無意識日記
宇多田光 word:i_
 



[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.61

http://blog.goo.ne.jp/ultrablueunited/e/9b0e2ac7081954b6d2181cdde79358d6

2006年8月30日水曜日【2006.8.31up】

松山第二夜

今夜のショウはツアーのベスト・ショウのひとつだった。ヒカルは観客といい具合につながり合えていたし、ホールの中は良質なエネルギーに満ちていた。バンドのみんなともショウのあと話したんだけれど、口々に「怖いくらいだ」って言ってたよ。愛媛武道館でバンドが出せたサウンドもよかった。いい音の出る会場だ。

今夜のファンはすごかったなぁ! ショウの出だしの一音めから総立ちと手拍子で迎えてくれた。みんなと前向きな気持ちを持ち合えるショウになったことがわかって、とてもよかったよ。


明日は土曜日と日曜日の2つのショウのある広島へと向かう。広島のファンのひとたちとも、きっといい時を過ごせるだろうな。

--- パット・ウッドワード

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訳者より: 今日は全体を通して読んでみて、いつもと雰囲気が違ったように感じたので、こちらも訳し方をガラリと変えてみました。中高生のみなさん、意訳だらけなので、ご注意くださいね。たとえば「felt that the show was awsome」に(なぜかパットさんはawesomeをawsomeと書きますね。これまでもそうでしたが。クセみたいなもんなのかな)対して“口々に「怖いくらいだ」って言ってた”なんて訳をつけましたが、これはもう二捻りくらいした訳し方なので、テストでこう回答したら×を食らうんじゃないかな。(ここのawesomeは恐ろしいという意味ではなくすばらしいという意味なのでした。)最後の一文もちょっといつもと違う感じにしました。理屈はさておき、ホントに愛媛の二夜は充実していたようですね。淡々とした口調なのに、そういうことが伝わってくるパットさんの文章、素敵です☆


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[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.59

http://blog.goo.ne.jp/ultrablueunited/e/1ba3aa573f0d1e780917ed215f8a6f68

2006年8月25日金曜日【2006.8.27up】

北海道金曜の夜。

昨夜(24日の札幌初日)のショウを楽しんでくれたとブログのコメントに書いてくれた人がいたね! 気に入ってもらえたとわかって僕も嬉しいよ。今日のショウも(昨日に)負けず劣らずだった。北海道のファンのみんなは、ウタダ・ユナイテッドのショウに相当入り込んでいたようだ。トミタ(冨田謙(ゆずる)/Key,Gr. and Head-banging)は今夜のショウの前にアリーナの外で何人かのファンのコたちと会うことができたようだ。ウタダ・ユナイテッドのバンド・メンバーたちは、北海道の君たちのためにプレイできることを心から楽しめてたと僕は思う。ヒカルとバンドの皆はこの二晩、ステージでよい時を過ごせていたように見えたな。


2~3日間北海道に居たけれど、実に楽しかった。景色は美しいし、食べ物も最高だった! 明日はウタダ・ユナイテッドは東京に向け出発、そして来週は2つのショウをしに松山に向かう。では松山で!

--- パット・ウッドワード

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訳者より: 冨田さん@mintmaniaが、とうとう開演直前にアリーナ近辺に出没を始めたようです。(笑) ブログを読んでも、とても気さくで親しみやすいひとなので、ファンのみなさんも、気軽に(且つ節度をもって)接してみても、大丈夫なんじゃないかな、と関係者でもない僕がいってみたくなるくらいです(^_^; 訳者としては、パットさんの必要十分な筆致は参考になります。こういうふうにいえばいいのね~って。実は逆に翻訳しづらかったりして。(笑) 理系の人っぽい、抽象的な肌合いを感じますわ~紳士だけど、見るべきところはきっちり見えている、という印象を、最近もつようになりました。エンジニアさんらしいといえるかもしれません。余談でした。(^∇^;


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[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.56

http://blog.goo.ne.jp/ultrablueunited/e/950c7b64120d31c0f69bbf63577ca821

2006年8月24日木曜日 【2006.8.25up】


北海道木曜夜

今夜のショウは見事なものだった。ヒカルとバンドはとてもいい音を出していたよ。ショウの雰囲気は、観客席からもステージの上からもみんなによいものだと感じられていた。トミタ(冨田謙@mintmania)から、彼も観客のみんなの雰囲気がすばらしく感じられたとバックステージで教えてもらった。僕も今夜同じくみんなの中に座っていて北海道のファンのひとたちのエネルギーを感じることができたしね。それはたぶん、ここ数回ウタダ・ユナイテッドが馴染んでいた幾つかの会場とくらべてより親密な感じだったからじゃないかな。そして、ひとつ確実なことがある。明日の2日目のショウも、今夜のそれと同じくらいよいもになるだろう、ということだ。北海道のファンのみんなは、今夜のショウをどう捉えたかな?


今のところ、北海道は楽しみに溢れているよ! 街を取り囲む山々が、北海道を美しい土地にしているね。

--- パット・ウッドワード

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訳者より: 前回も触れましたけれど、平易な言葉ながらパットさんの筆致はクレバーで、真摯ですね。案外、一番冷静なのは彼かもしれません。“祭りの後”に、全体の流れを的確に且つ簡潔に把握するためには、この一連の「パットさんツアー日記」が最適になりそうな予感です。(*^_^*)


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「UTADA UNITED 2006」でのHikkiの歌唱の特徴と調子についての記述を、CDのヴァージョンと比較しつつ羅列してみました。激しくネタバレ(セットリスト全部開示)なので、閲覧の際にはご注意くださいませ。

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この企画の意図ですが。単純に、あなたの耳に届いた歌唱に芳しくない印象が残ったからといって、それがすぐさま「喉の不調」に原因を求めてよいのかどうか、という疑問がわいたからです。もしかしたらそれは意図された改変であって喉の不調とは関係ないかもしれないし、それどころか、ちゃんとあなたの望むとおりに歌っているのに会場の音響の不調でそれがあなたの耳にまでちゃんと届かなかっただけのかもしれません。筆者はこれまで3つの公演を観たので、それらについては違いを比較し、ある程度何が私の耳に届く歌の印象を左右していたのかを分析することができます。その妥当性や真偽に異論が出るだろうことはもちろんでしょうが、とにかく複数公演観ることでわかってくることもあったということです。とはいうものの、原因が何であっても、結局はあなたの耳に届いた音が総てです。その評価を変える必要はありません。ただ、その評価の原因に言及する段階に入った場合、そこに事実認識に関する誤謬が紛れ込む可能性がある、そこの部分を整理したい、という意図で、このエントリを書き上げました。その点踏まえて頂ければ幸いです。それでは、以下、どうぞ。

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予めお断りしておきます。ここで述べる内容は、あくまで「どこがどう違うか」及び「意図的か否か(つまり声の調子によるものかライヴアレンジなのか)」といった“事実”の解明にスポットを当てています。どちらのヴァージョンがよりよいか、という“評価”については、(できるだけ)脇においておくこととします。ご了承ください。

また、完全版ではありません。今回筆者が思い出した点についての羅列です。また後日補足することもあるだろうし、訂正することもあるかと思います。鵜呑みにせず「i_にはこうきこえたんだな~」くらいに気楽に捉えておいてくれると助かります。

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筆者が見た公演は静岡初日&2日目とさいたま初日、の合計3日。これをもとに分析します。

「Passion」: 前半が「~after the battle~」、後半が「~single version~」という(筆者にとって)夢のような構成。当然、前半はあのCDできけるゆったりとした歌唱、後半は激しさとリズム感を増した歌い方でした。3回とも、声が出てないところは特別ありまえせんでした。最後の「My Feel My Life My Fears, My Lies~♪」の前の高音の「Hu~~u~~~♪」の前に声の伸びが足りない、ということはありましたが。

「This Is Love」: 観た3度とも、2006年6月16日金曜日の「ミュージック・ステーション」でみせた歌唱と大体同レベルだったように思います。若干全体的にフラット気味でした。音程に厳しいひとは、ここで不満があったかもしれませんね。メロディ自体は、CDと、あるいはMステとほぼ同じでした。

「traveling」: この曲は、全体をとおしてよく歌えていたと思います。静岡初日は、声自体に元気がなかった、とはいえました。静岡2日目は問題なし、さいたま初日は、その中間くらいかな。歌唱のアレンジは、DVD「ヒカルの5」と似たようなものだったかと。観客席にマイクを向ける場面も見られたので、その部分をさして「歌っていない」と不満をもたれた方もいらっしゃるかもしれませんね。

「Movin’On Without You on without you」: ヴァースの低音部が課題の楽曲ですが、「ヒカルの5」最終日を見たときより寧ろその点は改善されていたように感じました。えらい難易度の高い楽曲ですが、声の張り以外、特に音程面ではさほど乱れはなかったように思います。静岡1、さいたま1では「Nothing you can stop me Nothing's gonna stop me, only you can stop me~♪」の部分のミエの切り方が少々迫力不足に感じました。静岡2では問題なかったように感じました(CDと大体同等だと感じました)。

以上ここまで4曲は、スタジオヴァージョンとさほどメロディを変えることなく歌っていたように思いました。ただ、僕自身、CDヴァージョンにそんなに拘っていないので、結構聞き落としているかもしれないことはご注意をば。

むしろ、ここから先の楽曲が問題かと思います、不平不満が出るかどうかについては。引き続いて参りましょう。

「SAKURAドロップス」: 吐息の効果音をバックに、Hikkiが単独アカペラで歌いだす楽曲です。静岡1埼玉1では、半音以上下がっていました。楽器陣が挿入された瞬間ずっこけたのが思い出されます(T.T) 静岡2では若干フラット気味になりつつも、綺麗にまとめていましたので、この曲の出だしは、彼女のその日の調子をはかるバロメータになるのではないでしょうか。普通アカペラで始めるときは、周囲の楽器の人に最初の音を一音出してもらって確かめてから入るものですが、3公演とも私が見た限りなかったです。絶対音感のない彼女が吐息のSEのみではじめるのはリスキーだと思います。ただ、楽器が入ってからは高音部まで含めてしっかり歌えていたので(特に静岡2)、イアーモニターで最初の音をちゃんと指示する、とかすればすぐに改善できることではないかと。それとも、半音下げで始めようという意図があるのかなぁ・・・。

「FINAL DISTANCE」: まさかライヴで聴けるとは思ってませんでした。楽曲の性格上、非常にCDヴァージョンに忠実に歌っていましたが、ところどころ長音部では声の伸びが足りないように感じました。(静岡2ではかなりよかったですが) ただし、音程を変える場面は、見当たらなかったです。スキャット(をうをうをー、とかあそこらへん)は、埼玉1ではちょっと簡略化していたかもですが、記憶が定かではありません。歌詞のあるところで大きく変えてた場面はなかった、ということです。

「First Love」: 前曲と同じく、CDに忠実に歌う楽曲です。比較的容易な歌ですし、「だはーっ」も、僕が聞いた会場ではちゃんと歌えてましたですよ。ただ、忠実度では「ヒカルの5」のほうが上だったかな。

このバラード3連発で不満をもったひとが多いのかと思ったのですが、こうやって思い出してみると、結構ちゃんと歌えてたように思います。結局、最初の「SAKURAドロップス」の歌いだしのずっこけブリのインパクトが全体の印象を左右しちゃってる、ってだけかもしれません。続いてはUtaDAパートですね。

「Devil Inside」: 泣く子も黙る「ニューヨーク・ショウケース・ギグ・ヴァージョン」です。(略してNYCSCGVer.ね) 映像・演奏とも、ライヴでしか観れない・聴けないスペシャルなヴァージョンなので、UtaDAファンはライヴに行かない手はないですね。もしかしたら、ここでのヴァース部分の「They don't know how I burn~♪」のところ、音をはずしているようにカンチガイされた方もいらっしゃるかもしれませんが、NYCSCGの時点で、あそこで音を下げて歌うようになってました。すなわち、声の調子云々で変えたのではなく、元々こういうメロディなんです。お間違えなきよう。サビの最高音部で声がカスれることが何度かありましたが、それ以外は問題なかったです。あの最高音を期待した人には、物足りない歌唱だったかもしれません。(この曲で掛け合いやりたいんだけどなぁ。@余談)

「Kremlin Dusk」&「You Make Me Want To Be A Man」: この2曲については、突っ込みどころ満載すぎるので、省略します。(苦笑) というのも、今のHikkiの実力だと、たとえ絶好調時でも、この2曲をライヴで歌い切るのはムリだからです。特に「YMMWTBAM」のサビのシメのシャウトは、音程的には無理ではないものの、あのアグレッシヴなトーンのままで連発したら喉が完全にやられます。逆に、この2曲をライヴで完全再現できたなら「現役最高のメタル・シンガー」である、と認定してよいでしょう。それくらいに困難な楽曲です。ぶっちゃけ、単純に選曲ミスですね。(あくまで、「歌いこなすため」には、です。僕個人はUtaDAからこの3曲を選んでくれたことに関しては絶賛以外の言葉を彼女に贈る気はありません) ですので、この2曲でのパフォーマンスについて不満をもたれた方には「ごめんなさい」と平謝りするしかないです。ごめんなさいm(_ _)m

・・・とはいっても、UtaDAの楽曲なんて会場のうちの1割くらいしか反応してなかったので、そんなに不満が多いとは思えないんだけどなぁ・・・まぁいいや、次は生楽器セクションです。歌にアラがあった場合、最も突っ込まれる場面ですね。

