無意識日記
宇多田光 word:i_
 



もう一度該当箇所を引用しておこう。

『「タイムイズマネー」
 将来、国家公務員だなんて言うな
 夢がないなあ
 「愛情よりmoney」
 ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
 愛があれば』

続いては、「愛情よりmoney」の方である。文章全体が英語であるのに全部カタカナで書かれた『タイムイズマネー』に対して、こちらは日本語の文章に差し挟まれているのにも拘わらずアルファベットで"money"と書かれている。これはいったいどういう事なのだろう。

一義的な理由はわかるのだ。それは明白である。実際の歌では、この部分の『money』は"マネー"ではなく"モニー"と発音されている。モニーと言っているのにマネーと書く訳にはいかない。しかし、アルファベットでmoneyと書けばこれの発音は[mΛni]であるから"モニー"だとしても不自然ではない。

とはいえ、ここでの光は日本語的に"モニー"と言ってしまっている。それを歌詞カードにそのまま書いたってmoneyだとはわからない。一方でマネーと書いてしまってもそれも嘘。結局アルファベットでmoneyと書かざるを得ないのである。

それはいい。一義的には、"モニーと発音してるから"で表記がmoneyである事の説明にはなっている。しかし、当然の事ながらそれなら「なぜ光はここでmoneyをモニーと発音する必要があったのか」という疑問が生じてくる。これが、発売から6年経とうとしている今でも、さっぱりわからないのだ。

同じメロディーの他の箇所を調べてみよう。「愛情よりmoney」と同じメロディーなのは、

『I don't care about anything』
『無い物ねだり』
『何度でも期待』
『大切な命』
『タイムイズマネー』

の5つである。この中で更に『モニー』と同じ場所なのは、『anything』、『だり』、『きたい』、『いのち』であるから、"語尾をイの段で揃えたい"というのはわかる。anythingはanyでもエニーだしthingでもシン(グ)だからやはりイの段だ。となればmoneyも"ネー"ではなく"ニー"にすればいい。

しかし、それなら"マニー"と発音しとけばいいんじゃなかろうか。そっちの方が日本人には「ああ、moneyだな」とわかりやすい。わざわざ『"モ"ニー』と発音してるのは何故なのか。謎である。

実際、筆者が最初に聞き取った時は「愛情よりmorning」か何かと思ったものだ。意味が通じないからすぐ棄却したが、歌詞カードをみてそれがmoneyだと知り吃驚した次第。

該当する場所の音を拾ってみてもそれぞれ『"エ"ニー』、『"だ"り』、『で"もきた"い』、『"いの"ち』であるから、必ずしもオの段で揃えている訳ではない。ますます謎が深まる。


普段ならここから考察を展開してその謎を解き明かす所なんだが、こればっかりは本当にわからない。また何か気がついたらその時あらためて書くぜ。情けないエントリーですみません。うひー。

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『「タイムイズマネー」
 将来、国家公務員だなんて言うな
 夢がないなあ
 「愛情よりmoney」
 ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
 愛があれば』

正直に告白すると、この部分の歌詞はいまだにさっぱりわからない。

構造として、鍵括弧で括られたフレーズと、それに対する反論で成り立っているというのはわかるし、それで言わんとしている事も伝わってくる。なので、意味的に破綻しているとかそういうのではない。

わからないのは、そうだな、まず1つ。歌詞カードでは「タイムイズマネー」になっているが、実際に歌っているのを聴くとどうしても「タイムイズントマネー」に聞こえてしまう点だ。"Time isn't money" だな。時は金なり、に対して時間はお金じゃないと言っているように聞こえる。勿論、今触れたようにキャッチフレーズとその反論で構成されている以上isn'tではなくisでなくてはならないのだから本当はisn'tとは歌っていない筈なのだ。ここもそのまま解釈すれば「字足らず」というのが正解になる。元来、『I don't card about anything』の尺に当てはめるには『Time isn't money』では短すぎる。どこかにしわ寄せ(というかしわ伸ばし、かな)が来る、のはわかるんだがそれにしてもよりによってイズとマネーの間にンを入れるとは…いや私もじゃあどう歌詞を乗せればいいか、っていうと「う~ん、やっぱりこうする他ないよなぁ」となる。もしかしたらヒカルも、ここは妥協したのかもしれない。

なにしろ、本来の英語で「Time is money」と歌ってしまうと半分以上メロディーが余ってしまう。「Time is money, you know.」くらい簡単に入ってしまう。これでも余るくらいだ。だが、ヒカルとしてはここは英語でなくカタカナで、日本語で書きたかったのだろう。Time is moneyに何か続けるとキャッチフレーズというよりは英語の文章になってしまい、伝えたい事が伝わらなくなってしまう。そして、タイムイズマネーと歌詞を載せると音符が一個しか余らない。その為の窮余の一策としての"ン"だったと考えられるのだ。

