は違うが、もうひと頑張りして訳さないといけない文章だ。

1.「私はそれがよいのだとわかりました。」
2.「私にはそれがよいと思えます。」

これだと意味が通るだろう。
何故それぞれ訳が厄介なのか軽く説明しておこう。

1については、日本語では「評価」は見つけるものではないのがポイントだ。
itのさすものの「よしあしを判断した結果」は「見つかる」より「わかる」が適当。
だから、findの本来の訳である「見つける」より「わかる」を当てた方が
日本語として自然というわけ。逆にいえば英語では個々人の評価とは見つける、見つけ出す
何かだということになる。

2については、特にこの例文だと「good」という形容詞だから難しい。
日本語で「それがよく聞こえる」という風に書いてしまうと、
「聞こえ方が改善された」と物理的な聴覚の話と思われてしまいそうだ。
しかし、ここでのsoundは、1のfindと同様、ひとが何かを評価したときに
使われる英単語なのである。だから、「聞こえる」より「思える」を使った方が
日本語として自然になるというわけ。ここでも、英語においては
個々人の評価は「聞こえる」という単語に押し込まれる何かだということになってくる。

当然、ここで疑問がわく。
上記のように、findもsoundも、ひとが何かを評価するときの単語だとすれば、
それらが「わかる」と「思える」に分かれてしまうのは何故なのだろう。

答えは結構単純で、findを使うときは、既に実際に評価が出てしまっている場合、
たとえば「I found that Utada is great !」となれば、
「Utadaが素晴らしい」という事実を実感した“後”の話である。
(だから過去形のfound若しくは完了形のhave foundで使われることが多い)
soundの方はといえば、逆に、これから実際の評価を下そう、或いは予想・期待しよう、
そういう場合に用いられることになる。

「It sounds great!」といえば「それは素晴らしい(と思える)ね!」となるのだが、
そこには「これから起こることへの期待感」~「きっと素晴らしいに違いない」という
感情が隠されていることに注意しよう。その期待に見事応えてくれた場合、
「I found it great !」となって「やっぱり最高だった!」という結果が生じる。


まとめておこう。
findは、既に起こったことについて感じた評価や感想について「わかった」ときの単語、
soundは、これから起こることやもしくは伝聞で知ったこと、、、つまり、
まだ自分が実感してないものに対して想像力をはたらかせて評価や感想を述べるときの単語、
ということになるのだ。


さて。ココからが今回の本題。(ここまでだけじゃ単なる英語の授業だもんね)


僕が着目したいのは、ここで、findという単語が「見つける」つまり、
もともと目で見る、ということから派生したものである一方、
soundが「聞こえる」、耳で聞く、ということから派生した単語である、という事実だ。

ここから推測できるのは、ひとは耳できいたものを不確かなもの、目で見たものを
確かなものだ、と漠然と捉えてる様子が窺える。他の言い方をすれば、
耳で聞こえたことは、何かを予兆として感じさせるものであって、
目で見たものが、その予兆の正体だと解釈する傾向がひとにはある、というわけだ。

実際、進化の上で生き残ってきた生物の立場としてみてみると
聴覚が発達したのは“距離を隔てた危険を予め察知して先んじて行動する”という目的が
あったからだろう。だから、このfindとsoundの使い分けはわかりやすい。
目で敵を見つけた場合は、もう目の前に危険がやってきてしまった後というわけだ。

さて、そんな進化のサヴァイヴァルを抜けて数十億の個体をもつほどに繁栄した人類は
その余暇を謳歌する為にその聴覚を利用した音楽なんていう余技を持つに到るわけだが、
音に対するそういった感覚自体はそんなに変わるはずもない。
「予め察知する」能力を大きく発達させ「大いなる想像力」を持つに到った人という生物。
だから音楽を聴いたとき人は様々なな想像力を駆使して
作品が表現する情景を思い浮かべようとする、或いは自然に思い浮かべる。