「Be My Last」: これも「Devil Inside」同様、いやそれ以上に“ライヴでは大幅にCDと違うラインを歌う楽曲”です。その程度は全楽曲の中でも一番です。ここでの歌メロは、2005年10月28日フジTV系列で放送された「僕らの音楽2」のヴァージョン、および、2005年11月11日テレビ朝日系列で放送された「ミュージック・ステーション」での歌唱がベースになっています。(それぞれ、ttp://www.youtube.com/watch?v=VCsfp4V0A_4/ttp://www.youtube.com/watch?v=htRrB7fbMcM) 特にサビは別モノといえるくらい変わっています。ヴァースの部分はMステっぽく、サビの部分は僕らの音楽2っぽい、そういうメロディの組み合わせ方だったように思います。静岡2では、全く問題ありませんでした(CDやTV以上でした)。一方で埼玉1では、サビのメロディを下げており、「僕らの音楽2」できけるような飛翔感は損なわれていたかもしれません。ちょっとジャズっぽいフィーリングともいえたかな。僕が聴いた感じでは、この日(埼玉1)のサウンドチェックの時点で「のどに負担がかかるから、下のメロディに変えよう」と決めていたのでは、という感触と、歌いながら喉と相談してライヴの途中で「こっちにしよう」と咄嗟に決めたのでは、という感触と、半々でした。どっちだったかははかりかねます。いずれにせよ、上記二つのテレビ・ヴァージョン両方を聴いていないと、そのCDとのあまりの差に面食らってしまったことでしょうね。とにかく、繰り返しますが、静岡2日目のは、水準を越えた出来(CDやTV以上)だったと思います。

「誰かの願いが叶うころ」: BMLに字数を使いすぎたので(汗)、この曲は一点に絞っておきましょう。サビの「わがままが増えてゆくよ~♪」の部分です。3公演とも、同じ変え方をしていました。つまり、音をハズしたのではなく、わざとこう歌っている、ということなのでしょう。CDと比べて歌いやすいからなのか、あとから考えてこっちのメロディのほうが好きになったから変えたのか、変えた動機は定かではないですが、比較的声の出ていた静岡2でもこう歌っていたので、声の調子云々という理由ではなさそうです。純粋に、これがライヴ・ヴァージョンなのでしょうね。(なお、Mステで歌ったヤツはモニターがぶっこわれてたようなので、参考になりません。てことでリンクもなしw)

「COLORS」: 3回とも問題なかったと思います。ベースとなっているのは「20代はイケイケ!」のバージョンですが、更にそれ以上に抑揚とスケール感があり、声の伸びも申し分なしだったかと。もちろん、欲を言えばキリがありませんが、あんまりこの曲でのパフォーマンスに不満の声は出ていないですし、これくらいでいいでしょうか。

・・・ということで、あれ?一番文句が出そうなこの生楽器パートですが、突っ込むほどのところはなかったような・・・。私のきいた3日間が結構無難だった、ということなのかなぁ。どうも、聞き慣れない「BML」のヴォーカル・ラインに戸惑っただけのようにも思いますが、僕が聴いてない公演については、わかるはずもないのでなんともいえません。ここから先は盛り上がるパートですね。

「Can You Keep A Secret?」: 出だしのアカペラの部分で「おとなしくなれない Can You Keep A Secret?」のところで、「Secret~♪」の部分を下げて歌っていますが、これは3度ともそうでした。たぶん、声の調子に関係なく、「シックに」歌いたかったんじゃないのかな。この場面では、アカペラで始まりますが、ちゃんとコードがバックで鳴ってますので、音をはずすことも(3回では)ありませんでした。桜もちゃんとコード鳴らせばいいのに・・・と考えるのは素人の浅はかさなのかなぁ。

「Addicted To You」: 難易度抜群の楽曲ですが、3回ともほとんど問題なかったですね。なぜかこの曲はちゃんと歌いきってくれますw ボヘサマのときからですから、歌い慣れているのかなぁ。不思議だ。高音が出なくても、リズム感さえ失わなければ歌いきれる、ってとこなんかなぁ。

「Wait & See ~リスク~」: キーが高すぎるなら下げてもいいよ、と歌っているこの曲に野暮なことはいいづらいです。(笑) これも曲自体はちゃんと歌えてましたが、要所をしめるハイトーンは出てなかったので、それを期待していった向きには不満だったかもしれません。ほかは、ちゃんと歌えてましたよ~。歌詞は間違えていた気がしますがw

「Letters」: あれ? ごめんなさい、なぜかこの曲については3日間ともあんまり記憶にないです。後日何か思い出したら書きますね~。

「Keep Tryin’」: 「どんなときでも価値が 変わらないのはただあなた」の部分の「あなた~♪」の高音を出さなかった(次すぐ歌いださなきゃいけないからね)以外は、こんなに難しい曲なのに、ちゃんと歌えてた気がします・・・なぜだ。(笑)<そこは疑わなくてええやんw

続いてはアンコールです。

「Automatic」: まったく問題なし。以上!(笑)

「光」: うーむ、なぜなんでしょう、もっともハイトーンを連発する曲のひとつなんですが、ばっちり歌えていたように思います。もしかしたら、半音、もしくは1音下げていたかもしれませんが、僕には音感がないので(涙)、正確なところはわかりません。

*****

駆け足気味(特に後半は(汗))でしたが、こんな感じです。こうやってまとめてみると、実は案外歌唱がダメな箇所って少ない気がしました。むしろ、大きくはずした場面が印象に残りすぎたことと、MCで披露した元気のない掠れた声に驚いた、という面が大きいのではないかと思われます。あと、(さいたま2日目などで)不評だ、という楽曲ほど「メロディ自体がライヴ・リアレンジされている」のも特徴ですね。3日間見たので、「声の不調で変えたわけではない」パートがどこか僕にはよくわかるわけですが、一度しか見てない人の場合、ネガティヴに捉えても仕方がないかな。

どうも、「SAKURAドロップス」の出だしと「Be My Last」のサビメロ、という2点を無難にまとめるだけで、ずいぶんと全体の印象が変わるのではないかと思われます。両者とも、新しいパートのアタマの楽曲なので、その印象に引っ張られてしまうのではないかと。その2点を改善した上で観客のみんなからどういう不満があがってくるのか、それがちょっと興味ありますね。UtaDAの3曲についてはお客さんが曲を知らないので評価の対象外でしょう。知らない曲・英語の曲でも圧倒できるくらいになれれば別ですが、今はそこまで行っていません。尤も、新潟2日目や埼玉2日目は、そういう問題以前に声自体が出ていなかったようではありますが・・・。


後日何か追記するかもしれません。その場合は、BBS1或いはココのコメント欄で告知したいと思います~。以上!


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NHWBBSのカキコの続きv 300字ほどです。ライヴについてのネタバレを含みますので御注意ください。

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今回のUDUD2006の曲構成は、大雑把に分けて6つのパートに分かれています。
最初の賑やかな4曲、次のバラード3連発、攻撃的なUtaDAの3曲、
生楽器演奏の3曲、イケイケの5曲、アンコールの2曲、という構成です。
このうち、バラード3連発と生楽器演奏の3曲の部分は、座って見てる方も多いので、
2時間ずっと立ちっ放しでなくてもいい場合も出てくるかと思います。
じっくり聴かせる場面でもあるので、座って目を閉じて聴くのも乙なものです。@経験者談
起立にしろ着席にしろ、ずっと同じ姿勢というのが一番負担だと思うので、
立ったり座ったりも大変かと思いますが、ほどよく休みながら鑑賞すれば、
そこまで極端に疲れたりはしないんじゃないでしょうか。以上~♪

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ツアーが始まる前に、頻りに「今度のツアーは自信がある。是非見にきてほしい」と各媒体でシャウトしていたHikki。どういう心境でこの発言を繰り返していたのだろうか。その真意を(私にしては短めに)推測する。

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単刀直入にいう。「自らの退路を断った」のだと思う僕は。やっぱり彼女は今までのコンサート同様、ステージに上がることに対する不安と恐怖は持っているのではないか。静岡初日を見た時点で僕は、今まで以上に彼女が「精神的に戦っている」という印象をもった。年齢を重ねるとともに確かに逞しさもついてきた一方で、なぜか(通常と違い)その繊細な神経と感性はより玄妙になり、儚さも増してすらいるように思う。ヘンな話だが、10代のころにくらべ、更に傷つきやすく敏感になってきているように感じるのだ。でなくば、『「言い訳だ」って言われるとすごくさみしい。部屋に閉じこもって出られなくなっちゃいそうになる。』なんてセリフ、いまさら出てくるはずがない。 そんな発想すらないだろう、本当に感性が鈍くなっていたとすれば。

なのに、自信満々な発言を繰り返す。その原因は、自らのファンが「優し過ぎる」ことにあったとみる。どうしても宇多田ヒカルのコンサートとなると、観れるだけで価値があって、それで満足してしまうところすらあった。しかし、今度ばかりは、中身を見てちゃんと評価してほしいと彼女は考えてわざと「見に来い」を繰り返したのではないか。「ファンのためにライヴを」となると、どうしてもこちら側は「やってくれてありがとう」という気持ちになるが、「見に来い」などといわれたらこちらも「それなら見に行ってやる。なんぼのもんじゃい。」てな“横柄な”態度にもなれる。もし内容に不満があった場合、遠慮なく「来いっつったから行ってやったのにこの程度か。」と文句のひとつも言い易くなる。そういう「内容が芳しくなかったら遠慮なく、そして容赦なく叩かれる」状況に、彼女は自らを追いやったのではないか。いうほど自信があるわけでもなく、うまくいかなかったらどうしようと不安に苛まれつつも。やっぱり、自分に厳しいひとなのだ。だから、あなたもライヴに不平不満があれば、どんどん言ってやればよい。それが彼女の望むところなのだから。

そして、それと同時に、彼女が昔と変わらず、いやそれ以上に今「すっげー切ない」心持ちでいることも、覚えておいてほしい。自信満々な態度の裏にそういう「決意と覚悟」があったことを知れば、同じ不満の表明をするのでも、言い方を変える気にも少しはなってくれないかなぁ、とちょっと淡い(甘い)期待をする筆者でした。まる。


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[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.55


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2006年8月18日(金曜日)【2006.8.19up】

金曜日のさいたまスーパーアリーナ


今年の夏は誕生日でいっぱいだ! ショウの前に今夜もまたバックステージでウタダ・ユナイテッド・スタッフの何人かのためにお祝いをいくつもすることができたよ。

今夜のショウは「リアリー・グッド」だったよ! ウタダ・ユナイテッドのバンド・サウンドがまさにそうだった。場内のムードをまさに手中に収めた感じで、ファンのみんなも気に入ってくれていたようだった。あんなに多くの人たちが音楽やパフォーマンスと結びついているのを見られたのはとってもクールだったな。僕の感触では、この2日間のパフォーマンスならDVDはよいものになると思う・・・特に、ショウに参加してくれた観客のみんなのおかげでね!
(これを読んでる中で)誰か、今夜のショウを見てくれたかな? 今週行われた2つのショウ両方を見てくれた人はいるかい?


来週ウタダ・ユナイテッドは北海道に行く予定だから、、、そこで会おう!

--- パット・ウッドワード

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訳者より: パットさんは、写真を撮影してUPしたりしないのかな~?? トミーは前に自分のブログで舞台裏(楽屋?)の様子をUPしてくれていたりしたけれど、パットさんはカメラ持っていないのだろうか。さすがに公式ブログに自分の顔をのっけるのには抵抗があるかな。(笑) 会場でパットさんを見掛けても素通りしてしまうひとが、今のところ多いだろうなぁ。バンドメンバー以外では、UDUD2006のスタッフの中ではいちばん名前が通ってるひとのうちのひとりだと思うんだけれども♪ 代々木でもし会えたら、握手してお礼が言いたいです☆(*^.^*)


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[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.53


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2006年8月17日(木曜日)【2006.8.18up】

さいたまスーパーアリーナでの木曜日

今日は二つの意味でビッグな日だ! さいたまは、ウタダ・ユナイテッドが今までに演奏した中で一番大きいアリーナなんだ。更に、この2日間には、いつもよりも多くの人たちが新しくウタダ・ユナイテッド・ツアーのために働いてくれている。というのも、さいたまでのショウがウタダ・ユナイテッド・2006のDVDとして録音されているんだよね。今夜のショウは悪くなかったし、ファンのすごいことといったら! きっと明日のショウはもっとよくなっていくだろうね。思うに、トウキョウでのショウとなれば、日本中から何人ものエネルギー満タンなファンのみんなを誘き寄せれることになるんじゃないかな。(笑)

(これを読んでくれてる人のなかで)今晩のショウを見てくれた人はいるかな? さいたま・スーパー・アリーナでのショウはどう思った?(それをコメントできかせてください)

みんな、明日さいたまで会おう!


--- パット・ウッドワード

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※ 2006-08-18 17:28:30 昨夜の最高のショウをどうもありがとう!(same birthdayさん)/ こんにちは、私の夢・ヒカル・そしてみなさん! 昨晩の鳥肌の立つようなショウをどうもありがとう! 昨日の夜はカナダの友達とコンサートを見に行きました。彼女はカナダにいたころからのヒカルのファンなんですよ! 今は私の故郷である鹿児島で働いていて、さいたまでのライヴを見るために遠路赴きました! わおっ! 私はというとデビューのころからヒカルのことが好きで2回ライヴを見たことがありました。とても楽しかったですよ。あれから2年また彼女に会えてとても興奮したし、ウタダ・ユナイテッド・2006は今まででベストでした! 最初の30分はあんまりにも大喜びしすぎて圧倒されてしまって涙が止まらないくらいでした。ヒカルとヒカルの歌っていうのは、自分たち観客にとって大きな大きな影響をもっていたことに気づき心から感動しました。もっとちゃんと彼女に感謝のことばを伝えたかったです、、、。(私のいってることちゃんと伝わってればいいんだけど) さいたまでの2つのショウがDVDのためにレコーディングされるとききとぉっってもハッピーです! 見たくてたまりません! いつ発売になるのでしょう? ともかく、これからのツアーも頑張ってください。いつの日かまたヒカルとライヴで会えるのが待ち切れません。ご自愛下さい。すばやいコメントをどうもありがとうパット!