2つめの疑問については、また次回ということでひとつ。

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まず『Lady, レッツゴー』の方だが、ここの書き分けの理由は案外単純じゃないかとみる。実際の歌の発音としては英語で「Lady, Let's Go」と言っているというよりは、日本語発音で「レイディ、レッツゴー」と言っているように聞こえる。ヒカルは敢えてカタカナっぽく歌っているのだ。しかし、もし日本語の「レディー」を歌詞カードに掲載してしまうと、もうひとつの「レディー」、即ち準備OKの「Ready」と区別がつかなくなってしまう。ならばということで、発音はカタカナであるにも拘わらず表記はアルファベットにしたのではなかろうか。

そもそも、この「Lady, レッツゴー」自体、本来日本語でもよく使う「レディー・ゴー(Ready, Go)」のパロディとして置かれているとみた方がよい。歌詞カードを見ずに歌だけ聴いている人の多くが、ここの部分を「Ready, Let's Go」だと聞き取っているものと思われる。そして、きっと"それでいい"のである。

ヒカルは、恐らくこのキプトラの歌詞を耳で聞き取ってもらっただけで全部正当に解釈して貰おうと思っていないのだ。寧ろ、どんどん聞き間違いをしてくれれば位に思っている。「空耳上等」の気構えだ。『退治したいよ』だって『どんぶらこっこ』だって、そのまま受け取って貰えるとは考えていないだろう。特に『どんぶらこっこ』の方は、以前指摘したように本来の日本語の「どんぶらこっこ」からはイントネーションがハズれている。聞き取って貰おうという方が無理だ。

ヒカルからしてみれば、歌詞というのはリズムとメロディーとライムにまみれた"ことばあそび"であるから、聴いたまんまを口ずさんでくれればOKなのだ。深い意味なんて、わざわざCDを買うようなコアなファンが考えればよい。『国家公務員だなんて』だって、本当は歌詞の音韻要請からこの箇所にカ行攻めを入れたくなったというだけなのに(いや、"だけ"というのは語弊があるな、それもあった、くらいか)、そこの意味を厳密に捉えて論つらわれるだなんて、心外もいいところだろう。結局、そういう"言い訳"は、今に至るまで口にしたことは、ないけれど。

勿論、正確に歌詞を把握して貰える事自体は歓迎なのである。実際、『Lady' レッツゴー』だって、よく聴けば『レイディー、レッツゴー』と発音しているのだからReadyじゃなくてLadyである事は歌詞カードを見なくてもわかる(Readyはレディーであってレイディーと発音する事はない)。伝わるなら伝わるに越した事はない。が、伝わらなくてもそれはそれで面白いじゃん、というのがヒカルの作詞上での考え方なのだと思う。

その点を踏まえた上で、次回「マネー&money」に行けたらいいな、って。(←弱気めな奴)

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気がついたらまるまる3週間ほぼキプトラの話で来てしまった。それじゃつまんないという感想もうただいた。ありがたいことだ。というわけで勿論今日もキプトラの話です。

タイトルがKeep TryingではなくてKeep Tryin'なのは語尾が尻下がりにならないようにというヒカルの配慮だったという話。そういやそんな事言ってたっけな。となれば何故歌詞の方は"keep trying"になっているかの理由は瞭然、ここのメロディーが悉く尻下がりだからだ。ヒカルにとっては音の並び、アクセント、イントネーションと歌詞の文字表記は大きく繋がっているようだ。

思い出すのはWINGSでスキャット(ハミングといった方がいいか…いやどっちでもいいな)の部分を「ラララらララ ラララヲウヲオ」と書いていた事。歌っているのを聞いてるだけではわからないが、歌詞カードをこうやって読むと、「『大好きな作家の本』って宮沢賢治?誰だろう?」という妄想が膨らむ。ヒカルにとってはこの歌詞のない空間が、特定の情景と結び付いているのかなと"読者"に思わせる。恐らく、音だけ聴いている人にはそれはそれで完結した風景を見せてくれているのだろうが、歌詞カードまで読む人にはもう一歩踏み込んだ所まで推察して貰おうという配慮だろう。

同じようにMaking Loveでも…と話を続けると再現がないのでキプトラに話を戻すと、ここでは英単語のカタカナとアルファベットによる書き分けがある。これは、宇多田家、もとい、歌だけ聴いていたのでは違いに気付かない。発音では区別していないからだ。

