無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そうかそうか、やはり人間活動中であろうと様々なオファーがやってくるのね。ダメ元だろうとやはり話は聞くのかな。U3MUSICは今何人で運営してるか知らないが、ヒカルクラスになれば著作権管理会社からの報告を受け取るだけでも日が暮れるだろうて。半分比喩だけども、照實さんが暇になる事はあんまり考えられない、か。ちゃんと夏休み取ってね。今宵のツイートからでした。

さてさて。その照實さん曰わく「パーフェクト・バイリンガル」なHikaruさん。人間活動中にフランス語や手話なんかを身に付けていたら知らないが、ひとまず日本語と英語は完璧だろう。

言語の本質は方言である。"約束事"としてしか成立しないものなので、どれだけ扱う人間が多かろうがどこまでいっても言語はローカルなままである。その意味では英語がグローバル・ランゲージだというのも錯覚になるが、そこは逆に考える。誰にとっても外国語な言語、即ち母語をベースに習得した第二言語が存在するならばそれはローカルではない性質をもつ。生来獲得した第一言語はローカルだが、その言語によって獲得された言語はグローバルたりえる。

つまり、皮肉な事に、英語がもし地球のグローバル・スタンダード・ランゲージとして認められるならば、英語が母語の人間はローカルとグローバルを取り違える錯覚を起こす事になる。言語がローカルである事を忘れて生きていくのは、大変な誤解である。この罠は避け難い。

そう考えるので、私は、Hikaruが常に英語と日本語の両方を行き来して生きていくのは、コスモポリタンとして大変よい事だと考える。英語のみに特化した活動でも私は楽しめるだろうが、やはり2つ以上の言語の間の苦悩や葛藤が存在しないと真理の味を味わえないだろう。

ガラパゴス化とは、即ち、英語が母語である人たちと同じ錯覚の中に生きる事である。日本語しかない中で生きればそれは最早"約束事"ではなく、いわば自然法則と変わりがない。その中で我々は生きていく。その時に普通は市場規模だの自給自足だの地産地消だのというけれど、この問題にスケールは関係ないのだ。外部の言語と言語圏と相互作用があるか否かなのである。


今回は話がちょっと難しいかもしれない。締め切った部屋を想像しよう。空気が籠もってくるのを嫌がり、人は部屋の窓を開け、空気を入れ換え新鮮に保つ。この時、もし部屋が異様にだだっぴろかったらどうするだろう。部屋の中だけで空気はある程度対流し、なかなか籠もりはしない。しばらく経ってもまだだ。まだまだだ。さて、誰か部屋の窓を開ける者は在るだろうか。そもそも、部屋の窓がある所までが遠すぎて、いや、ひょっとするとここからでは窓があるかないかもわからないのかもしれない。多分、誰も窓を開けようとしないだろう。しかし、幾ら対流してかき混ぜているとはいえ、空気は僅かずつにでも澱んでゆき滞留してゆく。気が付いた時にはもう…

…。窓をいつ誰が開けるべきかはわからない。もしかしたら、蜂の大群が入ってくるかもしれない。どっちがいいかなんてわからない。なので、どちらが正解か、なんて事はない。

Utada Hikaruの場合。どんな部屋であろうとも窓は開けてしまいそうだ。そもそも窓のない部屋に住んでいるかもしれない。危なっかしいので、せめて蜂の大群が攻めてきた時の為に閉じれる窓くらいは…いや彼女の場合蜂すら魅了してしまいそうで怖い。人魚姫か。リトル・マーメイドか。確かにこの世界は、彼女のPart of Your Worldに過ぎないかもしれないけれどね。なんのこっちゃ。

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様々な事が絡み合っているが、どぎつい言い方をしてしまえば、日本語での活動がHikaruの"枷"になってしまっている、という事だ。

作家としても作詞家としても、最初っから英語でと割り切ってしまえば実は何の問題もない。Hikaruの才能は日本という国に留まらないより広範な価値を提供できる。寧ろ、日本語という制限がその可能性を狭めている。

これは、ヒカルは基本的に時流とは一定度の距離を置いてはいるが、どの産業にもかかわらず起こっている事だ。時代の流れからグローバル化は避けられない、しかし、この日本という国が非常に史上として大きい為、今ココに特化する事がベターだ、という判断でずっと仕様がローカライズされたままになる。i-modeが出てきた頃は世界的にも最先端だったがスマートフォンの頃には後塵を拝していた、なんてのは典型的な例かもしれない。俗に言うガラパゴス化だが、外からみればUtada Hikaruも同じ事だったのかもしれない。

今まで十二分に日本語歌を堪能してきた身からすればこれは言いがかりもいい所だし過去の思い出を"枷"として否定されるのはいい気分がしない。だが、この点に留意する事は重要である。

しかしそもそも、グローバル化と言っても、よくよく状況をみてみれば、ひとつひとつのコンテンツにとっては"新しいローカルを開拓する"話でしかない。ある特定のアーティストのファンになって貰える人間が、その地域で1000人に1人も居れば十分、といった考え方も出来る。

少し極端に考えれば、今後日本から人間が流出していく事態が加速したりすれば、全世界的に"日本人コミュニティー"が点在する事になり、それらに対して日本語コンテンツを提供していく事が未来のグローバリゼイションになるかもしれない。案外わからないものである。それこそ結局、Hikaruがどういう生き方をするか/選ぶかでしかない。

未来は誰にもわからない。ならばまず届く人に届けよう。それでいいと思う。しかし、どちらに偏る必要もない。「今までどおり」が結局、最適なのかもしれない。だとしたら変化は無駄だ。答を出すつもりも、何の主張もありはしないが、多分私はどちらに転んでも楽しくやってる気がするので今回のエントリーって無責任極まりないような。あらら。

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今までの考え方でいけば日本語歌が世界的に受け入れられる可能性は皆無に近い。上を向いて歩こうがあるじゃないかと言われそうだがあれはスキャットマンジョンみたいなもんだろう。あの曲はいいけれど、な具合の例外である。