※ 2006-08-19 21:44:06 今回は私のウタダ・ヒカル初体験でした! このツアーをしてくれてどうもありがとう!(arjaeyさん)/ ついにヒカルのライヴを見るまでの長い長い我慢のときが終わった!!! 意ままで参加したコンサートの中でもベストでした!! あそこにいたのが未だに信じられない…彼女に合うのは私にとって6年越しの夢でした…それがやっと叶った…最初のシングル「Automatic」の頃からのファンだったんです。そのころフィリピンに住んでいたんですが、私の友達や親戚のほとんどみんながヒカルの音楽を聴くことになりました…というのも、私が彼女のCDやDVDを集め始めたからなんです。今では私はここ埼玉の川越に半年間住んでいます。この日をどうもありがとう! 一生大切にすることでしょう。それと、さいたまでのパフォーマンスをウタダ・ユナイテッド・2006のDVDに選んでくれたのにも感謝したいです。きっとこのDVDを3枚、いや、それ以上買わせていただくことになるでしょう!!! 彼女のパフォームをもう一度見るために、このツアーの他の会場のチケットも買えたらと願ってます! パットさん、この英語のツアーリポートをどうもありがとう。ウタダヒカルさん、1999年から私の魂であり続け、このいちフィリピン人の大きな夢を2006年8月17日についに叶えてくれて、どうもありがとう。そして、このツアーを実現させるためにがんばってくれた総てのひとたちにありったけの「ありがとう」をっ!


※ 2006-08-20 01:53:59 ワォワォワォ(suhさん)/ チョーーーーーよかった! 素晴らしかったよ! でも、ちょっとヒカルの声が心配だよ、、、喉の具合がね。ちょっと疲れてるのかもしれないから、大事にしてね! いやでもやっぱり私は彼女のパフォーマンスとハスキー・ヴォイスが大好きです! もちろん、ビデオもね! バンドメンバーも! その調子でがんばって♪ スタッフのみなさんとくま・ちゃん(笑)、どうもありがとう! どれだけ私が感動したかをどうやってことばで表現したらいいかわからないくらいだよ。彼女の曲に感動した、っていうのはもちろんだけど、あんな痛そうなノドであんなに力強く歌ってくれたっていうことに感動したわ! わたしたちのためにっ!! Hikkiに私が叫んだ「ヒカルー!! ヒッキー!!」っていう声が届いてるといいなぁ。(笑)

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訳者より: 今回は翻訳が3日ほど遅れてしまったので、その間にコメントしてくれたお三方の熱い熱い文章も併せて翻訳させてうただきました。彼らの感動っぷりが、伝わってくれていることを望みます。しかしパットさん、うまいこと正直に書くねぇ。(笑)



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WEB上でこのテの文章を読んだことがないので、このテーマについての「決定版」を書いてみようと思い立って10000字。彼女の歌唱力について掲示板やブログで論争が起こったときには、好きなだけ引用してくださいな♪

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宇多田ヒカルは、僕の知るJ-POPシンガーの中で「もっともうたのうまい」女性歌手である。漢字で書くとすると「最も歌の上手い」となるだろうか。これは「どんぐりの背比べ」の中で一歩ぬきんでてる、ということではなく、「そもそもひとりだけ次元が違う」という意味での「最も上手い」である。しかし、恐らくこれについては、かなりの反論が予想される。大きなコンセンサスがすぐに得られるとは思わない。私の云わんとすることを納得してもらう為には、幾許かの説明が必要になると思われる。

そもそも、「歌が上手い」とはどういうことか。この認識を正確にしなくては、誤解が生じるのは避けられないだろう。恐らく、この時点で既に私の認識は少々特異であり、だからこそ反論を受けるのが不可避なのだと思われる。

歌とは、声による音の連なりである。そこでの「歌が上手い/歌が下手」とは、どういうことか。その為にまず、ほかのジャンルでの「上手い・下手」について考えよう。スポーツや料理でも「上手い・下手」という表現を使うが、それはどういう意味でだろうか。前者では「できる・できない」というかなり客観的に測られる点において、後者では「美味しい・不味い」というかなり主観的に測られる点においてそれぞれ、その仕事自体やその仕事をもたらした人間に対して、「うまい・へた」という表現が使われる。もちろん、スポーツにおいても「美しいプレー」などといった表現が存在するという意味では「美味しい・不味い」という観点があるし、料理においても「常人にはマネできないものすごい包丁さばきができること」を料理人が誇り周りが喝采することはもちろんある。しかし、それぞれは価値基準としては副次的な要素であって、スポーツでは速く走れた人は速く走れなかった人に対して必ず勝つし、料理の価値はそれを美味しいといってくれる人をどれだけ集められるかにかかっている。結局、それぞれ「できるかできないか」「美味しいか不味いか」がその分野での主眼となる(スポーツには「採点競技」もあるけどね。ややこしいのでここでは一旦捨象させて頂きますあしからずっ)。そして、その観点にどれだけ適うか、という基準においてよしあしをはかるために「うまい・へた」という表現が使われる。

では、歌での「上手い・下手」というのは、どちらのことをいうのか。“スポーティ”な意味でだろうか、“料理的”な意味でだろうか。これが、両方なのである。「技術的な上手さ」と「人に感動なり感情なりを与えるという意味での上手さ=美味さ」との、両方があるのだ。

最初に、“スポーティな”「上手い・下手」について考えてみよう。「できる・できない」即ち「歌える・歌えない」という話である。歌の技術で重要なのは、音域と音量とその正確さだ。高い声から低い声まで、大きな声から小さな声まで、それぞれ出すことができ、しかもそれが「出来る限り高い精度で自在に出せる」ことが要求される。たとえば速いテンポの短いパッセージの中に高い音から低い音へのジャンプや小さい音から大きな音への急激な変化などが盛り込まれていれば、その歌の難易度は高くなるだろう。宇多田ヒカルの曲でいえば「Movin’On Without You」とか「プレイ・ボール」とかだろうか。また、高い音を長く安定して出し続けることなんかも難しい技術のひとつだ。ということは、裏を返せば狭い音域において中庸なリズムで意外性の少ない流れのメロディを歌うとなると、難易度は低くなる。ヒカルの曲で言えば、「Automatic」なんかはカンタンな方ではなかろうか・・・彼女のレパートリの中ではね。とにかく、難易度が低いにしろ高いにしろ、その歌の楽譜に書いてあることをできるだけ忠実に正確に再現できること。それが、“スポーティな意味”での「歌の上手さ」ということになる。(ここでいう“楽譜”とは、音程やリズムや抑揚や大小や、そういったありとあらゆる指示全体のことをさす。実際に紙の楽譜とかで存在する必要はない。いうなれば、作曲者やプロデューサの『歌手や演奏家に対する要望や希望や指示など』を抽象的に“楽譜”と呼んでいるのだと思っていただければいい。以後も同じことばの使い方をする)

次に、“美味しいか不味いか”という意味での「上手い・下手」について考えてみたい、、、ところなのだが…なにぶん、これは非常に主観的な要素が大きい。99%の人が「美味しい」と考える料理でも、残りの1%のひとたちは肩身の狭い思いをしながらもやっぱり「不味い」と答える。100m走であれば高速回転ビデオを使って幾らでも細かく検証していけば最終的には誰が一番速かったかについて100%総てのひとが納得する答えを導き出せるだろうが、料理の方はそれとは事情が違っていて、いくら成分分析して甘み成分がどうのバランスチャートがどうの、とかいう話をしようが、その人が「まずい」と思ったら不味いのである。いろんなセッティングを工夫して将来それを美味しく感じるときがくるかもしれないが、それはあくまで「そのときになったら」の話だ。今とにかく目の前にいる人が美味しいと感じなければとにかく意味がないのである。

なので、料理的な意味での「上手い=美味い」を、音楽・歌に適用するときにも、同様のことが起こる。99%のひとが「あの歌に感動した」と言おうが言わまいが、残りの1%のひとたちが「別にぃ」といえば、それまでなのだ。単純に、「感動した」というひとが多いか少ないか、くらいしか、客観的に歌が「上手い(美味い)」かどうかの判断基準はないのである。

つまり、宇多田ヒカルは、今までの日本女性ポップシンガーの中で一番レコードを売った、その分、今までで一番多くの人をその歌で感動させた、だから彼女が「最も歌の上手い」ポップシンガーだ、、、、という結論を安直に導いてしまいそうになるが、それではいくらなんでも面白くない。私がここでいいたいのは、それとは全く別の観点についてである。


同じく、料理を例にとって考えてみよう。美味しい料理を作る人を「料理がうまい(上手い)人」と呼ぶのは抵抗がないと思う。しかし、ではなぜその料理はうまい(美味い)のか。なぜ、その料理は美味くなったのか。 もちろん、料理人の人が卓越した料理技術を持っていて、レシピ通りに料理を作れることがまずは大事にはなる。それはもちろんだ。しかし、それよりも何よりも更に大前提となるのは、その「料理をおいしくするレシピ」がまず最初に存在することなのだ。あまりにもわかりきったことなので逆に見落としがちだが、あなたの手元にある料理本のレシピは、どこかで誰かが開発しなければ、そこに書かれることはなかったはずだ。もちろん、たった一人で発明・発見した場合もあれば、長年の歳月を経て徐々に改良されていったレシピもあるだろう。でもとにかく、まずは「これをこうすれば美味しく料理が出来上がりますよ」という保証をしてくれるレシピを誰かが持ち込まなくては、話にならない。美味しい料理は永遠に出来上がらない。

これは、歌についても言えるわけだ。いくら、すさまじいダイナミックレンジを持ち(即ち、大きな声から小さな声まで自在に出すことができ)、広音域を誇り(高い声から低い声まで出せて)、さまざまな歌唱技術を自在に操れる(クレッシェンドがうまく出せる、とか、エアの入れ方がうまい、とかスキャットやラップやヴィブラートやボイスパーカッションや、とにかくいろんなことができる、といったこと)ような歌唱力を持っていたとしても、それを活かすための「いい歌の楽譜」がないと、何にもならないのである。どれだけ淀みない滑らかなクレッシェンドを歌えても、それが効果的に使われる場面なり場所なりがなければその技術は活きない。どれだけ高い音を長く出せても、それが音楽の中で活かされなければ、単なる見せ物に終わってしまう。感心はされても感動は与えにくい。(といいつつ、余談ながら、ひとの鍛え上げられた技術の披露は、それだけで僕を感動させることが、過去何度もあった。だから、あくまでも一般論ね) 技術“だけ”あっても、一向に人を感動させることはかなわないのだ。

そして、宇多田ヒカルは、その「最高の歌の楽譜」を用意できる人であり、その最高の歌の楽譜を、レコードに見事に録音する術を知った人間なのである。

「それって結局、Hikkiは作曲能力の高い“いいソングライター”だっていう話であって、ついでにそれに見合った歌が唄えるって程度のことじゃないの?」と言われそうだが、もちろん、話はそれ(作曲能力)だけには留まらない。それに加え、歌唱に関してもうひとつ非常に重要な点において、彼女は抜群に秀でているのである。それが最も如実に現れるのが、彼女が今まで何度か取り組んできたカヴァーソングたちにおけるパフォーマンス、になる。これらは、どれも人の作った曲。彼女の作曲能力は直接は関係がないわけだ。更に彼女は、大体メロディラインをそんなに大幅に変えずにカヴァーする。自分独自のメロディ変更は少なめにとどめ、原曲を尊重して歌ってくれる。しかし、なのに多くの人が彼女のカヴァーを聴いて「オリジナルより素晴らしい!」と絶賛する。私についていえば、(オリジナルにもたくさんバージョンがあり、それについて全部を聴いたということはないものの)オリジナルよりかなりよい、と思ったのは、「I Love You(尾崎豊)」「少年時代(井上陽水)」「With Or Without You(U2)」「Boulevard Of Broken Dreams(GREENDAY)」といったところだ。繰り返すが、彼女はオリジナルのメロディを大幅に変えたりといったことはしない。しかしこの宇多田ヒカルという女性は、メロディの魅力を、楽曲の魅力を最大限に引き出すためには、どのことばを大切にするべきか、どの音を強くどの音を弱く歌うべきか、どんな声のトーンをどの場所で使うべきか、そういった歌唱に関するありとあらゆることを理解し見極める能力が極端に高いのである。ここが僕が今回最も強調したい点なのだ。(当然、それは自らの楽曲の中ででも光り輝いている。ただ、彼女の歌はなかなかカヴァーされないので比較対照対象に乏しく、その差異(音楽に対する理解能力の差)を感じる機会が、なかなか与えられない、というだけなのだ。最初っから彼女による“最高の歌い方”で歌われて世に出てしまっているわけだから、あとから歌うひとがいたとしても、それをそのまま真似るだけになる。(それだけの技術があることが前提になるけれど))

つまり、宇多田ヒカルというひとは、最高のソングライターであるというだけでなく、よりよいヴォーカリゼーション(歌のパフォーマンス)を見出すことに恐ろしく長けた最高のヴォーカル・プロデューサなのである。私が「彼女は日本一歌がうまいフィメール・ポップシンガーだ」と冒頭に言ったのは、彼女が、どう歌えばいいかを見極める能力を持ち更に自らその“理想の歌唱”を実践してみせることが出来る、という二つの能力をとんでもなく高い次元で併せ持った、他に類を見ることのできないほとんど唯一無二のリアルタイム・ヴォーカル・プロデューサである、という意味だったのだ。(つまり、自分で実際に歌うことができる上、その中でよりよい歌唱方法を見出す能力がある、ってこと)

