無意識日記
宇多田光 word:i_
 



安直に考えると、例えば光の両親のいずれか或いは両方が男児の誕生を願っていた、なんてケースも有り得る。口に出して言わなくても、時にそういう事は何となく子どもに伝わってしまうものだ。大人の顔色を窺いながら生きてきた幼少時の光にとっては親の心もお見通しだった可能性がある。

そう考えれば、27にもなって胸ぺったんこの自画像を描いて「私女の自覚ない」と光が嘯くのも合点がいく。親からの愛情を受ける為に光が成りたかったもの、それが"少年"なのだ…

…やっぱり安直だな…

…まぁ、そうだとしてみよう。ならばBeautiful Worldに出てくる夢見てばっかのBeautiful Boyは誰という事になるか。夢見させるより愛を見せてと云うのが光だ(いつか結ばれるより今夜一時間会いたい、とかね)。夢見てばっかの少年は、現実の光から最も遠い所にある。

そんなものに、本当になりたかったのかなぁ…この話、前提となる仮定にかなり無理があるんだな。

女としての光のモデルはお母さんだろう。まぁ、これは女親に育てられた多くの女性にとってそうであろうが、光の場合本当に高い所に居る母親だから、その憧れたるや半端ではなかっただろう。今でこそ歴代最高売上記録を持っているから親子としてタメ張れてるが、小さい頃の光には当たり前ながらそんな実績はあるわけもなく、ただただ偉大な母であった事だろう。そんな伝聞の数字なんぞ耳にせずとも、あの背中を見て実際に育ってきたのは大きい。光が大人の女性として成長していく時、「母になる」事が何よりも肝要だった。嵐の女神で"私を迎えに行く"のはまさに自分が自分の親になる事だったのだから。

では、光にとって父親とは何であったのか。仕事を始めてからはマネージャー兼プロデューサーという事で恐らく、人生の時間の中で最も一緒に時を過ごした男性だろうが、幼少時は一体…? 何だか、ここの情報が欠落しているかもしれない。

例えば、他の家庭の父親とその息子がキャッチボールなんかして一緒に遊んでるのを見て、そうか、男の子だったらお父さんとあんな風に遊べるんだ、と考えて"男性化願望"の芽を植え付けられたかもしれない。父親と娘、というのは年齢ごとに様々な微妙さを孕んでいそうだが、5、6歳位までは大きくて逞しくて頼りになる、でも怒ると怖い、でも私には優しい、みたいなストレートなイメージを抱くものなんでないだろうか。ズバリ父親は娘にとって"甘えられる存在"であろう、なんて紋切り型の口上を述べつつ、光の甘え下手の話をしてみるテスト、というのが真っ当な展開なのだが、そんな我田引水でいいのかなぁ。

だって、ここから「父親にうまく甘えられなかったお陰で大きくなってからも恋人や夫にうまく甘えられない」だなんて分析に入っちゃうんだからねぇ。幾ら何でもあんまりな気がする。

今回は無謀な仮定を前提にしたのが間違いだった。しかし、万が一この考察が真実を掠っていたらどうしよう、と余計な事も考えてしまう。どうなんだろう。本当の所は勿論わからない。この点は直接光に訊いてみたいな。

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少年  


心理学の話になるのかもしれないが、男児にとっての男親と女親、女児にとっての男親と女親の在りようによって、人の以後の愛情関係は異なっていくように思われる。

光の場合女児であり…

…と書くと世の中には男と女しか居ないみたいにきこえるが、遺伝子は、自然現象は自由である。何らかの繁殖能力があれば生き残るし、それらから常に生まれ得るなら個々の個体が直接繁殖能力をもたなくても永続的に存在し得る。その無限のグラデーションの中で自然選択的に男と女というカテゴライズが圧倒的多数を形成したに過ぎない。少数派とはしばしば、その圧倒的多数の存在に対して必然的ですらある。その点は踏まえておかなくてはいけない。

で、光の場合は女児として母親に接し、父親と行動を共にしてきた。一人っ子であり、引っ越しを繰り返した為常に行動を共にするような親友も居なかったのではと推測される。飛び級もしたし、小学校の頃の友達の話もきかないし。もう少しあとになって、恐らく日本で同性の親友と呼べる人をみつけ今に至るという感じ。

なので。この物語に"少年"は出てこない。光にとって少年のロールモデルとは何なのだろうか。ここでいう少年とはBeautiful Worldに出てくる少年マンガを読み耽るBeautiful BoyでありStay Goldであなたの瞳の奥に潜む少年であり、Goodbye Happinessで甘いお菓子が消えた後に寂しそうな男の子である。「彼」は一体、誰なのか。

歌詞に出てくる登場人物には偏りがある。芸風によっては語り部たる老人が頻繁に登場する事もあるし愛人だらけの事もあるし妻への愛ばかり歌う人だって居るだろう。光の歌詞でも、登場人物には偏りがあって、多分最多出場は光本人をモデルにした誰かであろう。性別や年齢や生まれ祖田の環境や。あと名前を呼ぶのはお母さんか。Mamaとか母さんとかママとかお母さんとか。

となると、やはり光の人生の中で少年の登場する余地がない。勿論、もしかしたら小学生の頃好きな男の子が居て、でも手が届かなくてとかそんなエピソードもあるかもしれない。ただ、インタビューでそういう話が出たという記憶が私にはない。知ってたら誰か教えて欲しい。

反対側に妄想を振り切る事もできる。光にとって"少年"とは徹頭徹尾フィクションなのではないか。人生における様々なフェイズの中で、少年という項はとても影が薄いのではないか。いやそりゃ全く交流がなかった訳ではないけれど、光の人生に目立った影響を与えてこなかったのかもしれない。

そういう影響の薄い存在であったとして、ならば何故歌詞でこういう描写をされるのか。また次の機会に考察します。

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