昔と今で何か状況が異なる事があるか。思うは、折々触れてきた視覚面の拡大である。歌といえど、目で見る何かを伴う機会が増えた。

最初の革命はMTVだ。ラジオスターの悲劇ではないけれど、音楽をまず全米に、そして全世界に売り込んだいちばんの原動力はMTVに間違いないだろう。そして今はYoutubeである。長らくPCのみだったが、スマートフォンのお陰で手元にも、そして、まだまだこれからだがスマートテレビが成功すればMTV同様音楽がリビングに進出出来る。これと新種のインターネットラジオ…パーソナライズド・ストリーミング等が絡んでくるとぐっと可能性は広がる。

ここ、まだ開拓してないんじゃないか。日本は。長らく、地上波全国ネットでは本人たちが生放送で登場して歌う、というスタイルが確立していた為この国ではプロモーションビデオの入る隙間がなかった。まずCD+DVDでのPVの拡散、そしてYoutubeの登場で漸くPVの機能が認知されてきた、といったところだろう。まだまだ"使える"筈である。


そして、これを利用すれば、或いは国際的な活動も視野に入ってくる、かもしれない。異国の言葉だろうが何だろうが、強烈な映像。それが目に入れば印象には残る。

日本発の強烈な映像といえば…やっぱりゲームかアニメかなぁ…。だから、Passionや光のキンハ映像がオフィシャルであったら…とかBeautiful WorldのフルコーラスとEVA破のコラボレーションがUTUBEにあったらどんな再生回数で、国別分布はどんな風だったか、というのを毎度ながら夢想してしまう。FREEDOM PROJECTが国内外でもっと話題になっていたら、という愚痴も出る。うぅむ。

邦楽Popsは、音楽性が輸入モノである以上に、PVも輸入モノである。時折面白いPVも出てくるが、十中八九音楽と無関係だ。アニメーションなら、基本的に日本人による日本独自のクリエイティブが生きる世界だからここから発信出来る、という事になる。というか、その分野がいちばん可能性がある、というか。


勿論、我々が本当に期待出来るのは宇多田光監督である。GBHPVは、楽曲の位置付け的にいわば"身内ウケ"を狙ったものになっていたが、この集中力が"外へ"と向けられた時にどんなビデオが出来るのかというのが興味深い。本当のオリジナルなクリエイターの手腕が、日本語歌を世界に羽ばたかせる事が出来るか否か。ちょっと考えてみたいテーマである。

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機械翻訳すればそれである程度成立するコンテンツと、そうは問屋が卸さないコンテンツと両方ある。日本のアニメが海外でも受けるのは、質が高いのが前提だが、字幕で補えば何とかなる、というのが大きい。日本で放送された30分アニメが翌日には英語やスペイン語フランス語の字幕をつけてネットで放流されている。それだけ需要があるという事だろう。

歌の場合はそうはいかない。私が英語はおろか日本語も満足に読み書きできない頃テレビで「英語の歌の字幕に日本語訳」を観た時の「何やってるねん」感は相当なものだった。今ならそれもまぁありかなとは思えるが何を歌ってるかの前に何て歌ってるかだろうと思ったものだ。意味だけ訳しても、歌の場合、詮無い。

しかし海外の宇多田ヒカルファンは、日本語の歌詞をそのまま受け入れて楽しんでる。これがピーター・バラカン言う所の「ワールド・ミュージック扱い」だというなら、そのポテンシャルに比して随分と扱いが小さく、その扱いの割に随分ファン層は分厚い。欧米にそれぞれ数万人単位でファンベースがあるのだから商売としては十分通用する。

英語がグローバルスタンダード、デファクトスタンダードな言語である事は紛れもない事実で、国際化はおろか国境無効化すら感じさせる昨今、英語が自在に操れるのにコンテンツを英語で発信しないのは商売上損だという意識は強い。しかしHikaruの場合、オファーに合わせてリリースするスタンスだからか、なんだかんだで日本語の活動に比重が置かれている。人数的にも金額的にも歴史的にもそれが妥当なのだろうが、それによって可能性が狭められているという事はあるのだろうか。

逆転の発想で、日本語の歌が世界規模でクラスタとして認知されるような事があったら…といういつもの妄想が頭にもたげるが、今一度その点について次回考えてみたい。

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光が作家業に…手を染める?足を突っ込む?没頭する?まぁどれでもいいけれど、本格参与するとなれば「いよいよか」という感じになるだろうが、ここでの"言語の選択"の問題は如何にも難しい。歌でも随分悩ましかったが、例えば小説を書くとなったらどちらを選ぶだろうか。

世界中の人に読んでもらいたい内容であれば迷わず英語だろう。人数でも国数でも日本語ゆり遥かに大きい。人数だけなら中国語というなもありだが光が中国語を操れるという情報はないし、ネイティヴである英語が現実的だ。

一度英語で書いたものを、さて日本語に訳す作業は誰がやるのだろうか。当たり前だが光以上の適任者は居ない。しかし、Utadaの時には対訳を基本的に自分以外の人間に任せた人だからそう一筋縄ではいかない、というか翻訳って多分新しく本一冊書くだけの労力が必要だろうからそれが体力的にも精神的にも可能かというと難しい。

そして、もう一つ問題がある。光なら、万が一翻訳に取り掛かったとしても、内容を変えたくなってくる恐れがあるのだ。"光"と"Simple And Clean"を想起しよう。まるで対極の視点から描かれている。まるで裏と表である。あれ?そういやCOLORSのシングルに"Simple And Clean"の歌詞対訳って載ってたっけ。思い出せないや。一応一節だけ思い出しながら訳してみると、「愛してるよハニー。でも、だからって僕が君のお父さんに会わなくっちゃいけないっていうのかい?」みたいなトーンの内容なのだ。ぶっちゃけ"光"と真逆である。