例えば『Lady, レッツゴー』はLadyはアルファベットでレッツゴーはカタカナだ。『「タイムイズマネー」』と書いておきながら次の時には『「愛情よりmoney」』とわざわざ日本語の文章でmoneyとアルファベットで書いている。同じ単語でもカタカナ表記とアルファベット表記を使い分けているのだ。そう考えれば、『ハングリー』だってアルファベットのhungryでもよかったんじゃないのとか考え始めてしまう。いったいどういう事だろう。次回はそこらへんの所を子細に分析してみたい。

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推理という名の妄想を暴走させすぎてしまったきらいがあるので、翻って歌詞の話を短く羅列していくスタイルで今回は行ってみる。

・何故タイトルは「Keep Tryin'」なのに歌詞は「Keep Trying」なのか。つまり、アポストロフィで省略する事なくgを書くのか。正確な理由はわからないが、ひとつには『I don't care about anything』のanythingと見た目で語尾を揃える為というのがあるのではないか。英語じゃtryin'とは書いてもanythin'とは書かないからね。私は気にせずtryin'も併用している。まぁ、何か理由に気がつけばその時点でまた考えるよ。

・その"anything"と韻を踏んでいるのが3回目のサビの『大切な命』の『命』。[aniθin]と[inot∫i]…って書くと逆にわかりづらいか。各々母音で始まり(『え』と『い』)、二文字目の子音はエヌで、最後が『しん』と『ち』だ。カタカナで書くとますますわからないが、"thin"と"chi"である。まぁ、耳で確かめるのがいちばんだ。(逃)

・2回目のサビの『ちょっと遅刻した朝もここからがんばろうよ』は、自然な日本語を求めようとするなら「そこからがんばろうよ」になる筈である。なのに何故『ここ』なのか。平仮名に開いて『ちょっとちこくしたあさもここから』と書くとわかる。ちこくの"こく[koku]"と"ここ[koko]"を合わせてカ行で固める為だ。勿論これは例の4回目のサビの『国家公務員(こっかこうむいん[kokka-koumuin])』でのカ行攻めへの布石となっている。

・同じように、2回目のサビの後半部分は『何度でも期待するのばかみたいなんかじゃない』の『期待(きたい)』と『みたい』が完全に韻を踏んでいる。3回目のサビの『気にしぃ』と『少し』も同様である。


ひとつひとつのネタはどれもさりげないが、これがまた有機的に絡み合っていく。今後今回紹介したネタをもう一度詳細に立ち入る事もあるかもしれない。取り敢えずまぁ乞うご期待。

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さて、今私は自分で仮説を立てておきながらそれを自分で覆すという左足で右足を踏むような馬鹿げた隘路に陥っている。

具体的には、キプトラの2回のAメロの歌詞がどういう順序で出来上がってきたかという推理において、その起点として考えられるのが2文出てきてしまったという話だ。

『ホントは誰よりハングリー』

『毎朝弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』

の2文である。単純に音韻構成だけを考えると「退治」から出発した方がいいのだけれど、そもそも最初に置く文は音韻に囚れずより自然な日本語になるだろう、という推察に依拠すればそこはすぐさま「ハングリー」に軍配が上がる。つまり、それだけ「退治」の方は日本語として奇異に映るのだ。

そもそも、文章の意味が判然としない。そのまんまを読んでしまうと、退治するのは鏡になってしまう。ここをそう解釈してはいけない。弱気めな素顔映す鏡を例えば壊すというのなら、それは自分の弱い部分から目を逸らす現実逃避行動になってしまうからだ。この歌にはそぐわない。「(思わず)退治しちゃうよ」だったら、まだわかるんだが。光の歌においては、ホテロビにあるように鏡というアイテムはそこに映っている姿がどうであれ真実の自分を見いだす為に登場するのだから、ここで退治したいのはやはり弱気めな素顔の方だと解釈するのが妥当だろう。こんな注釈を考えなきゃいけない時点で日本語としてはやはり少々不自然だと考えざるを得まい。

また、その『弱気め』というのもちょっと耳慣れない語感である。すぐに思いつくのは、ただ『弱気』だったら尺が足りなかったのではないかという推理だ。『弱気めな』と同じメロディーであるもう一箇所は『少し(ィ)ヤに』だから韻を踏んでいる訳でもないし。

こう考え始めると、やっぱり「退治」の方があとから出来たのかな、となってくる。やや整合性のある見解として次のような過程が考えられる。最初この場所には同じような意味だが違う言葉が当てはまっていた。例えば「恨めしいよ」でも「ガッカリしちゃうよ」でも「なんとかしなくちゃ」でもなんでもいい。しかし、他の所を色々と構成しているうちにここは「大事」と韻を踏ませたくなってきて後から変更した、というプロセスだ。それなら少しは辻褄があってくる。