これは、たとえば一枚の写真や絵を見たときの反応とは少々違う。
静止画に対してまず我々が行うのは、ありのままを見ることだ。
普通そこで止まってしまう。次にはその絵がどういうバックグラウンドをもって
そこに登場したかを知ろうとする。ストーリーを想像しようとするわけ。
絵の中の登場(人)物が動き出し、そこで漸く音をつけようとする。
音(音楽)をきいて視覚的な補完をするのは比較的容易(頻繁)なのに、
絵を見たあとに聴覚的な補完がされるまでには随分と距離がある。
これは、上記の進化上の理由からみれば自然なことだ。
まずひとは音を先に聞き、目で見て確信する。
soundは推測による理解であり、findは確定されたものを認識する行為なのだ。
目で見てしまったものに対しては、もはやその予兆だった“音”については、
基本的に不要であるわけ。順序として音→光だから、
音から絵を想像しようとはしても、
絵から音を想像しようとはなかなかしないわけである。

だから、娯楽としては、どうしても音楽は脇役になりがちだ。
それ自体「予兆」や「想像力」の為の存在である聴覚を基本にしているのだから
何か常に「物足りなさ」も不可避的に付随してしまう。
TVとラジオの現在のポピュラリティの差、音楽と映画産業のスケールの差を
みれば明らかだろう。いつでも主役はTVドラマや映画のほうであって、
音楽は脇役や添え物であることが多い。音楽は「バックグラウンドミュージック」として
部屋で流しておくことも多いが、映像を「バックグラウンドビデオ」として
流しっぱなしにする人は、相対的には少ない。(私はときどきやるんだけどね)
もちろん、これは感覚入力のモードの差も原因だ。音はどこを向いてようが360度耳に
入ってくるのに対して、映像を届けてくれる光は画面と相対してなくては目に入ってこない。
「バックグラウンド」というからには何か他のことをやっているときのついでなわけで、
“常に画面とカオを向きあわさなければならない状況”を強いる映像というモードは、
やはり「主役」としての強引さがよく似合うのだ。

そして、目で見る、ということは受け手にとって一番の説得力をもつ。
soundが推測や期待を背負ってるのに対して、findは確信を背負っているのだ。
映像で見せられて初めてわかった気になる、納得する、という感覚を、
ひとは少なからず持っていると思う。銃声を耳にするより、
実際に銃を打ってる姿を目にするほうがインパクトは絶大だ。
(銃声だけなら「聞き間違いかもしれない」と思えるが、
 姿を見てしまったらもう逃れられない。そういう“説得力”が視覚にはあるわけである)
やっぱりここでも聴覚は前座や露払いであって視覚がご本尊、そう捉えられている。


では、ここで発想を変えてみよう。
TVドラマや映画から音を抜き取ったらどうなるか。
TVをミュートしてみたことがあるひとならわかると思うが、
これが思いのほか居心地が悪い。ポケットラジオやラジカセなんかには
「TV音声」というのがついてることがあるが、内容によるとはいえ、
なかには「あぁ別に映像なくっても面白いじゃん」と思えるものすらあるのに、
映像だけになって楽しめるものというのは途端に減る。音なんて主役どころか
殆ど舞台に立つことがないスポーツの中継だって、声援や打撃音、実況がなくなったら
途端に心落ち着かない状況になったりする。確信を与えるはずの視覚刺激だが
今度はもし視覚のみになって聴覚が消え去ったら足元をすくわれるかのように心許なくなる。

同じようなことが、たとえばマンガなんかでも起こる。
マンガにおいて例えばセリフと擬音を一切排してコマが進む状況を想像してみよう。
実際効果としてそういうシーンを取り入れたマンガだってたくさんあるだろう。
そういうとき、あなたはどういう気分になったか?
さっきまで自分もストーリーの中に入り込んでまるでそこに自分もいるような
感覚すら持ってたのに、音(セリフと擬音)が遮断された途端、
まるでそこに「取り残されたような」感覚にならなかっただろうか??
そして、また音(セリフと擬音)が戻ってきたときまるで「生き返ったような」
「止めてた息をやっと解放してあげたような」心地になったのではないか。
本来確信を与えるはずの視覚が、(聴覚を除いた)それ単独では不安を醸造するのである。