このように、似たような話を全然違うトーンで語るような歌詞にした理由が一体何なのか、正確にはわからない。例えばキプトラの"国家公務員"というフレーズについて、ヒカルは意味上の要請については説明しても肝心の"語呂"については説明しなかった。ありゃ多かれ少なかれ"コッカコウムイン"という音の並びが欲しかったという理由がある筈なのだが。同じように、"光"と"Simle And Clean"にも“歌ならでは”の、音韻上の理由で歌詞の語るストーリーを変えたのかもしれない。それは、正直わからない。

もうひとつ変える理由として考えられるのは、「流石に日本語では歌いづらいストーリーだから」というものだ。これは、英語詞が先に来ているケースだが、この実例は勿論"Sanctuary"と"Passion"である。やっぱり、なんだかんだで日本語で「天使が空を飛び」とはなかなか歌いにくいと思うのだ。なので、かどうかはこれも正直わからないが、"Passion"の詞世界は"Sanctuary"とはまるで異なる路線で描かれている。Single Versionに至っては「年賀状は写真付きかな」である。まぁ、これも何となく嘘と恐怖が溶け出しそうではあるけれど…。


という訳で、光が(既に大昔から決まっているペンネームで)小説を書くとなると、もしかしたらひょっとすると同じタイトルの小説を、英語版と日本語版で種々を違えて書いたりするかもしれない。上述したように、それはもしかしたら歌の歌詞特有の事情かもしれないし、そうではないかもしれない。しかしいずれにせよ、どちらの言語でも同等に文学に親しんでいる光なのだから、他ではみられないような作品の書き方をする可能性は大いにある。その日を気長に待ち望むとしよう。

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先週は風立ちぬ特集という事でアニメの話題ばかりだったが、どうしても時代的に、ミュージシャンも視覚についてあらためて考えないといけないんだろうなぁと思った次第。

PCと携帯電話によって人が手元で視覚情報を得る時間が極端に増えた。文字はいわずもがな、画像、そしてスマートフォン以降は動画もあっさりとすぐに見られるようになってきた。人の感覚入力のうち、視覚の比重が大きくなっている。

宇多田ヒカルも勿論そこは予め手を打ってある。UTUBEの開設と、それに伴う映像監督作品である。2010年の時点であれを"置き土産"にしたのは、単なるファンサービスのつもりだったのかもしれないが、空白の期間も過去の名曲を忘れ去られない為にもちょうどよかった。あれのせいでバックカタログの売上が、と心配する向きもあろうがそもそもどんな曲があるか知ってもらわなければ手にとっても貰えないだろう。

映像重視路線は引き続き徹底していて、桜流しもフィジカルはDVDシングルだった。後にサントラにも収録されたけどね。


…と、言っていたそばからラジオ番組である。いきなりここでアナクロだ。しかも、第3回はスネア特集。内容はいわば「音のフェティシズム」で、ミュージシャンとして、音楽ファンとして、徹底して音にこだわっている姿勢をみせた。ブレない頑固さ、というよりこの人は元々自然体が普遍的なのだ。それがヲタクっぽくみえる、というのは単に時代の方が反対側に傾いでいるというだけだろう。いやそれも言い過ぎだけどさ。

これからもHikaruは映像を重視してくるのは間違いないと思うが、熊淡でみせている音フェチぶりは、そういう新しい試みも総て音楽を軸に展開していくのではないかと思わせる。もしもう一つ軸が出来るとすれば作家業だろうが、こちらは言語の選択が音楽以上にアイデンティティクライシスとして問題となるだろう。Hikaruの多彩を人格的に整合させるには、スネアの音色にこだわる態度を主軸とするのが最も合理的かと思われる。尤も、軸や合理性といった"狭い"考え方だけでは、とてもHikaruの多才を捉え切れるものでも、ないだろうけれど。

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「風立ちぬ」は、つまるところ、話を纏めると(でないとそろそろ私の方が禁断症状が出そうだ。まぁかなり久し振りに"blogのネタと全く関係なく光の曲を聴く"日々を送ったのは貴重な経験だったかもしれない―その良し悪しは別として)、そこに人間ドラマを見に来た人には凡作で(前田有一氏は40点だったな)、アニメーションを観に来た人には傑作以外の何ものでもないのだ。ただそれだけである。この作品の"地雷ぶり"は、そこで評価が真っ二つに別れる事にある。

人間ドラマとして観ると、まず庵野秀明の"演技"が下手過ぎて冷めるし、主人公は誠実で真っ直ぐで現実に居そうもない、まさに宮崎アニメの主人公らしい主人公だし、ヒロインの一途さも全く現実離れしているし周りはいい人ばかりだしこの物語は御都合主義的ですらありリアリティはかなり弱い。飛行機が戦闘機になる戦争というものに対しての矛盾と葛藤を描くには掘り下げは浅いし、恋愛モノとして見た場合大人らしい駆け引きや思惑の欠片もない、まるで幼稚園児同士の…と書こうとしたのだが「そういや幼稚園児も随分えげつなかったなぁ」と思い出してしまった…いや、ファンタジーそのものの恋愛で、こども向けですらない。これは流石に評価のしようもない。40点もむべなるかなである。

しかし、この作品をアニメーション映画として、つまり、動く絵と声と音の作品として観た場合、全く異なる輝きを放ち始める。ただただ、美しい。それは絵画の美しさというより、ただただ『アニメとして』の美しさである。

ぶっちゃけて言ってしまえば、宮崎駿は「止め絵」の画家としてはそれほど才能がある方ではない。小津好きの私は、彼が映画を構成した"一枚絵"の美しさとどうしても比較してしまう。あれには遠く及ばない。しかし、勿論駿の真価は絵が動き始めた瞬間にある。あの躍動感。あの漲る生命力。彼の手にかかれば、人間も動物も植物も自然も地面も海も建物も機械も何もかも総てが命を吹き込まれたかのように躍動する。やはり、少なくともこの日本では(それは恐らく、"史上"と言い換えられるのだろう)最も優れたアニメーターなのだろう。"ただの絵"に、これだけのものを託せるのだから。