となると、もしかしたら『どんぶらこっこ』とも関連があるかもしれない。何しろこのフレーズは後々"鬼退治"に行く人のテーマソング(?)なのだから。

いやまぁどれも憶測の域を出ていないが、読者諸氏の積年の歌詞に対する違和感の解消に少しでも役立てられていれば幸いである。

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さて今回話題にするのは前回ちらりと触れた「日本語としての自然さ」の話である。

作詞における才能の発露とは、余人に思い付くべくもない言い回しや単語の組み合わせにおいてみられると時に考えがちだが、実はそういった特徴的な作詞術は一言でいえば「苦し紛れ」である事が多い。「どうしてこんな歌詞が思い付くんだろう」という一節は大抵、歌詞のストーリーではなく音韻の縛りや単なる語呂合わせ、語呂のよさに端を発する。

ヒカルの場合も例外ではなく、日本語として特異な音節の区切り方などは「そうせざるを得なかった」面が強い。恐らく、もしできるならもっと自然で流麗な日本語にしたかったのではないか。『な・なかいめのべ・るでじゅわき』なんかも、どちらかといえばそういう感じが漂う。

であるが故に、歌の歌詞の中で"差し障り無い日本語"を見つけた時、その一節が作詞のかなり早い段階で登場していたと推理するのは無謀な事ではない。初期であればあるほど、音韻の縛りが少ない為言葉をより自由に置けるからだ。

そういう視点に立って見た時、先日キプトラの2つのAメロにおいてキーセンテンスとなりえる二節、

『ホントは誰よりハングリー』
『毎朝弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』

の、いずれが"日本語として自然"かは、火を見るより明らかだろう。いやちょっと言い過ぎたか。でも、そうだよね、『ホントは誰よりハングリー』って、普通の日本語だけど、"弱気めな素顔"って言い回しも珍しいし、そもそも"退治"というのが妙に際立っている。なんなんだろう、そう思わないかい?

、、、という見方をしていると、実はこの2文で先にあったのは『ホントは誰よりハングリー』の方であって、とすると『毎朝弱気めな素顔映す鏡退治したいよ』の方は、いろんな韻の縛りに導かれて出てきた二次的なメッセージなのではないか、だとすると恐らくこの奇妙な『退治』ということばは、一回目のAメロの「大事と思うけど」と音韻を合わせるかたちで出てきたのではないか、、、

、、、そんな風に推理していくと、これまで私が描いてきた推理と真逆の展開に踏み込むからさぁ大変。果たして、どちらが正しいのか、次回そこらへんの議論に踏み込んでみたいと思う。ぶっちゃけると、現時点での私はこのあと何を書けばいいのかわからない状態だったりする。ホント、どちらの推理の筋道が正しいんだろうなぁ。次回までにゆっくり考えておくことにするわ。

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そういえば、Goodbye Happiness冒頭の『甘いお菓子』は実は"綿菓子"なんではないか、と漸く気がついたんだった。綿菓子だからその甘いお菓子は『消え』るようになくなるんだし、そのあとの『雲一つないSummer Day』も、雲を綿菓子と見立てると、ちょうど男の子の手元と頭上の大きな青空が同じ情景を描くのだ。いや~なんで今まで気づいていなかったんだろ。これは巧いじゃないか。

なんていう枕でフェイントをかけつつ、今日もキプトラの話だ。

今取り上げたGBHの歌詞のように、ヒカルの歌詞においては固有名詞は常に揺らめいている。PHSやBlackberryだなんて最早知らない人は知らないだろうし、綿菓子だって連想しない人も多かろう。現に私もそうだったし。

そういった、「特定しすぎてたり、特定していなかったり」という揺らめきの中で、キプトラの『十時のお笑い番組』はどのように捉えてみたらよいのだろうか。

2005年以上06年未満の当時、22時に放送していたお笑い番組はTBS系列の「リンカーン」だったそうな。ダウンタウンをはじめとしたお笑い芸人の皆さんが雛壇に並んでいる番組である。と言いつつ私は殆ど見たことがない。さて、この『十時のお笑い番組』は具体的に「リンカーン」とやらを指しているか否か。番組の内容を殆ど知らない私がちょっとだけ考えてみる。

どこからアプローチするかといえば、今までどおり歌詞の音韻だ。まず、『番組』は、恐らく先に立っていたであろう『ハングリー』と韻を踏む為に登場したとみる。とすると、既述の通り『仕事の疲れ癒』やすのも韻から要請されるので、何かそういった番組内容がいい。ドラマにバラエティー、ニュースにスポーツに色々ある中、お笑いを撰ぶのは必然とまではいえないまでもベターであるとはいえる。しかしそれより何より、『ホントは誰より』とほぼ同じ尺で入る言葉でなくてはならない。