これは、音(聴覚)のもたらす大きなメリットが「臨場感」である事を示唆している。
先述のように視覚とは「カオをそっちに向けないといけない」ものだ。
映像表現とは2次元だから、常にある一面でだけ展開される。
この、「対象と相対する」という感覚は、裏を返せば「私と向こう側」という対比を
イヤでも自覚させられる。だから、マンガが単なる絵の羅列になったときは
どうしても「私と向こう側」という感覚が押し出されることになり、
ひとは「疎外感」を覚える。音が遮断されたときの居心地の悪さの正体はそれなのだ。
一方、音とは(これも先述のように)360度どこからも流れてくるものである。
だから、たとえ脳内で変換されたものであろうと(というのも、
マンガは実際に音が鳴るわけではない。セリフも擬音もひとが脳内で
実際の音に(ほぼ無意識に)変換して“頭の中で鳴る”ものだからね)、
そこに音があることによって、ひとは“その世界の中に飲み込まれる”。
セリフと擬音が戻ってくることによって、また読み手はマンガの中の世界観に
入っていけるというわけである。


この、視覚と聴覚の関係から生み出される“疎外感”を
最も象徴的に表現してあるのが、あの“For You”の冒頭の一節だ。


> ヘッドフォンをして
> ひとごみの中に隠れると
> もう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの


「ヘッドフォンをし」たら、何が起こるか。
たとえひとごみの風景を目の当たりにしているその瞬間であるとしても、
その雑踏の音・ノイズは全く耳に入ってこないのである。
聴覚が遮断され、視覚のみになることによって“ひとはその世界から疎外される”。
そして、ヘッドフォンから流れてくる音楽が、ひとごみの中においてすら、
“私”を別の世界へと連れて行ってくれる。
その感覚が見事に表現された歌詞だ。
音が、音楽が、歌が如何にひとの孤独を癒すのか、
このときのヒカルは感覚的にわかっていた。だから、

> 君にも同じ孤独をあげたい
> だから I sing this song for you

と歌ったのだ。


*****


ここまでの一連の話の流れの中には、物事の本質を掠める強烈な皮肉があるように思われる。
確信を表現するfindとは「みつける」、つまり視覚なのであるが、
その視覚のみによる表現に、ひとは心許なさと疎外感を覚える。
推測や期待を背負うsoundは「きこえる」、聴覚だが、
対象の存在そのものではなく、それを“におわせる”役割を果たしている音に
囲まれることによって、ひとは世界の“中”の自分という存在に気付ける。
極端にいえば「生きた心地がする」のだ。
(先程、視覚のみの世界にいるときを“まるで息を止めているかのよう”と
 喩えたのは、これと対応していると思ってくれぃ。)

ひとが心に確信をもつとき、「わかった!(I found it !)」と叫ぶ。
もともと「わかる」というのは「分かる」と書くのが最初だ。
混沌とした世界の中で「AとBを区別する」「分けて捉えられる」、
そういった感覚の集大成が「わかる」なのである。確信や理解とは区別・分離なのだ。
実際、乳幼児の認知成長過程において起こるのは「区別」「世界を分けること」の
連続である。小さい頃、世界と自己の区別なんてなかった。また、
誰か特定の人(母親であることが圧倒的に多いが)に育てられたとき、
その人と自分は一体で別の個体であるとは赤子は思っていない。
「自分という存在」と「外の世界」が別のものであるという感覚が
襲ってきたとき、ひとは初めて「わかる」ことを知る。
「母との別離」もまた、その「わかる」過程の上で最重要である。
いわば、「わかる」とは、“自己と対象が一体でなく、離れて相対する感覚”のことを
指すのだということだ。視覚とは、これを最もよく表現する。
我々は、映像表現の起こる“画面”と相対する。世界と私が別離している状態だ。
この別離が「理解(わかる)という名の確信」なのだとすれば、
世界を理解するとは、世界から疎外されることに他ならない。