ちょうど7年前の今頃、2chが最も面白かった時だ、「これは単なる絵だ」という名スレッドが立った事があったが、宮崎アニメは「これはただの絵だ」と悟ってからが勝負である。そのただの絵が動く! 何とも驚かしい。その視点から観た時、なるほど、確かにこれは宮崎アニメの最高傑作、最高峰かもしれない。同業者たちからの評価が極端に高いのもよくわかる。

問題はそこである。宮崎駿は、最高のアニメーターであるとともに、非常に優れたストーリーテラーでもある。彼は漫画家としては二流だろうが、ことあの「風の谷のナウシカ」の壮大な物語の構築に関しては手塚治虫にも匹敵するかという手腕を見せた。漫画版の話ね。それを考えると、この優れたアニメーションでもっと際立った物語、人間ドラマ、いや大河ドラマを見てみたい、とも思うのだ。まぁそういうてるわりに私風立ちぬの純愛物語凄く素直で好感がもてるからいいとは思ってるんだけどね。

というわけで、これが"宮崎駿の最高作"と言うのは些か躊躇われる。私は。しかし、風の谷のナウシカと対になるようなタイトルをここに持ってきた事は素直に感慨深く、そろそろ彼の最後の作品が近いのかな、という思いは強い。

「風」をテーマに作品をつくったのだから、アニメーションにとって、これ以上のテーマは最早アレしかない。そう、「光」である。アニメーションを突き詰めると結局それは「見る」「見える」事につきるのだ。アニメの"動き"/"情熱"/"原動力"の象徴が「風」ならば、それら総てを成り立たせている根源は我々の心、目、そして光しかない。もし宮崎駿が次の作品で「光」をテーマにするのなら、主題歌についてはいよいよ我らが宇多田ヒカルの出番だろうな。(断言) やってくれると信じているよ。

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アニメの声優問題に関しては、そもそもそれは何であるかに立ち返ってみて考えねばならない。

舞台演劇やテレビドラマ、実写映画などでは役者/俳優が出てきて演技をする。芝居をする。日常の何気ない一コマの一言でも、素で喋ったら何かしっくり来ない。芝居らしい身振り手振りや目線のやり方、仕草、もってまわった発声など、演技として成立させる技術が必要となる。

アニメーションの場合、それをどう捉えるかである。目の前にあるのは動く絵だ。人ではない。人の造形を描いてはあっても絵は絵である。お陰で、生物も無生物も機械も自然も人間でさえも、総てを"擬人化"して声や音をあてるのが可能だ。そこはとても自由である。

庵野秀明監督の声優起用に関して評価が分かれるのは、「風立ちぬ」という作品をどう捉えて鑑賞したかが異なるからではないだろうか。目の前のアニメーションを、実写映画や舞台演劇の代わりだと解釈し、そこに人間ドラマを求める―それは即ちくだんの"芝居がかった演技"を求める層に対しては、彼の声は技量不足も甚だしく、物足りない事この上無いだろう。芝居の世界に没頭したいのにあれだけ2時間ずっと棒読みじゃあねぇ…。

他方、その様に捉えない、必ずしもこの作品を、実写映画や舞台演劇のように捉えない向きにとっては、彼の演技力の無さは気にならないかもしれない。何しろ目の前にあるのは動く絵である。それは人の形をしているが人ではない。本来、どんな声をあてても自由な筈だ。根っからのアニメーターである宮崎駿監督が、自分の動かしてる絵の雰囲気に合った声や音をあてたがるのは当然の事で、それが芝居がかった演劇口調である必要もない。彼が庵野監督がよかったと言ったのは、他に理由はある訳ではなく、彼の声や喋り方が彼の動かす絵に合っていた、それだけの事なのだろう。

といっても、実際は主人公以外の声には、その、実写映画や舞台演劇を生業としているベテランの役者/俳優陣で固められている。その点も踏まえないと、"主人公だけ棒読み"な理由も、なかなか釈然としない。

いちばんシンプルな解釈は、それは彼が主人公で特別だからだ。主人公は観客の感情移入を促すキャラクターである。ならばその観客に対して二郎の木訥で誠実で頑固な性格に共感して貰う為には、素の、演技ではない口調が必要だったのかもしれない。実写でこれをやってしまうと芝居の世界観を壊してしまうが、アニメーションの場合は絵であるから、必ずしもその文脈に沿う必要はない。飛びそうもないモノが飛び、躍動しそうもないモノが躍動する"アニメの世界"では、そういった"破綻"もまた、重要な要素なんだと宮崎監督は言っているのかもしれない。

庵野監督の声について、私が不満だったのは、二郎の学生時代の声も彼があてていた事だ。演技云々の前に、流石に彼の壮年声で10代の台詞を言わせるのは無理があったように思った。まぁそれは最初の方だけで、社会人になって以降は違和感もなくなっていったんだけどね。

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最近この日記でも度々「モノラルの魅力」について語ってきた為、「風立ちぬ」がモノラルである事は如何にもタイムリーだった。いや、だから何ってのはないんだけど。

ステレオの魅力は臨場感である。まるでその場に居るような感覚。5.1chでは、特に前方の席ではあからさまだが、画面の外側からも音が聞こえてくる感じすらする。そうやって音に取り囲まれる感覚がない為、どこまで行ってもこの映画での「音」は、BGMも含め「絵」の補足説明以上の役割は与えられていない。

その代わり、その「絵」の充実振りは目を見張る程だ。昔からそうだとは思うが、宮崎駿監督は銀幕の使い方が上手い。即ち、映画館で観るスクリーンの大きさを計算に入れて絵を動かしてくる。最近は家庭用テレビも随分大画面になったものだが、この"上手さ"を感じる為には、やはり映画館に足を運ぶのがいちばんだろう。