しかし、もうひとつ考えなくてはいけないポイントがある。歌の主人公が"疲れを癒やす"為には、歌のその時点で疲れてる必要がある。夜に一人で何かの番組を見ているそのシーンを描く為には、一瞬で歌の世界を"夜"にしなければならない。先に『お笑い番組』まで歌詞が埋まっていたとして、残る文字数は『ホントは』の4文字だけ。ぴったりこの文字数でそのシーンを描いてしまうには、8時や9時や11時ではいけない。字数が合わないから。7時や8時や10時でないといけないのだ。そして、その中で如何にも仕事で疲れて帰ってきた感じを出す為には10時がちょうどいい。

とはいえ、音韻上はあんまり『じゅうじ』である必要はない気がする。別に『深夜の』なんかでもよかったのだ。尺も合ってるし。となると、やっぱり実在する"十時のお笑い番組"の影響は否めないかもしれないなぁ、というのが今の所の暫定的な結論でございます。

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いつまでキプトラの歌詞話が続くんだという感じだが、私が飽きたら唐突に終わる。紐解くべき魅力がなくなれば、自然と別の話題に移るだろう。ただ、まだまだ語っておきたい魅力がこの曲には幾らでも残っているというだけである。

さて、『そういうの』が「1人で過ごす時間」であるという私の解釈が正しいと仮定する。なれば次に出てきたであろう一節は『一人が少しイヤになるよ』であろう。お笑い番組や仕事の疲れは、別に他の何かでも構わないからだ。恐らく、『少しイヤになるよ』が先に出来て、これと韻を踏みつつ人の"1人の時間"の描写へと進んだのではないか。つまり、ここに来て歌詞として踏める韻の中に"イヤになる"に対する"癒(いや)しても"が浮上してきたのではないだろうか。そういう順序で歌詞が出来ていったと推理すればしっくり来る。

しかし、となると、まぁわからなくはないものの、何故『十時のお笑い番組』なんだ?という誰しも一度は思い浮かべる疑問にぶち当たる。『弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』や『そういうのも大事と思うけど』といった"キーセンテンス"からは、十時のお笑い番組は出てこない。ここでもうひとつ、新たに"ヒカルの言いたかった事"なセンテンスを見つける必要がある。

それはすぐ見つかる。『ホントは誰よりハングリー』の一節だ。

この文章は何かを主張していたり伝えようとしている感じは薄いが、"本音の吐露"であるという点において、歌詞の中では非常に重要度が高い。何より、他の様々な言い回しの歌詞たちにくらべて日本語としてずっと自然である。この一節は、歌詞制作においてかなり早い段階で設えられていたと私はみる。

ここに気がつけば話は簡単だ。まず『ハングリー』と韻を踏む単語を考える。出来れば"癒し"と関係があるものがいい。"番組(バングミ)"はどうか。ハングリーとかなり近い、それも純粋な日本語だ。それに、疲れを癒やすならお笑い番組にしようか…とこういう流れで出来ていったと想像するのは難しくない。あクマで想像だけど。

ここまで来れば、周りを韻で踏み固めるだけだ。『ホントは誰よりハングリー』の『誰(だれ)』と『気持ちの乱れ隠しても』の『乱れ(みだれ)』、更には『仕事の疲れ(つかれ)』もまたこの『誰』との韻を構成している。複数のセンテンスが音韻で複雑に絡み合っている。

つまり、例えば『仕事の疲れ癒しても』の一節は、すぐ隣の『一人が少しイヤになるよ』と些か離れた場所にある『ホントは誰よりハングリー』の両方の音韻要請によって構成されている訳である。ちょっとややこしかったけど、わかってもらえただろうかな…。

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さて、2つのAメロにおいてキーセンテンスとなるのは『毎朝弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』なのではないかという話だった。ここから、2つのAメロのひとつひとつの構成要素が"どういう順番で"出来上がってきたかを推理する訳である。

『退治したいよ』がまず真っ先に置かれたとすると次は当然『大事と思うけど』が来たのだろうと考えられる。須く思いつく音韻だからだ。それに、もし『大事と思う』なら寧ろこちらがキーセンテンスになる所だが実際は『思うけど』な訳だからここ(1回目のAメロ)で歌っていることは主張としては若干弱めだろう。更に、より日本語として自然に『大事だと思う』ではなく、『大事と思う』としてある点から、ここのパート自体音韻上の要請に縛られている、即ち(創作進行上)先行する歌詞がある事を示唆している。この場合は、『退治したいよ』が先にあって、それに合わせるように『大事と思うけど』が設えられたと見るのが自然だ。