ということは宇多田ヒカルは、“スポーティな”意味だけに限っていっても、「歌のうまさ」も非常に高いレベルで持ち合わせている、とはいえるわけだ。レコードに録音された歌唱の音程の正確さには凄まじいものがあるし、それ以上にリズムの精確さにおいて彼女は抜きん出ている。金切声ともいえる高い声も出れば、“おっさんのような”と自ら述べる男声のような低い声も出る。音量や音程の変化の激しいパッセージを歌っても、その音程やリズムの正確さは殆ど失われない。そういう能力がなくてはそもそも彼女自身が用意した「最高のレシピ」を実際に歌として表現しレコードに収めること自体かなわないのだから。しかし、そういった「スポーティなうまさ」という点に関しては、彼女はJPOPシンガーの中で一番かというと、これは少しわからなくなる。特に、声量に関しては、ヒカル自身自らの楽曲の特色にあわせた音量で歌うことを心がけているので彼女の能力が些か割り引いて捉えられているかもしれないことをちゃんと考慮に入れたとしても、他のひとたちと比べて一番ということはないだろう。もっとデカイ声で歌えるヤツは結構いるはずだ。しかし、低い声に関しては彼女くらいうまく出せる人間はかなり限られてくるだろうし、R&B独特の抑揚ある節回しを歌えるシンガーとなると、これはもうほとんどいないといっていい。しかし、彼女ひとりだけ、ということにはならないだろうねきっと。

でも。でもですよ。先述の「音楽をよりよく、より深く解釈・理解する能力」という点に関しては、他の日本のポップシンガーとは全く、全く、全く比べものにならない。彼女たちは何度も僕をガッカリさせてきた。せっかく「あ、この娘はいい声を持っているな」と思っても、実際に楽曲を歌い始めると、「そこは強く唄うところじゃないだろう~」とか「そこのヴィブラート要らない。無意味。」とか、そういう愚痴が必ず出てきたものだ。きっと、周りから「歌が上手い」と囃し立てられると、どうしてもその技術の高さを披露することに重点を置きがちになり楽曲の魅力を引き出すことが疎かになっていたからなのだろうな。いや、それどころか、もっといいアプローチがあることにすら最初っから頭がまわっていなかったのかもしれない。更にいえば、“本場の”シンガーたちが、どうしてそういう歌い方をするのか、という点について深く考え、深く感じたこと自体がなかったのではないだろうか。なんかしらないけど彼ら彼女たちが海の向こうで売れているから、彼ら彼女たちのマネをして歌えばカッコイイのだろうたぶん、という気分で、海外の本格派といわれているシンガーたちの技術だけを真似て、その真意、そのソウルを学び取ろう、という気持ちが、そもそも欠けていたのではないか。だから、日本においてはいつまでたっても「オリジナルのポップ・ミュージック」が誕生せず、海外のオリジナルな音楽のコピーばかりを再生産するハメになってきたのではないのだろうか。

そして、その“悪癖”(と敢えて言い切ってしまおう)は、いつのまにかファンをも侵食していった。音楽が感情や感動や思想の表現であることを忘れて、外側から見える雰囲気や見た目の技術にだけ気をとられる送り手側の態度に乗っかり、そのような見た目のよさだけで判断する風潮が、ポップシーンの主流を占める結果となった。実際、オリジナルの音楽表現を苦労して開発するより、そうやって最初に爆発したオリジネイターの音楽を真似た二番煎じの楽曲を作って「○○風」とかっていって売り出したほうが、よっぽど楽だし儲かる。つまり、多くのファンに受け容れられてしまう。特に、日本という国は英語の歌に対してかなり根深いレベルで抵抗がある国だから(日本語と英語が余りにも音声学的に違うせいだと思われる)、英語で歌われたオリジナルの音楽より、それを真似た「○○風」の楽曲に日本語詩を載せたもののほうが断然売れる。それだったら最初っから「日本語カバー」として売り出せばよいようなものなのだが、オリジナルに対してのリスペクトが希薄なため(もしかしたら音楽を金儲けのための手段だとしか思っていないのかもしれないが、よく知らない)、パクって自分たちの楽曲として売り出して作曲印税をせしめてしまう。結局、いつまでたっても「オリジナルの音楽」に対する尊敬は育まれず、邦楽シーンはどんどんどんどん永遠の自転車操業に追い込まれていくわけだ。

そんな中にいきなり風穴を開けたのが、1998年の宇多田ヒカルの出現だった。その非常に高度な技術に支えられた絶品の歌唱からはフィーリングやソウルがとくとくと溢れ出で尽きることがなく、その音楽はまさに本格派としかいいようのないオリジナルとしての輝きに満ち溢れていた。しかもそれまでの“本格派”たちとは違い、歌詞が日本語だったのだ。(日本人が居なかったのだから当たり前だ) もちろんメロディは誰からの拝借でもない彼女独特のものであった。つまり、J-Popシーンに殆ど初めて「世界に通用するオリジナリティの可能性をもった歌」が出現したのである。これが爆発的に売れた。唖然とするほど売れた。呆れ果てるほど売れた。当初、最初に出てきたときはアレンジャーとしての能力が皆無だったためサウンド自体は「和製R&B」として片付けられてしまっていた感があるが、それも以後自身でアレンジやプロデュースの能力を高め実践していくことにより、まだまだ未完成ではあるが、年々少しずつ「宇多田ヒカル&UtaDA独自のサウンド」を構築しつつある。それが今の現状である。いきなり物凄い高みに現れてひとを圧倒したかと思ったら、以後も急激な速度でさらにその上を狙い続けて、実際に階段を昇り続けている。このような「他多数を大きく引き離した上更に向上を続ける、というとんでもない才能と努力の結晶」の存在を、売上の減少とともに皆が忘れつつあるのは悲しいことだ。或いは最初から、去っていったひとたちというのは熱に浮かされていただけなのかもしれないか。であるならば、逆にいえば今ファンとして残ってくれているひとたちは、純粋にヒカルの音楽そのものを聴いてそのソウルやフィーリングを実際に感じ取ることができた、「まっとうなファン」ばかりなのかもしれないね。それなら、僕のようないちファンとしては実に居心地のいい話ではあるな。前言撤回。悲しくないや。とっても楽しい。(笑)



・・・話がそれた。閑話休題。ここから後半。てゆうか余談。



しかし、ここで困った問題がある。そう、もうおわかりだろう、ライヴでの歌唱力だ。彼女のライヴでの歌唱能力の評価は、甚だしく一定しない。UDUD2006だけに限っても、その評価の振れ幅は本当に同じ歌手のコンサートに行ったのか貴様ら!?と疑いたくなるほどにいろいろだ。それだけ彼女の歌の出来不出来にはバラつきがあるらしい。それが事実ならば、もっと安定してどのコンサートでも同程度の歌唱を披露してほしい、と期待する向きも出てきて当然だろう。ところが、ここで求められているその“歌唱力”というのは、さきほど私がさんざ貶しまくった(つもりはないんだけど、読み返すとそうとしか取れないからそう言っておきます(苦笑))「オリジナルをコピーする能力」の方なのである。もう既にヒカルの曲は総てCDの中に「お手本」として収まってしまっている。いうなれば、レシピは完璧なカタチでもう存在してしまっているわけだ。ファンのほうはというと、これをしこたま聞き込んで殆ど「模範的回答」として胸に秘めて会場に向かっていってしまう。ということはいきおい、その歌唱に対する評価は「減点法」にならざるを得ない。最高のレシピがあって、それをちょっとでも間違うと、ほぼ確実に味は落ちてしまう、という感覚・価値観だ。「100点」の歌唱が聞き手の心の中にあって、コンサートの2時間の中で、そこからハズれたことをするたびに「あ、ここが違った」「あそこも違った」と100点満点からどんどん減点されていく。結局、ライヴなりに歌っただけでは「CDのほうがよい」となるし、苦労して完璧に歌い切っても「CDとおんなじ」までの評価しか得られない。(ただ、先ほど僕も括弧書きでチラッと触れたようにそういう「(再現)技術を極めた」パフォーマンスも、かなり高度になれば人を感動させることはできるんだけどね。)

しかし宇多田ヒカルというひとは、そういう「オリジナルを忠実に再現するコピーヤーとしての能力」が、さほど高くないのである。本人に余り興味がない、というべきか。まず何より第一に彼女は、すばらしい楽曲(と歌詞と編曲)を無から生み出すことのできる、創造者、ベスト・クリエイターなのだ。次に第二に、その生まれ出てきたすばらしい楽曲の何たるかを理解し解釈することに長けた、ベスト・(ヴォーカル・)プロデューサーでもある。また、そのベスト・ヴォーカル・プロデューサとしての厳しい視点に耐えうるだけの技術を備えた、グレイト・シンガーでもある。しかし、そうやって最終的に生み出されレコードに記録された歌唱を、「どんな場所どんな時期どんな状況下においても、オリジナルに忠実に再現する」能力だけが、かなり欠けているのである。TV番組「トップランナー」において、ひとつだけ成長の遅れたペルソナがある、といっていたのは、まさにこの点であったのではないかと私は考えている。(※ あの番組で触れていた“3つのペルソナ”とは「普段の自分」「創る自分」「舞台の上の自分」のみっつだから、ちょっと解釈としては間違っているかもしれない)

しかしどうやら、彼女はその“オリジナルを忠実に再現する”という「ベスト・コピーヤー」の立場をあまり目指していないように思えるのだ。寧ろ、その場その場で感じたことを音楽に乗せて、その都度新しい何かを発見し表現する「クリエイター」としての立場で舞台上のパフォーマンスを成長させていきたい、とそう考えているようにみえる。しかしこれはもちろんリスクが大きい。もしその場で感じたことが何もなかったとすれば、そこに唄われる歌は感動させるものが何もない空虚な音の塊になってしまうだろう。フィーリングやソウルというのは、どの瞬間にどこから現れてくるものか前もっては誰にもわからないものなのである。(だからこそそれを音楽に封じ込めるのは殊更難しいし、それを音楽にすることができたときの感動は何物にも換え難いものがあるのだ。それくらいの何かがないと、彼女のように命がけで音楽に取り組んだりはしないでしょう?) 逆にそのときに大きな感情の昂ぶりがあり、更にそのフィーリングそのソウルを捕まえて歌に封じ込めることに成功したならば、それはレコードでは聴けない非常に特別なパフォーマンスとなるだろう。これは、「コピーヤー」としての立場を貫こうとすると、全く出会えないケースになる。こちらは既に「正しい答え」が決まっている中での頑張りということになるが、「クリエイター」としての立場というのは「新しい答え」を見出す頑張り、ということになるだろう。まだどこにも「100点満点の模範解答」がない中で、ひとを感動させる、人の感情を喚起する新しい何かを見つけ出す・・・これが非常に難しいことは想像に難くない。そして、それが失敗に終わったときに如何に無様になるのか、もな。

だから、(今後はどうなるかわからないけれども少なくとも今の段階では)もし貴方がまた宇多田ヒカルのコンサートに行くとするならば、CDの完全再現を期待するのは賢明ではないかもしれない。そして、もしかしたら、行ってみてそのあまりの無様さに落胆するかもしれない。しかしもしかしたら、レコードとは全く違った「新しい感動の創造の瞬間」に、立ち会えるかもしれない。これは、賭けである。まさにリスクだ。Wait&See、どうか彼女にチャンスをくれないか。一度行っただけでは、その“特別な瞬間”に立ち会えないかもしれない。どうなるかは、成功するか失敗するかは、事前には誰もわからない。落胆するか、レコードでは決して体験できない感動に巡り合えるか。そのスリルも含めて楽しめる性格のひとが、いちばん宇多田ヒカル&UtaDAのライヴを、楽しめるのではないかな~。


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ベンジャミン・ブリーグ;ついに真実が、、、

2006年8月14日

私の調査は終局を迎えたのではないかと感じている。
コンタクトをとっていたルーマニアの人物がこれから私に会いに来る。私の感触では、彼の到着がベンジャミン・ブリーグに関して探していた答えを最終的に与えてくれそうだ。私の従兄弟が所有していた何かを彼が携えてもいると彼がいうのを聞けたことを思い出すだけで、私は自分を抑え切れなくなりそうになる。とはいいつつも、彼はそれが何であるかについて特定しようとはせず、ただ“ジャーナル”を持ってくるとしか説明してくれなかった。私の従兄弟の日記であるということだろうか。となると、何故どうやってその男がベンジャミン・ブリーグの日記を所持することになったのか想像もつかない。既に私が何ページかを読んだそれと同じ日記なのだろうか? いや、そんなはずもないとは思うが。

その男は8月18日にこの国に到着する。テロリストからの警告によって空港で巻き起こっている諸問題が彼の来訪を妨げることがないよう今はただただ願うばかりだ。なにしろ彼は、私と空港で会うわけにはいかない、あなたの自宅に伺います、と強く主張してきたのだから。(私の住所は予め彼に伝えてある)

彼はまた、私の従兄弟について知る限り総てのことを教えるともいってくれた。ベンジャミン・ブリーグが自分のもとから持ち去ったものがあるのでそれが戻ってきて欲しい、というような意味のこともいっていた。それが果たして何なのかは言おうとしなかったが。私にはとても従兄弟が泥棒のような真似をするとは思えない。しかしそれも男が到着すれば洗い浚い説明してくれるはずだ。