画面の余白の残し方。銀幕上でのキャラクターの左右への動き。これは私だけかもしれないが、音がモノラルだった分絵が余計に大きく見えた気がする。というのも、先程述べた通り今の映画館での5.1chサラウンドでは、画面の外側からも音が押し寄せてくる為、その感覚と比較してどうしても画面を"手狭"に感じてしまうのだ。この枠の外にも世界が広がっているのにそこは映っていない、と無意識のうちに感じてしまっている。

モノラルだとそれがない。存分に、動く絵の大きさを堪能できる。それに、人間の耳とは現金なもので、たとえ効果音がモノラルでも画面上でキャラが右から左に動けば、音もそれに伴っていると解釈してしまうものである。「動く絵が主役」。モノラル戦略の真意はその主張にあるかもしれない。

となると気になるのは人の声、も声を当てている人たちの事だ。これはモノラルもステレオも殆ど関係ないが、庵野秀明監督…って今回は監督じゃないが…が主役の声をあてている、と大変話題になった。彼の声はどうだったか。

結論から言えば、私は適任だったと思う。宮崎アニメは声優に意外な人選をする事で有名だが、これは気を衒った感じがしない。ちゃんとアニメに、主役の彼に合った声をあてていると感じた。確かに演技が上手いか下手かといわれれば下手だし、特に滑舌がいいわけでもないが、"声による人柄の表現"という点ではハマっていたように思う。

彼の評価については、もう少し時間をかけて語らなければならないかな。そろそろHikaruの事を書きたくて書きたくて堪らなくなってきているのだが、もう暫くアニメの話を続けておこうと思う。彼女が読んでくれていたら、いいんだけど。

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「風立ちぬ」の、今度は「音」の話。

最初冒頭の曲だけレトロ感を出すためにそうしたのかな、と思ったらさにあらず。最後までずっとそうだった。この映画、全編モノラル音声なのな。ぐぐってみたら確かに事前記事にしっかりそう書いてあった。うぅむ。

5.1chサラウンドが標準となっている映画館で、真ん中のスピーカーしか鳴らさない、というのは逆に一昔前では出来なかった事でもある。2chのシステムには真ん中にスピーカーなんてないのだから。即ち、パブリック・アドレス的には、映画館のどこに居ても画面の中央から音が聞こえてきて都合がいい。古いように見せかけて結構モダンなモノラルである。

で、モノラル音声だから何が違うか、何か物足りないかというと全くそんな事はない。映画を楽しむ上で何の支障も感じなかった。多くの観客が「そういえば」という程度なんじゃないかな。普段から映画館に通い慣れているような層からすれば、斜め後ろからも声が聞こえてきそうなサラウンドがない事に違和感を感じるかもしれないが、ジブリ映画といえば普段映画館に足を運ばない層すら呼び込むコンテンツである。彼らにとっては、何もなかったに等しいのではなかろうか。

正直、「何故モノラルにしたのか」という問いに対しては「ステレオである必要がなかった」以上の積極的な理由は思いつかない。「これで十分だからいいんじゃないか」と。作品の時代背景を考えれば、一部の場面にも登場したように、蓄音機から流れてくる音楽もモノラルなのだからそれに合わせた、或いは、劇中でそれが鳴っても違和感がないようにした、ともみてとれる。ずっとステレオの音楽が流れてくる中、蓄音機からモノラルで音楽が流れてくるとどうしても聴き劣りするというか、いきなりしょぼくなったような感覚に陥るだろうからね。その点だけをみても、モノラルでよかったともいえる。

何より、この作品はアニメーション自体が非常に雄弁である為、そんなに音楽にでしゃばってもらう必要はない、という事なのかもしれない。音に凝りすぎてそちらに気をとられて肝心のアニメーションの印象が薄くなってしまうのを避ける、という意味合いもあったのではないか。劇伴音楽も効果音も、あクマでアニメーションを盛り立てる為の脇役に過ぎない、脇は脇に徹すべし、という哲学なのかもしれない。もしそうだとすればこの試みは成功だったといえる。コロンブスの卵的な、見事な発想の勝利である。

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前回述べたように、この作品におけるメイン・テーマは「風」である。そして、それは、アニメーションと、そのアニメーションを創造し続ける絶え間無い情熱の象徴であり、"絵を動かす"摩訶不思議な力の比喩でもある。

風とは元来不思議なものだ。誰が押しても引いてもいないのに勝手にものが、人が動く。空気という概念のない人間にとっては不思議で仕方がなかったのではないか。その不思議さとアニメーションが動く不思議さを掛け合わせた境地にこの作品は存在している。

一方でもう一つ、目に見えない不思議な力がある。それは重力だ。風の方が人を空へも飛ばす"自由の力"であるならばこちらは人を地面に縛り付ける"束縛の力"である。風がアニメーションの不思議さの体現であるならば、地面とその力である重力は、絵を動かす時にアニメーターたちに立ち塞がる数々の困難の象徴でもあろう。

だからといって今、その技術的な具体に立ち入る必要はない。この映画は心をシンプルにして「絵が動いた!」「空を飛んだ!」と素直に感動する為の作品であるのだから。

しかし、この一点だけは踏まえておいてよいかもしれない。この作品の冒頭部が「関東大震災」の場面である事だ。勿論2011年の東日本大震災が大きなインスピレーションになっただろう事は疑いがないが、それ以上に、これは、"地面の力の脅威"を観客に印象づける事が目的だったのではないかとみている。主人公は設計技師として空を飛ぶ事に挑戦し続けるが、その大前提として、"大地が人間の自由を奪うその途方もない力"を最初に描く必要があった。観てもらえればわかるが、まるで怨念でも纏っているかのようにまがまがしく生々しい描写である。その技法は前作「崖の上のポニョ」での"水"の表現技術から更なる上積みがあった事を感じさせる見事なものだ…