となると、「それも大事な事だとは思うんだけどもっとこっちの方が」と言うときの"それ"の方が何なのかを歌詞で語らなければならない。歌詞に出てくる単語でいえば、『そういうの』である。

ここは、歌詞の解釈の話になる。『そういうの』って、どういうの? Do you know ? という訳でそこの所を読み解いてみる。

『十時のお笑い番組
 仕事の疲れ癒やしても
 一人が少しイヤになるよ』

『そういうの』に先行する歌詞はこの部分だ。代名詞なんだから直前に先行する文章のいずれかを指している筈である。十時のお笑い番組が大事と思うのか? 仕事の疲れを癒すのが大事なのか? それとも一人が少しイヤになるのが大事なのか? どうとでも読み取れるが、『思う"けど"』であるのだから順序を逆にして「そういうのも大事と思うけど 一人が少しイヤになるよ」と読むのがいちばん自然だろう。となると、『そういうの』とは「一人で居ること」と解釈するのがしっくりくるのではないか。つまり、「ひとりで居る時間(例えば十時のお笑い番組を見て疲れを癒す時間)も大事だとは思うけれど、時々それもイヤになる」という文章だと読むのである。

こうなってくれば、この一回目のAメロに於いてどの文が重要度が低いか、即ち後から嵌められていったかが見えてくる。次回はそこらへんの話から。

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『十時のお笑い番組』の『番組(バングミ)』と『ホントは誰よりハングリー』の『ハングリー』が、そして『そういうのも大事と思うけど』の『大事(だいじ)』と『弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』の『退治(たいじ)』がそれぞれ韻を踏んでいる、という話を前回したが、今回の主題は「そこから何を読み取るか」の話である。

これらの音韻がどのように作られ、構成されていったのかを推理してみたい。関わる歌詞の中で、ヒカルが最初に置いた一節はどれなのか。それは、シンプルに「言いたい事」を言っている箇所であろう、と推測をまず立ててみる。

取り敢えず、2つのAメロを併せて見た時に、いちばん"主張"が感じられるのは『毎朝弱気めな素顔映す鏡退治したいよ』な気がする。ここから始めてみよう。

ヒカルの大きな特徴として「言いたいことは後に言う」というのがある。Popsの心得「入口は広く、出口は狭く」だ。低い敷居を沢山の人々に跨がせてスロープを上がらせながら高所にまでひとを導く。例えばぼくはくまの『ママ』、例えばCan't Wait 'Til Christmasの『大切な人を大切にする それだけでいいんです』などは、その楽曲中最もエモーショナルな歌い回しでありかつ楽曲の最後の最後に出てくる。ヒカルはそうやって自分の言いたいことを言ってきたのだ。勿論常にそうである訳ではなく、Be My Lastなどはいちばん言いたい事即ち『かあさん どうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃ ならない日が来るの?』の一節を楽曲のアタマのアタマにもってきていたりする。尤も、それだけ不躾になれるのはこの曲が意識的にPopsの範疇から外れて作られたからだ、ともいえるのだが。アタマからいきなりいちばん言いたい事を言い放つのは宇多田ヒカル流Popsの礼儀ではない。

そんな訳でPopである事が求められる、3部作最終曲のキプトラに於いては、言いたいことであればあるほど歌の後半に登場するとみてよい。実際、いちばん言いたいこと「みんな頑張れ」即ち「お父さんお母さんお兄ちゃん車掌さんおよめさんkeep tryin', tryin'」は本当に最後の最後にならないと現れないんだから。

そんな訳で歌詞のストーリーと音韻構造の成り立ちを考察するにはなるたけ後半の、それもシンプルでメッセージ性の強い一節から入る必要があり、今回取り上げたパートにおいてそれは『~退治したいよ』の部分である訳だが…今日はここまで。今回は全然話が進まなかったなぁ。続きはまた次回。すまんことです。

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このままひとつひとつ見て行く。

『十時のお笑い番組
 仕事の疲れ癒やしても
 一人が少しイヤになるよ
 そういうのも大事と思うけど』

『ホントは誰よりハングリー
 気持ちの乱れ隠しても
 毎朝弱気めな素顔
 映す鏡 退治したいよ』

1回目のAメロと2回目のAメロを並べてみた。まず1回目の方は『十時の』と『仕事の』の『の』が同じメロディーの同じ箇所で重なっているというとてもシンプルな韻で始まる。サビスタートの曲とはいえ、取り敢えず導入部の敷居は低い。