この邂逅の先の展開を思うと興奮と不安が私を襲う。私が従兄弟について知りたい事柄が余りにも多いとはいえ、男にとってそこまで重要であるとは思えない訪問のために、この遠距離の行程を旅してきてくれることになろうとは想像もつかなかった。今私は彼の到着を待ち焦がれている。未だ解明されていない多くの謎が存在するわけだが、その男は私が今まで得ることのできなかった答えの数々を提供してくれるだろうと感じている。ただ、私が彼の秘密主義者ぶりにやや焦らされ気味であることは認めねばなるまい。この国のどこでだろうが彼のいる場所まで会いに行けるだけでも満足過ぎる程なのに、男は頑なに私にそうすべきではないと拒否しているのである。とにかく自分が到着した時にはあなたは家で独りでいるべきだといってきかないのだ。

尤も、一番奇妙なのはその男が私に自らの名を明かすのを躊躇っていることなのだが。

男は、我々がひとたび相見えればこの謎に対する答えを突き止められるだろうと言う。それを願おう。
ベンジャミン・ブリーグに関する真実をやっと解明できることを祈りながら。

A.ブリーグ



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引き続き煽り口調でライヴに対する観客としての態度の話です。後半はちぃと個人的な話になっちゃいましたが(^∇^ヾ

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ライヴの観客になる、ということを、家のリビングでテレビを見たり部屋で本を読んだりすることと同義と考えるケースがある。これは大きな間違いではなかろうか。ライヴの観客になるということは、いうなればテレビの中に飛び込んだり、本の中の世界の(例え通行人役としてでも)住人になったりすることに近いと思うのだ。それはきっと、ただ流されてくる情報を何も侵すもののない状況で享受するのではなく、その流れの中に飛び込んで、ときには流れの潮目を変える役割すら果たせる“参加者”になるということなのだと、筆者は考える。

「そんなことはない。私は、どんなライヴにおいても、殆ど反応を示さない。必ず傍観を決め込む“鑑賞者”でしかない。“参加”なんて、しているつもりはない。」という人もいるかもしれないが、それはちょっと違う気がする。というのも、実は僕もかなりのライヴにおいてその“傍観する鑑賞者”のスタンスで臨んできたのだが、そのたびに(全く僅かであるとはいえ)自分がひとりの人間としてそこに存在することの影響を消すことはどうやってもできない、と何度も痛感してきたからだ。確かに、声援を送ったり腕を振り上げたり身体を動かしたり、と目や耳で捉えることのできる所作動作があればいかにも“参加している”という印象を人はもつ。しかし、そこにそうやって「黙って座っている」こともまた、ひとつの所作・動作といえるのだ。必ずそれは周りに影響を及ぼす。(「沈黙もまた答えです」byナウシカ) そういう人が多数になる場面を想定すればわかりやすいだろう。複数の人が掲示板で「自分は盛り上がりたかったのに周囲がみんな冷めていて気持ちが乗り切れなかった」ということを書いていた。これを安易に“水をさす”とは形容したくないが、ただ黙って座っていることが周りに影響を及ぼした、という点では、たとえば真ん中に物凄く盛り上がってる人がいてそれにつられる形で周囲の人も高揚してくる、といった典型的な盛り上がりケースと結局は同じことである。影響力という点ではね。特にこれはクラシックのコンサートでは顕著であり、数千人、ときには数万人のひとが、ひとつところに集まって一言も話さずに一点を凝視し注目を集中させる、という冷静に考えれば凄まじく異様な空間がそこに出現するのだ。その“特異な(非日常的な)空間を創造する”ことについて、そこに集まった観客たちひとりひとりは何千分の一ずつであるとはいえ“ただ黙って座っている”ということによって、間違いなく「寄与している」といっていいだろう。この場合、ただ座って黙っていることが何よりもの“ライヴへの参加”であり、結果それが舞台の上の演者に対して大きな影響力を行使することに、なる。家でアナログテレビを見たりマンガを読んでいるだけでは、こうはいかない。逆立ちしてもでんぐりかえりしても、コンテンツの内容は変わらないのだ。(マンガに塗り絵して全編カラーに書き直してもいいけどね~、でも作者には何の影響も及ぼさないでしょう?お便りを出さない限りは) しかし、ライヴは違う。必ずアナタはそこに居る。それは覆しようのない事実なのだ。「黙って座ってることも参加形態の一種」であることに気持ちが至れば、周囲への影響を考えずに「俺達は客なんだから好きにさせろ」と傍若無人に振舞う気も失せるはずである。『全く厨房に立つことなく(つまりお金を払った対象に影響力を行使する機会を一度ももたずに)出てきた料理を食べて美味い不味いといえ済むようなレストランでの“客”』のように振舞うのとは、わけが違うのだ、ライヴの観客という立場は。

僕がこんな風に考えるようになったのは、どんなジャンルのコンサートに行っても、余りにもチケットの値段が高かったからだ。「それとこれとに何の関係があるんだ?」と思われるかもしれない。思考過程の顛末はこんな感じ。最初のころ、上述のように僕は、できるだけ「傍観者」になって、公演の内容をできるだけフェアに「鑑賞」して「評価」しようという態度でライヴに臨むことが多かった。しかし、そのスタンスで実際に会場に行っても、払った金額に見合った演奏を聴かせてもらえることは非常に稀であった。中には余りにも生演奏が凄まじ過ぎて「なんでCDはあんなに気のない演奏やねん」と思ってしまうようなこともあるにはあったが、やっぱり殆どなかった。大体において、CDのほうが歌はちゃんと歌えてるし、サウンドはずっとキレイだし、会場で聴くことのメリットといえば、家でヘッドフォンで聞くより(音は少々悪くても)でっかい音量で聴けることと、ライヴならではのアレンジを聴けることくらいだった。(洋楽が多いのでMCは元々期待していない) しかし、実はそれも冷静に考えれば、ただデカイ音で聴けるのが嬉しいのならわざわざ海外から高い渡航費払って演奏者達を呼ばなくても、PAだけ用意してCD掛けてくれたほうがずっといいわけだ。実際、そういう風にいろんなバンドの曲をライヴハウスでDJのひとがCDで大音量で掛けてくれるイヴェントとかあるしね。そっちのほうがずっと安く済むし、名曲ばかり揃えてくれるからずっと楽しい。また、ライヴならではのアレンジ云々といっても、後日西新宿に行けばチケット代よりずっと安価でそのときの公演の海賊盤が手に入るし、そっちならライヴと違って何度でも聴き返すことができるからコストパフォーマンスはずっとイイ。だって、ライヴってCDの2倍~4倍くらいの値段がするのだもの。それなのにライヴのほうは楽しめるのはたったの2時間。ブートレックCDを10回聴き返せば結局、単位時間当たりのお値段は50倍とかになるのだ、チケット代というのは。これは凄い差である。やっぱり、「音楽を鑑賞」しに行くという目的だけでは、6000円とか7000円のチケット代は非常に割高感があった。(例外なのがクラシックのコンサートで、何しろ生楽器生歌唱だからCDよりも抜群にサウンドがいい。あれは、それだけでも高いお金を出して生演奏を聴きにいく価値があるw(もちろんそれ以外の価値もあるよん))

しかし、そこで僕は翻って違う考え方をしてみた。ライヴというのは「アーティストとファンがお金を出し合って一緒に作り上げる“作品”なんだ」という風に。こう考えると途端に気が楽になった。まず好きなアーティストが新譜を出したらみんなで率先して購入し、レコード会社及び招聘会社候補に「このひとたちが来日してくれたらもちろんライヴに行きますよ」と圧力をかける。添付されたプレゼント応募葉書にも「来日希望」と書いて投函する。ひとたび来日が決まれば、今度は彼らが来日するための滞在費や渡航費を、チケット代というカタチでファンのみんなで協力して用意し合う。もちろん、会場の設営のための費用でもあるわけだ。そうやって、みんなでお金を出し合って好きなアーティストを招いて、会場を設置して、一緒に歌って一緒に騒いで一緒に腕を振り上げて、お互いのお互いに対する愛情を遠慮なく伝達しあおう、その楽しくて仕方のない空間と時間を、ファンとアーティストが一体になって作り上げよう、チケット代とは、そのための“会費”“参加費”もしくは“制作費”みたいなもんなんだと思ったら、そのCDの何倍もの値段というのが、結構妥当なものに思えてきたのだ。面白いことに、完全に受身で「鑑賞・傍観」して、音楽を“享受しよう”“何かを得よう”という態度でいるときより、そうやって「自分も、自らが愛する音楽の担い手の一部になるんだっ!」と(まぁ、99%カンチガイみたいなもんなんだけどね(笑)残り1%に夢を見たっていいじゃないかw)“創り出そう”“自分も何かを与えよう”というふうに考えるほうが、高いお金を抵抗なく出せたんだよね。あくまでも僕一個人の経験に基づいた感想・印象に過ぎないんだけど。

で、そうなってくると、さっき“観賞・傍観する態度”でいたときに感じていた、「CDに比べて声が出てない」とか「演奏が物足りない」とかいった感想も、全く逆の様相を呈していくる。「なんだよ声出てねぇなぁ」と愚痴をいうことなどせずに、「あそこのハイトーン、お前ライヴで出ないだろう! 代わりに観客である俺たちが歌ってフォローしてやるから、マイクこっちに向けやがれ!!」っていうノリになったこともあるし(笑)、「CDに比べて演奏物足りないねぇ」と落胆したりせずに「中間部、CDだとギターが一本増えてバッキングを補うけど、ライヴではそういうわけにはいかないからサウンドが薄くなっちゃうだろう?? だったら、俺たちがクラッピングして(要は手拍子w)ラウドに盛り上げてやるぜ!」なんて妙に熱くなったこともある。(笑々) そして、そういう風に過ごすのが、にんともかんとも楽しくてたまらないのである。どうせ、周りは、知ってる人も知らない人も結局は同じ音楽が好きなどうしようもないヤツら(笑)ばっかりなんだし、舞台の上にはそのみんなの憧れのひとたちが居並んでいるわけだ。なんだかんだいってそんなふうにやってると、舞台の上も下もおんなじような気持ちになっていくんだよね。(これが感じられるのは、大抵前のほうに陣取った場合に限るんだけどね~) だから、その場限りかもしれないけどそのときにしか味わえない一体感でライヴはどんどんどんどん盛り上がっていく。アーティストのほうも、そのファンのエネルギーに感化されてどんどん演奏に熱を帯びていったり。(でもやっぱりハイトーンは出なかったり(笑)) もちろん、演奏は素晴らしいにこしたことはないし、ハイトーンもちゃんとCDどおりに出してほしいのはヤマヤマなんだけど(笑)、そうやって「ダメじゃん」と諦めてしまうよりは、結果的に何もならなくてダメってことになったとしても、声を張り上げてアーティストにパワーを伝えよう、っていう風に「自らを前向きな気分にすることができる/自分の中の積極性を引き出すことができる」っていうこと自体が、ライヴに“参加する”ことの大きな魅力だったりするんじゃないかな。そして、その積極的な、ポジティヴなフィーリングを掴み取れることの威力は、ただ家でCDを何度も繰り返し聴いたときに音楽から貰えるものより、何倍も何倍も大きい。これをいったん体験すればチケットの値段がCDの2~4倍になってることに納得がいくようになると思う。結局騙されてる/カンチガイしてるだけかもしれないけど。(笑) でも、「お金を払う」っていうのは、そのリターンに対して何よりも自分自身が納得できるかどうか、っていうのが大事なんだから、一応はそれでいいんじゃないかな~。


余談になるが、この「積極性」とか、「アーティストと一緒にライヴという“作品”を共同で創造する」といったことは、ウェブ上での振る舞いにも当て嵌めることができるかもしれない。彼女は結構ファンサイト巡りをしていると思われるフシがあるので、自らが公表したライヴに関しての意見・感想・論評などは、彼女の目に触れている可能性が結構高い。つまり、あなたの書いたことは、少なからずツアー中の彼女に影響力を及ぼしているのである。ライヴに何か不満があったとき、あなたが受身の享受者であれば、もしかしたら「こんなライヴ二度と行くか。つまらなかった。」という感じのネガティヴな表現に終始するかもしれない。恐らく彼女のことだから、テトリスDSのイベントで見せた大人気ないまでの負けん気の強さで、そういったリアクションも明日への糧にしてくれるだろうが、やはり「一緒にライヴを創り上げよう」という積極的・能動的な意識のもとで書かれたリアクションの文章の方が、有体に言って彼女にとってより“役に立つ”ものだと思う。「あそこがよかった。あそこがつまらなかった。」というだけの文章も、もちろん役に立つことにはかわりないのだが、そこからもう一歩踏み込んで、「あそこはこう改善したらどうか。ここはわかりやすさのために省いてみるのもいいんじゃないか」と、“UTADA UNITED 2006の一員としての態度”で、提案なり提言なりを基本としたリアクションを返したほうが、更によりよいものになると思う。まぁ、そこらへんは好き好きでいいんだけど、今ツアー中に僕らが気軽にとっているリアクションの数々も、UDUD2006の一部になって昇華してるかもしれないから、そこのところを気にとめておくのもいいんじゃないかな、ということなのでした。以上、余談終わり。



さて。最後に話を元に戻して。当然、今まで書いたような、“ライヴに参加しようとする意識”を、宇多田ヒカルのライヴに来てくれるお客さんみんなにそのまま求めるわけにはいかない、というのは、わかっているつもりです。年齢層が高かったり、仕事帰りのコンサートだったりすれば、そんなエネルギーが余ってなくっても無理ないし、そうでなくともふつーに座って「音楽を受身で享受したい」と思うひとだってたくさんいるだろう。そして、もしかしたら、そういう受身のひとたちは「あんなに騒いでたんじゃ、肝心の音楽が耳に入らないだろうに。一所懸命彼女が歌ってくれてるんだから、ちゃんと耳を傾けてあげなよ」って思ってるかもしれない。確かに、僕もよくそう思う。(笑) でも実は、そうやって騒いでいるひとたちは、今ここまでに書いたような、ただ座ってるだけでは得られないいろんなものを得られている(こともある)んだ、っていうことを知ってもらえれば、少しは見方も変わるんじゃないかな~と思って、この文章をまとめてみました。今度ライヴに向かわれたときに、遠くの方から騒いでるやつらを眺めながら、僕の書いたことをなんとなく思い出してくれれば、とっても嬉しいです(*^_^*) 以上!


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ちょっと挑戦的な文体のエントリです。扇情的な文章(煽り、とか釣り、とかいわれるタイプのこと)が好きではない人は不快になる恐れがありますので、読む前にご一考くださいませ。あと、わずかながらUtadaUnited2006のネタバレ的部分も含みますのでご注意ください。

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このあいだメッセンジャーで会話していたときに、「ライヴには歌を聴きにいくものだから」という主張を言われて、ちょいと反論をしたことがあった。読者は、「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれない。「宇多田ヒカルはミュージシャンなんだから、彼女の歌を、彼女の音楽を聴きに行くのが一番の目的であるとみんな思ってるに決まってるじゃないか」と。しかし、私はそうは思わない。少なくとも、音楽を第一義にコンサートに向かう人は、ほとんどいなかったはずだ。なぜ私はそう思うのか。

実は、今回の「UTADA UNITED 2006」のコンサートツアーが決まって以降、私はある点に注目して各地の書き込みを観察していた。特にチケット関連の書き込みは、斜め読みではあるものの、いちおうひととおり目を通していた。その“ある点”、とはチケット希望者の席種へのこだわり方であった。当然、みんな「いい席」を取ろうと必死だった。宇多田ヒカルに対して、そこまで情熱を掛けてもらって有難いなぁ、とファンサイトの管理人として思う一方、どれだけ読んでもその中には「音楽を聴きにいこう」という意気込みが感じられる書き込みが、ひとつも見られず、残念に思ったのだった。そう、「SS席希望」とか「前の方で観たい」「後ろのほうじゃHikkiが米粒にしか観れない」という事前の意見はたくさんたくさん見られたのだが、「いい音の席で歌を聴きたい」という趣旨の書き込みは、それこそ1件も僕は見つけることができなかった。見落としてる可能性は幾らでもあるものの、それでもその割合は極端に少ないものだったことは確実だろう。もし仮に僕がチケット希望の旨をチケット掲示板に書くとしたら、まず間違いなく「前から15列目~25列目で、とにかく左右においては真ん中のポジションで“聴きたい”」と書いたことだろう。しかし、ウェブにあふれるほとんどすべての書き込みは「いい席で“観たい”」「前の方で“観たい”」というものだった。つまり、コンサートに行くときに一番みんなが気にしているのは、「宇多田ヒカルをどれだけ間近に見られるか」という点であって、彼女の歌をよりよい状況で聴きたい、とかいうのは2の次3の次だったのだ。(僕なんぞ昔、「ライヴでは半分くらい目を閉じて音に集中してる」といったら「もったいない」とか「変。」とまで言われたものだ。大体、ファンの意識というのはそういう感じなのである。) たとえば、もしコンサートに行く人がライヴ初心者で「どこの席がいい音響なのか判断がつかない」というのなら、どこかで「どこらへんの席なら音がいいでしょう?」という書き込みが散見されたものだろうが、それすらも希少だった。(いくつかはあったが少数であった) ほとんどの人間が「音の聞こえ方」などには注意を払っていなかったことがよくわかったのだった。

ところがどうだ、いざライブが始まったら、やれサウンドが気に入らない、歌の音程がはずれていた、と音や歌についての文句がどんと噴出してきた。単に「事前にそういうことが問題になる、という点に気がつかなかっただけ」ということもあるだろうが、それならまず前置きとして「行く前には考えてなかった点なんですが」とか「私の席はあまり音響的に恵まれてなかったからかもしれませんが」というのが“常套句として”いわれてもいいはずなのだが、そういう感じも全くない。最初にコンサートを「観に」行く姿勢ばかり強調しておきながら、今度は「聴きに」行ったかのような態度を見せるというのは、周りから見ていたら如何にも滑稽であった。それなら「Hikkiが間近で見れてよかった!」とか「舞台が遠かったけど、コンサートの雰囲気が味わえてよかった!」といったほうが、よっぽど“正当な評価”である。自らの事前の自覚のなさや意識の希薄さを棚に上げて今更音楽や歌を「論評しよう」というのは、あまりにもムシがよさすぎやしないか。それなら最初っから「ステージからの距離や角度は関係ない。PAも含め、私はテッテー的に音楽をチェックする」という態度を示しておいてほしかった。だってそうだろう、きてくれるお客さんたちに少しでも気に入ってもらおうと、UtadaUnitedのツアー・チーム総勢100人超は今までもがんばってきたはずなのだ。もし事前にファンからいろいろいわれるポイントが「観る」ことに関する点ばかりだったら、当然見栄えに気を使ってくるだろう。そして、実際そうだった。(そういう点ばかりファンは気にしていた) 仮に事前のファンサイトでの投稿を予め見ていたとしたら、僕がプロデューサだったなら「少々音楽的な点を犠牲にしてでも」という考え方で視覚面を強化していたことだろう。実際、今回のUtaDAUNited2006は、Hikkiの着る派手な衣装は見るからに歌を唄うには適していないし、とにかく彼女はステージを大きく動き回ってできるだけいろいろな席種のひとたちにとって視覚的に興味深いものにしようと必死になってやってくれていた。そのせいで歌が疎かになりがちになるのは想像に難くない。また、発光ダイオードによる大画面を使った映像演出は、音楽とシンクロさせる手法のため、生演奏における制約は相当のものだ。ステージの見栄えの為に、楽器のセッティングの段階ですら制約があったかもしれない。今回の演出は、かなり音楽の出来を「邪魔する」ものになっているといって差し支えないだろう。もし、もし今回のライブに行くようなひとたちが事前にもっと声をあげて「視覚面での演出はまったく必要ない。音楽に集中してほしい」ということを大量にアーティスト側に伝えていたら、事態は全く違うものになっていたかもしれない。それこそ「アンプラグド」のように、音楽に焦点を絞った内容になっていたかもしれない。「そんなことくらい、アーティスト側が読み取ってライヴを行うべきだろう」といわれるかもしれないが、それは無理というものだ。前の段落で書いたように、“実際に声を上げている大多数がライヴを<観に>行く態度を宣言している”のだ。当然、こういう層の反応を大事にするだろう。何を考えているかわからないサイレント・マジョリティより、ちゃんと声を伝えてくれるラウド・マジョリティ(筆者の造語)の方をより重視するのは当たり前だ。もし今後、彼女やバンドのライヴでの音楽面について文句をいいたければ、平素から「そういうファンがたくさんいることを考えてくれ」と言い続ける・伝え続けるしかないだろう。そうでなくば、「かわいいHikkiをとにかく間近で“観たい”!!」という情熱にどんどん押されて、コンサートの内容もそういったファンに合わせたものになっていくことは明白である。よいですかわかりましたか“音楽ファン”のみなさん??



※ 今回のエントリは、“わざと挑発的”な文体で書いた文章ですので、もしこれを読んで感情的になられたとしても、その勢いで反論の文章をこちらに寄越すのは得策ではありませんです。なにしろ、こういう書き方をしている時点で、僕はいろんな“罠”を張って、そういうひとたちの文章を“手薬煉引いて”待ち構えているのですから・・・それでもよい、僕の遊び相手になってくれる、という方がいらっしゃるのなら、遠慮なくどうぞ・・・さぁ、一緒に遊びましょう、ふふふ・・・。(気色悪笑)


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このエントリは宇多田共和国ライブ用掲示板でのレス用に書いたものです。したがってライヴの内容に関する記述が多用されていますので、読まれる際には十分に御一考くださいませ。

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宇多田ヒカルというひとは、とにかく多面的な魅力をもったひとです。これをお読みになっているみなさんが、彼女の虜になった切っ掛けを思い出してくれればわかると思いますが、曲を聴いてファンになった人もいれば、ラジオでのハイテンション・トークに触れて好きになった人、PCや携帯でメッセを読んで初めて興味を持った人、雑誌に乗ってる写真やインタビューに惹かれた人、好きなアーティストのカバーを歌っていたからという人、絵本の翻訳を読んだ人、他にも、テトリスが上手いと知ったから、とか、プロフィールの好きな作家が自分とよく似ていた、とか、もうありとあらゆるアクセス方法、好きになるきっかけがあったと思います。その分、それぞれがファンとして生活していくなかで、ひとりひとりが彼女に求める要素も、多岐にわたるようになりました。UtaDAでデビューした際には、「私は彼女の日本語の歌が聴きたいのであって、何をいってるかわけのわからない英語の歌を聴きたいわけではない」という意見が多数あったのを僕はウェブ上で目撃していますし、他方、彼女の新しい写真が公開されるたびに「かわい~~!!」と黄色い悲鳴をあげるひとたちがたくさんいることも知っています。また僕のように、「音楽やめてもいいからメッセの更新だけはなんとしても続けてくれ」なんて思ってるファンも(わずかでしょうが)存在します。彼女自身の魅力が、メインとなっている音楽(作詞も作曲も編曲もプロデュースも歌唱もピアノも・・・あとギターもねw)だけに留まらず、とにかくたくさんあることの顕れだと思います。

いきおい、彼女のコンサートに求めるものも、その多様性の分だけ多岐にわたっていくということは、容易に想像がつくでしょう。最初に触れた「日本語の歌・英語の歌」云々からすれば、「英語の曲なんか知らない」というファンが一方にいて、もう一方には「EXODUSから全曲やってくれないか」というファン(僕なんかこれに近いかも)もいる。選曲からして大変難しい。その上、ほかのアーティストたちと較べても、非常に音楽性の幅が広い。メタルクラシックス然とした「Kremlin Dusk」と、黒っぽくすらあるR&B路線の「Wonder’bout」を一枚のアルバムに収めて平然としてられる人は、そうはいないと思います。そんなですから、その非常に幅広い楽曲群の中で、どの作風が好きであるかによって、聴き手の音楽との接し方もまた幅広いものになっていきます。彼女のバラードが好きな向きは、もしかしたらじっくり座って耳を傾けていたいかもしれないですし、彼女のハードロックチューンが堪らない、という人は、腕を振り上げて大声で一緒に歌いながらスタンディングでライヴを楽しみたい、と思うかもしれません。もう既に、この時点でそれぞれのファンの立場の違いが明白になるでしょう。

しかし、上記のように、彼女の魅力は音楽面だけに留まりません。そのルックス面に惹かれている人は、もっと彼女を視覚的に演出してほしいから、音楽は脇においておいてほしい、と願っても不自然じゃないですし、ラジオのトークに惹かれてファンになった人は、もっとMCを増やしてあの挙動不審な早口喋りを披露してほしい、と願っているかもしれません。またプロモーションビデオの美しさに魅了されてファンになった、という人は、もっともっとキリヤンの映像演出を前面に押し出して、Hikkiとの融合と相乗効果を狙ってほしい、とそう思っていることも十二分に考えられます。

・・・と、いろいろ書き連ねても、残念ながら宇多田ヒカルのカラダはこの世にひとつしかないわけで。でも、そういった多種多様な願望希望欲求を相手にして、彼女は出来るだけの努力をしてくれています。コンサートといっても、会場の都合などもありますし、永遠にできるわけではありません。体力にも限界があります。そのわずかな2時間の中で、音楽についてのいろんなリクエストに応えよう、自分のキャラクターに対する期待にも応えよう、視覚面での期待にも応えよう、と小さなカラダをフルに活用して躍動してくれています。

・・・なんて書くと、「だから観客は、いろんな欲求をするのはガマンしろ」と書きそうな雰囲気になっちゃいますが(笑)、僕個人は、そうは思ってません。寧ろもっと単純に、それぞれの欲求や希望をはっきりと彼女に、アーティスト側に伝えてほしいと思ってます。彼女の何を好きになるか、っていうのはそれこそファンの側の自由ですし、何より、越えるべきハードルが高ければ高いほど負けず嫌いな性格を燃やして向かっていこうという性格のひとのようなので、何より僕らはそれなりの対価(時間や手間やお金)を彼女に費やしているのですから、それなりの希望を伝えるのは当然であるどころか、義務でさえあると思うのです。

さて、ここで問題になるのは、では、僕らファンのほうはそういう多種多様なファンの「仲間たち」とどう接していけばいいか、ということです。なにしろ、最初に好きになった理由からして違うのですから彼女に求めるものにもずいぶんと乖離がある。今回のツアーは「宇多田ヒカルとUtaDAのUnited」でもあるわけですが、例えばUtadaに興味のない人は、「Utadaの曲なんて知らないから、そのぶん宇多田ヒカルの曲を増やしてほしい」と思うでしょうし、Utadaのファンのひとはその逆、となります。コンサートでやる楽曲数は限られていますから、やっぱりこの両者の利害は正反対、ということになりますね。ということは、この2人はどこまでいっても喧嘩しなくてはいけないのでしょうか。

また、彼女のトークやメッセに魅力を感じている人は、「もっとMCを増やしてほしい」という希望をもっているかもしれません。一方で「彼女のパーソナリティはともかく、音楽は素晴らしいから歌を聴きにきた」という人も、もちろんいるでしょう。やっぱりコンサートの時間は限りがありますから、MCを増やせば曲が減るし、その逆もまた然り。やっぱり、この2派も利害の対立を理由に喧嘩しなくてはいけないのか。

さて。そういった様々な利害をもって、ファン同士が対立したとしましょう。今ならWEB上で(一昔前なら、私設ファンクラブの会合とか同人誌上で、とか、リアルでもあったかもしれませんがね)意見を闘わせたりするでしょうね。で、どちらかが説得力をもち、意見として優勢となったとする。劣勢になったほうは、数で負けているだけで、完全には納得していない。こうなったときに、その優勢になったほうの意見(たとえば、Utadaの曲を演奏する必要はない、とかね)をアーティスト側に上梓したとして・・・さて、Hikkiはどういう反応をするか。

ここからは推測に過ぎませんが、まず悲しむでしょう。ファン同士が反目しあい、対立しあう状況。あんまり好きじゃなさそうです。次に、ではその上梓された意見をそのまま受け入れるか。多少は考慮に入れるかもしれませんが、完全に折れるようなことは恐らくしない。少数といえども、彼女の作品のファンなのですから、たとえばUtadaの曲は1曲減らすけども、2曲は必ずやる、とかそういうことになる。いわば、大して状況は変わらない、ってことになるでしょうね。

ここらへんは、確かにパワーバランスの話になるのですが、こういうことが繰り返されていくと、おそらくそれぞれの趣味に分かれて派閥ができ、ファン同士の交流は硬直し断絶が起きるでしょう。別に特定のアーティストが思い浮かぶわけではありませんけれども、過去にそういう事例は沢山起こってきたような気がします。これは、おそらくかなり高い確率で「Hikkiの望まない状況」に着地すると、僕は推察します。もちろん、アーティストが主観的に何を感じていても構わない、いい歌を唄ってくれさえすればいい、という向きには、それを気にする必要はありません。では、そういうファン同士が反目しあう状況が「Hikkiの望まないもの」であるという僕の推察に賛同してくれ、尚且つ、それはHikkiにとってのみならず自分にとっても望ましくない、と思い、更に、そういうことは避けできるだけみんなが仲良くファンをやれないか、と考える人は、どうすればいいか。それをここから考えてみたいと思います。

そうはいっても、これは非常に難しい問題です。なにしろ、実に多様な価値観を持った人間が、日本全国津々浦々から集まってきているのです。なので、まずは、Hikkiファンにはどういう人種がいるのか、ということを観察し、自分がその中でどういう位置付けにいるかを、最初の最初に確認するのがいいと思います。具体的には、単純に、自分がHikkiの「今まで」のどこが好きだったか、また、「これから」について、何を期待したいのかを内省し、それを掲示板やHikkiへのメールなどで表明することから始めてみましょう。まずは他の人のことはともかく自分のことについてよく考えてみること。そのために、同じように「自分の価値観・立場・意見」などを表明している人たちと比較して(彼ら彼女らの書くことをよく読んで)、どこが同じでどこが違うか、見極めようとすること。もしわからない点があるならば、相手が答えてくれそうな雰囲気なら素直に質問してみること。そういう感じで、自分の「Hikkiファンの中での立ち位置」を明確にしていってみてください。そうすれば、自分がどのファンサイトが居心地がよさそう、とかどういう情報に気を配ればいいか、というのがわかってくると思います。例えば、「Hikkiは英語も喋るし、英語の歌も歌うけど、英語のわかるファンのひとたちとちがって、自分は英語がわからないから、彼女がUtaDAとして何を思っているのか、何を考えてるのか知りたい。」という人がいたとすれば、i_の翻訳BBSでも覗いてくれればいい、とか、そういうことがわかってくるわけです。彼女のルックスとかが気に入ってるならば、VisualBBSにお邪魔するのがいいし、最新の情報をいちはやくゲットしたいならNHWBBSをブックマークすればいい、なんてこともわかってくると思います。そうやって、まずは「平和な棲み分け」ができないか、考えるのがわかりやすいですね。既に多くの人が、こういうことを実行していると思います。

そういうケースにおいて大切なのは、他のひとたちがどう振舞っているか、についてあまり踏み込みすぎないことです。多様な価値観があるのですから、自分とは違う価値観の人の話してること、書いていることが自分の意見と違うからといって、わざわざそれに反論する必要は、最初の段階ではありません。ファンサイトは何十とあるわけですから、そういう人のいる場所をあえて選ぶことはせず、もっと自分にとって居心地のいい場所を探すなり、同じ場所でも、そういう人の相手を進んでしたりすることなく過ごせばいい。発言や介入を他者から強要されるようなことは、この日本という自由な国では本来(理想論としては)ありえないことですし、Hikkiファンサイトという平和を基調とする場所では尚更でしょう。ときには「それは違うだろう」といいたい感情が高まることもあるとは思いますが、まずは、耳を傾けて冷静になり、自分と相手の立ち位置の違い、価値観の違いを見極めましょう。それを踏まえてから反論なり反駁なりをしてからでも、ほとんどの場合決して遅くはありません。

さて、そういう考え方を、今回のツアー会場や、その後の感想なり評価をする場面にあてはめてみます。事態は「同じように考えてもOKな側面」と「そうは問屋が卸さない側面」との両方が浮き上がってきます。ツアー会場内では、「そうは問屋が卸さない」ことが非常に増えます。一番の代表例は、「立って聴くか座って聴くか」という話。自分は座って聴きたい&観たいのに、前の席の人が立たれては、音は聞こえるかもしれませんが、視界は遮られてしまいます。ここで利害の対立が起こる。僕の考えるところでは、この対立は非常に根深く伝統的なもので、宇多田ヒカルに限らず方々で起きていることです。一番理想に近い解決方法は、ZEPPのような会場を使い、一階をスタンディング、二階を座席、という風に棲み分けを物理的にはかってしまうことです。必ずしも座りたい人と立ちたい人の人数配分がその会場の人数配分通りにいくとは限らないので、これが万能の方法とはいえませんが、かなりの場合こういうことをすれば解決するでしょう。んが、だからといって、そのような会場が全国でカンタンに用意できるとは限らないのは明白でしょう。とはいえ、余談にはなりますが、今回のUDUD06のチケットの販売方法にはいささか問題があったと僕が思うのも事実です。かなりの会場で、S席として指定されているブロックは、アリーナ席とスタンド席の両方を含んでいました。このように折角席種ごとに販売を分けてくれているのですから、「S席アリーナ」と「S席スタンド」の2種類を販売してほしかったな、というのが正直なところです。これで、前が見えない、という愚痴や、自分は立って盛り上がりたいのに周りが座って興ざめ、という落胆を、全部ではありませんがかなりの割合で防ぐことができたでしょうに。何かそれが出来ない事情でもあったのかもしれませんが。まぁ、余談でした。

今のひとつの例をとってみても、“物理的な制約”によって、双方の利害が真正面から対立してしまうことがあり、また、それに対する、完全ではないまでも対処法が存在したりしなかったりする、ということは、わかっていただけると思います。

次に、今度は「同じように考えてもOKな側面の話」です。これは、後者の「その後の感想なり評価をする場面」です。これは単純に、たとえば今では掲示板上での人の書き込みだったりするわけですが、先述の「ファンサイト選び」と、ほとんど同じ態度で臨めばいいかと思われます。自分と似た意見があればウンウンと頷き、異なる意見があれば「違うんじゃないかな」と思う。まぁ、それだけなら単純ですが、どうしてもここで、フライングをしてしまうケースが増えてきます。「いろんな意見や価値観があって、それぞれのひとが書いている」ということを踏まえれば、その場所にとどまるべきかどうか、ということから始まって、さまざまな選択肢が可能なんですが、中には、自分の感じたことや、自分の期待や欲求にとどまらず、ほかのファンの方々に対して「こうするべきだ」「こうしなくちゃいけないんじゃないか」という提言にまで踏み込んだ内容が出てくるんですね。

ここで、立ち止まって考えてみるべきなんじゃないでしょうか。ファンとして考えてみなくっちゃあいけない。(←今の言い方はシャレです。ご了承を) つまり、上で「それは違うだろう、と反論したい感情が高まることがある」というふうに書きましたが、これの多くは、「ファンはこうあるべきだ」とか「ファンはこうしなくちゃいけない」という、「自分の価値観の表明ではなく、他者に振る舞いを強要しているように受け取れる内容の書き込み」に対して、起こるものなんじゃないでしょうか。単に自分が「私は立って応援する」と書くだけなら、もし自分が座って聞きたい場合でも、そんなに反発心は起こらない。そこに「だからみんなも立ってくれ」といわれると、「ちがうんじゃないか」と反論をしたくなってくる。ここが問題なんだと思うんです。こうやって、議論は反目と対立を起点として発展することになり、結局不毛になることが多い。非常に非生産的です。

ところが、実はこれは、その起点からして「ちょっとしたカンチガイ」で起こることが多い。実は、最初に書いた人がいささか感情的になり過ぎてしまっているだけで、本当は別にまわりのひとに立ってほしいと強要するつもりなんぞさらさらなかったんだけれど、「ことばのあや」でついついそういう言い方になってしまっただけ、ということが、往々にしてあるんですね。しかしながら、反論してくる人というのは、その“ものの言い方”に焦点を合わせて反論をしてくる。よくよく考えたら単なる揚げ足取りなんですが、とるほうもとられたほうも、そういう解釈はせず、結局、悪意と悪意のぶつかり合いになります。誤解同士の上に積み重ねられる、誰も望まない状況。こうなっては、当人たちもまわりの掲示板の利用者も、疲弊困憊するのが関の山です。

要はだから、自分の意見の表明をするときの、言い方次第なんです。これが僕は言いたかった。ああここまで長かった。(苦笑)

たとえば、僕が今回のUDUD06のコンサートを見て、今剛さんのギタープレイを耳にし、いたく感動した、ということを掲示板上で表明するとしましょう。過去ログを見たら、誰も彼のプレイについて触れてない。あんな素晴らしいプレイを披露してくれたのに、それではちょっと彼が不憫だ、と少々感情的になった僕は、次のように書くかもしれません。「おいおい、お前ら、耳ついてんのか?? 今剛のギタープレイは最高だったのに、お前らシカトかよ?? そんなんで本当に音楽聞きにいったっていえるのか? ヒカルの歌の出来がどうのこうのっていってるけど、じゃあ他の一流ミュージシャンのプレイがどうなってようとお構いなしってなんかおかしくないか? そんな論評振り翳して音楽ファン気取るくらいだったら、今剛の絶品のオブリ耳に入れてから出直して来い。そんなヤツラに音程がどうの高音がどうのなんて語る資格なんてないんだよ。けっ。」・・・こんな感じにね。(^_^; きっと、これを掲示板上で書いたらかなりの反発を食らうことになるでしょう。つまり、今剛さんのプレイをほめているうちに、いつのまにかファンを貶し始めてしまい、挙句の果てには、自分以外のファンの“語る資格”についてまで言及してしまう。最初に自分が今ちゃまのプレイに感動したことを話すにとどめておけば、恐らく、反感を買うことはなかったでしょうに・・・。

これも、ちょっと書き方を丁寧にするだけで、ずいぶんと印象が変わると思います。たとえば、こんな感じ。「私は、宇多田ヒカルの歌に期待していたのはもちろんですが、同じように大好きな今剛さんのギタープレイにも注目してライヴに出かけました。特に、CDではギターの入っていない“Kremlin Dusk”のような楽曲での彼のプレイは、今のところライヴでしか聴けないものなので、貴重であり、なによりそのフレージングが素晴らしかったです!すっごく感動しました。もしこれからまたライヴに向かわれる方がいらっしゃったら、彼のプレイにもちょっと注目してみるのは如何でしょうか。ぐっとコンサートの楽しみが、増えると思いますよ♪」 ・・・ちょっと不十分かもしれませんが(苦笑)、前段落の彼の言い方と比較すれば、かなり好印象だと思います。“自分自身が”今ちゃまのプレイに期待して赴き、そして実際に聴いてすばらしかった、と感想を言い、最後に、あくまでオススメとして、他の人たちに自分の着眼点や価値観を紹介する感じでまとめています。これを読んだ人は、「私は歌を聞きに行くからそんなのは関係ない」とか「なんだ、そういう聞き方もあったのか。しまった、そこまで頭がまわってなかった」とか思うことはあっても、あなたの立場を追い落とすような感情を持った(たとえば「そんな風にライヴを聞くようなやつはこなくていい」とかね)返答をかえしてくる可能性は、非常に低くなるでしょう。これなら、それなりに平和に穏便に、ことは運ばれていくと思います。

しかし、反発をくらった前者の彼も、穏やかな書き口の後者の彼女も、実は「最初に言いたかったこと」は殆どおんなじなんですね。多くの人が今ちゃまの素晴らしいプレイを通り過ぎてしまっている・・・それではもったいないから、なんとかそのことを知ってもらいたい、という最初の感情自体、はね。しかし、その表現の言い方・言い回しひとつで、その後の掲示板の展開は、ガラリと変わってしまう、とそういうわけです。(もちろん、それも僕の妄想・予想に過ぎませんけれども)

同じようなことが、他のテーマについてもいえると思います。たとえば、「宇多田ヒカルはアイドルなのかアーティストなのか」という論点も、一部でテーマとして浮上してきているでしょう。これも、前段と同様「“ファンサイトの選択”のケースと同様に考えていい場面」なんです。かなり派手なアクションを起こさない限り、コンサート会場でのこの両者(アーティスト派とアイドル派)の利害はぶつかり合いません。(うちわなんか持って応援するなよ~雰囲気が壊れる、なんてことはあるかもしれないけれども) むしろ、コンサートを見終わった後の「感想や論評」の場面で、この両者は対立しているでしょう。あっさりいってしまえば、他の人たちが何と思っていようと、自分が「Hikkiはアイドルだ」「Hikkiはアーティストだ」と思い込んでいればそれでOKなわけです。そして、それを素直に表現したり文章化したりすればよい。それによって他者を攻撃したりしないかぎり(応援する資格なんかない、とかそういう言い方をしないかぎり)、似たような価値観の人がみつかり、異なった価値観のひとたちとはうまく棲み分けができていくようになるでしょう。

こういう場面でよくいわれる反論があることも踏まえておきます。いわく「私は、アーティスト派の人間なんだけれども、アイドル派の人間が台頭してきて、Hikki本人を甘やかして“生歌がヘタでもいい”と妥協していい環境ができてしまうと困る。だから、まわりを巻き込むようなことをいいたい。」と。気持ちは、よ~くわかります。僕も、個人的には、彼女にそんな妥協はしてほしくない。もっともっと生歌を磨いていってもらいたい。でも、それを「アイドル派のファン」のひとたちにいうのは、お門違いというものです。第一、価値観が違う。価値観の醸造は何年・十何年・何十年にもわたって行われるものですから、そうそうは覆りません。殆どの場合、相手の価値観の否定をしようとする言動は徒労に終わります。そればかりか反発を食らって、自分の立場を悪くすることに繋がることになる。第二に、これは冷たい言い方になってしまいますが、それを貴方がファンに言う権利は、どこにもありません。なぜかというと、あなたがお金を払ってる相手はHikkiであって、そのファンの皆さんではないからです。つまり、言う相手が違うというわけ。CDをお金を払って購入し、コンサートに時間とお金と手間をかけて参加しているのですから、「生歌を妥協するな。私にとってあなたはアイドルではなくアーティストなんだ」というべき相手は、そのお金を受け取っているHikki本人や、スタッフのひとたちなんです。幸いなことに、東芝EMIには、Hikki本人のみならず、てるざねさんをはじめとしたスタッフあてのメールも受け付けているので、彼らに抗議なり意見表明をするのがいいと思います。そして、そうしたのち、「自分はこれこれこういうことをスタッフのひとやHikki本人にメールで送ったんだが、みんなの意見をきかせてほしい」という風な流れを作れば、建設的な議論が可能になるかと僕は思います。僕個人は、そういうのはやったことないので、これまたまたまたあくまでも推測・妄想に過ぎないのですけれども。

結局、僕らひとりひとり各々がお金も何も払ってないファンのみんなを相手に、アーティストにするのと同じような要望なり希望なりを出すのは些か“行き過ぎ”な感が否めまない、ということです。賛同してくれる人もあれば、乗ってきてくれない人もいる。そこから先をどうこうする権利は、ひとりひとりのファンには、ないのですから。みんな、おのおのの思い入れに従って、アーティストを応援する権利を、等しく持っている。それを第一に踏まえてほしいかな、と思います。以上。


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ベンジャミン・ブリーグ;ついに手掛かりが

2006年8月11日

ベンジャミン・ブリーグの手による絵を見た。私の知る限り現在残されている唯一のものだ。しかしついに、私はその一枚の絵を見たのだ。

昨日私はパリから戻ってきた(テロリストの脅威によってフランスとロンドンの両方の空港でとんでもない問題に見舞われながらも、だ)。その絵を見てから暫く興奮をまるで押さえ切れないほどだった。私の従兄弟が創りあげた数々の作品のうちのひとつを、やっとこの目で確かめたのだ。それは私にとって大きな戦慄だった。とはいうものの今の時点では、この創造物を目にした私の興奮は幾らかではあるが落ち着いてきている。何故かといえば、この絵は私の行方不明の従兄弟の所在を解明するのにも、彼の身に何が起こったのかを明らかにするのにも、まるで役に立たなかったからだ。しかし、それについての状況もそのうち改善に向かうだろうことを祈っている。とりあえず今は、よもや見れるだろうとは思ってもいなかった物を眼前にしているという事実に満足しておくこととしよう。



http://benjaminbreeg.co.uk/breegpainting.jpg


絵のキャンヴァスは3フィート(約91センチ)四方の大きさだが、私が撮った写真がこの絵の感じをどれだけうまく再現出来ているかはわからない。描かれた作品の右下隅にはシンプルに“B.ブリーグ”とサインが記されている。
絵のこととなると専門家ではないので確かなことはいえないが、作品が抽象画だということくらいならわかる。総ての色がキャンヴァスに向かって力強く、まるで怒り狂うような筆致で塗られている。
とはいうものの、そういった一見闇雲に塗りたくられているだけに見えるものの中に直ちに私の目を引くものがある。顔だ。従兄弟についての調査を通じて私は、彼が自らの夢の中に見たものを描いていたということを知った。この顔は酷く歪んでいて殆どシュールレアリスムの質感すら持っているから、確かに潜在意識の中に見れるヴィジョンなんぞを連想させる。
彼がそういった夢のひとつから醒め直ちにキャンヴァスにそのイメージを投影していた様子がありありと浮かんでくる。恐らく、(夢以外の)何か他の場合であってもそうしたのだろう、(絵に描くことで)彼は、自らの心からその残像を取り除きたかったのではなかろうか。確かに、そう楽しいことでもなさそうだ。

この絵の所持者は(これは触れておかねばならないが、私の滞在期間中彼は極めて協力的で、親身になってくれた)、自身がこの絵を購入した元はルーマニアだったと私に教えてくれた。その話は、9つのルーマニア語を含んだEメールを私が受け取っていたことを思い出させた。ベンジャミン・ブリーグ・ウェブサイトにコンタクトをとってくれた人と、私が見ているこの絵を以前に所有していた人は、もしかしたら同一人物なのだろうか? そう願うけれどもそれでは余りにも偶然の一致が過ぎていて恐ろしい。その人物にコンタクトを取ろうとした私の努力は今のところ何の成果もあげていないし、彼から新たな連絡を受け取ることもない。以前と同じく、送信主にEメールを返信しようとしても、ただ突き返されてくるだけなのだ。
もし定期的にこのサイトを見てくれているというのなら、心当たりのある方、私にメールを寄越し必要に応じて手紙で連絡の取れる住所を教えてはくれないだろうか。(できれば英語が理解できる人であってほしいが)

私は、我が従兄弟の作品の恒久的な記録を少しでも多く残そうと、自分のカメラでその絵の写真を何枚か撮影した。この作品は、些か心をざわめかせるものの、なんといっても私の手元に残る彼の才能を全く明快に示す唯一の実例なのである。あとは、彼の日記ももう少し手に入ればよいのだが。しかしこれで、恐らく私は彼の身に何が降りかかったかを解明できるところにまできたのではないだろうか。
たった一枚の絵。それに彼の日記の何ページかと、多くの伝聞と噂。それが今私にある総てだ。私には助けが必要だが、それが誰からもたらされるかは知る由もない。

A.ブリーグ


URL:http://benjaminbreeg.co.uk/


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[UTADA UNITED 2006] SPECIAL REPORT! no.48


http://blog.goo.ne.jp/ultrablueunited/e/916cbb719b20616ee250aea6ea453759
http://2.suk2.tok2.com/user/unconsciousnessdiary/?y=2006&m=07&d=18&all=0

レインボーホールでの金曜夜 【2006.8.10up】

この二日間名古屋の観客はとても印象的だった。ここのファンのひとたちはショウを心から愛してくれたよ。名古屋に2日間も滞在できて楽しかった。バンド全員、いい時を過ごせたな。このすごいファンのみんなに感謝したい。

来週の僕らは埼玉だね。


さぁ、君たちがヒカルに答えてほしい幾つかの質問への回答だ。↓


--- パット・ウッドワード


ヒカル: やぁみんなっ! 質問ありがとう! 全部ありがとぅお!(´∇`)


Danielさんから:『2000年最後の夏コンサートから6年のブランクののち、また何千人もの人たちにむかって歌いにステージへと帰ってきたわけですが、今の状況は楽しいですか?』


ヒカル: うん! 責任重大なのはもちろんなんだけど、その分もらえるものもおっきいんだよね。どのライブのときでもファンのみんなとの一体感と大きな達成感が感じられるんだ。こうやってもう一度ツアー出来てるってのは、すっごい嬉しいぃっ!o(>.<)o



cyndiさんから:『大きなアリーナと小さなライブハウスだと、どちらで歌うのが好きですか?』

ヒカル: むむむむむっ(-ー; 難しい質問だなこりゃ。 / でっかいアリーナの舞台に立つ場合は、それにふさわしい覚悟と集中力が必要なんだよね。前の列から横の方からそして一番後ろのほうへずーっと客席のみんなひとりひとりに届くように歌うのは、そんなに簡単なことじゃない。大きな会場でのライブをやりとげた後の夜は、いつも汗ダッラダラにかきまくって疲れきっちゃうんだ。「またこんなに自分から汗が出たなんてありえねー!w(゜ロ゜)w」ってくらいにね。(笑) でも、そうやって果敢に挑戦したぶん、かえってくるものもおっきいんだな。一万人のひとの喚声と手拍子がどかんとダイレクトに自分に向かってくるあの感じは、何物にも代え難いよ。あらゆることを超越してるね。 / ライブハウスみたいに会場が小さくなると、それと同じだけ私にかかるプレッシャーも小さくなってくるのかも。そのぶん、みんなで思い切って楽しめる割合が増えるってスンポーよ!(笑) 大きなアリーナにくらべて疲れも少ないしね、気持ちの面でも体力の面でも。観客のみんなと気軽にやりとりできるし、何よりステージが小さいってのは私が走り回んなきゃいけないスペースもちっちゃくて済むってことなんだわさっ!(≧∇≦)



Yujiさんから: 『最近の2、3のインタビューで、ヒカルは昨年のニューヨーク・シティ(NYC)でのショウケースが、貴女がステージ・パフォーマーとしてどうあるべきかということを見出すにあたって大きな転換点になったと解説してくれていましたよね。ショウケースのどういったことが特にその啓示を誘発したのでしょう? その点に僕は些か興味をもちました。』


ヒカル: そのときの私、それまでのどのステージでも経験したことのないほどに自信にみなぎってて、力強く自分をコントロールできてた。きっと、観客の誰もが私に何を期待したらいいかまるでわからない、っていうそんな状況が私に味方をしたんだと思うの。日本じゃ自分が実際に何やってんだかまるで気にしないまんま舞台に上がりだしちゃってたもんね。(苦笑) だからあのときのライブっていうのは、「私自身が思い描く“ステージでのあるべき姿”になってやろう!」って思えた新しいスタートみたいに感じれたんだと思う。



naoさんから: 『私は、ヒカルがショウの前に何か特別なことをしてるかどうか教えて欲しいです♪ NINTENDOで遊んでるのかな? スタッフのみんなとおしゃべり?? ヨガかなお食事かな? まさかショッピングなんてことはないでしょう!?(笑) でなかったら、ショウに集中できるようにとひとりになろうとしてるのでしょうか??』

ヒカル: メイクが終わったら20~30分の休憩に入るんだ。ストレッチをして、ちょびっとからだに汗がにじむくらいにウォーミングアップをして、ヴォーカルの準備に取り掛かる。そのあと、バナナを食しますっ(^ー^) ステージ衣装に着替えて更にもうちょっと歌ってると、バンドと合流するよう呼び出しがかかるんだ。そしたらみんなで円陣を組んで全員の手を重ねて小さく「シャウト」!(^0^) / ステージの上に登場する直前の最後の1分・・・そのうちの30秒は、だいたいシャドウ・ボクシングしてるよ私。(笑) ジャブ!じゃぶ!ストレートォゥ!(゜ロ゜) 左フックだ右アッパーだっバックステップしてまたジャブジャブ!! 右フックからぁっ・・・ってえぇっと、つまりなんだ(笑)、自分を盛り上げれることだったら何でもいいってわけだっ! おわかりかな諸君っ(≧∀≦)



tamachan_7さんから: 『UtaDAとして英語で歌うのと、宇多田ヒカルとして日本語で歌うのでは、その性格の間に差異などは出てきますか? また、どちらにより挑み甲斐を感じますか?』


ヒカル: 同じだよ。私の全ての細胞を使って全身全霊で自分の感じているフィーリングを会場中のひとたちみんなに届けてやる!、、、って思ってる点ではね。でも、英語の歌で舞台に立っている間は、ちょっとだけ自分自身に戻って本当の自分に正直になれてるってのは、認めなくちゃいけないかな。・・・といっても、私の目標は結局、ライブの間中途切れなくずっと完っ全に限界まで全力を出し尽くすことなんだってのは間違いないよ。




*****

訳者から: 今回は、あんまりうまく訳せませんでした~(T.T) Hikkiは、英語で話す/書くときは、それに伴って少々性格も変わるので、その分の足し合わせて翻訳しないと原文の雰囲気が出ないのですが、そこがあんまりよく出てないですね。反省中です。でも、どこかでUPしないといけないからね~。(溜息)★ で、今回のこの問答、どうやら、パットさんが質問をヒカルに送って、文書で回答してくれたみたいですね。いちおう、「インタビュー音声を文字起こし」という可能性も考えたんですが、Hikkiの回答の中に「english」というのが出てきました。これ、彼女のクセなんですね、通常のように「English」と文頭を大文字にすることなく全部小文字で「english」と書くのは。だから、本人がタイピングしてくれた回答文だと思われます。そういう「書き言葉」だという認識も踏まえて、翻訳はしておきました。だから顔文字たくさん。(^、^; ★ ちな!みに、今回私が翻訳した質問はひとつも採用されませんでした・・・λ・・・翻訳の仕方が悪かったのが原因っぽいので(だって、ランダムに選んだらひとつくらいは、ねぇ・・・?)、少々凹んでますすいません質問をお寄せくださった皆さん。m(_ _)m ★ でも、バナナは食べるのでした。ちゃんちゃん♪(素直に嬉しいです)



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