…いやいや、そんな細かい話はいい。肝心の話に戻ろう。この作品のメイン・テーマ、メイン・モチーフは「風」である。これは揺るぎ無い。

観客は冒頭から、様々な煙りや何やらを観る。蒸気機関車から吹き出すスチームに、男たちがくゆらせる煙草の煙。時代背景を的確に描く為に…なんていうのはとってつけた理由である。他にもポットから立ち上る湯気の揺らめきなども出てくるが、それらは皆「風の動きの視覚化」である。煙や湯気の動きをリアリスティックにアニメーションとして起こすのは大変難しいが、スタジオジブリはその難題にあらゆる場面で挑戦する。「風の動き」をどうアニメーションで表現するか。このチャレンジがこの2時間余りの作品を終始一貫貫いているのだ。特に後半、堀辰雄の小説「風立ちぬ」をベースにしたと思しき名場面での数々の「風」の描写、即ち空気の動きの描写は美しさをこれでもかと増してゆく。

アニメーションにおける「空気の流れの表現」、「風の動きの描写」があらゆる場面で有機的に機能しまくった挙げ句に、映画をご覧になった方はもう御存知だろう、あのラストシーンがあるのだ。ありとあらゆる"風"をアニメーションで表現した最後に最も美しい"風"が吹く。それはつまり、人を夢に駆り立てる原動力、情熱の象徴なのだ。

勿論、普通の伝記的物語としてこの映画を観たとしてもあのラストシーンはそれなりに感動するだろう。しかし、一度そうやって観た人は、今度はアニメーションそのものに注目して観て欲しい。ありとあらゆる風の動き、空気の流れを資格化していく過程の終局として、もう一度あのラストを観てみれば、また違った感動が胸の中を吹き抜けていく筈である。


もう一度繰り返しておこう。この作品のメインモチーフは、タイトル通り「風」である。アニメーションにおける様々な、ありとあらゆる"風と空気の表現"に、目を見開いておいて欲しい。疾駆する機関車から立ち上る蒸気、ゆらめく紫煙、湯気、そして空から降ってくる…嗚呼、あれは殊更美しかったな。是非劇場で観て欲しい。

そして、勿論、もう言うまでもないだろうが、飛行機とは人間にとって、風を操る、自由に風を作り出す力の象徴であり、飛行機が飛行を成功させる高揚感はアニメーションが見事に絵を動かした時の高揚感と喜びの象徴である。そして、この作品では飛行機は次々に、当たり前のように墜落する。先程述べたように、地震を筆頭とした"圧倒的な大地の力"に人は負かされ続ける。それはまた、アニメーションを作り上げる際の数々の挫折と試行錯誤と軌を一にしている。人間の不自由と力不足から、如何に脱出するか。飛び出すか。設計技師二郎の挑戦はそのままアニメーター宮崎駿の挑戦でもあるのだ。


付言的に。映画の中で、飛行機は何度も牛に牽かれて道を行く。別にあんな場面描く必要はないのだが、わざわざあの場面を挿入するのは、恐らく飛行機というものは大地にへばりついている時はあんな程度のものでしかない、という比喩なのだと思う。即ちそれは、アニメーションというものが現実の世界ではいかほどのものでもない、ただ想像力を飛翔させる時になったら力を発揮するものなのだ、という批評精神の表れなのだと。あのシーンに漂うセンス・オブ・ユーモアは、恐らく史実に基づいたものであるとはいえ、なんとも可笑しくて微笑みを誘う。私は好きだ。次回は(まだ続くんかい)いよいよ「音」について切り込んでいこう。

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「絵が動いた!」「動いてる!」「空を飛んだ!」「飛んでる!」という原初的な感動を掛け合わせて全編を貫いた傑作「風立ちぬ」。その2つの原初的感動を共有できる人に対しては必ずや大きな感動を与えるだろう。

そもそも、「絵が動く」という"事実"は傑出して摩訶不思議なものである。本来「動く」という現象には「力」が不可欠だ。押したり、引いたり。くっつきあっているモノ同士が「力」を及ぼしあってそこで初めてモノが「動く」。近代以降の認識として、ではあるがそれが人間の常識であった。

しかし、アニメーションはその常識を覆した。そこには何らの「力」も加わってはいない。ただ我々は最初の一枚の絵を見て、次の一枚を見て、更に次の次の一枚を見て…を繰り返すだけだ。なのに絵が「動き出す」のである。これは21世紀の現代にとっても深刻な不思議である。そもそも運動とその認識とは何なのか…いやそんな面倒な話はこの映画には関係ないぞ。徹頭徹尾「絵が動いた!」と嬉しがり続けるのがこの映画の楽しみ方だからな念の為。


一方、現実の世界には「目に見えない力」というのも存在する。つまり、何かに直接押されたり引かれたりしていないのにものが動いたりする現象の存在である。

その一つが"地面からの力"、「重力」である。この見えない力が我々を地面という2次元に縛り付け自由を奪っている。

そしてもう一つが、この物語の主役「風」である。勿論我々は知識としてそれが空気分子という"モノ"の衝突である事を知ってはいるが、本来は"目に見えない力"の象徴として「風」はあった。それは、地面に縛り付けられた我々を大空へと飛び立たせる自由の象徴である。そして、それは同様に、どこからも力がかかっていないのに絵が動いてしまうアニメーションの摩訶不思議さと波長を同じくするのである。断言しよう。宮崎駿にとって「風」とは、アニメーションと、そのアニメーションに対する情熱の比喩なのである。前回強調したように、人が今まで縛られていた次元から新しい次元へと踏み出す原動力、それが空を飛ぶ事、絵が動く事の感動と共に描かれているのが本作である。そして、人が空を飛ぶ事を可能にしてくれる何かが「風」であるならば、その「風」に押されて絵を動かすのが宮崎駿監督だ。その「風」とは、彼とその仲間たちに漲るアニメーションにかける情熱の事に他ならない。

アニメーション映画「風立ちぬ」のメイン・テーマ、メイン・モチーフは、従って、紛いも迷いもなく「風」である。ここまで正直なタイトルも珍しい。そして、この点から出発すれば本作品の「真の(芯の)魅力」があからさまな程に明らかになってゆく。次回からはその点について触れていこう。

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風立ちぬ。映画を見始めてすぐに気が付いた。そして後悔した。「自分は30年近く、どうしてこんなシンプルな事に気が付かなかったのだろう。」と。

宮崎駿が飛行機好き、もっといえば「空を飛ぶこと」が大好きなのは有名な話、というか国民的合意事項であろう。「紅の豚」まで空を飛びまくっていたのに「もののけ姫」で空を飛ばなかった(その代わり皆"跳んで"はいたが)事が話題として大きく取り上げられる程だ。その事について私は今まで「そういう人なのだなぁ。」という感想以上のものは持っていなかったのである。


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ここの読者なら幾らか御存知のように、ここの筆者(私)は、「魔法少女まどか☆マギカ」を観て以来「今の日本のアニメ業界は凄い!」と確信し、出来るだけ多くのアニメ作品を観るように努めてきた。そして、そんな中で、京アニやらI.G.やらA-1やらUfotableやら何やらかんやらと、沢山の優れた制作会社の作品をチェックしてきた。そこでの期待は一貫してこうだった。「スタジオ・ジブリを、宮崎駿/高畑勲を超える作品を!」

しかし、風立ちぬを見始めてほんの数分で、その期待がまだまだ夢にしか過ぎない事を思い知らされた。圧倒的。ことアニメーションに関しては、やはり宮崎駿は稀代の、不世出の大天才であった。

何が違うか。この作品がどこか原点回帰というか、監督の好き勝手度がいつもより強いからか、いや冷静に考えればこれまでの40年間ずっとそうだったのかもしれないが、私がイの一番に強烈に感じたのは銀幕から溢れ出る「絵が動く!凄い!!嬉しい!!!」という原初的感情だったのだ。

宮崎駿監督は今年で72歳かそこらだったと思うが、その年齢にしてここまでプリミティヴな驚きと喜びを湛えたまま未だアニメーション映画を造り続けているのだ。それは大きな感動であった。そして、その原初的感動は2時間余りのこの映画を終始貫いていて絶える事がなかった。

「絵」というものはまず、人の想像力の"自由"の象徴である。落書きをした事がある人は誰でも、その"自由"、その描いた中で好きにしていい、という快感を、うっすらとでも味わったことがあるはずだ。しかし、それと引き換えにその世界は紙の上、"2次元"の中に限定される運命にあった。3次元ではうまくいかないことでも、紙の上、2次元でなら自由に何でも出来るのだ。それが"絵"の魅力だった。幼い頃の宮崎駿も、そう思っていたのではないか。

革命。アニメーションでは、その"絵"が動いたのだ。何という不思議。何という感動。この驚きを、生まれた頃からアニメに囲まれて育った世代が共有出来るかはわからない。しかし、ある一定以上の世代にとってはまさに異次元の喜びだったに違いない。絵が動く! 自由の次元が広がったのだ。"絵"という2次元の自由に、"動き"、即ち時間という次元が加わった。表現活動が新しい次元へと飛躍したのだ。


どうして今まで気が付かなかったのだろう。この、「アニメーションに対する原初的感動」は、今まで空を飛べなかった人間が空を飛べるようになった時の感動と全く同じではないか。人間は、自らの足で自由に動き回れる。しかし悲しいかな、重力という枷の所為で地面という2次元の上での自由でしかなかった。それが、"空を飛ぶ"という事を実現させる事で、人間の自由が2次元から3次元へと広がったのだ。人が新しい次元へと踏み出すその感動。歓喜。驚嘆。それはまさに、「絵が動いた!」と叫んだ時の感動と同質に違いない。

即ち、宮崎駿の中では「絵が動く!」というアニメーションの感動と「空を飛んだ!」という飛行機の感動が分かち難く結び付いている―というかほぼ同じものなのだ。その事に気が付けば、何故彼がアニメーションで空を飛ぶ場面を幾度となく描きたいかがみえてくる。当然の事だったのだ彼にしてみれば。自分の好きな事を両方いっぺんに盛り込んだその躍動感と生命力。それを実現したスタジオ・ジブリの技術力も素晴らしいが、何よりその原初の感動を未だに持ち続け表現活動にぶちこんでくり彼の"嬉しそうな感じ"が画面いっぱいから溢れ出てくる、いや、飛び出てくる。それこそがこの「風立ちぬ」というアニメーション映画最大の魅力である。原点回帰。これから映画館に行く人は、是非この点に集中して映画を観て欲しいものである。


…それにしても、どうして今まで気が付かなかったのだろう…(ぶつぶつ)…。

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今回はHikaruとまるで関係ない話題だが、彼女自身プロフィールの「好きな映画」欄において一人だけ名指しで「宮崎駿作品」と全幅の信頼を伴って書いているクリエイターの5年ぶりの新作についてだから、たぶんHikaruも興味あるんじゃないかという事でひとつ。なお、細かい点を除きネタバレは避けるが、マニアな人は観てから読んだ方がいいかもしれない事を書く。

「風立ちぬ」をレイトショーで観てきた。いやぁ素晴らしかった。

この作品は世間一般でいうところの「地雷型作品」だとはいえる。しかしそれは単なる失敗作という意味ではない。

問題があるのは「触れ込み方」なのだ。事前の情報では、この作品は実話を元にした自伝的小説(堀辰雄「風立ちぬ」)と、実在の人物(零戦設計士:堀越次郎)の人生2つを組み合わせた現実に基づいたノンフィクションタッチの映画だ、という事になっていた。忠告しておく。そのつもりで観に行ったら凡作にしか見えない事請け合いである。

宮崎駿監督作品「風立ちぬ」は、徹頭徹尾ファンタジー作品だ。そこのところを見失うとこの作品の評価を見誤る。前作、前々作のパウル・ポニョのファンタジーっぷりについていけなかった人間にはとても無理。

今のところ、"なのに実際の舞台や歴史背景、実在の人物を援用している"のは、あんまりにもファンタジーとしての骨格が色濃い為、バランスをとって現実的な要素をちりばめたのかな、という邪推すらしたくなるほど。そしてそれが、この作品をわかりにくくしている。裏を返せば、そこさえ踏まえてしまえば、こんなわかりやすい作品はない。

どれだけファンタジー要素が強いかは、主人公のみる夢の場面を観れば明らかだろうからそれは観てのお楽しみ。あれを「夢だから」で片付けるとおかしな事になる。

だから、もしこの作品の舞台があの地中海風の「魔女の宅急便」の土地で、主人公がトンボ君が大人へと成長していく物語、みたいな設定だったら誰もが絶賛する宮崎アニメの再来として歓迎されたんじゃないだろうか。勿論彼はそんな事はしないだろうが、この作品の物語の骨格はそういう事だ。時代背景とか、その現代との同調具合とか戦争の悲惨さとか矛盾との葛藤とかそういった悩ましい話ではなく、ただただ純粋に美しい、絵本のようなストーリーを何故か昭和初期の日本を舞台に描いてある。そこのギャップを観客がどう埋めるかにかかっている。間違っても大人の鑑賞に耐えうる恋愛映画なんてものは求めていない。そういう意味においては全然大人向けの映画ではない。年齢は無関係に、肝はその舞台設定、昭和初期のビジュアルや飛行機の造形を気に入るかどうかが分かれ目になっている気がする。次回に続く。

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宇多田光さんの(っていう書き出しもしかして初めてか俺!?)名前の表記について、今一度整理しておきたい。といっても当日記での使い方の話に過ぎないのだが。

御存知の通り彼女の本名は漢字4文字で「宇多田光」である。歌手としてのデビューは、あれ、9歳だっけ10歳だっけ。忘れちった。(お前その認識はポジション的にまずくないか…) 

という訳で本格的なレコード・デビュー時の名前はまず「Cubic U」である。最初のCの字が大文字である事に注意。これが小文字になって「cubic U」だと親娘3人のユニット名になる。大文字だと光個人の名だ。

次に日本で東芝EMIからデビューした時は名前をカタカナにした「宇多田ヒカル」となる。殆どの人にとっては彼女の名前はこう書き読むものだろう。この人のニックネームが“Hikki”だという感じが強い。

これに対して、その後の欧文体表記の人に対しては余りHikkiと呼ぶ事はない。いやなくはないが主流派ではない、という感じか。"ポピュラーではない"くらいが適当かな。

その欧文表記での最初の仕事は、映画「ラッシュアワー2」のサントラ曲"Blow My Whistle"で、そこでは「Hikaru Utada」を名乗っていた。この2001年~2002年の時点では、この「Hikaru Utada」と「Utada Hikaru」の2つを使い分ける構想もあったようだ。

しかし結局、2004年に全米デビューする際はワン・ワードの「UTADA」表記になる。STINGやBJORKのような感じだが、ここから日本では「宇多田ヒカル」、海外では「UTADA」の二重生活が始まる…というのが通例のまとめ方で、それで何も間違っていないのだが、現実には海外での「宇多田ヒカル」人気も相当高く(In The Fleshでの日本語曲に対する彼らの反応をみるとよい―発売された暁には)、実際はどちらも混在している感覚だった。

そして結局、アイランド・レーベルとの契約は終了し、「UTADA」名義での活動は文字通り"お蔵入り"となった。ベスト盤騒動の時の事を考えると、恐らくUTADAの名前で出される作品は「UTADA In The Flesh 2010」が最後となるだろう。

そのペルソナと距離を取ると同時に、光は2つの"古くて新しい"名前を持つようになる。ひとつは、TwitterIDの「@utadahikaru」、そしてもうひとつが映像監督としての「宇多田光」名義である。前者はただの名前のローマ字表記、後者はまんま本名なのだが、この2つのペルソナが威力を発揮するのはまだまだこれからといえるだろう。

そして今。最新の日本語曲「桜流し」は「宇多田ヒカル」名義でこれまで通りだが、ラジオ番組での表記は徹底して「Utada Hikaru」なのである。いや、そんなに徹底はしていないかな、であるにしても、今「Kuma Power Hour with Utada Hikaru」の作演出編集DJをやっている人は「Utada Hikaru」さんなのだ、というのが私の今の認識である。

したがいまして。最近この日記では彼女の事を"Hikaru"と呼ぶケースが増えている。元々、日本語曲を作って歌う歌手として彼女の事を指す場合は「ヒカル」、英語曲の場合は「UtaDA」、そしてそういった活動で色分けできないパーソナルな部分について語る場合は「光」という風に使い分けてきた。たまに親しみを込めて「Hikki」と呼んだり宇多田氏と呼んだり、もっと赤裸々になってくるとひらがなで「ひかる」と呼んでみたり―これは彼女があらたまってメッセージを書いた時のサインが由来ではあるが―、彼女の様々なペルソナに合わせて呼び名の表記を変えてきた。そこに新たに加わったのがこの「Hikaru」という訳だ。

私自身、この呼び方の意味するところが何なのかはまるで掴んでいない。もしかしたら今回の「Utada Hikaru」名義は気まぐれかもしれないし、そこまで行かなくても便宜上の、或いは過渡期のものかもしれないし、逆に恒久的な地球規模での呼称として定着するかもしれない。或いはそれは「Hikaru Utada」と姓名順序が逆のものになるかもしれない。まだわからない。

でも、しかし、いや物凄くどうでもいいことなんだけど、今の私はHikaruの事をHikaruと呼ぶ・書くのがしっくり来ている。暫くはこれが主流となるかもしれない。番組が継続中の間は、少なくとも、ラジオ番組制作及びディスクジョッキーとして彼女の事をHikaruと呼ぶケースが増えるだろう。そして、ただそれだけである。しかし、名前というのは大きい。この"しっくり加減"が、Hikaruのこれからのキャリアを仄明るく照らしているような気がするのは、贔屓目だろうか。皆さんも今一度考えてみてくださいな。尤も、一番人気は相変わらず「Hikki」だろうけれどね~。

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