次に『癒(い)やしても』と『イヤになるの』の『癒(い)や』と『イヤ』が同じ音だが、今度はそれぞれ異なるメロディーだ。しかも歌い方も両方とも「ィヤ」に近く、「い」の音を小さく発音して合わせてきている。前回紹介した『合わせる韻とズラす韻』が早速Aメロから登場している訳だ。

付言しておくと、『そういうのも』の『の』或いは『のも』もまた『十時の』『仕事の』の『の』と合わせているとみる事も出来る。

この狭い領域での押韻だけでも見事なものだが、ヒカルの真骨頂はこの1回目のAメロが2回目のAメロの伏線として機能している点だ。

まず、『ホントは誰よりハングリー』の『ハングリー』が『十時のお笑い番組』の『番組』と韻を踏んでいる事だ。[ban-gu-mi]と[han-gu-ri]である。ハングリーはだからこの場合日本語のハングリーとみるべきだ。

『疲れ癒やしても』と『乱れ隠しても』もしっかりと韻を踏んでいる。[tsu-ka-re]と[mi-da-re]、[i-ya-shi-te-mo]と[ka-ku-shi-te-mo]だ。

そして、『大事と思うけど』の『大事』と『退治したいよ』の『退治』だ。『だいじ』と『たいじ』。ご覧の通りである。

この、近接した同士の音韻と遠隔の音韻が絡み合っている所がヒカルの作詞の特徴であり、これを踏まえなくては歌詞に登場する単語が何故そこにあるのか、というのが見えてこない。次回はそこらへんの"単語選択"の考察あたりから話をするとしようか。

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『どんぶらこっこ』ひとつ取ってもこれだけ語る事のあるKeep Tryin'の音韻構造、書いてるこっちも(事前の予想通り)書いてて訳がわからなくなってきているので、芸がないとは思うがひとつひとつアットランダムに書き出していく事にする。

まず最初のパート。

『I don't care about anything
 どうでもいいって顔しながら
 ずっとずっと 祈っていた
 無い物ねだり
 ちょっとやそっとで満足できない
 だからkeep tryin'』

既に説明した構造は省略する。あれ、でも『ちょっとやそっとで』が直前の『ずっとずっと』を[-tto/-tto]で受けているが、メロディーは『どうでもいいって』の所と同じだから『そっとで』と『いいって』それぞれの語尾が[-te]と[-de]で合わせてる、って話したっけかな。まぁいいや、そうなのだ。同じメロディーの所で韻を踏むだけでなく、メロディーは異なるが隣接する節からも韻を受け継ぐという複雑な構成がヒカルの歌詞には頻出するのである。

例えば、『どうでもいいって顔しながら』までと『ちょっとやそっとで満足』までは同じメロディーだが、ここではそれぞれの前半では今述べたように『って』と『とで』で語尾を揃えてあるが『しながら』と『満足』は似ても似つかない。しかし。この『満足』のあとの『できない だから keep tryin'』の『だから』が『しながら』とばっちり韻を踏んでいるのだ。[da-ka-ra]と[shi-na-ga-ra]である。わざとだとはとても思えない。

何しろ、このパートには同じ構造がもう一つあるのだ。『無い物ねだり』の『無い』と『満足できない』の『ない』は全く同じ発音である。これも狙って構成したものだ。

どれ位確信的かといえば、2回目のサビを書き出してみれば瞭然だろう。

『I don't care about anything
 ちょっと遅刻した朝も ここから
 頑張ろうよ
 何度でも期待するの
 バカみたいなんかじゃない
 だからkeep tryin'』

ここに於いても『ここから』と『だから』、『何度(なんど)でも』の『なん』と『なんかじゃない』の『なん』&『ない』は完全に揃いにかかっている。わかってもらえただろうか。


こんな調子で、まだまだまだまだ続きます。

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まだ付け加えとく事があった。不格好だけど触れておく。

どんぶらこっこのパートで、『世の中 浮き沈みが激しいなあ』という一節があるが、ここのメロディーは楽曲中ここでしか現れない。その為、恐らく、歌詞に合わせてメロディーを作ったと思われる。というのも、『浮き沈みが』の所で音程が大きく上がったり下がったりするからだ。これはつまり、音程の上下で「浮いたり沈んだり」を動的に表現しているのではないかな。

実際、このパートに於いては
『どんぶらこっこ 世の中』
までと
『どんな時でも 価値が』
までは同じメロディーで、そこから先が合い違われているのだから、この推測もむべなるかなと思うのだがどうだろう。

こういう歌詞の配り方は別にヒカルに限らず他のアーティストもやっているだろうし、ヒカル自身も常にそうしているかといえばそんな事もないだろう。

例えば、Show Me Love (Not A Dream)のAメロの最後、最初の2回は音程的には下降フレーズだが歌詞もそれに合わせて『沈んでく』『重くなる』となっている。そして3回目のAメロでは下降フレーズではなく上がって高止まりする曲線を描きながら『止まらない』と力強く歌い上げる。此処は、歌詞のイメージと音程の上下をシンクロさせた例である。

一方、同じ曲の中でも例えば『山は登ったら降りるものよ』のメロディーは別に歌詞に合わせて上がったり下がったりはしない。これらの違いは、沈んだり重くなったりは、比喩とはいえ実際に主人公の心情に起こった変化の表現であるのに対して、この『山は~』のパートは教訓として言い聞かせているだけで何も実際に上って降りた所を表現している訳ではない為に生じるものだ。そういうメロディーの使い分けも存在するのである。ただ、繰り返すが常にこういった対応が隠れているという事もない為、あんまり深読みはしない方がいいだろうとは付言しておきたい。お前が言うなってか。

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昨日は最後駆け足になってしまったので、もう少しお浚いをしておこう。

『どんぶらこっこ』と歌われて面食らうのは、当然のことながらこんな日本語はPopsでは使われないからだ。期待されていない単語にいきなり急襲されても人は聞き取れない。それはヒカルも織り込み済みだった筈である。ちな!みに名前を「ヒカル」表記してるのは日本語作詞家としてクレジットされている「宇多田ヒカル」名義を意識してのこと。とはいえ特に厳密に書き分けてる訳じゃないので気にせず読んでください。

話を戻すと。実際、『どんぶらこっこ』は期待されていない上に乗っているメロディーが本来の日本語の「どんぶらこっこ」と韻と音一緒が、もとい、イントネーションが異なる。余談だがなぜ「歌詞にメロディーが乗る」と言わずに「メロディーに歌詞が乗る」というかといえば、メロディーは歌詞が伴おうが伴わまいがその形状を変化させないのに対して、歌詞の方は普通に日本語の話法で話し聞かせる時と歌って聞かせる時では一般的にいってイントネーションが変わってしまう。乗馬において騎手が騎乗する場合騎乗の前後で乗られる馬は姿勢を変える必要はないが騎手は姿勢を変える必要が生じるのと同様に、一緒になった時に形状を変化させる方が「乗る」側なのだ。"乗っかる"とか"乗じる"なども同じ背景をもつだろう。勿論、どちらに駆動力があるか、という見方をする方がより一般的だろうが、歌詞とメロディーではどちらに駆動力があるかと問われたら、何となくメロディーの方である気はするもののどうにも曖昧な印象は拭えないので異なる側面か
ら説明を試みた次第。まぁいいか。

余談が過ぎた。再び話を戻すと、本来の「どんぶらこっこ」のイントネーションは

どんぶらこっこ♪ どんぶらこっこ♪

、、、と書いた時に頭に思い浮かぶあの節回しだろう。恐らく大半の、ある一定以上の年齢の日本人にとってこの節回しは光をBLUEの歌詞朗読一発で涙と鼻水塗れにしたあの日本昔話のナレーター・常田富士男の声で再生された事だろう。今度こそ短い余談だが、"大半"とは「半分以上」という意味である。誤用している人を見掛けた事があるので要注意。

でだ。ヒカルはその日本語本来の「どんぶらこっこ」と離れた節回しのメロディーを選択した訳だが、これには2つ理由があって、ひとつは前回も指摘したように「どんな時で(も)」と音韻を揃えようとした為、その箇所とメロディーも同じになってしまう可能性が高まった事、もうひとつは、本当に日本昔話なイントネーションで「どんぶらこっこ♪」と歌ってしまうと(当然の事ながら)Popsの枠組みから外れてしまう事だ。

後者については、特にこのKeep Tryin'に於いては重要だった。前曲でありかつキプトラの前編であったPassionが、コンセプトとしてPopsの枠組みから外れていたからだ。しかしながらPassionはSingle Versionに於いて、本来のオリジナルである(と言っていいかどうかは議論のある所だが)Opening Versionにはない、"Popsの枠組みに還ってきた"メロディーで楽曲を締めくくった。しかもそのパートは、これまで見て来た通りKeep Tryin'の世界観と密接な関係がある。この流れに沿っていけば、キプトラは必然的に"外から内に還ってくるカタチでPop"でなくてはいけない。

そういった要請のもとに、ヒカルは敢えて一聴しただけでは「どんぶらこっこ」とは聞き取れないような歌詞の乗せ方をしたのである。本来は"わかりやすさ"が至上命題であるPopsにおいて、敢えて"わかりにくくする"ことでPopさを獲得する。これは一度外側飛び出してみたことのある人間ならではの発想・手法であるといえるのではないだろうか。余談でした。(………本文全部が!?)

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