一方、「音」は僕らを世界という舞台の“中”に引き戻す。

それが示唆するのは期待であり予兆である。
音は、映像と記号(言語)のちょうど中間的な役割を果たす。
記号の本質とはそれが常に代替であることだ。
「太陽」を表現する記号は何であってもかまわない。
「おひさま」でも「the sun」でも「Die Sonne」でも「Le soleil」でも構わない。
手近にあるピンポン玉をとって「これを太陽だとしよう」といってもOK。
それもまた立派な言語表現のひとつである。点字で打ってもよいし、
手話で表現してもよい。モールス信号で伝えてもいいし、
狼煙を上げたっていい。しかし、ただひとつ、「本物の太陽」だけは、
太陽を表現する記号とは成り得ない。必ず、本物の太陽から乖離した存在だけが
太陽の記号表現として成立する。

音もまた、“対象そのもの”の代替的存在ではある。
しかし、それは必ず実際に本物から放たれたものだ。
予兆や期待を促すからには、音の先には対象そのものが存在することが大前提である。
記号(言語)は、対象そのものから離れれば離れる程よい。
しかし、音は必ず対象そのものと繋がっていなくてはならない。
対象そのものとの繋がりを持ちつつ、でもそれそのものではない、という
中間的な位置に、「音」は存在するわけである。

勿論、映像にしろ音楽にしろ、フィルムやCDという存在が媒介しているので、
「実際に光や音を出した何か」から受け手までの距離は、
とんでもなく長くなってしまっている。映画というジャンルに到っては、
その長過ぎる距離を利用して受け手を錯覚させようという技術を開発することで
発展してきた。(SFXとかVFXとかセットとかカキワリ背景とかスタントとか)
いわば最も欺瞞的な存在なのだが、だからこそ娯楽として成立する。
(ネズミーランドとかテーマパークって欺瞞の最たるものだもんね。楽しいことこの上ない♪)

話をやや戻そう。
一方で音楽は、ひとを騙すこと(いい意味でね)を主眼とした娯楽ではない。
CDやラジオを間に挟むのは物理的な制約が理由であって、
送り手も受け手も、できるならライヴで届けたい、受け取りたい、と
思っているケースが非常に多い。でなくば、何度も音楽を味わえるCDの
3倍くらいお金が掛かるのにたった1度2時間前後しか楽しめないライヴコンサートに
あんなに沢山のひとが押し寄せるはずがない。音楽は生が、“目の前の”真実がいいのだ。

映画は、音楽や効果音、セリフによってひとをその世界に引きずり込むものの、
やはり2次元の「画面」というものによって、「私」と「中の世界」を隔絶する。
だから、夢物語やウソみたいな映像表現も楽しめる。錯覚の中に踊らされる楽しさを
人間は知ったのだ。映画の中の世界とこちらは隔絶されているのだから安心である。
音楽は、ひとをその世界の中に直接引きずり込む。だから、そこにウソがあってはならない。
楽器はちゃんとその場で演奏しないと、歌手はちゃんとその場で実際に
きこえてるまんまに歌っていないと、人は怒る。口パクが蔑まれるルーツはここにある。
(ルーツがここにあるだけで、今実際に口パクに怒ってるひとたちは、
 単にそれが「悪いこと」だと認知されていることだから習慣として怒っているのが殆どか)
 



目で見る確信が「わかる」という感覚を背負わせるfindと
耳で聞く予感が「思える」という感覚を担わせるsoundの話から、
随分と四方八方に飛び散ってしまった。ひとつもまとまっていない。(汗)
珍しく書いて疲れたので、尻切れトンボだけど、ここで一旦アップします。ごめんよ。

将来この書き散らした中でちゃんと書き直せることも、あるのかなぁ・・・。




P.S. あ~また日付跨いじゃったぁ。というわけで、投稿時刻はウソです。
   本当の投稿時刻は「2007-06-17 01:32:51」ね。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )